道綱の母
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著者名:田山花袋 

 呉葉も笑つて見せた。
『また、あんなことを……仲が好いなんて……? そんなことちつともないわ。私、無理やり伴れて行かれたんですもの……。あそこ、少し行くと、ひどいところがあるんです。石につかまつて行かなくつちやならないやうな……。私、それから先きには何うしても行けないからツて言つたんですの……。私、待つてゐるつもりだつたの……。ところが、何うしても向う岸にわたれツて言ふんでせう。私、此方にゐると、向うは先にわたつて、その石から私の手を引張るツていふ騷ぎなんですもの……。容易にはあそこには行かれやしませんよ』
『だから羨しいツていふんですよ』
 そこに兄の長能がやつて來て、その谷にはまだそれよりも美しい百合がいくらもあるといふ話しをした。

         三四

 ある日、呉葉がにこにこしながら入つて來た。
『たうとう參りました……』
『…………』
 窕子は谷に臨んだ坊の室で、凉しい麻の裳ばかりを着て机に向つて歌の本を讀んでゐたが、いくらかいぶかるやうな顏つきで、急いで此方へと入つて來た呉葉の方を見た。
『殿から……』
『あ……さう……』かう言つて窕子はその消息を入れた文箱を受取つた。
 かの女は別にうれしいといふやうな表情は見せなかつた。しかもそれを手にするとそのまゝその消息を取り出して、それをすぐひろげた。すらすらと讀んで行くのが此方に坐つて控へてゐる呉葉にも氣持好く感じられた。
 讀みおはるのを待つて、
『別に、おかはりはござりませぬのですか?』
『お前の言つた通り……あまり長くなる……道綱も退屈してゐるだらう……もう歸つて來いツて書いてあるよ』窕子はそれを卷き收めつゝ笑ひながら言つた。
『それはさやうでございませうとも……殿だとて、お待ちかねでいらつしやるには違ひありませぬ……』
『やつぱり道綱はしばらく見ないでゐると、逢ひたうならるると見える……』
『それはさうでございませうとも……』呉葉はかう言つたけれども、にこにこと別なことを考へながら、『それに、何と申しても、眞心と申すものは、最後の勝利者でございますから……』
『…………』
『何處に行つたつて、こちらのやうな眞心を持つたものはございませんから……』
『何うだかわからないね。こつちにだつて、そんなものは持合せてゐるか何うかわからないよ……』
『あんなことを仰しやる!』
『だつて、さうは思はない? いくら此方が眞心を持つてゐても、向うでさうでなければ、さういつまでもその心を持つてゐることは出來なくなるのではない? やつぱりそれはお互ひのことではない……? それはね、その間に何も起つて來なければ好い。誘惑が起つて來なければ好い。しかしさういふ時には、得てさういふ誘惑が起つて來るものだからね。さういふ情に薄い一方の人に比べて、一方の人は實際以上に情に深いやうに見えるのが慣はしだからね……』
『でも……この間、法華經のお話をうかゞひました。そら、一つの心を固く持つてゐて動かない? さういふお話をうかゞひました……。あれとは違ふのでございますか?』
『…………』
 窕子はぴたりとそこに行きつまつて了つた。暫くだまつてゐたがやがて笑ひながら、
『お前、よく覺えてゐたね』
『だつて好い話だと思つて心に銘してをりましたのですもの……』
『それにつけても、その一心を持つといふことは難かしいことなんだね。お話できけば、わけはないことだけども、實際にそれを行ふといふことになると、大變なことなのだね……。今、考へた――お前に言はれて考へた。それはさういふ兩方を比べる心持などとは非常に違つてゐるのだツていふことを。もつともつとずつと先きのことなんだね。すぐそんな風に報酬的に考へるやうな心持では、とてもその境地に達することは出來ないのだね……』
『さやうでございませうか?』
『あ、お前に言はれて、好いことを考へた――一言の師と言ふことがあるが、お前はそれだ!』
『そんなことはございませんけど……』
『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』
 そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。
『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』
『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』
 かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。
 暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。
 不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。
 
         三五
 
 ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。
 路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。
 道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。
『つまらないなア……本當につまらないなア!』
 道綱が言ひつゞけた。
『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』
『だつて、あんなにゐるんだもの』
 こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。
『や、くちなは!』
 道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。
『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』
 道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。
『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』
 誰に言ふともなく窕子が言ふと、
『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』
 傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。
『伯母者、さつきのくちなはびつくりした?』
『びつくりしたにも何にも……伯母者ふるえ上つた……』
『今度、出たら、麿が生かしては置かない……』
『麿はきついな』
 こんなことを言ひながら三人は山の岨のやうなところを通つて行つた。
 向うから重さうに粗朶を負うて女がひとり下りて來た。
 かをるはそれにきいた。
『尼寺は?』
『尼寺かな……。もうぢきだ……。この林を越すと、もう見えるだ。若い方の尼さん、つい、そこに出てゐたつけ……』
『まだ十町ぐらゐあるかね?』
『そないあるもんか……』
 こんなことを言つてすれ違つて行つたが、少し行つて窕子が振返つた時には、その女がその背負つた粗朶をそこに下して、じつと立ちつくしてこつちを見送つてゐのを目にした。
『あゝいふ人にも樂しみといふものはあるんでせうね?』
 これはかをるだ。
『それは同じことよ。家にはちやんと立派な男子がひとりゐて、あゝして里に出て粗朶を賣つて來るのを待つてゐるのよ。あなたと同じやうに男子に可愛がられてゐるのよ』
『まア、あのやうなことを――』
『あの粗朶を賣つて、歸りには洒を買うて來る……それを居爐裏の側で男の子が待つてゐる。さういふ生活もこの身には羨ましい……』
『結局、のんきで好いには好いでせうね!』
『こら、こら! そんなところに行つてはいけません!』ちよつと窕子が眼を離してゐる間に、道綱はずつと向うの方へと行つて崖の上見たいなところで頻りに松蟲か何かを搜してゐるのであつた。
『本當にしやうがないねえ!』
『麿!』
 かをるも呼んだ。
『もう、行つて了ひますよ』
 そしてかれ等は林の中へと路を取つて行くと、やがてその尼寺の屋根が見え出して來た。
 その時、道綱はやつとあとから走つて追ついて來たが左の掌につかんだものをそのまゝそつと少しあけて見せて、
『母者! 母者!これ松蟲ね?』
『どれ?』
 窕子は覗いて見て、『まア、この子が? 本當に松蟲だ!』
『松蟲! 松蟲!』
 と道綱は左の掌を持上げて、そのあたりを飛廻つた。
『待つておいで! 伯母者がよくして上るから――』かをるはつねに用意して持つてゐる紙を胸のあたりから取出して、それを袋のやうにして、『さ! こゝにお入れ!』と言つて、それをそつちへとやつた。道綱は拳の中から巧みにそれをその紙に入れて、その末をひねるやうにした。
『もうこれで大丈夫ね』
 道綱はそれを手にしたまゝうれしさうに先に立つた。かれは猶ほ草むらを搜すことをやめなかつた。
 やがてその尼寺の前のところへ來た。
 そこにゐた小さな女の童は不思議さうにして林の中を此方へとやつて來る三人づれの客を見てゐたが、そのまゝ奧に入つて行つたと思ふと、今度はそのたしか歌のよめるといふ人らしい二十二三の若い尼が出て來た。
 それと知ると、その若い尼の顏が急に赤くなつた。まさかに、今の世にきこえてゐる東三條殿の窕子といふ名高い女の歌人がわざわざこの山の中までやつて來ようとは夢にも思ひがけないことであつたからであつた。かの女はすぐ奧へと入つて行つた。
 あたふたと老尼も出て來て、下にも置かぬやうにしてそれを迎へた。
『まア、好うこそ、このやうなところにお出くだされました……。坊のおんあるじからお話は承つて居りましたけれど、わざわざ御出下されやうとはゆめ更存じませぬで……』
『まア……ようこそ』若い方の尼もいかにも喜ばしさうな感激したやうな聲を立てた。
 窕子だちの眼には、全く世離れたさびしい庵が映つた。ついそこが竹の縁になつてゐて、その向うに筧から清水のちよろちよろと落ちてゐるのが繪卷の中の一つの光景であるやうに見えた。そしてその向うは少しの場所が畠になつてゐて、もはやかなりに丈が高くなつてゐるもろこしが風にガサガサと動いてゐた。庵の中央には大きな厨子があつて、そこに二尺五寸ほどの釋迦如來の木像が据ゑられてあつた。香爐だの、香皿だの卷物だのが一面にその前の經机の上に置かれてあるのを窕子は見た。
 道綱は挨拶がすむかすみもしないのに、逸早くそこを飛び出して、『遠くに行くんではありませんよ』と言ふのをも耳に入れずに、そのまゝ向うの草原の中へと入つて行つた。
『生中ひとつでも松蟲を取つたもんですから……』
『まア、さやうでございますか。松蟲や鈴蟲なら、此處にも澤山をりますほどに、あとでいくらでも取つてさし上げてもよろしうございます……』
 かうした山の中の庵室にまでも、かの女と道綱とが、東三條殿で名高くなつてゐるといふことは、一面不思議な心持を窕子に誘つた。都にゐれば、さういふ風に他から取扱はれるといふことは、一種の屈辱を感ずることであつたけれど――ことに殿の女性に對しての振舞が世間に知れわたつてゐるので、一層さういふ氣持を味はずにはゐられないのであつたけれど――そのためその身の女の歌人としての名譽すら全く汚されたやうな心持さへするのであつたけれども、こゝではそれと反對に、殿の威光がさういふ形にまで大きくひろがつてゐるのがそれとわかるので、その爲めかの女の肩身がひろくこそなれ、決して狹くはならないのであつた。(まア、かういふ美しい方!)と言ふやうに誰の眼にも映るのが得意といふまでではないにしても、決して不愉快ではないのであつた。
『それでも、よく徒歩から御出でになられましたな?』
 老尼はそこに冷たい清水を持つて來て勸めたりしながら言つた。
『でも、かなりにあるにはありましたね……もう少し近いところかと思うた――春ならばこのくらゐの路は、かへつて徒歩より來る方が樂しみで好いのでござれど……姉者はくたびれた?』
『それほどでもない……。そんなに遠くはありませんもの……。あの丘ひとつ越しただけですもの……』
 かをるもあたりがめづらしいといふやうにして言つた。
 窕子はそのゐるところが比較的高い位置にありながら、またかなりにひろい平地でありながら、四面が全く山で取圍まれたやうになつてゐるのをさもめづらしさうに、あつちへ行つて立つたり此方へ來て立つたりして眺めた。(いつそかういふところに來て靜かに住んでゐたら……)窕子はこんなことを胸に浮べた。
 若い方の尼は、つめたい清水に糖を入れた茶椀などを持つて來て、それをそのめづらしいお客の前に竝べた。
『何にもさし上けるものはございませんけど、この清水だけは、それは冷たうございますから……。室のこほりのやうでございますから』
『おう、つめたい』窕子はぐつとそれを飮み干して、『もう一杯! 今度は糖を入れずに――』
 若い尼はそのまゝそれを持つて向うの方に行つて、山よりのところにもくもくと湧き出してゐる綺麗な清水にその椀を入れて汲んだ。窕子は氣輕に立つてそれを縁のところからのぞくやうにしたが、『そこに湧いてゐるんですね……。まア、何て好いんでせう!』かう言つて、たまらなくなつたといふやうにそこにあつたわら沓をつゝかけてそつちへと行つた。
 若い尼の手から茶椀を取つてそれをまた一口に飮み干した。
『姉者來て見やな……』
 かをるもその聲をきいてそつちへと下りて行つた。二人はやがてそこに立つて、そのもくもくと漲るやうにわき出してゐる清水を眺めた。
『まア綺麗ねえ!』
『山はこれだから好いのねえ! 私にもその椀貸して?』
 かをるも自分で茶椀をその中に入れて二杯も三杯もつゞけて飮んだ。
『坊のあるじもこれだけは羨しいつて、參る度に申してをります!』
 若い尼は傍から言つた。
『さうでせうね。坊にも清水はあるにはあるけれども、こんなに好いのはございませんもの……』
『本當ね』
 かをるも言つた。
『ですから、夏は始終此方に來てゐたら、さぞ好いだらうなどと申してをるのでございますの』若い尼はこんなことを言つたが、そのまゝ厨の方へと行つて、そこからさつきの里の女が持つて來て置いて行つた黄く熟した甜瓜を五つ六つ持つて來てそこに浸けた。
『すぐ冷えますでのう』
 冷えたら、京のめづらしいお客さまにさし上げようといふのであつた。
 老いた尼は晝前の讀經を小聲で始めた。香の烟が靜かに□る――をりをり鳴らす鉦が靜かに鳴つた。やつぱり山の中にかくれた優婆塞であるといふ氣が窕子達にもした。
 此方では若い尼と窕子とが歌の話を始め出した。初めに若い尼の方が歌を書いて見せると、今度はそこにあつた檀紙に綺麗な手跡で窕子が昨日詠んだ歌を書いて見せたりした。話は容易に盡きようとはしなかつた。内裏で歌のうまい人達の話などもそこに出た。道綱がやがて松蟲を三疋も四疋も捕つて戻つて來た。つめたくなつた甜瓜の皮も厚く剥かれた。

         三六

『え?』
 びつくりしたやうな調子で窕子は聲を立てた。かの女はそれとも知らずにこの話をそこに持ち出した若い尼の顏をじつと見詰めた。すぐつゞけて、
『それは本當ですか?』
『本當でございますとも……。私などは詳しいことは存じませんけれども、今から五十年も前のことださうでございます。大變なことだつたさうでございます……』
『それではその六條どのの姫君と申すのは、現にそこにゐるその老尼さまだと仰しやるのでございますか?』
『さやうでございます』
 窕子の言葉につれて若い尼の言葉も丁寧に改められて行つた。
『まア――』
 窕子はかう言ふより他爲方がなかつた。かの女は佛間に向うむきに坐つて讀經してゐる老尼の方に目を遣らずにはゐられなかつた。
『まア、本當でございますかねえ? 六條の四の姫君、先々代の御門の女御に上がるばかりになつて身をかくした? ――下司の建禮門につとめてゐるものと身をかくした?』あとの一句は窕子も流石に聲を低くした。
『さやうでございます……。』
『まア、ねえ、思ひもかけぬこと――ほんに思ひもかけぬこと――』かの女の頭には、幼い頃祖母から聞いたその時の騷ぎやら噂やらが今更のやうにそこにはつきり浮び出すのだつた。
 祖母の話では、それは非常な騷ぎであつたといふ。名高い美しい姫で、其當時のあらゆる姫だちの中でも群を拔いてゐたといふ。また御門がその姫の美しいのを知つてゐられたばかりでなく、その女御として内裏に入つて行くのを指折り數へて待つて居られたので、何うすることも出來ないので非常に困つたといふ。否、そればかりではない、その姫は死んだか生きたかその行方がわからない。當時の御門の力で、または六條殿の力で、あらゆることをして搜したけれども、何うしてもわからない……。それで長い長い月日が經つた。世間ではいつかそのことを忘れた。その髮の長い黛の美しい姫のことを忘れた。六條殿でも、かうわからぬのでは、もうこの世に生きてゐるのではあるまい、地の下に穩かに眠つてゐるのであらう。かう思つてそれを搜すことをあきらめた。そればかりではない、間もなく六條の大殿がおかくれになり、その北の方も、平生四の君、四の君と可愛がつてゐられただけに、それを苦に、そのあとを追つて行かれた。時がまた經つて行つた。その御門さへ位をお讓りになつて二三年して崩御になつた。世の中も丸で遷り變つた。もはやさうした戀愛の話をするものもなければ記憶するものもなかつた。新しい時代の人達も同じいやうに苦しい戀をし、逢はれぬ苦しさを嘆き、思はぬ相手に添はなければならない涙を流してゐるにはゐるのだけれども、しかも過ぎ去つたことはもはやその心に響いては來なかつた。ところが、窕子にその話をしてきかせた祖母が死んでからまた五六年經つて、かの女が殿の許に來るやうになつた時分、ひよつくりひとつの物語が傳はつた。それは四の君がまだ生きてゐるといふことだつた。それもその一緒にゐる男は、その建禮門につとめてゐた同じ下司で、年はもはや六十に近く、女の方は五十を越してゐて、その時分にも睦まじく暮してゐるといふことだつた。そしてそれが何うしてわかつたかといふと、東國に下つたある侍の下司、その男の父親がその建禮門につとめてゐた下司と朋輩だつたので、よく互に出入りしたので、子供心にもそれを記憶してゐた。ところが、何でも武藏野の奧、それもずうつと秩父の方に寄つたところに用事があつて、そこに行く途中、日が暮れたので、無理に頼んである茅屋に泊めて貰つた。ところが、そこにゐた爺がその子供の時に父親のもとに出入りした下司の男によく似てゐる。非常によく似てゐる。何うも不思議だ……。顏もさうだが、聲がそつくりだ。『太郎は今に大きうなつてえらうなるの? 院の武士になるのう?』などと言つて頭を撫でたりした下司にそのまゝだ。しかしその彼が何うしてもこんなところにゐるとは思へない。他人のそら肖といふこともある。大方それだらう。滅多なことは言ひ出せないなどと思ひ返しても見たが、何うしてもそれに違ひない。それにはその時分子供心にも不思議なものがあると思つて見てゐた耳のところに出來てゐる小さな疣もそのまゝそこにある……。それでかれはたうとうそれを言ひ出した。ところがその爺は、おお、さうぢやつたか、あの時の太郎ぢやつたか? と言つて、ぽろ/\涙を流してその素生を打明けた。そしてそこにゐる婆は、その評判な四の君で、それ以來かれ等は此處に來て一生を送つたといふことだつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。
『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』
『まアねえ』
 さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。
『よくそれでもねえ!』
 窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、
『それでも昔の話などをなさることがございますか?』
『ちつとも……』
 若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』
『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』
『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』
『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』
『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部卿にかたづいてゐらつした方、あの方が一年ほどはよくおたづねになりましたが、昨年おかくれになりましたので、もう何方もお出でになる方がございません。皆な孫、曾孫にあたる方ばかりですから……』
『一體おいくつにおなりでございますか?』
『今年七十五とかになると申してをりました。』
『それではまだそれほどお年を召したと云ふでもございませんね……』
『え、え、まだ、お達者でございますとも。齒などもまだ下の方は半分は殘つてゐらつしやいますから……』
 窕子は深く打たれずにはゐられなかつた。面白い話をきいたといふ以上に大きな人生をそこにまざまざと見せられたやうな氣がした。かの女は遠い東國を頭に浮べた。その身も行つて見たいやうな氣もした。
『まア、ね、面白いお話ね……。よくそれでわからずにゐましたことねえ?』
 傍できいてゐたかをるも心を動かされたといふやうにして言つた。
『何しろ、武藏野と申しても、その普通旅人などの通るところではなしに、ずつとわきに入つたところださうでございますからねえ!』
 若い尼は説明した。
『さういふことが、今でも出來るでせうか。出來たら、こがれ死に死んだり、一緒に死んだりするよりもその方が好うございますねえ……? それで、子供は出來なかつたんでございませうか?』
『ひとりもなかつたさうでございます』
『まアねえ』窕子はまたその遠い昔の巴渦の中にその身を見出すといふやうにして、『それでもよくその男の人が京にとゞまつてゐずに、その美しい人を東國につれて行く氣になつたと思ひますね。誰か東國に知つてゐるものでもあつたのでせうね? さうでなくては、とても知れずに、そこまで行くことは出來ないでせうからね……。それにつけても、京では大變な騷ぎだつたつて言ひますからね。内裏はその話でしんとなつて了ふくらゐだつたさうですから。祖母がその話になるといつも眞劍になつて、その人だちは今でも生きてゐるだらうか。それとももう死んで了つただらうか。何處か深い山の中か何かで首を縊つてでもゐたのを誰も知らずにそのまゝ埋めて了つたのではないだらうかなんてよく言つてゐましたからねえ。祖母だつてその話に深い興味を持つたからこそさういつまでもその話をしたんですね。それにその建禮門につとめてゐた人にも、ちやんとした妻もあり子もあつたんださうですから。その妻が泣いて外を歩いてゐたのを祖母が見たことがあるなんて言つてゐたことがありました。それを考へて見ても、戀といふことは不思議ですね。何ういふわけで、さういふことになつたか結局はわからないんですからね』かう言つた窕子の頭には、この梅雨ころに強いて御門に内裏に伴れて行かれた末の君のことだの、それを思ひ死に死んで行つた式部卿のことだの、ことにあの雨の夜の恐ろしかつた光景などがそれとはつきり浮んで來るのだつた。否、さうしたいろいろな戀愛のシインの中にかの女の戀のやうなものが雜つてゐるのもやつぱり不思議な心持をかの女に誘はずには置かなかつた。窕子はあたりを見廻すやうな心持の益々多くなつて行くのを感じた。またそれほど關係があるのでも何でもないけれども、もしその身とあの坊のあるじの僧と戀にでも落ちて、さういふ風に身をかくすやうな形にでもなつたら、それこそ何んなに世間で騷ぐことだらうなどと窕子は想像した。
 そんな話をしながら甜瓜などを食つたりしてゐる中に、老尼のおつとめもすんで、やがて莞爾しながら皆なのゐる方へと出て來た。別に話をするでもなく、たゞ靜かに珠數をつまさぐるやうにして坐つてるた。窕子は成るたけ見ないやうにしながらも、しかも、それを見ずにはゐられないやうな氣がした。A Great Love とは言へないまでにも、娘の時代から白髮になるまで全く世間から離れて暮した戀愛生活――それだけでも非常に大きなことのやうに窕子には思へた。評判の美人であつたといふ當年の面影も、その端麗な顏の輪廓や、恰好の好い鼻つきや、眉や口元などにそれと指さゝれるのもなつかしかつた。
 かをるも何か聞けるなら聞きたいといふやうにして、しつこくその老尼の顏を眺めた。
 たうとう窕子が訊ねた。
『今、こちらからお伺ひしたんですが、長らく東國にゐらしつたさうでございますねえ?』
 しかも老尼は今は最早それについては、別に多くを考へてはゐないらしかつた。或はそれは遠い夢か何ぞのやうになつてゐるのかも知れなかつた。
『武藏野には逃水といふことがございますさうですね?』
『ひろい野原でございますでのう……。三日も四日もその原を歩かねばならぬやうなところで、逃水などと申して、土地のものはいろいろに申すのでのう。あれはさういふ水があるのではない。霧か何かの加減で、かげろふか何かのやうになつて見えるのだなどと申してゐますで……』
『それでは別に、さういふ名所があると申すのではないのでございますね?』
『さう土地のものは申してをりますのう……』老尼は一つ一つ珠數を數へながら段々話し出すのだつた。『それに、花などもめづらしい花が多うござる。紫の一もと! そら古歌になどもござるのう。それもいろいろに言ふが、綺麗な花も澤山にあるやうなところぢやのう。しかもこの身の居つたところは、武藏野は武藏野でも、ずつと奧の方で、それは山の裾のやうなところでのう。すみだ川といふ川もあるさうぢやが、そこにもよう行つて見ることが出來ざつた……』
『めづらしいことでございますねえ!』
『食ふものなどには別に不自由はせざつたのう。鳥などは雉や山鳥が澤山にゐた。その頃はまだ佛の道に入らざつたものぢやで、罪といふことも知らずに、つれ添ふ人がさういふことが好きぢやつたために、よく狩りに行つてさういふ鳥や獸を捕つて來たものぢや。猪なども澤山に來をつた。冬になると、夜中には狼がようやつて來た。ガサガサツて落葉を踏んでのう。何も食ふものがなくなるぢやろ……。あゝいふ獸は鼻でよく物の臭を嗅いで來るものぢやで、にほひのするものは置いてはならん、味噌汁などことに禁物ぢや。そのにほひがすると、戸を壞してまで入つて來ようとするぢや……。でも馴れぢやのう。さういふものにも馴れると、人間は別に怖うも思はなくなるものぢや。また昨夜狼が來をつたなどと言つて何とも思はぬやうになるものぢや。近所にだつて、それは家はないことはない。やはり同じやうな人だちが住んでゐる。稗だつて、食ひなれれば、馨しうてうまいものぢや……』
 いつもはそんな話をしたことさへないのに、今日はすらすらと話し出すのを若い尼もたゞめづらしいことにして、じつとその顏を打眺め眺めた。
『それでも退屈ではござりませぬでしたか?』
『退屈なこともあつたが、人間は何處にゐるも同じぢやのう。退屈もすれば、おもしろいこともある……。それはのう、今は佛の道に入つて、何も彼も懴悔の身ぢやが、あゝいふ昔のくらしも樂しかつたと言へば樂しかつたのう……』その時を思ひ出すといふやうにして老尼は話した。
 まさかにその話にまで持つて行くわけには行かなかつたけれども、その周圍のことについて、いろいろと訊いたり話したりした。そこらに住んでゐるものは、高麗から移住して來たものでなければ、昔からずつと百姓として住んでゐる人だちだつた。秩父の方には大きな深い山があつて、その向うに町などがあるなどと聞いたが、そつちには行つたことはなかつた。高麗から移住して來た人達の方が、農事にも巧みに、文化も進んでゐて、もとからゐた百姓には馬鹿にされながらも却つて收穫などを多く貯へてゐるといふことだつた。話の間々には、老尼は念珠を手まさぐりつゝ佛の名を唱へた。
 そこで一日あそんで、夕日がいくらか凉しくなつた頃から、窕子だちはその尼寺からもとの坊の方へと戻つて來るのだつた。道綱は鈴蟲や松蟲を澤山捕つて、それを母親に拵へて貰つた紙袋に入れて、喜ばしさうに手から離さずに持つて歩いた。かをると窕子とはこんな話をした。
『年を取ると、あのやうになるものでござるかのう!』
『ほんに、何も彼も忘れて了うものと見える……』窕子は考へながら、『あれでもいろいろと苦勞があつただらうに――その父母のことも考へたらうに――その父母や叔父伯母などが亡くなつてからずつと年月が經つて後にやつともどつて來たのぢやから、ほんにそら水の江の浦島が子と同じぢやのう………』
『ほんに同じぢや』
『不思議なことがあるものだ……。過ぎ去つたあとで考へたのでは、もうその時の心持は本當にはわからなくなつて了つてゐるものぢやで……。夢のやうぢやと言つたがほんにさうぢや』
『それでも、その男のことを忘れてはをらぬらしい。やつぱり佛の御名の間々にはその男のことを思ひ出してゐるやうでござつた……。戀とは不思議なものだといふ氣がした……』
『ほんに、浦島ぢやのう』窕子も深く感ずるやうに言つた。それから比べると、自分の戀などはまだやつとその戸口に入りかけたもののやうに思へた。殿は本當は此身より他にないやうなことを言ふのであるけれど、それが何處まで信じて好いかわからないやうな氣がした。
 窕子だちは坊に歸つてから猶ほ十日ほどゐたが、盂蘭盆が近づいて來たので、一度京の家の方へと戻つて來ることにした。山から出て來る小川の岸には、さゝやかなみぞ萩などが水にぬれて咲いてゐるのを目にした。標野に來ると、今まで籠つてゐた山の峽に雲が白く徐かに靡いてゐるのがそれと振返へられた。

         三七

 それから二年經つた。その間にはいろいろなことがあつた。その中でも窕子に取つて印象の深かつたことは、父親が陸奧から歸つて來たことだつた。父親は八年の間にいたくも老いた。話をするにもわくわくするやうな表情をした。多賀の府に留つてゐることが出來れば好かつたのだが、それが出來ないので、言ふに言はれない艱難を嘗めた話などを父親はした。しかしそれといふのも小野の宮の機嫌をそこなつたからで、それも奧を探つて見ればやつぱり窕子が兼家の許に行つたことに起因してゐるらしく、小野の宮が失脚してから、やつとその身が浮ぶやうになつたなどと父親は話した。『それにしても結構なことぢや……。殿の世になるのも、もはや程近い。目の前に見えて來た……。これからは、そなたも運がひらけるばかりぢや』こんなことをも言つた。
 それにつけても母親の喜びは何んなであつたらう。八年の長い月日を離れてゐてしかも一刻も心に思はないことはなかつたのであるから、窕子の眼にもこの世の喜びとは思へぬやうな喜びが映つた。母親はたゞわくわくしてゐた。何から話して好いかといふやうにたゞ默つてじつとして顏を見合せてゐたりした。窕子は出かけて行つては、『母者、この頃、何うかしたやうだ……もう昔のやうに物を言はなくなつた……』などと言つた。
 政治上の兼家はまだ正面に出て行つたといふわけではないので、それほど自由がきくわけでもなかつたけれども、長い間虐げられて左遷されてゐた窕子の父親を然るべきところにすゝめるくらゐの力は持つてゐた。兵部省の輔に任命されて、やがて、そつちの方ヘと勤めるやうになつた。
 もう一つ窕子に取つて喜ばしいことがあつた。それは他でもない、道綱が童殿上したことであつた。さすがに兼家も道綱が可愛ゆく、東三條にも、堀川にも子供は大勢ゐないことはなかつたけれども――また童殿上してゐるものもふたりほどあるにはあるのだつたけれども、しかも一番道綱が可愛ゆいらしく、その當座は日ごとそこにやつて來て、いろいろとその世話を燒いた。時には自ら自分の乘る牛車の内に入れて、そして一緒に參内することなどもめづらしくはなかつた。窕子はその始めて童殿上した時の道綱の扮裝のさまをいつまでも忘るゝことが出來なかつた。
 幅のひろい狩衣に小さな冠をして、沓をはいて父親に伴れられて牛車へと入つて行くのを見た時には、母親らしい涙が胸一杯溢れ漲つて來るのをとゞめることが出來なかつた。
 いつかは憎んで憎んでも足りないやうに思つた兼家すら、さういふ風にして道綱を伴れて出て行くのを見ると、何とも言はれない愛情が――肉體でなければ味ふことの出來ない愛情がそこに體に滿ち溢れて來るのを感じた。――何んなに遊蕩に身を持ち崩してゐたにしても、今でもその癖はやまずに、新らしい女が出來たりなどしてゐるのをはつきりと知つてはゐたにしても、それが深くこんがらかつて、何處までが憎だか、何處までが愛だか自分にもわからないやうな氣がした。否、さういふ女が他にあるがために、そのために一層不思議な愛情が漲つて行くのを感じた。口惜しさ、腹立しさ――それすらそこに愛となつて絡み合つてゐるやうな氣がした。
 ある日は道綱が話した。『だつて、へんな美しい人が來て、この身を伴れて行くのだもの……。そしてね、母者、その人が貴い女の人なの……局の人たちがその人のことを大騷ぎしてゐるの……。この身もびつくりしちやつた……。ずんずん奧の方へつれて行つて了ふんだもの……。母者、あの宮知つてゐるのかえ……。いろいろなものを呉れたよ。羊羹だの栗だの高つきにのせて……。それから母者にもよく言うてくれと言はれてぢや。あんな美しいけだかい人この身は見たことはない……。』
『そちは知らぬかのう……あの堀河の家にゐた宮――?』
『知らぬ――』
『さうかのう。知らぢやつたかのう? その宮ぢやらう?』
『さうか――それぢや、母者よく知つてゐるんぢやな……。この身はそれと知らないからびつくりしちやつた。女子のゐるところぢやのう? 澤山々々女子がゐた。そしてこれがあの東三條殿の歌よみの人の子だなんて、皆なしてこの身をおもちやにするのだもの……しまひには睨めてやつた――』
『まア、この子が……』
『だつて、宮はにこにこして何もせられぬのだけども――その女房たちが人を何の彼のと言ふのだもの……』
 窕子の眼には大内裏の藤壺のさまがそれとはつきりと映つて見えるのだつた。女の歌人としてこの身がさうした社會にも認められてゐることが――その子の道綱の口からもさういふことがきかれるといふことが、かの女に一種の愉快を感じさせた。
『宮はそれから何うなされた――』
『宮のゐらるゝところまで伴れて行かれた……。そこでいろんなことをきかれた。……父上のこともきかれた。……母者のこともきかれた。そして母者に孝をつくさなければいけないと言はれた……』
『まア……』
『それから歸る時、また今度來よと言はれた……。母者、あそこはずゐぶんひろいところね。幾曲りいく曲りと曲るんだもの……。わからなくなるくらゐね……?』
『…………』
 窕子は末の宮の戀のことを頭に浮べずにはゐられなかつた。あの東國に走つた老尼の戀愛のことも不思議にもそれに引くらべて考へられた。
『それからずつともどつて來た?』
『え……』
 道綱は可愛く點頭いて見せた。
『さういふところでは、しやんとしなけれはいけませぬよ。行儀をよくしなければ、でなくつては、殿上がつとまりはしないんだから……』
『大丈夫……』
『それから、一緒にゐる友だちと爭ひごとをしてはなりませぬよ』
『大丈夫……』
 かう輕く言つてそして表の方へと出て行くのだつた。
 その年は何方かと言へば窕子は幸福だつた。夏になってから宮から消息があつて――この間は道綱どのに逢へてうれしかつた。お身をまのあたり見たやうな氣がした。眉から額のところがよう似てゐる……。また今度逢はせていたゞきませう。禊の時には、棧敷が空いてゐるから來るなら來ては見ぬか。運好ければお目にかゝることが出來るかも知れない……などと書いてあつた。で、禊には母と道綱とを伴れて出かけて行つた。不幸にして宮には逢ふことは出來なかつたけれども、そのめづらしい儀式をまざまざと見ることが出來たのは嬉しかつた。
 父母もいつも樂しさうに睦じさうにしてゐた。やはりいろいろな境を經て來たのでなければ人間は何うしても靜かなむつまじい心持になることは出來ないといつかも山の坊のあるじが言つたがそれが今はつきりとかの女にも點頭かれるやうな氣がした。二三年前から比べたら、かの女は何んなにいろいろな瞋恚や嫉妬や不平や悔恨を捨てゝ來たか知れなかつた。それと共に生きてゐるといふことのたうとさが次第に飮み込めて來た。生きてゐさへすればいつかは好くなつて來る。いつかはさうした苦しみを捨て去るやうな時が來る。さういふことが生きてゐるといふことである。殿の遊蕩にしてもやつぱりその通りだ。その時にははつと思つて吐胸をつくが――この身の戀などは一顧にも値ひせずに捨てられて了ひさうに悲觀されるが、じつとして見てゐると、そんなものではなくて、そこにも不滿足と不幸と不運とがいつでも渦を卷いてゐて、いつか春の雪のやうにあとなく消えて了つてゐるのを見た。あの時それを堪へ忍ばなければ自分は何うなつてゐたかわからない。自分で自分の戀を破壞するやうな形になつて行たに相違ない。あとで後悔したつて追ひつかないやうなことになつたに相違ない。これが古の人のいふ耐へ忍ぶといふことか。忍耐が人間には一番肝心だといふことか。しかし耐へ忍ぶといふ心持ともいくらかは違ふやうである。それよりももつと努力の要らない、そのまゝそつとして置く心持――まづ暫くそれをわきにやつて置くといふ心持、むしろさういふ心持に近いやうなのを窕子はこの頃染々と感ずるやうになつた。
 母親は何うしてかこの頃丸で違つたやうな人になつた。もとは何方かと言へばいろいろなことを氣にしたり、殿のことについても時には窕子以上やきもきしたり、かをるに對してもわるくこだはるやうな心持を見せたりする人だつたが、父親が歸つて來てからは全く靜かな落附いた愛情に富んだ母親になつて了つた。嫁に對してわるい顏などを見せたことなどもなく、殿のことにしても、『何と言つたつて、お前、立派な人なのだからね……。堅いお方なのだからね。だからお前が始終からかはれてゐるやうなものなのだよ。お前がむきになつて怒つたりするので、一層さういふ氣になるのだよ。好い方なんだからねえ』などと言つて、もう心づかひすることはないといふやうな任せ切つた心持で話した。
 かをるもやつぱり窕子の言ふ通りだといふのだつた。此頃では險しい言葉などをかけられたことは一度もないといふのだつた。
『やつぱりひとりでゐたので、さういふ風になつたのかしら?』
『さうかもしれない……』
 こんなことを二人は話した。道綱などが行つても、『あこ來たか、よう來た、よう來た!』などといかにも嬉しさうであつた。羊羹などを高つきに載せて出した。
 ところが二年目の春の祭の濟むころから、何となく胸がつかえるなどと母親は言ひ出した。その癖その祭見には、棧敷が取つてあつたので、窕子を始めかをるや呉葉などと一緒に出かけて行つたのであつた。そして風が吹いて塵埃の立つ日に御輿の赤牛にひかれながらねるやうにして行列の徐かにやつて來るのを見たのだつた。中宮の出し車の美しさがその時あたりの眼を惹いた。さまざまの色……さまざまの模樣……その中でたしか藤色なのが中宮だつた。忘れもしない、その日の夕方から、母親は何うも胸が變だと言ひ出したのだつた。
 しかし窕子は別に深くそれを心配しなかつた。一時のことだと思つた。物でも取りすぎたのだと思つた。丁度そのころ殿が續けて來たので、二三日無沙汰して行って見ると、奧の對屋に几帳して寢てゐて、思ひもかけないほどやつれてゐた。醫者にもかけて見たが、何うも本當のことはわからないといふ。何か憑物でもしたのではないかと言つてそれを落すために修驗者などを呼んで見たが、何うもそれでも驗が見えない。『なアにそんなに案ずるには及ばない。いまにぢきに治る……。お前が今日來るまでには起きるつもりでゐたのだが……』などと病人は手輕に言つてゐるのであるが、何うもいつもの風邪とは違つてゐるらしいので、窕子は急に慌て出して、早速殿のかゝりつけの醫者を招んで來て見せたり、寺でごまを焚いて貰ふやうにわざわざ使者を北山に出したりした。それから梅雨の節が來て、往つたり來たりするのも路が泥濘で困つたりしたが、しかも心配してやつて來る度に、『もう好い。今日は大分好い。北山のごまがきいたと見えて、氣分がさつぱりした……』などと言つてゐるに拘はらず、次第にその體のやつれて行くのを目にした。そればかりではなかつた、さみだれが晴れて京の町が日影にかゞやく頃になると、急に胸が強くさし込むやうになつて、左の脇腹のところが非常に痛んだ。『かをる! 氣の毒だが、またこゝを押して呉れ!』かう呼んでそこを強く強く押して貰つた。
 窕子は呉葉に言つた。
『何うも、いつもとは違ふのでね……。あの痛みが何うもわからない……。何かお中のうちに腫れたものでも出來てゐるのではないかと醫者は言うのなれど……』
『それだと困りますねえ』
 呉葉も窕子の心を知つてゐるだけに、ひと事とは思へぬのだつた。
 急に思ひ附いたやうに、
『腫物ならば私はちよつと行つて參じませう。大原野に、それによくきく地藏さまがございますから……。そこにさへお參りすれば、どんな難かしい腫物でも、三日が内に口があいてよくなると申しますから……』
『でも、本當に腫物だか何だかわからないのだけれど……』
『それでも、私、行つて參じませう。わけはありませぬから』
 呉葉はさう言つて、桂川の土手に添つた長い路を遠く遠く歩いて行つた。大原野の春日の社のあるところからはもつと南で、昔、都が一度そこにあつたなどと言はれるところだつた。そこには竹むらの蔭に小さな地藏堂があつて、そこに大勢腫物のために參詣する人だちが來てゐた。
 窕子は此頃はまた大きな壁見たいなものに打つかつたやうな氣がするのだつた。折角いくらか人間のことがわかつて來て、いくらか落附いた氣持になつてゐたのに、それさへ再び夏草のやうに亂れ勝になつた。かの女には母親なしの自分の生活を考へて見ることは出來ないやうな心持に滿たされた。苦しいことがあると言つては、腹立たしいことがあると言つては、わからないことがあると言つては、すぐ母親のもとにかけつけたものであるのに――母親はそれを自分のことのやうにして心配もすれば慰めもして呉れたものであるのに――母親があればこそ今まで死にもせずに生きて來ることが出來たと思はれてゐるのに――あのやさしいにこにこした顏があるために何も彼も慰められて來たのに――もしものことがあつたりしたら? 窕子はそこまで行くと深い憂欝に閉ぢられずにはゐられなかつた。かの女はじつと妻戸のところに立つて竹むらに夕日の影の消えて行くのをたまらなくさびしい心持で見詰めた。
 時にはひとりでに涙が流れて來た。孤獨の涙が。今度は治ることがあつてもいつか一度はわかれて行かなければならない涙が。豫想したことのないひとつの事件がその眼の前に起りつゝあるといふことが。その暁にはその身は何うなるであらうと思はれるやうなことが。それにしてもかの女は一度だつてそのやうなことを想像したことがあるだらうか。母親がゐなくなるなどといふことを考へただらうか。あのやさし莞爾した顏が、この世になくなるなどといふことを思つて見たことすらあつたらうか。窕子は涙ばかりではなく――それ以上にじつと空間の一ところを見詰めるやうな心持になつた。
 何うかして一度は治つて呉れるやうにと祈つた効もなく、次第に母親の病氣のわるくなつて行くのを窕子は何うすることも出來なかつた。此頃では夥しく脇腹が痛んで、その内部に出來てるる腫物が外部から觸つて見てもそれとわかるくらゐになつて行つてゐるのを見た。醫者の罨法も役に立たず、修驗者のやつてゐる祈祷も後には徒らに病人を焦立たせるのみとなつた。窕子は毎日のやうに出かけて行つたが、その間は十町ぐらゐあつて、それは半ばは小野宮の邸の築地に傍ひ半ばは草むらになつてゐるところについて曲つて行つた。かの女は常に深い憂愁に滿たされながら、時には歩き、また時には網代車に乘つて出かけて行つた。草むらには暑い日影に晝顏が咲いてゐたり、阜斯が人の足音につれて草の中に飛んで行つたりした。蟋蟀なども頻りに啼いた。小野宮の築地の壞れの中からは四の君らしい琴の音が頻りにきこえた。
 何うかするといんち打ちの童の群の中を通つて行かなければならないやうな時もあつた。さういふ時には、つとめてそれを避けるやうにして、危いところは驅足で通つた。時にはそれが飛んで來て車の窓に當つたりなどした。牛飼は大きな聲で怒鳴つてその童の群を追ひ散らした。
 いくらか氣分が好いといふ時には、窕子は非常に元氣づけられたやうにして戻つて來た。『いくらかは小さくなつた……それもお前が大原野に參つてくれる御利益だらう。あれで小さくなつて行けば、それこそ優曇華の花が咲いたやうなものぢや……』などと呉葉に言つた。呉葉は今でも三日おきに行縢をつけ藺綾笠をかぶつて、わざわざその遠い地藏堂へと參詣に行つた。
 兼家の眼にも、その憂愁のために窕子の頬が此頃夥たゞしくやつれて來てゐるのが映つた。『何うかして、何うかしてあの母者の病氣を治したいものぢやが………あの内裏の醫師に見せて貰うてつかはさうか』などと兼家は言つた。兼家はやがてそれを取計つて呉れた。當代に名高い醫師の車はやがてその邸の西の對屋まで奧深く入つて行つた。しかし何うにもならなかつた。窕子の憂愁はつひに除かれなかつた。
 ある夜はこんな話が兼家と窕子の間に出た。
『だつて、母者にもしものことがあるといふことは私には考へられない……。もしそんなことがあつたら、とてもこの身も生きてゐられない……』
『こまつたことぢやのう……。何うかして、もう一度もとにもどしたいものぢやが……あの醫師にかかつてさへ、驗が見えないとなると、他に何うもならないからのう……困つたものぢや』
『七年も八年も父上と離れてゐて、やつともどつて來て、これから少しは樂しい暮らしも出來ると思うてゐたのに……それなのに、こんな病氣に取つかれて……』
『何うも困つたものぢや。さうかと言つて、天命ばかりは何うにもならんでな。何のやうに尊い方でも、いざとなつては止むを得ないぢやでな……』
『この身は、この身は――』
 窕子は泣き沈むのだつた。――今日もかの女はその母親の枕邊に長い間坐つた。痛みだけでも何うかしたいと思つて、せつせと罨法を手傳つて取替へてやつた。かをるも一生懸命に世話をした。父親も今日は内裏を休んで一日そこに顏を出してゐた。長い間の病氣に母親は非常に衰へて、顏などは丸きり別な人のやうになつて了つた。それに、此頃ではおも湯すら十分に取ることが出來なかつた。少し入つたと思ふと、すぐまたそれをもどして了つた。それにじつとしてそこに坐つてゐる父親を見ても、涙がすぐ込み上げるやうに出て來るのだつた。そんな苦しみのない昔は好かつた。父の老いることだの、母の死ぬことだのは少しも考へずに、いつでもそこに行きさへすれば、莞爾したその顏を見ることの出來た昔は無邪氣で且つのんきだつた。何んな苦しいことがあつても、母に行つて話しさへすれば、それで憂さの八分通りは醫された。それなのに、その今の痩せ衰へた顏は! 連日の苦痛にもがいた姿は! 絶えず體を動かすためにばらばらに亂れた髮は! あれが母だらうか。あの衰へた病人があのやさしい常ににこにこした母だらうか。否、人間は一度はさうしたことに逢はなければならないといふことは滿更知らぬではなかつたけれども、しかもそれがこんなにつらく且つ悲しいものであらうとは夢にも知らなかつた。またこんなに頼りないものであるとは夢にも知らなかつた。窕子は今までに經驗したことのない大きな悲哀のその前に避くべからずに迫つて來るのを感じた。兼家は『それが人生だ! 誰だつてさういふ經驗は嘗めなければならないのだ!』窕子があまり思ひ崩折れてゐるのでしまひにはそんなことを言つたけれども、とてもそんなことではその現在の憂悶をまぎらせることは出來なかつた。それほどかの女は母親の大切さを感じた。
 ある夜は、窕子は道綱をその傍に寢させた。
 道綱は怪訝な顏をして母親の顏を見た。
『母者、母者は何うしてそのやうに泣いてゐる?』
『…………』
 さう聞かれただけ一そう層たまらなくなつたといふやうにして窕子はその衣の袖を顏に當てた。
『何うかしたの?』
 窕子は首を振つて、『何でもない……何でもない……』
『でも、母者はさつきから泣いてゐるんだもの……』童殿上してから丸で別な兒のやうにおとなしくなつた道綱は、いかにも心配さうにこんなことを言つて母親の顏を見詰めた。
『何でもない、何でもない……』
 窕子は感慨無量だつた。涙は盡きずに出て來た。
『…………』
 不安さうに何か言はうとして言はずに母親の顏を見た道綱が窕子にはたまらなくいぢらしくなつた。
『何でもないのよ……。心配しなくつても好いのよ……。おばアさんのことなのだから……』
『おばアさんの病氣!』
『さう……、おばアさんの病氣が治らなくつてね。困るね。』
『本當だね……』
 道綱はそれでもいくらか安心したといふやうにして母親の顏を見詰めた。と、それと同時に窕子の頭にはいろいろなことが一杯に漲るやうにあつまつて押寄せて來た。兼家のことについてこれまで長く苦しんで悶えて來たこともあるが――今でもそのために苦しんでゐないことはないのだが、しかもそれ以上にこの人生のことが深く大きくかの女の頭にひろげられ逼つて來るのを感じた。今までのかの女の心持のやうな氣分ではゐられないやうな氣がした。道綱と自分のことがそれとはつきり思ひ出されると共に、兼家と自分と道綱のことがはつきりその眼の前に浮んで來た。自分も一度はさうした悲哀をこの道綱に味ははせなければならないのである。母子の別れは何うしたつて否定することは出來ないのである。さう思ふと、戀といふものに對する考へ方も、愛といふことに對する考へ方も、今までとは違つて、すつかりそこにその全面をあらはして來たやうな氣がした。何んなに人間に悲哀があつても――その愼恚と嫉妬とのために身も魂も亡びさうになるやうなことがあつても、そんなことには少しも頓着せずに、人生と自然とはその微妙な空氣をつくつて、徐かにその歩んで行くべきところへと歩いて行つてゐるのだつた。さう思つた時には窕子はたまらなく悲しくなつて來た。自分のその身が悲哀と共に何か大きな空間にでも漂つてゐるやうな氣がした。窕子は道綱に知れぬやうにそのこみ上けて來る涙の潮を咽喉のところで堰きとめるやうにした。

         三八

 窕子は裏の築地の出口のところに立つて、もはやそろそろ秋にならうとしてゐる草原の方を眺めた。小さな野萩、それにポツポツと露が置いてあつた。そしてそれも時の間に日影に乾いて行くのだつた。水引の花などもさゝやかなくれなゐをそこに見せて、これでも花だといふやうにツンツン草の中に雜つて見えた。何故か窕子の心はさうしたはかないものの方にのみ寄つて行つた。誰もめづる花も好いだらう。大きな美しい花も好いだらう。しかしそれよりもあるかないかの花――微かにそこに草原のみだれの中にその小さな存在を示してゐるやうな花、さういふものが何とも言へずなつかしいやうな氣がした。さういふ花さへある。二日と咲いてゐない花さへある。さうした存在でさへひとつの立派な存在である。こんなことを考へながら窕子はじつとそこに立盡した。
 そこに呉葉が行縢姿でその參詣から歸つて來た。
 主人思ひの呉葉は、心配さうに傍に寄つて來た。
『御苦勞だつたね……』
 呉葉の姿にしても此頃次第に年を取つて來てゐるのを窕子は見落さなかつた。かの女は言ふに言はれない感謝をそこに感じた。母親についでの自分の同情者! 自分のためにその半生を奉仕しようとするその同情者! 母親がゐず、呉葉がゐなかつたら、その身はとてもこゝまで無事に來ることは出來ないに相違なかつた。
『今日は?』
 いつも引いて貰つて來るみくじのことを窕子はそこに持ち出した。
『今日のは、あまり好い方ではございませんでした――』
 袖のところから、呉葉はそれを出して見せた。
『二十九凶』としてあつた。窕子はだまつてじつとそれを見詰めた。
 母親にこれまで何のやうに心配をかけたであらうといふことが、その時何故かはつきりと胸に浮び上つて來た。
『でも、そんなにわるいおみくじではないさうでございます……』
『…………』
『きいて見ました……ところが、この凶は同じ凶でも吉に向う方の凶だと申しました。御心配なさることはござりますまいと申しました――』
『御苦勞だねえ、本當に……』
 かう言つて窕子は呉葉がいつものやうに向うに歩いて行くのをじつと見詰めた。かの女は自分ながら不思議な氣がした。何うしてかう物を見つめる氣になつたか。何うして小さな野の花に眼をつけたり、愛宕の山の上に白くふわふわと靡いてゐる一片の雲に心を惹かれたりするのか。これもそのためか。その大きな悲哀の壁を前にしたためか。その日の夕暮には、兄の長能がやつて來て、父親もさびしさうにしてゐる話などをした。
 人の噂では兼家はこのごろまた新しい女に沈湎してゐるといふことであつたけれども、窕子に對しては、そんな形は少しも見せなかつた。昔はさういふことがあつたりすると、わざとそれをその前ににほはせて、半分は嫉妬をやかせて見るといふやうな態度に出るのが常であつたけれども、今はそんな風は面に表はさずに、却つて常よりもやさしい態度に出るやうになつた。そしてその心持は窕子にもよくわかつた。しかも窕子はそれに取り合はうとしなかつた。今更何うにもならない運命を窕子は感じた。
 ある日は窕子はその家の築地の傍をさびしい葬式の通つて行くのを見た。そこには旗も行列も何もなかつた。小さな棺を近い縁族のものが五六人して送つて行つた。夕日が棺を卷いた白い布に暑く照つた。烏帽子姿をした人たちの額には汗がそれとにじみ出した。此の葬式は表の通りは通らずに、内裏の裏からぐつと大廻りに廻つて、鴨河をわたつて、鳥部野へと行くのだつた。何故かそのあはれな葬式の棺がそこに立つてゐる窕子の眼を惹いた。標野の向うには、小さな丘を二つ三つ前景にして、北山の起伏が碧く碧く見えた。葬式の棺はさびしい野をトボトボと丘の方へと遠く動いて行つた。

         三九

『使がまゐりました!』
 かう言つて入つて來た呉葉の聲は震へてゐた。
『何うしたの?』
『何だか、御病人の樣子が變でございますから、すぐにお出で下さいますやうに――』
『オ、それは――』
 かう言つて窕子は慌たゞしく身を起した。それはもはや申の下刻になる頃だつた。かの女は今朝から向うに行つてゐて一時何うかと思つたのが一先づおさまつて、また平常のやうに口をきくやうにもなり、腹の内部の痛みもそれほど烈しく訴へなくなつたので、ちよつと用事のあるのを足しに家の方へもどつて來て、それもすまして、ほつと息をついたばかりのところだつた。
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