道綱の母
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著者名:田山花袋 

『殿はそのつもりで居られたのではござりませぬか。唯一たよりにする父親には遠く離れて、不憫だとは思召さぬのですか。この身はいかやうにもこの眞心を殿に捧げてゐるつもりですのに……』
『まア、好いよ』
 兼家の額には汗がにじみ出した。かれにしても窕子を腹立たせたり悲しがらせたりすることは、ほんのわづかなら好いけれども――却つて愛情の暴漲を來たすよすがとなるけれども、さういふ風に泣かれたり口説かれたりすることは男に取つて餘り好いことではなかつた。窕子の怨みや嫉妬を買はない程度でかれは他の女とも遊んで見たいのであつた。
 それから二三日經つたある夜のこと、呉葉は外から入つて來て、窕子の几帳のところに坐つた。
『何うした?』
『やつぱりさうださうでございます。留がそつとついて行つて何處に殿の車は入るかと思つてゐると、坊の小路の家に入つて行つたさうでございます』
『思つた通りだね』
『何うして殿はあゝいふ風に水心でゐられることか!』
『その坊の小路の女なら、そちは見たことがあるといふたね?』
『え、ちよつと……』
『何んな女子?』
『ちつとも好いことなんかございませんのです。色は白うございますけれど、容色は好いといふ方ではございません、……にくいではございませんか、留がそつと見てゐると、その女子が平氣で殿の車のところに出て來て、何か言つて居つたさうでございます……』
 しかしいくら憂鬱に閉されてゐても、窕子は何うすることも出來なかつた。それに、兼家が久しく見えないこともかの女には氣になつた。思詰めると、このまゝ此身は秋の扇と捨てられて了ふのではないかといふやうにすら思はれた。
 殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。
 兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。
 二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。
 頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもどして行くやうである……窕子は半ば身を起して、その車の音の向うに微かになつて行くのにじつと耳を傾けた。何とも言はれないかなしさが強くかの女の全身に襲つて來た。
 たしかにあそこに行つたに相違ない。それと知つたならば、じらせなどせずに、そのまゝすぐ戸を明けてやればよかつた。この身もわるかつたのだ。かう思ふと一層ひとり寢のさびしさが身に染みた。
歎きつゝ
ひとりぬる身の
あくる間は
いかに久しき
ものとかはしる
 夜が明けたらば、この歌を書いて兼家のもとに送らうなどと思ひながら、窕子は明方まで眠れなかつた。
 
         一二

 朝になつてそれを見事に短册に書いて、うつろつた菊にさして使のものに持たせてやつたが、兼家からはかへしがなかつた。それから猶一日經つてからであつた。實にやげに冬の夜ならぬ槇の戸もおそくあくるに苦しかりけり。そうした歌につづけて、『あの時もう少し叩いて待つて居れば屹度明けるにはちがひないとは思つたけれども、丁度その時急な用を言つて來た使のものがあったので、それで引返して了つた。わるく思つて呉れな……』と書いてある。いつもながら男は勝手なことばかり言ふものだと思ふと、腹が立つて、我知らず下唇を噛んだりしたが、しかも何うにもならなかった。そんなことを荒立てゝ言つて見たところで、男の心を此方へ移すことが出來るではなく、かへつてその状態をわるくするばかりなのはよく知れきつてゐた。それが窕子には心外でもあり悲しくもあり腹立たしくもあつた。此間、内裏に仕へてゐる歌の昔の友達がひよつくりたづねて來て、帝ときさいの宮との間に、此頃みにくい爭ひがあることなどを話して行つたことを窕子は自分の身の上に比べて思ひ出した。それは窕子とはうらはらのことで、何方かと言へばその女御の方にこそより多く同情さるべき位置にかの女はその身を置いてゐたのであつたけれども、それでもきさいの宮の方に一も二もなく同情させられて行つた。『それはきさいの宮がお腹立にならるゝのも當り前だ……。その前でさういふことをされては、誰だとて腹立たしく思わないものはござりますまい……。一體、その女御が餘り出しやばりすぎるからいけないんです。帝も帝だけれども、その帝の寵愛を好いことにして勝手に振舞ふからいけないのです。きさいの宮だつて、平生さういふことはちやんとお心得になつてゐらつしやるのだから、よくよくでなければそんなことはなさらない筈です』などと言つたことをくり返した。何でも帝はその小一條の女御を寵愛のあまり、おん手づから筝をお教へになつたり、歌を賜はつたりするばかりでなく、殆ど目にあまるやうなことをするので、それできさいの宮はいつもそれを夥しく憎んでゐられるとのことであつた。何處に行つても、さういふことは止むを得ないものか。帝やきさいの宮の仲にもさういふことは免れがたいものか。やつぱり女はさういふ時に出會したら、だまつて知らぬ顏をしてゐるより他爲方がないのか。その時その大内裏につとめてゐる友達とこんな話をしたことを窕子は續いて思ひ出した。
『それであなたは宮仕?』
『さういふわけぢやないけども……』
『宮仕はまた宮仕で忘れられない面白いことかあるさうですからね。つまらなく身をかためて了ふよりは、その方が好いでせうけども……』
『でも内裏は面白いこともあるにはありますけれどね』
 その友達は窕子の言葉を半ば否定するやうに、『やつぱり、女子といふものは、嫉妬に苦しんで命をなくすやうな苦しい目に逢ふても、それでもひとりでゐるものではないと思ひますね。色戀は出來ても誰も持たぬといふさびしみ、誰もしつかりつかんでゐないといふ孤獨、さういふことを考へると、内裏などで行はれてゐる色戀はそれこそ水の上に書いた字のやうなものですからね。だから、何んな人でも構はぬ。殿上人でなくてはいけないなど言つたのは、あれは昔、娘であつた時分の虚榮、今はもう何でも構ひませんよ。何方かと言へば、誰も知らぬやうな、唯毎日つとめるところにつとめて、夕方になるとそればかりを樂しみにして歸つて來るやうなさういふ夫だつたら一層好いと思ひますね』
『でも、それは駄目よ。それに滿足してゐられるあなたなもんですか。』
『それはまア、さうかも知れませんけども、まア話にして、さういふ風に考へることがよくありますよ。またあの御門あたりにつとめてゐる男子にさういふのがいくらもあるんですからね……。それを思ふと、平等に出來てゐるのね。』
 窕子は今またそれを繰返してこゝに考へ出さずにはゐられなかつた。

         一三

 兼家もしまひには笑ひながら、『何もそんなに案ずることはあるまい、この身はこれほどそなたのことを思うて居るではないか。普通の道端の花とは思つてはゐないのだから……』
『でも……』
『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』
『それはわかつてをりますけども、それでも……』
『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、
『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』
『相手をなさる女子は?』
『大勢居るよ』
『でも、殿の御氣に召した女子は……?』
『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』
『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』
 兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれども、その闇の巷路を五六歩入ると、そこに全く違つた夜の光景がひらかれて、其處にも此處にも置かれた結び燈臺の光が、髮の長い、色のくつきりとぬけるやうに白い、普通上流の女達の着けるものとは違つた、派手な襲ね色の或は紫に、或は紅に、縹色に、銀色にかゞやいた衣裳を着けて、それもだらしなく、几帳などは横さまにして、戸口まで出て迎へて行つたりする女達を見るのであつた。否、もう少し中に入つて行くと、室が奧から奧へと二つも四つも連つてゐて、その室毎にさうした女と狩衣の袖を亂した男とがゐて、たまには女が聲張上げて歌をうたひ、それにつれて傍にゐるやゝ年老いた女が琵琶を彈き、男は男でその頃流行る小曲を歌つた。
挿櫛は十まり七つありしかど、
たけくの縁の朝にとり
ようさりにとり、
取りしかは、
挿櫛もなしや。
 これに似た小曲がいくつもいくつも男の口から出て來た。後には男と女と一緒に立つて舞つたりなどした。あとからあとへと女童は提銚子に酒を入れたものを運んで來た。窕子は何うしてさういふ坊の小路の光景を知つてゐるかと言へば、かの女はつい今から二月ほど前、兼家がそこで現をぬかして遊んでゐるといふのを聞いて、家の男の子につれて行つて貰つて、そつとその闇の中に俄かに蜃氣樓か何かのやうにあらはれて來る賑かなさまを覗いたのであつた。成ほど男達が坊の小路、坊の小路と言つてそれを大騷ぎするのは無理もない、女の身で見てさへこのやうに面白いのだものとその時窕子は思つたことをくり返した。
 で、男はそこで女を相手に終夜遊び散すらしいのだが、女房達の局の内や、琴、笛の夜の會などとはまた違つて、碎けた、氣の置けない、のんきな歡樂のそこにあるらしいのが窕子にもわかつた。窕子はそこを通る時、面がほてつて爲方がなかつたことを思ひ起した。じろじろと見られたゞけで、別にわる口らしい放言は浴びせかけられなかつたけれども、何うして女の身でこんなところまで入つて來たらうと後悔したことを思ひ起した。ことに、暗い一室に、結び燈臺も細々としかともつてゐない一室に、二人の男女が身を寄せ合うて打伏すやうにしてゐたさまが、今でもはつきりと眼の前に浮んで來た。窕子はいくらか心が焦立つて來た。
『あなたには、あそこでも、もう、ちやんときまつた方があるのでせう?』
『ありはせぬよ』
 兼家の笑顏は却つてその反對な心持を裏切つた。
『隱さなくとも好いではございませんか。今度、この身をもそこに伴れて行つて逢はせて下さい………』
『よし、よし、そんなに行つて見たいなら伴れて行つて逢はせてやらぬこともない』などと言つて、兼家は却つてそれを肯定するやうに言つた。
 これに限らず、ずつと前から、兼家の好色の噂を、窕子は何彼と聞いて知つてゐるのであつた。兄の攝津介は此頃は伴につれて行かれたりなどするので、もはや此方ばかりの味方にして置くことは出來なかつたけれども、それでもその言葉の端からいろいろなことがわかつた。女房の局の方にあるのは、もはやかなりに深いらしく、その女は地位もその身よりは好く、何ぞと言つては却つて窕子のことを問題にしてゐるらしく、此方に可愛い男の兒が生れたのを兼家はそこにはひたかくしにかくして置いたのを、ある時誰れかがそれを知らずについ口を滑らして了つたので、それを死ぬほど嫉妬して、しまひには此方を呪はうとさへしてゐるのを窕子は耳にした。しかしその局の女に對してはかの女はさう大してやきもきしてはゐなかつた。かの女はその女を曾てそつと見たことかあつた。美しいには美しいにしても、とてもこの身に及ぶべくもないと思つた。窕子は優越感を十分に感じた。この他にも藤壺の侍女の中に兼家が深く思をかけた女のあることを窕子は聞いた。
 可愛い子供が出來ればそんなことはなくなる。それは兼家の方のことを言つたのか、それとも自分の方の心のことを言つたのか。まだ子供が出來ない中には、それは無論兼家の方のことを言つたので、さうなればひとり手に愛情が此方に移つて來る。可愛い子の愛にひかされてひとり手に足が此方に向くやうになる。さう思つてばかりゐたのに、子供が出來てからは、それはさういふ意味ではなくて、單に此方の心持――子供の愛に慰められて、さうした男の好色をも堪へ忍ぶやうになるといふことであるといふことが窕子にも次第に飮み込めて來るやうになつた。(男の心には女があるばかりだ……)窕子はひとり寢の夜など唇を噛んでかう獨語した。この人の世のことが年を經るにつれて次第にぴたりと身に觸れて來るのを感じた。

         一四

 兼家の行列はいつも大内裏から西洞院へと下つて行つた。それは普通は東三條の邸へと行くのが常であるが、ともすると、それが堀川の方へ行つたり、また時には西の京の荒れ果てた町の方へと行つたりした。窕子の邸に來る時には、それがすぐ向うの長く續いた築土のところで一先その警衞の聲が留つて、そこで列を碎いて、先に立つたものが二三人、それも大抵はいつもきまつて鼻の際立つて大きい肥つた下司がふくみ聲で、『お出でます、お出でます……』と先觸するのが例になつてゐた。と、いままでひつそり火の消えたやうになつてゐた家の中が俄に活氣づいて、下司も侍女も厨の女も忽ちにして忙しくなるばかりでなく、呉葉もそはそはと門のあたりを行つたり來たりして、そこに靜かに鷹揚に一人二人の供を伴れて兼家が狩衣姿で入って來るのを迎へた。
『お出でます――』
 かう言つて呉葉は丁寧に、さもさも自分のことでもあるやうに嬉しさうに莞爾して迎へるのが常であつた。
 奧にゐる窕子にもその來る來ないがよくわかつた。申の下刻をすこし過ぎたと思ふ頃には、きまつてその大内裏から下つて來る警衞の懸聲がそれとなくはつきりきこえるのであつたが――他にも九條殿だの、小三條の殿だのの警蹕もないではなかつたけれども、それは長年の習慣で、その懸聲の調子や何かで、今のは誰? といふことがはつきりとわかるのであつたが、その角のところでとまるか何うかといふことがいつもひそかに窕子の頭を惱ました。從つて窕子は内の誰よりも先に――主人に此上なく忠實な呉葉よりも先に殿の來るか來ないかがわかつた。
『あ! 行つて了つた……今宵も來ない』かう何遍かの女は口に出して言つて失望したか知れなかつた。その行列がサツサと行つて了へば、それが最後で、あとは秋の長夜を、さびしい獨寢の長夜を、虫がすだいたり月がさしたりまた時には雨が烈しく心細く降つたりする夜をひとりさびしく送らなければならないのである。かの女はそれを考へるといつもうんざりした。また一夜眼をさましていろいろなことを考へなければならないのか。それもたゞ眠られぬといふだけならまだしもだけれども、あだし女子と何處で何うして寢てゐるであらうか、またあの坊の小路だらうか、それともまたこの頃出來たといふ河原の邸だらうか、そんなことを考へると、自分の家にとまつた時のことに引きくらべて、忽ち赫とならずには居られないのであつた。此の身の當然すべきことを他の女子がやつてゐる。それだけでたまらなく身内が削られるやうに業が煮えて爲方がないのに、この虫の音をも向うではさびしとはきかず、この月の光をも盃に受けて竝んで夜を更してゐると思ふと、ゐても立つてもゐられないやうな氣がした。
 であるから、そこで、その角で、その警衞が留るか否かといふことは窕子に取つては大きな問題だつた。かの女はじつとしてその時の來るのを待ち、またその時の過ぎるのを待つた。そして過ぎて了ふとかの女はがつかりした。後には呉葉と顏を合わせることがきまりわるくなり、それが昂じて、さう深く自分の身のことでもあるかのやうに案じて呉れることに一種の腹立たしさを感じて、ある時などは、『お前、もうそんなにハラハラ思はないでおいておくれよ、だつて、お前のことぢやなし、私のことなんだから。來たつて來なくたつて、一々そんなことを氣にしては生きてゐられはしないよ……。來たくなければ來なくつたつて、何もそんなに氣を揉むことはないよ』などと不機嫌に當り散らした。そのくせ、窕子は來ない日の續くのをいかにもさびしさうにたれこめてのみ暮すのだつた。
 それでも何うかすると、その警衞の行列がぴたりと留つて、鼻の大きいその含み聲の下司が、『お出ます、お出ます……』と言つてバタバタと入つて來た。
 しかし此頃では窕子の心はわるくすねるやうな形になつて行つてゐた。來て貰つて嬉しくないことはないのだけれども、それを無邪氣に面にあらはし喜ばしさうにするといふのは、何となく自分の心を卑くすることで、それでは女としての意地も張りも何もないやうな氣がして、わざとツンとしたやうな顏を見せることが多くなつた。さうでなければわるく素氣なく取扱つて一夜後向きになつてすゝりあげて見せたりなどした。
 さういふ夜でも窕子はいつか兼家の腕にまかれて、すゝり上げながらだらりと長い黒髮を屍でもあるやうに亂がましく下に垂らしたりなどした。
 朝になつて兼家は呉葉に言つた。
『何うも困る女だね』
『だつて、殿がおわるいのですもの……』
『それはさうだらうけれども、よく言つて置いて呉れ……。決して何うのかうのと言ふのではないのだから、此頃は少し忙しいのだから、それに、此間は物忌になつたりして、こもり勝ちに暮してゐたものだから……』
『でも、お忘れないやうに――近うお出下さるやうに――』
『わかつた! わかつた』
 他の女のことをあまり手ひどく嫉妬されるのはそれは好ましいことではなかつたけれども、しかしさうした女のヒステリカルな感情が、男に一種の興味を齎らすことには間違ひがなかつた。兼家に取つては、何處に行つても窕子のやうな女は見出せなかつた。從順と謙遜と虚僞とのみにかれは倦んでゐた。
 かれはそのあくる日大内裏のあるところである若い殿上人にこんなことを言つた。『御身なんかにはまだ女のことなんかわからないね……。局の女房達のところだつて大したものではないしね。坊の小路だつてちよつとは面白いけれども、あれだつて、しまひには底がわかつて了ふし、やつぱり戀は向うの相手の如何だと思ふ。御身はまだ女の一夜泣いたのを介抱したことがあるかね? あるまい? さういふ面倒なところに面白味があるのが戀だよ。やつぱり女は女だからね。いくらすねて見せたつて、やつぱり男のものだからね。だから、嫉妬する女にも面白い一面があるよ。たうとう一夜一睡も取れなかつた……。それで今日眠うていかん』
『河原でござるか?』若い殿上人は笑つて訊いた。
『まア、そんなことはまア何處でも好いけれど……』
 かう言つて兼家も笑つた。女がヒステリカルに振舞つた美しいその態度は、その時になつても一種の深い男性的愛着を兼家に感じさせずには置かないのであつた。
 また數日經つた後にはその同じ若い殿上人に兼家が話した。
『何うも、女子といふものは面倒なものぢや』
『何うかなさりましたか』
『別に何うといふことないが、もう少し離れてゐて呉れれば好いと思ふことがござるな……』
『またよべ御介抱なされましたか』
『さうぢやない、今度のは別じゃがのう……。何うしてあゝ女子というものは嫉妬深いものかなう……。いくら申してきかせてもわかり居らぬ……』
『殿は果報者でござるほどに……この身などは、この若さに、まだひとりすらさういふものを持ちてだにあらぬに………殿は――』
『局のは何うし居つた?』兼家は笑ひながら言つた。

         一五

 幼ない道綱はいつの間にか數へ年の三つになつて、此頃は片語雜りの言葉を可愛い口から言ふやうになつた。窕子に取つてはそれがせめてもの慰藉であつた。普通館の人達は子が生れると北山あたりに好い乳母をもとめて、そこに數年里子に出して置くのを常としてゐたけれども――兼家もそれを希望しないではなかつたけれども、窕子はこの私の小さい珠玉だけは片時も自分の胸から離すことが出來ないと言つて、ひたとそれをかき抱いたので、それでそこで育てらるゝことゝなつた。しかし里の母親などは、昔人だけにそれをひどく心配して、殿の足の此頃間遠に編まれた簾のやうになつたのは、その幼い兒をそのまゝそこに置くためではあるまいか。子を持てば女子の姿はあさましくなると言はれて、好色の殿達はそれをひとつの邪魔者のやうに、また子の愛に執着してそれから離れて來られない女子はもはや色戀の對照ではないといふ風に思はれてゐるのに、それを平氣で對屋で養つてゐるので、それで殿は來られなくなつたのではあるまいか。今からでも遲いことはない。いつそ世間並に北山へやるやうにしては――? かう母親は絶えてそれを氣にして言ふのであつたけれども、しかも窕子はそれに耳を留めようとはしなかつた。そのやうな薄い情のために、この大切な珠玉を失くして何うなるものぞ! そのやうなことは別にしてそなたを思うて慈しんでくれるのでなうては、父親と言つても、それは單に名ばかりではないか。何うして! 何うして! この身の姿がいかにあさましうならうとも、この身がそのため何のやうに痩せてみにくくならうとも、この身は單なる男の子のもてあそびものでない上は、この子を手放すことではない。窕子は強く強くその可愛い子を抱きしめた。
 呉葉もそれには同情せずにはゐられなかつた。何ぞと言つては、道綱を伴れてはその女君のゐる几帳の方へと行つた。
『おゝ、よう參つた! あこは好い子になつたのう!』
 かう言つて窕子はこつちへとそれを引寄せた。
『あこは本當にうつくしう――』引寄せてたまらなくなつたと言ふやうに、その身の苦しみやら男に對する嫉妬やら體の平均しない感情やらに堪へられなくなつたといふやうに、その赤い滑かな小さな頬にあつい口をぴたりと當てた。思はず涙が底から溢れ漲つて來た。
 その頬の吸ひざまがいつもとは違つて強く烈しかつたので、小さき道綱は急に聲を立てゝ泣き出した。
『お、よし、よし、母があまりつよう吸うた! 許して呉れ! 許して呉れ、さうつよう吸うたつもりではなかつたのに! お、よし、よし』
 窕子は慌てゝ引起して、それを一生懸命になだめた。
『よし、よし、本當に、この母がわるかつたのう、わびた、わびた、これこの通りにわびた!』
 泣き出した道綱はしかも容易に泣き止まうとはしなかつた。
 呉葉が抱き寄せて、
『何ともなつてゐはせぬのでございますのに……。おゝ、母者が吸うた。わるかつた。わるかつた。母者のとこに伴れて來ずばよかつた……。でも、なう、男子は強うならねばならぬ。そのやうに弱う泣いては何うにもなりませぬ。もう大丈夫! もう治つた!』かう言つて若い母親の悲しい口づけのあるあとを呉葉は經く撫でゝやつた。
 それで道綱の泣聲は漸くとまつた。
 秋はそんなことをして暮してゐる中にもいつか長けて、西山のもみぢも過ぎ、鳴瀧の奧の御寺の御講も濟んで、やがては北山の奧の峰に雪が白く見えるやうになつた。
 さびしい寒い冬は來た。窕子は日ましに兼家との仲が遠くなつて行くのを悲しまずにはゐられなかつた。それはたまさかにはたよりがあり、歌があり、曾ては、十日ばかりも來ずに、だしぬけに几帳の柱にかけて置きわすれて行つた小弓の矢を使の者して取りに寄こしたので、『思ひ出づる時もあらじと思へどもやといふにこそおどろかれぬれ』などとわる洒落を言つてやつたりなどしたことかあつたが、次第にさうして馴々しい心持なども稀れになつて、その歌のおとづれすらも次第に間遠になつて行くのだつた。
 ある夜は道綱をかたく抱きしめて、『何うなすつたのでせうね、そちのお父さまは……。網代の氷魚にでもきいて見たらわかるだらうかね。何うして此頃はちつともそちのところに來ないだらうかツて………』かう言つて窕子はまたしたゝかに涙を流した。

         一六

 ひとつの噂が傳つて來た。
 何でもその話では、去年あたりから堀川の殿に新しい寵が出來て、それが河原に近いところに對屋を造へて圍はれてあつたが、その人にも今度はめでたい話があつたといふのであつた。噂としては別にさう大したことでもなかつた。その女の圍はれてあることは、たうから知つてゐた。その女にいつかさういふ話のあるのは當然のことであつて、別にめづらしいことではなかつた。しかし世間では窕子の時にも目を□るやうにしてその噂をして、中にはそれをあさましいと言つてわるい方に言つたものもあるにはあつたが、大抵は大臣になる人の寵になつたのを果報に羨ましく思つたものが多かつたので、忽ちにして秋の扇と捨てられた形を世間でも由々しいものにして噂は噂を生むのであつた。その世間といふものが窕子にも強く強く感じられた。
『本當でござるか』
『さやうか』
『男心といふものはそのやうなものかのう? あれほど心を籠められてゐても、いざとなると、さうなるものかのう』
 さうした言葉は窕子の周圍にゐる人達の中にも起つた。窕子はしかし默々として暮した。それについては何も言はなかつた。呉葉が何か言ひかけるのにすら不機嫌な表情をした。
 それでもその出來事の一伍十什については、誰よりもその身が一番詳しく知らなければならないのであつた。從つてその問題に觸れられることは身を切らるゝよりも痛さを感ずるけれども、また此上もなくこの身の誇りを傷つけらるゝやうにも感じられるけれども、しかしそれから耳を塞いで、何うともなれ! と言ふやうに平氣にすましてゐるわけには行かなかつた。否、むしろ此方から進んで、さういふ敵と戰ふばかりか、自分のためにも、またこの幼いもののためにも、飽までも男の心を此方へ取戻して來なければならなかつた。窕子は徒らに嘆いたり女々しく悔んだりばかりしてはゐられないやうな氣がした。
 母親もあまり世間の噂が高いので、心配になつたと見えて、それとなしに、そのことを言ひに來たのではないといふ風をして、そつとそこにその顏を見せた。その時、兼家からの使のものが文箱をとゞけて來た。
 箱をあけて、文をひろげて見ると、久しく行かなかつたのは、まことにすまなかつた。しかし、わるう思つては呉るゝな。此方にも今までは知らせずにしてあつたが、少し手放されぬ厄介なことがあつて、それでかういふ風に無沙汰になつた。それもやつと昨日すんだ。しかし身も穢れて居るので、當分は宅に籠もつてゐるより他に爲方がない。非常にあさましう、つめたく思ふかも知れぬが、そなたのことは忘れたのではないからなどといつもよりも細々しくやさしく筆を走らせてゐるのを窕子は見た。使のものもいつもの下衆とは違つて、自分の下につかつてゐる史生見たいなものだつた。で、それとなく呉葉にきかせた。
 やがて呉葉はもどつて來たが、窕子の傍に寄添つて來た。
『え?』
 窕子は耳を寄せた。
『さうなの? 男の子なの? ふむ……』かう言つたきりだつた。窕子の顏は急に赤くなつた。
 呉葉にはその窕子の心の動搖がよくわかつた。しかし何うすることも出來なかつた。二人はそのまゝにだまつた。
 暫くしてから、
『おかへしは?』
 かう呉葉が訊くと、
『ないと言つてお呉れ……』
 かう言つたまゝ窕子は向うむきになつて了つた。
 そこに母規も近寄つて來た。
『何うかしましたか?』
『いゝえ、別に……』つとめてその心持を押へようとしたけれども、しかしその一伍十什を母親からかくして了ふことは出來なかつた。
 母親も昔氣質の腹を立てずにはゐられないやうに見えた。それが男の兒であるときいた時には、見る見るその顏の色も變つて行つた。
『殿も殿だ……』
 かう母親は口癖のやうに言つた。

         一七

 七月になつてからであつた。ある日、使のものが古い衣と新しいのと一領づゝ物に包んで、急いでそれを仕立直すやうにとて持つて來た。
 まさかことはるわけには行かないので、呉葉はそれを受取るには受取つたけれども、窕子に見せたら、何と言ふだらう。そのやうなけがらはしいものは手に觸れるのもいやだといふだらう。さういふことをする人は他にあるだらうといふだらう。否、感情に強い窕子はそれを見たら、赫となつて、それをピリピリ破つて捨てゝ了ふかも知れない。呉葉は間に立つて困つてゐると、ちやう度そこに母親が來た。
『まア、殿は少しも來もせずに、何といふ――』
 母親も呆れた。
『何ういたしませうか?』
『さア、何うしたら――』
『兎に角一度お目にかけた方が宜しいでせうか』
『さうぢやなう、見せた方が好いぢやらう……。しかしあんまり好い氣ぢや』流石の母親もいつものやうに殿のため殿のためとばかりは言つてゐなかつた。
 窕子はしかしそれを見ても、たゞそれをひつくり返して、その古い方の衣裳を曾てその身が眞心こめて縫つた時のことなどを思ひ出して、今の身の悲しさをそこに深く深く感じただけであつた。別にそれを何うしようとも言はなかつた。かの女の戀もその衣裳のやうに古びた。かの女はその汚れた衣をひろげて、その肩のところの縫目などを一つ一つ仔細に調べてゐたが、急にたまらなくなつたといふやうにはらはらと涙をその衣の上に落した。
(この縫目はこのやうにしつかりとしてゐるのに……)さう思ふと、かの女はたまらなくなつたのである。
『何うしたのだぞえ?』
 母親はびつくりしたやうに窕子の方を見た。
 涙は益々繁く霰でもあるかのやうにその衣の上に落ちた。
『さア、此方におよこし……。だから、そちに見せて好いかわるいかと呉葉も心配して言うてゐたのぢやけれど……。なう、窕子、そのやうに泣いたとて、何うにもなるのでもない……。さア、その衣裳を……』母親は窕子の手からその涙に霑された衣裳を強ゐて取つた。そこに呉葉も入つて來た。そして引被ぐばかりにして泣入つてゐる窕子を幾重にもなだめた。
 兼家の衣は爲方なしにもどしてやることにした。

         一八

 さびしい秋が續いた。野分がすさまじく始終吹いたり、虫の音が悲しく枕近くきこえたりした。窕子は深くたれこめてのみ暮した。
 いくらこひしいと言つても、その身の矜持までも捨てゝかれの來るのを待つわけには行かなかつた。此身を思うて呉れればこそそこに縋つて行く心持も起つて來るのである。思ひもして呉れないのに……坊の小路の女達や河原の人などと同じづらに持てあつかはれて、たゞ玩弄品か何かのやうに見られてゐるのに、いくら此方でばかり深く思つて見たところで効がなかつた。窕子はそこに深い深い失望を感じた。そしてそれは今まで感じて來た輕い失望のやうなものではなかつた。かの女はその悲しみと失望との中に、さびしい秋の自然が、山にたなびきわたつて眺められ雲のたゝずまひが、野分に吹きなびけられてゐる尾花が、夜もすがらきこえて來る虫の音が、またはさびしく降しきる軒の雨がすべて細かに織り込まれて來るやうな氣がした。
 二三年前までならば、たとへ何んな苦しみがあつたにしても、また何んな悲しみがあつたにしても、いろいろなことでそれをまぎらせることも出來たであらう。此方からもさう深く思ひ込まずに、容易に男の胸にこの身を投げかけて行くことも出來たであらう。また呉葉の慰藉も、母の意見もそれをまぎれさせるに十分力があつたであらう。しかし今度の失望は、さうした生やさしい心の傷痍ではなかつた。窕子は既にあらゆる希望の憑むに足らないものであることを知つた。自分の眼の前に頼みにもし、力にもし、なぐさめにもして來たさまざまの幻影は、それは實際幻影で、到底手にすることの出來ないものであるといふことをかの女はつくづく感じた。青春の失はれて行く怨み、それも悲しかつたには相違ないが、しかしそこにはまだ慰めもあれば、縋るべきものもあつた。今度のやうに魂の底まで搖ぶられるやうなものではなかつた。
 呉葉が何か言ひかけても、窕子はたゞ低頭いてだまつてゐるやうなことが多かつた。
『本當に、もう少し氣を引立てゝ下さらなくつては……』
 呉葉はある日、兼家がやつて來て、一□ほどゐてそゝくさと歸つて行つたあとで言つた。
『そのやうに言はずにおいてお呉れ……。お前の心持はよくわかつてゐるから』
『でも……見てゐても、お傷はしうございますもの……』
『だつて、しようがない……』
『殿は?』
 その交情が呉葉には心配になるのであつた。
『別に何でもない……』
『でも……』
 早くそゝくさと歸つて行つたのを呉葉は心配した。
『だつて、お前、さういふことは成行にまかせるより他爲方がないぢやないか……』
『でも……』
『もつとお前は私に殿の機嫌を取れと言ふの?』
 窕子はじつと呉葉を見詰めた。
『さういふわけではございませんけれど……』
『だつてお前……私の心が言ふことをきかないから仕方がない。昔から女子はそのやうに出來てゐると言うたとて、男に玩弄具のやうに取扱はれて、それで言ふことはきいて居られるか、何うか。そちにもそれはわからぬことはよもあるまい――』窕子の眼には涙が光つた。
『それはわかつてをりますけども……』
『坊の小路なら、さういふことも出來るだらうけれども、この身は……この身は……さういふ女子とは違ふほどに……』
『それは、それは――』
 呉葉も後には困つた。
『それはそちの心はわかる。そちは、この身を思ふあまりに、さう言うてその身のことのやうに心配して呉れるのだらう。それはようわかる……。この身とて……この身とて……それを望まぬではない……。なう、呉葉、この身とて……』あとは言はずに涙が堰を切るやうに窕子の眼から溢れ落ちた。

         一九

陸奧の
つゝしか岡の
馬鞭草
來るほどをだに
待たてやは
よすかを絶ゆべき
阿武隈の
相見てだにと……
 かう書いて來てかの女は遠い遠い父親を思つた。父親が行つてからもはや四たび年を重ねた。そのあとで生れた道綱も大きくなつた。母親は絶えず心配しては呉れる。しかし……しかし……。窕子はいつも遠い遠い父親を思つた。
 父親のたよりは、一年に二三度は來たが、しかもそれは長い月日をかけたものだつた。梅の花の咲く頃に向うを出たものが、卯の花も散りはて、子規の聲の老けた頃でなければ此方の手には入つて來なかつた。また秋出したものは、年の暮れでなければそれを見ることが出來なかつた。父親は容易に都に歸て來さうにも見えなかつた。初めの年は白河の關から大方二日路のところに留つて、むかしの山の井の物語のある安積の府のことだの、安達の鬼塚のことだの、阿武隈川がその近くを流れてはゐるが、まだ狹くて、流れも小さくて、とても歌枕に詠まれたやうな大河ではないなどと詳しく書いてよこしたりしたが、二年目からは、それよりも猶ほ五日路も六日路も奧に入つて、武隈の府から多賀の府の方へと出かけて行つたらしく、その消息さへ容易に手にすることは出來なくなつて了つたのであつた。
 かの女はたまさかに來るその手紙を唯一の戀人か何ぞのやうにして待つた。またその來た手紙は、何遍も何遍も出して來ては讀むので皺にされたり汚れたりするのであつたが、しかしそれを丁寧に疊んで、一つ一つ來た日をかきつけて、貝の蒔繪の文箱の中に重ねて藏つて置いた。此頃では何うしてかことにその父親のあたりが戀ひしかつた。何故あの時無理にでもそのあとについて歌枕を見に行かなかつたかと思つた。かの女の眼には、その父親が遠く遠く薄を分けて蝦夷の地近くまで入つて行くさまがはつきりと見えた。武隈の二木松などもそれと見えた。父親の手紙にはいろいろなことが書いてある。この多賀の府からは歌枕の千松島はもはやさして遠くない。今までは用事が忙しいので行つて見ることが出來ずにゐるが、秋にもなつなら、是非とも暇をこしらへて行つて見るつもりだ……などとも書いてある。窕子は父親をその松島の中に置いて、いろいろに想像して見たりなどした。
さもやこまつの
みとり兒の
絶えずまゐるを
きく毎に
人やなくなる涙のみ
我身を海とたゝふとも
海松もよせぬ……
 實際、窕子に取つては、その遠くにある父親と、その周圍に纏つて來てゐる幼い道綱とがその心をたまらなく悲しくさせるのであつた。道綱は今年數へ年の四つの可愛い盛りで、何ぞと言つて呉葉の手から窕子の膝へと凭りかゝつて來るのだつた。兼家のことなどをもよく覺えて、『殿……殿……』などと小さな手で指さしたりなどした。
『まア、此子が……』
 兼家が歸る時にいつも口ぐせのやうに言ふ言葉の一つを、それを誰も教へも何もせぬのに、室の隅で玩具を持つて獨あそびをしながら、獨言のやうに眞似てゐるのをきいた時には、窕子はあきれてさう言はずにはゐられなかつた。
『あこは好い子ぢや……今言うたことをもう一度言うて見や……』
『…………』
 幼ない道綱はじつと母親の顏を見るやうにした。
『言うて見や……』
『すぐもどる……すぐもどる……きつとぢや……』
『まア、さう言うたか? 殿が?』
『きつとぢや、きつとぢや、すぐもどるほどに、のう……』
 二度目には母親がきいてゐるのなどはもはや頓着しないといふやうに、玩弄具をもてあそびなから、頻りに節をつけて歌でもうたふやうにして言ふのだつた。
『呉葉來て見や』
 かう窕子は呼んだ。
 呉葉も流石にそれには驚いたといふやうに、
『まア……まア、あこさまの聰明なこと……』
『だつてあんまりぢやないかねえ……。皆なきいて知つてゐるのだねえ――』窕子はたまらなく道綱が可愛相になつた。それはたとへ無意識であつたにしても、さういふ言葉を、いつとなく覺えて、それを歌か何ぞのやうに節をつけて眞似てゐるといふことは、何とも言へない一種の悲しさと心細さとを誘つた。その後兼家がやつて來た時、その話をして泣いたことを窕子は繰返した。
かひもあらじと
知りながら
命あらばと
たのめ來し
言ばかりこそ
白波の
立ちも寄り來ば
問はまほしけれ
 かの女はその長い歌を例の巧みな假名で懷紙に書いて、それを丸るくして、向うにある厨子の上の段へと載せて置いた。二三日經つて、兼家がやつて來たけれども、かの女は顏をもそこに出さなかつた。兼家はそれをそつと取つて歸つて行つた。つゞいてそれに對するかへしの長い歌が來た。
 その長い歌には何が書いてあつたらう。やつぱり男子の浮いた心が體裁よくかくされてありはしなかつたか。(お前は何故それでは打解けないのぢや。この身はお前を忘れたことはない。お前のことばかりを思うてをる。それをお前は何のわけもなしに、此身を袖にばかりしてゐるではないか。――寢覺の月の槇の戸に光殘さず洩れて來る影だに見えずありしより疎き心ぞつきそめし――二人の仲がこのやうになつたのはお前にも責任があるではないか)かういふ風にその長歌は詠まれてあるのであつた。窕子はじつとそれを深く考へた。

         二○

 互に打解けても打解けられないやうな月日が長く長く續いた。さうかと言つて兼家は全くその姿をそこに見せぬといふのでもなかつた。またその身はやつて來なくとも、歌やら消息やらは常に使にもたせてよこした。
 いくら悶えたからと言つて何うともならないといふやうな心持が次第に窕子の身の周圍に來た。苦しい時には默つてゐるより他爲方がない。いくら思ひのまゝにしようとしたとてそれは出來るものではない。また、何んなにつらいと思ふことでも、悲しいと思ふことでも、時には身も亡びるかと思はれるくらゐいらいらすることでも、じつと落附いてさへ居れば次第にそれが薄らいで行くものだといふことなどもそれとなく飮み込めるやうになつた。(これがこの人の世といふものだ……。誰にでもそれほどのことはあるものだ。單に自分にばかりそれがあるのではない。現に、その證據には、あの后の宮にもその苦しみがあるではないか。またその妹の登子の君にも、それにもました戀の苦しみがあるではないか)かの女は次第にその身の悶えをあたりの人達に比べるやうになつた。
『本當だね、何處に行つたつて思ふまゝにならないのだねえ?』
 ある日窕子はこんな風に呉葉に話しかけた。
『…………』
 呉葉は點頭いただけで、何も言はずに、そのまゝ窕子の言はうとするところを待つた。
『御門でさへ……そのやうなことをなさるのですもの』
 言葉を長く、いかにも歎かはしいやうにして窕子は言つた。
『何の宮のことでござりますか?』
『そら、そちも知つてゐるではないか、登子……きさいの宮?……』
『あ、お妹さま――』
『あの方のことなど考へると、この身などはまだ好い方かも知れぬ……』
『あの登子さまが何うかなさりましたか?』
『そちは知らぬか?』
『式部卿の宮さまのことではござりませぬか?』
『それはさうだけれども……それは誰も知つてるけれど……』
『何か他に?』
『御門が何うしてもお許しにならぬので……』
『御門が……』
 登子の姿を垣間見てから、何うしてもそれを大内裏に召すと言つて言ふことをきかなかつた。しかしそれにはその姉のきさいの宮の思わくもあることだし、またその一方では式部卿のこともあるので、それだけはたつて兼家の父がおことはり申上げたのであつたが、しかも御門は何うしてもその御心をひるがへさうとはせぬといふのであつた。
『まア……』
 呉葉も流石に驚かずにはゐられないといふやうに聲を立てた。
『殿がおつしやいましたのですか』
『これはお前、誰にも言つてはならぬことだよ……』
 窕子は聲をひそめた。
『お心安う……。それは決して他言などは致しませぬが、それにしても、あまりのことではございませぬか。つい、此間も小一條の女御のことであのやうに后の宮がお腹立におなり遊ばしたのに……それにもお懲りあそばさずに――』
『姉はまだそんなことは少しも知らぬのだなどと殿は申してをられたれど……』
『だつて知れずには居るものですか』
『だから困ると申して居るのだけれど――』窕子が殿から聞いたところでは、それが登子の棲んでゐる東三條の邸の裏の空地の新しい對屋での出來事だといふのであつた。そこは邸の内ではあるけれど、ずつと奧深く人目の遠いところなので、裏から入つて來れば、誰も知るものはないといふのであつた。呉葉の眼にもその新しい登子のゐる對屋ははつきりと映つた。かの女はつい此間も窕子の用事でその對屋へと出かけて行つた。そこにはいつも赤い鼻をした召使の女がゐて、それが呉葉の持つて行つた文箱を受取つた。時には口で傳へねばならぬ用事があるほどに、此方まで來よなどと言はれて、一二度はその登子の几帳の陰のところまで入つて行つたことなどもあつた。それはその美しさに目も□られるやうな君であつた。姉の后の宮も決して美しくないことはなかつたけれど、しかもその髮といひ、眼といひ、眉といひ、この妹君の方が幾段かすぐれてゐるのを否むことは出來なかつた。呉葉は昔の物語にある竹取の姫といふのもかういふ君であつたであらうなどと思ひつゝ歸つて來たことをくり返した。それに、かの女はいつもその裏の方から入つて行くのが例になつてゐたので、そこの竹むらに薄く夕日のさし込んで來てゐるさまなどをもはつきりと知つてゐた。それだけその話は一層かの女の心を惹いた。
『それに、もつと困ることがあるのよ……』
 聲をはづませて窕子は眼を大きく□るやうにした。
『…………』
『あの卿の君も始終あそこから入つて行くのだからね……』
『まア……』
『何でも殿の話では、それが一つにならぬとは限らぬといふのだから……』
『それは本當でございますか?』
『殿がさう言はれるのだから、まさかつくりごとでもあるまい……』
『さやうでございますね』
『殿はのんきなことを言つて居られたけれども、登子の君がさぞお困りになつてゐらつしやるだらうと思つて、それを考へると、お氣の毒で……』
『本當でございますねえ』
『それにつけても、つくづく女子といふものほどはかないものはないと思うた……』
『そのやうなことはございませぬけれど……』
『登子の君が何んなに困つてゐられるかと思うて……。それも普通のことなら消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』
 呉葉は問うた。
『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』
『まア、さやうでございますか?』
『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』
 さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』
『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』
『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』
『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』
『本當でございます』
『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』
『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』
『そんな話だねえ――』
『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』
『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか……。』
『そんなことを申してをりますねえ! 世間の人は?』
 呉葉はこんなことを言つて笑つた。此頃でも殿と窕子との間はまださう打解けたやうには見えなかつたけれども、それでもさうしたいろいろな事件から離れたその二つの心が再び近寄つて行くやうになることを呉葉は願はずにはゐられなかつた。かの女はつとめて窕子を慰めるやうにした。

         二一

 呉葉の國のもので、幼い頃から此處に來て仕へてゐた藤といふのが、今度縁談がきまつて、里から母が迎へに來たので、そのまゝ暇を取つて歸つて行くことになつた。
 呉葉は何年にも故郷に歸つたことはなかつたが、むしろ一生その身は此處につとめるつもりでゐたが、母に迎へられて國に歸つて行く藤を見ると、流石にそれを羨まずにはゐられないやうな氣がした。かの女の眼の前には何年にも目にしたことのない川に添つた、雲の白く靡いてゐる故郷の藁屋のさまがはつきりとあらはれて見えた。
 そこでは今時分はもはや麥は刈られて、暑い日影が山ぞひ路の卯の花の白い叢を照してゐるだらう。藁家の屋根のぐしの上には葉の大きい蛇よけの草などが一杯に茂つてゐるだらう。だらだらとそこから川へ下りて行つたところには、葭や眞菰が青々としげつて、その向うに鰻を獲る舟が餌を置くためにあちこちと徐かに動いて行つてゐるだらう。水が葭の根元のところにさゝやかな音を立てゝ紋を成して流れて行つてゐるだらう。夜は眞闇で、あたりに何もないやうに見えるけれども、村の男や娘達は却つてそれを好いことにして、手を組み合はせたり肩を竝べたりしてゐるだらう。靜かな川ぞひの里。螢の里。夏になつてから名高い瓜の出來る里。あの畠から取つて來た熟して半ば赤くなつた瓜は、何んなにうまい漿をかれ等の口に漲らすだらう。それは都と比べては、派手な賑かな樂みはないだらう。くらべ馬の日の棧敷の賑はひ、祭のかへさの賑はひ、あの引出しの車の裾の美事さ、さういふものはそれは田舍にはない。しかし都の人達の内部のわづらはしさ! 悲しさ! つらさ! ほこりの多さ! あのやうに美しく派手につくつて居りながら片時も休む時のない心のみだれ! それを思ふと、田舍がこひしい。水のほとりの里がこひしい。弟にはもはや嫁が出來て、それが髮に赤い布をかけて、弟と一緒に田に畠に鋤や鎌を持つて出かけて行つてゐるさうだが、さういふあたりのさまがなつかしい。父も母も達者ではあるが、もう老いて、かなりに白髮も多くなつたさうだが、その白髮がなつかしい。几帳だの、かさね衣だの、廊下だの、蒔繪の文箱だの、花の枝につけた消息だの、口で言ふべきところを懷紙に書いてそれを厨子の上に置いたりする生活だの――さういふものに曾ては深くあこがれてそしてその野山を見捨てゝはるばる出かけて來たのであるけれども、今では却つてそこに戻つて行く藤母子がたまらなく羨しいのであつた。(やつぱり田舍に生れたものは田舍でくらすが好い。その方が氣安い。苦勞もない。よしまた苦勞があつたにしても、都の人達のやうにさういふ風にわるくこだはらない。その日その日をわびしく見詰め合つて暮すやうなことはない……)こんな風に思ふにつけても、都の生活が、上は大内裏の局達の生活から、下は羅生門あたりに住んでゐる乞食や盜人のさままで歴々とそこに浮んで來るのだつた。
 藤はしかし田舍に戻ることを好んではゐなかつた。また田舍の土くれ男を夫に持つことについても餘り進んではゐなかつた。
 廊下の暗いところで涙などを流してゐた。
『何を泣いてゐるの……。京などいつまでゐたとてしようがないではないか。それよりも田舍の方が何んなに好いか?』
『でも……』
『でも、お前は京の方が好いと言ふの?』
『だつて折角京のことがわかつてまゐつたのですもの……』
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
 藤はそれでも頭を振ることを止めないのであつた。藤は何んな生活でも、田舍の草深い中にくらしてゐるより京の方が好いと言ふのであつた。御門や后の宮の御車を見ることか出來るだけでも好いといふのであつた。かの女は別れて行くことを悲しんだ。
 思ひのまゝにならない世の中だといふことを呉葉はつくづく感じた。何處に行つたつて思ひ通りに幸福に滿ち足りて暮してゐる人達はない。そこにも此處にも悶えがある。不滿がある。悲哀がある。御門をはじめとして、后の宮にも、局にゐる人達にも、また大きな邸を構へて前を追うて暮してゐる人達にも、やはり滿ち足らぬ悶えがある。呉葉は藤の心持の中にその身の悲哀が深く雜り合つてゐることを思はずにはゐられなかつた。曾て窕子が『それがお前、この人間の世の中といふものだよ』と言つた言葉が染々呉葉にも思ひ出された。
『それでは――』
『健かに』
 かう互に言ふ言葉がやがて藤と呉葉との間に取交された。
 藤は母親に寄添つて、止むを得ずに、窕子にも家の人々にもわかれを告げて出て行つた。
 窕子もそれを廊下のところまで見送つて行つたが、やがてそこからもどつて來た呉葉に向つて、『うらやましいね、田舍の靜かなところに行けるのは?』ふと呉葉の眼に涙が一杯にたまつてゐるのに目をとめて、『お前も、田舍に歸りたくなつたのね?』
『…………』呉葉の眼からは涙がほろほろとこぼれ落ちた。
『お前の心持はよくわかるよ……。でも、私を捨てゝ行つてお呉れでない、ね、ね……』と窕子はその顏を覗くやうにした。野から山へと青嵐をわけて歩いて行く藤母子の姿が今しもはつきりと二人の眼に映つて見えた。
『本當にお前は私を捨てないでお呉れ……』
『…………』
『ね、ね』
 窕子は重ねて言つて、『いつか、その中一緒に觀音さまにお詣りする時が來るだらうから、その時はお前の田舍にも行つて見たいと思つてゐるのだから……』
 呉葉は涙を歛めて、
『勿體ない……』
『お前にゐなくなられたら、それこそこの身は何うしたら好いかわからなくなるのだから。それは母者はよう見舞うて呉れるけれども、本當に私の心を知つてゐて呉れるのはお前ばかりだからね。……田舍も戀ひしいだらうけども……』
『勿體ない……』
 呉葉は別な意味でまた涙組ましい心持になつて行つた。主從と名には呼ばれてゐるけれども、同胞にも劣らないやうな窕子の平生のいつくしみがそこにありありとくり返されて來た。
『その中にはお前にだつて好いこともあるだらうし……、あのやうな殿でも、今に一の人にならぬとも限らぬし……』
 呉葉は言ひかけた窕子を遮つて、
『もう、もう、そのやうなことは仰有らずにゐて下さいまし……。この身は初めからさう思つて此處に參つて居るのでございますから……。この身は一生お傍は離れないつもりで居りますほどに……。ただ藤の母親に逢つて、あちらのことをきいたりしたので、田舍がこひしうなつたのですけれども、それは深く思うてゐるわけでもござりませぬほどに……』
『ほんに、さうしてお呉れ……。お前なしでは、とてもこの世の中の心の荒波はわたつて行けないのだから。……とても……とても……』
 窕子も袖を面にあてた。
『本當に心安うおぼせ――私のやうなものが今になつて田舍にかへつて行つたとて何になりますものか。田舍のものがもはや相手にしては呉れませぬほどに――この身はいつまでもお傍に――』呉葉もいろいろなことを思ひ出したといふやうにして泣いた。

         二二

 長雨が降り續いて、町の通りも深い泥濘になり、網代車や絲毛車の大きな輪が、牛かひや牛やそこらを通る人だちに泥を飛ばせた。通りは跣足でなければ歩けないので、めつきりと人通りが減つた。大比叡の裾が少し明るくなつたと思つたのも、それもほんの纔の間で、また雲が蔽ひかゝつて、しとしとと雨が降り頻つた。
 窕子は物忌を違へるために、里の家の方へと出かけて行つたが、その雨のために容易に戻つて來ることが出來なくなつた。
『もはや雨師の杜に勅使が立つさうだ――』
『ほんに、かう長雨がつゞいては、洪水が出て困る……』
 さうした話がそこでも此處でもくり返された。何でも山崎の向うの方は、水と岸とが同じぐらゐの高さになつて、今にも土手が切れさうなので、舟の往來すらも禁められてあるなどといふ噂が傳へられた。折角植ゑた稻が全く水の中に浸つてしまつたところなども到るところにあるといふことであつた。
 不圖窕子はある事を耳にした。
『それはほんと?』
『ほんたうでございます』
 何處からか聞いて來た呉葉は、かう言つてあとを殘した。
『でも登子の君がそのやうなところにゐるといふのは?』
『ですから、この身も何うかと思つて始めは本當にしなかつたのでございますが……やつぱりまことでございます。何でも、一時、身を忍ばせてゐらるゝのださうでございます……』
『でも、西の邸と言へば、すぐそこぢやないか。それに、あそこは大殿がおかくれになつてから、草が茫々と生えたまゝにしてあるといふぢやないか。それなのに……』
兼家や中宮の妹で、御門にさへ思はれてゐる登子の君が、そのやうな廢屋に來てゐようとは窕子には容易に信じられなかつた。
『でも本當でございます』
『お前、誰に聞いた?』
『さつき、下のものが何かこそこそと話しては、大事でもあるやうに致してをりますから、何うしたのかと思つてきいたのでございます。さうしたら、末の君だつて申すぢやございませんか。それも内所にして置かなければいけないので……それで――』
 呉葉は聲を落した。
 つい今から一月ほど前、式部卿の宮の突然の死は、京の人達の耳を驚かした。窕子は中でもことに驚いたもののひとりであつた。かの女は一番先きに登子のことを考へた。つゞいて兼家がやつて來た時、それとなしに聞いて見た。しかし何うしてか兼家もはつきりしたことを言はなかつた。『さア、それはわからぬが、そのやうなことはあるまいと思ふな? 平生がお弱い方だつたから、急に風邪を引いたのがもとになつたのらしいな。そのやうなことはあるまい。失戀して自づから死んだなどいふことはあるまい……。宮はさういふ風に意志の強い方ではなかつた』などといくらか他にそらすやうにして言つた。登子のことに關しては、『まア、そのやうなことはあまりに深くきかぬ方が好いな……』かう言つただけで兼家はそのまゝ口を噤んで了つた。
 しかし世間ではいろいろなことを噂した。御門の戀の犧牲になつたのだなどと言つた。宮の死はおそれ多いが自ら藥を飮ませられたのだなどと言つた。
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