道綱の母
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著者名:田山花袋 

『お前、そつと入つて行つて、きいて見て御覽……』
 窕子は小聲で言つた。
 呉葉は入つて行つた。廊下の小さな欄干に添つてその影はすぐ向うに消えた。
 窕子はひとりじつと立盡した。雨がかなり強く音を立てゝ降つてゐる。さつきまで見えてるた卯の花の白さも、もはや夜の空氣の中にぼんやりと微かになつて了つた。窕子は何とも言へないさびしさと悲しさと心細さとに襲はれて、戀といふものの闇が、そこに恐ろしく悲しくひろげられて來たやうな氣がした。
 雨の縱縞がその闇の中に微に線を引いてゐるのが覗かれた。
 靜かな足音がした。呉葉がもどつて來た。
 小聲で言つた。
『びつくりしてゐらつしやいました……』
『さうだらうね?』
『別におかわりにもなつてゐないやうでございます――』
『それで――』
 そこに登子のおつきの常葉といふ中年の侍女が出て來た。
『何うぞ――』
『よろしいのですか?』
 で、三つの影は音も立てずに、周圍を取卷いた小欄干に添つて靜かに動いて行つた。
 そつと妻戸を明けて入つて行くと、そこは周圍の廊下を几帳でしきつたやうなところで、小さな結燈臺が既に明るく點されてあつた。そこは侍女の常葉のゐるところだつた。
 輕い裳づれの音がしたと思ふと、いきなりそこに登子がその美しい顏を出した。
『まア、よく……』
『まア――』
 二つの美しい聲がそこに取り交はされた。
 かれ等はすぐ奧の明るい室の方へと行つた。
『本當に、どんなに心配したかわからないのでございますよ』
『それでもよくこんなところがわかりましたね』
『家がすぐそこなものですから……』
『あゝさう、それでわかつたの? それでいつから來てるの?』
『忌違へに來たのですけども、この雨で、とても………』
『ほんに、此雨は……』
 短かい言葉しか二人とも話せないやうな時間が暫しつゞいた。
 窕子は思ひ做しか此間逢つた時とはぐつとやつれて元氣がなくなつてゐる登子を見た。
『お痩せになりましたねえ?』
『さう……』
 登子は微かに笑つた。
 相對してゐる中に、いろいろなことが次第に飮み込めて來た。式部卿の宮の死は、さうだとは登子は決して言はなかつたけれども、しかし藥を仰いでの死であるといふことはそれと察しられた。また登子がかうして他に知られないやうに廢宅に身を忍ばせてゐるといふことは、やつぱり世間でも言ひ窕子も想像してゐたやうに、内裏からの迎へを一時避けなければならないやうな位置に登子が身を置いてゐるからであるといふことがわかつた。窕子は何う慰めて好いかわからないやうな氣がした。
『思ふまゝにはならぬもので……』
 言ひかけて止した登子の眼には涙が光つた。
『…………』
『でも、かういふさだめでござらうほどにのう!』
 言ひかけて、急にその時のことを再びまざまざとそこに思ひ出したやうに、『でも窕子どの、あはれと[#「あはれと」は底本では「あはれとと」]思つて下さい……。あの時にもお目にかゝることが出來ず、はふりの日にも――』
『ことはりでござります、ことはりでございます』
 窕子はかう早口に言ふより他爲方がなかつた。
『それはのう……』登子は裳の下から袖を引出して目に當てたが、暫くしてから、『よう、今まで生きてゐたとこの身も思つてゐるのです、腑甲斐なき此身、生きてゐたとて何うすることも出來ない此身……なぜ、此身はともかくもならなかつたのかしら?』
『まア、そのやうには――』
『窕子どの、ほんたうに何遍死なうと思つたか知れない……。一度はすでのこと刄をこの咽喉に當てようとした時に母者にとめられた――』
『まア……』
 窕子も流石に驚かずにはゐられなかつた。
『でも、死きれぬ身、何うしても死きれぬ身……それが、窕子どの、この身のつたない運命なのだから……。何うすることも出來ない身だから……』つまり御門でなければどうにでもなるが、さういふさだめの身になつた上は、いくら考へて見たところで、またいくらもだえて見たところで徒勞だといふのだつた。否、姉の中宮に對する心づかひなども細かくその中に籠められてあるのだつた。やはり窕子が兼家のために無理に其方に伴れて行つたのと同じことだつた。
『女子といふものは、さだめつたなく生れたものなればのう――』
『ほんに――』
 窕子も身につまされずにはゐられなかつた。
『女子といふものは、何のやうに思ひ込んだところで、何うにもならぬし、いくら望ましくないと言つても、それが通るわけでなし――』
 それは窕子と兼家との關係とは比すべくもないけれども、それでもまゝにならないといふ心持は似てゐるので、窕子には登子の心持がよくわかつた。後には窕子は登子を透してひろい人生に對するやうな氣がした。
 登子は式部卿の宮の歌やら詩やらを出して見せた。一番最後によこしたといふ手紙などを蒔繪の文箱の底から出して見せた。詩は當時にあつても名高い作者だつたので、墨色といひ、字のくばり方と言ひ、また詩の出來榮といひ、何ひとつそつがなかつた。歌も行成流の假名が見事だつた。
 手紙には別に大したことも書いてなかつた。逢ふつもりでゐた日に止むを得ない用事か出來て、その美しい眉に接することが出來ないのは悲しい。しかし悲しいことの多いのは――思ひのまゝにならないことの多いのは、この世の中の習ひだ。何もくやむことはない。心長く時の來るのを待つより他爲方がない……。さういふ意味のことがたゞ短かく書いてあるのだつた。しかし登子には、その思ひのまゝにならないといふことがたまらなく悲しかつた。宮はその生れこそ一の人の家柄ではなかつたけれども、御門とはすぐその上の兄君に當つてゐられたのであつた。母方の一族さへ時めいてゐたならば、御門よりも先きに位に即くべき資格を持つてゐられたのだつた。それに、宮は先帝に可愛がられたので、一時は今の御門の母方の人達が、何のぐらゐ眉を蹙めたかしれないのだつた。登子はその思ひのまゝにならないといふ言業の中にさうした事實を持つて行つてあてはめた。泣いても泣いても盡きずに涙が出て來た。
 後には窕子は慰めるのに言葉がなくなつた。
 暫くの間、沈默があたりを領した。
 そこに常葉が高つきに羊羮を入れて運んで來た。
『他の人なら、とてもこんな眞似は出來ないのなれど、御身ゆえ、何も彼もさらけ出して、このやうに泣いて了うた……。他の人が見たら、何うかしたと思ふに違ひない……』登子はさびしく笑つた。
『まア、あまりに心をつかひあそばすな。御心配の時には、いつにてもすぐ參上致しますほどに――』
『さぞ見にくかつたでせうね……』登子は繰返して言つた。
『そんなこと何とも思ひも致しません。誰れだつてさういふ場合には泣かずにはゐられませんもの……』
『さういふて呉れるのはあなたばかりですからね……。本當に力になつて呉れるものなんかないのですから……』
 登子は實際さびしいらしかつた。姉の中宮からもその時以來わるく嫉妬の眼で見られるやうになつたばかりでなく、いろいろな方面からいろいろな壓迫を強く受けた。御門はまた御門で、式部卿の宮が薨去せられてから、一度も登子の姿を見ないので、もしや何か事があつたのではないかと頻りに内意を九條の家へと傳へた。
 母や兄やまたはその周圍にゐる人達は表面では困つたことが出來たやうにも言つてゐるが、内心では小一條の女御に對する御門の愛が、中宮には戻つて行かなくても、この末の君に移つて行つたことを寧ろ祝福するやうな態度でゐるのであつた。それを登子は徐かにしみじみと窕子に話した。
 雨は降り頻つた。軒から落ちるあまだれがすさまじくあたりにきこえて、サツと風が物凄く樹を鳴らした。何か物の怪でも來はしないかと思はれるやうな氣勢があたりにした。
 結燈臺の灯はチラチラした。
 二人は思はず顏を見合せて戸外にざわついてゐる物音を聞いた。
 暫く經つた。二人は何も言はなかつた。
 登子が始めて口を開いたのは、猶ほそれから暫く經つてからであつた。
『あまりに泣いたので、宮の御魂が來られた!』
『…………』
『たしかにさうだ……。たしかに宮の足音がきこえた――』
『………』
 また二人は默つて耳を欹てた。サツと風雨がまた庭の樹を鳴らした。それと同時に、微かに人の忍び寄つて來るやうな氣勢がした。それは窕子にもわかつた。普通ならば、さうした風や雨や樹木の葉ずれや竹の葉のなびきに埋められて、とてもきこえる筈はない物の音が靜かにそこに寄つて來るのであつた。
 登子の顏のわるく青白く、眼がじつと一ところを凝視してゐるのを窕子は見た。おそらく自分の顏もそれと同じく蒼ざめてゐるのだらうと思つた。すさまじく風雨が戸外に荒れて居るのがはつきりとわかりながら、その中に沓の音の近づいて來るやうな音は猶ほきこえた。
 急に登子は恐ろしい物の怪にでも襲はれたやうに裳の袖を頭から引被いて了つた。近くにある方の結び燈臺は風もありはしないと思はれるのに、ふつと消えた。窕子も思はず、あ! と聲を立てた。
 同じやうにしてかの女も裳を被いて了つた。
 それから何のくらゐ經つたか、半□ほども經つたか、それとももつと長く經つたか、二人が氣がついた時には、呉葉と常葉とがこれもやつぱり何物にか襲はれでもしたやうにしてそこに來ておどおどしながら坐つてゐるのを見た。それでも外のざわつきはもはや靜かになつたらしく、たゞ風雨の氣勢だけがそれと遠くきこえるのだつた。
『何うしやつた?』
 登子は始めて我にかへつたといふやうにして常葉に訊いた。
 かれ等の言ふところに由ると、何か奧で人の叫ぶやうな氣勢がしたので、何事かと思つて常葉を先きに、そのあとから呉葉がつゞいて驅けるやうにして入つて來ると、結び燈臺が消えてゐて、登子と窕子と引被いて打伏して了つてゐるのに度膽をぬかれて、かれ等もそのまゝそこに打伏してしまつたといふのであつた。『こわや、こわや……』常葉の顏はまだ蒼青だつた。
 あとからついて來た呉葉にはそれは見えなかつたが、常葉には白いふわふわした焔のやうなもの――よく見ればそれは衣冠であつたかも知れなかつたやうなものがそこにひろがつてゐたのが見えたといふのだつた。それを見て常葉はすぐ打伏したといふのだつた。呉葉は呉葉で、二人のみならず常葉までがさうして引被いて了つたので、かの女も急に恐ろしくなつてそのまゝ隅のところに身を寄せたといふのだつた。
『たしかにそれに違ひない……宮が來られたに……』
 登子は確信したやうに言つた。
『こわや――』
 常葉はブルブル身を顫はすやうにした。たしかにあれが、あの白いものが宮だつたと思ふと、後から水でもかけられるやうな氣がするのだつた。『あまり泣いたものだから……』それで宮がやつて來られたのだ。登子は次第に元の心の状態になつて行つた。
 窕子にしても呉葉にしても、この物の怪のすだく風雨の闇の夜を、いくら近くともとても歸つて行くことは出來ないといふので。――また登子の方にしても、さびしくてとても常葉と二人きりでは居られないからと言ふので、僕を使にやつてその旨ことはらせて、二人は一夜をそこに過すことにした。それから窕子はまた一しきり話に耽つて、太秦の蜂岡寺の丑の刻の鐘が風雨の中にきこえる頃まで起きてゐたが、たうとうそこに蚊帳を低く吊つて夜のものを竝べて眠つた。

         二三

 雨は猶ほ幾日も止まなかつた。芦や藺は高く繁り、それに雜つて名も知れない黄い花が咲いた。杜若の厚い緑葉には、白いまたは紫の花が咲き添つた。夜は螢が人の魂か何かのやうに一つ二つ青白いひかりをあたりに流して行つた。
 此方の裏門のところにはよく窕子の姿が見えた。小降になつた時を選んでは、かの女はいつもそつと隣の廢宅へ行くのだつた。かくれ家では多くは歌などを詠んだりして世離れて暮した。幸ひに誰もかれ等の靜かな生活の邪魔をしなかつた。兼家も物忌で館にばかり引込んでゐるらしかつた。たまには歌を入れた文箱などが屆けられては來るけれども、たゞ雨のわびしさが歌はれてあるくらゐなもので、別にかの女に逢ひたいとも思つてゐなかつた。道綱はもはや七つになつたので、母のあとを追はず、おとなしく廊下で竹馬などをして遊んで暮した。
 少しくらゐ鳴らしても差支あるまいといふので、時には爪音を低くして登子と二人で箏の琴を彈いたりなどした。欝陶しい空合が絶えず眺められた。蝸牛が階段から廊下へとのぼつて來る丸い欄干に二つも三つも貼されてあつたりした。
 ある時登子は言つた。
『今はかうして世離れて、誰にも礙げられずに暮してゐることが出來るけれど……これもいつまでかうしてゐられることやら――』
『ほんとに――』
 窕子はかう言つて登子の方を見て、『何か、そんなことでも――』
『兎に角いつまでも此處にかうしてゐられないのは、わかつてゐるのよ。それが、この身の運命ですもの』
『…………』
『今日もそんなことをつくづく考へた……』
 窕子は何とも言へないのだつた。他から見たら、むしろ羨むべきことで、何うしてさういふ風に悲觀されるのだらうと思はれるくらゐなのだが、しかもその心持は窕子にはそれとはつきりわかるのだつた。そこに女の悲しみと苦しみとがあつた。かの女もさうした苦しみを經て來たことをくり返した。『何うしてかう女子といふものは虐げられてゐなければならないのだらう。女子は生れた時からさういふ風に運命づけられてゐるのか?』その話はいつもそこへと落ちて行くのだつた。
 あれ果てた池には蛙が頻りに聲を立てゝ鳴いた。それはよく雨に伴つてきかれた。蓮や麥の葉に水がたまつて、それが珠でも轉ばしてゐるやうに見えることもあつた。ある夜は頻りに時鳥が闇を破つて鳴いて行つた。大比叡でも雨の晴れる護摩を此頃毎日あげてゐるといふ。『山でも少し見えて呉れると氣が晴れるのですけれどもね』廊下のところで常葉がこんなことを鼻の大きい下衆に言つてゐるのも窕子だちには佗しかつた。それでも何うかすると、薄ぼんやりと夜中に月が出て、草に亂れた廢宅がさびしく微かに照されてゐたりなどした。

         二四

 登子と窕子との間にはをりをりこんな話が交換されるのだつた。
『何うしてかう女子は虐げられなければならないのでせう?』
『これと申すのも、女子が内にのみかくれて居るからではないでせうか。もつと世の中に出て行かなければならないのではござりますまいか。……それは慣習と申せば、それまででございますけれども……その慣習にばかり從つてゐるからいけないのではございますまいか……』
『それはほんにさう思ふけれど』
 登子は[#「登子は」は底本では「登子ほ」]深く考へるやうにして、『でも、それは運命のやうなものぢやほどに……。何うにもならないものぢやほどに。難有い彌勒の世といふのにでもならなければ、とても望まれないことではないか?』
『それはたしかにさうでございますけれども……さうかと申して、その彌勒の世と申すやうな世の中は、いつ參るのでございませう? 放つて置いても、ひとり手に參るのでござりませうか……?』
『さういふことは、無明の身にはわかりませぬが……』
『しかし、やはりそれは私どもがしなければさういふ風になつて行かないのではござりますまいか。私どもが築き上けることが必要で、さういふことをしなければ、いつになつたとてさういふ世の中はやつて來ないと思ふのですが……さういふ風に、お考へにはなりませぬか?』
 急に登子は悲しさうに、
『御身は宮と同じやうなことを言ひやる!』
『宮と申すは?』
『卿の宮……』
『まア、さやうでございますか。宮はそのやうなことを申して居られましたか。そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』
『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。
 二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。
『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』
 暫くしてから窕子は訊いた。
『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそれで蔽うてゐるが、それは佛の本當の道ではない……とよう言うてをられた。佛はわれぢや。この身ぢや。そなたぢや。とよく言うてをられました……』
『ほんに、そのやうに新しい方でございましたか。それなら、一度でも御目にかゝつて置きたうございました。この身はまたこの身で、今の世の中には、そのやうなことを考へて居らるゝ方はない。詩歌管絃……蹴鞠……酒……女子……さういふものより他心にかけて居るものはないと思うてゐましたのに……。』
『宮はこの世には事なくて生きてゐらるゝ方ではなかつた……』
 登子はいろいろなことを思ひあつめたといふやうにして言つた。登子の眼には、網代車を夜暗に細い巷に引入れる人だちだの、大内裏の局の女房に人知れず通つてる人だの、夜もすがら詩歌管絃に遊蕩のかぎりをつくしてゐる人だちだのが――またはこつそりと姫を圍うてゐる坊主や、宮女に花のやうに取卷かれてゐる人だちなどが、はつきりとそこに映つて見えるのだつた。ことに、何も知らない女子が、長い間の慣習のためにそれをあたり前と考へてゐるばかりではなく、女子といふものはそれで好いもの、いかやうに男にもてあそびものにされても好いもの、むしろそれを利用して、その身も快樂と贅澤とに耽るべきものと思つてゐる今の世の中のさまがそこに一つの繪になつて展けられて來るのだつた。
『情ないことぢやのう……』
『ほんに――』
 二人はかう深く歎かずにはゐられなかつた。
 しかしかうした二人にしても、さういふことばかりを問題にしてはゐられないのだつた。やつぱりその生れ出でて來た今の世の中に雜り合つて、悲しみには泣き、喜びには笑ひ、爭ひには爭はなければならないのだつた。
『それは、私のやうなものがいくら申したとて、そんなことは小さなこと――何うにもならないことで、一すぢの烟を立てるにすらあたひしないものですけども……それでも、この心持は捨てずに持つてゐたいと思つてゐるのでございます……』などと靜かな調子で窕子は言つた。
 ある時は登子はまたこんなことを言つた。
『でも、さう言ふと、あなたなどには効ないものに思はれるかも知れねど、この身などの運命は、もはやちやんときまつてゐるのだから……。慨いたとて、悲しんだとて、何うにもならないのだから………。』
『……………』
『この世のためなどといふことは、口ではいかやうにも言へるけれども、かよはい女子の身では何うにもならないことなのだから……。やはりこの身とてはかない醉生夢死……』
『……………』
『やはり、運命に從うといふことより他に、女子の行く道があらうとは思はれぬ……』
 その言葉のかげには、大内裏からの強い壓迫がそれとなくきかれるのだつた。窕子は何う慰めて好いかわからなかつた。
『それは世間では羨しいと思うたとて、それが何? え、窕子さん、あなたはさうは思はない。内裏に入つて、あの藤壺の一室に大勢に侍かれるといふことは、それはこの身の得がたい出世として、また一方では小一條どのや向う側にゐる人たちに對する兄達の立場として喜ばれることかも知れないけども、この身としては何が喜び? え、窕子さん。私にとつてはこの身を葬るつか穴ではありませんか。一度入つたら、もう再び出て來ることの出來ない墓場と同じではありませんか……』
『…………』
 何も言ひ得ない窕子の眼からはひとり手に涙が流れて來た。
『でも、ね……。窕子さん、泣かずにきいて下さい。あなたの他には、誰ひとりかうした私の心をきいて呉れるものなどはないのだから……。窕子さん、この身はもう心はきめてをるのです……。さうなる身とあきらめて居るのです……。何うせ、宮のあとについて行くことすら出來ない身――』かう言ひかけて登子は急にたまらなく悲しくなつて來たといふやうに、いつもなら引被くのが慣ひであるのに、顏を上に向けて、ひとり手に涙が兩方の眼から行をなして落ちて來るのに任せた。
『何うせ……何うせ……この身は生きた屍も同じ身……窕子さん、つか穴の中に入つて行くのも、この身にふさはしい……』言葉が涙にさゝえられて滿足には出て來なかつた。
 その悲しさが窕子にもつくづく思ひ當つた。自分の時にはその身だけがさうした悲しい運命に落ちたと思つたのであつたが、今では、それがすべての女子の悲しみであるといふことがわかつた。

         二五

 使のものが文箱を持つて來た。それを明けて見た窕子は、すぐ筆を取つて、返事を書いてそれをその文箱の中に入れた。
『これをわたして下さい』
 持つて行つて戻つて來た呉葉に、
『お前も一緒に行つてお呉れ……。いよいよおわかれになるのかも知れないから……』
『そんな御樣子でございますか』
『いゝえ、別に手紙には、さう詳しいことも書いてなかつたけれども、もう一度ちよつとなりと、お目にかゝりたいなどと書いてあつたから……』
『それでは、いよいよその時がまゐりましたのでございませうかねえ!』呉葉にしても胸がとゞろかずにはゐられないのであつた。
『兎に角支度をしてお呉れ!』
 やつぱり雨が頻りに降つてゐた。今年は何うして雨が降りつゞくのだらう。普通ならば、もはや五月も終りに近く、雲の縫ひ目もところどころ綻びそめ、山の裾なども見えそめ、時に由つては明るい月影が野にも山にもさしわたつて、青空が人の顏にも衣にも、車にも、または騎馬の侍にも、調度掛を携へた大宮人にも、ところどころ崩れた築土にも快よく映るのであるのに、またしても雨、雨、雨。容易に晴れようとはしないのであつた。
 窕子だちは別に變つたことを見出さなかつた。此間などとは違つて登子は靜かに落附いて話した。
 始めの中は、これはこつちの考へ方が間違つてゐたので、たゞ無聊のまゝにかうして呼ばれたのに過ぎないのではないかといふ風にすら思はれた。
 しかしその靜かさは、嵐の中にふくまれてある一つの靜けさであるといふことがやがてわかつて來た。窕子は胸の轟くのを感じた。
『でもね、御身が度々たづねて下すつたので、何んなに慰められて暮したかわからないのです……本當に、何うお禮を申したら好いか……?』
 落ちついた登子の言葉には、別れを潔くしようとするやうな努力がはつきりと讀まれた。
『それでは……』
 窕子はじつと登子の顏を見つめるやうにして言つた。
『いつまでも此處にはゐられないやうなわけで……』
『では、内裏に……』
『え……』
 登子はたゞ點頭いた。それだけでもかなりの努力であるらしかつた。
『…………』
『まア!』とか『それは……』とか窕子は言ひたかつたのだけれども、言葉は口から出て來なかつた。
 暫く經つた。
『それで、こゝをお出ましになるのは、いつでございますか?』
 窕子はやつと訊いた。
『それが、もう慌たゞしいので……。出來ることなら、もう一夜くらゐ、御身とわかれを惜しみたいなどと思つたのですけれども、それも出來ない……』もはや内裏から迎への車さへ來れば、いつでも出かけて行かなければならないと言ふのであつた。
『まア、そんなに早く……』
『でも、何うせ、行かなければならないものなら、いつそ早く行つて了ふ方が……?』
『…………?』
『これはほんにつまらぬものだけれども、このわびずまひにあなたがよく來て下さつたといふ記念に……』かう言つて、登子は自分が平生用ゐてゐた蒔繪の硯箱をそこに持ち出した。
『そのやうなこと……』
 と窕子が辭退するのを押して、
『蒔繪はこれでも好いのだし、螺鈿もいくらか入つてるのだから……。いいえ、これは言はずにさし上げるつもりだつたけれども……』急に登子は顏を低頭かせて、『これは、……これは……宮が特にこの身のためにつくられて賜はつたものなのだが、窕子さん、これはあなたが持つて行つて下さい……。よくこの身の心をよく知つてゐて下さるあなたが――』あとはもう言へなかつた。
『…………』
 窕子は眼を裳の下袖で拭いた。
『あまり氣持がよくないかも知れないけれども……』
『そんなことがございますものか……。』窕子は慌てゝ打消して、『それでは頂戴して、いつまでも、いつまでも、このかくれ家の記念として思ひ出すやうに致します……』
 と言つて、そこに取出された蒔繪の硯箱を押戴くやうにした。すぐつゞけて、
『然し、あまりいろいろなことを思召さないやうに……』
『もう大丈夫……』悲しい氣分がいつか通り過ぎて行つたといふやうに、登子はいくらか晴れやかに、『いくら考へたつて、しやうがないから……何うせ、なるやうにしかならないのだから……』
『さうですとも………』
『どうせ、女子はかうなるものだから……』
 窕子は言ひたいことが山ほどあるけれども、言へばすぐ涙が出て來さうになるので――つとめてそれを抑へて別れをつげて來ることにした。
 何うにもならないものに對する悲哀――何と言つてもそれは悲しいものであらねばならなかつた。死でなければ別離――そのわかれのつらさがひしと窕子の體に逼つて來た。
 登子も多くを言はなかつた。窕子が立つて來ると、かの女もその妻戸の外まで送つて出て來た。雨は荒れ果てた池の上に殼紋をつくつて降り頻つてゐた。
『それでは……』
窕子は暇を告げた。
『健かで……』
『おん身も……』
 いつまで惜しんでもとても惜しみきれない別れだ! と思つて、窕子は心を強くして向うに行つた。しかも何うしても振返らずにはゐられなくなつて、もう一度振返つた時には、白い顏を大理石像か何ぞのやうにやゝ薄暗い空氣の中に見せて、登子がじつとして此方を見送つて立つてゐるのを眼にした。

         二六

 呉葉が慌たゞしく入つて來た。それに由ると、内裏からの迎へが今來たらしいといふのであつた。つい今そこから歸つて來たばかりなのに……。まだ一□くらゐしか經つてゐないのに……。窕子は慌てゝ古い藺笠をかぶつて呉葉のあとについて行つた。
 雨の降りしきる中に、果たしてそこに内裏から來たらしい雨つゝみをした網代車が二輛――白い黒い斑牛も、笠をかぶつて雨具をしてゐる牛飼の男子もすべて深い泥塗にまみれて、その車臺すらも半ばは泥濘に汚されてゐるのを眼にした。一つの車は勅を受けて迎へに來た代官が乘つて來たらしかつた。
 これでも雨さへ降らなかつたならば、いくら秘密にしておいても、何處からかそれをきゝつけて、あたりの人達がそれを見に少しはやつて來たであらうけれども、いかにしても路が泥濘になつてゐる上に、上からも片時も止む時なく雨が降りしきつてゐるので、そこにはその二輛の車が置かれてあるだけで、誰も人の姿は見えなかつた。窕子にはそれがさびしかつた。
 かれ等は雨の中に立つてゐるわけにも行かず、さうかと言つてまたそこに近く寄つて行くのも出來ないので、對屋の階段からは十間ほど離れてゐる庇の下のところに身を寄せて、降しきる雨を纔かに凌ぎながら、じつとそつちの方に眼を注いでゐるのだつた。
 呉葉はわくわくしながら、
『まア、ねえ……』
『何うしたの?』
『だつて、この降りに……、御氣の毒ですわねえ……』
 で、かれ等は成るたけ高い庇から落ちて來る雨滴に裳をぬらさぬやうに、廊下の下のところに身を寄せて、奧から皆なの出て來るのを待つた。
 窕子の頭には對屋の中の光景――流石に登子も驚いてゐるであらうと思はれるさまや、勅ゆえに拒むことが出來ずに裳を着改へたりしてゐるさまなどがはつきりと映つて見えた。(それにしても誰が勅使になつて來たのだらう? 兼家でないのはわかつてゐるが、誰か身内のものが一人は來てゐるであらうと思ふが、誰だらう? 内裏の侍女と誰が來たらう)しかもこんなことを頭に描いてゐるのもさう大して長い間ではなかつた。ふと窕子は向うの廊下に五六人の人だちの氣勢のするのを耳にしたと思ふと、その階段のところに、兼家の腹ちがひの弟で、式部の副官をしてゐる政兼が勅使の衣冠をつけて、侍者二人に扈從されながら徐かにその姿をあらはして來るのを目にした。はつと心を躍らしてそれを見てゐると、内裏の藤壺に長い間つとめてゐるので名を知られてゐる桂といふ老女が、喪服でもあるかのやうに黒味がゝつた裳をつけて、際立たしく眞白な端麓な顏をいくらか下向加減にしてゐる登子の手を取らぬばかりにして先に立つて階段の方へと歩いて來るのが見えた。
 窕子も呉葉も唾の口にこもるやうな氣持で、じつとして一心に眼をそれに据ゑた。先に下りた衣冠に笏を持つた政兼が廂の下に立つて上を仰いだ時には、その老侍女が一足下りて、そのあとから登子が續くのであつた。徐かに徐かにかれ等は階段を下りた。
 登子はそこに來て初めてその眼を擧げて、縱縞を成して盛に降つてゐる雨とついその近くまで寄せて來てある二輛の網代車とを眺めた。一層白いその顏があたりに際立つて見られた。
 こつちを見て下されば好い。かうしてお見迭りに出てゐるこの身を見て下されば好い……。かう窕子が思つた時にその登子の眼が動いて、たしかにそれが此方を見た。否、見たばかりではなかつた。それと知ると、一種言ふに言はれない感謝の表情をその顏にあらはして、瞬きもせずにじつと窕子の方にその視線を注いだ。
 しかしこの場合、何方からも聲をかけたり別離を惜んだりすることは出來なかつた。たゞじつとさうして雨の夕暮の空氣の中に相對して立つてゐるだけだつた。成るべくその距離を近くさせるべく命令されて牛飼どもは頻りに鞭を鳴らしたり、綱を引いたりして努力したけれども、あたりは全く地が膿んで、ともすれば半分以上車の輪がはまり込みさうになるので、やむなくその人達はそこまで歩いて行かなければならなくなつた。
 形ばかりに藁だの俵だの板だのが持つて來て敷かれた。しかも完全な雨具とても用意してないので、衣冠束帶の勅使と喪服を着たやうな登子とが長柄の傘を後からさしかけられただけで、あとは皆なびしよぬれなるのを何うすることも出來なかつた。勅使の副使をしてゐる同じく束帶の大官は、やむなく長い間その降りしきる雨の中に立ちつくしてゐた。
 しかしさうした混雜もたゞ一時あたりに際立つて見えただけで――登子が老侍女に扶けられてそのほつそりとした姿を前の方にある車の内に入れて了ひ、勅使と副使とがそれをはつきりと見ただけで後の車に乘つて了ふと、あたりは車の齒の泥濘の中に深く喰ひ込んだのを牛飼どもが押したり動かしたりする光景だけになつて了つて、それも崩れた中門の方へ近づくにつれて、段々その動いて行き方が早くなつて、たうとうあとにはその大きな轍の縱横につけられた上にザンザン降り頻る雨の佗しく暮れて行くのを見るばかりになつた。
 窕子は何とも言はれないさびしい悲しい心持で、身動きもせずに暫しそこに立つてゐたが、いつまでもさうしてゐられないので、そのまゝ階段の方へと歩いて來た。
『まア、何て悲しいことだらうね』
 そこに行くと、窕子はわれを忘れたやうにべたりとその階段のところに腰を下して了つた。窕子は兩手をこめかみのところに當てゝじつと深く考へ込んだ。暫く經つた。
『でも、此方を御覽になつたね……』
『えゝ……』
 呉葉はかう言つて、『隨分長いこと、此方を見ていらつしやいました……』
『せめてものなぐさめだね……』暫らくだまつて、『この人の世には、かういふ悲しいこともあるのだね!』
『本當でございますね』
 話聲をきゝつけてそこに常葉が下りて來た。
『まア、何方かと存じたら、窕子さまでございましたか……』
『常葉どの……』
 またたまらなく悲しくなつたといふやうにして窕子は顏に手を當てた。
 呉葉は常葉に訊いた。
『今日、勅使が來るといふことがわかつて居りましたの?』
『いゝえ』
『では、だしぬけに……?』
『え、え、だしぬけでございますとも……それはいづれはさういふことになるだらうとは申してをりましたけれども、さう急なこととは存じて居りませんでした……。ですから姫もおどろかれて、一時は突伏したまゝ、お顏も上げられませぬでした……それはそれは、泣くくらゐのことではございません。姫は何んなに悲しうあらせられたことか……しかし、何と申しても勅でございますゆゑ……』
『まア、何と申したら好いのでございませうね』
『でも、平生やさしい上に雄々しいところもある姫のことでございますから、すぐ御決心あそばしまして、□とたゝぬ中に十分御支度をなすつて御出立なさいました……』
『悲しい女子のさだめ!』
 皆はそこに顏を合はせて泣くのだつた。あたりは次第に薄暮の空氣につゝまれて行つた。窕子と呉葉とは、再び古びた藺笠をかぶつて、泥濘の中をとぼとぼと自分の家の方へと行つた。林に添つた路を通る時には、雨だれがばらばらとその笠の上に落ちた。

         二七

 兼家の方のことも心配にはなつたけれども、物忌が明けない中は、そつちの方へもどつて行くことも出來ないので、幼い道綱を相手に――むしろたゞそれにのみたよるやうにして窕子はわびしい雨の幾日かを過した。
(それでもまだこの身にはこのいとしい道綱がある……)窕子はさうした心持が此頃一層深くなつて來ることを感じた。否、そこに人生が微ながらも覗かれて來るやうな氣がした。かの女はその心持の次第に深められて行くのををりをり飜つて考へて見たりなどした。昔は道綱などは可愛いには可愛いにしても――また誰かが來てそれを奪つて行かうとでもすれば極力それを拒いだには相違ないけれども、しかもその問題が直接にかの女につゞいて來てゐるのではないやうな氣がしてゐた。かの女にはそれ以上にもつともつと大きなことが澤山に澤山にあるやうに思はれた。蹂躙された戀。異性に侮辱せられた戀。青春の徒らに過ぎ去つて行く悲しみ。玩弄品のやうに家にのみ閉ぢこめられていつの間にか老いて行かねばならぬ慘めさ。日毎に退屈に過ぎて行かねばならぬ佗しさ。ことに兼家の愛してゐる他の女に對する嫉妬。火は幾度燃えて、またいく度消されて行つたか知れなかつた。そしてさういふ時には、道綱などのことを考へてゐるひまなどはないくらゐだつた。(何うしてお前のやうな不仕合せなものがこの世に生れて來たのか。このやうな母を持つたお前は何といふ不幸な星のもとに生れ出て來たのか)などとその柔かな頬にその身の頬を押しつけて涙を流したことも一度や二度ではなかつた。しかし、次第にその小さな道綱の存在がかの女に深い意味を感じさせるやうになつて來たのであつた。
 何と言つても道綱だけがその身のものである。それだけは他のものが何うすることも出來ない。切つても切れない。離れようとしても離れられない。次第にそこにかの女は人生を感じて來た。
 窕子は登子が内裏に入つて行くのを見送つて歸つて來て、ひしと道綱を抱き上げて、吃驚して逃げようとするのを無理に押へてきつく抱緊めたり口づけしたりしたことを思ひ起した。『まア、おとなにしてこゝにゐよ……あこだけはこの母のものではないか。何時まで經つても、この身から離れて行かぬのはあこだけぢや……』かう口に出してまで言つて、母の膝から逃れようとする道綱を押へたことを思ひ起した。(まだそれでもこの身にはなぐさめられるものがある……それから思ふと、あの末の君は悲しい)こんなことをつゞけて言つたことを思ひ起した。
『母者、母者……』
 などと言つて、道綱は遠くから走つて來て、その小さな體をかの女に投げつけるやうにしたりなどした。
『まア、この子は! 何處に行つてゐたのか。この足は、この手は? 呉葉や、拭くものを持つて來や……』
 さうした窕子の聲がともすればその一室の中からきこえて來た。
 それに、この頃は窕子はわるく咳などをした。あの時、雨の中に立つてゐたりしてそのための風邪でも引いたのだらうなどと初めは言つてゐたが、何うも思ふやうに治らぬので、忌みの中にあまり出歩いたりしたので物の怪でもついたのではあるまいかといふ氣がして、いつもの僧を呼んで加持などをして貰つたりしたが、何うも本當には治らないので、その僧のすゝむるまゝに山寺にでも行つて見たら何うかといふことになつた。で、晴れ間を見て、京から北の方へ當る山合の寺へと窕子は出かけて行つた。

         二八

 兄の長能も一緒に出かけた。
 それは京からずつと北山に入つて行くやうなところだつた。鞍馬とは谷を二つも三つも隔てゝゐて、入つて行く路も、標野あたりを眞直に山の翠微に向つて進んで行くやうなところだつた。祈祷などで驗のある名高い僧がかの唐の地からやつて來て、その寺に留つてゐるので、それで評判になつて皆ながそこに出かけて行くのだつた。
 出て來る前、そのことを兼家の方に言つてやると、返事も呉れないので、いくらか氣になつてまた追かけて文箱を持たせてやつた。返事は來るには來たが、そこにはやさしいことも書いてなく、たゞ行つて來ることについての承認を與へてよこしたばかりだつた。かれの方にもいろいろなことがあるらしく、一族のあらそひにも氣を腐らせて、内裏にも出かけて行かないやうなことが多いらしいやうなことを使のものは匂はせた。窕子はそれをなぐさめたいにも、その周圍にはいろいろな女だちがゐて、素直にそれが實行出來ないことを悲しんだ。何でも此頃では、また南の坊の方へ行き出して、夜は殿の車がおそくまでその角に置かれてあるなどといふ噂を耳にした。
 たゞ窕子に取つて喜ばしいことは、武隈の府から多賀の府へ轉任になつて行つて、今年で八年になる父親が來年は久々で京にもどつて來ることが出來るといふ報知を受取つたことだつた。『まア、父さんがもどつてゐらつしやる!』かう言つて家の人たちは皆な喜びの聲を擧げた。中でも長能の妻のかをるは、父親が任所に赴いた後に母だの伯父だのが相談して貰つたものなので、まだ見ぬ父親に對して一種のあくがれを持つてゐるので、一層なつかしさうに見えた。
『父さんがもどつて來ると、また家が賑かになる……。それにしても、父さんは何んなになられたことやら。今年歸るか、來年もどるか。一刻も早うもどらして貰ひたい。かういくら殿に頼んでも、さういふことはこの身にも自由にならぬとばかりで、何うにもならぢやつたが、やつともどつて來らるゝか……。死なぬ中に逢はるゝがうれしい……』その消息を手にした夜には、母親はかう言つておちおち眠ることすら出來ないくらゐに喜んだ。
 窕子にしても里の家が急に明るくなつたやうな氣がした。
 標野から山に向つて入つて行く路は暑かつた。一方の車には窕子と道綱と呉葉、一方の車には長能とその妻のかをると母親とが乘つて、カタカタとわるい路を搖られながら行つた。ところどころにある大きな樗の木蔭には、この暑い原を越して行く人だちの牛車や絲毛車が澤山に休憩してゐるのを眼にした。
 原を越して、これから山にかゝらうとするところには、冷たい清水がちよろちよろとわき出してゐて、そこに近所の百姓の嚊がむしろなどを持ち出して、山で採れた木いちごや、しどめなどをそこに竝べてゐた。皆なそこで車を下りて休むことにした。
 かをるの方が窕子よりは年が二つ下なのだけれども、窕子はそれを『姉者、姉者』と呼んでゐた。
『姉者は肥えてゐるで、何うしても他よりも暑いぢやらうな?』
 こんなことを窕子が言ふと、
『暑いにも、暑いにも……』かう輕くおどけた風にかをるは言つて、その細い筧からちよろちよろと落ちる清水を茶椀に受けて、それを道綱にも飮ませ自分にも飮んだ。
『つめたい?』
 窕子は此方から訊いた。
『口もきるゝやう――』
 窕子も立つてその筧の落ちる傍に行つた。
 急いであとからついて行つた呉葉が茶椀に滿たした水を窕子に出した。
『おゝこれはつめたい!』
 皆ながかはるがはる口に當てて飮んだ。暑い原を通つて來た苦しさがそれでよほど除れたやうにお互にのんびりした氣特になつた。それにそこは已にいくらか高くなつてゐた。京の町がそれと手に取るやうに見えた。
『これでやつと凉しうなつた!』母親もいつもと違つて、父親の歸京の消息を得た喜びがあるので、いかにも心が伸々としたやうに言つた。
 晝飯にはまだ少し早いけれども、これから先きには水のあるところはあつても休む設備の出來てゐるところはないと言ふので、持つて來た行厨をそのまゝそこで開くことにした。重ねた上の方の箱には、煮つけたものなどが入れられてあつて、下には今朝早くから起きて拵へた饅頭などが一杯に入れられてあつた。
『ひとついかゞ……』
 かをるはそれを呉葉にまで持つて行つて取らせた。
『うまく出來ましたね、姉者……』
 窕子は言つた。
『うまいどころではありませんでせうけども……。それでも、お中が減つては爲方がないから――』
『上手に出來てゐますよ』
 窕子は饅頭を一つ手に取つてそれを道綱にやつたりした。
 窕子にはかうした郊外の團欒がたまらなく樂しいやうな氣がした。これを平生の京の生活と比べたなら? 人が人と爭ひ、心が心と爭ひ、片時もその苦しさをやすめることが出來ないやうな生活と比べたなら? あのやうな無理な壓制が行はるゝやうな生活と比べたなら? またその身が不斷にやつてゐるやうな愼恚と嫉妬の生活と比べたなら? 大勢の妃を竝べて、美しい裳を着せて、それに酒の相手をさせたところでそれが何んだらう? また坊に行つて夜もすがら騷いであそび□つたとて、それが何だらう? やつぱりこの人生にもかういふ靜かな樂しさがあるからそれで生きてゐられるのではないか。こんなことを考へながら、窕子はじつとして立つてゐた。
 兄の長能は窕子の多情多恨な性質を知つてゐるので、傍に寄つて來て、
『何うかした?』
『いゝえ……』
『また、何か考へ出したのかと思つて……』
『いゝえ、たゞ、かうしてゐれば好いなアと思つたんです!……。かういふ生活もあるのに、何うして人間はあゝいふ爭ひの生活をつゞけてゐるのかと思つたんです!……。かういふ山の中に住んでゐる人だちは、さばさばとして何んなに好いだらうと思つたんですの!』
『だつて爲方がない……。さういふ生活があるんだから――』
『だから、それを亡くさうといふんぢやないの……。亡くしたいたつて、それは私の力では出來ないことですからねえ。たゞ、かういふ樂しい、自然のまゝの生活もあるのだと思つただけなの……』
 兄の長能は餘りに深く入りすぎて、また氣持でもわるくさせてはと思つてそのまゝ口を噤んで了つた。
『ぢやそろそろ行かうかね……。もうこれからは山で凉しいから』
『さうしませう』
 かをると呉葉とはそこらにあるものを片附けにかゝつた。
 やがて皆なはてんでに自分の車に乘つて、またガタガタと山深く輾らせて行くのだつた。

         二九

『だつて、お前、そんなことを考へたつて爲方がない……』
 母親はつとめて窕子をなだめるやうにして言つた。
『母者の言ふことはそれはよくわかるのよ。何うせ、人間はあきらめ――自分のことでさへ自分で自由にならないのに、何うして他のことまで自分の思ふやうにすることが出來よう。それはよくわかつてゐる。しかし、さうだからと言つて、それを放つたらかして置くといふことは出來るでせうか。何うかしてそれをよくしたいと思ふから、それで苦しむのではないでせうか?』
『苦しむからいけないのぢや。苦しむことはない――』
『でも苦しまずにはゐられないのですもの……。あゝして道綱があそんでゐるのを見ても、すぐ苦しくなつて來るんですもの……』
『それがわるい癖ぢや……。それをやめねば、そちの病氣は治らぬと阿闍梨も言うたぢやないか? 何も思はぬ。何んなこともつらいとは思はぬ。眼の前を通り過ぎる雲ぢやと思うてゐる。でなければ、魔が一しきりついたのぢやと思うて知らぬ顏をしてをる……さうでなければ治らぬと言うたぢやないか――』
『…………』
 だまつてうつむいた窕子の眼からは涙がはらはらと流れた。
『困つた人ぢやのう?』
『母者……』窕子はあることを急に思ひ出したやうに、『母者はあの前の大納言どののつれてゐた人を見て何う思はれた?』
『あの向うの坊の方でお目にかゝつた人かや?』窕子の點頭くのを見て、『別に何うツていふことも思はせなかつたが?』
『此身は涙が出て、涙が出て……』
『何うしてぢや?』
『母者はあの女子のことをよう知らぬのかも知れない……』
『よう知りをる……美しいので名高い姫ぢやつた――』
『母者、この身はあの人があゝいふ病に取憑れたので、それで氣の毒だといふのではない……。それよりも、それよりも』急にたまらなくなつたやうに、『あの、あの大納言どのが……』
『大納言どのが何うしたのや?』
『あの體の大きい、心の大きい、その愛してゐた女子のためには、あゝして職もやめ、つとめもやめて、この山の中までついて來てゐるのを見て……ウ、ウ……この身は、この身は――』
 涙が言葉を遮つた。
 今度は母親がこまつて了つた。窕子の心がはつきりと飮み込めて來た。
 暫くしてから、窕子はやつとその言葉をつぐといふやうに、『母者……母者にもそれがわからないことはなかつたと思ふ。あの大きな體、男らしい物の言ひ振、あれほどまでにして貰ふ仕合せな! その病人の傍を片時も去らずに看護する男子……。さういふ男子もあるんだから……。それを考へると、この身は悲しい。この身は悲しい。この身は涙が出て涙が出て……』
『ようわかつた……。しかし、さう一概に男のことをきめて言ふのはわりい。それはあの大納言どののやつてゐられることは尊い。それはわるいと言はぬ。この身も涙を催うした……。しかし、他の男の子がさうしないからと言つて、それをわるう言ふのは、あまりに物事をきめすぎてゐていけない……。この世の中といふものはさういふものではない。』
『それはさうでせうけれども……あゝされる女子は仕合せだ……。』
 それに比べたら、この身などは何うだと窕子は言ふのだつた。一度だつて見舞にも來て呉れたことはない、行くなら行くで放つて置く、そして自分は勝手に振舞つてゐる……。それはまア好いとしても、さういふ男の子にさういふことを望むは望む方がまちがつてゐるのかも知れぬから、それは好いにしても、それでは此身が可哀相ではないか。何一つつかんだもののないこの身が悲しいではないか。
『ようわかつた、ようわかつた』
 逆らつてはかへつていけぬと思つたので、母親はつとめて窕子の氣を迎へるやうにして言つて、
『その中には好いこともある……。さうわるいことばかりあるものではない……。道綱だつて、さういつまでも子供ではゐない。來々年に殿上することの出來る年ぢや……』
『そんなこと、あてになるものですか? 道綱のことなんか、少しでも考へてゐるんではないから……』
『そんなことはない、それは決してそんなことはない。それは安心しておいで! 殿だつて、そんなに人情のない方ではないのだから……』
 母親が強く壓しつけるやうに言つた。
 窕子にはしかしそれだけでは物足らなかつた。かの女は一つの戀愛と言つたやうなものにあくがれた。二つの心がひとつになつてそれが何ものにも動かされないやうになる戀! 何ものに打突つても決して決して打壞されない戀! 金剛不壞な戀! 十年逢はなくつても一生逢はなくつてもかはらない戀! さうしたものをかの女は常に眼の前に描いた。手を合せる佛の體の中にもそのまことの戀がかくされてあるやうな氣がした。

         三〇

 兄の長能の言つた言葉を窕子は思ひ起した。
 ――『だつて、それは無理だ。殿はさういふ質の人ぢやないんだもの……。殿はそんなことを女子に望んでゐはしないんだもの。殿に取つては、女子は尊いものではないんだもの……。それはおもちやだとは思つてはゐない。さういふ風に一段低くは見てはゐない。更に言ひ換へれば、女子は生活を面白くして呉れるものだくらゐに思うてゐる。だから、とてもお前の言ふやうなわけには行かない。さうかと言つて、それが薄情とか何とかいふのではない。殿だつてつまらなく女を傍によせつけてばかりはゐない……。あれでひとりでつまらなさうな顏をしてゐることもあるんです……。しかし、かういふ氣はあるな。窕子の考へ方と殿の考へ方は正反對で、とてもそれはひとつにはならない……。それが運がわりいといへばわりいのだらうが、たとへそれがひとつになつても、運が好いかわりいかわからない……。こいつは何うも一概には言へないな』――昨夜話してゐる中にこんな言葉が雜つてゐた。母親と兄の長能とかをると窕子と、この四人がおそくまで結燈臺を取卷いて四方山の話をした。中宮のことも出れば登子のことも出た。大納言が昔ひどい遊蕩者であつたことなども出た。長能が此頃ぴたりと女のあそびをやめたことになつて行つた時には、『いや、それはかをるがえらいんぢやない……。世間ではさう言つてゐたにしても、それはさうでない。世間なんて表面きり見ないものだが……つまり一言で言へば女がおもしろくなくなつたんだよ……。いつまでやつてゐたつて、ひとつだつて本當につかめやしないし、際限がないといふ風に何處かで考へはじめたんだよ。何處かで? 本當に何處かでだよ。自分でもはつきりそこが言へないんだよ。そこにうまくかをるがぶつつかつたんだ――そこが運が好いと言へば好いんだ……』などと言つて笑つた。そしてそれからそのつぎつぎへと殿や窕子のことなどが出て行つたのだつた。殿などでもいつまでもあゝしてゐらるゝものではない……。もう好い加減飽きてをられる。こんなことをも長能は言つた。窕子はさうした言葉を頭にくり返しながら、寺の塔のあるところから谷川の見える方へと行つた。そこらには坊が二つも三つもつゞいて、その一つは崖の上から谷を見下ろすやうな位置にあつた。
 谷川の瀬の鳴る音が下の方できこえた。
 かの女はもはや三十に近くなつてゐたけれども、その美しさは少しも衰へず、別におつくりをしなくとも、あたりの眼を惹くに十分だつた。かの女はあちこちから此方を見てゐる眼に出會した。
 それに誰が話すともなく、東三條殿のおもひものだといふことが參籠に來てゐる人だちの間にもそれと知られてゐるらしく、時々そのうしろの方で、さう言つて囁いてゐる氣勢を聞いた。
 殿上人ではないがちよつとしたことから懇意になつたある若い妻は、かの女が歌道に名高い人であることを知つて、かういふ時でなければ教へを乞ふことが出來ないといふやうに、ちよいちよいその坊をたづねて來た。それは名を梅尾と言つてゐた。
 ひよいと氣が附くと、その向うのところに、その梅尾が、藏人頭の下にでもつかはれてゐるやうな、若い、意氣な、縹色の柔かな烏帽子を頭に載せた男と睦しさうに竝んで話しながら歩いてゐるのを目にして『おや!』と窕子は思つた。
 餘程背後から聲をかけようとしたが、きまりをわるがるだらうと思ひ返して、わざとゆる/\と靜かに歩いた。
 かれ等は何う見てもたゞの關係ではなかつた。
 またその梅尾の歌にも、さう言へば、遠くにあるものに心を寄せたやうな歌を見たことが度々あつた。窕子は微笑まれるやうな心持がしながら、その二つの姿から眼を離さなかつた。
 大抵なら、長い間には、そこらにちよつと立留るとか、うしろを振返るとか、横顏を見せるとかするものであつたが、餘程深く話し込んでゐると見えて、足の歩調をゆるめるでもなく、周圍を見廻すでもなく、ひたりと體を押しつけるやうにして、熱心に話しながらたゞ先へ先へと歩いて行つた。
 少くともさうした形で、三町ぐらゐは行つた。
 しまひには此方で勞れた。窕子は路の傍にある榻に身を寄せて、そんなものにいつまで心を寄せてゐても爲方がないといふやうに、今度は下に展げられた溪の流の方へと眼をやつた。そこには石がごろごろころがつて、水がその間をすさまじく碎けて流れてゐた。
 かれ等はそんなことも知らずに――何處まで行つたらその熱心な物語は盡きるだらうといふやうに、やつぱり同じ歩調で肩を竝べて歩いて行つた。その二つの姿はやがて向うの草むらの中へとかくれて行つて了つた。
 何のくらゐゐたか、小半□くらゐゐたか、それとも半□くらゐゐたか、自分でも自分がわからずに、草むらに日影のチラチラするのと水のたぎつて落ちて來るのと、黒い斑のある蝶が向うに行つたかと思ふとまた此方へと飛んで來て、そのすぐ前の草の葉にその羽を休めようとしてゐるのとをぢつと見てゐたが、ふと氣が附くと、さつきと同じ歩調の足音がして、やつぱり竝んで、今度は此方を向いて、ふたりが靜かに歩いて來るのを窕子は見た。
 向うでそれと氣のついたのは、ずつと此方へ來てからであつた。
 梅尾は立留つた。その顏は染めたやうに赤くなつた。
『まア……』
『…………』窕子も流石に氣の毒で、此際何と言つて好いかわからなかつた。
 梅尾は一言か二言言つただけで、男を向うに行かせて、そのまゝ此方へとやつて來た。
『好いの?』
『え、え、……もう好いんですの……何でもないんですの……』
『私の方は構はなくつても好いのよ。』
『いゝえ。』
 梅尾はまた顏を赤くした。
『從兄が來たもんですから――』
『從兄?』
 人がわるいと思つたが窕子は思はずかう言つて了つた。
『…………』
『さう言つてはいけないけど……わたしさつきからあなただちの歩いてゐたのを知つてゐたのよ』
『まア……』
 梅尾は聲を立てた。
『あの塔の下のところで、ひよつと見ると、あなたなんでせう。それから餘程聲をかけようかと思つたんだけども、何だか……』
 言ひかけて窕子は半分言葉を引込めて了つた。
『まア、聲をかけて下されば好かつたのに――』
『でも……』
 窕子は笑つた。
『だつて、私、困つて了つたんですの……。聲をかけて下されば好かつた――』
『そんなに申しわけをしなくつても好うございますよ』
『まア』
 しかも窕子は別にそれより深く立入つてその話をきくでもなかつた。むしろ立入つてその話をきくことを恐れた。かれ等は靜かに踵をあとにめぐらした。

         三一
 
 谷に凭つた座光坊には窕子はよくその庭の方から入つて行つた。そこにはかの女は母親とも行けば兄の長能とも行つた。道綱と呉葉と三人して行つたことなどもあつた。
『あの老僧は高徳の方だけあつて、ひとり手に頭がさがるが――あの今のあるじの僧も氣が置けなくつて好い。この深い山の奧で幼いころを過したやうな人だけに、何處か並でないところがござるな』
 こんなことを母親も長能も言つた。呉葉も、『好い法師さんですこと……。それに男前が好い!』かう言つたが、あとの一句は自分でもあまり言ひ過ぎたと言ふやうにソツと舌を出した。
『まア、あきれた……』
『だつて、さうですもの、好い法師さんですもの……』
『だつて舌を出さなくつたつて好いぢやないの?』
『御免なさい!』
 呉葉は自分のはしたなさを悔ゐるやうにして言つた。
『この山で幼い時をすごし、それから横川で行をなすつて、高野にも室生にも行つて、密教の方も十分になすつた方だからねえ……。このお山でもめづらしい法師さんだ――』窕子に取つても、異性がさういふ風に童貞をずつと守つて、一心に佛に奉仕してゐる形が、端麗な姿をしてゐるだけ、一層傷ましいやうな尊いやうな心持を誘ふのだつた。『あれで、あゝいふ風にして一生清く行ひすまして行かれるのかねえ!』時には窕子はこんなことを呉葉に言つたりした。
 ある日は道綱と二人で行つて、小半日もその坊で過した。あるじの方の僧は、却つてそれを名譽にして、何彼と道綱の機嫌を取つて、羊羹を高坏に載せて出したり、葛を溶いた湯を出したりして歡待した。無論それは東三條殿の愛兒であるといふ點もあるのだが、當代で評判な美しい女の歌人を歡迎する意味もあつたのだつた。
『我々もたまには歌にして見たいといふ考も起るのですが、こればかりは別才だと見えまして、何うもうまい具合にまとまりません……』
『いゝえ、そんなことは――?』
『お上手な方がおつくりになりますと、それがすらすらと單純に出る。ちつともこだはりなしに――。何うもそれが眞似が出來ません。我々のやうな鈍根なものには何うも材料ばかりが多くなりまして、何を言つた歌だかわからなくなりますので……』
『いゝえ……』
『さうかと申して、それぢや材料が多すぎるのだからいけないのだからと思つて、今度はひとつのことをよまうとすると、それが短かすぎて歌にならない……。何業でも皆なさうでござるが、中でも歌はむづかしい……』
 こつちから般若心經の中心になつてゐる心持をきかうなどと思つて出かけて行くと、その先を越して、向うから歌の話を持ち出すといふ風なので、窕子は一層その僧に親しさを感ぜすにはゐられなかつた。時にさうして清くひとりで住んでゐる僧の上にそれに似た自分の生活を持つて行つてくつつけて、いろいろと深い感慨に耽ることもあつた。
『私などにはとても深いことはわかりませんけれども……それでも歌の心持を押しつめて參れば、やはり佛に近づく心が致しますので……』

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