道綱の母
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著者名:田山花袋 

 ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出した。此の葬式は表の通りは通らずに、内裏の裏からぐつと大廻りに廻つて、鴨河をわたつて、鳥部野へと行くのだつた。何故かそのあはれな葬式の棺がそこに立つてゐる窕子の眼を惹いた。標野の向うには、小さな丘を二つ三つ前景にして、北山の起伏が碧く碧く見えた。葬式の棺はさびしい野をトボトボと丘の方へと遠く動いて行つた。

         三九

『使がまゐりました!』
 かう言つて入つて來た呉葉の聲は震へてゐた。
『何うしたの?』
『何だか、御病人の樣子が變でございますから、すぐにお出で下さいますやうに――』
『オ、それは――』
 かう言つて窕子は慌たゞしく身を起した。それはもはや申の下刻になる頃だつた。かの女は今朝から向うに行つてゐて一時何うかと思つたのが一先づおさまつて、また平常のやうに口をきくやうにもなり、腹の内部の痛みもそれほど烈しく訴へなくなつたので、ちよつと用事のあるのを足しに家の方へもどつて來て、それもすまして、ほつと息をついたばかりのところだつた。かの女はいつもならさうした端近なところまで出て行くやうなことはないのであつたけれども、慌てゝ飛出して、その使のものが來てゐるところまで行つた。
『御樣子はよく存じませぬけれど、殿がすぐお出を願ふやうにとおん申附けでござりまするゆゑ………』
 走つて來たと見えて、息をきらしながら言つた。
 取るものも取り敢へず、呉葉と倶に窕子は急いで出かけた。
 裏の階段から慌たゞしく入つて行くと、そこに兄の長能が事ありげに出て來て、あぶなく兩方で突き當らうとした。
『何うかしたのですか?』
『…………』
 兄の長能はそれには答ヘずに、急いで行けといふ手まねをして、そのまゝ用ありげに向うへと走つて行つた。
 さつき此處から出て行つた時には、まださうした慌たゞしさはなかつたのであるが、そこの一室に入ると、家の中の人といふ人は皆なそこに集つて、その向うには眞面目な顏をして手を拱いて坐つてゐる父の姿が見え、その此方にかをるが覗くやうにして何かしてゐるのがそれと眼に入つた。窕子の胸は大きな氷塊にでも塞がされたやうに一種何とも言はれない冷めたさと嚴そかさとに撲たれた。窕子は顛倒しさうな頭を抱いて、滑り込むやうにして纔かにその傍に行つた。
 窕子は天にも地にも替へ難いたゞひとり力と頼んだ母親が、その衰へ果た顏を仰向け加減にしてじつとしてゐるのを眼にして、われを忘れたやうに、『母者! 母者!』と二聲呼んだ。
 母親はもはやずつと以前から、誰が何と言つても、顏を押しつけて呼ぶやうにしても、更に答へようともしなかつたがこの時ひよつくりと眼を明けて、そして驚いたやうに、一度立去つた元の世界にまたもどつてでも來たやうに窕子の顏をじつと見詰めた。『母者! この身!』かう窕子はつゞけて言つたが、母親はちよつとうなづいただけで、そのまゝ何も口がきかずに、もはやこれで滿足した、この世には思ひ殘すところはないといふやうに、次第にその眼が閉じられて行つた。誰れの眼にも臨終が來たのであるのがそれとわかつた。
『母者! 母者!』
 この窕子の叫びにはもはや何の反響もなかつた。
 窕子の涙はほろほろとその母親の顏の上に落ちた。佛の唱名がその周圍から起つた。――急に人だちは慌て出した。今度はそりかへるやうになつて窕子が昏倒した。
『窕子さん、窕子さん!』
 かをるがいきなり飛んで來て、一度横に倒れた窕子を抱え起した。父親もその傍に寄つて來た。『水! 水!』と誰かが叫んだ。
 慌たゞしい光景が一室を占領した。皆な總立ちになつて此方へと寄つて來た。兄の長能は誰かが持つて來た水をいきなりその顏へと吐きかけた。『窕子! 窕子! しつかりしなくてはいけない、窕子! 窕子!』と叫んだ。窕子はかをるの膝に身をもたらせて、解けた髮を半ば亂したまゝ、全く喪心したもののやうにぐたりとなつてゐた。長能は猶ほしきりに水を顏の面にかけた。
『窕子!』
 父親の聲がはじめてその耳に入つたやうに見えた。窕子は薄く薄く眼を開いた。『オ、窕子さん、氣がつきましたか! しつかりしなくつちやいけませんよ。あなたは、大切な人なんですよ、ね、窕子さん!』とかをるは叫んだ。呉葉は唯オドオドしてゐた。
『本當にしつかりしてくれ……。まだこの身がゐるのぢやから……。のう、この身より先に世を早くしては不孝ぢや……。それはそなたの悲しみはわかるが……そなたにもしものことがあつては――』父親は窕子の顏を覗くやうに言つた。窕子はかをるや呉葉たちの手で、やがて別な靜かなところの方へとつれて行つて寢かされ、た。窕子はまだ本當にその意識を恢復したとは言はれないやうにして、眼をぱつちりとは明けてはゐるが、時々痙攣するやうにその手や口を震はせた。呉葉は布を水に浸してそれをその額の上に置いた。
 その話をきいて道綱がやつて來た。その時にはそれでも窕子はその手を取るやうにした。微かな笑ひもその口のあたりに上つた。『そら、母者はもう大丈夫! 安心なさいませ!』呉葉はかう言つて道綱をなだめた。夜になつて兼家もやつて來てその枕邊に坐つた。




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