道綱の母
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著者名:田山花袋 

『七年も八年も父上と離れてゐて、やつともどつて來て、これから少しは樂しい暮らしも出來ると思うてゐたのに……それなのに、こんな病氣に取つかれて……』
『何うも困つたものぢや。さうかと言つて、天命ばかりは何うにもならんでな。何のやうに尊い方でも、いざとなつては止むを得ないぢやでな……』
『この身は、この身は――』
 窕子は泣き沈むのだつた。――今日もかの女はその母親の枕邊に長い間坐つた。痛みだけでも何うかしたいと思つて、せつせと罨法を手傳つて取替へてやつた。かをるも一生懸命に世話をした。父親も今日は内裏を休んで一日そこに顏を出してゐた。長い間の病氣に母親は非常に衰へて、顏などは丸きり別な人のやうになつて了つた。それに、此頃ではおも湯すら十分に取ることが出來なかつた。少し入つたと思ふと、すぐまたそれをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。
 ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。
 道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。
『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』
『…………』
 さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。
『何うかしたの?』
 窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』
『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。
『何でもない、何でもない……』
 窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。
『…………』
 不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。
『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』
『おばアさんの病氣!』
『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』
『本當だね……』
 道綱はそれでもいくらか安心したといふやうにして母親の顏を見詰めた。と、それと同時に窕子の頭にはいろいろなことが一杯に漲るやうにあつまつて押寄せて來た。兼家のことについてこれまで長く苦しんで悶えて來たこともあるが――今でもそのために苦しんでゐないことはないのだが、しかもそれ以上にこの人生のことが深く大きくかの女の頭にひろげられ逼つて來るのを感じた。今までのかの女の心持のやうな氣分ではゐられないやうな氣がした。道綱と自分のことがそれとはつきり思ひ出されると共に、兼家と自分と道綱のことがはつきりその眼の前に浮んで來た。自分も一度はさうした悲哀をこの道綱に味ははせなければならないのである。母子の別れは何うしたつて否定することは出來ないのである。さう思ふと、戀といふものに對する考へ方も、愛といふことに對する考へ方も、今までとは違つて、すつかりそこにその全面をあらはして來たやうな氣がした。何んなに人間に悲哀があつても――その愼恚と嫉妬とのために身も魂も亡びさうになるやうなことがあつても、そんなことには少しも頓着せずに、人生と自然とはその微妙な空氣をつくつて、徐かにその歩んで行くべきところへと歩いて行つてゐるのだつた。さう思つた時には窕子はたまらなく悲しくなつて來た。自分のその身が悲哀と共に何か大きな空間にでも漂つてゐるやうな氣がした。窕子は道綱に知れぬやうにそのこみ上けて來る涙の潮を咽喉のところで堰きとめるやうにした。

         三八

 窕子は裏の築地の出口のところに立つて、もはやそろそろ秋にならうとしてゐる草原の方を眺めた。小さな野萩、それにポツポツと露が置いてあつた。そしてそれも時の間に日影に乾いて行くのだつた。水引の花などもさゝやかなくれなゐをそこに見せて、これでも花だといふやうにツンツン草の中に雜つて見えた。何故か窕子の心はさうしたはかないものの方にのみ寄つて行つた。誰もめづる花も好いだらう。大きな美しい花も好いだらう。しかしそれよりもあるかないかの花――微かにそこに草原のみだれの中にその小さな存在を示してゐるやうな花、さういふものが何とも言へずなつかしいやうな氣がした。さういふ花さへある。二日と咲いてゐない花さへある。さうした存在でさへひとつの立派な存在である。こんなことを考へながら窕子はじつとそこに立盡した。
 そこに呉葉が行縢姿でその參詣から歸つて來た。
 主人思ひの呉葉は、心配さうに傍に寄つて來た。
『御苦勞だつたね……』
 呉葉の姿にしても此頃次第に年を取つて來てゐるのを窕子は見落さなかつた。かの女は言ふに言はれない感謝をそこに感じた。母親についでの自分の同情者! 自分のためにその半生を奉仕しようとするその同情者! 母親がゐず、呉葉がゐなかつたら、その身はとてもこゝまで無事に來ることは出來ないに相違なかつた。
『今日は?』
 いつも引いて貰つて來るみくじのことを窕子はそこに持ち出した。
『今日のは、あまり好い方ではございませんでした――』
 袖のところから、呉葉はそれを出して見せた。
『二十九凶』としてあつた。窕子はだまつてじつとそれを見詰めた。
 母親にこれまで何のやうに心配をかけたであらうといふことが、その時何故かはつきりと胸に浮び上つて來た。
『でも、そんなにわるいおみくじではないさうでございます……』
『…………』
『きいて見ました……ところが、この凶は同じ凶でも吉に向う方の凶だと申しました。御心配なさることはござりますまいと申しました――』
『御苦勞だねえ、本當に……』
 かう言つて窕子は呉葉がいつものやうに向うに歩いて行くのをじつと見詰めた。かの女は自分ながら不思議な氣がした。何うしてかう物を見つめる氣になつたか。何うして小さな野の花に眼をつけたり、愛宕の山の上に白くふわふわと靡いてゐる一片の雲に心を惹かれたりするのか。これもそのためか。その大きな悲哀の壁を前にしたためか。その日の夕暮には、兄の長能がやつて來て、父親もさびしさうにしてゐる話などをした。
 人の噂では兼家はこのごろまた新しい女に沈湎してゐるといふことであつたけれども、窕子に對しては、そんな形は少しも見せなかつた。昔はさういふことがあつたりすると、わざとそれをその前ににほはせて、半分は嫉妬をやかせて見るといふやうな態度に出るのが常であつたけれども、今はそんな風は面に表はさずに、却つて常よりもやさしい態度に出るやうになつた。そしてその心持は窕子にもよくわかつた。しかも窕子はそれに取り合はうとしなかつた。今更何うにもならない運命を窕子は感じた。
 ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出した。此の葬式は表の通りは通らずに、内裏の裏からぐつと大廻りに廻つて、鴨河をわたつて、鳥部野へと行くのだつた。何故かそのあはれな葬式の棺がそこに立つてゐる窕子の眼を惹いた。標野の向うには、小さな丘を二つ三つ前景にして、北山の起伏が碧く碧く見えた。葬式の棺はさびしい野をトボトボと丘の方へと遠く動いて行つた。

         三九

『使がまゐりました!』
 かう言つて入つて來た呉葉の聲は震へてゐた。
『何うしたの?』
『何だか、御病人の樣子が變でございますから、すぐにお出で下さいますやうに――』
『オ、それは――』
 かう言つて窕子は慌たゞしく身を起した。それはもはや申の下刻になる頃だつた。かの女は今朝から向うに行つてゐて一時何うかと思つたのが一先づおさまつて、また平常のやうに口をきくやうにもなり、腹の内部の痛みもそれほど烈しく訴へなくなつたので、ちよつと用事のあるのを足しに家の方へもどつて來て、それもすまして、ほつと息をついたばかりのところだつた。かの女はいつもならさうした端近なところまで出て行くやうなことはないのであつたけれども、慌てゝ飛出して、その使のものが來てゐるところまで行つた。
『御樣子はよく存じませぬけれど、殿がすぐお出を願ふやうにとおん申附けでござりまするゆゑ………』
 走つて來たと見えて、息をきらしながら言つた。
 取るものも取り敢へず、呉葉と倶に窕子は急いで出かけた。
 裏の階段から慌たゞしく入つて行くと、そこに兄の長能が事ありげに出て來て、あぶなく兩方で突き當らうとした。
『何うかしたのですか?』
『…………』
 兄の長能はそれには答ヘずに、急いで行けといふ手まねをして、そのまゝ用ありげに向うへと走つて行つた。
 さつき此處から出て行つた時には、まださうした慌たゞしさはなかつたのであるが、そこの一室に入ると、家の中の人といふ人は皆なそこに集つて、その向うには眞面目な顏をして手を拱いて坐つてゐる父の姿が見え、その此方にかをるが覗くやうにして何かしてゐるのがそれと眼に入つた。窕子の胸は大きな氷塊にでも塞がされたやうに一種何とも言はれない冷めたさと嚴そかさとに撲たれた。窕子は顛倒しさうな頭を抱いて、滑り込むやうにして纔かにその傍に行つた。
 窕子は天にも地にも替へ難いたゞひとり力と頼んだ母親が、その衰へ果た顏を仰向け加減にしてじつとしてゐるのを眼にして、われを忘れたやうに、『母者! 母者!』と二聲呼んだ。
 母親はもはやずつと以前から、誰が何と言つても、顏を押しつけて呼ぶやうにしても、更に答へようともしなかつたがこの時ひよつくりと眼を明けて、そして驚いたやうに、一度立去つた元の世界にまたもどつてでも來たやうに窕子の顏をじつと見詰めた。『母者! この身!』かう窕子はつゞけて言つたが、母親はちよつとうなづいただけで、そのまゝ何も口がきかずに、もはやこれで滿足した、この世には思ひ殘すところはないといふやうに、次第にその眼が閉じられて行つた。誰れの眼にも臨終が來たのであるのがそれとわかつた。
『母者! 母者!』
 この窕子の叫びにはもはや何の反響もなかつた。
 窕子の涙はほろほろとその母親の顏の上に落ちた。佛の唱名がその周圍から起つた。――急に人だちは慌て出した。今度はそりかへるやうになつて窕子が昏倒した。
『窕子さん、窕子さん!』
 かをるがいきなり飛んで來て、一度横に倒れた窕子を抱え起した。父親もその傍に寄つて來た。『水! 水!』と誰かが叫んだ。
 慌たゞしい光景が一室を占領した。皆な總立ちになつて此方へと寄つて來た。兄の長能は誰かが持つて來た水をいきなりその顏へと吐きかけた。『窕子! 窕子! しつかりしなくてはいけない、窕子! 窕子!』と叫んだ。窕子はかをるの膝に身をもたらせて、解けた髮を半ば亂したまゝ、全く喪心したもののやうにぐたりとなつてゐた。長能は猶ほしきりに水を顏の面にかけた。
『窕子!』
 父親の聲がはじめてその耳に入つたやうに見えた。窕子は薄く薄く眼を開いた。『オ、窕子さん、氣がつきましたか! しつかりしなくつちやいけませんよ。あなたは、大切な人なんですよ、ね、窕子さん!』とかをるは叫んだ。呉葉は唯オドオドしてゐた。
『本當にしつかりしてくれ……。まだこの身がゐるのぢやから……。のう、この身より先に世を早くしては不孝ぢや……。それはそなたの悲しみはわかるが……そなたにもしものことがあつては――』父親は窕子の顏を覗くやうに言つた。窕子はかをるや呉葉たちの手で、やがて別な靜かなところの方へとつれて行つて寢かされ、た。窕子はまだ本當にその意識を恢復したとは言はれないやうにして、眼をぱつちりとは明けてはゐるが、時々痙攣するやうにその手や口を震はせた。呉葉は布を水に浸してそれをその額の上に置いた。
 その話をきいて道綱がやつて來た。その時にはそれでも窕子はその手を取るやうにした。微かな笑ひもその口のあたりに上つた。『そら、母者はもう大丈夫! 安心なさいませ!』呉葉はかう言つて道綱をなだめた。夜になつて兼家もやつて來てその枕邊に坐つた。




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