道綱の母
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著者名:田山花袋 

         一

 呉葉は瓜の出來る川ぞひの狛の里から、十の時に出て來て、それからずつと長く兵衞佐の家に仕へた。そこには娘達が多かつたが、中でも三番目の窕子とは仲が好くつて、主從の區別はあつても、しん身に劣らぬほどの心を互ひに取りかはした。後には窕子のためにつけられた侍女のやうになつて了つた。
 かの女にはいろいろなことが思ひ出される。まだ來たばかりで、朝に夕に故郷の母のことを思つて打しをれてゐると、そこにその時分丁度十三四で、年のわりに聰明で歌を詠むことが上手で、多い同胞の中ではことに器量の好い窕子がそつと寄つて來て、『お前、泣いてゐるの……。何うしたのさ……。母者がこひしいの……。もっともだとは思ふけども、あまり考へると體をわるくするからね、あまり考へない方が好いよ。それとも誰かいぢめたか何うかしの! あの仲姉さんが意地わるか何かをしたんぢやない?』その時呉葉は俄かに頭を振つたことを今でもはつきりと覺えてゐる。それから窕子のやさしい心持がかの女の體中に染みわたつて、たよる人はこの君ばかりといふ風に益々しん身になつて行つたことを覺えてゐる。
 窕子と呉葉とはその時分よくこんな話をした。
『お前の國に行って見たいね……。大きな川があるんだッてね』
『え、え、それは大きな河……鴨川のようなあんな小さな川ぢやない。もつと大きい、大きい、大きい帆がいくつも通る……。舵の音が夜中でもきこえる。それはそれは大きな河……。それに、河原の畠には瓜が澤山出來てゐるんですから……』
『もっと大きくなつたら、二人きりで行かうね。二人きりで……。仲姉さんとも誰とも一緒でなしに……。そしてお前の母者や姉妹とも逢はうね。そしてその次手に、昔の奈良の都にも行つて見ようではないか!』
『さういふことが出來たら、それこそ何んなに嬉しいことか……』
呉葉はさうした話の出る度毎にいつも雲の白く山の青い故郷のことを頭に浮べた。
 それは西洞院の二條を少し下つたところにある邸――兵衞佐ぐらゐの人の住んでゐる家であるから、さう大してひろくも大きくもなかつたけれども、それでも築土が長く取廻してあつて、栗や柿の樹などがその上から見えて、秋は赤い木の實が葉の落ちたあとの枝に鈴生に着いてゐるのを路行く人はよく眺めて通つて行つた。それからちよつと出ると、そこはもう西洞院の大通りで、馬車、さき追ふ人の聲に雜つて下司どもの罵り騷ぐ聲や、行縢を着けた男や、調度掛をつれた騎馬の侍や、つぼ裝束をした女達の通つて行くのがそれと手に取るやうに展けられて見えた。呉葉は幼いころ、ものの使ひに行つた歸りなどに、一の殿のすさまじく仰々しい行列に逢つて、何うすることも出來ずに、片側の塀にぴたりとその小さき身を寄せてある期間じつとしてゐたりしたことを今でもをりをり思ひ起した。そしてそれを眞直に北に行くと、大宮の築土に突當つて、そこには大きな門があつて、直垂姿や騎馬姿の絶えず出入するのを怖いものでも見るやうな心持でじつと眺めたことを思ひ起した。
 兵衞佐の邸はさう綺麗に掃除されてはゐなかつたけれども、それでもかなりに廣く、竹藪があつたり、池があつたり、その池には家鴨が放たれてあつたり、厨を出たところには、溝の中に夏は杜若が色濃く鮮かに咲いてゐたりなどしたのをはつきりと覺えてゐる。……それにしてもかの女が十三から十五ぐらゐまでの間に、窕子の美しくなつたことは! 指は白魚を竝べたやうに、肌は白く透き徹るばかりに、家の内から滅多にその姿をあらはしたことはなかつたのであるけれども、それでもその美しさはいつか世間に知られて、公達だちの間には喧しく品定めされてゐるといふことが常に呉葉の耳に入つた。
 呉葉は主從ではあつたけれども、しん身の同胞か何かのやうに思つてゐる窕子がさういふ風に日増に美しくなつて行くのを不思議な心持で眺めた。ある時には今までとは全く違つた窕子になつて了つたやうな氣がして、靜かに筆を手に几帳のかげに坐つてゐるのを近寄り難くじつと見守つてゐたことなどもあつた。『お前何してるのさ……そんなところにさつきからぼんやり立つて!』その時だしぬけにかう言はれて、呉葉は何と言つて好いか言葉がなくて困つた。さうかと言つて、『あんまりお美しいから、私、見てゐたのです』とも言へなかつた。もはやその頃には、窕子の二人の姉は皆なそれぞれ然るべきところへと嫁いで行つてゐた。意地のわるい仲の姉は越の國の司のもとに嫁して、かへる山を經て遠く有磯海の方へとつれられて行つてゐた。

         二

 窕子は半ば笑を含むやうに言つた。
『呉葉までそんなことを言ふの?』
『でも、さう言はずにはゐられませんもの……。行く末は一の人になるべき人がこの御歌! お父さまだつて、お母さまだつて、お兄さまだつて、お喜びにならないものは一人だつてないのですもの……誰だつて目を□らないものはないのですもの……』
『…………』
『お返しあそばせ――』
『…………』
 窕子は几帳の蔭に身を寄せて、じつとしたまゝ默つてゐた。何とも言へず美しく神々しく見えた。いつもの窕子――その身が長い間一緒に住んで來た窕子とは何うしても思へない姿がそこにあつた。一ところをじつと見詰めたまゝ目じろぎもせずに窕子は深く考へ込んでゐた。
『本當に……』
『もう少し待つて……』
『でも使のものが待つてをりまするほどに――』
『かへしなどはとても――』
『出來ぬとおつしやいますのですか。行末は一の人となるべき人で御座るのに……』
『呉葉――』
『お母さまも喜びの涙にひたされてゐられます……お父さまも……お兄さまも……』
『…………』
 窕子はじつとしたまゝ長い間何も言はなかつたことを呉葉は今でもはつきりと覺えてゐる。その時は、窕子のその態度を寧ろ不思議に、何うしてさういふ風に進まないのであらう、これほど目出たい嬉しいことはないのにと思つたが、今ではさう思つたこの身が淺はかで、窕子の容易に心を起さなかつた心がはつきりそれと指さゝれるやうな氣がするのであつた。しかしその時には呉葉にはそれはわからなかつた。
 何も返しをやつたからとて、それが何う彼うなるといふのではない。そのためすぐ身を任せなければならなくなるといふのではない。二度三度歌の贈答をして、それでいけなければ、いくらでも斷ることが出來る。兎に角、さう言つて歌まで下すつたものを無下にかへし歌もせずにかへすといふわけにも行くまい。かへし歌だけは何うしてもしなければ無禮にあたる。かう父も母も兄も言ふので、たうとう窕子は筆を執つて次の歌を書いた。
語らはん人なき里に
時鳥
かひなかるべき聲な古しそ
 全く振向いても見ないやうなつれない歌だ。これでは餘りにひどいではないか。『音にのみきけばかひなし時鳥こと語らはん思ふ心あり』といふ先方の歌に對して餘りに無禮にはあたりはしないか。かう思つて父母は心配し、呉葉は呉葉で、意味もわからすに、共に共に勸めたけれども、窕子はそれ以外には默つて何も言はなかつた。爲方なしに、そのつれない歌でも、かへし歌をしないよりはする方がまだましだといふので、それを文使のものに持たせてやることにした。
 その時のことを呉葉は一年後の今になつてありありと思ひ出した。

         三

 歌の贈答が絶たれようとしてしかも絶たれず、男心の切なる戀に弱い女心が次第にそれとなしに引寄せられて行くさまがそこに細かな美しい巴渦を卷いた。切な男の戀心を女の身として誰が受げ容れずにゐられようか。何んなに石の心でもそこにさゝれ波の微かな濃淡の影を湛へずにはゐられるものではあるまい。靜かに靜かに音を立てるせゝらぎ、そのせせらぎにさし添つて來る日の影、何んなに深い樹のかげでも、それがさゝやかな光を反映させずには置かぬやうなところにその戀のまことの心の影が微妙な美しい綾を織つた。
 後には窕子はそのかへし歌をすらすらと美しい假名でみちのく紙の懷紙に書いた。
 時雨が降り、鹿の鳴く音が野邊に微かにきこえる頃には、もはや窕子は初めて歌をかへした時のやうな心ではなかつた。否、かへつて男から贈つて來る歌を待つやうな心持になつてゐた。
 それの來ない日には、窕子は何となしに佗びしさうに見えた。庭の中なぞをそこともなしに歩いた。いつもならば決して行つて見ることなどのない崩れた築土の方までも裳を※{#「賽」の「貝」に代えて「衣」、第3水準1-91-84]げて草をわけて行つた。そしてその崩れた築土のかげのところに咲いてゐた名も知れない細かい赤い白い花などを手に採つて持つて來たりなどした。何うかすると、白い韈の上部が朝の草の露に微かに色づけられてゐることなどもあつた。
 その頃のことだつた。まだ加茂の冬の祭には間があつたが、鞍馬あたりは紅葉が盛りで、今年もきさいの宮の行啓があるなどと言はれてゐた頃のある日の夕暮――夕暮と言つてもとろ日の光は全く竹むらの梢にも殘つてはゐず、夜の色が薄ぼんやりとあたりに迫つて來てゐた時、呉葉は今まで曾て見たことのない光景のゆくりなくそこに展けられてあるのを目にしてはつとして立留つた。かの女は今しも厨の方から窕子のゐる西の對屋の方へと二三歩足をすゝめたばかりであるが、見てはならないものを見たやうな氣がしてかの女はじつとそこに立盡した。
 かの女の眼に映つたのは他でもなかつた。その築土の崩れのところを誰が見てもそれと點頭かれる狩衣姿の上品な若い男が童姿の供を一人つれて、そこを乘り越えて此方へと入つて來ようとしてゐる形であつた。その人はその向うの物かげに呉葉が立つてゐて、息を殺してそれを見てゐるなどとは夢にも知らず、薄暮の空氣があたりを名殘なく蔽ひ包んでゐるので、もはや人目にかゝる恐れもないといふやうに、何の躊躇もなしに、その崩れを乘り越して、草原の亂れがましい中をそのまゝ一歩一歩西の對屋の東の口へと近寄つて行つた。童姿の供の太刀の薄暮の中に動くのもそれと微かに透いて見えた。
 呉葉はじっとして蹲踞んでゐた。これはかうなるのが當り前だ! といふ風にかの女は思つた。かうなるのを邸の人達も皆な望んでゐる。その身とてさう望んでゐた筈である。これでもし縁が結ばれるならば、むしろそれは目出たいことである。さう思ひながらも、何となく胸がドキドキして、何う女君はするだらう。もしかしたら、それを拒むかも知れない。入って行くのを膠もなく拒むかも知れない………。かう思つて見てゐると、童姿の供はそこにぼんやりとその輪郭を薄暮の空氣の中に色濃く見せてゐるけれども、その男の方の姿は、いつかすひ込まれるやうにその内に消えてなくなつて了つてゐる。否、その少し前にその入口のところに女君が出て來たやうである。此方がさう思つてゐるためにさう見えたのかも知れないけれども、たしかにそこにその輪郭が見えたやうな氣がする。しかも耳を聳てゝきいてゐても、別に今入つて行つた男を拒むやうな氣勢も何もきこえて來ない。もし何か女君が聲を立てるやうなことがあつたら、すぐ入つて行かうと身構えしてゐても、さうした氣勢は少しもきこえて來ない……。爲方なしに、呉葉もじつとしてそこに蹲踞んでゐた。
 始めはむしろそれを拒んでゐた歌の贈答がいつの間にかさうでなくなつてゐたのであるのがそれとはつきり呉葉の胸に響いて來た。あたりはしんとしてゐる。竹に當る風すらもない。何處かで下司の醉つて罵つてゐる聲がきこえてゐるが、それが大通であるかそれとも此方の家の内であるかはつきりとわからない。崩れた築土を越して向うに明るく闇に見えてゐる窓がある。次第に夜になれば夜になつたで、星あかりのやうなものが微かにも地上に及んでゐると見えて、さつき見た時よりも、童姿の供のそこに待つてゐる輪郭がそれとはつきりするやうになつた。
 突然、呉葉の前に立つた一つの黒い影があつた。
『誰ぢや?』
 その聲でそれは窕子の兄の攝津介であることがわかつた。
『…………』
『お、呉葉か……。それにしても、このやうなところに何をしてをる?』
 手でその高い聲を押へるやうにして、
『殿が……』
『何と……?』呉葉の指さす方向に眼を移しながら、『殿が……あの堀川の殿が……。それはまことか……いつ? もうさつきにか? 今か?』その聲は壓し潰されたやうに低くなつた。
 攝津介も默つてじつと立つてゐたが、
『別に窕子はそなたを呼びはせざつたか?』
『別に……』
『それなら、それで好い……。こんなところに立つて居なくとも好い。こつちに來やれ。目出たいことを母者に知らせて喜ばねばならぬ……』
 攝津介はそのまゝかの女を伴うて向こうに行つて了しまつたので、呉葉はその後のことを知らなかつた。それから一時ほどして呉葉が入つていつた時には、窕子はいつものやうに几帳のかげにその身を置いたままで、あたりには誰もゐず、結燈臺の灯が微かに隙間洩る夜風に瞬いてゐるばかりだつた。呉葉は見ぬようにしてじつと窕子を見詰めた。窕子も眼を下に落としたまゝで深い深い物思ひに沈んでゐた。暫くそのまゝで經つた。
 最初に窕子は言つた。
『何處に行つていたの? お前……?』
 しかもその聲は微かで、眼は同じところを見たまゝであつた。
『向こうに居りました……』
『………』窕子は何か言はうとしたが、何う言つて好いかわからないといふやうに默つて了つた。
『何か御用でしたか?』
『別に……』
 かう言つたが、急に、『この身は困つた――』
 しかしその表情はそれほど困つたとも見えはしなかつた。
『何うかなさいましたか?』
『…………』
『え?』
『今、思ひもかけぬ客人があって……』
『客人が?』
 呉葉はわざとしらばくれるようにして言つた。
『困つた、此身は?』
『客人はどなたで御座いましたか?』
『そなたの好きな堀川どの……』
『え!』
 呉葉はわざと驚いたやうに見せかけて聲を立てた。
 窕子が物思ひに沈んでゐたのは、悲しい心に屬するものではないといふことが次第に呉葉にも飮み込めて來た。同じ性の身の嫉妬に近い心持も起つて來ないことはなかつたのであるが、それも向けやうに由つては、反感にならずにはゐられないやうな質のものであつたが、呉葉はそれをすぐ奉仕の感情の方へと持つて行つてくつ付けて了つた。呉葉は窕子のために喜びの感情と祝賀の感情とを一緒にしたものをそこに漲らせた。『それときいたら誰だつて羨ましく思はないものはないでせう。堀川の殿が此處に! あの堀川の殿が。京の姫達でさうした好運に附かれたのは御身ばかり……』かう言ふ風に呉葉はその感情をそこに露骨に打出すやうにして言つた。窕子はじつとしてゐたが、急に堪らなくなつたと言ふやうに、さうした侍女の祝賀の言葉の驟雨の中にも悲しい女の身の悲哀を深く感ぜずにはゐられないといふやうにその顏に衣の袖を押し當てゝ身もだえして泣いた。呉葉もしたゝかに泣いた。

         四

 呉葉が始めてその堀川の殿を目にしたのは、それからいくらも日數も經たないほどのことだつた。かの女はそこに肥えてはゐるけれど下品でない、眼尻の下つた、やさしい眼附をした、鼻の丸味勝な、口の大きな莞爾したその人の顏を見出した。女の好くといふほどの顏ではなかつたけれども――ことに女君の美貌と比べてはとてもしつくり合ひさうにも見えない種類の風采であつたけれども、それでも鷹揚な、靜かな態度の中に何處かに生れついて持つた威が働いてゐて、見ようによつては、好く思はれないこともないほどの器量を持つてゐた。その人はにこにこしながら、他人でないやうにやさしい言葉を呉葉にかけた。そしてその次にやつて來た時には、高價な蒔繪の香奩を手づからそのかづけものにしたりなどした。
 美貌では京でも名高く、殿上人の姫達の中にもそれほどの美しさはないとまで言はれ、その上に和歌にすぐれて、萬葉や古今の女の作者達にも一歩もひけを取らないとまで言はれた窕子の戀も、他で思つたほど思ひあがつたものではなく、やはり普通の多くの女達と同じやうに靜かに押移つて行くのを人々は見た。やはり女は女だけしかない。何んなに學問があつても、何んなに美しく生れ附いても、また何んなに怜悧で且つ聰明であつても、男と一緒にゐるやうになつては、やはり女だけのことしかない。これは世間がさう思つたばかりでなく、平生常にその傍に侍してゐる呉葉にもさういふ風に見えることを何うすることも出來なかつた。呉葉は次第に女の心が男の方に引寄せられて行くのをまざまざと見た。勿論それは張りも悶えも苦しみも何もなしに、わけなくそれに引寄せられて行つたのではなかつた。その中には細かい心の悶えや、その身の若さ美しさの日毎に喪はれて行くことに對する苦しみや、權勢といふものに理由なしに踏みにじられて行くのに堪へ難くなやむ心や、時にはその美しさといふことだけをその武器にしてさうした權勢に對抗しようとするほどの心の張を見せたことなどもないではなかつたが、しかも男にその身を任せた上は、もはや何うにもならずに、次第にさうした積極的な心持から離れて來るやうな形になつて行くのを誰も見遁すものはなかつた。窕子の父母の眼にもはつきりとそれが映つた。同胞達も次第に堀川の邸にその身を近づけて行くことの出來るのを喜ぶやうな形になつて行つた。
 西の對屋が手狹だといふので、堀川の裏のさゝやかな流れに臨んだ世離れた閑靜な邸――それも通りからもさう大して離れてゐない邸に、その年の師走近く、寒い風が北山から雪を齎して來る頃に移轉して行つが、その頃には、窕子の心も全く崩折れて、父母のためまたは同胞のため、といふばかりではなしに、男の心にその身を、その心を大方任せるやうになつてゐるのを誰も彼も見た。
 しかし幸福の唯中にその身が浸されてゐるとばかり思はれてゐる時、綾や錦や美しい調度に包まれて、ざれ言雜りの歌の贈答や、輕いお互同士の戀の玩弄や、他の目にも餘るやうな甘たるい抱擁や、身も心も溶けるばかりの繪のやうな光景や、さうしたものばかりがそのあたりに想像されてゐる時、窕子と呉葉との間にかうした次のやうな對話が取交はされてゐようなどとは誰も想像することが出來なかつた。
『何うしてそんなことを仰有いますのですか?』
『だつて、お前……』
『世間では、あなたほどお仕合せな方はないと申してをります。それは北の方にはおなりあそばされない……。それは圓滿具足した貴い器の一つのきずと申せば疵で御座いますけれど、かしこいあたりでもそれは止むを得ないことでは御座りませぬか。それは生れで御座いますもの。何うにもならないもので御座いますもの……。あなたのお身にしても、關白どのの家にお生れなされさへすれば、北の方にでも何にでも心のまゝであらせらるゝでせうけれども……それはしかし何うにもならないことで御座いますもの……。それをいくら仰有られてもむだで御座りはしませぬか』
『だつて、お前、何故この身はひとりを守つてゐるのに、男はさうでなくて好いといふのかえ?』
『そら、またいつものお話がはじまりました――』
 呉葉はかう言つて笑ひ出した。
『そんなにこの身の言ふことが可笑しいかしら? そなただつて、いつかさう言つたではないか。都にゐなくとも好い。都の殿御に見える機會がなくとも好い。田舍の土の中に埋れても、思うた男子と二人だけで住まうて居ればそれで好い。女子はその男子だけを思ひ、その男子はこの身だけを思うて呉れたら、それでこの女としての願ひは足りる。何んなに賤しう暮しても、少しも苦しいとは思はない。かうそなたも言うたことがあるのではないか。何うしてそれが可笑しいのか?』
『そのやうなことを言うたこともあるにはありました』かう言つて呉葉はまた笑つて、『でも、そのやうなことはこの今の世には通りは致しはせぬもの……。この身とて狛のさとにでも住んで居れば、さういふことを考へられるかも知れませねど、とてもこの都では、そのやうなことは考へられは致しはせぬもの……』
『そなたはそれですましてをられるから仕合せだ……』
 窕子はじつと深く悲哀に浸つたやうな心持で言つた。若さに別るゝ悲哀が今しも急に押し寄せて來たらしく、眼には一杯に涙がたまつた。
 呉葉は笑つたりなどしたことを悔いるやうに、眞面目な顏をして急にだまつて了つた。
 窕子の眼からはたうとう涙がこぼれて落ちた。
『…………』
『この身の心は誰も知つて呉れるものはない。父君にも、母君にも、この身の心はわからない。それはそなたにしても、父母にしても、この身に幸多かれと祈つて呉れる心はようわかる。それはありがたいと思うてをる。しかし、この心――この身の持つた心は誰にもわからない……』涙を溜めた眼は夜の星でもあるかのやうに美しくかゞやくやうに見えた。
『そのやうなことは――』
『そなただけは知つてゐて呉れると思つてゐたが、やはりそなたにも本當のことはわからなかつたのだ………。女子といふものは何うしてかうもてあそびものになるものやら! 女子といふものは罪が深うてとても男子とはひとつに言へないものだ。先の世からさうした魂を持つて生まれて來たものだ。かうしたことを佛の教はよう言うたが、あれはこの身は本當とは思はなかつた。愚なことを言ひをると思ふて居つたのだが、やはりさうでも言はなければならないのかしらといふことが段々わかつて來た……。この心は何うなるのだらう。何う埋められるのだらう?』急にたまらなくなつたといふやうに窕子は衣の袖を顏に當てた。
『わるう御座いました。笑うたりなどしてわるう御座いました……』慌てゝ呉葉は言つた。
 窕子の欷歔げる聲が夕暮の空氣の中に微かに雜り合つた。
『そなたがわるいのぢやない。そなたがわるいのぢやない……』暫くしてから、やつと思ひ返したといふやうに窕子は衣の袖を顏から離した。
 暫くした後では、それとは違つて、今度は公の宮の中のことが主從の間に話されてゐた。きさいの宮のことだの、藤壺の女御のことだの、好者の大納言のことだの、つゞいては目ざましきものにいつも引合に出される唐土の楊[#「楊」は底本では「揚」]貴妃の話などがつぎつぎに出て行つた。后でなくてもさうまで深く帝王の心をつかむことが出來る話などが出た時には、窕子は深く考へずにはゐられなかつた。北の方とか后の宮とか言つても、それにばかり男の愛があつまるものではなくて、何んなはした女との仲にも戀さへ芽ぐめば純な深いものとならない限りでないことがそれからそれへと考へられて來た。古今集の中にある深草に住んでゐる女が、男が女に飽きて、もう來ないつもりで、『年を經て住み來しやどをいでゝいなばいとど深草野とやなりなん』と捨ぜりふ言つたのに對して、『野とならばうづらとなりて泣きをらん狩りにだにやは君は來ざらん』と言つてその眞心を示したので、男はそれに感じて再びそこに來るやうになつたといふ物語などもそこに繰返された。
『だからそれを言ふのよ。さういう眞心があれば好いのよ。男にしても、女にしても……。しかし今のこのみだらな世では、とてもさういふ心は男にも女にも望まれない。男はたゞ女をおもちやにしてゐる。美しくさへあれば好いと思うてゐる。いゝえ、その美しいのを玩弄しさへすれば好いと思うてゐる。それに對して、女は唯捨てられたまゝでだまつてをる。それは女の弱味で爲方がないと思うてをる。それが悲しいことゝは思はないか……。』こんなことを染々した調子で窕子は言つた。窕子はそのまごころを深く相手の心の中に打込みたいと思つてゐても、その相手が當世の時めき人で、女に對してもさうした深い考へを持つてゐないといふことをこの頃深く感じて來てゐた。身の内に漲りわたるその心を何うしたら好いか、それに窕子は朝に夕に惑つてゐた。
 窕子は既にたゞならぬ身になつてゐたのである。

         五

 呉葉にはまだこゝに移つて來ない以前、家の殿が陸奧守に昇進して遠くへ旅立たなければならなくなつた時のさまがありありと眼に映つて見えた。泣いた窕子の顏がそこにある。この身も父君と共に陸奧に下らう。女の身とて行けぬことはよもあるまい。かうして玩弄ものになってゐるよりは、暫しなりとも都を離れて新しい生活に入る方が何のくらゐ好いかしれない。さうすればあの堀川の殿の心もこの身を離れて他の女子のもとに行くであらう。窕子はさうとはつきり言ひはしなかつたけれども、唯一の頼みとするその父君に別れることの悲しさ心細さに心が亂れ、またその行末の身のほどなども深く案じられて、それで一層さうした心になつたのであつた。それに、歌まくらに聞いた白河の關や安達の鬼塚や武隈の松などをも窕子は見たいと思つたのである。それは神無月の時雨が降る頃で、まだ向うの西の對にゐて、その窕子の居るところからは、裏の垣に烏瓜の赤いのなどが見えたり、彩ある小鳥の翅が樹の枝がくれに飛んだり下りたりするのがそれと指さゝれたりするほどだつたが、その窕子の願ひを押しとどめるためには、呉葉ばかりではない父君もまたその堀川の殿も何んなに口を酸くしてなだめたり慰めたりしたか知れないのであつた。『それではお前はこの身がこれまでに思ふてゐるのを何とも思はずに何うしてもそんなに遠くへ行くと言ふのか? 思ひとゞまつて呉れ! 何うぞ思ひとゞまつて呉れ! お前がゐなくなつては、この都も何もあつたものではない、それこそ業平の朝臣のやうに、お前を追うて東下りをせねばならぬほどに、な、これ、さう泣かずに、父君を快よう立たせて呉れ!』かう言つて堀川の殿は几帳のかげに身を隱した女君の衣の袖に何遍その顏を當てたか知れなかつた。
 父君も度々來てなだめた。『この身も伴れて行きたいけれど、女の身ではさうもならぬほどに、さう長いことではない、二とせか三とせ!』
 窕子はよく涙をこぽした。そのやうな氣の弱いうまれつきではなかつた筈なのに――誰れにも負けてゐることのきらひな質であつたのに――またしても涙に袖を濡らすのを呉葉は眼にした。『だつて、呉葉、この身はこれまで父君をのみ頼りにして來たのに……父君にさへ離れて、この身がひとりこの都にとどまらねばならぬのではないか? 笑はずに置いてくれ!』かう言つてはまた欷歔げた。
 呉葉にはそれとはつきりとはわからなかつたけれども、今日になつて考へて見れば、巣立の雛鳥が始めてつめたい世の空氣に觸れるための悲哀がそこに渦を卷いてゐたのであつた。親の手から背の君へ! その背の君もその身ひとりが縋ることの出來る人ならば、その悲しみもいくらかは慰めることが出來たであらうが、否、幸福に運好く生れ附いた女子ならば、誰でもそのひとりに寄り附き縋りついて、眼と眼とが相合ふやうに、手と手とが相觸れるやうに心と心とがぴたりとひとつになつて、むしろ古巣の親達の情は忘れ果つるほどであるのが慣ひであるのに、さうした幸福はとても望むことの出來ないその身のはかなさ! 縋り附きたいにもその身ひとりで縋り附くことの出來ない悲しさ! これも生中に人並にすぐれて生れついた身の悲しさではないか。『何うしてこの身は堀川の殿などに見出されたか?』またしても窕子はそれを言出すのであつた。
 家の殿の立つて行かるゝ日――それは昨夜の雨が晴れて、北山も愛宕も大比叡もくつきりと寒い晩秋の空に貼されたやうに見える朝だつた。三條からずつと河原を通つて東山の麓を越して向うへ。逢坂の山。志賀の海。それから向うはずつと長い長い旅路が限なく續いて行つてゐるのだつた。國の司の行列の群。馬の鞍。下衆の持つた雨具や炊事具。名高い寺や社のあるところは其處にやどりを求めて屋根の下に眠ることが出來たけれども、さびしいところに行暮れては、それこそ草の露を結ばねばならぬ長い長い旅。その支度も出來て、いよいよ別れをつげるべき時が來た。いざとなれば、さすがにわかれかねて、雄々しい家の殿の心もともすれば涙に浸されずにはゐられないのであつた。
 窕子の眼の縁は赤く赤くなつてゐた。
『では!』
『御機嫌よく』
 かう別れをつげた後でも猶ほかれ等は別れかねた。
『お父さん!』
『窕子!』
 かれ等はまたもどつて來ては互ひに涙を流した。
 最後に、父親は硯を持つて來させて、みちのく紙にすらすらとわかれの歌を書いて、そしてそれをそこに置いたまゝ、今度こそは思ひ切つたといふやうにして後をも見ずにすたすたと對屋の階段を下りて行つた。
 窕子はひたと打伏したまゝ暫くは身を起さうとはしなかつた。
 呉葉はその時其處にはゐなかつた。家の殿の旅立を見送るために――内に住んでゐる人達はその取亂したさまを他に見られることをきらつて、階段の下から此方へは出て來なかつたけれど、下司や僕や男達はずつと表まで行つて見送ることが出來たので、それで呉葉も通りまで出て見たのであつたが、見てゐると、多勢の人達に見送られたその一行の人達は、行縢をつけ、藁靴をはき、包みを負つたり雨具を持つたりして、一歩一歩河原の方へと遠ざかつて行くのであつた。呉葉は橋のほとりまで行つて、その家の殿の馬や雨具の向うに見えなくなるのを見送つて涙組ましい悲しい心持で家の方へと戻つて來た。それには少くともひと時ぐらゐの時間は經つた。それでも窕子は几帳のかげにつつ伏したまゝ身を起さうともしなかつた。
 呉葉は急いで傍に行つた。
 辛うじて頭をあげた窕子の顏は涙に泣きぬれてゐた。
『…………?』
 呉葉は何と言つて好いかわからなかつた。
『父君は?』あとの言葉は涙に礙えられて窕子の口から出て來なかつた。
『もうお立ちになられました!』
『もはやお立ちに――』
 さう言つたまゝまた引被ぐやうにして泣き伏した。
 しかし何んな悲哀でもさういつまでも續いてはゐなかつた。暫く經つたあとでは、窕子は眼を赤くしながらも、そこに父親が書いて置いて行つた別れの歌を手に取り上げた。
 そこにはかういふ歌が書いてあつた。
君をのみ
頼む旅なる心には
行く末遠く
おもほゆるかな
 それはかの女へではなくて、堀川の殿へ寄せたものであるといふことが一目見ただけですぐわかつた。『殿ばかりが頼りだ。我儘な娘ですけども、何うか捨てずに行く末長く眼をかけてやつて下さい』たのみ甲斐もないやうな堀川の殿を頼んで、その可愛い娘をその手に托して、何うか無事であれ幸福であれと祈つてわかれ難い別れをわかれて、ひとり遠く旅立つて行つた父親の心が歴々とそこに指さゝれた。窕子はまた泣かずにはゐられなかつた。
 その時誰か來た氣勢がしたと思ふと、妻戸がそつと明いて、狩衣姿の堀川の殿の莞爾した顏がひよつくりそこにあらはれた。
『もう立たれたさうぢやな……』
 入つて來て、そこに呉葉の侍してゐるのを目にして、
『もう少し早う來て、見送りしたいと思うたが、つい殿上まで行かねばならぬ用事があつておくれた……』少し途切れて、『おゝさうか、呉葉は行つて來たか? 何處まで? 河原まで? それで無事に立たれたか』
『御無事で、御機嫌よく……』呉葉はかしこまつて答へた。
『あ、それは好かつた……。二年や三年ぢき立つて了ふ……。それは別れはつらかつたらうが、なアに、ぢき月日は立つて了ふよ。泣いたのか、それはもつともぢや』かう言つたが、窕子の出した父親の歌を一わたり讀んで見て、『やつぱりお前が心配になると見えるな!』
『白河の關はたうとう見ることが出來ませんでした』
『女子の身ではそれは無理だ……。何しろ遠いところだからな』
『女子だとて行かれないことは御座いませぬのに――』
『でも、よう留つて呉れた……。お父さんも心にかけて行かれたが、お前が留つてさへ呉れれば、何も案ずることはないな。な、呉葉』傍にかしこまつてゐる呉葉を振り返つて、『そなたも安心して呉れ! この身がついてゐさへすれば何も案ずることはない』
『忝なう……』
 呉葉は頭を下げた。
 そこにまた人が來た氣勢がしたと思ふと、今度は日の岡のところまで送つて行つた兄の攝津介が行縢のまゝで入つて來た。
 殿の來てゐるのを見て、その姿のあまりに無作法なのに氣附いたといふやうに慌てゝあとに戻らうとした。すると、
『攝津介か、構はん、構はん……此方へ――』
 かう兼家が言ふので、
『でも……』
『構はん、構はん、それにしても早う戻つて來たな。何處まで行つたのぢや……?』
『日の岡まで參りました』
『陵の此方のところか?』
『さやうでござります……』
『無事で立つて行かれたな?』
『勇んで立つて參りました。これも皆殿のお蔭だと申して、よろしく傳へて呉れと申殘して行きました……』
『それで、關まで見送つて行つたものもあるかな』
『父のもございましたが、それよりも殿! 介の女房になるものが何處までもおくると申して、壺裝束してついて行きましたが、あれなどはあはれでございました……。何でも、介になる男は、名高い好者で、女子なども澤山あるときいて居りましたが、あゝいふ熱心なものがあるとは思ひませんでした』
『それは面白いな』
 兼家は莞爾笑つた。
『何でも、男の方ではこれを好い機會に女と離れるつもりらしいのです……。その女といふのがえらう嫉妬やきで、とても何うにもならないのぢやさうでございます。それに、女の方でも、三年も逢はずに別れてゐては、とても二人の仲が切れずにはゐまいといふので、それでその心を見せようといふのださうでございます。行けるところまでは行くと申してをりました。えらいことでございます』
『それはしかしもつともだらうな。惚れた身になれば、三年はおろか一年でも半年でも逢はずにゐては、その仲が疎うなるのが心[#「心」は底本では「必」]配になるだらうからな……。三年離れてゐて猶思うてゐるといふことは男にも女にもむつかしいことぢや。それは妻ならば別ぢやが……』
『男子には出來ぬかも知れませんが、女には――』
 傍から窕子がだしぬけに言つた。
 堀川の殿は驚いたやうにしてそつちを見たが、笑つて、
『女子には出來るといふのか?』
『その女子の心持もよくわかるではござりませんか?』
『それはようわかる……。氣の毒ぢや。しかし攝津介、戀といふものはさういふものではない。三年も逢はずにゐては、どのやうに思ひ合ふたものでも、たよりなう思ふのは當り前ぢやな……。それも雁の便りでも出來ればぢやが、みちのくでは、便りらしい便りも取りかはすことは難かしいでな……』
『さやうでございます』
『それで、關までついて行くのか。まア關までは他について行くものもあらうから、女でも行けるには行けようが、それから先はとてもむつかしいな……』
『行けるところまで行くと申してをりました……』
『美しい女子かな』
『三十路ほどの女子で、眉目の好い方でござりました……。見てゐてあはれでござりました』
 皆は申合せたやうに默つた。それといふのもその女のことから、遠く旅行く人達の一行のさまがそれとはつきりその前に描かれて見えたからであつた。その國の司の乘つてゐる斑白毛の馬を中心に七八人ごたごたと渦を卷いてゐるその一行の群が、見馴れた山にも、湖水にも、橋にも、または最後まで別れかねて見送つて來た人達にも別れ別れて、遠く遠くさびしい悲しい野山の旅をして行くさまが、何のことはない、屏風の繪か何かのやうにかれ等の眼の前に動いて行くのであつた。ことに、窕子の眼にははつきりと……。

         六

 時雨が降つたり木枯が吹いたり、北山に白く雪の來るのが見えたり、鴨河の土手の日あたりに薄や萱がガサコサと靡いたり、加茂の霜月の祭の競馬に棧敷が出來て、きさいの宮が美しい出し車の行列で御參詣になつたり、一の殿とその同胞の殿とが仲がわるくて殿上でもう少しで爭ひするところであつたといふ噂があつたりする間を窕子は旅をしてゐる人達の身の上を微かに遠く思ひやるやうな心持で靜かに過ごした。かの女は東の國にあるといふ、幾日も幾日も行つても盡きない濶い濶い野を頭に浮べたり、その野の果に青く布を敷いたやうに川が流れてゐて、そこに黄色い嘴をした鳥がゐるといふことを想像したり、さうかと思ふと、さうしたさびしい野に野盜がゐて、もしかしてそれがその父親の一行に何か害でも與へはせぬかと心配したり、その間には殿がやつて來て、わざとかの女をからかつて怒らせて見たり、また時にはかねて言つてゐたことが賓行されて、その西の對屋から堀川の邸近くのとある家に移轉して行つたりなどした。その新しい家には母が來て、『これは日あたりの好い家だ……。これでは冬知らずだ』などと言つて、兎にも角にもさういふ家に住まはれる身になつたかの女の幸福を喜んだりした。それにその新居の庭のさまが、その周圍を取廻いた築土の奧の方に竹藪があつてそれに夕日がさびしく當つたりするさまが、やつぱり細かくかの女の心に雜り合つた。
『もう父君は、東の國を通り越したでせうね』
 何うかすると、かの女は物思はしさうにかう傍のものに言つたりした。さうかと言つて旅の人達のことばかりを常にその念頭に置いてゐるのでもなかつた。時には世間の噂なども靜かなその胸をかき亂した。何でもその噂では、殿にはいろいろなことがあるらしかつた。女子などもあちこちにあるといふことだ。現にある女のことではその兄上と爭つたりしてゐる。しかし來た時に持出してそれをきいて見ても、巧みにそれを打消してしらばくれてゐる。しらばくれないまでも笑つてゐる。そして『誰がゐたつて、これに越すものはない。このいとしさに越すものはない。大丈夫だよ。そんなに心づかひをしなくとも……。このやさしい美しい心を誰が他所にするものかね……』かう言つてやさしくかの女の涙をその手で拭いたりなどした。窕子はそれにわけなく引寄せられるといふわけではなかつたけれども、しかもさう言はれて見れば、それを信ぜずにはゐられなかつた。兎に角この身を思うて呉れさへすれば好い。縋り効のないものでさへなければ好い……。逢つた當座はたしかにさう思つて滿足してゐるのであるけれども、それが不思議にも一日來ず、二日來ず、三日來ないとなると、次第に何處からともなく不安が萠して來て、さう信じてゐたその身の愚さが繰返されると同時に、男の心の頼りなさが深く深く考へられて來るのであつた。その身がさういふ風に感ぜられてゐるだけそれだけ男はやつぱり同じやうに他の女を愛してゐはしないか。その身に言つたやうなことを他の女に言つてゐはしないか。あの手がこの身を卷いたやうに他の女を卷いてゐはしないか。さう思ふと、ゐても立つてもゐられない焦立しさと不安さと物悲しさと心細さとが感じられた。さういふ時には窕子はその身を持てあつかひでもしたやうに、垣の傍に行つて竹藪に夕日のさし込むのを眺めたり、池に小さな魚の石につくやうになつて微かに動いてゐるのを覗いたり、またその不安と心細さに雜り合つて、もはや白河の關あたりまで行つたであらうと思はれる父親の一行のことをいろいろに思ひ浮べたりなどした。たまには昔の歌の友達――かういふ身の上になつてからは誰も來るものとてはなくなつたのに、その友達ばかりは捨てもせずにたづねて來て呉れるのであるが、その時には琴をかき鳴らしたり歌合をしたりしてのどかに一日を遊び暮した。
 師走になると、都の街にも寒い風が吹いて、人の足並も凍つた地に響き、夜は店を明けて灯をつけてゐる家などはなかつた。その十日にかの女は親しい僧のゐるのをたよりに、母に伴れられて横川の彌勒講へと出かけた。

         七

 横川の中堂はさうした深い山の中であるにも拘らず、香の煙があたりに一杯に籠めるばかりに立靡き、參籠者はそろそろと山みちを傳ひ、岨を傳つて、そのありがたい御堂へと一齊につめかけた。壺裝束をして藺綾笠をかぶつた女達だの、杖をついてあの老人がよくやつて來たと思はれるやうな人達だの、さうかと思ふと、宮中からおつかはしの布施の携帶した頭中將の一行の仰々しい姿なども見えた。佛法と王法とがひとつになつて、この深い山の御堂にこの上もない有難さをひろげてゐるやうに見えた。
 御堂の内には、僧が何十人となく兩側に列をなして立竝んでこ香烟の漲りわたつた、むつとするほど參籠者の呼吸の立ちこもつた、その奧には大きい小さい、中にも二三百目もあらうといふやうな赤く青く或は黄に彩色した□燭が煌々と人の目を眩せしむるばかりの佛具の間に何本となく點されて、それがチラチラと言ふに言はれない壯嚴さをあたりに展げたばかりではなく、何年にも開かれたことがない立派な龕の扉が左右にはつと押し開かれて、その本尊の如來の額からは金光が赫々とあたりに輝きわたるかのやうに仰がれた。讀經の聲と共に何遍となく僧が腰を屈めて禮拜すると、『有難や……有難や……』といふ聲がそこからも此處からも起つた。
 その大勢の參籠者の右の角のところに、小さな念珠を右の手にかけて、その白い顏を半群集の中に際立たせながら、じつと本尊の方を見てゐるのは、それはまがふべくもない窕子であつた。その傍にはもはやかなりに年を取つた髮の白い小づくりなやさしさうな母親が竝んで坐を取つてゐた。『有難や……』の聲のあちこちに起る時には、母も娘も共に念珠を繰つて禮拜した。
 窕子ははるばる山を越してやつて來た効があるやうな氣がした。それは都の巷のそここゝに有難い御堂がないではない。かの女の苦しい悲しい悶えを托するに足るやうな本尊もないではない。しかしそこでは手を合はせ、珠數をつまぐつてゐる中こそ清淨な心になつてゐられるけれども、そこを、御堂を外に一歩でも出て了へば、忽ち煩惱が身に纏つて來るばかりではなく、眼にはさまざまの悲しいあはれな世のさま人のさま、心をときめかすやうな美しい色彩までがまざまざと映り、耳にはまたさまざまの誘惑やらまよはしが片時もその力を振はずにはゐないのであつた。それに比べたらこの御堂の有難さは! この御堂の壯嚴さは! またこの本尊の尊さは! 實際窕子には昔の佛の力が今にもまざまざと存在して、その功徳をはつきりとそこにひろげてゐるかのやうに見えた。かの女はとてもそなたには行かれまいといふのを強ゐて頼んでやつて來たことを繰返した。丁度その時、殿との間に深い爭ひが起つてゐて――それもいつものとは違つて、窕子が昔親しくした大學のひとりの書生の許から手紙がやつて來て、むかしの心に火がつくまでには到らなかつたけれども此方からかへしの歌などを贈つたことを殿に知られて、『何故それがわるいのです……。何も事があつたのではない。その歌をかへしたのがわるいと言はるゝが、何故それがわるいのです……。男は何のやうなことをしても好く、女子はそれほどのことをしてもわるいと言はるゝのか?』などと言ひ合つたばかりではなく、父親に遠く別れた悲しさが添つたりして、それで暫しはこの苦しさやら悲しみやら悶えやらを忘れたいと思つてそして無理に母親について來たことをくり返した。それでも殿のことが忘れられるのではなかつた。途中では心強くかうして家を明けて出て來たことを悔ゐたりなどしたことをくり返した。
 僧はまた一齊に法衣の袖をひるがへして禮拜した。
『有難や……』
 さうした聲は益々盛になるばかりであつた。
 深く經に讀み耽れば耽るほどその聲の調子には一層眞面目な物狂ほしさが加はつて、僧ばかりではなく、その御堂の空氣の内にもこの世ではないやうな何物にか憑かれたやうな重苦しさと眞面目さとがあたりに滿ちた。
 一しきりの讀經が濟んで、親しくしてゐる僧の房へともどつて來た時には、窕子はほつとしてため息をつくほどだつた。かの女は誰か同じ參籠者が持つて來て壁に頼りつけた畫障などをあちこちと見て廻つた。その室からは深い谷が覗かれて、下では谷が微かに鳴つてゐる。冬の山はさびしく、樹の枝もあらはに、若い僧の話では、鹿がついそこの山まで出て來て、その鳴く聲がいつも笛のやうにきこえるなどと話した。
『かういふところにゐたら、身の苦しみもあるまい……』
 こんなことを思はず窕子が言ふと、若い僧は笑つて、
『この身はまた都にゐたら、何んなに好いかと思ひます……。それはこの二三日は賑かですけれども……誰もゐない時は、冬は……それは山はさびしうございますでな……。あなた方は都にゐられて羨しい』
 かう言つて笑つた。それは眉の美しい、可愛い、色の白い、莞爾しながら絶えず無邪氣に話すやうな若僧であつた。母子の間には先きの帝の内親王がさうした若い僧の佛に仕へてゐるのに感激して、何うかしてその身もさういふ淨い身になりたいと言つて、帝にも誰にも告げずに單身で大比叡にのぼつて髮を剃られた話などが出た。そして、『あゝいふ若い可愛い僧がゐるのだから、さう思はれたのも無理はない』などと母親は言つた。窕子はそれは母親には言はなかつたけれども、その身にしても、もしさういふ淨い身になることの出來る身だつたら、それこそ何んなに好いだらう、何んなにすがすがしくつて好いだらうなどと思つた。
 夜の御堂に出かけて行つて、そこで同じやうな讀經を一ときほど聽聞したが、あまりに夜の山が寒いので、房へ引返して寢るつもりで、そこを出た時には、雪がもう盛に降り出して、一緒に案内して呉れた僧の持つた松明に小さい大きい雪片が黒く落ちては消え落ちては消えた。
『えらい雪になりました……』
『本當に……』
『これは困つたのう? これでは、あすは何うなるやら? 雪に降られてはもどれぬかも知れぬ』
 これは窕子のあとから出て來た母親だつた。
『これはあすは大雪だ』
 松明を先へ翳し翳し、若い僧は足場のわるい路を先に立つた。雨具の支度はして來なかつたので、房まで行く間はいくらもないのであつたけれども、それでも窕子の髮も衣も白くなつた。房の扉のところに來て窕子はそれを母親に拂つて貰つた。
 果して明くる朝は大雪だつた。山も谷も埋むばかりに雪は降り頻つた。樹の枝はたわわに、溪の水の音も微に微に谷の底に鳴つてゐるばかりだつた。戸をあけた縁の中まで雪はふり込んで來た。
『まア、大事ぢや』
 母親は困つたといふやうにしてじつとそこに立盡した。
『まア』
 窕子もかう聲を立てた。
 しかし見たいと思つたとて見られぬ山の雪ではないか。深い山が既にこの世のもだえを、くるしみを、悲しみを隔てゝ來てゐるのに、更にこの大雪がそれを遠く隔てゝ了つたのは、窕子に取つて一層嬉しいやうな氣がした。かの女は始めて思ひのまゝにならない世間以上に更に思ひのまゝにならないもののあることを感じた。(何うにもならない、何うにもならない! いくら思つたつて、いくらもだえたつて何うにもならない、人間は、人間は小さな、小さな身なのだ……)窕子はその身の哀れさを――遠くに行つた父親を慕つて何うにもならず、微かに昔の戀心をたづねても何うにもならないその身のあはれさをつくづくと身に染みて感じた。かの女はその心もその苦しみもそのもだえもその悲しみも皆なこの大雪の中に埋めつくされて了つたやうな氣がした。
氷るらん
横川の水に
降る雪も
わかごと消えて
物は思はし
 かの女の胸に簇り上るやうにしてかうした歌が出て來た。雪は降り頻つた。

         八

『だつて二日も三日も待つても、あなたはお出なさらなかつたぢやありませんか』窕子の顏には男に對する勝利の色が歴々と上つて見られた。
『それで何處に行つたのだえ?』
『何處でせうかしら? 屹度、屹度、あなたなどの御存じない好いところでせう。』
 いつもに似合ず女のわるくはしやいでゐるのを不思議にして、兼家は何か言はうとしたが、よして、そのまゝじつと窕子の顏を見詰めた。
『…………?』
『だつて、ちやんと書いて置いたでせう。いくら鶯が好い聲で歌はうと思つて待つてゐたつて、それを聞いてくれる人が來なければ、何處か他に行つて、それをきいて貰ふより他に爲方がないぢやありませんか……』
『それはわかつてゐるよ、お前の歌でわかつてゐるよ。知られねば身を鶯のふり出て啼きてこそ行け野にも山にも……。その心待はよくわかつてゐるよ。だからすまないつて言つてゐるぢやないか』言葉を強くして、『本當に何處に行つたんだ?』
『知らない……』
『自分の行つたところを知らずにゐるものがあるものか? 洞院の辻?』
『さうかも知れませんね……』
 窕子はまた勝利者のやうにして笑つた。洞院の辻には、かの女が曾てラブしたその大學生が失戀してから伯母の家に深く籠つてゐるのであつた。
 兼家の頭には、まさかとは思つてゐるけれども、それでもその崩れた築土の奧にある家の一間の中が眼の前にそれと映つて見えた。そこにかの女がゐる。この身には話すことを敢てしないことをかれに綿々として話してゐるかの女がゐる。曾てちよつと加茂の霜月の祭の時に通りすがりにその男を見たことはあるが、それは地位から言つてもとてもその身とは競走出來ないのはわかり切つてゐるけれども、そこにはまた普通では言へない細かい心持などがあつて却つてさうした富貴やら地位やらで強いて女の心を自由にしてゐる身であるだけその相手に對して此方の弱さを感じた。女は――ことに窕子はさういふところに殉情的になる質であるだけ一層それが氣になつた。
 兼家は昨夜來て、窕子がゐないので、いくらかやけ氣味で、女のゐないところにこの樂しい正月を寢たつてしようがないなどと言つて、これからすぐ何處かに行きでもするやうに呉葉達を困らせたが、夜がもはや子の刻を過ぎてゐて何うにもならないので、そのまゝ靜まつて、いつもの一間に夜のものを暖く、裏の竹むらに夜風の騷ぐのを聞きながら窕子の殘して行つた鶯の歌のかへしなどを考へて一夜をすごした。鶯のあたに率て行かん山邊にも啼く聲きかばたつぬばかりぞ。これほど此身はそなたのことを思つてゐるのに、かうしてこゝにひとりこの身を殘して、その美しい聲音をあだし男に聞かせてゐるとは! しかしこの身にもわるいところがないではなかつた。一昨日來れば好かつた。あゝいふ女の僞り心にひかれなければよかつた。あゝいふ女は――あゝいふ女は、そこまで考へて行つて、兼家は男にも女を責める資格のない身であることを深く考へた。曉近く厠に出て行つた時には、月が明るく竹むらを照して、手水盤の水が銀の匝器のやうに厚く氷つてゐた。
 そのあくる日であつただけに、窕子が午前に莞爾しなから歸つて來たのがかれはことに嬉しかつたのであつた。
『教へて上げませうか?』
『教へて呉れ!』
『やつぱりあそこよ。洞院の辻よ。あそこで大勢集つて詩の會をしたのよ。』兼家の顏のわるくむづかしげになつて來るのを可笑しげに見やつてゐたと思ふと、急に噴き出して、『本當はうそ! 稻荷に行つたのですよ。そしてあそこの禰宜の伯父の家に母と泊つたのですよ』
『本當か?』
『本當ですとも……。それだましてやつた! あの顏は! 呉葉も見よ?』窕子は聲を立てゝ笑つた。身を崩さぬばかりにして呉葉も笑つた。
『人を馬鹿にしてゐる!』
『だつて……』女達は餘程可笑しかつたもののやうに猶も止めずに笑ひ立てた。

         九

 さうした笑ひやら悲しみやら戀ひしさやらもだえやらの中にも、いつか新しい生はそのさゝやかな呼吸をその美しい母親の體の中で息つき始めた。と、母親の蛾のやうな黛にはいつか深い惱みが添ひ、人知れず几帳のかげでため息が出で、當然味はなければならないこととは言ひながら、その身にもたうとうさうした女子の運命が來たといふやうなことがたまらなくかの女を感情的にした。かの女は春から夏になつて行く間の期間をその靜かな一間で憂鬱に暮した。曇つた日のもだえ、雨の日の悲しみ、おぼろ月夜の花の下のうれひ、ことに、何うしてか山吹の花の黄色いのが深く身に染みて、縁に近くそれの花びらの白くなつて散つて行くのを見ると、たまらなく悲しい氣がした。何うしてかういふことがあのやうに母親や兄達を喜ばせたのだらう。さういふ人達は身がはつきりときまつたと言つて喜ぶのだけれども、何うしてこれがそのやうに目出度いだらう。この身の若い春は忽ち過ぎて行つて了ふではないか。それも、公に脊と呼び妻と呼ばるゝ身ならば――お互にそれを認めるばかりではなく世間の人達にもそれと認められて、互に縋つたり縋られたり、心が十のものならば互にその半をしつかりと握り持つて、見かはす眼にも、取り合ふ手にも、竝んで行く姿にも、朝夕の起居ふるまひにも、片時もさうした心の添はずにゐないことのない身ならば――それならば、この生るゝ兒も仕合せに、目出度いと祝はれても好いけれども、その身は浮萍のやうに、根がついてゐながら何處についてゐるのやらわからず、またいつ根が絶たれて了ふのやらわからず、縋るべき人には他にも澤山にさういふ人達がゐて、口では眞面目なことを言つてこの身を慰めて呉れるけれども、門外一歩を出れば、何處に何ういふ美しい人がゐて、かの人の心を忽ちに蕩かせて了ふやらわからず、それを思ふと、その身ばかりか、生れて來る兒もやはり不仕合せであることを思はずにはゐられなかつた。かの女は何ぞと言つてはよく眼の縁を赤くしてゐた。
 それに、つはりが人一倍強くかの女を襲つた。手水盥のところに行つて物をもどした。また物のにほひがわるく鼻につくと言つては厨の人達を驚かした。沈丁花の咲く時分から、平生好きであつたそのにほひが反對におびたゞしく嫌ひになつて、『呉葉、この花のにほひは昔からこんなにいやなかをりであつたかしら? あの廉いわるい香にそのまゝではないか』などと言つた。
 從つて身じまひなどもおろそかになつて、殿の來た時にもわるく髮を取亂してゐたりなどした。それでも殿には別にそれが氣にもならないらしかつた。否、むしろさうした取揃はない美しい女子の惱みは、海棠の雨に逢ひでもしたやうにかへつてその心を惹くらしく、またその體の中にその戀心のかたまりの呼吸つきつゝあるのを思ふとたまらなくいとしさがまさつてでも來るらしく、ひたしめに窕子をしめたりなどすることもあつた。
『男子といふものは、何うしてさう我儘で、薄情で、他のことなど何とも思はないのでせうね?』
 窕子はある時じつと兼家の顏を見つめるやうにして言つた。
『何うしてそんなことを言ふのだえ?』驚いたやうに兼家は言つた。
『私達の心は男子とは違ひますね……。もつと眞面目で、そして清淨ですね。何んなに戀しくつたつて、それを押へられないといふやうなことはありませんからね。……』窕子は深く思ひ沈むやうに、『でも女といふものは、さういふ風に生れる時から出來てゐるのかも知れません。綺麗な美しいことばかり考へてゐるのですから……。男女の仲にしても、心だけで十分に戀が出來るやうに出來てゐるのかも知れませんから……』かう言ひかけてたまらなく悲しくなつたといふやうに、衣の袖をかつぐばかりにして泣き伏した。
『何うしたのだ!』
 兼家はむしろあつけに取られたといふやうにしてその傍に身を寄せた。
 窕子の涙は容易にとゞまらうともしなかつた。たしかにかの女はヒステリカルになつてゐた。呉葉などがやつて來てやつとなだめて身を起した時には、眼は赤く腫れ、髮は夥たゞしく亂れ、惱ましげな姿が一層男に愛着の念を誘つた。『お中の子が私に似て泣虫なのかも知れませんね』こんなことを言つて窕子は莞爾笑つて見せた。

         一〇

 梅雨が幾日か續いたあとには、くわつと夏の日が照つて紫陽花がその驕女らしい姿をそのあたりにはつきりと見せた。
 もとの右大臣の御靈がゆくりなく京のひとりの少女子に憑いて、紫野の向うの北野の小松原の中に住みたいといふ託宣があつたので、それが大宮の奧をも動かして、その年の秋に取敢へず小さやかな宮をそこにつくることになつたが、今年は始めて天滿天神といふ謚號が贈られ、社も宏壯に改築されて、皆人がぞろぞろとそこにお詣りに出かけた。窕子は是非そこにお詣りしたいと思つたけれども、もはやお中が大きくなつて、とても牛車では行かれぬので、たゞその賑ひの氣勢のみを他から聞くことに滿足しなければならなかつた。そこに、窕子の代りにお詣りに出かけて行つた呉葉はもどつて來て、『それは賑かでございました。野道が一杯人で埋まつて、御社のあたりには、餘ほど何うかしないと近寄れないくらゐでした。それに、今日源民の判官が家の子郎黨をあつめて參詣に來て居りましたので、鎧兜が見事で、キラキラと日に光つて、それは本當に見物でした』などと話した。
 それに窕子に取つて嬉しかつたのは、遠くに行つた父の許から安着の報知の來たことだつた。その中には白河の關や安達の鬼塚のことが書いてあつて、とても女子の身では來たいにも來られぬところだなどと書いてあつた。
 八月になると、さしもに凌ぎがたかつた炎暑も次第に凉しくなつて、愛宕から北山にかけて秋の白き雲が靡き、垣根には虫の聲がすだくばかりにきこえた。中秋近い頃には、大内裏で歌會や詩會があつたりして、兼家は忙しさうにあちこちと出かけたが、それでも大抵はちつとでも來てかの女を見舞ふことを例にしてゐた。
 ある夜兼家が行くと、呉葉は飛んで出て來て、
『あ、ちやうどいらしつた。今、お使ひをさし上げようと致してをりましたところでございます……』
『物したか?』
『すこやかな、美しい、それはそれは玉のやうな……』
『男子か?』
『さやうで御座ります』
『それは好かつた……何うかと思うて案じてゐた……。母君は?』
『あちらにゐらつしやれます』
『苦しみはせざつたか?』
『あまりさう深くはお苦しみにもなりませんでした。巳の刻あたりから、さうした氣ざしはございましたけれど……ほんにさし込んでゐらせられたのは申の刻あたりからでございます』
『好かつた、好かつた――』
 そこに母親がやつて來た。母親の顏にもよろこびが溢れてゐた。
『別に……』
『二人ともすこやかで、今よく眠つてをります……。今、使を出さうと存じましたところでした……』
 眠つてゐても、こつそりでもそれを覗はずにはゐられないといふやうに、母親や呉葉の頻りに氣を揉むにも拘らず、兼家はそつとその産室を覗いて見た。そこには几帳が兩方から重なるやうに置いてあるが、灯の光がさう大して明るくないので、そこらに置いてある夜のものなどははつきりとは見えなかつた。
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