道綱の母
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著者名:田山花袋 

 またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。
 大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。
 少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。
 しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。
 かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。
 何のくらゐゐたか、小半□くらゐゐたか、それとも半□くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。
 向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。
 梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。
『まア……』
『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。
 梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。
『好いの?』
『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』
『私の方は構はなくつても好いのよ。』
『いゝえ。』
 梅尾はまた顏を赤くした。
『從兄が來たもんですから――』
『從兄?』
 人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。
『…………』
『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』
『まア……』
 梅尾は聲を立てた。
『あの塔の下のところで、ひよつと見ると、あなたなんでせう。それから餘程聲をかけようかと思つたんだけども、何だか……』
 言ひかけて窕子は半分言葉を引込めて了つた。
『まア、聲をかけて下されば好かつたのに――』
『でも……』
 窕子は笑つた。
『だつて、私、困つて了つたんですの……。聲をかけて下されば好かつた――』
『そんなに申しわけをしなくつても好うございますよ』
『まア』
 しかも窕子は別にそれより深く立入つてその話をきくでもなかつた。むしろ立入つてその話をきくことを恐れた。かれ等は靜かに踵をあとにめぐらした。

         三一
 
 谷に凭つた座光坊には窕子はよくその庭の方から入つて行つた。そこにはかの女は母親とも行けば兄の長能とも行つた。道綱と呉葉と三人して行つたことなどもあつた。
『あの老僧は高徳の方だけあつて、ひとり手に頭がさがるが――あの今のあるじの僧も氣が置けなくつて好い。この深い山の奧で幼いころを過したやうな人だけに、何處か並でないところがござるな』
 こんなことを母親も長能も言つた。呉葉も、『好い法師さんですこと……。それに男前が好い!』かう言つたが、あとの一句は自分でもあまり言ひ過ぎたと言ふやうにソツと舌を出した。
『まア、あきれた……』
『だつて、さうですもの、好い法師さんですもの……』
『だつて舌を出さなくつたつて好いぢやないの?』
『御免なさい!』
 呉葉は自分のはしたなさを悔ゐるやうにして言つた。
『この山で幼い時をすごし、それから横川で行をなすつて、高野にも室生にも行つて、密教の方も十分になすつた方だからねえ……。このお山でもめづらしい法師さんだ――』窕子に取つても、異性がさういふ風に童貞をずつと守つて、一心に佛に奉仕してゐる形が、端麗な姿をしてゐるだけ、一層傷ましいやうな尊いやうな心持を誘ふのだつた。『あれで、あゝいふ風にして一生清く行ひすまして行かれるのかねえ!』時には窕子はこんなことを呉葉に言つたりした。
 ある日は道綱と二人で行つて、小半日もその坊で過した。あるじの方の僧は、却つてそれを名譽にして、何彼と道綱の機嫌を取つて、羊羹を高坏に載せて出したり、葛を溶いた湯を出したりして歡待した。無論それは東三條殿の愛兒であるといふ點もあるのだが、當代で評判な美しい女の歌人を歡迎する意味もあつたのだつた。
『我々もたまには歌にして見たいといふ考も起るのですが、こればかりは別才だと見えまして、何うもうまい具合にまとまりません……』
『いゝえ、そんなことは――?』
『お上手な方がおつくりになりますと、それがすらすらと單純に出る。ちつともこだはりなしに――。何うもそれが眞似が出來ません。我々のやうな鈍根なものには何うも材料ばかりが多くなりまして、何を言つた歌だかわからなくなりますので……』
『いゝえ……』
『さうかと申して、それぢや材料が多すぎるのだからいけないのだからと思つて、今度はひとつのことをよまうとすると、それが短かすぎて歌にならない……。何業でも皆なさうでござるが、中でも歌はむづかしい……』
 こつちから般若心經の中心になつてゐる心持をきかうなどと思つて出かけて行くと、その先を越して、向うから歌の話を持ち出すといふ風なので、窕子は一層その僧に親しさを感ぜすにはゐられなかつた。時にさうして清くひとりで住んでゐる僧の上にそれに似た自分の生活を持つて行つてくつつけて、いろいろと深い感慨に耽ることもあつた。
『私などにはとても深いことはわかりませんけれども……それでも歌の心持を押しつめて參れば、やはり佛に近づく心が致しますので……』
 ある日は窕子はこんなことをそのあるじの僧に言つたりなどした。
 それにしても世の中といふものは不思議なものだ――窕子はその坊から下りて來る石段を一歩々々拾ひながらこんなことを常に考へるのだつた。あゝいふ清らかな端麗な異性もある。さうかと思ふと殿のやうに女を女と思はず自分さへ歡樂を恣にすればそれで好いと思つてゐる人もある。情の赴くまゝにまかせてしたい三昧のことをしてゐる人だちもある。未來のことなどは少しも思はずに、人の夫であらうが、人の妻であらうが、そんなことには頓着せずに、たゞ愛慾にのみ耽つてゐる人だちもある。何が何だかわからない。さういふのが罪なのか、それともさういふ風に考へるだけでも罪なのか。この尊いお山に參籠してゐる人だちの中にも、こゝを歡樂の庭のやうに心得てゐるものさへある。あの梅尾などにしてもそのひとりではないか。そしてそれが罪になるのか、それともならないのか。さういふことをするのは人間の心の持前で、何うにもならないのか。自分ながら自分のことがわからなくなつてむしろ自分が可哀相になつて――窕子はじつとそこに立盡したりなどした。

         三二

 窕子の參籠してゐる室から、すぐ眼の前に山の裾が落ちて來てゐて、下では何方かと言へば靜かな、せゝらぎのやうな水の音が微かにきこえてゐた。
 杜鵑がキヨ、キヨ、キヨとすぐ前を啼いて通つた。
 來た時に咲いてゐた卯の花の白いのももう見えなくなつて、水ぎはに名の知れない紫の細かい花などが咲き出した。此頃窕子はその若いあるじの僧のことを考へてゐることが著しく多くなつたのを自分でも不思議に微笑まるゝやうな心持でじつと見守るのだつた。本を展げてゐる時にもいつとなくかの女はその僧のことを考へてゐるのに氣が附いた。

         三三

 唐の僧の祈祷の席にも窕子はたびたび出かけた。かの女はそこにも大勢の參籠者がさまざまの願望を抱て手を合せてゐるのを目にした。子に對する苦しみ。子の病に對する苦しみ。妻の夫に對するもだえ。夫の妻に對する悲しみ。さういふ苦みやらもだえやらを持つた人だちは皆なそこに來て坐つた。位記や官名を持つた人だちのためには、別に設けられた席などもあつて、あの肥つた大納言夫妻の姿も常にそこに見られた。
 窕子もいつもそこに案内されるのだが、かの女はその姿の人の目に立つことを嫌つて、わざとあまり派手々々しくない裳を着て、大勢の群の中に雜つてその祈祷の讀經を聞くやうにした。その唐の僧といふのは、昔の鐡眞和尚を思はせるやうな半ば眼の盲いた高徳で、背もさう高い方ではないが、その態度にもその擧動にも何處となく立派なすぐれたところがあつて、それが五六人の僧だちと一緒に入つて來ると,誰も頭を下げて佛の名號を唱へないものはなかつた。何でも世間の噂では、その高僧の一つの祈祷は人間のあらゆる苦痛を和らげ、あらゆる病を醫やし、あらゆる煩悶を輕くするといふことに於いて他に比ぶべきものがないといふほどの功徳を持つてゐるといふことだつた。窕子は少くとも毎日一□以上小さな珠數をつまさぐりながらじつとしてその光景と相對した。讀經――何とも言はれない冴えて澄んだ聲。長く引張るやうに末は磬のやうに御堂の高い天井にひゞいてきえて行く聲。ひとりの僧の時に觸れ折にふれて鳴らすけたゝましい鉦の響。ことに、その高徳の聖のひとり高く張り上げる聲は高くあたりに、窕子の心の底までもじつと深く染み入るやうにきこえた。
 ある日、座光坊のあるじの僧とかの女との間にこんな話が出た。
『あのしまひのところが、密教の行ひと申すのでございませうか?』
『さやうでございます……。あのしまひの方で磬を鳴らすところがござりませう。あそこがあの祈祷の眼目になつてゐるのです……』
『本當に、あそこは難有い心持が致しますの……。やはり、あゝいふところになりますと、心はずつと靜まつて、いろいろな煩惱は皆な小さな、小さなもののやうになつて了ひます……』
『今度の大徳は密教には中々深く通じて居られますから、信用してあの行を見ることが出來るやうな氣が致します、……。さうです、高野の眞言とはいくらか違つてゐるやうです。もつと天臺の智者大師のひろめられたものの方に近いやうでございます……。ですから、密教と申しても餘程初期の感じがまだ殘つてゐるやうでございます……。そこが尊い……そこが他の御堂では味はれないところだと思ひます……』あるじの僧はこんなことを言つて、靜かな調子で、にこやかに笑ひながら、かなり深く難かしいところまで密教の話を持つて行つた。
 窕子は益々そつちへと引かれて行くやうな氣がした。自分たちの生活とこの靜かな生活と。瞋恚と煩悶と嫉妬と爭鬪とで滿たされた生活とこの高遠な普通ではわからない學問にのみ精進してゐる生活と。一つは火花を散らしたやうでもすぐ消えてなくなつて了ふ生活と、一つはいつまでもいつまでも人の心に深い教へを殘して行く生活と……。窕子は自分等の平生目にしてゐる殿上人あたりの自墮落な生活をかうした靜かな學問にのみ精進して來た人だちの生活に比較して考ヘずにはゐられなかつた。
 かういふ人だちは世間のことなどについては何も知らないのであつた。男女のことも、妻妾のことも、三つの心の巴渦のことも、御門が愛慾におぼれて末の君を無理に宮中に召されたことも、坊の町の細い巷路に結び燈臺が夜おそくまでついてゐてその角に牛車が待つてゐることも何も彼も……。そしてたゞ谷川の水の音を伴侶に深い高遠な學問にのみ心を注いでゐるのだつた。それが窕子には尊く感じられた。窕子はそのあるじの僧から法華經の一番中心を成してゐる思想を聞いたりなどした。
『さうしますと、何ういふことになるのでございませうか?』
 と、その僧はにこやかに笑つて、さて少し考へるやうにして、
『歌で申して見ますと、つまりそのひとり手に巧まずに出て來るといふ心持――そこいらに歌は滿ちてゐますけれども、それをつかまうとすると、つかむことが出來ない……何うしても出來ない。學べば學ぶほどむづかしくなる。それでゐながら、ひとり手に出て來る段になると、何の面倒もなくすぐそこにある……。あなたがいつか歌といふものについてさうおつしやられた……。法華經の中心を成してゐるものはやはりそれだと思ひます……』
『つまり、さうしますと、その高遠な思想が何處にでもあるといふことになるのでございますか?』
『さうなります……。何處にでもある。それだから難有いのでございます。たゞ一心といふこと――ひとつの心を持するといふこと、さう言つて了つては或ひは言ひすぎるかも知れませんけれども、つまり他には何もない。その經文を持してゐさへすれば好い。それより他に理窟はない。さういふところに非常に深いところがあるのでございます……あらゆる經文が皆なそこに入つてゐるのでございます――』
『さうしますと、あのお經に書いある字とか、理由とか、方則とか、さういふことよりももつと別なところにその中心がございますのですね』
『まア、さうですな……』
 聰明な窕子にもそれだけではまだはつきりとはわからないらしかつた。『その一心といふこと、その一心を持するといふこと――それと佛とは何ういふ關係になりますのでせうか?』などと訊ねた。
 一月もゐる中には、その僧と窕子との交際は次第に親しさの度を増して行つた。窕子は一日でもそこに行かなければさびしいやうな氣がした。その癖、それが何うの彼うのといふのではなかつた。かの女はをりをり望まれてそこで短册に歌を書いたりした。ある時には、御堂に行く途中、向うから緋の僧衣を着た僧が二三人やつて來るのに出會つて、初めはさうだとは思ひもしなかつたのに、そのひとりがそのあるじの僧であるのをやがて知つて、急にきまりがわるく、顏がわれながら不思議に思はれるくらゐにサツと染められたことなどもあつた。母親と一緒に行つた時には、いつもの佛の話とは違つて、自分が叡山に登つて修行した時のことや、奈良の唐招提寺に律を研究に一年ほど行つてゐた時の話などをかれはそこに持ち出した。『奈良の寺は方則がきびしいので一番つらうございました。朝は寅の刻に起きて、坐禪をやつたり、讀經をしたり、その間には、教義の議論をしたり、ほとほとひまといふひまはないのですから……。それは皆さんは、私どもなどはのんきに暮してゐるとお考へでせうが、中々これで忙しいのでございます……』などと笑ひながら話した。
 ある時、呉葉と二人でゐると、
『京の方がこひしくおなりにまだなりませんか?』
『何うして?』
『何うしてツて言ふこともございませんけども……』
 呉葉はいくらか笑を含んだやうな表情だつた。
『でも、今月一杯ゐるつもりで來たんだもの……』
『それはさうでございますけども……家のことだつて心配になりますから……』
『大丈夫だよ』
『でも、殿のことでも、あまり放つてお置きになつては?』
『だつて……』
 呉葉の心配する心持がよくわかつてゐるので、窕子は言ひかけてよした。
『この頃、お消息がちつともございませんでせう?――」
『ゐなくつて、うるさくなくつて好いと思つてゐるのよ』
『まさか――』
 呉葉は笑つて見せた。 
『さうでなけりや――少しでも此方を思つて呉れるのなら、何とか消息くらゐよこしてくれたつて好いんだもの……』
『でも、こちらからおあげになる方が本當ですもの……』
『…………』窕子はこれに對して何か言はうとして、よして、『それよりも、お前、もうあきた?』
『かをるさまやお兄さまは、もうとうに歸りたいやうに仰しやつてでございました……。』
『さう……』
 窕子は別にこゝに思ひを殘してゐるわけではなかつた。あるじの僧のことにしても、逢つたり話したりしてゐることの上には多少の興味を感じてゐるけれども、さうかと言つて、こゝに深く心を留めてゐるわけでも何でもなかつた。たとへそれがもつと深く、此方からも心を寄せ、向うからも進んで出て來たにしても、それは何うにもなる間柄ではなく、やつぱり山を出た雲は山に歸り、流れ落ちる谷川は里に向つて出て行かなければならないのだつた。窕子は自分の身の何うにもならないことを今更のやうに感じた。
 かをるがそこにやつて來た。百合の花を三本も四本も手に持つてるた。
『まア、好い花! 何處で採つて來ましたの』
『ぢき向うの山――』
 かをるは振返つて指した。
『よく、こんなのがありましたね……。まだあるなら、私、採りに行かうかしら?』
『まだ、あるにはありますけども……女の手ではちよつとむりかも知れませんね。長能が取つて呉れたんですの……』
『まア、兄さんが?』
 窕子は羨しさうに。
『この下の谷でございますか?』
 呉葉は問うた。
『この谷をずつと下まで下りて行つたところです……。とても、私には行けないといふのを無理に伴れて行つたのですの……石なんかいくつもいくつもわたつて行くんですもの……私、始めの中は、ついて行きましたけれども、しまひには行けなくなつて了つたんですの……。何故ツて、蛇なんか澤山ゐるなんておどかすんですもの……。やつとのことで、手を曳いて行つて貰つたりして、この大きい方のあるところまで行つたんです……』
『まアね』
『それから、あとはみんな長能が採つてくれたんですの……。男でなくつては何うしてもだめね……』
『まア、私も兄さんに伴れて行つて貰はうかしら?』
 窕子はいかにも羨しさうにその白い百合の花を眺めた。
『それをさし上げませう! それでは――』
『いただいたのではまだ足りないんですよ。やつぱり男の人につれて行つて貰つて、女ではとゞかないところにあるものを採つて來ればこそ羨しいんですよ。ねえ、呉葉、さうは思はない?』
『お仲が好いですからね』  
 呉葉も笑つて見せた。
『また、あんなことを……仲が好いなんて……? そんなことちつともないわ。私、無理やり伴れて行かれたんですもの……。あそこ、少し行くと、ひどいところがあるんです。石につかまつて行かなくつちやならないやうな……。私、それから先きには何うしても行けないからツて言つたんですの……。私、待つてゐるつもりだつたの……。ところが、何うしても向う岸にわたれツて言ふんでせう。私、此方にゐると、向うは先にわたつて、その石から私の手を引張るツていふ騷ぎなんですもの……。容易にはあそこには行かれやしませんよ』
『だから羨しいツていふんですよ』
 そこに兄の長能がやつて來て、その谷にはまだそれよりも美しい百合がいくらもあるといふ話しをした。

         三四

 ある日、呉葉がにこにこしながら入つて來た。
『たうとう參りました……』
『…………』
 窕子は谷に臨んだ坊の室で、凉しい麻の裳ばかりを着て机に向つて歌の本を讀んでゐたが、いくらかいぶかるやうな顏つきで、急いで此方へと入つて來た呉葉の方を見た。
『殿から……』
『あ……さう……』かう言つて窕子はその消息を入れた文箱を受取つた。
 かの女は別にうれしいといふやうな表情は見せなかつた。しかもそれを手にするとそのまゝその消息を取り出して、それをすぐひろげた。すらすらと讀んで行くのが此方に坐つて控へてゐる呉葉にも氣持好く感じられた。
 讀みおはるのを待つて、
『別に、おかはりはござりませぬのですか?』
『お前の言つた通り……あまり長くなる……道綱も退屈してゐるだらう……もう歸つて來いツて書いてあるよ』窕子はそれを卷き收めつゝ笑ひながら言つた。
『それはさやうでございませうとも……殿だとて、お待ちかねでいらつしやるには違ひありませぬ……』
『やつぱり道綱はしばらく見ないでゐると、逢ひたうならるると見える……』
『それはさうでございませうとも……』呉葉はかう言つたけれども、にこにこと別なことを考へながら、『それに、何と申しても、眞心と申すものは、最後の勝利者でございますから……』
『…………』
『何處に行つたつて、こちらのやうな眞心を持つたものはございませんから……』
『何うだかわからないね。こつちにだつて、そんなものは持合せてゐるか何うかわからないよ……』
『あんなことを仰しやる!』
『だつて、さうは思はない? いくら此方が眞心を持つてゐても、向うでさうでなければ、さういつまでもその心を持つてゐることは出來なくなるのではない? やつぱりそれはお互ひのことではない……? それはね、その間に何も起つて來なければ好い。誘惑が起つて來なければ好い。しかしさういふ時には、得てさういふ誘惑が起つて來るものだからね。さういふ情に薄い一方の人に比べて、一方の人は實際以上に情に深いやうに見えるのが慣はしだからね……』
『でも……この間、法華經のお話をうかゞひました。そら、一つの心を固く持つてゐて動かない? さういふお話をうかゞひました……。あれとは違ふのでございますか?』
『…………』
 窕子はぴたりとそこに行きつまつて了つた。暫くだまつてゐたがやがて笑ひながら、
『お前、よく覺えてゐたね』
『だつて好い話だと思つて心に銘してをりましたのですもの……』
『それにつけても、その一心を持つといふことは難かしいことなんだね。お話できけば、わけはないことだけども、實際にそれを行ふといふことになると、大變なことなのだね……。今、考へた――お前に言はれて考へた。それはさういふ兩方を比べる心持などとは非常に違つてゐるのだツていふことを。もつともつとずつと先きのことなんだね。すぐそんな風に報酬的に考へるやうな心持では、とてもその境地に達することは出來ないのだね……』
『さやうでございませうか?』
『あ、お前に言はれて、好いことを考へた――一言の師と言ふことがあるが、お前はそれだ!』
『そんなことはございませんけど……』
『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』
 そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。
『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』
『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』
 かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。
 暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。
 不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。
 
         三五
 
 ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。
 路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。
 道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。
『つまらないなア……本當につまらないなア!』
 道綱が言ひつゞけた。
『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』
『だつて、あんなにゐるんだもの』
 こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。
『や、くちなは!』
 道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。
『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』
 道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。
『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』
 誰に言ふともなく窕子が言ふと、
『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』
 傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。
『伯母者、さつきのくちなはびつくりした?』
『びつくりしたにも何にも……伯母者ふるえ上つた……』
『今度、出たら、麿が生かしては置かない……』
『麿はきついな』
 こんなことを言ひながら三人は山の岨のやうなところを通つて行つた。
 向うから重さうに粗朶を負うて女がひとり下りて來た。
 かをるはそれにきいた。
『尼寺は?』
『尼寺かな……。もうぢきだ……。この林を越すと、もう見えるだ。若い方の尼さん、つい、そこに出てゐたつけ……』
『まだ十町ぐらゐあるかね?』
『そないあるもんか……』
 こんなことを言つてすれ違つて行つたが、少し行つて窕子が振返つた時には、その女がその背負つた粗朶をそこに下して、じつと立ちつくしてこつちを見送つてゐのを目にした。
『あゝいふ人にも樂しみといふものはあるんでせうね?』
 これはかをるだ。
『それは同じことよ。家にはちやんと立派な男子がひとりゐて、あゝして里に出て粗朶を賣つて來るのを待つてゐるのよ。あなたと同じやうに男子に可愛がられてゐるのよ』
『まア、あのやうなことを――』
『あの粗朶を賣つて、歸りには洒を買うて來る……それを居爐裏の側で男の子が待つてゐる。さういふ生活もこの身には羨ましい……』
『結局、のんきで好いには好いでせうね!』
『こら、こら! そんなところに行つてはいけません!』ちよつと窕子が眼を離してゐる間に、道綱はずつと向うの方へと行つて崖の上見たいなところで頻りに松蟲か何かを搜してゐるのであつた。
『本當にしやうがないねえ!』
『麿!』
 かをるも呼んだ。
『もう、行つて了ひますよ』
 そしてかれ等は林の中へと路を取つて行くと、やがてその尼寺の屋根が見え出して來た。
 その時、道綱はやつとあとから走つて追ついて來たが左の掌につかんだものをそのまゝそつと少しあけて見せて、
『母者! 母者!これ松蟲ね?』
『どれ?』
 窕子は覗いて見て、『まア、この子が? 本當に松蟲だ!』
『松蟲! 松蟲!』
 と道綱は左の掌を持上げて、そのあたりを飛廻つた。
『待つておいで! 伯母者がよくして上るから――』かをるはつねに用意して持つてゐる紙を胸のあたりから取出して、それを袋のやうにして、『さ! こゝにお入れ!』と言つて、それをそつちへとやつた。道綱は拳の中から巧みにそれをその紙に入れて、その末をひねるやうにした。
『もうこれで大丈夫ね』
 道綱はそれを手にしたまゝうれしさうに先に立つた。かれは猶ほ草むらを搜すことをやめなかつた。
 やがてその尼寺の前のところへ來た。
 そこにゐた小さな女の童は不思議さうにして林の中を此方へとやつて來る三人づれの客を見てゐたが、そのまゝ奧に入つて行つたと思ふと、今度はそのたしか歌のよめるといふ人らしい二十二三の若い尼が出て來た。
 それと知ると、その若い尼の顏が急に赤くなつた。まさかに、今の世にきこえてゐる東三條殿の窕子といふ名高い女の歌人がわざわざこの山の中までやつて來ようとは夢にも思ひがけないことであつたからであつた。かの女はすぐ奧へと入つて行つた。
 あたふたと老尼も出て來て、下にも置かぬやうにしてそれを迎へた。
『まア、好うこそ、このやうなところにお出くだされました……。坊のおんあるじからお話は承つて居りましたけれど、わざわざ御出下されやうとはゆめ更存じませぬで……』
『まア……ようこそ』若い方の尼もいかにも喜ばしさうな感激したやうな聲を立てた。
 窕子だちの眼には、全く世離れたさびしい庵が映つた。ついそこが竹の縁になつてゐて、その向うに筧から清水のちよろちよろと落ちてゐるのが繪卷の中の一つの光景であるやうに見えた。そしてその向うは少しの場所が畠になつてゐて、もはやかなりに丈が高くなつてゐるもろこしが風にガサガサと動いてゐた。庵の中央には大きな厨子があつて、そこに二尺五寸ほどの釋迦如來の木像が据ゑられてあつた。香爐だの、香皿だの卷物だのが一面にその前の經机の上に置かれてあるのを窕子は見た。
 道綱は挨拶がすむかすみもしないのに、逸早くそこを飛び出して、『遠くに行くんではありませんよ』と言ふのをも耳に入れずに、そのまゝ向うの草原の中へと入つて行つた。
『生中ひとつでも松蟲を取つたもんですから……』
『まア、さやうでございますか。松蟲や鈴蟲なら、此處にも澤山をりますほどに、あとでいくらでも取つてさし上げてもよろしうございます……』
 かうした山の中の庵室にまでも、かの女と道綱とが、東三條殿で名高くなつてゐるといふことは、一面不思議な心持を窕子に誘つた。都にゐれば、さういふ風に他から取扱はれるといふことは、一種の屈辱を感ずることであつたけれど――ことに殿の女性に對しての振舞が世間に知れわたつてゐるので、一層さういふ氣持を味はずにはゐられないのであつたけれど――そのためその身の女の歌人としての名譽すら全く汚されたやうな心持さへするのであつたけれども、こゝではそれと反對に、殿の威光がさういふ形にまで大きくひろがつてゐるのがそれとわかるので、その爲めかの女の肩身がひろくこそなれ、決して狹くはならないのであつた。(まア、かういふ美しい方!)と言ふやうに誰の眼にも映るのが得意といふまでではないにしても、決して不愉快ではないのであつた。
『それでも、よく徒歩から御出でになられましたな?』
 老尼はそこに冷たい清水を持つて來て勸めたりしながら言つた。
『でも、かなりにあるにはありましたね……もう少し近いところかと思うた――春ならばこのくらゐの路は、かへつて徒歩より來る方が樂しみで好いのでござれど……姉者はくたびれた?』
『それほどでもない……。そんなに遠くはありませんもの……。あの丘ひとつ越しただけですもの……』
 かをるもあたりがめづらしいといふやうにして言つた。
 窕子はそのゐるところが比較的高い位置にありながら、またかなりにひろい平地でありながら、四面が全く山で取圍まれたやうになつてゐるのをさもめづらしさうに、あつちへ行つて立つたり此方へ來て立つたりして眺めた。(いつそかういふところに來て靜かに住んでゐたら……)窕子はこんなことを胸に浮べた。
 若い方の尼は、つめたい清水に糖を入れた茶椀などを持つて來て、それをそのめづらしいお客の前に竝べた。
『何にもさし上けるものはございませんけど、この清水だけは、それは冷たうございますから……。室のこほりのやうでございますから』
『おう、つめたい』窕子はぐつとそれを飮み干して、『もう一杯! 今度は糖を入れずに――』
 若い尼はそのまゝそれを持つて向うの方に行つて、山よりのところにもくもくと湧き出してゐる綺麗な清水にその椀を入れて汲んだ。窕子は氣輕に立つてそれを縁のところからのぞくやうにしたが、『そこに湧いてゐるんですね……。まア、何て好いんでせう!』かう言つて、たまらなくなつたといふやうにそこにあつたわら沓をつゝかけてそつちへと行つた。
 若い尼の手から茶椀を取つてそれをまた一口に飮み干した。
『姉者來て見やな……』
 かをるもその聲をきいてそつちへと下りて行つた。二人はやがてそこに立つて、そのもくもくと漲るやうにわき出してゐる清水を眺めた。
『まア綺麗ねえ!』
『山はこれだから好いのねえ! 私にもその椀貸して?』
 かをるも自分で茶椀をその中に入れて二杯も三杯もつゞけて飮んだ。
『坊のあるじもこれだけは羨しいつて、參る度に申してをります!』
 若い尼は傍から言つた。
『さうでせうね。坊にも清水はあるにはあるけれども、こんなに好いのはございませんもの……』
『本當ね』
 かをるも言つた。
『ですから、夏は始終此方に來てゐたら、さぞ好いだらうなどと申してをるのでございますの』若い尼はこんなことを言つたが、そのまゝ厨の方へと行つて、そこからさつきの里の女が持つて來て置いて行つた黄く熟した甜瓜を五つ六つ持つて來てそこに浸けた。
『すぐ冷えますでのう』
 冷えたら、京のめづらしいお客さまにさし上げようといふのであつた。
 老いた尼は晝前の讀經を小聲で始めた。香の烟が靜かに□る――をりをり鳴らす鉦が靜かに鳴つた。やつぱり山の中にかくれた優婆塞であるといふ氣が窕子達にもした。
 此方では若い尼と窕子とが歌の話を始め出した。初めに若い尼の方が歌を書いて見せると、今度はそこにあつた檀紙に綺麗な手跡で窕子が昨日詠んだ歌を書いて見せたりした。話は容易に盡きようとはしなかつた。内裏で歌のうまい人達の話などもそこに出た。道綱がやがて松蟲を三疋も四疋も捕つて戻つて來た。つめたくなつた甜瓜の皮も厚く剥かれた。

         三六

『え?』
 びつくりしたやうな調子で窕子は聲を立てた。かの女はそれとも知らずにこの話をそこに持ち出した若い尼の顏をじつと見詰めた。すぐつゞけて、
『それは本當ですか?』
『本當でございますとも……。私などは詳しいことは存じませんけれども、今から五十年も前のことださうでございます。大變なことだつたさうでございます……』
『それではその六條どのの姫君と申すのは、現にそこにゐるその老尼さまだと仰しやるのでございますか?』
『さやうでございます』
 窕子の言葉につれて若い尼の言葉も丁寧に改められて行つた。
『まア――』
 窕子はかう言ふより他爲方がなかつた。かの女は佛間に向うむきに坐つて讀經してゐる老尼の方に目を遣らずにはゐられなかつた。
『まア、本當でございますかねえ? 六條の四の姫君、先々代の御門の女御に上がるばかりになつて身をかくした? ――下司の建禮門につとめてゐるものと身をかくした?』あとの一句は窕子も流石に聲を低くした。
『さやうでございます……。』
『まア、ねえ、思ひもかけぬこと――ほんに思ひもかけぬこと――』かの女の頭には、幼い頃祖母から聞いたその時の騷ぎやら噂やらが今更のやうにそこにはつきり浮び出すのだつた。
 祖母の話では、それは非常な騷ぎであつたといふ。名高い美しい姫で、其當時のあらゆる姫だちの中でも群を拔いてゐたといふ。また御門がその姫の美しいのを知つてゐられたばかりでなく、その女御として内裏に入つて行くのを指折り數へて待つて居られたので、何うすることも出來ないので非常に困つたといふ。否、そればかりではない、その姫は死んだか生きたかその行方がわからない。當時の御門の力で、または六條殿の力で、あらゆることをして搜したけれども、何うしてもわからない……。それで長い長い月日が經つた。世間ではいつかそのことを忘れた。その髮の長い黛の美しい姫のことを忘れた。六條殿でも、かうわからぬのでは、もうこの世に生きてゐるのではあるまい、地の下に穩かに眠つてゐるのであらう。かう思つてそれを搜すことをあきらめた。そればかりではない、間もなく六條の大殿がおかくれになり、その北の方も、平生四の君、四の君と可愛がつてゐられただけに、それを苦に、そのあとを追つて行かれた。時がまた經つて行つた。その御門さへ位をお讓りになつて二三年して崩御になつた。世の中も丸で遷り變つた。もはやさうした戀愛の話をするものもなければ記憶するものもなかつた。新しい時代の人達も同じいやうに苦しい戀をし、逢はれぬ苦しさを嘆き、思はぬ相手に添はなければならない涙を流してゐるにはゐるのだけれども、しかも過ぎ去つたことはもはやその心に響いては來なかつた。ところが、窕子にその話をしてきかせた祖母が死んでからまた五六年經つて、かの女が殿の許に來るやうになつた時分、ひよつくりひとつの物語が傳はつた。それは四の君がまだ生きてゐるといふことだつた。それもその一緒にゐる男は、その建禮門につとめてゐた同じ下司で、年はもはや六十に近く、女の方は五十を越してゐて、その時分にも睦まじく暮してゐるといふことだつた。そしてそれが何うしてわかつたかといふと、東國に下つたある侍の下司、その男の父親がその建禮門につとめてゐた下司と朋輩だつたので、よく互に出入りしたので、子供心にもそれを記憶してゐた。ところが、何でも武藏野の奧、それもずうつと秩父の方に寄つたところに用事があつて、そこに行く途中、日が暮れたので、無理に頼んである茅屋に泊めて貰つた。ところが、そこにゐた爺がその子供の時に父親のもとに出入りした下司の男によく似てゐる。非常によく似てゐる。何うも不思議だ……。顏もさうだが、聲がそつくりだ。『太郎は今に大きうなつてえらうなるの? 院の武士になるのう?』などと言つて頭を撫でたりした下司にそのまゝだ。しかしその彼が何うしてもこんなところにゐるとは思へない。他人のそら肖といふこともある。大方それだらう。滅多なことは言ひ出せないなどと思ひ返しても見たが、何うしてもそれに違ひない。それにはその時分子供心にも不思議なものがあると思つて見てゐた耳のところに出來てゐる小さな疣もそのまゝそこにある……。それでかれはたうとうそれを言ひ出した。ところがその爺は、おお、さうぢやつたか、あの時の太郎ぢやつたか? と言つて、ぽろ/\涙を流してその素生を打明けた。そしてそこにゐる婆は、その評判な四の君で、それ以來かれ等は此處に來て一生を送つたといふことだつた。それがまた一時京の噂の種となつて、『それこそ本當の戀と言ふものぢや。さうしてその戀を添ひ遂げたのが羨しい』といふものもあれば、その一方には、『それはその四の君が色戀の道といふことを知らんのぢや。戀愛といふものはさういふものではない。それからそれへと移つて行くのが本當ぢや。それが戀愛ぢや』などといふものもあつて、殿もある夜醉つてやつて來て、『何うぢや、それなら一緒に武藏野の奧へ行くか。さうすれば、いやでも朝夕一緒にゐられる……。しかしさう一緒に顏ばかり見てゐたつて、戀はつまるまい。お互に離れてゐて、逢いたうなるのでよいのぢやないかのう』などと言はれたことをかの女ははつきりと覺えてゐる。否、それから暫く經つて、それとわかつてゐながら捨てゝ置くわけには行かないといふので、六條殿から使者を東國に出したなどといふ話はきいた。しかしそれだけだつた。それからあとのことは知らなかつた。
『え、さうださうです。その相手がゐる中は、いくら此方から使をやつても戻つては來なかつたさうです……。ところが、今から五六年前、たうとうその相手が亡くなつたので、それで、その屍を燒いて、その骨を持つて、高野へ行つて、そこではじめて身を墨染に更へたのださうです。』
『まアねえ』
 さう言つた窕子の眼の前には、戀愛の世界がはつきりとそこに展げられて來るやうな氣がした。誰だつて皆な同じことだ。皆なさうなるのだ……。何んなにあつい心でも、また何んなに思ひ詰めた心でも皆なおしまひはさうなるのだ……。かの女の眼の前には、今でも美しい色彩やら戀のみだれ心やらで滿たされてゐる内裏の局の内部のことなどが歴々と浮んで見えた。
『よくそれでもねえ!』
 窕子は何方ともつかないやうなことを言つて、
『それでも昔の話などをなさることがございますか?』
『ちつとも……』
 若い尼は頭を強く振つて見て、『いつもあゝして經を誦してゐられるばかりです』
『それでも、東國の話などをなさるやうなことは?』
『この山の中がよう似てゐるなんて言ふには言ひますけれども……そんなことはもうあまり多く考へてはゐられないやうでございますね……』
『それでお里の方からは、たまには何方かがお見えになりますか?』
『ところが、そのお里方にも、もはやその時分の方はいらつしやいませず、ひとり殘つてゐらつした姉の姫宮――御存じでゐらつしやいませうが、兵部卿にかたづいてゐらつした方、あの方が一年ほどはよくおたづねになりましたが、昨年おかくれになりましたので、もう何方もお出でになる方がございません。皆な孫、曾孫にあたる方ばかりですから……』
『一體おいくつにおなりでございますか?』
『今年七十五とかになると申してをりました。』
『それではまだそれほどお年を召したと云ふでもございませんね……』
『え、え、まだ、お達者でございますとも。齒などもまだ下の方は半分は殘つてゐらつしやいますから……』
 窕子は深く打たれずにはゐられなかつた。面白い話をきいたといふ以上に大きな人生をそこにまざまざと見せられたやうな氣がした。かの女は遠い東國を頭に浮べた。その身も行つて見たいやうな氣もした。
『まア、ね、面白いお話ね……。よくそれでわからずにゐましたことねえ?』
 傍できいてゐたかをるも心を動かされたといふやうにして言つた。
『何しろ、武藏野と申しても、その普通旅人などの通るところではなしに、ずつとわきに入つたところださうでございますからねえ!』
 若い尼は説明した。
『さういふことが、今でも出來るでせうか。出來たら、こがれ死に死んだり、一緒に死んだりするよりもその方が好うございますねえ……? それで、子供は出來なかつたんでございませうか?』
『ひとりもなかつたさうでございます』
『まアねえ』窕子はまたその遠い昔の巴渦の中にその身を見出すといふやうにして、『それでもよくその男の人が京にとゞまつてゐずに、その美しい人を東國につれて行く氣になつたと思ひますね。誰か東國に知つてゐるものでもあつたのでせうね? さうでなくては、とても知れずに、そこまで行くことは出來ないでせうからね……。それにつけても、京では大變な騷ぎだつたつて言ひますからね。内裏はその話でしんとなつて了ふくらゐだつたさうですから。祖母がその話になるといつも眞劍になつて、その人だちは今でも生きてゐるだらうか。それとももう死んで了つただらうか。何處か深い山の中か何かで首を縊つてでもゐたのを誰も知らずにそのまゝ埋めて了つたのではないだらうかなんてよく言つてゐましたからねえ。祖母だつてその話に深い興味を持つたからこそさういつまでもその話をしたんですね。それにその建禮門につとめてゐた人にも、ちやんとした妻もあり子もあつたんださうですから。その妻が泣いて外を歩いてゐたのを祖母が見たことがあるなんて言つてゐたことがありました。それを考へて見ても、戀といふことは不思議ですね。何ういふわけで、さういふことになつたか結局はわからないんですからね』かう言つた窕子の頭には、この梅雨ころに強いて御門に内裏に伴れて行かれた末の君のことだの、それを思ひ死に死んで行つた式部卿のことだの、ことにあの雨の夜の恐ろしかつた光景などがそれとはつきり浮んで來るのだつた。否、さうしたいろいろな戀愛のシインの中にかの女の戀のやうなものが雜つてゐるのもやつぱり不思議な心持をかの女に誘はずには置かなかつた。窕子はあたりを見廻すやうな心持の益々多くなつて行くのを感じた。またそれほど關係があるのでも何でもないけれども、もしその身とあの坊のあるじの僧と戀にでも落ちて、さういふ風に身をかくすやうな形にでもなつたら、それこそ何んなに世間で騷ぐことだらうなどと窕子は想像した。
 そんな話をしながら甜瓜などを食つたりしてゐる中に、老尼のおつとめもすんで、やがて莞爾しながら皆なのゐる方へと出て來た。別に話をするでもなく、たゞ靜かに珠數をつまさぐるやうにして坐つてるた。窕子は成るたけ見ないやうにしながらも、しかも、それを見ずにはゐられないやうな氣がした。A Great Love とは言へないまでにも、娘の時代から白髮になるまで全く世間から離れて暮した戀愛生活――それだけでも非常に大きなことのやうに窕子には思へた。評判の美人であつたといふ當年の面影も、その端麗な顏の輪廓や、恰好の好い鼻つきや、眉や口元などにそれと指さゝれるのもなつかしかつた。
 かをるも何か聞けるなら聞きたいといふやうにして、しつこくその老尼の顏を眺めた。
 たうとう窕子が訊ねた。
『今、こちらからお伺ひしたんですが、長らく東國にゐらしつたさうでございますねえ?』
 しかも老尼は今は最早それについては、別に多くを考へてはゐないらしかつた。或はそれは遠い夢か何ぞのやうになつてゐるのかも知れなかつた。
『武藏野には逃水といふことがございますさうですね?』
『ひろい野原でございますでのう……。三日も四日もその原を歩かねばならぬやうなところで、逃水などと申して、土地のものはいろいろに申すのでのう。あれはさういふ水があるのではない。霧か何かの加減で、かげろふか何かのやうになつて見えるのだなどと申してゐますで……』
『それでは別に、さういふ名所があると申すのではないのでございますね?』
『さう土地のものは申してをりますのう……』老尼は一つ一つ珠數を數へながら段々話し出すのだつた。『それに、花などもめづらしい花が多うござる。紫の一もと! そら古歌になどもござるのう。それもいろいろに言ふが、綺麗な花も澤山にあるやうなところぢやのう。しかもこの身の居つたところは、武藏野は武藏野でも、ずつと奧の方で、それは山の裾のやうなところでのう。すみだ川といふ川もあるさうぢやが、そこにもよう行つて見ることが出來ざつた……』
『めづらしいことでございますねえ!』
『食ふものなどには別に不自由はせざつたのう。鳥などは雉や山鳥が澤山にゐた。その頃はまだ佛の道に入らざつたものぢやで、罪といふことも知らずに、つれ添ふ人がさういふことが好きぢやつたために、よく狩りに行つてさういふ鳥や獸を捕つて來たものぢや。猪なども澤山に來をつた。冬になると、夜中には狼がようやつて來た。ガサガサツて落葉を踏んでのう。何も食ふものがなくなるぢやろ……。あゝいふ獸は鼻でよく物の臭を嗅いで來るものぢやで、にほひのするものは置いてはならん、味噌汁などことに禁物ぢや。そのにほひがすると、戸を壞してまで入つて來ようとするぢや……。でも馴れぢやのう。さういふものにも馴れると、人間は別に怖うも思はなくなるものぢや。また昨夜狼が來をつたなどと言つて何とも思はぬやうになるものぢや。近所にだつて、それは家はないことはない。やはり同じやうな人だちが住んでゐる。稗だつて、食ひなれれば、馨しうてうまいものぢや……』
 いつもはそんな話をしたことさへないのに、今日はすらすらと話し出すのを若い尼もたゞめづらしいことにして、じつとその顏を打眺め眺めた。
『それでも退屈ではござりませぬでしたか?』
『退屈なこともあつたが、人間は何處にゐるも同じぢやのう。退屈もすれば、おもしろいこともある……。それはのう、今は佛の道に入つて、何も彼も懴悔の身ぢやが、あゝいふ昔のくらしも樂しかつたと言へば樂しかつたのう……』その時を思ひ出すといふやうにして老尼は話した。
 まさかにその話にまで持つて行くわけには行かなかつたけれども、その周圍のことについて、いろいろと訊いたり話したりした。そこらに住んでゐるものは、高麗から移住して來たものでなければ、昔からずつと百姓として住んでゐる人だちだつた。秩父の方には大きな深い山があつて、その向うに町などがあるなどと聞いたが、そつちには行つたことはなかつた。高麗から移住して來た人達の方が、農事にも巧みに、文化も進んでゐて、もとからゐた百姓には馬鹿にされながらも却つて收穫などを多く貯へてゐるといふことだつた。話の間々には、老尼は念珠を手まさぐりつゝ佛の名を唱へた。
 そこで一日あそんで、夕日がいくらか凉しくなつた頃から、窕子だちはその尼寺からもとの坊の方へと戻つて來るのだつた。道綱は鈴蟲や松蟲を澤山捕つて、それを母親に拵へて貰つた紙袋に入れて、喜ばしさうに手から離さずに持つて歩いた。かをると窕子とはこんな話をした。
『年を取ると、あのやうになるものでござるかのう!』
『ほんに、何も彼も忘れて了うものと見える……』窕子は考へながら、『あれでもいろいろと苦勞があつただらうに――その父母のことも考へたらうに――その父母や叔父伯母などが亡くなつてからずつと年月が經つて後にやつともどつて來たのぢやから、ほんにそら水の江の浦島が子と同じぢやのう………』
『ほんに同じぢや』
『不思議なことがあるものだ……。過ぎ去つたあとで考へたのでは、もうその時の心持は本當にはわからなくなつて了つてゐるものぢやで……。夢のやうぢやと言つたがほんにさうぢや』
『それでも、その男のことを忘れてはをらぬらしい。やつぱり佛の御名の間々にはその男のことを思ひ出してゐるやうでござつた……。戀とは不思議なものだといふ氣がした……』
『ほんに、浦島ぢやのう』窕子も深く感ずるやうに言つた。それから比べると、自分の戀などはまだやつとその戸口に入りかけたもののやうに思へた。殿は本當は此身より他にないやうなことを言ふのであるけれど、それが何處まで信じて好いかわからないやうな氣がした。
 窕子だちは坊に歸つてから猶ほ十日ほどゐたが、盂蘭盆が近づいて來たので、一度京の家の方へと戻つて來ることにした。山から出て來る小川の岸には、さゝやかなみぞ萩などが水にぬれて咲いてゐるのを目にした。標野に來ると、今まで籠つてゐた山の峽に雲が白く徐かに靡いてゐるのがそれと振返へられた。

         三七

 それから二年經つた。その間にはいろいろなことがあつた。その中でも窕子に取つて印象の深かつたことは、父親が陸奧から歸つて來たことだつた。父親は八年の間にいたくも老いた。話をするにもわくわくするやうな表情をした。多賀の府に留つてゐることが出來れば好かつたのだが、それが出來ないので、言ふに言はれない艱難を嘗めた話などを父親はした。しかしそれといふのも小野の宮の機嫌をそこなつたからで、それも奧を探つて見ればやつぱり窕子が兼家の許に行つたことに起因してゐるらしく、小野の宮が失脚してから、やつとその身が浮ぶやうになつたなどと父親は話した。『それにしても結構なことぢや……。殿の世になるのも、もはや程近い。目の前に見えて來た……。これからは、そなたも運がひらけるばかりぢや』こんなことをも言つた。
 それにつけても母親の喜びは何んなであつたらう。八年の長い月日を離れてゐてしかも一刻も心に思はないことはなかつたのであるから、窕子の眼にもこの世の喜びとは思へぬやうな喜びが映つた。母親はたゞわくわくしてゐた。何から話して好いかといふやうにたゞ默つてじつとして顏を見合せてゐたりした。窕子は出かけて行つては、『母者、この頃、何うかしたやうだ……もう昔のやうに物を言はなくなつた……』などと言つた。
 政治上の兼家はまだ正面に出て行つたといふわけではないので、それほど自由がきくわけでもなかつたけれども、長い間虐げられて左遷されてゐた窕子の父親を然るべきところにすゝめるくらゐの力は持つてゐた。兵部省の輔に任命されて、やがて、そつちの方ヘと勤めるやうになつた。
 もう一つ窕子に取つて喜ばしいことがあつた。それは他でもない、道綱が童殿上したことであつた。さすがに兼家も道綱が可愛ゆく、東三條にも、堀川にも子供は大勢ゐないことはなかつたけれども――また童殿上してゐるものもふたりほどあるにはあるのだつたけれども、しかも一番道綱が可愛ゆいらしく、その當座は日ごとそこにやつて來て、いろいろとその世話を燒いた。時には自ら自分の乘る牛車の内に入れて、そして一緒に參内することなどもめづらしくはなかつた。窕子はその始めて童殿上した時の道綱の扮裝のさまをいつまでも忘るゝことが出來なかつた。
 幅のひろい狩衣に小さな冠をして、沓をはいて父親に伴れられて牛車へと入つて行くのを見た時には、母親らしい涙が胸一杯溢れ漲つて來るのをとゞめることが出來なかつた。
 いつかは憎んで憎んでも足りないやうに思つた兼家すら、さういふ風にして道綱を伴れて出て行くのを見ると、何とも言はれない愛情が――肉體でなければ味ふことの出來ない愛情がそこに體に滿ち溢れて來るのを感じた。――何んなに遊蕩に身を持ち崩してゐたにしても、今でもその癖はやまずに、新らしい女が出來たりなどしてゐるのをはつきりと知つてはゐたにしても、それが深くこんがらかつて、何處までが憎だか、何處までが愛だか自分にもわからないやうな氣がした。否、さういふ女が他にあるがために、そのために一層不思議な愛情が漲つて行くのを感じた。口惜しさ、腹立しさ――それすらそこに愛となつて絡み合つてゐるやうな氣がした。
 ある日は道綱が話した。『だつて、へんな美しい人が來て、この身を伴れて行くのだもの……。そしてね、母者、その人が貴い女の人なの……局の人たちがその人のことを大騷ぎしてゐるの……。この身もびつくりしちやつた……。ずんずん奧の方へつれて行つて了ふんだもの……。母者、あの宮知つてゐるのかえ……。いろいろなものを呉れたよ。羊羹だの栗だの高つきにのせて……。それから母者にもよく言うてくれと言はれてぢや。あんな美しいけだかい人この身は見たことはない……。』
『そちは知らぬかのう……あの堀河の家にゐた宮――?』
『知らぬ――』
『さうかのう。知らぢやつたかのう? その宮ぢやらう?』
『さうか――それぢや、母者よく知つてゐるんぢやな……。この身はそれと知らないからびつくりしちやつた。女子のゐるところぢやのう? 澤山々々女子がゐた。そしてこれがあの東三條殿の歌よみの人の子だなんて、皆なしてこの身をおもちやにするのだもの……しまひには睨めてやつた――』
『まア、この子が……』
『だつて、宮はにこにこして何もせられぬのだけども――その女房たちが人を何の彼のと言ふのだもの……』
 窕子の眼には大内裏の藤壺のさまがそれとはつきりと映つて見えるのだつた。女の歌人としてこの身がさうした社會にも認められてゐることが――その子の道綱の口からもさういふことがきかれるといふことが、かの女に一種の愉快を感じさせた。
『宮はそれから何うなされた――』
『宮のゐらるゝところまで伴れて行かれた……。そこでいろんなことをきかれた。……父上のこともきかれた。……母者のこともきかれた。そして母者に孝をつくさなければいけないと言はれた……』
『まア……』
『それから歸る時、また今度來よと言はれた……。母者、あそこはずゐぶんひろいところね。幾曲りいく曲りと曲るんだもの……。わからなくなるくらゐね……?』
『…………』
 窕子は末の宮の戀のことを頭に浮べずにはゐられなかつた。あの東國に走つた老尼の戀愛のことも不思議にもそれに引くらべて考へられた。
『それからずつともどつて來た?』
『え……』
 道綱は可愛く點頭いて見せた。
『さういふところでは、しやんとしなけれはいけませぬよ。行儀をよくしなければ、でなくつては、殿上がつとまりはしないんだから……』
『大丈夫……』
『それから、一緒にゐる友だちと爭ひごとをしてはなりませぬよ』
『大丈夫……』
 かう輕く言つてそして表の方へと出て行くのだつた。
 その年は何方かと言へば窕子は幸福だつた。夏になってから宮から消息があつて――この間は道綱どのに逢へてうれしかつた。お身をまのあたり見たやうな氣がした。眉から額のところがよう似てゐる……。また今度逢はせていたゞきませう。禊の時には、棧敷が空いてゐるから來るなら來ては見ぬか。運好ければお目にかゝることが出來るかも知れない……などと書いてあつた。で、禊には母と道綱とを伴れて出かけて行つた。不幸にして宮には逢ふことは出來なかつたけれども、そのめづらしい儀式をまざまざと見ることが出來たのは嬉しかつた。
 父母もいつも樂しさうに睦じさうにしてゐた。やはりいろいろな境を經て來たのでなければ人間は何うしても靜かなむつまじい心持になることは出來ないといつかも山の坊のあるじが言つたがそれが今はつきりとかの女にも點頭かれるやうな氣がした。二三年前から比べたら、かの女は何んなにいろいろな瞋恚や嫉妬や不平や悔恨を捨てゝ來たか知れなかつた。それと共に生きてゐるといふことのたうとさが次第に飮み込めて來た。生きてゐさへすればいつかは好くなつて來る。いつかはさうした苦しみを捨て去るやうな時が來る。さういふことが生きてゐるといふことである。殿の遊蕩にしてもやつぱりその通りだ。その時にははつと思つて吐胸をつくが――この身の戀などは一顧にも値ひせずに捨てられて了ひさうに悲觀されるが、じつとして見てゐると、そんなものではなくて、そこにも不滿足と不幸と不運とがいつでも渦を卷いてゐて、いつか春の雪のやうにあとなく消えて了つてゐるのを見た。あの時それを堪へ忍ばなければ自分は何うなつてゐたかわからない。自分で自分の戀を破壞するやうな形になつて行たに相違ない。
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