道綱の母
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著者名:田山花袋 

『ほんに、浦島ぢやのう』窕子も深く感ずるやうに言つた。それから比べると、自分の戀などはまだやつとその戸口に入りかけたもののやうに思へた。殿は本當は此身より他にないやうなことを言ふのであるけれど、それが何處まで信じて好いかわからないやうな氣がした。
 窕子だちは坊に歸つてから猶ほ十日ほどゐたが、盂蘭盆が近づいて來たので、一度京の家の方へと戻つて來ることにした。山から出て來る小川の岸には、さゝやかなみぞ萩などが水にぬれて咲いてゐるのを目にした。標野に來ると、今まで籠つてゐた山の峽に雲が白く徐かに靡いてゐるのがそれと振返へられた。

         三七

 それから二年經つた。その間にはいろいろなことがあつた。その中でも窕子に取つて印象の深かつたことは、父親が陸奧から歸つて來たことだつた。父親は八年の間にいたくも老いた。話をするにもわくわくするやうな表情をした。多賀の府に留つてゐることが出來れば好かつたのだが、それが出來ないので、言ふに言はれない艱難を嘗めた話などを父親はした。しかしそれといふのも小野の宮の機嫌をそこなつたからで、それも奧を探つて見ればやつぱり窕子が兼家の許に行つたことに起因してゐるらしく、小野の宮が失脚してから、やつとその身が浮ぶやうになつたなどと父親は話した。『それにしても結構なことぢや……。殿の世になるのも、もはや程近い。目の前に見えて來た……。これからは、そなたも運がひらけるばかりぢや』こんなことをも言つた。
 それにつけても母親の喜びは何んなであつたらう。八年の長い月日を離れてゐてしかも一刻も心に思はないことはなかつたのであるから、窕子の眼にもこの世の喜びとは思へぬやうな喜びが映つた。母親はたゞわくわくしてゐた。何から話して好いかといふやうにたゞ默つてじつとして顏を見合せてゐたりした。窕子は出かけて行つては、『母者、この頃、何うかしたやうだ……もう昔のやうに物を言はなくなつた……』などと言つた。
 政治上の兼家はまだ正面に出て行つたといふわけではないので、それほど自由がきくわけでもなかつたけれども、長い間虐げられて左遷されてゐた窕子の父親を然るべきところにすゝめるくらゐの力は持つてゐた。兵部省の輔に任命されて、やがて、そつちの方ヘと勤めるやうになつた。
 もう一つ窕子に取つて喜ばしいことがあつた。それは他でもない、道綱が童殿上したことであつた。さすがに兼家も道綱が可愛ゆく、東三條にも、堀川にも子供は大勢ゐないことはなかつたけれども――また童殿上してゐるものもふたりほどあるにはあるのだつたけれども、しかも一番道綱が可愛ゆいらしく、その當座は日ごとそこにやつて來て、いろいろとその世話を燒いた。時には自ら自分の乘る牛車の内に入れて、そして一緒に參内することなどもめづらしくはなかつた。窕子はその始めて童殿上した時の道綱の扮裝のさまをいつまでも忘るゝことが出來なかつた。
 幅のひろい狩衣に小さな冠をして、沓をはいて父親に伴れられて牛車へと入つて行くのを見た時には、母親らしい涙が胸一杯溢れ漲つて來るのをとゞめることが出來なかつた。
 いつかは憎んで憎んでも足りないやうに思つた兼家すら、さういふ風にして道綱を伴れて出て行くのを見ると、何とも言はれない愛情が――肉體でなければ味ふことの出來ない愛情がそこに體に滿ち溢れて來るのを感じた。――何んなに遊蕩に身を持ち崩してゐたにしても、今でもその癖はやまずに、新らしい女が出來たりなどしてゐるのをはつきりと知つてはゐたにしても、それが深くこんがらかつて、何處までが憎だか、何處までが愛だか自分にもわからないやうな氣がした。否、さういふ女が他にあるがために、そのために一層不思議な愛情が漲つて行くのを感じた。口惜しさ、腹立しさ――それすらそこに愛となつて絡み合つてゐるやうな氣がした。
 ある日は道綱が話した。『だつて、へんな美しい人が來て、この身を伴れて行くのだもの……。そしてね、母者、その人が貴い女の人なの……局の人たちがその人のことを大騷ぎしてゐるの……。この身もびつくりしちやつた……。ずんずん奧の方へつれて行つて了ふんだもの……。母者、あの宮知つてゐるのかえ……。いろいろなものを呉れたよ。羊羹だの栗だの高つきにのせて……。それから母者にもよく言うてくれと言はれてぢや。あんな美しいけだかい人この身は見たことはない……。』
『そちは知らぬかのう……あの堀河の家にゐた宮――?』
『知らぬ――』
『さうかのう。知らぢやつたかのう? その宮ぢやらう?』
『さうか――それぢや、母者よく知つてゐるんぢやな……。この身はそれと知らないからびつくりしちやつた。女子のゐるところぢやのう? 澤山々々女子がゐた。そしてこれがあの東三條殿の歌よみの人の子だなんて、皆なしてこの身をおもちやにするのだもの……しまひには睨めてやつた――』
『まア、この子が……』
『だつて、宮はにこにこして何もせられぬのだけども――その女房たちが人を何の彼のと言ふのだもの……』
 窕子の眼には大内裏の藤壺のさまがそれとはつきりと映つて見えるのだつた。女の歌人としてこの身がさうした社會にも認められてゐることが――その子の道綱の口からもさういふことがきかれるといふことが、かの女に一種の愉快を感じさせた。
『宮はそれから何うなされた――』
『宮のゐらるゝところまで伴れて行かれた……。そこでいろんなことをきかれた。……父上のこともきかれた。……母者のこともきかれた。そして母者に孝をつくさなければいけないと言はれた……』
『まア……』
『それから歸る時、また今度來よと言はれた……。母者、あそこはずゐぶんひろいところね。幾曲りいく曲りと曲るんだもの……。わからなくなるくらゐね……?』
『…………』
 窕子は末の宮の戀のことを頭に浮べずにはゐられなかつた。あの東國に走つた老尼の戀愛のことも不思議にもそれに引くらべて考へられた。
『それからずつともどつて來た?』
『え……』
 道綱は可愛く點頭いて見せた。
『さういふところでは、しやんとしなけれはいけませぬよ。行儀をよくしなければ、でなくつては、殿上がつとまりはしないんだから……』
『大丈夫……』
『それから、一緒にゐる友だちと爭ひごとをしてはなりませぬよ』
『大丈夫……』
 かう輕く言つてそして表の方へと出て行くのだつた。
 その年は何方かと言へば窕子は幸福だつた。夏になってから宮から消息があつて――この間は道綱どのに逢へてうれしかつた。お身をまのあたり見たやうな氣がした。眉から額のところがよう似てゐる……。また今度逢はせていたゞきませう。禊の時には、棧敷が空いてゐるから來るなら來ては見ぬか。運好ければお目にかゝることが出來るかも知れない……などと書いてあつた。で、禊には母と道綱とを伴れて出かけて行つた。不幸にして宮には逢ふことは出來なかつたけれども、そのめづらしい儀式をまざまざと見ることが出來たのは嬉しかつた。
 父母もいつも樂しさうに睦じさうにしてゐた。やはりいろいろな境を經て來たのでなければ人間は何うしても靜かなむつまじい心持になることは出來ないといつかも山の坊のあるじが言つたがそれが今はつきりとかの女にも點頭かれるやうな氣がした。二三年前から比べたら、かの女は何んなにいろいろな瞋恚や嫉妬や不平や悔恨を捨てゝ來たか知れなかつた。それと共に生きてゐるといふことのたうとさが次第に飮み込めて來た。生きてゐさへすればいつかは好くなつて來る。いつかはさうした苦しみを捨て去るやうな時が來る。さういふことが生きてゐるといふことである。殿の遊蕩にしてもやつぱりその通りだ。その時にははつと思つて吐胸をつくが――この身の戀などは一顧にも値ひせずに捨てられて了ひさうに悲觀されるが、じつとして見てゐると、そんなものではなくて、そこにも不滿足と不幸と不運とがいつでも渦を卷いてゐて、いつか春の雪のやうにあとなく消えて了つてゐるのを見た。あの時それを堪へ忍ばなければ自分は何うなつてゐたかわからない。自分で自分の戀を破壞するやうな形になつて行たに相違ない。あとで後悔したつて追ひつかないやうなことになつたに相違ない。これが古の人のいふ耐へ忍ぶといふことか。忍耐が人間には一番肝心だといふことか。しかし耐へ忍ぶといふ心持ともいくらかは違ふやうである。それよりももつと努力の要らない、そのまゝそつとして置く心持――まづ暫くそれをわきにやつて置くといふ心持、むしろさういふ心持に近いやうなのを窕子はこの頃染々と感ずるやうになつた。
 母親は何うしてかこの頃丸で違つたやうな人になつた。もとは何方かと言へばいろいろなことを氣にしたり、殿のことについても時には窕子以上やきもきしたり、かをるに對してもわるくこだはるやうな心持を見せたりする人だつたが、父親が歸つて來てからは全く靜かな落附いた愛情に富んだ母親になつて了つた。嫁に對してわるい顏などを見せたことなどもなく、殿のことにしても、『何と言つたつて、お前、立派な人なのだからね……。堅いお方なのだからね。だからお前が始終からかはれてゐるやうなものなのだよ。お前がむきになつて怒つたりするので、一層さういふ氣になるのだよ。好い方なんだからねえ』などと言つて、もう心づかひすることはないといふやうな任せ切つた心持で話した。
 かをるもやつぱり窕子の言ふ通りだといふのだつた。此頃では險しい言葉などをかけられたことは一度もないといふのだつた。
『やつぱりひとりでゐたので、さういふ風になつたのかしら?』
『さうかもしれない……』
 こんなことを二人は話した。道綱などが行つても、『あこ來たか、よう來た、よう來た!』などといかにも嬉しさうであつた。羊羹などを高つきに載せて出した。
 ところが二年目の春の祭の濟むころから、何となく胸がつかえるなどと母親は言ひ出した。その癖その祭見には、棧敷が取つてあつたので、窕子を始めかをるや呉葉などと一緒に出かけて行つたのであつた。そして風が吹いて塵埃の立つ日に御輿の赤牛にひかれながらねるやうにして行列の徐かにやつて來るのを見たのだつた。中宮の出し車の美しさがその時あたりの眼を惹いた。さまざまの色……さまざまの模樣……その中でたしか藤色なのが中宮だつた。忘れもしない、その日の夕方から、母親は何うも胸が變だと言ひ出したのだつた。
 しかし窕子は別に深くそれを心配しなかつた。一時のことだと思つた。物でも取りすぎたのだと思つた。丁度そのころ殿が續けて來たので、二三日無沙汰して行って見ると、奧の對屋に几帳して寢てゐて、思ひもかけないほどやつれてゐた。醫者にもかけて見たが、何うも本當のことはわからないといふ。何か憑物でもしたのではないかと言つてそれを落すために修驗者などを呼んで見たが、何うもそれでも驗が見えない。『なアにそんなに案ずるには及ばない。いまにぢきに治る……。お前が今日來るまでには起きるつもりでゐたのだが……』などと病人は手輕に言つてゐるのであるが、何うもいつもの風邪とは違つてゐるらしいので、窕子は急に慌て出して、早速殿のかゝりつけの醫者を招んで來て見せたり、寺でごまを焚いて貰ふやうにわざわざ使者を北山に出したりした。それから梅雨の節が來て、往つたり來たりするのも路が泥濘で困つたりしたが、しかも心配してやつて來る度に、『もう好い。今日は大分好い。北山のごまがきいたと見えて、氣分がさつぱりした……』などと言つてゐるに拘はらず、次第にその體のやつれて行くのを目にした。そればかりではなかつた、さみだれが晴れて京の町が日影にかゞやく頃になると、急に胸が強くさし込むやうになつて、左の脇腹のところが非常に痛んだ。『かをる! 氣の毒だが、またこゝを押して呉れ!』かう呼んでそこを強く強く押して貰つた。
 窕子は呉葉に言つた。
『何うも、いつもとは違ふのでね……。あの痛みが何うもわからない……。何かお中のうちに腫れたものでも出來てゐるのではないかと醫者は言うのなれど……』
『それだと困りますねえ』
 呉葉も窕子の心を知つてゐるだけに、ひと事とは思へぬのだつた。
 急に思ひ附いたやうに、
『腫物ならば私はちよつと行つて參じませう。大原野に、それによくきく地藏さまがございますから……。そこにさへお參りすれば、どんな難かしい腫物でも、三日が内に口があいてよくなると申しますから……』
『でも、本當に腫物だか何だかわからないのだけれど……』
『それでも、私、行つて參じませう。わけはありませぬから』
 呉葉はさう言つて、桂川の土手に添つた長い路を遠く遠く歩いて行つた。大原野の春日の社のあるところからはもつと南で、昔、都が一度そこにあつたなどと言はれるところだつた。そこには竹むらの蔭に小さな地藏堂があつて、そこに大勢腫物のために參詣する人だちが來てゐた。
 窕子は此頃はまた大きな壁見たいなものに打つかつたやうな氣がするのだつた。折角いくらか人間のことがわかつて來て、いくらか落附いた氣持になつてゐたのに、それさへ再び夏草のやうに亂れ勝になつた。かの女には母親なしの自分の生活を考へて見ることは出來ないやうな心持に滿たされた。苦しいことがあると言つては、腹立たしいことがあると言つては、わからないことがあると言つては、すぐ母親のもとにかけつけたものであるのに――母親はそれを自分のことのやうにして心配もすれば慰めもして呉れたものであるのに――母親があればこそ今まで死にもせずに生きて來ることが出來たと思はれてゐるのに――あのやさしいにこにこした顏があるために何も彼も慰められて來たのに――もしものことがあつたりしたら? 窕子はそこまで行くと深い憂欝に閉ぢられずにはゐられなかつた。かの女はじつと妻戸のところに立つて竹むらに夕日の影の消えて行くのをたまらなくさびしい心持で見詰めた。
 時にはひとりでに涙が流れて來た。孤獨の涙が。今度は治ることがあつてもいつか一度はわかれて行かなければならない涙が。豫想したことのないひとつの事件がその眼の前に起りつゝあるといふことが。その暁にはその身は何うなるであらうと思はれるやうなことが。それにしてもかの女は一度だつてそのやうなことを想像したことがあるだらうか。母親がゐなくなるなどといふことを考へただらうか。あのやさし莞爾した顏が、この世になくなるなどといふことを思つて見たことすらあつたらうか。窕子は涙ばかりではなく――それ以上にじつと空間の一ところを見詰めるやうな心持になつた。
 何うかして一度は治つて呉れるやうにと祈つた効もなく、次第に母親の病氣のわるくなつて行くのを窕子は何うすることも出來なかつた。此頃では夥しく脇腹が痛んで、その内部に出來てるる腫物が外部から觸つて見てもそれとわかるくらゐになつて行つてゐるのを見た。醫者の罨法も役に立たず、修驗者のやつてゐる祈祷も後には徒らに病人を焦立たせるのみとなつた。窕子は毎日のやうに出かけて行つたが、その間は十町ぐらゐあつて、それは半ばは小野宮の邸の築地に傍ひ半ばは草むらになつてゐるところについて曲つて行つた。かの女は常に深い憂愁に滿たされながら、時には歩き、また時には網代車に乘つて出かけて行つた。草むらには暑い日影に晝顏が咲いてゐたり、阜斯が人の足音につれて草の中に飛んで行つたりした。蟋蟀なども頻りに啼いた。小野宮の築地の壞れの中からは四の君らしい琴の音が頻りにきこえた。
 何うかするといんち打ちの童の群の中を通つて行かなければならないやうな時もあつた。さういふ時には、つとめてそれを避けるやうにして、危いところは驅足で通つた。時にはそれが飛んで來て車の窓に當つたりなどした。牛飼は大きな聲で怒鳴つてその童の群を追ひ散らした。
 いくらか氣分が好いといふ時には、窕子は非常に元氣づけられたやうにして戻つて來た。『いくらかは小さくなつた……それもお前が大原野に參つてくれる御利益だらう。あれで小さくなつて行けば、それこそ優曇華の花が咲いたやうなものぢや……』などと呉葉に言つた。呉葉は今でも三日おきに行縢をつけ藺綾笠をかぶつて、わざわざその遠い地藏堂へと參詣に行つた。
 兼家の眼にも、その憂愁のために窕子の頬が此頃夥たゞしくやつれて來てゐるのが映つた。『何うかして、何うかしてあの母者の病氣を治したいものぢやが………あの内裏の醫師に見せて貰うてつかはさうか』などと兼家は言つた。兼家はやがてそれを取計つて呉れた。當代に名高い醫師の車はやがてその邸の西の對屋まで奧深く入つて行つた。しかし何うにもならなかつた。窕子の憂愁はつひに除かれなかつた。
 ある夜はこんな話が兼家と窕子の間に出た。
『だつて、母者にもしものことがあるといふことは私には考へられない……。もしそんなことがあつたら、とてもこの身も生きてゐられない……』
『こまつたことぢやのう……。何うかして、もう一度もとにもどしたいものぢやが……あの醫師にかかつてさへ、驗が見えないとなると、他に何うもならないからのう……困つたものぢや』
『七年も八年も父上と離れてゐて、やつともどつて來て、これから少しは樂しい暮らしも出來ると思うてゐたのに……それなのに、こんな病氣に取つかれて……』
『何うも困つたものぢや。さうかと言つて、天命ばかりは何うにもならんでな。何のやうに尊い方でも、いざとなつては止むを得ないぢやでな……』
『この身は、この身は――』
 窕子は泣き沈むのだつた。――今日もかの女はその母親の枕邊に長い間坐つた。痛みだけでも何うかしたいと思つて、せつせと罨法を手傳つて取替へてやつた。かをるも一生懸命に世話をした。父親も今日は内裏を休んで一日そこに顏を出してゐた。長い間の病氣に母親は非常に衰へて、顏などは丸きり別な人のやうになつて了つた。それに、此頃ではおも湯すら十分に取ることが出來なかつた。少し入つたと思ふと、すぐまたそれをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。
 ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。
 道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。
『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』
『…………』
 さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。
『何うかしたの?』
 窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』
『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。
『何でもない、何でもない……』
 窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。
『…………』
 不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。
『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』
『おばアさんの病氣!』
『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』
『本當だね……』
 道綱はそれでもいくらか安心したといふやうにして母親の顏を見詰めた。と、それと同時に窕子の頭にはいろいろなことが一杯に漲るやうにあつまつて押寄せて來た。兼家のことについてこれまで長く苦しんで悶えて來たこともあるが――今でもそのために苦しんでゐないことはないのだが、しかもそれ以上にこの人生のことが深く大きくかの女の頭にひろげられ逼つて來るのを感じた。今までのかの女の心持のやうな氣分ではゐられないやうな氣がした。道綱と自分のことがそれとはつきり思ひ出されると共に、兼家と自分と道綱のことがはつきりその眼の前に浮んで來た。自分も一度はさうした悲哀をこの道綱に味ははせなければならないのである。母子の別れは何うしたつて否定することは出來ないのである。さう思ふと、戀といふものに對する考へ方も、愛といふことに對する考へ方も、今までとは違つて、すつかりそこにその全面をあらはして來たやうな氣がした。何んなに人間に悲哀があつても――その愼恚と嫉妬とのために身も魂も亡びさうになるやうなことがあつても、そんなことには少しも頓着せずに、人生と自然とはその微妙な空氣をつくつて、徐かにその歩んで行くべきところへと歩いて行つてゐるのだつた。さう思つた時には窕子はたまらなく悲しくなつて來た。自分のその身が悲哀と共に何か大きな空間にでも漂つてゐるやうな氣がした。窕子は道綱に知れぬやうにそのこみ上けて來る涙の潮を咽喉のところで堰きとめるやうにした。

         三八

 窕子は裏の築地の出口のところに立つて、もはやそろそろ秋にならうとしてゐる草原の方を眺めた。小さな野萩、それにポツポツと露が置いてあつた。そしてそれも時の間に日影に乾いて行くのだつた。水引の花などもさゝやかなくれなゐをそこに見せて、これでも花だといふやうにツンツン草の中に雜つて見えた。何故か窕子の心はさうしたはかないものの方にのみ寄つて行つた。誰もめづる花も好いだらう。大きな美しい花も好いだらう。しかしそれよりもあるかないかの花――微かにそこに草原のみだれの中にその小さな存在を示してゐるやうな花、さういふものが何とも言へずなつかしいやうな氣がした。さういふ花さへある。二日と咲いてゐない花さへある。さうした存在でさへひとつの立派な存在である。こんなことを考へながら窕子はじつとそこに立盡した。
 そこに呉葉が行縢姿でその參詣から歸つて來た。
 主人思ひの呉葉は、心配さうに傍に寄つて來た。
『御苦勞だつたね……』
 呉葉の姿にしても此頃次第に年を取つて來てゐるのを窕子は見落さなかつた。かの女は言ふに言はれない感謝をそこに感じた。母親についでの自分の同情者! 自分のためにその半生を奉仕しようとするその同情者! 母親がゐず、呉葉がゐなかつたら、その身はとてもこゝまで無事に來ることは出來ないに相違なかつた。
『今日は?』
 いつも引いて貰つて來るみくじのことを窕子はそこに持ち出した。
『今日のは、あまり好い方ではございませんでした――』
 袖のところから、呉葉はそれを出して見せた。
『二十九凶』としてあつた。窕子はだまつてじつとそれを見詰めた。
 母親にこれまで何のやうに心配をかけたであらうといふことが、その時何故かはつきりと胸に浮び上つて來た。
『でも、そんなにわるいおみくじではないさうでございます……』
『…………』
『きいて見ました……ところが、この凶は同じ凶でも吉に向う方の凶だと申しました。御心配なさることはござりますまいと申しました――』
『御苦勞だねえ、本當に……』
 かう言つて窕子は呉葉がいつものやうに向うに歩いて行くのをじつと見詰めた。かの女は自分ながら不思議な氣がした。何うしてかう物を見つめる氣になつたか。何うして小さな野の花に眼をつけたり、愛宕の山の上に白くふわふわと靡いてゐる一片の雲に心を惹かれたりするのか。これもそのためか。その大きな悲哀の壁を前にしたためか。その日の夕暮には、兄の長能がやつて來て、父親もさびしさうにしてゐる話などをした。
 人の噂では兼家はこのごろまた新しい女に沈湎してゐるといふことであつたけれども、窕子に對しては、そんな形は少しも見せなかつた。昔はさういふことがあつたりすると、わざとそれをその前ににほはせて、半分は嫉妬をやかせて見るといふやうな態度に出るのが常であつたけれども、今はそんな風は面に表はさずに、却つて常よりもやさしい態度に出るやうになつた。そしてその心持は窕子にもよくわかつた。しかも窕子はそれに取り合はうとしなかつた。今更何うにもならない運命を窕子は感じた。
 ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出した。此の葬式は表の通りは通らずに、内裏の裏からぐつと大廻りに廻つて、鴨河をわたつて、鳥部野へと行くのだつた。何故かそのあはれな葬式の棺がそこに立つてゐる窕子の眼を惹いた。標野の向うには、小さな丘を二つ三つ前景にして、北山の起伏が碧く碧く見えた。葬式の棺はさびしい野をトボトボと丘の方へと遠く動いて行つた。

         三九

『使がまゐりました!』
 かう言つて入つて來た呉葉の聲は震へてゐた。
『何うしたの?』
『何だか、御病人の樣子が變でございますから、すぐにお出で下さいますやうに――』
『オ、それは――』
 かう言つて窕子は慌たゞしく身を起した。それはもはや申の下刻になる頃だつた。かの女は今朝から向うに行つてゐて一時何うかと思つたのが一先づおさまつて、また平常のやうに口をきくやうにもなり、腹の内部の痛みもそれほど烈しく訴へなくなつたので、ちよつと用事のあるのを足しに家の方へもどつて來て、それもすまして、ほつと息をついたばかりのところだつた。かの女はいつもならさうした端近なところまで出て行くやうなことはないのであつたけれども、慌てゝ飛出して、その使のものが來てゐるところまで行つた。
『御樣子はよく存じませぬけれど、殿がすぐお出を願ふやうにとおん申附けでござりまするゆゑ………』
 走つて來たと見えて、息をきらしながら言つた。
 取るものも取り敢へず、呉葉と倶に窕子は急いで出かけた。
 裏の階段から慌たゞしく入つて行くと、そこに兄の長能が事ありげに出て來て、あぶなく兩方で突き當らうとした。
『何うかしたのですか?』
『…………』
 兄の長能はそれには答ヘずに、急いで行けといふ手まねをして、そのまゝ用ありげに向うへと走つて行つた。
 さつき此處から出て行つた時には、まださうした慌たゞしさはなかつたのであるが、そこの一室に入ると、家の中の人といふ人は皆なそこに集つて、その向うには眞面目な顏をして手を拱いて坐つてゐる父の姿が見え、その此方にかをるが覗くやうにして何かしてゐるのがそれと眼に入つた。窕子の胸は大きな氷塊にでも塞がされたやうに一種何とも言はれない冷めたさと嚴そかさとに撲たれた。窕子は顛倒しさうな頭を抱いて、滑り込むやうにして纔かにその傍に行つた。
 窕子は天にも地にも替へ難いたゞひとり力と頼んだ母親が、その衰へ果た顏を仰向け加減にしてじつとしてゐるのを眼にして、われを忘れたやうに、『母者! 母者!』と二聲呼んだ。
 母親はもはやずつと以前から、誰が何と言つても、顏を押しつけて呼ぶやうにしても、更に答へようともしなかつたがこの時ひよつくりと眼を明けて、そして驚いたやうに、一度立去つた元の世界にまたもどつてでも來たやうに窕子の顏をじつと見詰めた。『母者! この身!』かう窕子はつゞけて言つたが、母親はちよつとうなづいただけで、そのまゝ何も口がきかずに、もはやこれで滿足した、この世には思ひ殘すところはないといふやうに、次第にその眼が閉じられて行つた。誰れの眼にも臨終が來たのであるのがそれとわかつた。
『母者! 母者!』
 この窕子の叫びにはもはや何の反響もなかつた。
 窕子の涙はほろほろとその母親の顏の上に落ちた。佛の唱名がその周圍から起つた。――急に人だちは慌て出した。今度はそりかへるやうになつて窕子が昏倒した。
『窕子さん、窕子さん!』
 かをるがいきなり飛んで來て、一度横に倒れた窕子を抱え起した。父親もその傍に寄つて來た。『水! 水!』と誰かが叫んだ。
 慌たゞしい光景が一室を占領した。皆な總立ちになつて此方へと寄つて來た。兄の長能は誰かが持つて來た水をいきなりその顏へと吐きかけた。『窕子! 窕子! しつかりしなくてはいけない、窕子! 窕子!』と叫んだ。窕子はかをるの膝に身をもたらせて、解けた髮を半ば亂したまゝ、全く喪心したもののやうにぐたりとなつてゐた。長能は猶ほしきりに水を顏の面にかけた。
『窕子!』
 父親の聲がはじめてその耳に入つたやうに見えた。窕子は薄く薄く眼を開いた。『オ、窕子さん、氣がつきましたか! しつかりしなくつちやいけませんよ。あなたは、大切な人なんですよ、ね、窕子さん!』とかをるは叫んだ。呉葉は唯オドオドしてゐた。
『本當にしつかりしてくれ……。まだこの身がゐるのぢやから……。のう、この身より先に世を早くしては不孝ぢや……。それはそなたの悲しみはわかるが……そなたにもしものことがあつては――』父親は窕子の顏を覗くやうに言つた。窕子はかをるや呉葉たちの手で、やがて別な靜かなところの方へとつれて行つて寢かされ、た。窕子はまだ本當にその意識を恢復したとは言はれないやうにして、眼をぱつちりとは明けてはゐるが、時々痙攣するやうにその手や口を震はせた。呉葉は布を水に浸してそれをその額の上に置いた。
 その話をきいて道綱がやつて來た。その時にはそれでも窕子はその手を取るやうにした。微かな笑ひもその口のあたりに上つた。『そら、母者はもう大丈夫! 安心なさいませ!』呉葉はかう言つて道綱をなだめた。夜になつて兼家もやつて來てその枕邊に坐つた。




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