道綱の母
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:田山花袋 

『やはり、運命に從うといふことより他に、女子の行く道があらうとは思はれぬ……』
 その言葉のかげには、大内裏からの強い壓迫がそれとなくきかれるのだつた。窕子は何う慰めて好いかわからなかつた。
『それは世間では羨しいと思うたとて、それが何? え、窕子さん、あなたはさうは思はない。内裏に入つて、あの藤壺の一室に大勢に侍かれるといふことは、それはこの身の得がたい出世として、また一方では小一條どのや向う側にゐる人たちに對する兄達の立場として喜ばれることかも知れないけども、この身としては何が喜び? え、窕子さん。私にとつてはこの身を葬るつか穴ではありませんか。一度入つたら、もう再び出て來ることの出來ない墓場と同じではありませんか……』
『…………』
 何も言ひ得ない窕子の眼からはひとり手に涙が流れて來た。
『でも、ね……。窕子さん、泣かずにきいて下さい。あなたの他には、誰ひとりかうした私の心をきいて呉れるものなどはないのだから……。窕子さん、この身はもう心はきめてをるのです……。さうなる身とあきらめて居るのです……。何うせ、宮のあとについて行くことすら出來ない身――』かう言ひかけて登子は急にたまらなく悲しくなつて來たといふやうに、いつもなら引被くのが慣ひであるのに、顏を上に向けて、ひとり手に涙が兩方の眼から行をなして落ちて來るのに任せた。
『何うせ……何うせ……この身は生きた屍も同じ身……窕子さん、つか穴の中に入つて行くのも、この身にふさはしい……』言葉が涙にさゝえられて滿足には出て來なかつた。
 その悲しさが窕子にもつくづく思ひ當つた。自分の時にはその身だけがさうした悲しい運命に落ちたと思つたのであつたが、今では、それがすべての女子の悲しみであるといふことがわかつた。

         二五

 使のものが文箱を持つて來た。それを明けて見た窕子は、すぐ筆を取つて、返事を書いてそれをその文箱の中に入れた。
『これをわたして下さい』
 持つて行つて戻つて來た呉葉に、
『お前も一緒に行つてお呉れ……。いよいよおわかれになるのかも知れないから……』
『そんな御樣子でございますか』
『いゝえ、別に手紙には、さう詳しいことも書いてなかつたけれども、もう一度ちよつとなりと、お目にかゝりたいなどと書いてあつたから……』
『それでは、いよいよその時がまゐりましたのでございませうかねえ!』呉葉にしても胸がとゞろかずにはゐられないのであつた。
『兎に角支度をしてお呉れ!』
 やつぱり雨が頻りに降つてゐた。今年は何うして雨が降りつゞくのだらう。普通ならば、もはや五月も終りに近く、雲の縫ひ目もところどころ綻びそめ、山の裾なども見えそめ、時に由つては明るい月影が野にも山にもさしわたつて、青空が人の顏にも衣にも、車にも、または騎馬の侍にも、調度掛を携へた大宮人にも、ところどころ崩れた築土にも快よく映るのであるのに、またしても雨、雨、雨。容易に晴れようとはしないのであつた。
 窕子だちは別に變つたことを見出さなかつた。此間などとは違つて登子は靜かに落附いて話した。
 始めの中は、これはこつちの考へ方が間違つてゐたので、たゞ無聊のまゝにかうして呼ばれたのに過ぎないのではないかといふ風にすら思はれた。
 しかしその靜かさは、嵐の中にふくまれてある一つの靜けさであるといふことがやがてわかつて來た。窕子は胸の轟くのを感じた。
『でもね、御身が度々たづねて下すつたので、何んなに慰められて暮したかわからないのです……本當に、何うお禮を申したら好いか……?』
 落ちついた登子の言葉には、別れを潔くしようとするやうな努力がはつきりと讀まれた。
『それでは……』
 窕子はじつと登子の顏を見つめるやうにして言つた。
『いつまでも此處にはゐられないやうなわけで……』
『では、内裏に……』
『え……』
 登子はたゞ點頭いた。それだけでもかなりの努力であるらしかつた。
『…………』
『まア!』とか『それは……』とか窕子は言ひたかつたのだけれども、言葉は口から出て來なかつた。
 暫く經つた。
『それで、こゝをお出ましになるのは、いつでございますか?』
 窕子はやつと訊いた。
『それが、もう慌たゞしいので……。出來ることなら、もう一夜くらゐ、御身とわかれを惜しみたいなどと思つたのですけれども、それも出來ない……』もはや内裏から迎への車さへ來れば、いつでも出かけて行かなければならないと言ふのであつた。
『まア、そんなに早く……』
『でも、何うせ、行かなければならないものなら、いつそ早く行つて了ふ方が……?』
『…………?』
『これはほんにつまらぬものだけれども、このわびずまひにあなたがよく來て下さつたといふ記念に……』かう言つて、登子は自分が平生用ゐてゐた蒔繪の硯箱をそこに持ち出した。
『そのやうなこと……』
 と窕子が辭退するのを押して、
『蒔繪はこれでも好いのだし、螺鈿もいくらか入つてるのだから……。いいえ、これは言はずにさし上げるつもりだつたけれども……』急に登子は顏を低頭かせて、『これは、……これは……宮が特にこの身のためにつくられて賜はつたものなのだが、窕子さん、これはあなたが持つて行つて下さい……。よくこの身の心をよく知つてゐて下さるあなたが――』あとはもう言へなかつた。
『…………』
 窕子は眼を裳の下袖で拭いた。
『あまり氣持がよくないかも知れないけれども……』
『そんなことがございますものか……。』窕子は慌てゝ打消して、『それでは頂戴して、いつまでも、いつまでも、このかくれ家の記念として思ひ出すやうに致します……』
 と言つて、そこに取出された蒔繪の硯箱を押戴くやうにした。すぐつゞけて、
『然し、あまりいろいろなことを思召さないやうに……』
『もう大丈夫……』悲しい氣分がいつか通り過ぎて行つたといふやうに、登子はいくらか晴れやかに、『いくら考へたつて、しやうがないから……何うせ、なるやうにしかならないのだから……』
『さうですとも………』
『どうせ、女子はかうなるものだから……』
 窕子は言ひたいことが山ほどあるけれども、言へばすぐ涙が出て來さうになるので――つとめてそれを抑へて別れをつげて來ることにした。
 何うにもならないものに對する悲哀――何と言つてもそれは悲しいものであらねばならなかつた。死でなければ別離――そのわかれのつらさがひしと窕子の體に逼つて來た。
 登子も多くを言はなかつた。窕子が立つて來ると、かの女もその妻戸の外まで送つて出て來た。雨は荒れ果てた池の上に殼紋をつくつて降り頻つてゐた。
『それでは……』
窕子は暇を告げた。
『健かで……』
『おん身も……』
 いつまで惜しんでもとても惜しみきれない別れだ! と思つて、窕子は心を強くして向うに行つた。しかも何うしても振返らずにはゐられなくなつて、もう一度振返つた時には、白い顏を大理石像か何ぞのやうにやゝ薄暗い空氣の中に見せて、登子がじつとして此方を見送つて立つてゐるのを眼にした。

         二六

 呉葉が慌たゞしく入つて來た。それに由ると、内裏からの迎へが今來たらしいといふのであつた。つい今そこから歸つて來たばかりなのに……。まだ一□くらゐしか經つてゐないのに……。窕子は慌てゝ古い藺笠をかぶつて呉葉のあとについて行つた。
 雨の降りしきる中に、果たしてそこに内裏から來たらしい雨つゝみをした網代車が二輛――白い黒い斑牛も、笠をかぶつて雨具をしてゐる牛飼の男子もすべて深い泥塗にまみれて、その車臺すらも半ばは泥濘に汚されてゐるのを眼にした。一つの車は勅を受けて迎へに來た代官が乘つて來たらしかつた。
 これでも雨さへ降らなかつたならば、いくら秘密にしておいても、何處からかそれをきゝつけて、あたりの人達がそれを見に少しはやつて來たであらうけれども、いかにしても路が泥濘になつてゐる上に、上からも片時も止む時なく雨が降りしきつてゐるので、そこにはその二輛の車が置かれてあるだけで、誰も人の姿は見えなかつた。窕子にはそれがさびしかつた。
 かれ等は雨の中に立つてゐるわけにも行かず、さうかと言つてまたそこに近く寄つて行くのも出來ないので、對屋の階段からは十間ほど離れてゐる庇の下のところに身を寄せて、降しきる雨を纔かに凌ぎながら、じつとそつちの方に眼を注いでゐるのだつた。
 呉葉はわくわくしながら、
『まア、ねえ……』
『何うしたの?』
『だつて、この降りに……、御氣の毒ですわねえ……』
 で、かれ等は成るたけ高い庇から落ちて來る雨滴に裳をぬらさぬやうに、廊下の下のところに身を寄せて、奧から皆なの出て來るのを待つた。
 窕子の頭には對屋の中の光景――流石に登子も驚いてゐるであらうと思はれるさまや、勅ゆえに拒むことが出來ずに裳を着改へたりしてゐるさまなどがはつきりと映つて見えた。(それにしても誰が勅使になつて來たのだらう? 兼家でないのはわかつてゐるが、誰か身内のものが一人は來てゐるであらうと思ふが、誰だらう? 内裏の侍女と誰が來たらう)しかもこんなことを頭に描いてゐるのもさう大して長い間ではなかつた。ふと窕子は向うの廊下に五六人の人だちの氣勢のするのを耳にしたと思ふと、その階段のところに、兼家の腹ちがひの弟で、式部の副官をしてゐる政兼が勅使の衣冠をつけて、侍者二人に扈從されながら徐かにその姿をあらはして來るのを目にした。はつと心を躍らしてそれを見てゐると、内裏の藤壺に長い間つとめてゐるので名を知られてゐる桂といふ老女が、喪服でもあるかのやうに黒味がゝつた裳をつけて、際立たしく眞白な端麓な顏をいくらか下向加減にしてゐる登子の手を取らぬばかりにして先に立つて階段の方へと歩いて來るのが見えた。
 窕子も呉葉も唾の口にこもるやうな氣持で、じつとして一心に眼をそれに据ゑた。先に下りた衣冠に笏を持つた政兼が廂の下に立つて上を仰いだ時には、その老侍女が一足下りて、そのあとから登子が續くのであつた。徐かに徐かにかれ等は階段を下りた。
 登子はそこに來て初めてその眼を擧げて、縱縞を成して盛に降つてゐる雨とついその近くまで寄せて來てある二輛の網代車とを眺めた。一層白いその顏があたりに際立つて見られた。
 こつちを見て下されば好い。かうしてお見迭りに出てゐるこの身を見て下されば好い……。かう窕子が思つた時にその登子の眼が動いて、たしかにそれが此方を見た。否、見たばかりではなかつた。それと知ると、一種言ふに言はれない感謝の表情をその顏にあらはして、瞬きもせずにじつと窕子の方にその視線を注いだ。
 しかしこの場合、何方からも聲をかけたり別離を惜んだりすることは出來なかつた。たゞじつとさうして雨の夕暮の空氣の中に相對して立つてゐるだけだつた。成るべくその距離を近くさせるべく命令されて牛飼どもは頻りに鞭を鳴らしたり、綱を引いたりして努力したけれども、あたりは全く地が膿んで、ともすれば半分以上車の輪がはまり込みさうになるので、やむなくその人達はそこまで歩いて行かなければならなくなつた。
 形ばかりに藁だの俵だの板だのが持つて來て敷かれた。しかも完全な雨具とても用意してないので、衣冠束帶の勅使と喪服を着たやうな登子とが長柄の傘を後からさしかけられただけで、あとは皆なびしよぬれなるのを何うすることも出來なかつた。勅使の副使をしてゐる同じく束帶の大官は、やむなく長い間その降りしきる雨の中に立ちつくしてゐた。
 しかしさうした混雜もたゞ一時あたりに際立つて見えただけで――登子が老侍女に扶けられてそのほつそりとした姿を前の方にある車の内に入れて了ひ、勅使と副使とがそれをはつきりと見ただけで後の車に乘つて了ふと、あたりは車の齒の泥濘の中に深く喰ひ込んだのを牛飼どもが押したり動かしたりする光景だけになつて了つて、それも崩れた中門の方へ近づくにつれて、段々その動いて行き方が早くなつて、たうとうあとにはその大きな轍の縱横につけられた上にザンザン降り頻る雨の佗しく暮れて行くのを見るばかりになつた。
 窕子は何とも言はれないさびしい悲しい心持で、身動きもせずに暫しそこに立つてゐたが、いつまでもさうしてゐられないので、そのまゝ階段の方へと歩いて來た。
『まア、何て悲しいことだらうね』
 そこに行くと、窕子はわれを忘れたやうにべたりとその階段のところに腰を下して了つた。窕子は兩手をこめかみのところに當てゝじつと深く考へ込んだ。暫く經つた。
『でも、此方を御覽になつたね……』
『えゝ……』
 呉葉はかう言つて、『隨分長いこと、此方を見ていらつしやいました……』
『せめてものなぐさめだね……』暫らくだまつて、『この人の世には、かういふ悲しいこともあるのだね!』
『本當でございますね』
 話聲をきゝつけてそこに常葉が下りて來た。
『まア、何方かと存じたら、窕子さまでございましたか……』
『常葉どの……』
 またたまらなく悲しくなつたといふやうにして窕子は顏に手を當てた。
 呉葉は常葉に訊いた。
『今日、勅使が來るといふことがわかつて居りましたの?』
『いゝえ』
『では、だしぬけに……?』
『え、え、だしぬけでございますとも……それはいづれはさういふことになるだらうとは申してをりましたけれども、さう急なこととは存じて居りませんでした……。ですから姫もおどろかれて、一時は突伏したまゝ、お顏も上げられませぬでした……それはそれは、泣くくらゐのことではございません。姫は何んなに悲しうあらせられたことか……しかし、何と申しても勅でございますゆゑ……』
『まア、何と申したら好いのでございませうね』
『でも、平生やさしい上に雄々しいところもある姫のことでございますから、すぐ御決心あそばしまして、□とたゝぬ中に十分御支度をなすつて御出立なさいました……』
『悲しい女子のさだめ!』
 皆はそこに顏を合はせて泣くのだつた。あたりは次第に薄暮の空氣につゝまれて行つた。窕子と呉葉とは、再び古びた藺笠をかぶつて、泥濘の中をとぼとぼと自分の家の方へと行つた。林に添つた路を通る時には、雨だれがばらばらとその笠の上に落ちた。

         二七

 兼家の方のことも心配にはなつたけれども、物忌が明けない中は、そつちの方へもどつて行くことも出來ないので、幼い道綱を相手に――むしろたゞそれにのみたよるやうにして窕子はわびしい雨の幾日かを過した。
(それでもまだこの身にはこのいとしい道綱がある……)窕子はさうした心持が此頃一層深くなつて來ることを感じた。否、そこに人生が微ながらも覗かれて來るやうな氣がした。かの女はその心持の次第に深められて行くのををりをり飜つて考へて見たりなどした。昔は道綱などは可愛いには可愛いにしても――また誰かが來てそれを奪つて行かうとでもすれば極力それを拒いだには相違ないけれども、しかもその問題が直接にかの女につゞいて來てゐるのではないやうな氣がしてゐた。かの女にはそれ以上にもつともつと大きなことが澤山に澤山にあるやうに思はれた。蹂躙された戀。異性に侮辱せられた戀。青春の徒らに過ぎ去つて行く悲しみ。玩弄品のやうに家にのみ閉ぢこめられていつの間にか老いて行かねばならぬ慘めさ。日毎に退屈に過ぎて行かねばならぬ佗しさ。ことに兼家の愛してゐる他の女に對する嫉妬。火は幾度燃えて、またいく度消されて行つたか知れなかつた。そしてさういふ時には、道綱などのことを考へてゐるひまなどはないくらゐだつた。(何うしてお前のやうな不仕合せなものがこの世に生れて來たのか。このやうな母を持つたお前は何といふ不幸な星のもとに生れ出て來たのか)などとその柔かな頬にその身の頬を押しつけて涙を流したことも一度や二度ではなかつた。しかし、次第にその小さな道綱の存在がかの女に深い意味を感じさせるやうになつて來たのであつた。
 何と言つても道綱だけがその身のものである。それだけは他のものが何うすることも出來ない。切つても切れない。離れようとしても離れられない。次第にそこにかの女は人生を感じて來た。
 窕子は登子が内裏に入つて行くのを見送つて歸つて來て、ひしと道綱を抱き上げて、吃驚して逃げようとするのを無理に押へてきつく抱緊めたり口づけしたりしたことを思ひ起した。『まア、おとなにしてこゝにゐよ……あこだけはこの母のものではないか。何時まで經つても、この身から離れて行かぬのはあこだけぢや……』かう口に出してまで言つて、母の膝から逃れようとする道綱を押へたことを思ひ起した。(まだそれでもこの身にはなぐさめられるものがある……それから思ふと、あの末の君は悲しい)こんなことをつゞけて言つたことを思ひ起した。
『母者、母者……』
 などと言つて、道綱は遠くから走つて來て、その小さな體をかの女に投げつけるやうにしたりなどした。
『まア、この子は! 何處に行つてゐたのか。この足は、この手は? 呉葉や、拭くものを持つて來や……』
 さうした窕子の聲がともすればその一室の中からきこえて來た。
 それに、この頃は窕子はわるく咳などをした。あの時、雨の中に立つてゐたりしてそのための風邪でも引いたのだらうなどと初めは言つてゐたが、何うも思ふやうに治らぬので、忌みの中にあまり出歩いたりしたので物の怪でもついたのではあるまいかといふ氣がして、いつもの僧を呼んで加持などをして貰つたりしたが、何うも本當には治らないので、その僧のすゝむるまゝに山寺にでも行つて見たら何うかといふことになつた。で、晴れ間を見て、京から北の方へ當る山合の寺へと窕子は出かけて行つた。

         二八

 兄の長能も一緒に出かけた。
 それは京からずつと北山に入つて行くやうなところだつた。鞍馬とは谷を二つも三つも隔てゝゐて、入つて行く路も、標野あたりを眞直に山の翠微に向つて進んで行くやうなところだつた。祈祷などで驗のある名高い僧がかの唐の地からやつて來て、その寺に留つてゐるので、それで評判になつて皆ながそこに出かけて行くのだつた。
 出て來る前、そのことを兼家の方に言つてやると、返事も呉れないので、いくらか氣になつてまた追かけて文箱を持たせてやつた。返事は來るには來たが、そこにはやさしいことも書いてなく、たゞ行つて來ることについての承認を與へてよこしたばかりだつた。かれの方にもいろいろなことがあるらしく、一族のあらそひにも氣を腐らせて、内裏にも出かけて行かないやうなことが多いらしいやうなことを使のものは匂はせた。窕子はそれをなぐさめたいにも、その周圍にはいろいろな女だちがゐて、素直にそれが實行出來ないことを悲しんだ。何でも此頃では、また南の坊の方へ行き出して、夜は殿の車がおそくまでその角に置かれてあるなどといふ噂を耳にした。
 たゞ窕子に取つて喜ばしいことは、武隈の府から多賀の府へ轉任になつて行つて、今年で八年になる父親が來年は久々で京にもどつて來ることが出來るといふ報知を受取つたことだつた。『まア、父さんがもどつてゐらつしやる!』かう言つて家の人たちは皆な喜びの聲を擧げた。中でも長能の妻のかをるは、父親が任所に赴いた後に母だの伯父だのが相談して貰つたものなので、まだ見ぬ父親に對して一種のあくがれを持つてゐるので、一層なつかしさうに見えた。
『父さんがもどつて來ると、また家が賑かになる……。それにしても、父さんは何んなになられたことやら。今年歸るか、來年もどるか。一刻も早うもどらして貰ひたい。かういくら殿に頼んでも、さういふことはこの身にも自由にならぬとばかりで、何うにもならぢやつたが、やつともどつて來らるゝか……。死なぬ中に逢はるゝがうれしい……』その消息を手にした夜には、母親はかう言つておちおち眠ることすら出來ないくらゐに喜んだ。
 窕子にしても里の家が急に明るくなつたやうな氣がした。
 標野から山に向つて入つて行く路は暑かつた。一方の車には窕子と道綱と呉葉、一方の車には長能とその妻のかをると母親とが乘つて、カタカタとわるい路を搖られながら行つた。ところどころにある大きな樗の木蔭には、この暑い原を越して行く人だちの牛車や絲毛車が澤山に休憩してゐるのを眼にした。
 原を越して、これから山にかゝらうとするところには、冷たい清水がちよろちよろとわき出してゐて、そこに近所の百姓の嚊がむしろなどを持ち出して、山で採れた木いちごや、しどめなどをそこに竝べてゐた。皆なそこで車を下りて休むことにした。
 かをるの方が窕子よりは年が二つ下なのだけれども、窕子はそれを『姉者、姉者』と呼んでゐた。
『姉者は肥えてゐるで、何うしても他よりも暑いぢやらうな?』
 こんなことを窕子が言ふと、
『暑いにも、暑いにも……』かう輕くおどけた風にかをるは言つて、その細い筧からちよろちよろと落ちる清水を茶椀に受けて、それを道綱にも飮ませ自分にも飮んだ。
『つめたい?』
 窕子は此方から訊いた。
『口もきるゝやう――』
 窕子も立つてその筧の落ちる傍に行つた。
 急いであとからついて行つた呉葉が茶椀に滿たした水を窕子に出した。
『おゝこれはつめたい!』
 皆ながかはるがはる口に當てて飮んだ。暑い原を通つて來た苦しさがそれでよほど除れたやうにお互にのんびりした氣特になつた。それにそこは已にいくらか高くなつてゐた。京の町がそれと手に取るやうに見えた。
『これでやつと凉しうなつた!』母親もいつもと違つて、父親の歸京の消息を得た喜びがあるので、いかにも心が伸々としたやうに言つた。
 晝飯にはまだ少し早いけれども、これから先きには水のあるところはあつても休む設備の出來てゐるところはないと言ふので、持つて來た行厨をそのまゝそこで開くことにした。重ねた上の方の箱には、煮つけたものなどが入れられてあつて、下には今朝早くから起きて拵へた饅頭などが一杯に入れられてあつた。
『ひとついかゞ……』
 かをるはそれを呉葉にまで持つて行つて取らせた。
『うまく出來ましたね、姉者……』
 窕子は言つた。
『うまいどころではありませんでせうけども……。それでも、お中が減つては爲方がないから――』
『上手に出來てゐますよ』
 窕子は饅頭を一つ手に取つてそれを道綱にやつたりした。
 窕子にはかうした郊外の團欒がたまらなく樂しいやうな氣がした。これを平生の京の生活と比べたなら? 人が人と爭ひ、心が心と爭ひ、片時もその苦しさをやすめることが出來ないやうな生活と比べたなら? あのやうな無理な壓制が行はるゝやうな生活と比べたなら? またその身が不斷にやつてゐるやうな愼恚と嫉妬の生活と比べたなら? 大勢の妃を竝べて、美しい裳を着せて、それに酒の相手をさせたところでそれが何んだらう? また坊に行つて夜もすがら騷いであそび□つたとて、それが何だらう? やつぱりこの人生にもかういふ靜かな樂しさがあるからそれで生きてゐられるのではないか。こんなことを考へながら、窕子はじつとして立つてゐた。
 兄の長能は窕子の多情多恨な性質を知つてゐるので、傍に寄つて來て、
『何うかした?』
『いゝえ……』
『また、何か考へ出したのかと思つて……』
『いゝえ、たゞ、かうしてゐれば好いなアと思つたんです!……。かういふ生活もあるのに、何うして人間はあゝいふ爭ひの生活をつゞけてゐるのかと思つたんです!……。かういふ山の中に住んでゐる人だちは、さばさばとして何んなに好いだらうと思つたんですの!』
『だつて爲方がない……。さういふ生活があるんだから――』
『だから、それを亡くさうといふんぢやないの……。亡くしたいたつて、それは私の力では出來ないことですからねえ。たゞ、かういふ樂しい、自然のまゝの生活もあるのだと思つただけなの……』
 兄の長能は餘りに深く入りすぎて、また氣持でもわるくさせてはと思つてそのまゝ口を噤んで了つた。
『ぢやそろそろ行かうかね……。もうこれからは山で凉しいから』
『さうしませう』
 かをると呉葉とはそこらにあるものを片附けにかゝつた。
 やがて皆なはてんでに自分の車に乘つて、またガタガタと山深く輾らせて行くのだつた。

         二九

『だつて、お前、そんなことを考へたつて爲方がない……』
 母親はつとめて窕子をなだめるやうにして言つた。
『母者の言ふことはそれはよくわかるのよ。何うせ、人間はあきらめ――自分のことでさへ自分で自由にならないのに、何うして他のことまで自分の思ふやうにすることが出來よう。それはよくわかつてゐる。しかし、さうだからと言つて、それを放つたらかして置くといふことは出來るでせうか。何うかしてそれをよくしたいと思ふから、それで苦しむのではないでせうか?』
『苦しむからいけないのぢや。苦しむことはない――』
『でも苦しまずにはゐられないのですもの……。あゝして道綱があそんでゐるのを見ても、すぐ苦しくなつて來るんですもの……』
『それがわるい癖ぢや……。それをやめねば、そちの病氣は治らぬと阿闍梨も言うたぢやないか? 何も思はぬ。何んなこともつらいとは思はぬ。眼の前を通り過ぎる雲ぢやと思うてゐる。でなければ、魔が一しきりついたのぢやと思うて知らぬ顏をしてをる……さうでなければ治らぬと言うたぢやないか――』
『…………』
 だまつてうつむいた窕子の眼からは涙がはらはらと流れた。
『困つた人ぢやのう?』
『母者……』窕子はあることを急に思ひ出したやうに、『母者はあの前の大納言どののつれてゐた人を見て何う思はれた?』
『あの向うの坊の方でお目にかゝつた人かや?』窕子の點頭くのを見て、『別に何うツていふことも思はせなかつたが?』
『此身は涙が出て、涙が出て……』
『何うしてぢや?』
『母者はあの女子のことをよう知らぬのかも知れない……』
『よう知りをる……美しいので名高い姫ぢやつた――』
『母者、この身はあの人があゝいふ病に取憑れたので、それで氣の毒だといふのではない……。それよりも、それよりも』急にたまらなくなつたやうに、『あの、あの大納言どのが……』
『大納言どのが何うしたのや?』
『あの體の大きい、心の大きい、その愛してゐた女子のためには、あゝして職もやめ、つとめもやめて、この山の中までついて來てゐるのを見て……ウ、ウ……この身は、この身は――』
 涙が言葉を遮つた。
 今度は母親がこまつて了つた。窕子の心がはつきりと飮み込めて來た。
 暫くしてから、窕子はやつとその言葉をつぐといふやうに、『母者……母者にもそれがわからないことはなかつたと思ふ。あの大きな體、男らしい物の言ひ振、あれほどまでにして貰ふ仕合せな! その病人の傍を片時も去らずに看護する男子……。さういふ男子もあるんだから……。それを考へると、この身は悲しい。この身は悲しい。この身は涙が出て涙が出て……』
『ようわかつた……。しかし、さう一概に男のことをきめて言ふのはわりい。それはあの大納言どののやつてゐられることは尊い。それはわるいと言はぬ。この身も涙を催うした……。しかし、他の男の子がさうしないからと言つて、それをわるう言ふのは、あまりに物事をきめすぎてゐていけない……。この世の中といふものはさういふものではない。』
『それはさうでせうけれども……あゝされる女子は仕合せだ……。』
 それに比べたら、この身などは何うだと窕子は言ふのだつた。一度だつて見舞にも來て呉れたことはない、行くなら行くで放つて置く、そして自分は勝手に振舞つてゐる……。それはまア好いとしても、さういふ男の子にさういふことを望むは望む方がまちがつてゐるのかも知れぬから、それは好いにしても、それでは此身が可哀相ではないか。何一つつかんだもののないこの身が悲しいではないか。
『ようわかつた、ようわかつた』
 逆らつてはかへつていけぬと思つたので、母親はつとめて窕子の氣を迎へるやうにして言つて、
『その中には好いこともある……。さうわるいことばかりあるものではない……。道綱だつて、さういつまでも子供ではゐない。來々年に殿上することの出來る年ぢや……』
『そんなこと、あてになるものですか? 道綱のことなんか、少しでも考へてゐるんではないから……』
『そんなことはない、それは決してそんなことはない。それは安心しておいで! 殿だつて、そんなに人情のない方ではないのだから……』
 母親が強く壓しつけるやうに言つた。
 窕子にはしかしそれだけでは物足らなかつた。かの女は一つの戀愛と言つたやうなものにあくがれた。二つの心がひとつになつてそれが何ものにも動かされないやうになる戀! 何ものに打突つても決して決して打壞されない戀! 金剛不壞な戀! 十年逢はなくつても一生逢はなくつてもかはらない戀! さうしたものをかの女は常に眼の前に描いた。手を合せる佛の體の中にもそのまことの戀がかくされてあるやうな氣がした。

         三〇

 兄の長能の言つた言葉を窕子は思ひ起した。
 ――『だつて、それは無理だ。殿はさういふ質の人ぢやないんだもの……。殿はそんなことを女子に望んでゐはしないんだもの。殿に取つては、女子は尊いものではないんだもの……。それはおもちやだとは思つてはゐない。さういふ風に一段低くは見てはゐない。更に言ひ換へれば、女子は生活を面白くして呉れるものだくらゐに思うてゐる。だから、とてもお前の言ふやうなわけには行かない。さうかと言つて、それが薄情とか何とかいふのではない。殿だつてつまらなく女を傍によせつけてばかりはゐない……。あれでひとりでつまらなさうな顏をしてゐることもあるんです……。しかし、かういふ氣はあるな。窕子の考へ方と殿の考へ方は正反對で、とてもそれはひとつにはならない……。それが運がわりいといへばわりいのだらうが、たとへそれがひとつになつても、運が好いかわりいかわからない……。こいつは何うも一概には言へないな』――昨夜話してゐる中にこんな言葉が雜つてゐた。母親と兄の長能とかをると窕子と、この四人がおそくまで結燈臺を取卷いて四方山の話をした。中宮のことも出れば登子のことも出た。大納言が昔ひどい遊蕩者であつたことなども出た。長能が此頃ぴたりと女のあそびをやめたことになつて行つた時には、『いや、それはかをるがえらいんぢやない……。世間ではさう言つてゐたにしても、それはさうでない。世間なんて表面きり見ないものだが……つまり一言で言へば女がおもしろくなくなつたんだよ……。いつまでやつてゐたつて、ひとつだつて本當につかめやしないし、際限がないといふ風に何處かで考へはじめたんだよ。何處かで? 本當に何處かでだよ。自分でもはつきりそこが言へないんだよ。そこにうまくかをるがぶつつかつたんだ――そこが運が好いと言へば好いんだ……』などと言つて笑つた。そしてそれからそのつぎつぎへと殿や窕子のことなどが出て行つたのだつた。殿などでもいつまでもあゝしてゐらるゝものではない……。もう好い加減飽きてをられる。こんなことをも長能は言つた。窕子はさうした言葉を頭にくり返しながら、寺の塔のあるところから谷川の見える方へと行つた。そこらには坊が二つも三つもつゞいて、その一つは崖の上から谷を見下ろすやうな位置にあつた。
 谷川の瀬の鳴る音が下の方できこえた。
 かの女はもはや三十に近くなつてゐたけれども、その美しさは少しも衰へず、別におつくりをしなくとも、あたりの眼を惹くに十分だつた。かの女はあちこちから此方を見てゐる眼に出會した。
 それに誰が話すともなく、東三條殿のおもひものだといふことが參籠に來てゐる人だちの間にもそれと知られてゐるらしく、時々そのうしろの方で、さう言つて囁いてゐる氣勢を聞いた。
 殿上人ではないがちよつとしたことから懇意になつたある若い妻は、かの女が歌道に名高い人であることを知つて、かういふ時でなければ教へを乞ふことが出來ないといふやうに、ちよいちよいその坊をたづねて來た。それは名を梅尾と言つてゐた。
 ひよいと氣が附くと、その向うのところに、その梅尾が、藏人頭の下にでもつかはれてゐるやうな、若い、意氣な、縹色の柔かな烏帽子を頭に載せた男と睦しさうに竝んで話しながら歩いてゐるのを目にして『おや!』と窕子は思つた。
 餘程背後から聲をかけようとしたが、きまりをわるがるだらうと思ひ返して、わざとゆる/\と靜かに歩いた。
 かれ等は何う見てもたゞの關係ではなかつた。
 またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。
 大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。
 少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。
 しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。
 かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。
 何のくらゐゐたか、小半□くらゐゐたか、それとも半□くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。
 向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。
 梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。
『まア……』
『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。
 梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。
『好いの?』
『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』
『私の方は構はなくつても好いのよ。』
『いゝえ。』
 梅尾はまた顏を赤くした。
『從兄が來たもんですから――』
『從兄?』
 人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。
『…………』
『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』
『まア……』
 梅尾は聲を立てた。
『あの塔の下のところで、ひよつと見ると、あなたなんでせう。それから餘程聲をかけようかと思つたんだけども、何だか……』
 言ひかけて窕子は半分言葉を引込めて了つた。
『まア、聲をかけて下されば好かつたのに――』
『でも……』
 窕子は笑つた。
『だつて、私、困つて了つたんですの……。聲をかけて下されば好かつた――』
『そんなに申しわけをしなくつても好うございますよ』
『まア』
 しかも窕子は別にそれより深く立入つてその話をきくでもなかつた。むしろ立入つてその話をきくことを恐れた。かれ等は靜かに踵をあとにめぐらした。

         三一
 
 谷に凭つた座光坊には窕子はよくその庭の方から入つて行つた。そこにはかの女は母親とも行けば兄の長能とも行つた。道綱と呉葉と三人して行つたことなどもあつた。
『あの老僧は高徳の方だけあつて、ひとり手に頭がさがるが――あの今のあるじの僧も氣が置けなくつて好い。この深い山の奧で幼いころを過したやうな人だけに、何處か並でないところがござるな』
 こんなことを母親も長能も言つた。呉葉も、『好い法師さんですこと……。それに男前が好い!』かう言つたが、あとの一句は自分でもあまり言ひ過ぎたと言ふやうにソツと舌を出した。
『まア、あきれた……』
『だつて、さうですもの、好い法師さんですもの……』
『だつて舌を出さなくつたつて好いぢやないの?』
『御免なさい!』
 呉葉は自分のはしたなさを悔ゐるやうにして言つた。
『この山で幼い時をすごし、それから横川で行をなすつて、高野にも室生にも行つて、密教の方も十分になすつた方だからねえ……。このお山でもめづらしい法師さんだ――』窕子に取つても、異性がさういふ風に童貞をずつと守つて、一心に佛に奉仕してゐる形が、端麗な姿をしてゐるだけ、一層傷ましいやうな尊いやうな心持を誘ふのだつた。『あれで、あゝいふ風にして一生清く行ひすまして行かれるのかねえ!』時には窕子はこんなことを呉葉に言つたりした。
 ある日は道綱と二人で行つて、小半日もその坊で過した。あるじの方の僧は、却つてそれを名譽にして、何彼と道綱の機嫌を取つて、羊羹を高坏に載せて出したり、葛を溶いた湯を出したりして歡待した。無論それは東三條殿の愛兒であるといふ點もあるのだが、當代で評判な美しい女の歌人を歡迎する意味もあつたのだつた。
『我々もたまには歌にして見たいといふ考も起るのですが、こればかりは別才だと見えまして、何うもうまい具合にまとまりません……』
『いゝえ、そんなことは――?』
『お上手な方がおつくりになりますと、それがすらすらと單純に出る。ちつともこだはりなしに――。何うもそれが眞似が出來ません。我々のやうな鈍根なものには何うも材料ばかりが多くなりまして、何を言つた歌だかわからなくなりますので……』
『いゝえ……』
『さうかと申して、それぢや材料が多すぎるのだからいけないのだからと思つて、今度はひとつのことをよまうとすると、それが短かすぎて歌にならない……。何業でも皆なさうでござるが、中でも歌はむづかしい……』
 こつちから般若心經の中心になつてゐる心持をきかうなどと思つて出かけて行くと、その先を越して、向うから歌の話を持ち出すといふ風なので、窕子は一層その僧に親しさを感ぜすにはゐられなかつた。時にさうして清くひとりで住んでゐる僧の上にそれに似た自分の生活を持つて行つてくつつけて、いろいろと深い感慨に耽ることもあつた。
『私などにはとても深いことはわかりませんけれども……それでも歌の心持を押しつめて參れば、やはり佛に近づく心が致しますので……』
 ある日は窕子はこんなことをそのあるじの僧に言つたりなどした。
 それにしても世の中といふものは不思議なものだ――窕子はその坊から下りて來る石段を一歩々々拾ひながらこんなことを常に考へるのだつた。あゝいふ清らかな端麗な異性もある。さうかと思ふと殿のやうに女を女と思はず自分さへ歡樂を恣にすればそれで好いと思つてゐる人もある。情の赴くまゝにまかせてしたい三昧のことをしてゐる人だちもある。未來のことなどは少しも思はずに、人の夫であらうが、人の妻であらうが、そんなことには頓着せずに、たゞ愛慾にのみ耽つてゐる人だちもある。何が何だかわからない。さういふのが罪なのか、それともさういふ風に考へるだけでも罪なのか。この尊いお山に參籠してゐる人だちの中にも、こゝを歡樂の庭のやうに心得てゐるものさへある。あの梅尾などにしてもそのひとりではないか。そしてそれが罪になるのか、それともならないのか。さういふことをするのは人間の心の持前で、何うにもならないのか。自分ながら自分のことがわからなくなつてむしろ自分が可哀相になつて――窕子はじつとそこに立盡したりなどした。

         三二

 窕子の參籠してゐる室から、すぐ眼の前に山の裾が落ちて來てゐて、下では何方かと言へば靜かな、せゝらぎのやうな水の音が微かにきこえてゐた。
 杜鵑がキヨ、キヨ、キヨとすぐ前を啼いて通つた。
 來た時に咲いてゐた卯の花の白いのももう見えなくなつて、水ぎはに名の知れない紫の細かい花などが咲き出した。此頃窕子はその若いあるじの僧のことを考へてゐることが著しく多くなつたのを自分でも不思議に微笑まるゝやうな心持でじつと見守るのだつた。本を展げてゐる時にもいつとなくかの女はその僧のことを考へてゐるのに氣が附いた。

         三三

 唐の僧の祈祷の席にも窕子はたびたび出かけた。かの女はそこにも大勢の參籠者がさまざまの願望を抱て手を合せてゐるのを目にした。子に對する苦しみ。子の病に對する苦しみ。妻の夫に對するもだえ。夫の妻に對する悲しみ。さういふ苦みやらもだえやらを持つた人だちは皆なそこに來て坐つた。位記や官名を持つた人だちのためには、別に設けられた席などもあつて、あの肥つた大納言夫妻の姿も常にそこに見られた。
 窕子もいつもそこに案内されるのだが、かの女はその姿の人の目に立つことを嫌つて、わざとあまり派手々々しくない裳を着て、大勢の群の中に雜つてその祈祷の讀經を聞くやうにした。その唐の僧といふのは、昔の鐡眞和尚を思はせるやうな半ば眼の盲いた高徳で、背もさう高い方ではないが、その態度にもその擧動にも何處となく立派なすぐれたところがあつて、それが五六人の僧だちと一緒に入つて來ると,誰も頭を下げて佛の名號を唱へないものはなかつた。何でも世間の噂では、その高僧の一つの祈祷は人間のあらゆる苦痛を和らげ、あらゆる病を醫やし、あらゆる煩悶を輕くするといふことに於いて他に比ぶべきものがないといふほどの功徳を持つてゐるといふことだつた。窕子は少くとも毎日一□以上小さな珠數をつまさぐりながらじつとしてその光景と相對した。讀經――何とも言はれない冴えて澄んだ聲。長く引張るやうに末は磬のやうに御堂の高い天井にひゞいてきえて行く聲。ひとりの僧の時に觸れ折にふれて鳴らすけたゝましい鉦の響。ことに、その高徳の聖のひとり高く張り上げる聲は高くあたりに、窕子の心の底までもじつと深く染み入るやうにきこえた。
 ある日、座光坊のあるじの僧とかの女との間にこんな話が出た。
『あのしまひのところが、密教の行ひと申すのでございませうか?』
『さやうでございます……。あのしまひの方で磬を鳴らすところがござりませう。あそこがあの祈祷の眼目になつてゐるのです……』
『本當に、あそこは難有い心持が致しますの……。やはり、あゝいふところになりますと、心はずつと靜まつて、いろいろな煩惱は皆な小さな、小さなもののやうになつて了ひます……』
『今度の大徳は密教には中々深く通じて居られますから、信用してあの行を見ることが出來るやうな氣が致します、……。さうです、高野の眞言とはいくらか違つてゐるやうです。もつと天臺の智者大師のひろめられたものの方に近いやうでございます……。ですから、密教と申しても餘程初期の感じがまだ殘つてゐるやうでございます……。そこが尊い……そこが他の御堂では味はれないところだと思ひます……』あるじの僧はこんなことを言つて、靜かな調子で、にこやかに笑ひながら、かなり深く難かしいところまで密教の話を持つて行つた。
 窕子は益々そつちへと引かれて行くやうな氣がした。自分たちの生活とこの靜かな生活と。瞋恚と煩悶と嫉妬と爭鬪とで滿たされた生活とこの高遠な普通ではわからない學問にのみ精進してゐる生活と。一つは火花を散らしたやうでもすぐ消えてなくなつて了ふ生活と、一つはいつまでもいつまでも人の心に深い教へを殘して行く生活と……。窕子は自分等の平生目にしてゐる殿上人あたりの自墮落な生活をかうした靜かな學問にのみ精進して來た人だちの生活に比較して考ヘずにはゐられなかつた。
 かういふ人だちは世間のことなどについては何も知らないのであつた。男女のことも、妻妾のことも、三つの心の巴渦のことも、御門が愛慾におぼれて末の君を無理に宮中に召されたことも、坊の町の細い巷路に結び燈臺が夜おそくまでついてゐてその角に牛車が待つてゐることも何も彼も……。そしてたゞ谷川の水の音を伴侶に深い高遠な學問にのみ心を注いでゐるのだつた。それが窕子には尊く感じられた。窕子はそのあるじの僧から法華經の一番中心を成してゐる思想を聞いたりなどした。
『さうしますと、何ういふことになるのでございませうか?』
 と、その僧はにこやかに笑つて、さて少し考へるやうにして、
『歌で申して見ますと、つまりそのひとり手に巧まずに出て來るといふ心持――そこいらに歌は滿ちてゐますけれども、それをつかまうとすると、つかむことが出來ない……何うしても出來ない。學べば學ぶほどむづかしくなる。それでゐながら、ひとり手に出て來る段になると、何の面倒もなくすぐそこにある……。あなたがいつか歌といふものについてさうおつしやられた……。法華經の中心を成してゐるものはやはりそれだと思ひます……』
『つまり、さうしますと、その高遠な思想が何處にでもあるといふことになるのでございますか?』
『さうなります……。何處にでもある。それだから難有いのでございます。たゞ一心といふこと――ひとつの心を持するといふこと、さう言つて了つては或ひは言ひすぎるかも知れませんけれども、つまり他には何もない。その經文を持してゐさへすれば好い。それより他に理窟はない。さういふところに非常に深いところがあるのでございます……あらゆる經文が皆なそこに入つてゐるのでございます――』
『さうしますと、あのお經に書いある字とか、理由とか、方則とか、さういふことよりももつと別なところにその中心がございますのですね』
『まア、さうですな……』
 聰明な窕子にもそれだけではまだはつきりとはわからないらしかつた。『その一心といふこと、その一心を持するといふこと――それと佛とは何ういふ關係になりますのでせうか?』などと訊ねた。
 一月もゐる中には、その僧と窕子との交際は次第に親しさの度を増して行つた。窕子は一日でもそこに行かなければさびしいやうな氣がした。その癖、それが何うの彼うのといふのではなかつた。かの女はをりをり望まれてそこで短册に歌を書いたりした。ある時には、御堂に行く途中、向うから緋の僧衣を着た僧が二三人やつて來るのに出會つて、初めはさうだとは思ひもしなかつたのに、そのひとりがそのあるじの僧であるのをやがて知つて、急にきまりがわるく、顏がわれながら不思議に思はれるくらゐにサツと染められたことなどもあつた。母親と一緒に行つた時には、いつもの佛の話とは違つて、自分が叡山に登つて修行した時のことや、奈良の唐招提寺に律を研究に一年ほど行つてゐた時の話などをかれはそこに持ち出した。『奈良の寺は方則がきびしいので一番つらうございました。朝は寅の刻に起きて、坐禪をやつたり、讀經をしたり、その間には、教義の議論をしたり、ほとほとひまといふひまはないのですから……。それは皆さんは、私どもなどはのんきに暮してゐるとお考へでせうが、中々これで忙しいのでございます……』などと笑ひながら話した。
 ある時、呉葉と二人でゐると、
『京の方がこひしくおなりにまだなりませんか?』
『何うして?』
『何うしてツて言ふこともございませんけども……』
 呉葉はいくらか笑を含んだやうな表情だつた。
『でも、今月一杯ゐるつもりで來たんだもの……』
『それはさうでございますけども……家のことだつて心配になりますから……』
『大丈夫だよ』
『でも、殿のことでも、あまり放つてお置きになつては?』
『だつて……』
 呉葉の心配する心持がよくわかつてゐるので、窕子は言ひかけてよした。
『この頃、お消息がちつともございませんでせう?――」
『ゐなくつて、うるさくなくつて好いと思つてゐるのよ』
『まさか――』
 呉葉は笑つて見せた。 
『さうでなけりや――少しでも此方を思つて呉れるのなら、何とか消息くらゐよこしてくれたつて好いんだもの……』
『でも、こちらからおあげになる方が本當ですもの……』
『…………』窕子はこれに對して何か言はうとして、よして、『それよりも、お前、もうあきた?』
『かをるさまやお兄さまは、もうとうに歸りたいやうに仰しやつてでございました……。』
『さう……』
 窕子は別にこゝに思ひを殘してゐるわけではなかつた。あるじの僧のことにしても、逢つたり話したりしてゐることの上には多少の興味を感じてゐるけれども、さうかと言つて、こゝに深く心を留めてゐるわけでも何でもなかつた。たとへそれがもつと深く、此方からも心を寄せ、向うからも進んで出て來たにしても、それは何うにもなる間柄ではなく、やつぱり山を出た雲は山に歸り、流れ落ちる谷川は里に向つて出て行かなければならないのだつた。窕子は自分の身の何うにもならないことを今更のやうに感じた。
 かをるがそこにやつて來た。百合の花を三本も四本も手に持つてるた。
『まア、好い花! 何處で採つて來ましたの』
『ぢき向うの山――』
 かをるは振返つて指した。
『よく、こんなのがありましたね……。まだあるなら、私、採りに行かうかしら?』
『まだ、あるにはありますけども……女の手ではちよつとむりかも知れませんね。長能が取つて呉れたんですの……』
『まア、兄さんが?』
 窕子は羨しさうに。
『この下の谷でございますか?』
 呉葉は問うた。
『この谷をずつと下まで下りて行つたところです……。とても、私には行けないといふのを無理に伴れて行つたのですの……石なんかいくつもいくつもわたつて行くんですもの……私、始めの中は、ついて行きましたけれども、しまひには行けなくなつて了つたんですの……。何故ツて、蛇なんか澤山ゐるなんておどかすんですもの……。やつとのことで、手を曳いて行つて貰つたりして、この大きい方のあるところまで行つたんです……』
『まアね』
『それから、あとはみんな長能が採つてくれたんですの……。男でなくつては何うしてもだめね……』
『まア、私も兄さんに伴れて行つて貰はうかしら?』
 窕子はいかにも羨しさうにその白い百合の花を眺めた。
『それをさし上げませう! それでは――』
『いただいたのではまだ足りないんですよ。やつぱり男の人につれて行つて貰つて、女ではとゞかないところにあるものを採つて來ればこそ羨しいんですよ。ねえ、呉葉、さうは思はない?』
『お仲が好いですからね』  
 呉葉も笑つて見せた。
『また、あんなことを……仲が好いなんて……? そんなことちつともないわ。私、無理やり伴れて行かれたんですもの……。あそこ、少し行くと、ひどいところがあるんです。石につかまつて行かなくつちやならないやうな……。私、それから先きには何うしても行けないからツて言つたんですの……。私、待つてゐるつもりだつたの……。ところが、何うしても向う岸にわたれツて言ふんでせう。私、此方にゐると、向うは先にわたつて、その石から私の手を引張るツていふ騷ぎなんですもの……。容易にはあそこには行かれやしませんよ』
『だから羨しいツていふんですよ』
 そこに兄の長能がやつて來て、その谷にはまだそれよりも美しい百合がいくらもあるといふ話しをした。

         三四

 ある日、呉葉がにこにこしながら入つて來た。
『たうとう參りました……』
『…………』
 窕子は谷に臨んだ坊の室で、凉しい麻の裳ばかりを着て机に向つて歌の本を讀んでゐたが、いくらかいぶかるやうな顏つきで、急いで此方へと入つて來た呉葉の方を見た。
『殿から……』
『あ……さう……』かう言つて窕子はその消息を入れた文箱を受取つた。
 かの女は別にうれしいといふやうな表情は見せなかつた。しかもそれを手にするとそのまゝその消息を取り出して、それをすぐひろげた。すらすらと讀んで行くのが此方に坐つて控へてゐる呉葉にも氣持好く感じられた。
 讀みおはるのを待つて、
『別に、おかはりはござりませぬのですか?』
『お前の言つた通り……あまり長くなる……道綱も退屈してゐるだらう……もう歸つて來いツて書いてあるよ』窕子はそれを卷き收めつゝ笑ひながら言つた。
『それはさやうでございませうとも……殿だとて、お待ちかねでいらつしやるには違ひありませぬ……』
『やつぱり道綱はしばらく見ないでゐると、逢ひたうならるると見える……』
『それはさうでございませうとも……』呉葉はかう言つたけれども、にこにこと別なことを考へながら、『それに、何と申しても、眞心と申すものは、最後の勝利者でございますから……』
『…………』
『何處に行つたつて、こちらのやうな眞心を持つたものはございませんから……』
『何うだかわからないね。こつちにだつて、そんなものは持合せてゐるか何うかわからないよ……』
『あんなことを仰しやる!』
『だつて、さうは思はない? いくら此方が眞心を持つてゐても、向うでさうでなければ、さういつまでもその心を持つてゐることは出來なくなるのではない? やつぱりそれはお互ひのことではない……? それはね、その間に何も起つて來なければ好い。誘惑が起つて來なければ好い。しかしさういふ時には、得てさういふ誘惑が起つて來るものだからね。さういふ情に薄い一方の人に比べて、一方の人は實際以上に情に深いやうに見えるのが慣はしだからね……』
『でも……この間、法華經のお話をうかゞひました。そら、一つの心を固く持つてゐて動かない? さういふお話をうかゞひました……。あれとは違ふのでございますか?』
『…………』
 窕子はぴたりとそこに行きつまつて了つた。暫くだまつてゐたがやがて笑ひながら、
『お前、よく覺えてゐたね』
『だつて好い話だと思つて心に銘してをりましたのですもの……』
『それにつけても、その一心を持つといふことは難かしいことなんだね。お話できけば、わけはないことだけども、實際にそれを行ふといふことになると、大變なことなのだね……。今、考へた――お前に言はれて考へた。それはさういふ兩方を比べる心持などとは非常に違つてゐるのだツていふことを。もつともつとずつと先きのことなんだね。すぐそんな風に報酬的に考へるやうな心持では、とてもその境地に達することは出來ないのだね……』
『さやうでございませうか?』
『あ、お前に言はれて、好いことを考へた――一言の師と言ふことがあるが、お前はそれだ!』
『そんなことはございませんけど……』
『たしかに、さうだ……。お前がそれを言つて呉れないと、その一心を把持するといふ心持が非常に小さくなつて了ふところだつた……』
 そこにまた足音が几帳のかげでして、可愛い雛僧が入つて來た。
『あの使のものが待つてをりますが――お返り言がございますのでございませうかツて?』
『あ! すつかり、こつちの話にまぎれて了つた――今すぐ御返事を上げますからツて』
 かう言つて窕子は傍に置いてある机に向つた。
 暫くして出來た返事をもとの文箱に入れてそのまゝ呉葉にもたせてやつた。窕子は猶ほじつとして坐つてゐた。下では水の音が靜かに靜かにきこえてゐた。窕子はその一心の把持といふことと報酬的な心持との矛盾を長い長い間深く深く考へてゐた。
 不意にあることがかの女の頭に上つて來た。『さうだ、さうだ……その一心の把持といふ言葉の中には、その報酬的な心持が何階も何階も階級を成してゐるのだ……。いゝえ、さうしてつらい報酬的な瞋恚に何遍も何遍も燃え上つたればこそその一心の把持といふ言葉が出て來たのだ……。佛は何遍も何遍もさうした心を通過して、そしてあの言葉を言はれたのだ――』尠くとも今までの心の境地とは丸で違つた心持がそこに展げられて來たやうな氣がした。かの女は言ふに言はれない歡喜を感じた。
 
         三五
 
 ある日は道綱とかをると窕子と三人で出かけた。何でも谷の奧の方に一軒尼寺があつて、そこのあるじは老尼だが、その弟子に歌をよむ若い尼がゐるといふので、果してそこまで行かれるか何うかわからないが、兎に角散歩に出かけて行つて見ようといふことになつた。
 路は始めはその谷川に添つて奧へ奧へと入つて行つた。杜鵑が頻りに啼き、いろいろな花が草藪の中に雜つて咲いた。
 道綱は行く行く阜斯などを追懸けた。到るところに蝉が鳴いてゐるので……時にはすぐ手近かなところにとまつて、人間の子供なんか馬鹿にでもしてゐるやうに啼いてゐるので、何故蝉を取る袋を持つて來なかつたらうと道綱は後悔した。『だつて母者がわりいんだ……蝉なんか取つてゐる間はないなんて言ふんだもの……それそれ、あそこにミンミン蝉がゐた……』かう言つて地團太を踏んで、しまひにはさもさもくやしさうに礫をそれに打突けた。蝉は不意の襲撃にさも驚いたもののやうに、シュツと言つてそして飛んで遁げた。
『つまらないなア……本當につまらないなア!』
 道綱が言ひつゞけた。
『つまらなきやお歸んなさいな……蝉なんか取りにつれて來たんぢやありません!』
『だつて、あんなにゐるんだもの』
 こんなことを言つてゐると思ふと、二三歩先きに歩いてゐたかをるがキヤツと言つて夥しく聲を立てた。驚いてそつちを見ると、さう大して大きいといふほどではないが、いくらか赤い斑を見せた三尺ぐらゐの蛇が、するすると路から草原の中へと入つて行くのだつた。
『や、くちなは!』
 道綱は別に怖いとも思はずに、却つてその草原へとそのあとを追つて行つた。
『こら、およしつたら……。本當に、此頃、この子が言ふことをきかなくなつたねえ! もし、わるいくちなはでもあつたら何うするんです――』
 道綱は路傍に生えてゐる篠竹を折つて、それを鞭のやうにして、まだそこいらに蛇がゐはしないか、ゐたら、今度こそ遁がさないと言つたやうに草原の中を打ちつゝ先に立つた。
『本當に、何うしてこんなにいたづらになつたか……。とても、これでは殿上など出來はしない……』
 誰に言ふともなく窕子が言ふと、
『大丈夫ですねえ……。父君がついてゐますね。何んなにでも好くして呉れますねえ!』
 傍からかをるが道綱に向つて言ふやうにして言つた。
次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:211 KB

担当:undef