道綱の母
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:田山花袋 

 秋はそんなことをして暮してゐる中にもいつか長けて、西山のもみぢも過ぎ、鳴瀧の奧の御寺の御講も濟んで、やがては北山の奧の峰に雪が白く見えるやうになつた。
 さびしい寒い冬は來た。窕子は日ましに兼家との仲が遠くなつて行くのを悲しまずにはゐられなかつた。それはたまさかにはたよりがあり、歌があり、曾ては、十日ばかりも來ずに、だしぬけに几帳の柱にかけて置きわすれて行つた小弓の矢を使の者して取りに寄こしたので、『思ひ出づる時もあらじと思へどもやといふにこそおどろかれぬれ』などとわる洒落を言つてやつたりなどしたことかあつたが、次第にさうして馴々しい心持なども稀れになつて、その歌のおとづれすらも次第に間遠になつて行くのだつた。
 ある夜は道綱をかたく抱きしめて、『何うなすつたのでせうね、そちのお父さまは……。網代の氷魚にでもきいて見たらわかるだらうかね。何うして此頃はちつともそちのところに來ないだらうかツて………』かう言つて窕子はまたしたゝかに涙を流した。

         一六

 ひとつの噂が傳つて來た。
 何でもその話では、去年あたりから堀川の殿に新しい寵が出來て、それが河原に近いところに對屋を造へて圍はれてあつたが、その人にも今度はめでたい話があつたといふのであつた。噂としては別にさう大したことでもなかつた。その女の圍はれてあることは、たうから知つてゐた。その女にいつかさういふ話のあるのは當然のことであつて、別にめづらしいことではなかつた。しかし世間では窕子の時にも目を□るやうにしてその噂をして、中にはそれをあさましいと言つてわるい方に言つたものもあるにはあつたが、大抵は大臣になる人の寵になつたのを果報に羨ましく思つたものが多かつたので、忽ちにして秋の扇と捨てられた形を世間でも由々しいものにして噂は噂を生むのであつた。その世間といふものが窕子にも強く強く感じられた。
『本當でござるか』
『さやうか』
『男心といふものはそのやうなものかのう? あれほど心を籠められてゐても、いざとなると、さうなるものかのう』
 さうした言葉は窕子の周圍にゐる人達の中にも起つた。窕子はしかし默々として暮した。それについては何も言はなかつた。呉葉が何か言ひかけるのにすら不機嫌な表情をした。
 それでもその出來事の一伍十什については、誰よりもその身が一番詳しく知らなければならないのであつた。從つてその問題に觸れられることは身を切らるゝよりも痛さを感ずるけれども、また此上もなくこの身の誇りを傷つけらるゝやうにも感じられるけれども、しかしそれから耳を塞いで、何うともなれ! と言ふやうに平氣にすましてゐるわけには行かなかつた。否、むしろ此方から進んで、さういふ敵と戰ふばかりか、自分のためにも、またこの幼いもののためにも、飽までも男の心を此方へ取戻して來なければならなかつた。窕子は徒らに嘆いたり女々しく悔んだりばかりしてはゐられないやうな氣がした。
 母親もあまり世間の噂が高いので、心配になつたと見えて、それとなしに、そのことを言ひに來たのではないといふ風をして、そつとそこにその顏を見せた。その時、兼家からの使のものが文箱をとゞけて來た。
 箱をあけて、文をひろげて見ると、久しく行かなかつたのは、まことにすまなかつた。しかし、わるう思つては呉るゝな。此方にも今までは知らせずにしてあつたが、少し手放されぬ厄介なことがあつて、それでかういふ風に無沙汰になつた。それもやつと昨日すんだ。しかし身も穢れて居るので、當分は宅に籠もつてゐるより他に爲方がない。非常にあさましう、つめたく思ふかも知れぬが、そなたのことは忘れたのではないからなどといつもよりも細々しくやさしく筆を走らせてゐるのを窕子は見た。使のものもいつもの下衆とは違つて、自分の下につかつてゐる史生見たいなものだつた。で、それとなく呉葉にきかせた。
 やがて呉葉はもどつて來たが、窕子の傍に寄添つて來た。
『え?』
 窕子は耳を寄せた。
『さうなの? 男の子なの? ふむ……』かう言つたきりだつた。窕子の顏は急に赤くなつた。
 呉葉にはその窕子の心の動搖がよくわかつた。しかし何うすることも出來なかつた。二人はそのまゝにだまつた。
 暫くしてから、
『おかへしは?』
 かう呉葉が訊くと、
『ないと言つてお呉れ……』
 かう言つたまゝ窕子は向うむきになつて了つた。
 そこに母規も近寄つて來た。
『何うかしましたか?』
『いゝえ、別に……』つとめてその心持を押へようとしたけれども、しかしその一伍十什を母親からかくして了ふことは出來なかつた。
 母親も昔氣質の腹を立てずにはゐられないやうに見えた。それが男の兒であるときいた時には、見る見るその顏の色も變つて行つた。
『殿も殿だ……』
 かう母親は口癖のやうに言つた。

         一七

 七月になつてからであつた。ある日、使のものが古い衣と新しいのと一領づゝ物に包んで、急いでそれを仕立直すやうにとて持つて來た。
 まさかことはるわけには行かないので、呉葉はそれを受取るには受取つたけれども、窕子に見せたら、何と言ふだらう。そのやうなけがらはしいものは手に觸れるのもいやだといふだらう。さういふことをする人は他にあるだらうといふだらう。否、感情に強い窕子はそれを見たら、赫となつて、それをピリピリ破つて捨てゝ了ふかも知れない。呉葉は間に立つて困つてゐると、ちやう度そこに母親が來た。
『まア、殿は少しも來もせずに、何といふ――』
 母親も呆れた。
『何ういたしませうか?』
『さア、何うしたら――』
『兎に角一度お目にかけた方が宜しいでせうか』
『さうぢやなう、見せた方が好いぢやらう……。しかしあんまり好い氣ぢや』流石の母親もいつものやうに殿のため殿のためとばかりは言つてゐなかつた。
 窕子はしかしそれを見ても、たゞそれをひつくり返して、その古い方の衣裳を曾てその身が眞心こめて縫つた時のことなどを思ひ出して、今の身の悲しさをそこに深く深く感じただけであつた。別にそれを何うしようとも言はなかつた。かの女の戀もその衣裳のやうに古びた。かの女はその汚れた衣をひろげて、その肩のところの縫目などを一つ一つ仔細に調べてゐたが、急にたまらなくなつたといふやうにはらはらと涙をその衣の上に落した。
(この縫目はこのやうにしつかりとしてゐるのに……)さう思ふと、かの女はたまらなくなつたのである。
『何うしたのだぞえ?』
 母親はびつくりしたやうに窕子の方を見た。
 涙は益々繁く霰でもあるかのやうにその衣の上に落ちた。
『さア、此方におよこし……。だから、そちに見せて好いかわるいかと呉葉も心配して言うてゐたのぢやけれど……。なう、窕子、そのやうに泣いたとて、何うにもなるのでもない……。さア、その衣裳を……』母親は窕子の手からその涙に霑された衣裳を強ゐて取つた。そこに呉葉も入つて來た。そして引被ぐばかりにして泣入つてゐる窕子を幾重にもなだめた。
 兼家の衣は爲方なしにもどしてやることにした。

         一八

 さびしい秋が續いた。野分がすさまじく始終吹いたり、虫の音が悲しく枕近くきこえたりした。窕子は深くたれこめてのみ暮した。
 いくらこひしいと言つても、その身の矜持までも捨てゝかれの來るのを待つわけには行かなかつた。此身を思うて呉れればこそそこに縋つて行く心持も起つて來るのである。思ひもして呉れないのに……坊の小路の女達や河原の人などと同じづらに持てあつかはれて、たゞ玩弄品か何かのやうに見られてゐるのに、いくら此方でばかり深く思つて見たところで効がなかつた。窕子はそこに深い深い失望を感じた。そしてそれは今まで感じて來た輕い失望のやうなものではなかつた。かの女はその悲しみと失望との中に、さびしい秋の自然が、山にたなびきわたつて眺められ雲のたゝずまひが、野分に吹きなびけられてゐる尾花が、夜もすがらきこえて來る虫の音が、またはさびしく降しきる軒の雨がすべて細かに織り込まれて來るやうな氣がした。
 二三年前までならば、たとへ何んな苦しみがあつたにしても、また何んな悲しみがあつたにしても、いろいろなことでそれをまぎらせることも出來たであらう。此方からもさう深く思ひ込まずに、容易に男の胸にこの身を投げかけて行くことも出來たであらう。また呉葉の慰藉も、母の意見もそれをまぎれさせるに十分力があつたであらう。しかし今度の失望は、さうした生やさしい心の傷痍ではなかつた。窕子は既にあらゆる希望の憑むに足らないものであることを知つた。自分の眼の前に頼みにもし、力にもし、なぐさめにもして來たさまざまの幻影は、それは實際幻影で、到底手にすることの出來ないものであるといふことをかの女はつくづく感じた。青春の失はれて行く怨み、それも悲しかつたには相違ないが、しかしそこにはまだ慰めもあれば、縋るべきものもあつた。今度のやうに魂の底まで搖ぶられるやうなものではなかつた。
 呉葉が何か言ひかけても、窕子はたゞ低頭いてだまつてゐるやうなことが多かつた。
『本當に、もう少し氣を引立てゝ下さらなくつては……』
 呉葉はある日、兼家がやつて來て、一□ほどゐてそゝくさと歸つて行つたあとで言つた。
『そのやうに言はずにおいてお呉れ……。お前の心持はよくわかつてゐるから』
『でも……見てゐても、お傷はしうございますもの……』
『だつて、しようがない……』
『殿は?』
 その交情が呉葉には心配になるのであつた。
『別に何でもない……』
『でも……』
 早くそゝくさと歸つて行つたのを呉葉は心配した。
『だつて、お前、さういふことは成行にまかせるより他爲方がないぢやないか……』
『でも……』
『もつとお前は私に殿の機嫌を取れと言ふの?』
 窕子はじつと呉葉を見詰めた。
『さういふわけではございませんけれど……』
『だつてお前……私の心が言ふことをきかないから仕方がない。昔から女子はそのやうに出來てゐると言うたとて、男に玩弄具のやうに取扱はれて、それで言ふことはきいて居られるか、何うか。そちにもそれはわからぬことはよもあるまい――』窕子の眼には涙が光つた。
『それはわかつてをりますけども……』
『坊の小路なら、さういふことも出來るだらうけれども、この身は……この身は……さういふ女子とは違ふほどに……』
『それは、それは――』
 呉葉も後には困つた。
『それはそちの心はわかる。そちは、この身を思ふあまりに、さう言うてその身のことのやうに心配して呉れるのだらう。それはようわかる……。この身とて……この身とて……それを望まぬではない……。なう、呉葉、この身とて……』あとは言はずに涙が堰を切るやうに窕子の眼から溢れ落ちた。

         一九

陸奧の
つゝしか岡の
馬鞭草
來るほどをだに
待たてやは
よすかを絶ゆべき
阿武隈の
相見てだにと……
 かう書いて來てかの女は遠い遠い父親を思つた。父親が行つてからもはや四たび年を重ねた。そのあとで生れた道綱も大きくなつた。母親は絶えず心配しては呉れる。しかし……しかし……。窕子はいつも遠い遠い父親を思つた。
 父親のたよりは、一年に二三度は來たが、しかもそれは長い月日をかけたものだつた。梅の花の咲く頃に向うを出たものが、卯の花も散りはて、子規の聲の老けた頃でなければ此方の手には入つて來なかつた。また秋出したものは、年の暮れでなければそれを見ることが出來なかつた。父親は容易に都に歸て來さうにも見えなかつた。初めの年は白河の關から大方二日路のところに留つて、むかしの山の井の物語のある安積の府のことだの、安達の鬼塚のことだの、阿武隈川がその近くを流れてはゐるが、まだ狹くて、流れも小さくて、とても歌枕に詠まれたやうな大河ではないなどと詳しく書いてよこしたりしたが、二年目からは、それよりも猶ほ五日路も六日路も奧に入つて、武隈の府から多賀の府の方へと出かけて行つたらしく、その消息さへ容易に手にすることは出來なくなつて了つたのであつた。
 かの女はたまさかに來るその手紙を唯一の戀人か何ぞのやうにして待つた。またその來た手紙は、何遍も何遍も出して來ては讀むので皺にされたり汚れたりするのであつたが、しかしそれを丁寧に疊んで、一つ一つ來た日をかきつけて、貝の蒔繪の文箱の中に重ねて藏つて置いた。此頃では何うしてかことにその父親のあたりが戀ひしかつた。何故あの時無理にでもそのあとについて歌枕を見に行かなかつたかと思つた。かの女の眼には、その父親が遠く遠く薄を分けて蝦夷の地近くまで入つて行くさまがはつきりと見えた。武隈の二木松などもそれと見えた。父親の手紙にはいろいろなことが書いてある。この多賀の府からは歌枕の千松島はもはやさして遠くない。今までは用事が忙しいので行つて見ることが出來ずにゐるが、秋にもなつなら、是非とも暇をこしらへて行つて見るつもりだ……などとも書いてある。窕子は父親をその松島の中に置いて、いろいろに想像して見たりなどした。
さもやこまつの
みとり兒の
絶えずまゐるを
きく毎に
人やなくなる涙のみ
我身を海とたゝふとも
海松もよせぬ……
 實際、窕子に取つては、その遠くにある父親と、その周圍に纏つて來てゐる幼い道綱とがその心をたまらなく悲しくさせるのであつた。道綱は今年數へ年の四つの可愛い盛りで、何ぞと言つて呉葉の手から窕子の膝へと凭りかゝつて來るのだつた。兼家のことなどをもよく覺えて、『殿……殿……』などと小さな手で指さしたりなどした。
『まア、此子が……』
 兼家が歸る時にいつも口ぐせのやうに言ふ言葉の一つを、それを誰も教へも何もせぬのに、室の隅で玩具を持つて獨あそびをしながら、獨言のやうに眞似てゐるのをきいた時には、窕子はあきれてさう言はずにはゐられなかつた。
『あこは好い子ぢや……今言うたことをもう一度言うて見や……』
『…………』
 幼ない道綱はじつと母親の顏を見るやうにした。
『言うて見や……』
『すぐもどる……すぐもどる……きつとぢや……』
『まア、さう言うたか? 殿が?』
『きつとぢや、きつとぢや、すぐもどるほどに、のう……』
 二度目には母親がきいてゐるのなどはもはや頓着しないといふやうに、玩弄具をもてあそびなから、頻りに節をつけて歌でもうたふやうにして言ふのだつた。
『呉葉來て見や』
 かう窕子は呼んだ。
 呉葉も流石にそれには驚いたといふやうに、
『まア……まア、あこさまの聰明なこと……』
『だつてあんまりぢやないかねえ……。皆なきいて知つてゐるのだねえ――』窕子はたまらなく道綱が可愛相になつた。それはたとへ無意識であつたにしても、さういふ言葉を、いつとなく覺えて、それを歌か何ぞのやうに節をつけて眞似てゐるといふことは、何とも言へない一種の悲しさと心細さとを誘つた。その後兼家がやつて來た時、その話をして泣いたことを窕子は繰返した。
かひもあらじと
知りながら
命あらばと
たのめ來し
言ばかりこそ
白波の
立ちも寄り來ば
問はまほしけれ
 かの女はその長い歌を例の巧みな假名で懷紙に書いて、それを丸るくして、向うにある厨子の上の段へと載せて置いた。二三日經つて、兼家がやつて來たけれども、かの女は顏をもそこに出さなかつた。兼家はそれをそつと取つて歸つて行つた。つゞいてそれに對するかへしの長い歌が來た。
 その長い歌には何が書いてあつたらう。やつぱり男子の浮いた心が體裁よくかくされてありはしなかつたか。(お前は何故それでは打解けないのぢや。この身はお前を忘れたことはない。お前のことばかりを思うてをる。それをお前は何のわけもなしに、此身を袖にばかりしてゐるではないか。――寢覺の月の槇の戸に光殘さず洩れて來る影だに見えずありしより疎き心ぞつきそめし――二人の仲がこのやうになつたのはお前にも責任があるではないか)かういふ風にその長歌は詠まれてあるのであつた。窕子はじつとそれを深く考へた。

         二○

 互に打解けても打解けられないやうな月日が長く長く續いた。さうかと言つて兼家は全くその姿をそこに見せぬといふのでもなかつた。またその身はやつて來なくとも、歌やら消息やらは常に使にもたせてよこした。
 いくら悶えたからと言つて何うともならないといふやうな心持が次第に窕子の身の周圍に來た。苦しい時には默つてゐるより他爲方がない。いくら思ひのまゝにしようとしたとてそれは出來るものではない。また、何んなにつらいと思ふことでも、悲しいと思ふことでも、時には身も亡びるかと思はれるくらゐいらいらすることでも、じつと落附いてさへ居れば次第にそれが薄らいで行くものだといふことなどもそれとなく飮み込めるやうになつた。(これがこの人の世といふものだ……。誰にでもそれほどのことはあるものだ。單に自分にばかりそれがあるのではない。現に、その證據には、あの后の宮にもその苦しみがあるではないか。またその妹の登子の君にも、それにもました戀の苦しみがあるではないか)かの女は次第にその身の悶えをあたりの人達に比べるやうになつた。
『本當だね、何處に行つたつて思ふまゝにならないのだねえ?』
 ある日窕子はこんな風に呉葉に話しかけた。
『…………』
 呉葉は點頭いただけで、何も言はずに、そのまゝ窕子の言はうとするところを待つた。
『御門でさへ……そのやうなことをなさるのですもの』
 言葉を長く、いかにも歎かはしいやうにして窕子は言つた。
『何の宮のことでござりますか?』
『そら、そちも知つてゐるではないか、登子……きさいの宮?……』
『あ、お妹さま――』
『あの方のことなど考へると、この身などはまだ好い方かも知れぬ……』
『あの登子さまが何うかなさりましたか?』
『そちは知らぬか?』
『式部卿の宮さまのことではござりませぬか?』
『それはさうだけれども……それは誰も知つてるけれど……』
『何か他に?』
『御門が何うしてもお許しにならぬので……』
『御門が……』
 登子の姿を垣間見てから、何うしてもそれを大内裏に召すと言つて言ふことをきかなかつた。しかしそれにはその姉のきさいの宮の思わくもあることだし、またその一方では式部卿のこともあるので、それだけはたつて兼家の父がおことはり申上げたのであつたが、しかも御門は何うしてもその御心をひるがへさうとはせぬといふのであつた。
『まア……』
 呉葉も流石に驚かずにはゐられないといふやうに聲を立てた。
『殿がおつしやいましたのですか』
『これはお前、誰にも言つてはならぬことだよ……』
 窕子は聲をひそめた。
『お心安う……。それは決して他言などは致しませぬが、それにしても、あまりのことではございませぬか。つい、此間も小一條の女御のことであのやうに后の宮がお腹立におなり遊ばしたのに……それにもお懲りあそばさずに――』
『姉はまだそんなことは少しも知らぬのだなどと殿は申してをられたれど……』
『だつて知れずには居るものですか』
『だから困ると申して居るのだけれど――』窕子が殿から聞いたところでは、それが登子の棲んでゐる東三條の邸の裏の空地の新しい對屋での出來事だといふのであつた。そこは邸の内ではあるけれど、ずつと奧深く人目の遠いところなので、裏から入つて來れば、誰も知るものはないといふのであつた。呉葉の眼にもその新しい登子のゐる對屋ははつきりと映つた。かの女はつい此間も窕子の用事でその對屋へと出かけて行つた。そこにはいつも赤い鼻をした召使の女がゐて、それが呉葉の持つて行つた文箱を受取つた。時には口で傳へねばならぬ用事があるほどに、此方まで來よなどと言はれて、一二度はその登子の几帳の陰のところまで入つて行つたことなどもあつた。それはその美しさに目も□られるやうな君であつた。姉の后の宮も決して美しくないことはなかつたけれど、しかもその髮といひ、眼といひ、眉といひ、この妹君の方が幾段かすぐれてゐるのを否むことは出來なかつた。呉葉は昔の物語にある竹取の姫といふのもかういふ君であつたであらうなどと思ひつゝ歸つて來たことをくり返した。それに、かの女はいつもその裏の方から入つて行くのが例になつてゐたので、そこの竹むらに薄く夕日のさし込んで來てゐるさまなどをもはつきりと知つてゐた。それだけその話は一層かの女の心を惹いた。
『それに、もつと困ることがあるのよ……』
 聲をはづませて窕子は眼を大きく□るやうにした。
『…………』
『あの卿の君も始終あそこから入つて行くのだからね……』
『まア……』
『何でも殿の話では、それが一つにならぬとは限らぬといふのだから……』
『それは本當でございますか?』
『殿がさう言はれるのだから、まさかつくりごとでもあるまい……』
『さやうでございますね』
『殿はのんきなことを言つて居られたけれども、登子の君がさぞお困りになつてゐらつしやるだらうと思つて、それを考へると、お氣の毒で……』
『本當でございますねえ』
『それにつけても、つくづく女子といふものほどはかないものはないと思うた……』
『そのやうなことはございませぬけれど……』
『登子の君が何んなに困つてゐられるかと思うて……。それも普通のことなら消息でも歌でもさし上ぐるのなれど、それも出來ず……。殿もそのやうなことはしてはならぬと仰せられたし……』窕子はその身に引くらべて男の浮いた心といふことを深く考へずにはゐられないのだつた。それは御門の仰せ言と申せば、違背出來ぬのは止むを得ないとしても、何うして人間には――男と女との仲には、さういふことが起るのであらうか。さういふことは何うしても免れないことなのだらうか。女は思はれたが最後何うにもならないものだらうか。その身の意志などは少しも通すことが出來ないのだらうか。それに、窕子は登子と式部卿との仲がかなりに濃厚であるのをよく知つてゐた。それは登子の消息や歌などの中に常にはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、御門はいつ姫君を御覽になつたのでせう』
 呉葉は問うた。
『子供の中は御門もよう知つて居られて……別に、今までにはそのやうなこともなかつたのなれど、何でも殿の話では登子の君の大きく美しくなられたのを御覽になつたのは、つい一月も前のことだといふ話よ……』
『まア、さやうでございますか?』
『この頃、見違へるほど美しうなられましたからねえ?』
 さう言つた窕子の言葉の中には、一月前の葵祭の棧敷に登子が同胞や姫達に雜つてくらべ馬を見てゐたのをそれと御門に目をつけられたのを悲しむといふやうな語氣がはつきりとあらはれてゐた。
『それにしても、小一條の女御さまは何うなされましたのでせう?』
『もう丸でお忘れになつたやうに、お出でにもならないさうだよ』
『まア、あれほど御寵愛なすつて居らつしやいましたのに……』
『だから、男子の心持はわからないといふのだよ。いくら深く思はれてゐるやうに見えてゐても、女子はすぐ秋の扇と捨てられて了ふのだからねえ!』兼家とその身のこともいつかそこに雜つて出て來てゐるやうに、『誰も皆なさうなのだのう……。それを思ふと、あの河原の人も氣の毒だね……。』
『本當でございます』
『もう此頃では、殿も餘りそこには行かないやうだからね……』
『それはさうでございませうとも……。あの大騷ぎをした男の子が殿の子だか何だかわからないといふぢやありませんか?』
『そんな話だねえ――』
『殿だつて、それをきいては、大抵いやになつてお了ひでせうから……』
『それもお前、その男の子の父親といふのは、地下も地下のもので、東華門に詰めてゐるものの子息だといふ話ぢやないか……。』
『そんなことを申してをりますねえ! 世間の人は?』
 呉葉はこんなことを言つて笑つた。此頃でも殿と窕子との間はまださう打解けたやうには見えなかつたけれども、それでもさうしたいろいろな事件から離れたその二つの心が再び近寄つて行くやうになることを呉葉は願はずにはゐられなかつた。かの女はつとめて窕子を慰めるやうにした。

         二一

 呉葉の國のもので、幼い頃から此處に來て仕へてゐた藤といふのが、今度縁談がきまつて、里から母が迎へに來たので、そのまゝ暇を取つて歸つて行くことになつた。
 呉葉は何年にも故郷に歸つたことはなかつたが、むしろ一生その身は此處につとめるつもりでゐたが、母に迎へられて國に歸つて行く藤を見ると、流石にそれを羨まずにはゐられないやうな氣がした。かの女の眼の前には何年にも目にしたことのない川に添つた、雲の白く靡いてゐる故郷の藁屋のさまがはつきりとあらはれて見えた。
 そこでは今時分はもはや麥は刈られて、暑い日影が山ぞひ路の卯の花の白い叢を照してゐるだらう。藁家の屋根のぐしの上には葉の大きい蛇よけの草などが一杯に茂つてゐるだらう。だらだらとそこから川へ下りて行つたところには、葭や眞菰が青々としげつて、その向うに鰻を獲る舟が餌を置くためにあちこちと徐かに動いて行つてゐるだらう。水が葭の根元のところにさゝやかな音を立てゝ紋を成して流れて行つてゐるだらう。夜は眞闇で、あたりに何もないやうに見えるけれども、村の男や娘達は却つてそれを好いことにして、手を組み合はせたり肩を竝べたりしてゐるだらう。靜かな川ぞひの里。螢の里。夏になつてから名高い瓜の出來る里。あの畠から取つて來た熟して半ば赤くなつた瓜は、何んなにうまい漿をかれ等の口に漲らすだらう。それは都と比べては、派手な賑かな樂みはないだらう。くらべ馬の日の棧敷の賑はひ、祭のかへさの賑はひ、あの引出しの車の裾の美事さ、さういふものはそれは田舍にはない。しかし都の人達の内部のわづらはしさ! 悲しさ! つらさ! ほこりの多さ! あのやうに美しく派手につくつて居りながら片時も休む時のない心のみだれ! それを思ふと、田舍がこひしい。水のほとりの里がこひしい。弟にはもはや嫁が出來て、それが髮に赤い布をかけて、弟と一緒に田に畠に鋤や鎌を持つて出かけて行つてゐるさうだが、さういふあたりのさまがなつかしい。父も母も達者ではあるが、もう老いて、かなりに白髮も多くなつたさうだが、その白髮がなつかしい。几帳だの、かさね衣だの、廊下だの、蒔繪の文箱だの、花の枝につけた消息だの、口で言ふべきところを懷紙に書いてそれを厨子の上に置いたりする生活だの――さういふものに曾ては深くあこがれてそしてその野山を見捨てゝはるばる出かけて來たのであるけれども、今では却つてそこに戻つて行く藤母子がたまらなく羨しいのであつた。(やつぱり田舍に生れたものは田舍でくらすが好い。その方が氣安い。苦勞もない。よしまた苦勞があつたにしても、都の人達のやうにさういふ風にわるくこだはらない。その日その日をわびしく見詰め合つて暮すやうなことはない……)こんな風に思ふにつけても、都の生活が、上は大内裏の局達の生活から、下は羅生門あたりに住んでゐる乞食や盜人のさままで歴々とそこに浮んで來るのだつた。
 藤はしかし田舍に戻ることを好んではゐなかつた。また田舍の土くれ男を夫に持つことについても餘り進んではゐなかつた。
 廊下の暗いところで涙などを流してゐた。
『何を泣いてゐるの……。京などいつまでゐたとてしようがないではないか。それよりも田舍の方が何んなに好いか?』
『でも……』
『でも、お前は京の方が好いと言ふの?』
『だつて折角京のことがわかつてまゐつたのですもの……』
『でも、京にゐたつて好いことはありやしないよ。それよりも田舍に歸つて、身をかためる方が何んなに仕合せか知れやしないぢやないか……。朝起きると、路ばたの草にも綺麗な露が置いてゐるのだもの……』
 藤はそれでも頭を振ることを止めないのであつた。藤は何んな生活でも、田舍の草深い中にくらしてゐるより京の方が好いと言ふのであつた。御門や后の宮の御車を見ることか出來るだけでも好いといふのであつた。かの女は別れて行くことを悲しんだ。
 思ひのまゝにならない世の中だといふことを呉葉はつくづく感じた。何處に行つたつて思ひ通りに幸福に滿ち足りて暮してゐる人達はない。そこにも此處にも悶えがある。不滿がある。悲哀がある。御門をはじめとして、后の宮にも、局にゐる人達にも、また大きな邸を構へて前を追うて暮してゐる人達にも、やはり滿ち足らぬ悶えがある。呉葉は藤の心持の中にその身の悲哀が深く雜り合つてゐることを思はずにはゐられなかつた。曾て窕子が『それがお前、この人間の世の中といふものだよ』と言つた言葉が染々呉葉にも思ひ出された。
『それでは――』
『健かに』
 かう互に言ふ言葉がやがて藤と呉葉との間に取交された。
 藤は母親に寄添つて、止むを得ずに、窕子にも家の人々にもわかれを告げて出て行つた。
 窕子もそれを廊下のところまで見送つて行つたが、やがてそこからもどつて來た呉葉に向つて、『うらやましいね、田舍の靜かなところに行けるのは?』ふと呉葉の眼に涙が一杯にたまつてゐるのに目をとめて、『お前も、田舍に歸りたくなつたのね?』
『…………』呉葉の眼からは涙がほろほろとこぼれ落ちた。
『お前の心持はよくわかるよ……。でも、私を捨てゝ行つてお呉れでない、ね、ね……』と窕子はその顏を覗くやうにした。野から山へと青嵐をわけて歩いて行く藤母子の姿が今しもはつきりと二人の眼に映つて見えた。
『本當にお前は私を捨てないでお呉れ……』
『…………』
『ね、ね』
 窕子は重ねて言つて、『いつか、その中一緒に觀音さまにお詣りする時が來るだらうから、その時はお前の田舍にも行つて見たいと思つてゐるのだから……』
 呉葉は涙を歛めて、
『勿體ない……』
『お前にゐなくなられたら、それこそこの身は何うしたら好いかわからなくなるのだから。それは母者はよう見舞うて呉れるけれども、本當に私の心を知つてゐて呉れるのはお前ばかりだからね。……田舍も戀ひしいだらうけども……』
『勿體ない……』
 呉葉は別な意味でまた涙組ましい心持になつて行つた。主從と名には呼ばれてゐるけれども、同胞にも劣らないやうな窕子の平生のいつくしみがそこにありありとくり返されて來た。
『その中にはお前にだつて好いこともあるだらうし……、あのやうな殿でも、今に一の人にならぬとも限らぬし……』
 呉葉は言ひかけた窕子を遮つて、
『もう、もう、そのやうなことは仰有らずにゐて下さいまし……。この身は初めからさう思つて此處に參つて居るのでございますから……。この身は一生お傍は離れないつもりで居りますほどに……。ただ藤の母親に逢つて、あちらのことをきいたりしたので、田舍がこひしうなつたのですけれども、それは深く思うてゐるわけでもござりませぬほどに……』
『ほんに、さうしてお呉れ……。お前なしでは、とてもこの世の中の心の荒波はわたつて行けないのだから。……とても……とても……』
 窕子も袖を面にあてた。
『本當に心安うおぼせ――私のやうなものが今になつて田舍にかへつて行つたとて何になりますものか。田舍のものがもはや相手にしては呉れませぬほどに――この身はいつまでもお傍に――』呉葉もいろいろなことを思ひ出したといふやうにして泣いた。

         二二

 長雨が降り續いて、町の通りも深い泥濘になり、網代車や絲毛車の大きな輪が、牛かひや牛やそこらを通る人だちに泥を飛ばせた。通りは跣足でなければ歩けないので、めつきりと人通りが減つた。大比叡の裾が少し明るくなつたと思つたのも、それもほんの纔の間で、また雲が蔽ひかゝつて、しとしとと雨が降り頻つた。
 窕子は物忌を違へるために、里の家の方へと出かけて行つたが、その雨のために容易に戻つて來ることが出來なくなつた。
『もはや雨師の杜に勅使が立つさうだ――』
『ほんに、かう長雨がつゞいては、洪水が出て困る……』
 さうした話がそこでも此處でもくり返された。何でも山崎の向うの方は、水と岸とが同じぐらゐの高さになつて、今にも土手が切れさうなので、舟の往來すらも禁められてあるなどといふ噂が傳へられた。折角植ゑた稻が全く水の中に浸つてしまつたところなども到るところにあるといふことであつた。
 不圖窕子はある事を耳にした。
『それはほんと?』
『ほんたうでございます』
 何處からか聞いて來た呉葉は、かう言つてあとを殘した。
『でも登子の君がそのやうなところにゐるといふのは?』
『ですから、この身も何うかと思つて始めは本當にしなかつたのでございますが……やつぱりまことでございます。何でも、一時、身を忍ばせてゐらるゝのださうでございます……』
『でも、西の邸と言へば、すぐそこぢやないか。それに、あそこは大殿がおかくれになつてから、草が茫々と生えたまゝにしてあるといふぢやないか。それなのに……』
兼家や中宮の妹で、御門にさへ思はれてゐる登子の君が、そのやうな廢屋に來てゐようとは窕子には容易に信じられなかつた。
『でも本當でございます』
『お前、誰に聞いた?』
『さつき、下のものが何かこそこそと話しては、大事でもあるやうに致してをりますから、何うしたのかと思つてきいたのでございます。さうしたら、末の君だつて申すぢやございませんか。それも内所にして置かなければいけないので……それで――』
 呉葉は聲を落した。
 つい今から一月ほど前、式部卿の宮の突然の死は、京の人達の耳を驚かした。窕子は中でもことに驚いたもののひとりであつた。かの女は一番先きに登子のことを考へた。つゞいて兼家がやつて來た時、それとなしに聞いて見た。しかし何うしてか兼家もはつきりしたことを言はなかつた。『さア、それはわからぬが、そのやうなことはあるまいと思ふな? 平生がお弱い方だつたから、急に風邪を引いたのがもとになつたのらしいな。そのやうなことはあるまい。失戀して自づから死んだなどいふことはあるまい……。宮はさういふ風に意志の強い方ではなかつた』などといくらか他にそらすやうにして言つた。登子のことに關しては、『まア、そのやうなことはあまりに深くきかぬ方が好いな……』かう言つただけで兼家はそのまゝ口を噤んで了つた。
 しかし世間ではいろいろなことを噂した。御門の戀の犧牲になつたのだなどと言つた。宮の死はおそれ多いが自ら藥を飮ませられたのだなどと言つた。またその末の君がそれがため絶望のどんぞこに墮ちて氣も狂ひさうになつてゐるのを、無理に内裏に上げるやうにしてゐるので、そこにもまた一悲劇持上るに違ひないなどと評判した。窕子にしても眞相がわからぬので、ひそかに心を痛めてゐるのであつた。それが――その末の君の登子がひそかにその西の邸の廢宅のやうになつてゐるところに來てゐるといふのだから、窕子の容易に本當にしないのも無理はなかつた。
『それで、お前はそこに行つて見たと言ふのかね?』
『さやうでございます』
『何うかなすつていらした? 別におかはりもない御樣子だつたか?』
『ちよつと後姿をお見かけ致しただけですから、それまではつきり致してをりませんけれど、皆人の言ふところでは、別にこれと言つておかはりもないさうでございます……』
『それはうれしい……』かう言つたが、窕子は立つて厨子の上から硯箱を取り出して、それに例の美しい假名で歌を書いて、それをそのまゝ西の邸へと持たせてやつた。
 すぐ折かへして返事が來た。それには登子の上手な手で、
天の下
さわぐ心も
大水に
誰も戀路に
ぬれさらめやは
 と見事に認められてあつた。窕子はそのまゝじつとしてはゐられなかつた。廢址のやうな中にその失戀の身を埋めてゐる登子を目のあたりに見ずにはゐられないやうな氣がした。皆なの留めるのもきかずに、呉葉をつれて、そつとその廢宅に行つて見ることにした。
 さみだれが降り頻つた。容易に止みさうにもなかつた。卯の花の白く籬に咲いてゐるのがそれと夕暮近い空氣の中にくつきりと出てゐた。わざと他に知れないやうに、裏道になつてゐる草の露の中をかれ等はそつと拾ふやうにしてたどつた。古い藺笠。小さな裏。ともすれば女沓が泥濘の中に埋れさうになるのを辛うじて縫ふやうにして二つの姿は半ば潰れた門の方へと入つて行つた。
 門に入つてからも、かれ等は足場のわるいのに苦しまずにはゐられなかつた。そこにはつい此間まで庭の一部分であつた池があつて、藻だの萍だの芦だのに雨が頻に降りかゝつてゐるのを見た。あたりはひつそりしてるた。成ほどこゝいらはちよつと他にはわかりさうにも思はれなかつた。茂つたまゝ延びたまゝに樹が一面にあたりを暗くしてゐた。
 池の周圍をぐるりと廻つて、やつとその對屋の階段のところへ行つて、そこにそのかぶつて來たぬれた藺笠を脱いだ。かれ等はあたりを見廻した。
 誰も出て來るものもなかつた。それも理だつた。今時分、降りしきる雨を侵してこんなところにやつて來るものがあるなどとは誰も思ひもかけないことだつた。かれ等は爲方なしに、そつとその階段をのぽつて行つた。夕暮はいつか夜にならうとしてゐた。
『お前、そつと入つて行つて、きいて見て御覽……』
 窕子は小聲で言つた。
 呉葉は入つて行つた。廊下の小さな欄干に添つてその影はすぐ向うに消えた。
 窕子はひとりじつと立盡した。雨がかなり強く音を立てゝ降つてゐる。さつきまで見えてるた卯の花の白さも、もはや夜の空氣の中にぼんやりと微かになつて了つた。窕子は何とも言へないさびしさと悲しさと心細さとに襲はれて、戀といふものの闇が、そこに恐ろしく悲しくひろげられて來たやうな氣がした。
 雨の縱縞がその闇の中に微に線を引いてゐるのが覗かれた。
 靜かな足音がした。呉葉がもどつて來た。
 小聲で言つた。
『びつくりしてゐらつしやいました……』
『さうだらうね?』
『別におかわりにもなつてゐないやうでございます――』
『それで――』
 そこに登子のおつきの常葉といふ中年の侍女が出て來た。
『何うぞ――』
『よろしいのですか?』
 で、三つの影は音も立てずに、周圍を取卷いた小欄干に添つて靜かに動いて行つた。
 そつと妻戸を明けて入つて行くと、そこは周圍の廊下を几帳でしきつたやうなところで、小さな結燈臺が既に明るく點されてあつた。そこは侍女の常葉のゐるところだつた。
 輕い裳づれの音がしたと思ふと、いきなりそこに登子がその美しい顏を出した。
『まア、よく……』
『まア――』
 二つの美しい聲がそこに取り交はされた。
 かれ等はすぐ奧の明るい室の方へと行つた。
『本當に、どんなに心配したかわからないのでございますよ』
『それでもよくこんなところがわかりましたね』
『家がすぐそこなものですから……』
『あゝさう、それでわかつたの? それでいつから來てるの?』
『忌違へに來たのですけども、この雨で、とても………』
『ほんに、此雨は……』
 短かい言葉しか二人とも話せないやうな時間が暫しつゞいた。
 窕子は思ひ做しか此間逢つた時とはぐつとやつれて元氣がなくなつてゐる登子を見た。
『お痩せになりましたねえ?』
『さう……』
 登子は微かに笑つた。
 相對してゐる中に、いろいろなことが次第に飮み込めて來た。式部卿の宮の死は、さうだとは登子は決して言はなかつたけれども、しかし藥を仰いでの死であるといふことはそれと察しられた。また登子がかうして他に知られないやうに廢宅に身を忍ばせてゐるといふことは、やつぱり世間でも言ひ窕子も想像してゐたやうに、内裏からの迎へを一時避けなければならないやうな位置に登子が身を置いてゐるからであるといふことがわかつた。窕子は何う慰めて好いかわからないやうな氣がした。
『思ふまゝにはならぬもので……』
 言ひかけて止した登子の眼には涙が光つた。
『…………』
『でも、かういふさだめでござらうほどにのう!』
 言ひかけて、急にその時のことを再びまざまざとそこに思ひ出したやうに、『でも窕子どの、あはれと[#「あはれと」は底本では「あはれとと」]思つて下さい……。あの時にもお目にかゝることが出來ず、はふりの日にも――』
『ことはりでござります、ことはりでございます』
 窕子はかう早口に言ふより他爲方がなかつた。
『それはのう……』登子は裳の下から袖を引出して目に當てたが、暫くしてから、『よう、今まで生きてゐたとこの身も思つてゐるのです、腑甲斐なき此身、生きてゐたとて何うすることも出來ない此身……なぜ、此身はともかくもならなかつたのかしら?』
『まア、そのやうには――』
『窕子どの、ほんたうに何遍死なうと思つたか知れない……。一度はすでのこと刄をこの咽喉に當てようとした時に母者にとめられた――』
『まア……』
 窕子も流石に驚かずにはゐられなかつた。
『でも、死きれぬ身、何うしても死きれぬ身……それが、窕子どの、この身のつたない運命なのだから……。何うすることも出來ない身だから……』つまり御門でなければどうにでもなるが、さういふさだめの身になつた上は、いくら考へて見たところで、またいくらもだえて見たところで徒勞だといふのだつた。否、姉の中宮に對する心づかひなども細かくその中に籠められてあるのだつた。やはり窕子が兼家のために無理に其方に伴れて行つたのと同じことだつた。
『女子といふものは、さだめつたなく生れたものなればのう――』
『ほんに――』
 窕子も身につまされずにはゐられなかつた。
『女子といふものは、何のやうに思ひ込んだところで、何うにもならぬし、いくら望ましくないと言つても、それが通るわけでなし――』
 それは窕子と兼家との關係とは比すべくもないけれども、それでもまゝにならないといふ心持は似てゐるので、窕子には登子の心持がよくわかつた。後には窕子は登子を透してひろい人生に對するやうな氣がした。
 登子は式部卿の宮の歌やら詩やらを出して見せた。一番最後によこしたといふ手紙などを蒔繪の文箱の底から出して見せた。詩は當時にあつても名高い作者だつたので、墨色といひ、字のくばり方と言ひ、また詩の出來榮といひ、何ひとつそつがなかつた。歌も行成流の假名が見事だつた。
 手紙には別に大したことも書いてなかつた。逢ふつもりでゐた日に止むを得ない用事か出來て、その美しい眉に接することが出來ないのは悲しい。しかし悲しいことの多いのは――思ひのまゝにならないことの多いのは、この世の中の習ひだ。何もくやむことはない。心長く時の來るのを待つより他爲方がない……。さういふ意味のことがたゞ短かく書いてあるのだつた。しかし登子には、その思ひのまゝにならないといふことがたまらなく悲しかつた。宮はその生れこそ一の人の家柄ではなかつたけれども、御門とはすぐその上の兄君に當つてゐられたのであつた。母方の一族さへ時めいてゐたならば、御門よりも先きに位に即くべき資格を持つてゐられたのだつた。それに、宮は先帝に可愛がられたので、一時は今の御門の母方の人達が、何のぐらゐ眉を蹙めたかしれないのだつた。登子はその思ひのまゝにならないといふ言業の中にさうした事實を持つて行つてあてはめた。泣いても泣いても盡きずに涙が出て來た。
 後には窕子は慰めるのに言葉がなくなつた。
 暫くの間、沈默があたりを領した。
 そこに常葉が高つきに羊羮を入れて運んで來た。
『他の人なら、とてもこんな眞似は出來ないのなれど、御身ゆえ、何も彼もさらけ出して、このやうに泣いて了うた……。他の人が見たら、何うかしたと思ふに違ひない……』登子はさびしく笑つた。
『まア、あまりに心をつかひあそばすな。御心配の時には、いつにてもすぐ參上致しますほどに――』
『さぞ見にくかつたでせうね……』登子は繰返して言つた。
『そんなこと何とも思ひも致しません。誰れだつてさういふ場合には泣かずにはゐられませんもの……』
『さういふて呉れるのはあなたばかりですからね……。本當に力になつて呉れるものなんかないのですから……』
 登子は實際さびしいらしかつた。姉の中宮からもその時以來わるく嫉妬の眼で見られるやうになつたばかりでなく、いろいろな方面からいろいろな壓迫を強く受けた。御門はまた御門で、式部卿の宮が薨去せられてから、一度も登子の姿を見ないので、もしや何か事があつたのではないかと頻りに内意を九條の家へと傳へた。
 母や兄やまたはその周圍にゐる人達は表面では困つたことが出來たやうにも言つてゐるが、内心では小一條の女御に對する御門の愛が、中宮には戻つて行かなくても、この末の君に移つて行つたことを寧ろ祝福するやうな態度でゐるのであつた。それを登子は徐かにしみじみと窕子に話した。
 雨は降り頻つた。軒から落ちるあまだれがすさまじくあたりにきこえて、サツと風が物凄く樹を鳴らした。何か物の怪でも來はしないかと思はれるやうな氣勢があたりにした。
 結燈臺の灯はチラチラした。
 二人は思はず顏を見合せて戸外にざわついてゐる物音を聞いた。
 暫く經つた。二人は何も言はなかつた。
 登子が始めて口を開いたのは、猶ほそれから暫く經つてからであつた。
『あまりに泣いたので、宮の御魂が來られた!』
『…………』
『たしかにさうだ……。たしかに宮の足音がきこえた――』
『………』
 また二人は默つて耳を欹てた。サツと風雨がまた庭の樹を鳴らした。それと同時に、微かに人の忍び寄つて來るやうな氣勢がした。それは窕子にもわかつた。普通ならば、さうした風や雨や樹木の葉ずれや竹の葉のなびきに埋められて、とてもきこえる筈はない物の音が靜かにそこに寄つて來るのであつた。
 登子の顏のわるく青白く、眼がじつと一ところを凝視してゐるのを窕子は見た。おそらく自分の顏もそれと同じく蒼ざめてゐるのだらうと思つた。すさまじく風雨が戸外に荒れて居るのがはつきりとわかりながら、その中に沓の音の近づいて來るやうな音は猶ほきこえた。
 急に登子は恐ろしい物の怪にでも襲はれたやうに裳の袖を頭から引被いて了つた。近くにある方の結び燈臺は風もありはしないと思はれるのに、ふつと消えた。窕子も思はず、あ! と聲を立てた。
 同じやうにしてかの女も裳を被いて了つた。
 それから何のくらゐ經つたか、半□ほども經つたか、それとももつと長く經つたか、二人が氣がついた時には、呉葉と常葉とがこれもやつぱり何物にか襲はれでもしたやうにしてそこに來ておどおどしながら坐つてゐるのを見た。それでも外のざわつきはもはや靜かになつたらしく、たゞ風雨の氣勢だけがそれと遠くきこえるのだつた。
『何うしやつた?』
 登子は始めて我にかへつたといふやうにして常葉に訊いた。
 かれ等の言ふところに由ると、何か奧で人の叫ぶやうな氣勢がしたので、何事かと思つて常葉を先きに、そのあとから呉葉がつゞいて驅けるやうにして入つて來ると、結び燈臺が消えてゐて、登子と窕子と引被いて打伏して了つてゐるのに度膽をぬかれて、かれ等もそのまゝそこに打伏してしまつたといふのであつた。『こわや、こわや……』常葉の顏はまだ蒼青だつた。
 あとからついて來た呉葉にはそれは見えなかつたが、常葉には白いふわふわした焔のやうなもの――よく見ればそれは衣冠であつたかも知れなかつたやうなものがそこにひろがつてゐたのが見えたといふのだつた。それを見て常葉はすぐ打伏したといふのだつた。呉葉は呉葉で、二人のみならず常葉までがさうして引被いて了つたので、かの女も急に恐ろしくなつてそのまゝ隅のところに身を寄せたといふのだつた。
『たしかにそれに違ひない……宮が來られたに……』
 登子は確信したやうに言つた。
『こわや――』
 常葉はブルブル身を顫はすやうにした。たしかにあれが、あの白いものが宮だつたと思ふと、後から水でもかけられるやうな氣がするのだつた。『あまり泣いたものだから……』それで宮がやつて來られたのだ。登子は次第に元の心の状態になつて行つた。
 窕子にしても呉葉にしても、この物の怪のすだく風雨の闇の夜を、いくら近くともとても歸つて行くことは出來ないといふので。――また登子の方にしても、さびしくてとても常葉と二人きりでは居られないからと言ふので、僕を使にやつてその旨ことはらせて、二人は一夜をそこに過すことにした。それから窕子はまた一しきり話に耽つて、太秦の蜂岡寺の丑の刻の鐘が風雨の中にきこえる頃まで起きてゐたが、たうとうそこに蚊帳を低く吊つて夜のものを竝べて眠つた。

         二三

 雨は猶ほ幾日も止まなかつた。芦や藺は高く繁り、それに雜つて名も知れない黄い花が咲いた。杜若の厚い緑葉には、白いまたは紫の花が咲き添つた。夜は螢が人の魂か何かのやうに一つ二つ青白いひかりをあたりに流して行つた。
 此方の裏門のところにはよく窕子の姿が見えた。小降になつた時を選んでは、かの女はいつもそつと隣の廢宅へ行くのだつた。かくれ家では多くは歌などを詠んだりして世離れて暮した。幸ひに誰もかれ等の靜かな生活の邪魔をしなかつた。兼家も物忌で館にばかり引込んでゐるらしかつた。たまには歌を入れた文箱などが屆けられては來るけれども、たゞ雨のわびしさが歌はれてあるくらゐなもので、別にかの女に逢ひたいとも思つてゐなかつた。道綱はもはや七つになつたので、母のあとを追はず、おとなしく廊下で竹馬などをして遊んで暮した。
 少しくらゐ鳴らしても差支あるまいといふので、時には爪音を低くして登子と二人で箏の琴を彈いたりなどした。欝陶しい空合が絶えず眺められた。蝸牛が階段から廊下へとのぼつて來る丸い欄干に二つも三つも貼されてあつたりした。
 ある時登子は言つた。
『今はかうして世離れて、誰にも礙げられずに暮してゐることが出來るけれど……これもいつまでかうしてゐられることやら――』
『ほんとに――』
 窕子はかう言つて登子の方を見て、『何か、そんなことでも――』
『兎に角いつまでも此處にかうしてゐられないのは、わかつてゐるのよ。それが、この身の運命ですもの』
『…………』
『今日もそんなことをつくづく考へた……』
 窕子は何とも言へないのだつた。他から見たら、むしろ羨むべきことで、何うしてさういふ風に悲觀されるのだらうと思はれるくらゐなのだが、しかもその心持は窕子にはそれとはつきりわかるのだつた。そこに女の悲しみと苦しみとがあつた。かの女もさうした苦しみを經て來たことをくり返した。『何うしてかう女子といふものは虐げられてゐなければならないのだらう。女子は生れた時からさういふ風に運命づけられてゐるのか?』その話はいつもそこへと落ちて行くのだつた。
 あれ果てた池には蛙が頻りに聲を立てゝ鳴いた。それはよく雨に伴つてきかれた。蓮や麥の葉に水がたまつて、それが珠でも轉ばしてゐるやうに見えることもあつた。ある夜は頻りに時鳥が闇を破つて鳴いて行つた。大比叡でも雨の晴れる護摩を此頃毎日あげてゐるといふ。『山でも少し見えて呉れると氣が晴れるのですけれどもね』廊下のところで常葉がこんなことを鼻の大きい下衆に言つてゐるのも窕子だちには佗しかつた。それでも何うかすると、薄ぼんやりと夜中に月が出て、草に亂れた廢宅がさびしく微かに照されてゐたりなどした。

         二四

 登子と窕子との間にはをりをりこんな話が交換されるのだつた。
『何うしてかう女子は虐げられなければならないのでせう?』
『これと申すのも、女子が内にのみかくれて居るからではないでせうか。もつと世の中に出て行かなければならないのではござりますまいか。……それは慣習と申せば、それまででございますけれども……その慣習にばかり從つてゐるからいけないのではございますまいか……』
『それはほんにさう思ふけれど』
 登子は[#「登子は」は底本では「登子ほ」]深く考へるやうにして、『でも、それは運命のやうなものぢやほどに……。何うにもならないものぢやほどに。難有い彌勒の世といふのにでもならなければ、とても望まれないことではないか?』
『それはたしかにさうでございますけれども……さうかと申して、その彌勒の世と申すやうな世の中は、いつ參るのでございませう? 放つて置いても、ひとり手に參るのでござりませうか……?』
『さういふことは、無明の身にはわかりませぬが……』
『しかし、やはりそれは私どもがしなければさういふ風になつて行かないのではござりますまいか。私どもが築き上けることが必要で、さういふことをしなければ、いつになつたとてさういふ世の中はやつて來ないと思ふのですが……さういふ風に、お考へにはなりませぬか?』
 急に登子は悲しさうに、
『御身は宮と同じやうなことを言ひやる!』
『宮と申すは?』
『卿の宮……』
『まア、さやうでございますか。宮はそのやうなことを申して居られましたか。そんなことはちつとも存じませぬ。初耳でござります……』
『宮はよくさういふことを申して、憤られて御出でであつた。今の世の中に、さういふことを考へるものはない。快樂を追うものでなければ、名を求めるもの、權力を求めるもの、さういふものばかりぢや。そしてそれは何のためかといへば、皆な自分の我儘を振舞うためにさうしてゐるのぢや。ひとりとして人間のため、彌勒の世に進むために力を盡してゐるものなどはない……。それを思ふと、歎かはしいと常に申して居られた!』その故宮に對する考へが急に胸にあつまつて來たらしく、登子は裳の袖をおもてに當てた。
 二人ともだまつて了つた。まゝにならぬ苦しみが深くかれ等の胸を塞ぐやうにした。
『本當に、さういふ新しい考へをお持ちになつたのでございますか?』
 暫くしてから窕子は訊いた。
『本當もうそもない……。この身が常にきかされたことぢやに……。この身にしても、宮から何のやうにいろいろなことを教へられたことか。佛のことなどでも、深う深う知つて居られた……。今の世の中では、大比叡の坊主どもが快樂のみを説いて、何うせ思ふまゝにならぬ世ぢや。これがさだめぢやと言うて、苦しみをそれで蔽うてゐるが、それは佛の本當の道ではない……とよう言うてをられた。佛はわれぢや。この身ぢや。そなたぢや。とよく言うてをられました……』
『ほんに、そのやうに新しい方でございましたか。それなら、一度でも御目にかゝつて置きたうございました。この身はまたこの身で、今の世の中には、そのやうなことを考へて居らるゝ方はない。詩歌管絃……蹴鞠……酒……女子……さういふものより他心にかけて居るものはないと思うてゐましたのに……。』
『宮はこの世には事なくて生きてゐらるゝ方ではなかつた……』
 登子はいろいろなことを思ひあつめたといふやうにして言つた。登子の眼には、網代車を夜暗に細い巷に引入れる人だちだの、大内裏の局の女房に人知れず通つてる人だの、夜もすがら詩歌管絃に遊蕩のかぎりをつくしてゐる人だちだのが――またはこつそりと姫を圍うてゐる坊主や、宮女に花のやうに取卷かれてゐる人だちなどが、はつきりとそこに映つて見えるのだつた。ことに、何も知らない女子が、長い間の慣習のためにそれをあたり前と考へてゐるばかりではなく、女子といふものはそれで好いもの、いかやうに男にもてあそびものにされても好いもの、むしろそれを利用して、その身も快樂と贅澤とに耽るべきものと思つてゐる今の世の中のさまがそこに一つの繪になつて展けられて來るのだつた。
『情ないことぢやのう……』
『ほんに――』
 二人はかう深く歎かずにはゐられなかつた。
 しかしかうした二人にしても、さういふことばかりを問題にしてはゐられないのだつた。やつぱりその生れ出でて來た今の世の中に雜り合つて、悲しみには泣き、喜びには笑ひ、爭ひには爭はなければならないのだつた。
『それは、私のやうなものがいくら申したとて、そんなことは小さなこと――何うにもならないことで、一すぢの烟を立てるにすらあたひしないものですけども……それでも、この心持は捨てずに持つてゐたいと思つてゐるのでございます……』などと靜かな調子で窕子は言つた。
 ある時は登子はまたこんなことを言つた。
『でも、さう言ふと、あなたなどには効ないものに思はれるかも知れねど、この身などの運命は、もはやちやんときまつてゐるのだから……。慨いたとて、悲しんだとて、何うにもならないのだから………。』
『……………』
『この世のためなどといふことは、口ではいかやうにも言へるけれども、かよはい女子の身では何うにもならないことなのだから……。やはりこの身とてはかない醉生夢死……』
『……………』
『やはり、運命に從うといふことより他に、女子の行く道があらうとは思はれぬ……』
 その言葉のかげには、大内裏からの強い壓迫がそれとなくきかれるのだつた。窕子は何う慰めて好いかわからなかつた。
『それは世間では羨しいと思うたとて、それが何? え、窕子さん、あなたはさうは思はない。内裏に入つて、あの藤壺の一室に大勢に侍かれるといふことは、それはこの身の得がたい出世として、また一方では小一條どのや向う側にゐる人たちに對する兄達の立場として喜ばれることかも知れないけども、この身としては何が喜び? え、窕子さん。私にとつてはこの身を葬るつか穴ではありませんか。一度入つたら、もう再び出て來ることの出來ない墓場と同じではありませんか……』
『…………』
 何も言ひ得ない窕子の眼からはひとり手に涙が流れて來た。
『でも、ね……。窕子さん、泣かずにきいて下さい。あなたの他には、誰ひとりかうした私の心をきいて呉れるものなどはないのだから……。窕子さん、この身はもう心はきめてをるのです……。さうなる身とあきらめて居るのです……。何うせ、宮のあとについて行くことすら出來ない身――』かう言ひかけて登子は急にたまらなく悲しくなつて來たといふやうに、いつもなら引被くのが慣ひであるのに、顏を上に向けて、ひとり手に涙が兩方の眼から行をなして落ちて來るのに任せた。

次ページ
ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:211 KB

担当:undef