道綱の母
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著者名:田山花袋 

 深く經に讀み耽れば耽るほどその聲の調子には一層眞面目な物狂ほしさが加はつて、僧ばかりではなく、その御堂の空氣の内にもこの世ではないやうな何物にか憑かれたやうな重苦しさと眞面目さとがあたりに滿ちた。
 一しきりの讀經が濟んで、親しくしてゐる僧の房へともどつて來た時には、窕子はほつとしてため息をつくほどだつた。かの女は誰か同じ參籠者が持つて來て壁に頼りつけた畫障などをあちこちと見て廻つた。その室からは深い谷が覗かれて、下では谷が微かに鳴つてゐる。冬の山はさびしく、樹の枝もあらはに、若い僧の話では、鹿がついそこの山まで出て來て、その鳴く聲がいつも笛のやうにきこえるなどと話した。
『かういふところにゐたら、身の苦しみもあるまい……』
 こんなことを思はず窕子が言ふと、若い僧は笑つて、
『この身はまた都にゐたら、何んなに好いかと思ひます……。それはこの二三日は賑かですけれども……誰もゐない時は、冬は……それは山はさびしうございますでな……。あなた方は都にゐられて羨しい』
 かう言つて笑つた。それは眉の美しい、可愛い、色の白い、莞爾しながら絶えず無邪氣に話すやうな若僧であつた。母子の間には先きの帝の内親王がさうした若い僧の佛に仕へてゐるのに感激して、何うかしてその身もさういふ淨い身になりたいと言つて、帝にも誰にも告げずに單身で大比叡にのぼつて髮を剃られた話などが出た。そして、『あゝいふ若い可愛い僧がゐるのだから、さう思はれたのも無理はない』などと母親は言つた。窕子はそれは母親には言はなかつたけれども、その身にしても、もしさういふ淨い身になることの出來る身だつたら、それこそ何んなに好いだらう、何んなにすがすがしくつて好いだらうなどと思つた。
 夜の御堂に出かけて行つて、そこで同じやうな讀經を一ときほど聽聞したが、あまりに夜の山が寒いので、房へ引返して寢るつもりで、そこを出た時には、雪がもう盛に降り出して、一緒に案内して呉れた僧の持つた松明に小さい大きい雪片が黒く落ちては消え落ちては消えた。
『えらい雪になりました……』
『本當に……』
『これは困つたのう? これでは、あすは何うなるやら? 雪に降られてはもどれぬかも知れぬ』
 これは窕子のあとから出て來た母親だつた。
『これはあすは大雪だ』
 松明を先へ翳し翳し、若い僧は足場のわるい路を先に立つた。雨具の支度はして來なかつたので、房まで行く間はいくらもないのであつたけれども、それでも窕子の髮も衣も白くなつた。房の扉のところに來て窕子はそれを母親に拂つて貰つた。
 果して明くる朝は大雪だつた。山も谷も埋むばかりに雪は降り頻つた。樹の枝はたわわに、溪の水の音も微に微に谷の底に鳴つてゐるばかりだつた。戸をあけた縁の中まで雪はふり込んで來た。
『まア、大事ぢや』
 母親は困つたといふやうにしてじつとそこに立盡した。
『まア』
 窕子もかう聲を立てた。
 しかし見たいと思つたとて見られぬ山の雪ではないか。深い山が既にこの世のもだえを、くるしみを、悲しみを隔てゝ來てゐるのに、更にこの大雪がそれを遠く隔てゝ了つたのは、窕子に取つて一層嬉しいやうな氣がした。かの女は始めて思ひのまゝにならない世間以上に更に思ひのまゝにならないもののあることを感じた。(何うにもならない、何うにもならない! いくら思つたつて、いくらもだえたつて何うにもならない、人間は、人間は小さな、小さな身なのだ……)窕子はその身の哀れさを――遠くに行つた父親を慕つて何うにもならず、微かに昔の戀心をたづねても何うにもならないその身のあはれさをつくづくと身に染みて感じた。かの女はその心もその苦しみもそのもだえもその悲しみも皆なこの大雪の中に埋めつくされて了つたやうな氣がした。
氷るらん
横川の水に
降る雪も
わかごと消えて
物は思はし
 かの女の胸に簇り上るやうにしてかうした歌が出て來た。雪は降り頻つた。

         八

『だつて二日も三日も待つても、あなたはお出なさらなかつたぢやありませんか』窕子の顏には男に對する勝利の色が歴々と上つて見られた。
『それで何處に行つたのだえ?』
『何處でせうかしら? 屹度、屹度、あなたなどの御存じない好いところでせう。』
 いつもに似合ず女のわるくはしやいでゐるのを不思議にして、兼家は何か言はうとしたが、よして、そのまゝじつと窕子の顏を見詰めた。
『…………?』
『だつて、ちやんと書いて置いたでせう。いくら鶯が好い聲で歌はうと思つて待つてゐたつて、それを聞いてくれる人が來なければ、何處か他に行つて、それをきいて貰ふより他に爲方がないぢやありませんか……』
『それはわかつてゐるよ、お前の歌でわかつてゐるよ。知られねば身を鶯のふり出て啼きてこそ行け野にも山にも……。その心待はよくわかつてゐるよ。だからすまないつて言つてゐるぢやないか』言葉を強くして、『本當に何處に行つたんだ?』
『知らない……』
『自分の行つたところを知らずにゐるものがあるものか? 洞院の辻?』
『さうかも知れませんね……』
 窕子はまた勝利者のやうにして笑つた。洞院の辻には、かの女が曾てラブしたその大學生が失戀してから伯母の家に深く籠つてゐるのであつた。
 兼家の頭には、まさかとは思つてゐるけれども、それでもその崩れた築土の奧にある家の一間の中が眼の前にそれと映つて見えた。そこにかの女がゐる。この身には話すことを敢てしないことをかれに綿々として話してゐるかの女がゐる。曾てちよつと加茂の霜月の祭の時に通りすがりにその男を見たことはあるが、それは地位から言つてもとてもその身とは競走出來ないのはわかり切つてゐるけれども、そこにはまた普通では言へない細かい心持などがあつて却つてさうした富貴やら地位やらで強いて女の心を自由にしてゐる身であるだけその相手に對して此方の弱さを感じた。女は――ことに窕子はさういふところに殉情的になる質であるだけ一層それが氣になつた。
 兼家は昨夜來て、窕子がゐないので、いくらかやけ氣味で、女のゐないところにこの樂しい正月を寢たつてしようがないなどと言つて、これからすぐ何處かに行きでもするやうに呉葉達を困らせたが、夜がもはや子の刻を過ぎてゐて何うにもならないので、そのまゝ靜まつて、いつもの一間に夜のものを暖く、裏の竹むらに夜風の騷ぐのを聞きながら窕子の殘して行つた鶯の歌のかへしなどを考へて一夜をすごした。鶯のあたに率て行かん山邊にも啼く聲きかばたつぬばかりぞ。これほど此身はそなたのことを思つてゐるのに、かうしてこゝにひとりこの身を殘して、その美しい聲音をあだし男に聞かせてゐるとは! しかしこの身にもわるいところがないではなかつた。一昨日來れば好かつた。あゝいふ女の僞り心にひかれなければよかつた。あゝいふ女は――あゝいふ女は、そこまで考へて行つて、兼家は男にも女を責める資格のない身であることを深く考へた。曉近く厠に出て行つた時には、月が明るく竹むらを照して、手水盤の水が銀の匝器のやうに厚く氷つてゐた。
 そのあくる日であつただけに、窕子が午前に莞爾しなから歸つて來たのがかれはことに嬉しかつたのであつた。
『教へて上げませうか?』
『教へて呉れ!』
『やつぱりあそこよ。洞院の辻よ。あそこで大勢集つて詩の會をしたのよ。』兼家の顏のわるくむづかしげになつて來るのを可笑しげに見やつてゐたと思ふと、急に噴き出して、『本當はうそ! 稻荷に行つたのですよ。そしてあそこの禰宜の伯父の家に母と泊つたのですよ』
『本當か?』
『本當ですとも……。それだましてやつた! あの顏は! 呉葉も見よ?』窕子は聲を立てゝ笑つた。身を崩さぬばかりにして呉葉も笑つた。
『人を馬鹿にしてゐる!』
『だつて……』女達は餘程可笑しかつたもののやうに猶も止めずに笑ひ立てた。

         九

 さうした笑ひやら悲しみやら戀ひしさやらもだえやらの中にも、いつか新しい生はそのさゝやかな呼吸をその美しい母親の體の中で息つき始めた。と、母親の蛾のやうな黛にはいつか深い惱みが添ひ、人知れず几帳のかげでため息が出で、當然味はなければならないこととは言ひながら、その身にもたうとうさうした女子の運命が來たといふやうなことがたまらなくかの女を感情的にした。かの女は春から夏になつて行く間の期間をその靜かな一間で憂鬱に暮した。曇つた日のもだえ、雨の日の悲しみ、おぼろ月夜の花の下のうれひ、ことに、何うしてか山吹の花の黄色いのが深く身に染みて、縁に近くそれの花びらの白くなつて散つて行くのを見ると、たまらなく悲しい氣がした。何うしてかういふことがあのやうに母親や兄達を喜ばせたのだらう。さういふ人達は身がはつきりときまつたと言つて喜ぶのだけれども、何うしてこれがそのやうに目出度いだらう。この身の若い春は忽ち過ぎて行つて了ふではないか。それも、公に脊と呼び妻と呼ばるゝ身ならば――お互にそれを認めるばかりではなく世間の人達にもそれと認められて、互に縋つたり縋られたり、心が十のものならば互にその半をしつかりと握り持つて、見かはす眼にも、取り合ふ手にも、竝んで行く姿にも、朝夕の起居ふるまひにも、片時もさうした心の添はずにゐないことのない身ならば――それならば、この生るゝ兒も仕合せに、目出度いと祝はれても好いけれども、その身は浮萍のやうに、根がついてゐながら何處についてゐるのやらわからず、またいつ根が絶たれて了ふのやらわからず、縋るべき人には他にも澤山にさういふ人達がゐて、口では眞面目なことを言つてこの身を慰めて呉れるけれども、門外一歩を出れば、何處に何ういふ美しい人がゐて、かの人の心を忽ちに蕩かせて了ふやらわからず、それを思ふと、その身ばかりか、生れて來る兒もやはり不仕合せであることを思はずにはゐられなかつた。かの女は何ぞと言つてはよく眼の縁を赤くしてゐた。
 それに、つはりが人一倍強くかの女を襲つた。手水盥のところに行つて物をもどした。また物のにほひがわるく鼻につくと言つては厨の人達を驚かした。沈丁花の咲く時分から、平生好きであつたそのにほひが反對におびたゞしく嫌ひになつて、『呉葉、この花のにほひは昔からこんなにいやなかをりであつたかしら? あの廉いわるい香にそのまゝではないか』などと言つた。
 從つて身じまひなどもおろそかになつて、殿の來た時にもわるく髮を取亂してゐたりなどした。それでも殿には別にそれが氣にもならないらしかつた。否、むしろさうした取揃はない美しい女子の惱みは、海棠の雨に逢ひでもしたやうにかへつてその心を惹くらしく、またその體の中にその戀心のかたまりの呼吸つきつゝあるのを思ふとたまらなくいとしさがまさつてでも來るらしく、ひたしめに窕子をしめたりなどすることもあつた。
『男子といふものは、何うしてさう我儘で、薄情で、他のことなど何とも思はないのでせうね?』
 窕子はある時じつと兼家の顏を見つめるやうにして言つた。
『何うしてそんなことを言ふのだえ?』驚いたやうに兼家は言つた。
『私達の心は男子とは違ひますね……。もつと眞面目で、そして清淨ですね。何んなに戀しくつたつて、それを押へられないといふやうなことはありませんからね。……』窕子は深く思ひ沈むやうに、『でも女といふものは、さういふ風に生れる時から出來てゐるのかも知れません。綺麗な美しいことばかり考へてゐるのですから……。男女の仲にしても、心だけで十分に戀が出來るやうに出來てゐるのかも知れませんから……』かう言ひかけてたまらなく悲しくなつたといふやうに、衣の袖をかつぐばかりにして泣き伏した。
『何うしたのだ!』
 兼家はむしろあつけに取られたといふやうにしてその傍に身を寄せた。
 窕子の涙は容易にとゞまらうともしなかつた。たしかにかの女はヒステリカルになつてゐた。呉葉などがやつて來てやつとなだめて身を起した時には、眼は赤く腫れ、髮は夥たゞしく亂れ、惱ましげな姿が一層男に愛着の念を誘つた。『お中の子が私に似て泣虫なのかも知れませんね』こんなことを言つて窕子は莞爾笑つて見せた。

         一〇

 梅雨が幾日か續いたあとには、くわつと夏の日が照つて紫陽花がその驕女らしい姿をそのあたりにはつきりと見せた。
 もとの右大臣の御靈がゆくりなく京のひとりの少女子に憑いて、紫野の向うの北野の小松原の中に住みたいといふ託宣があつたので、それが大宮の奧をも動かして、その年の秋に取敢へず小さやかな宮をそこにつくることになつたが、今年は始めて天滿天神といふ謚號が贈られ、社も宏壯に改築されて、皆人がぞろぞろとそこにお詣りに出かけた。窕子は是非そこにお詣りしたいと思つたけれども、もはやお中が大きくなつて、とても牛車では行かれぬので、たゞその賑ひの氣勢のみを他から聞くことに滿足しなければならなかつた。そこに、窕子の代りにお詣りに出かけて行つた呉葉はもどつて來て、『それは賑かでございました。野道が一杯人で埋まつて、御社のあたりには、餘ほど何うかしないと近寄れないくらゐでした。それに、今日源民の判官が家の子郎黨をあつめて參詣に來て居りましたので、鎧兜が見事で、キラキラと日に光つて、それは本當に見物でした』などと話した。
 それに窕子に取つて嬉しかつたのは、遠くに行つた父の許から安着の報知の來たことだつた。その中には白河の關や安達の鬼塚のことが書いてあつて、とても女子の身では來たいにも來られぬところだなどと書いてあつた。
 八月になると、さしもに凌ぎがたかつた炎暑も次第に凉しくなつて、愛宕から北山にかけて秋の白き雲が靡き、垣根には虫の聲がすだくばかりにきこえた。中秋近い頃には、大内裏で歌會や詩會があつたりして、兼家は忙しさうにあちこちと出かけたが、それでも大抵はちつとでも來てかの女を見舞ふことを例にしてゐた。
 ある夜兼家が行くと、呉葉は飛んで出て來て、
『あ、ちやうどいらしつた。今、お使ひをさし上げようと致してをりましたところでございます……』
『物したか?』
『すこやかな、美しい、それはそれは玉のやうな……』
『男子か?』
『さやうで御座ります』
『それは好かつた……何うかと思うて案じてゐた……。母君は?』
『あちらにゐらつしやれます』
『苦しみはせざつたか?』
『あまりさう深くはお苦しみにもなりませんでした。巳の刻あたりから、さうした氣ざしはございましたけれど……ほんにさし込んでゐらせられたのは申の刻あたりからでございます』
『好かつた、好かつた――』
 そこに母親がやつて來た。母親の顏にもよろこびが溢れてゐた。
『別に……』
『二人ともすこやかで、今よく眠つてをります……。今、使を出さうと存じましたところでした……』
 眠つてゐても、こつそりでもそれを覗はずにはゐられないといふやうに、母親や呉葉の頻りに氣を揉むにも拘らず、兼家はそつとその産室を覗いて見た。そこには几帳が兩方から重なるやうに置いてあるが、灯の光がさう大して明るくないので、そこらに置いてある夜のものなどははつきりとは見えなかつた。たゞかれは髮のいつもに似ず白い紙で結ばれてあるのと、向うむきになつてぐつすり眠つてゐるのと、その襟から横顏だけがほのかに白く見えてゐるのと、その向うに今生れたばかりの小さな色の白い、それこそ本當に玉のやうな、髮の毛の黒く濃い赤兒が、その方は少しさめて、眼こそまだ明かぬが、口をもがもがさせてゐるのを兼家は眼にした。已にかれには邸の妻にも、女房にも子供がないではなかつたけれども、それでもその愛してゐる窕子であるために一層その生れた兒がもつと詳しく見たいやうな氣がした。
 かれは几帳の中まで入つて、いぎたなく眠つてゐる窕子を覗いた。
『殿! 殿!』
 そこに呉葉が來てとめた。かれは微笑を浮べながら引返した。

         一一

 産室から出てまだ一月とは經たないほどのことであつた。窕子は兼家の何處かに出かけたあとで思ひもかけないものを發見してはつとした。
 それは螺鈿の文箱の中に、ごたごたと懷紙やら短册やら紙やらが一緒に亂雜に入つてゐるのを、別に疑ふといふやうな氣持もなしに、むしろあまり散ばつてゐるからそれを整理しようぐらゐの心持でその中をあれこれとそろへてゐたのであつた。そこにはかの女の書いた反古もある。兼家の達者な字で書いた文もある。ふと、氣が附いた時には、窕子の眼はその文に燒附きでもするやうにぴたりと留つた。
 女は誰だかわからないが、その文言は何う考へ直してもラブ・レターであつた。それもかなり此方から打ち込んでゐるらしく、例の、この身の時にもさうであつたやうなうまい言葉が、歌が流るゝやうに出て行つてゐるのであつた。いつもなら、何んなことでも呉葉に見せるのが習慣であるのに、今日はそれすら出來なかつた。自分ひとりでこの思ひを深く包んで、兼家が顏を見せたならば、そのまゝ何うにもごまかすことが出來ないやうに、眞劔にそれを打ちつけて、いやでも應でもその女を知らなければならないと思つた。窕子は下唇を何遍も何遍もかたく噛んだ。
 ところが生憎に秋雨が降つたり、大内裏に宮の用事があつたりして、兼家は容易にそこにその姿を見せなかつた。窕子は憂欝な顏をして、いらいらしながら暮した。
『何うかなさりましたか?』
 呉葉は心配した。
 ところが、三日目の午後にそんなことが家に待つてゐようなどとは夢にも知らずに、莞爾しながら機嫌よく兼家がやつて來ると、いきなり、
『あなた、これは?』
 と言つて、嫉妬と恚りとで半ばもみくちやにされた、緑色の文をそこに出した。
『何だえ?』
『おわかりでせう! 覺えがあるでせう?』
 それの何であるかを知つた兼家は急に狼狽へて、
『何うしたのだ……』
『何うしたもないではござりませぬか。かういふ女子が何處にゐるのでございます……』
『それはいたづらに書いたのだよ。そんな女はゐやしないのだよ』
『うそをおつしやいませ、ちやんとやるばかりになつてゐたのでございますもの……』
『何處にあつた?』
 かう言つた時には、兼家の顏にはいくらか笑ひが上つて來てゐた。
『それ、御覽なさい……』
『本當に何處にあつたのだ』兼家はその女にやる文を何處かに亡して了つたので、その時あちこちをさがしてもないので、それに途にでも落して了つたのだくらゐに思つてゐたのであつた。
『さうか、此處の文箱にあつたのか。それはわるかつた……』
 かう言つて手早く窕子の持つてゐる文を奪はうとした。
『駄目ですよ。』
 窕子は笑つて、『それよりも本當に誰です? この人は? 何かまた身分のわるいものにでも出會したのではありませんか』
『大丈夫だよ』
 いくら窕子が責めても流石に兼家はその女のことを言はなかつた。
 しまひには窕子の眼から涙が流れた。そこに呉葉がやつて來た。その話をきいて呆れたやうな顏をして兼家を見詰めた。
『あんなお可愛い男のお子がお生れあそばしたのに……殿達といふものは……』
『女は何うせおもちやにされてゐるのですから……だから、呉葉、この間もそちには打明けなかつたが、つくづく思うた。女にはやはり子供ばかり……かう母者人がよく言はれたが、不思議なことを言ふと思うてゐたが、やはりその通りぢゃ。今はじめて思ひあたつた……』窕子は呉葉の手からその可愛い道綱を抱き取つた。
『まアそのやうなことをきつう言うて呉れな……かういふ可愛い男の子さへ出來たのだから、もう案ずることは少しもない……』
『それはさうでございませう。案ずることはございますまい……。女子を餓えさせて置くやうな殿達もございますまいほどに……。しかしそれだけで滿足してゐる女はありませうか? のう呉葉、お互に深く思ひ合ふほど、さうしたことは出來ない筈でございますのに』窕子の言葉には深い絶望の調子が加はつて行つた。
『殿はそのつもりで居られたのではござりませぬか。唯一たよりにする父親には遠く離れて、不憫だとは思召さぬのですか。この身はいかやうにもこの眞心を殿に捧げてゐるつもりですのに……』
『まア、好いよ』
 兼家の額には汗がにじみ出した。かれにしても窕子を腹立たせたり悲しがらせたりすることは、ほんのわづかなら好いけれども――却つて愛情の暴漲を來たすよすがとなるけれども、さういふ風に泣かれたり口説かれたりすることは男に取つて餘り好いことではなかつた。窕子の怨みや嫉妬を買はない程度でかれは他の女とも遊んで見たいのであつた。
 それから二三日經つたある夜のこと、呉葉は外から入つて來て、窕子の几帳のところに坐つた。
『何うした?』
『やつぱりさうださうでございます。留がそつとついて行つて何處に殿の車は入るかと思つてゐると、坊の小路の家に入つて行つたさうでございます』
『思つた通りだね』
『何うして殿はあゝいふ風に水心でゐられることか!』
『その坊の小路の女なら、そちは見たことがあるといふたね?』
『え、ちよつと……』
『何んな女子?』
『ちつとも好いことなんかございませんのです。色は白うございますけれど、容色は好いといふ方ではございません、……にくいではございませんか、留がそつと見てゐると、その女子が平氣で殿の車のところに出て來て、何か言つて居つたさうでございます……』
 しかしいくら憂鬱に閉されてゐても、窕子は何うすることも出來なかつた。それに、兼家が久しく見えないこともかの女には氣になつた。思詰めると、このまゝ此身は秋の扇と捨てられて了ふのではないかといふやうにすら思はれた。
 殿達に取つては、坊の小路は此上もない歡樂の庭であるらしかつた。灯が明るくついて、子の刻を過ぎても、醉ひしれたりざれ戯れたりする男や女の聲があちこちにきこえた。そしてそこで酒を飮んだり女と戯れたりして、明方近く牛車の音ががたがたとあたりにきこえた。
 兼家にしても、坊の小路に出入りするやうになつてから、いつも曉にその車を窕子の家に寄せるのだつた。それでもさうして車を寄せて來るだけがそなたを思うてゐる證據ではないか。かうして來るところを買つて貰はねばならぬ。『女子などはたゞ酒の相手にするだけぢや、何もするのぢやない……』いつもこんなことを言つてその酒臭い顏を窕子に寄せた。
 二三日經つてから、あけ方に戸をコトコトと叩く音がした。たしかに兼家が車をその築土に寄せたのであつた。しかし窕子は腹立たしく思つてゐることがあつたので、じらせてやるつもりで、その戸を明けようともせずにじつとしてゐた。
 頻りにコトコトと音がした。つゞいて何か牛かひと話してゐるやうな氣勢がした。何うするだらう。いつもならばもつと強く誰か起きずにはゐられないくらゐに叩くのに、それもせずに、そのまゝ車をあとへもどして行くやうである……窕子は半ば身を起して、その車の音の向うに微かになつて行くのにじつと耳を傾けた。何とも言はれないかなしさが強くかの女の全身に襲つて來た。
 たしかにあそこに行つたに相違ない。それと知つたならば、じらせなどせずに、そのまゝすぐ戸を明けてやればよかつた。この身もわるかつたのだ。かう思ふと一層ひとり寢のさびしさが身に染みた。
歎きつゝ
ひとりぬる身の
あくる間は
いかに久しき
ものとかはしる
 夜が明けたらば、この歌を書いて兼家のもとに送らうなどと思ひながら、窕子は明方まで眠れなかつた。
 
         一二

 朝になつてそれを見事に短册に書いて、うつろつた菊にさして使のものに持たせてやつたが、兼家からはかへしがなかつた。それから猶一日經つてからであつた。實にやげに冬の夜ならぬ槇の戸もおそくあくるに苦しかりけり。そうした歌につづけて、『あの時もう少し叩いて待つて居れば屹度明けるにはちがひないとは思つたけれども、丁度その時急な用を言つて來た使のものがあったので、それで引返して了つた。わるく思つて呉れな……』と書いてある。いつもながら男は勝手なことばかり言ふものだと思ふと、腹が立つて、我知らず下唇を噛んだりしたが、しかも何うにもならなかった。そんなことを荒立てゝ言つて見たところで、男の心を此方へ移すことが出來るではなく、かへつてその状態をわるくするばかりなのはよく知れきつてゐた。それが窕子には心外でもあり悲しくもあり腹立たしくもあつた。此間、内裏に仕へてゐる歌の昔の友達がひよつくりたづねて來て、帝ときさいの宮との間に、此頃みにくい爭ひがあることなどを話して行つたことを窕子は自分の身の上に比べて思ひ出した。それは窕子とはうらはらのことで、何方かと言へばその女御の方にこそより多く同情さるべき位置にかの女はその身を置いてゐたのであつたけれども、それでもきさいの宮の方に一も二もなく同情させられて行つた。『それはきさいの宮がお腹立にならるゝのも當り前だ……。その前でさういふことをされては、誰だとて腹立たしく思わないものはござりますまい……。一體、その女御が餘り出しやばりすぎるからいけないんです。帝も帝だけれども、その帝の寵愛を好いことにして勝手に振舞ふからいけないのです。きさいの宮だつて、平生さういふことはちやんとお心得になつてゐらつしやるのだから、よくよくでなければそんなことはなさらない筈です』などと言つたことをくり返した。何でも帝はその小一條の女御を寵愛のあまり、おん手づから筝をお教へになつたり、歌を賜はつたりするばかりでなく、殆ど目にあまるやうなことをするので、それできさいの宮はいつもそれを夥しく憎んでゐられるとのことであつた。何處に行つても、さういふことは止むを得ないものか。帝やきさいの宮の仲にもさういふことは免れがたいものか。やつぱり女はさういふ時に出會したら、だまつて知らぬ顏をしてゐるより他爲方がないのか。その時その大内裏につとめてゐる友達とこんな話をしたことを窕子は續いて思ひ出した。
『それであなたは宮仕?』
『さういふわけぢやないけども……』
『宮仕はまた宮仕で忘れられない面白いことかあるさうですからね。つまらなく身をかためて了ふよりは、その方が好いでせうけども……』
『でも内裏は面白いこともあるにはありますけれどね』
 その友達は窕子の言葉を半ば否定するやうに、『やつぱり、女子といふものは、嫉妬に苦しんで命をなくすやうな苦しい目に逢ふても、それでもひとりでゐるものではないと思ひますね。色戀は出來ても誰も持たぬといふさびしみ、誰もしつかりつかんでゐないといふ孤獨、さういふことを考へると、内裏などで行はれてゐる色戀はそれこそ水の上に書いた字のやうなものですからね。だから、何んな人でも構はぬ。殿上人でなくてはいけないなど言つたのは、あれは昔、娘であつた時分の虚榮、今はもう何でも構ひませんよ。何方かと言へば、誰も知らぬやうな、唯毎日つとめるところにつとめて、夕方になるとそればかりを樂しみにして歸つて來るやうなさういふ夫だつたら一層好いと思ひますね』
『でも、それは駄目よ。それに滿足してゐられるあなたなもんですか。』
『それはまア、さうかも知れませんけども、まア話にして、さういふ風に考へることがよくありますよ。またあの御門あたりにつとめてゐる男子にさういふのがいくらもあるんですからね……。それを思ふと、平等に出來てゐるのね。』
 窕子は今またそれを繰返してこゝに考へ出さずにはゐられなかつた。

         一三

 兼家もしまひには笑ひながら、『何もそんなに案ずることはあるまい、この身はこれほどそなたのことを思うて居るではないか。普通の道端の花とは思つてはゐないのだから……』
『でも……』
『でも、その相手の名を言へと言ふのか。そなたも隨分嫉妬深い女子だのう……』兼家はわざと大きく笑つて、『この間も歌で此身のこゝろもちを言つて置いたが……。三千とせに見つべき君は年ごとに咲くにもあらぬ花と知らなん――それが本當のこゝろだ……』
『それはわかつてをりますけども、それでも……』
『それでもきゝたいのか、困つた人ぢやのう……』むしろ心安げに、それを打明けるのも面白くないこともないといふやうに、
『坊の小路に行つてあそんで來るだけぢや』
『相手をなさる女子は?』
『大勢居るよ』
『でも、殿の御氣に召した女子は……?』
『そんな女子の名を言うてきかせたとて、そなたにはわからぬではないか。あゝいふところは、酒の相手をさせるばかりで、さう深うはならぬものだ。』
『あのやうなことを……。そんなに好い加減に仰有つても、ちやんと存じてをります。あゝいふところはそれは面白いのでございますつてね……』
 兼家の眼にも、窕子の眼にも、その坊のさま――外は靜かで、暗くつて、通りから見てはさうした光景がそこにかくされてあるなどとはゆめにも思へないやうなところであるけれども、その闇の巷路を五六歩入ると、そこに全く違つた夜の光景がひらかれて、其處にも此處にも置かれた結び燈臺の光が、髮の長い、色のくつきりとぬけるやうに白い、普通上流の女達の着けるものとは違つた、派手な襲ね色の或は紫に、或は紅に、縹色に、銀色にかゞやいた衣裳を着けて、それもだらしなく、几帳などは横さまにして、戸口まで出て迎へて行つたりする女達を見るのであつた。否、もう少し中に入つて行くと、室が奧から奧へと二つも四つも連つてゐて、その室毎にさうした女と狩衣の袖を亂した男とがゐて、たまには女が聲張上げて歌をうたひ、それにつれて傍にゐるやゝ年老いた女が琵琶を彈き、男は男でその頃流行る小曲を歌つた。
挿櫛は十まり七つありしかど、
たけくの縁の朝にとり
ようさりにとり、
取りしかは、
挿櫛もなしや。
 これに似た小曲がいくつもいくつも男の口から出て來た。後には男と女と一緒に立つて舞つたりなどした。あとからあとへと女童は提銚子に酒を入れたものを運んで來た。窕子は何うしてさういふ坊の小路の光景を知つてゐるかと言へば、かの女はつい今から二月ほど前、兼家がそこで現をぬかして遊んでゐるといふのを聞いて、家の男の子につれて行つて貰つて、そつとその闇の中に俄かに蜃氣樓か何かのやうにあらはれて來る賑かなさまを覗いたのであつた。成ほど男達が坊の小路、坊の小路と言つてそれを大騷ぎするのは無理もない、女の身で見てさへこのやうに面白いのだものとその時窕子は思つたことをくり返した。
 で、男はそこで女を相手に終夜遊び散すらしいのだが、女房達の局の内や、琴、笛の夜の會などとはまた違つて、碎けた、氣の置けない、のんきな歡樂のそこにあるらしいのが窕子にもわかつた。窕子はそこを通る時、面がほてつて爲方がなかつたことを思ひ起した。じろじろと見られたゞけで、別にわる口らしい放言は浴びせかけられなかつたけれども、何うして女の身でこんなところまで入つて來たらうと後悔したことを思ひ起した。ことに、暗い一室に、結び燈臺も細々としかともつてゐない一室に、二人の男女が身を寄せ合うて打伏すやうにしてゐたさまが、今でもはつきりと眼の前に浮んで來た。窕子はいくらか心が焦立つて來た。
『あなたには、あそこでも、もう、ちやんときまつた方があるのでせう?』
『ありはせぬよ』
 兼家の笑顏は却つてその反對な心持を裏切つた。
『隱さなくとも好いではございませんか。今度、この身をもそこに伴れて行つて逢はせて下さい………』
『よし、よし、そんなに行つて見たいなら伴れて行つて逢はせてやらぬこともない』などと言つて、兼家は却つてそれを肯定するやうに言つた。
 これに限らず、ずつと前から、兼家の好色の噂を、窕子は何彼と聞いて知つてゐるのであつた。兄の攝津介は此頃は伴につれて行かれたりなどするので、もはや此方ばかりの味方にして置くことは出來なかつたけれども、それでもその言葉の端からいろいろなことがわかつた。女房の局の方にあるのは、もはやかなりに深いらしく、その女は地位もその身よりは好く、何ぞと言つては却つて窕子のことを問題にしてゐるらしく、此方に可愛い男の兒が生れたのを兼家はそこにはひたかくしにかくして置いたのを、ある時誰れかがそれを知らずについ口を滑らして了つたので、それを死ぬほど嫉妬して、しまひには此方を呪はうとさへしてゐるのを窕子は耳にした。しかしその局の女に對してはかの女はさう大してやきもきしてはゐなかつた。かの女はその女を曾てそつと見たことかあつた。美しいには美しいにしても、とてもこの身に及ぶべくもないと思つた。窕子は優越感を十分に感じた。この他にも藤壺の侍女の中に兼家が深く思をかけた女のあることを窕子は聞いた。
 可愛い子供が出來ればそんなことはなくなる。それは兼家の方のことを言つたのか、それとも自分の方の心のことを言つたのか。まだ子供が出來ない中には、それは無論兼家の方のことを言つたので、さうなればひとり手に愛情が此方に移つて來る。可愛い子の愛にひかされてひとり手に足が此方に向くやうになる。さう思つてばかりゐたのに、子供が出來てからは、それはさういふ意味ではなくて、單に此方の心持――子供の愛に慰められて、さうした男の好色をも堪へ忍ぶやうになるといふことであるといふことが窕子にも次第に飮み込めて來るやうになつた。(男の心には女があるばかりだ……)窕子はひとり寢の夜など唇を噛んでかう獨語した。この人の世のことが年を經るにつれて次第にぴたりと身に觸れて來るのを感じた。

         一四

 兼家の行列はいつも大内裏から西洞院へと下つて行つた。それは普通は東三條の邸へと行くのが常であるが、ともすると、それが堀川の方へ行つたり、また時には西の京の荒れ果てた町の方へと行つたりした。窕子の邸に來る時には、それがすぐ向うの長く續いた築土のところで一先その警衞の聲が留つて、そこで列を碎いて、先に立つたものが二三人、それも大抵はいつもきまつて鼻の際立つて大きい肥つた下司がふくみ聲で、『お出でます、お出でます……』と先觸するのが例になつてゐた。と、いままでひつそり火の消えたやうになつてゐた家の中が俄に活氣づいて、下司も侍女も厨の女も忽ちにして忙しくなるばかりでなく、呉葉もそはそはと門のあたりを行つたり來たりして、そこに靜かに鷹揚に一人二人の供を伴れて兼家が狩衣姿で入って來るのを迎へた。
『お出でます――』
 かう言つて呉葉は丁寧に、さもさも自分のことでもあるやうに嬉しさうに莞爾して迎へるのが常であつた。
 奧にゐる窕子にもその來る來ないがよくわかつた。申の下刻をすこし過ぎたと思ふ頃には、きまつてその大内裏から下つて來る警衞の懸聲がそれとなくはつきりきこえるのであつたが――他にも九條殿だの、小三條の殿だのの警蹕もないではなかつたけれども、それは長年の習慣で、その懸聲の調子や何かで、今のは誰? といふことがはつきりとわかるのであつたが、その角のところでとまるか何うかといふことがいつもひそかに窕子の頭を惱ました。從つて窕子は内の誰よりも先に――主人に此上なく忠實な呉葉よりも先に殿の來るか來ないかがわかつた。
『あ! 行つて了つた……今宵も來ない』かう何遍かの女は口に出して言つて失望したか知れなかつた。その行列がサツサと行つて了へば、それが最後で、あとは秋の長夜を、さびしい獨寢の長夜を、虫がすだいたり月がさしたりまた時には雨が烈しく心細く降つたりする夜をひとりさびしく送らなければならないのである。かの女はそれを考へるといつもうんざりした。また一夜眼をさましていろいろなことを考へなければならないのか。それもたゞ眠られぬといふだけならまだしもだけれども、あだし女子と何處で何うして寢てゐるであらうか、またあの坊の小路だらうか、それともまたこの頃出來たといふ河原の邸だらうか、そんなことを考へると、自分の家にとまつた時のことに引きくらべて、忽ち赫とならずには居られないのであつた。此の身の當然すべきことを他の女子がやつてゐる。それだけでたまらなく身内が削られるやうに業が煮えて爲方がないのに、この虫の音をも向うではさびしとはきかず、この月の光をも盃に受けて竝んで夜を更してゐると思ふと、ゐても立つてもゐられないやうな氣がした。
 であるから、そこで、その角で、その警衞が留るか否かといふことは窕子に取つては大きな問題だつた。かの女はじつとしてその時の來るのを待ち、またその時の過ぎるのを待つた。そして過ぎて了ふとかの女はがつかりした。後には呉葉と顏を合わせることがきまりわるくなり、それが昂じて、さう深く自分の身のことでもあるかのやうに案じて呉れることに一種の腹立たしさを感じて、ある時などは、『お前、もうそんなにハラハラ思はないでおいておくれよ、だつて、お前のことぢやなし、私のことなんだから。來たつて來なくたつて、一々そんなことを氣にしては生きてゐられはしないよ……。來たくなければ來なくつたつて、何もそんなに氣を揉むことはないよ』などと不機嫌に當り散らした。そのくせ、窕子は來ない日の續くのをいかにもさびしさうにたれこめてのみ暮すのだつた。
 それでも何うかすると、その警衞の行列がぴたりと留つて、鼻の大きいその含み聲の下司が、『お出ます、お出ます……』と言つてバタバタと入つて來た。
 しかし此頃では窕子の心はわるくすねるやうな形になつて行つてゐた。來て貰つて嬉しくないことはないのだけれども、それを無邪氣に面にあらはし喜ばしさうにするといふのは、何となく自分の心を卑くすることで、それでは女としての意地も張りも何もないやうな氣がして、わざとツンとしたやうな顏を見せることが多くなつた。さうでなければわるく素氣なく取扱つて一夜後向きになつてすゝりあげて見せたりなどした。
 さういふ夜でも窕子はいつか兼家の腕にまかれて、すゝり上げながらだらりと長い黒髮を屍でもあるやうに亂がましく下に垂らしたりなどした。
 朝になつて兼家は呉葉に言つた。
『何うも困る女だね』
『だつて、殿がおわるいのですもの……』
『それはさうだらうけれども、よく言つて置いて呉れ……。決して何うのかうのと言ふのではないのだから、此頃は少し忙しいのだから、それに、此間は物忌になつたりして、こもり勝ちに暮してゐたものだから……』
『でも、お忘れないやうに――近うお出下さるやうに――』
『わかつた! わかつた』
 他の女のことをあまり手ひどく嫉妬されるのはそれは好ましいことではなかつたけれども、しかしさうした女のヒステリカルな感情が、男に一種の興味を齎らすことには間違ひがなかつた。兼家に取つては、何處に行つても窕子のやうな女は見出せなかつた。從順と謙遜と虚僞とのみにかれは倦んでゐた。
 かれはそのあくる日大内裏のあるところである若い殿上人にこんなことを言つた。『御身なんかにはまだ女のことなんかわからないね……。局の女房達のところだつて大したものではないしね。坊の小路だつてちよつとは面白いけれども、あれだつて、しまひには底がわかつて了ふし、やつぱり戀は向うの相手の如何だと思ふ。御身はまだ女の一夜泣いたのを介抱したことがあるかね? あるまい? さういふ面倒なところに面白味があるのが戀だよ。やつぱり女は女だからね。いくらすねて見せたつて、やつぱり男のものだからね。だから、嫉妬する女にも面白い一面があるよ。たうとう一夜一睡も取れなかつた……。それで今日眠うていかん』
『河原でござるか?』若い殿上人は笑つて訊いた。
『まア、そんなことはまア何處でも好いけれど……』
 かう言つて兼家も笑つた。女がヒステリカルに振舞つた美しいその態度は、その時になつても一種の深い男性的愛着を兼家に感じさせずには置かないのであつた。
 また數日經つた後にはその同じ若い殿上人に兼家が話した。
『何うも、女子といふものは面倒なものぢや』
『何うかなさりましたか』
『別に何うといふことないが、もう少し離れてゐて呉れれば好いと思ふことがござるな……』
『またよべ御介抱なされましたか』
『さうぢやない、今度のは別じゃがのう……。何うしてあゝ女子というものは嫉妬深いものかなう……。いくら申してきかせてもわかり居らぬ……』
『殿は果報者でござるほどに……この身などは、この若さに、まだひとりすらさういふものを持ちてだにあらぬに………殿は――』
『局のは何うし居つた?』兼家は笑ひながら言つた。

         一五

 幼ない道綱はいつの間にか數へ年の三つになつて、此頃は片語雜りの言葉を可愛い口から言ふやうになつた。窕子に取つてはそれがせめてもの慰藉であつた。普通館の人達は子が生れると北山あたりに好い乳母をもとめて、そこに數年里子に出して置くのを常としてゐたけれども――兼家もそれを希望しないではなかつたけれども、窕子はこの私の小さい珠玉だけは片時も自分の胸から離すことが出來ないと言つて、ひたとそれをかき抱いたので、それでそこで育てらるゝことゝなつた。しかし里の母親などは、昔人だけにそれをひどく心配して、殿の足の此頃間遠に編まれた簾のやうになつたのは、その幼い兒をそのまゝそこに置くためではあるまいか。子を持てば女子の姿はあさましくなると言はれて、好色の殿達はそれをひとつの邪魔者のやうに、また子の愛に執着してそれから離れて來られない女子はもはや色戀の對照ではないといふ風に思はれてゐるのに、それを平氣で對屋で養つてゐるので、それで殿は來られなくなつたのではあるまいか。今からでも遲いことはない。いつそ世間並に北山へやるやうにしては――? かう母親は絶えてそれを氣にして言ふのであつたけれども、しかも窕子はそれに耳を留めようとはしなかつた。そのやうな薄い情のために、この大切な珠玉を失くして何うなるものぞ! そのやうなことは別にしてそなたを思うて慈しんでくれるのでなうては、父親と言つても、それは單に名ばかりではないか。何うして! 何うして! この身の姿がいかにあさましうならうとも、この身がそのため何のやうに痩せてみにくくならうとも、この身は單なる男の子のもてあそびものでない上は、この子を手放すことではない。窕子は強く強くその可愛い子を抱きしめた。
 呉葉もそれには同情せずにはゐられなかつた。何ぞと言つては、道綱を伴れてはその女君のゐる几帳の方へと行つた。
『おゝ、よう參つた! あこは好い子になつたのう!』
 かう言つて窕子はこつちへとそれを引寄せた。
『あこは本當にうつくしう――』引寄せてたまらなくなつたと言ふやうに、その身の苦しみやら男に對する嫉妬やら體の平均しない感情やらに堪へられなくなつたといふやうに、その赤い滑かな小さな頬にあつい口をぴたりと當てた。思はず涙が底から溢れ漲つて來た。
 その頬の吸ひざまがいつもとは違つて強く烈しかつたので、小さき道綱は急に聲を立てゝ泣き出した。
『お、よし、よし、母があまりつよう吸うた! 許して呉れ! 許して呉れ、さうつよう吸うたつもりではなかつたのに! お、よし、よし』
 窕子は慌てゝ引起して、それを一生懸命になだめた。
『よし、よし、本當に、この母がわるかつたのう、わびた、わびた、これこの通りにわびた!』
 泣き出した道綱はしかも容易に泣き止まうとはしなかつた。
 呉葉が抱き寄せて、
『何ともなつてゐはせぬのでございますのに……。おゝ、母者が吸うた。わるかつた。わるかつた。母者のとこに伴れて來ずばよかつた……。でも、なう、男子は強うならねばならぬ。そのやうに弱う泣いては何うにもなりませぬ。もう大丈夫! もう治つた!』かう言つて若い母親の悲しい口づけのあるあとを呉葉は經く撫でゝやつた。
 それで道綱の泣聲は漸くとまつた。
 秋はそんなことをして暮してゐる中にもいつか長けて、西山のもみぢも過ぎ、鳴瀧の奧の御寺の御講も濟んで、やがては北山の奧の峰に雪が白く見えるやうになつた。
 さびしい寒い冬は來た。窕子は日ましに兼家との仲が遠くなつて行くのを悲しまずにはゐられなかつた。それはたまさかにはたよりがあり、歌があり、曾ては、十日ばかりも來ずに、だしぬけに几帳の柱にかけて置きわすれて行つた小弓の矢を使の者して取りに寄こしたので、『思ひ出づる時もあらじと思へどもやといふにこそおどろかれぬれ』などとわる洒落を言つてやつたりなどしたことかあつたが、次第にさうして馴々しい心持なども稀れになつて、その歌のおとづれすらも次第に間遠になつて行くのだつた。
 ある夜は道綱をかたく抱きしめて、『何うなすつたのでせうね、そちのお父さまは……。網代の氷魚にでもきいて見たらわかるだらうかね。何うして此頃はちつともそちのところに來ないだらうかツて………』かう言つて窕子はまたしたゝかに涙を流した。

         一六

 ひとつの噂が傳つて來た。
 何でもその話では、去年あたりから堀川の殿に新しい寵が出來て、それが河原に近いところに對屋を造へて圍はれてあつたが、その人にも今度はめでたい話があつたといふのであつた。噂としては別にさう大したことでもなかつた。その女の圍はれてあることは、たうから知つてゐた。その女にいつかさういふ話のあるのは當然のことであつて、別にめづらしいことではなかつた。しかし世間では窕子の時にも目を□るやうにしてその噂をして、中にはそれをあさましいと言つてわるい方に言つたものもあるにはあつたが、大抵は大臣になる人の寵になつたのを果報に羨ましく思つたものが多かつたので、忽ちにして秋の扇と捨てられた形を世間でも由々しいものにして噂は噂を生むのであつた。その世間といふものが窕子にも強く強く感じられた。
『本當でござるか』
『さやうか』
『男心といふものはそのやうなものかのう? あれほど心を籠められてゐても、いざとなると、さうなるものかのう』
 さうした言葉は窕子の周圍にゐる人達の中にも起つた。窕子はしかし默々として暮した。それについては何も言はなかつた。呉葉が何か言ひかけるのにすら不機嫌な表情をした。
 それでもその出來事の一伍十什については、誰よりもその身が一番詳しく知らなければならないのであつた。從つてその問題に觸れられることは身を切らるゝよりも痛さを感ずるけれども、また此上もなくこの身の誇りを傷つけらるゝやうにも感じられるけれども、しかしそれから耳を塞いで、何うともなれ! と言ふやうに平氣にすましてゐるわけには行かなかつた。否、むしろ此方から進んで、さういふ敵と戰ふばかりか、自分のためにも、またこの幼いもののためにも、飽までも男の心を此方へ取戻して來なければならなかつた。窕子は徒らに嘆いたり女々しく悔んだりばかりしてはゐられないやうな氣がした。
 母親もあまり世間の噂が高いので、心配になつたと見えて、それとなしに、そのことを言ひに來たのではないといふ風をして、そつとそこにその顏を見せた。その時、兼家からの使のものが文箱をとゞけて來た。
 箱をあけて、文をひろげて見ると、久しく行かなかつたのは、まことにすまなかつた。しかし、わるう思つては呉るゝな。此方にも今までは知らせずにしてあつたが、少し手放されぬ厄介なことがあつて、それでかういふ風に無沙汰になつた。それもやつと昨日すんだ。しかし身も穢れて居るので、當分は宅に籠もつてゐるより他に爲方がない。非常にあさましう、つめたく思ふかも知れぬが、そなたのことは忘れたのではないからなどといつもよりも細々しくやさしく筆を走らせてゐるのを窕子は見た。使のものもいつもの下衆とは違つて、自分の下につかつてゐる史生見たいなものだつた。で、それとなく呉葉にきかせた。
 やがて呉葉はもどつて來たが、窕子の傍に寄添つて來た。
『え?』
 窕子は耳を寄せた。
『さうなの? 男の子なの? ふむ……』かう言つたきりだつた。窕子の顏は急に赤くなつた。
 呉葉にはその窕子の心の動搖がよくわかつた。しかし何うすることも出來なかつた。二人はそのまゝにだまつた。
 暫くしてから、
『おかへしは?』
 かう呉葉が訊くと、
『ないと言つてお呉れ……』
 かう言つたまゝ窕子は向うむきになつて了つた。
 そこに母規も近寄つて來た。
『何うかしましたか?』
『いゝえ、別に……』つとめてその心持を押へようとしたけれども、しかしその一伍十什を母親からかくして了ふことは出來なかつた。
 母親も昔氣質の腹を立てずにはゐられないやうに見えた。それが男の兒であるときいた時には、見る見るその顏の色も變つて行つた。
『殿も殿だ……』
 かう母親は口癖のやうに言つた。

         一七

 七月になつてからであつた。ある日、使のものが古い衣と新しいのと一領づゝ物に包んで、急いでそれを仕立直すやうにとて持つて來た。
 まさかことはるわけには行かないので、呉葉はそれを受取るには受取つたけれども、窕子に見せたら、何と言ふだらう。そのやうなけがらはしいものは手に觸れるのもいやだといふだらう。さういふことをする人は他にあるだらうといふだらう。否、感情に強い窕子はそれを見たら、赫となつて、それをピリピリ破つて捨てゝ了ふかも知れない。呉葉は間に立つて困つてゐると、ちやう度そこに母親が來た。
『まア、殿は少しも來もせずに、何といふ――』
 母親も呆れた。
『何ういたしませうか?』
『さア、何うしたら――』
『兎に角一度お目にかけた方が宜しいでせうか』
『さうぢやなう、見せた方が好いぢやらう……。しかしあんまり好い氣ぢや』流石の母親もいつものやうに殿のため殿のためとばかりは言つてゐなかつた。
 窕子はしかしそれを見ても、たゞそれをひつくり返して、その古い方の衣裳を曾てその身が眞心こめて縫つた時のことなどを思ひ出して、今の身の悲しさをそこに深く深く感じただけであつた。別にそれを何うしようとも言はなかつた。かの女の戀もその衣裳のやうに古びた。かの女はその汚れた衣をひろげて、その肩のところの縫目などを一つ一つ仔細に調べてゐたが、急にたまらなくなつたといふやうにはらはらと涙をその衣の上に落した。
(この縫目はこのやうにしつかりとしてゐるのに……)さう思ふと、かの女はたまらなくなつたのである。
『何うしたのだぞえ?』
 母親はびつくりしたやうに窕子の方を見た。
 涙は益々繁く霰でもあるかのやうにその衣の上に落ちた。
『さア、此方におよこし……。だから、そちに見せて好いかわるいかと呉葉も心配して言うてゐたのぢやけれど……。なう、窕子、そのやうに泣いたとて、何うにもなるのでもない……。さア、その衣裳を……』母親は窕子の手からその涙に霑された衣裳を強ゐて取つた。そこに呉葉も入つて來た。そして引被ぐばかりにして泣入つてゐる窕子を幾重にもなだめた。
 兼家の衣は爲方なしにもどしてやることにした。

         一八

 さびしい秋が續いた。野分がすさまじく始終吹いたり、虫の音が悲しく枕近くきこえたりした。窕子は深くたれこめてのみ暮した。
 いくらこひしいと言つても、その身の矜持までも捨てゝかれの來るのを待つわけには行かなかつた。此身を思うて呉れればこそそこに縋つて行く心持も起つて來るのである。思ひもして呉れないのに……坊の小路の女達や河原の人などと同じづらに持てあつかはれて、たゞ玩弄品か何かのやうに見られてゐるのに、いくら此方でばかり深く思つて見たところで効がなかつた。窕子はそこに深い深い失望を感じた。そしてそれは今まで感じて來た輕い失望のやうなものではなかつた。かの女はその悲しみと失望との中に、さびしい秋の自然が、山にたなびきわたつて眺められ雲のたゝずまひが、野分に吹きなびけられてゐる尾花が、夜もすがらきこえて來る虫の音が、またはさびしく降しきる軒の雨がすべて細かに織り込まれて來るやうな氣がした。
 二三年前までならば、たとへ何んな苦しみがあつたにしても、また何んな悲しみがあつたにしても、いろいろなことでそれをまぎらせることも出來たであらう。此方からもさう深く思ひ込まずに、容易に男の胸にこの身を投げかけて行くことも出來たであらう。また呉葉の慰藉も、母の意見もそれをまぎれさせるに十分力があつたであらう。しかし今度の失望は、さうした生やさしい心の傷痍ではなかつた。窕子は既にあらゆる希望の憑むに足らないものであることを知つた。自分の眼の前に頼みにもし、力にもし、なぐさめにもして來たさまざまの幻影は、それは實際幻影で、到底手にすることの出來ないものであるといふことをかの女はつくづく感じた。青春の失はれて行く怨み、それも悲しかつたには相違ないが、しかしそこにはまだ慰めもあれば、縋るべきものもあつた。今度のやうに魂の底まで搖ぶられるやうなものではなかつた。
 呉葉が何か言ひかけても、窕子はたゞ低頭いてだまつてゐるやうなことが多かつた。
『本當に、もう少し氣を引立てゝ下さらなくつては……』
 呉葉はある日、兼家がやつて來て、一□ほどゐてそゝくさと歸つて行つたあとで言つた。
『そのやうに言はずにおいてお呉れ……。お前の心持はよくわかつてゐるから』
『でも……見てゐても、お傷はしうございますもの……』
『だつて、しようがない……』
『殿は?』
 その交情が呉葉には心配になるのであつた。
『別に何でもない……』
『でも……』
 早くそゝくさと歸つて行つたのを呉葉は心配した。
『だつて、お前、さういふことは成行にまかせるより他爲方がないぢやないか……』
『でも……』
『もつとお前は私に殿の機嫌を取れと言ふの?』
 窕子はじつと呉葉を見詰めた。
『さういふわけではございませんけれど……』
『だつてお前……私の心が言ふことをきかないから仕方がない。昔から女子はそのやうに出來てゐると言うたとて、男に玩弄具のやうに取扱はれて、それで言ふことはきいて居られるか、何うか。そちにもそれはわからぬことはよもあるまい――』窕子の眼には涙が光つた。
『それはわかつてをりますけども……』
『坊の小路なら、さういふことも出來るだらうけれども、この身は……この身は……さういふ女子とは違ふほどに……』
『それは、それは――』
 呉葉も後には困つた。
『それはそちの心はわかる。そちは、この身を思ふあまりに、さう言うてその身のことのやうに心配して呉れるのだらう。それはようわかる……。この身とて……この身とて……それを望まぬではない……。なう、呉葉、この身とて……』あとは言はずに涙が堰を切るやうに窕子の眼から溢れ落ちた。

         一九

陸奧の
つゝしか岡の
馬鞭草
來るほどをだに
待たてやは
よすかを絶ゆべき
阿武隈の
相見てだにと……
 かう書いて來てかの女は遠い遠い父親を思つた。父親が行つてからもはや四たび年を重ねた。そのあとで生れた道綱も大きくなつた。母親は絶えず心配しては呉れる。しかし……しかし……。窕子はいつも遠い遠い父親を思つた。
 父親のたよりは、一年に二三度は來たが、しかもそれは長い月日をかけたものだつた。梅の花の咲く頃に向うを出たものが、卯の花も散りはて、子規の聲の老けた頃でなければ此方の手には入つて來なかつた。また秋出したものは、年の暮れでなければそれを見ることが出來なかつた。父親は容易に都に歸て來さうにも見えなかつた。初めの年は白河の關から大方二日路のところに留つて、むかしの山の井の物語のある安積の府のことだの、安達の鬼塚のことだの、阿武隈川がその近くを流れてはゐるが、まだ狹くて、流れも小さくて、とても歌枕に詠まれたやうな大河ではないなどと詳しく書いてよこしたりしたが、二年目からは、それよりも猶ほ五日路も六日路も奧に入つて、武隈の府から多賀の府の方へと出かけて行つたらしく、その消息さへ容易に手にすることは出來なくなつて了つたのであつた。
 かの女はたまさかに來るその手紙を唯一の戀人か何ぞのやうにして待つた。またその來た手紙は、何遍も何遍も出して來ては讀むので皺にされたり汚れたりするのであつたが、しかしそれを丁寧に疊んで、一つ一つ來た日をかきつけて、貝の蒔繪の文箱の中に重ねて藏つて置いた。此頃では何うしてかことにその父親のあたりが戀ひしかつた。何故あの時無理にでもそのあとについて歌枕を見に行かなかつたかと思つた。かの女の眼には、その父親が遠く遠く薄を分けて蝦夷の地近くまで入つて行くさまがはつきりと見えた。武隈の二木松などもそれと見えた。父親の手紙にはいろいろなことが書いてある。この多賀の府からは歌枕の千松島はもはやさして遠くない。今までは用事が忙しいので行つて見ることが出來ずにゐるが、秋にもなつなら、是非とも暇をこしらへて行つて見るつもりだ……などとも書いてある。窕子は父親をその松島の中に置いて、いろいろに想像して見たりなどした。
さもやこまつの
みとり兒の
絶えずまゐるを
きく毎に
人やなくなる涙のみ
我身を海とたゝふとも
海松もよせぬ……
 實際、窕子に取つては、その遠くにある父親と、その周圍に纏つて來てゐる幼い道綱とがその心をたまらなく悲しくさせるのであつた。道綱は今年數へ年の四つの可愛い盛りで、何ぞと言つて呉葉の手から窕子の膝へと凭りかゝつて來るのだつた。兼家のことなどをもよく覺えて、『殿……殿……』などと小さな手で指さしたりなどした。
『まア、此子が……』
 兼家が歸る時にいつも口ぐせのやうに言ふ言葉の一つを、それを誰も教へも何もせぬのに、室の隅で玩具を持つて獨あそびをしながら、獨言のやうに眞似てゐるのをきいた時には、窕子はあきれてさう言はずにはゐられなかつた。
『あこは好い子ぢや……今言うたことをもう一度言うて見や……』
『…………』
 幼ない道綱はじつと母親の顏を見るやうにした。
『言うて見や……』
『すぐもどる……すぐもどる……きつとぢや……』
『まア、さう言うたか? 殿が?』
『きつとぢや、きつとぢや、すぐもどるほどに、のう……』
 二度目には母親がきいてゐるのなどはもはや頓着しないといふやうに、玩弄具をもてあそびなから、頻りに節をつけて歌でもうたふやうにして言ふのだつた。
『呉葉來て見や』
 かう窕子は呼んだ。
 呉葉も流石にそれには驚いたといふやうに、
『まア……まア、あこさまの聰明なこと……』
『だつてあんまりぢやないかねえ……。
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