道綱の母
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著者名:田山花袋 

 窕子は天にも地にも替へ難いたゞひとり力と頼んだ母親が、その衰へ果た顏を仰向け加減にしてじつとしてゐるのを眼にして、われを忘れたやうに、『母者! 母者!』と二聲呼んだ。
 母親はもはやずつと以前から、誰が何と言つても、顏を押しつけて呼ぶやうにしても、更に答へようともしなかつたがこの時ひよつくりと眼を明けて、そして驚いたやうに、一度立去つた元の世界にまたもどつてでも來たやうに窕子の顏をじつと見詰めた。『母者! この身!』かう窕子はつゞけて言つたが、母親はちよつとうなづいただけで、そのまゝ何も口がきかずに、もはやこれで滿足した、この世には思ひ殘すところはないといふやうに、次第にその眼が閉じられて行つた。誰れの眼にも臨終が來たのであるのがそれとわかつた。
『母者! 母者!』
 この窕子の叫びにはもはや何の反響もなかつた。
 窕子の涙はほろほろとその母親の顏の上に落ちた。佛の唱名がその周圍から起つた。――急に人だちは慌て出した。今度はそりかへるやうになつて窕子が昏倒した。
『窕子さん、窕子さん!』
 かをるがいきなり飛んで來て、一度横に倒れた窕子を抱え起した。父親もその傍に寄つて來た。『水! 水!』と誰かが叫んだ。
 慌たゞしい光景が一室を占領した。皆な總立ちになつて此方へと寄つて來た。兄の長能は誰かが持つて來た水をいきなりその顏へと吐きかけた。『窕子! 窕子! しつかりしなくてはいけない、窕子! 窕子!』と叫んだ。窕子はかをるの膝に身をもたらせて、解けた髮を半ば亂したまゝ、全く喪心したもののやうにぐたりとなつてゐた。長能は猶ほしきりに水を顏の面にかけた。
『窕子!』
 父親の聲がはじめてその耳に入つたやうに見えた。窕子は薄く薄く眼を開いた。『オ、窕子さん、氣がつきましたか! しつかりしなくつちやいけませんよ。あなたは、大切な人なんですよ、ね、窕子さん!』とかをるは叫んだ。呉葉は唯オドオドしてゐた。
『本當にしつかりしてくれ……。まだこの身がゐるのぢやから……。のう、この身より先に世を早くしては不孝ぢや……。それはそなたの悲しみはわかるが……そなたにもしものことがあつては――』父親は窕子の顏を覗くやうに言つた。窕子はかをるや呉葉たちの手で、やがて別な靜かなところの方へとつれて行つて寢かされ、た。窕子はまだ本當にその意識を恢復したとは言はれないやうにして、眼をぱつちりとは明けてはゐるが、時々痙攣するやうにその手や口を震はせた。呉葉は布を水に浸してそれをその額の上に置いた。
 その話をきいて道綱がやつて來た。その時にはそれでも窕子はその手を取るやうにした。微かな笑ひもその口のあたりに上つた。『そら、母者はもう大丈夫! 安心なさいませ!』呉葉はかう言つて道綱をなだめた。夜になつて兼家もやつて來てその枕邊に坐つた。




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