田舎教師
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著者名:田山花袋 

       一

 四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市(いち)のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃(たんぼ)にはげんげが咲き、豪家(ごうか)の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(けだ)しを出した田舎(いなか)の姐(ねえ)さんがおりおり通った。
 羽生からは車に乗った。母親が徹夜(てつや)して縫ってくれた木綿(もめん)の三紋(みつもん)の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっとう)を袴(はかま)の上にかけて、梶棒(かじぼう)を上げた。なんとなく胸がおどった。
 清三(せいぞう)の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田(ぎょうだ)から熊谷(くまがや)まで三里の路(みち)を朝早く小倉(こくら)服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍(はべ)る芸妓(げいしゃ)なるものの嬌態(きょうたい)にも接すれば、平生(へいぜい)むずかしい顔をしている教員が銅鑼声(どらごえ)を張(は)り上げて調子はずれの唄(うた)をうたったのをも聞いた。一月(ひとつき)二月(ふたつき)とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母(ふぼ)からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来(おうらい)している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。
 ふと思い出した。
 十日ほど前、親友の加藤郁治(かとういくじ)と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。
「そうしてみると、先生なかなかご執心(しゅうしん)なんだねえ」
「ご執心以上さ!」と郁治は笑った。
「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対(せいはんたい)だッたんだね」
「そうさ」
「不思議だねえ」
「この間、手紙をよこして、『余も卿等(けいら)の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」
 この Physical なしにという言葉は、清三に一種の刺戟(しげき)を与えた。郁治も黙(だま)って歩いた。
 郁治は突然、
「僕には君、大秘密(だいひみつ)があるんだがね」
 その調子が軽かったので、
「僕にもあるさ!」
 と清三が笑って合わせた。
 調子抜けがして、二人はまた黙って歩いた。
 しばらくして、
「君はあの『尾花(おばな)』を知ってるね」
 郁治はこうたずねた。
「知ってるさ」
「君は先生にラヴができるかね」
「いや」と清三は笑って、「ラヴはできるかどうかしらんが、単に外形美(がいけいび)として見てることは見てるさ」
「Aのほうは?」
「そんな考えはない」
 郁治は躊躇(ちゅうちょ)しながら、「じゃ Art は?」
 清三の胸は少しくおどった。「そうさね、機会が来ればどうなるかわからんけれど……今のところでは、まだそんなことを考えていないね」こう言いかけて急にはしゃいだ調子で、
「もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑(おばた)と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね」
「じゃ僕はその方面に進むぞ」
 郁治は一歩を進めた。
 清三は今、車の上でその時のことを思い出した。心臓(しんぞう)の鼓動(こどう)の尋常(じんじょう)でなかったことをも思い出した。そしてその夜日記帳に、「かれ、幸(さち)多(おお)かれ、願はくば幸多かれ、オヽ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き汝(なんじ)の手をもって願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために願ふ」と書いて、机の上に打(う)っ伏(ぷ)したことを思い出した。
 それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷(しぞくやしき)のさびしい暗い夜道(よみち)を通った。その日は女はいなかった。女は浦和に師範(しはん)学校の入学試験を受けに行っていた。
「どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ」
「そんなことはないさ」
「でもねえ……」
「弱いことを言うもんじゃないよ」
「君のようだといいけれど……」
「僕がどうしたッていうんだ?」
「僕は君などと違ってラヴなどのできる柄(がら)じゃないからな」
 清三は郁治をいろいろに慰(なぐさ)めた。清三は友を憫(あわれ)みまた己(おのれ)を憫んだ。
 いろいろな顔と事件とが眼にうつっては消えうつっては消えた。路には榛(はん)のまばらな並木やら、庚申塚(こうしんづか)やら、畠(はた)やら、百姓家やらが車の進むままに送り迎えた。馬車が一台、あとから来て、砂煙(すなけむり)を立てて追(お)い越(こ)して行った。
 郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。
 家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生(はにゅう)在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力(じんりょく)の結果である。
 路のかたわらに小さな門があったと思うと、井泉村役場(いずみむらやくば)という札(ふだ)が眼にとまった、清三は車をおりて門にはいった。
「頼む」
 と声をたてると、奥から小使らしい五十男が出て来た。
「助役さんは出ていらっしゃいますか」
「岸野さんかな」
 と小使は眼をしょぼしょぼさせて反問(はんもん)した。
「ああ、そうです」
 小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っ込んだが、やがて清三は応接室に導(みちび)かれた。応接室といっても、卓(テーブル)や椅子(いす)があるわけではなく、がらんとした普通の六畳で、粗末(そまつ)な瀬戸火鉢がまんなかに置かれてあった。
 助役は肥(ふと)った背(せ)の低(ひく)い男で、縞(しま)の羽織を着ていた。視学からの手紙を見て、「そうですか。貴郎(あなた)が林さんですか。加藤(かとう)さんからこの間その話がありました。紹介状(しょうかいじょう)を一つ書いてあげましょう」こう言って、汚(きた)ない硯(すずり)箱をとり寄せて、何かしきりに考えながら、長く黙って、一通の手紙を書いて、上に三田(みた)ヶ谷(や)村(むら)村長石野栄造様という宛名(あてな)を書いた。
「それじゃこれを弥勒(みろく)の役場に持っていらっしゃい」

       二

 弥勒まではそこからまだ十町ほどある。
 三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠(はた)の向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家(ひらや)造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常(じんじょう)小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読(しょうどく)の声に交(まじ)って、おりおり教師の甲走(かんばし)った高い声が聞こえる。埃(ほこり)に汚(よご)れた硝子(がらす)窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出(で)はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑(しろぶち)の犬がのそのそと餌をあさっていた。
 オルガンの音がかすかに講堂とおぼしきあたりから聞こえて来る。
 学校の門前(もんぜん)を車は通り抜けた。そこに傘屋(かさや)があった。家中(うちじゅう)を油紙やしぶ皿や糸や道具などで散らかして、そのまんなかに五十ぐらいの中爺(ちゅうおやじ)がせっせと傘を張っていた。家のまわりには油を布(し)いた傘のまだ乾(かわ)かないのが幾本となく干(ほ)しつらねてある。清三は車をとどめて、役場のあるところをこの中爺にたずねた。
 役場はその街道に沿(そ)った一かたまりの人家のうちにはなかった。人家がつきると、昔の城址(しろあと)でもあったかと思われるような土手と濠(ほり)とがあって、土手には笹(ささ)や草が一面に繁り、濠には汚ない錆(さ)びた水が樫(かし)や椎(しい)の大木(たいぼく)の影をおびて、さらに暗い寒い色をしていた。その濠に沿って曲(ま)がって一町ほど行った所が役場だと清三は教えられた。かれはここで車代を二十銭払って、車を捨てた。笹藪(ささやぶ)のかたわらに、茅葺(かやぶき)の家が一軒、古びた大和障子(やまとしょうじ)にお料理そば切(きり)うどん小川屋と書いてあるのがふと眼にとまった。家のまわりは畑(はた)で、麦の青い上には雲雀(ひばり)がいい声で低くさえずっていた。
 弥勒(みろく)には小川屋という料理屋があって、学校の教員が宴会をしたり飲み食いに行ったりするということをかねて聞いていた。当分はその料理屋で賄(まかな)いもしてくれるし、夜具も貸してくれるとも聞いた。そこにはお種(たね)というきれいな評判な娘もいるという。清三はあたりに人がいなかったのをさいわい、通りがかりの足をとどめて、低い垣から庭をのぞいてみた。庭には松が二三本、桜の葉になったのが一二本、障子の黒いのがことにきわだって眼についた。
 垣の隅(すみ)には椿(つぱき)と珊瑚樹(さんごじゅ)との厚い緑の葉が日を受けていた。椿には花がまだ二つ三つ葉がくれに残って見える。
 このへんの名物だという赤城(あかぎ)おろしも、四月にはいるとまったくやんで、今は野も緑と黄と赤とで美しくいろどられた。麦の畑を貫(つらぬ)いた細い道は、向こうに見えるひょろ長い榛(はん)の並木に通じて、その間から役場らしい藁葺屋根(わらぶきやね)が水彩(すいさい)画のように見渡される。
 応接室は井泉村役場の応接室よりもきれいであった。そこからは吏員(りいん)の事務をとっている室(へや)が硝子窓をとおしてはっきりと見えた。卓(テーブル)の上には戸籍台帳(こせきだいちょう)やら、収税帳(しゅうぜいちょう)やら、願届(ねがいとど)けを一まとめにした書類やらが秩序(ちつじょ)よく置かれて、頭を分けたやせぎすの二十四五の男と五十ぐらいの頭のはげた爺(じじい)とが何かせっせと書いていた。助役らしい鬚(ひげ)の生(は)えた中年者と土地の勢力家らしい肥った百姓とがしきりに何か笑いながら話していたが、おりおり煙管(きせる)をトントンとたたく。
 村長は四十五ぐらいで、痘痕面(あばたづら)で、頭はなかば白かった。ここあたりによく見るタイプで、言葉には時々武州訛(ぶしゅうなまり)が交(まじ)る。井泉村の助役の手紙を読んで、巻き返して、「私は視学からも助役からもそういう話は聞かなかったが……」と頭を傾(かたむ)けた時は、清三は不思議な思いにうたれた。なんだか狐(きつね)につままれたような気がした。視学も岸野もあまり無責在に過ぎるとも思った。
 村長はしばらく考えていたが、やがて、「それじゃもう内々転任の話もきまったのかもしれない。今いる平田という教員が評判が悪いので、変えるっていう話はちょっと聞いたことがあるから」と言って、
「一つ学校に行って、校長に会って聞いてみるほうがいい!」
 横柄(おうへい)な口のききかたがまずわかいかれの矜持(プライド)を傷つけた。
 何もできもしない百姓の分際(ぶんざい)で、金があるからといって、生意気な奴だと思った。初めての教員、初めての世間への首途(かどで)、それがこうした冷淡(れいたん)な幕で開かれようとはかれは思いもかけなかった。
 一時間後、かれは学校に行って、校長に会った。授業中なので、三十分ほど教員室で待った。教員室には掛図(かけず)や大きな算盤(そろばん)や書籍や植物標本(しょくぶつひょうほん)やいろいろなものが散らばって乱れていた。女教員(じょきょういん)が一人隅のほうで何かせっせと調べ物をしていたが、はじめちょっと挨拶(あいさつ)したぎりで、言葉もかけてくれなかった。やがてベルが鳴る、長い廊下を生徒はぞろぞろと整列してきて、「別れ」をやるとそのまま、蜘蛛(くも)の子を散らしたように広場に散った。今までの静謐(せいひつ)とは打って変わって、足音、号令(ごうれい)の音、散らばった生徒の騒(さわ)ぐ音が校内に満ち渡った。
 校長の背広(せびろ)には白いチョークがついていた。顔の長い、背の高い、どっちかといえばやせたほうの体格で、師範(しはん)校出の特色の一種の「気取(きど)り」がその態度にありありと見えた。知らぬふりをしたのか、それともほんとうに知らぬのか、清三にはその時の校長の心がわからなかった。
 校長はこんなことを言った。
「ちっとも知りません……しかし加藤さんがそう言って、岸野さんもご存じなら、いずれなんとか命令があるでしょう。少し待っていていただきたいものですが……」
 時宜(じぎ)によればすぐにも使者(ししゃ)をやって、よく聞きただしてみてもいいから、今夜一晩(ばん)は不自由でもあろうが役場に宿(とま)ってくれとのことであった。教員室には、教員が出たりはいったりしていた。五十ぐらいの平田という老朽(ろうきゅう)と若い背広の関(せき)という准(じゅん)教員とが廊下の柱の所に立って、久しく何事をか語っていた。二人は時々こっちを見た。
 ベルがまた鳴った。校長も教員もみな出て行った。生徒はぞろぞろと潮(うしお)のように集まってはいって来た。女教員は教員室を出ようとして、じろりと清三を見て行った。
 唱歌の時間であるとみえて、講堂に生徒が集まって、やがてゆるやかなオルガンの音が静かな校内に聞こえ出した。

       三

 村役場の一夜(ひとよ)はさびしかった。小使の室(へや)にかれは寝ることになった。日のくれぐれに、勝手口から井戸のそばに出て、平野をめぐる遠い山々のくらくなるのを眺めていると、身も引き入れられるような哀愁(かなしみ)がそれとなく心をおそって来る。父母(ちちはは)のことがひしひしと思い出された。幼いころは兄弟も多かった。そのころ父は足利(あしかが)で呉服屋をしていた。財産もかなり豊かであった。七歳の時没落して熊谷(くまがや)に来た時のことをかれはおぼろげながら覚えている。母親の泣いたのを不思議に思ったのをも覚えている。今は――兄も弟も死んでしまって自分一人になった今は、家庭の関係についても、他の学友のような自由なことはいっていられない。人のいい父親と弱々しく情愛の深い母親とを持ったこの身は、生まれながらにしてすでに薄倖(はっこう)の運命を得てきたのである。こう思うと、例のセンチメンタルな感情が激(はげ)しく胸に迫(せま)ってきて、涙がおのずと押すように出る。
 近い森や道や畠は名残りなく暮れても、遠い山々の頂(いただき)はまだ明るかった。浅間の煙が刷毛(はけ)ではいたように夕焼けの空になびいて、その末がぼかしたように広くひろがり渡った。蛙(かわず)の声がそこにもここにも聞こえ出した。
 ところどころの農家に灯(ともしび)がとぼって、唄(うた)をうたって行く声がどこか遠くで聞こえる。
 かれはじっと立ちつくしていた。
 ふと前の榛(はん)の並木のあたりに、人の来る気勢(けはい)がしたと思うと、華(はな)やかに笑う声がして、足音がばたばたと聞こえる。小川屋に弁当と夜具を取りに行った小使が帰って来たのだと思っていると、夕闇の中から大きな夜具を被(かず)いた黒い影が浮き出すように動いて来て、そのあとに女らしい影がちょこちょこついて来た。
 小使は室のうちにドサリと夜具を置いて、さも重かったというように呼吸(いき)をついたが、昼間掃除しておいた三分心(ぶじん)の洋燈(らんぷ)に火をとぼした。あたりは急に明るくなった。
「ご苦労でした」
 こう言って、清三が戸内(こない)にはいって来た。
 このとき、清三はそこに立っている娘の色白の顔を見た。娘は携(たずさ)えて来た弁当をそこに置いて、急に明るくなった一室をまぶしそうに見渡した。
「お種坊(たねぼう)、遊んでいくが好(え)いや」
 小使はこんなことを言った。娘はにこにこと笑ってみせた。評判な美しさというほどでもないが、眉(まゆ)のところに人に好かれるように艶(えん)なところがあって、豊かな肉づきが頬(ほお)にも腕にもあらわに見えた。
「お母(っかあ)、加減(あんべい)が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな」
「ああ」
「風邪(かぜ)だんべい」
「寒い思(おも)いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝(うたたね)なぞしているもんだから……風邪(かぜ)を引いちゃったんさ……」
「お母(っかあ)、いい気だからなア」
「ほんとうに困るよ」
「でも、お種坊はかせぎものだから、お母(っかあ)、楽ができらアな」
 娘は黙って笑った。
 しばらくして、
「お客様の弁当は、明日(あした)も持って来るんだんべいか」
「そうよ」
「それじゃ、お休み」
 と娘は帰りかけると、
「まア、いいじゃねえか、遊んでいけやな」
「遊んでなんかいられねえ、これから跡仕舞(あとじま)いしねきゃなんねえ……それだらお休み」と出て行ってしまう。
 弁当には玉子焼きと漬(つ)け物(もの)とが入れられてあった。小使は出流(でなが)れの温(ぬる)い茶をついでくれた。やがて爺(じじい)はわきに行って、内職の藁(わら)を打ち始めた。夜はしんとしている。蛙の声に家も身も埋(う)めらるるように感じた。かれは想像にもつかれ、さりとて読むべき雑誌も持って来なかったので、包みの中から洋紙を横綴(よことじ)にした手帳を出して、鉛筆で日記をつけ出した。
 四月二十五日と前の日に続けて書いて、ふと思いついて鉛筆を倒(さかさ)にして、ゴムでゴシゴシ消した。今日は少なくとも一生のうちで新しい生活にはいる記念の第一日である。小説ならば、編(パアト)が改まるところである。で、かれは頁(ページ)の裏を半分白いままにしておいて、次の頁から新(あら)たに書き始めた。
 四月二十五日、(弥勒(みろく)にて)……
 一頁(ページ)ほど簡単に書き終わって、ついでに今日の費用(かかり)を数えてみた。新郷(しんごう)で買った天狗(てんぐ)煙草が十銭、途中の車代が三十銭、清心丹が五銭、学校で取った弁当が四銭五厘、合計四十九銭五厘、持って来た一円二十銭のうちから差引き七十銭五厘がまだ蝦蟇口(がまぐち)の中に残っていた。続いて今度ここに来るについての費用を計算してみた。
[#ここから横書き]
25.0…………………………認印
22.0…………………………名刺
3.5…………………………歯磨および楊子
8.5…………………………筆二本
14.0…………………………硯
1,15.0…………………………帽子
1,75.0…………………………羽織
30.0…………………………へこ帯
14.5…………………………下駄
―――
4,07.5
[#ここで横書き終わり]
 これに前の七十銭五厘を加えて総計四円七十八銭也と書いて、そしてこの金をつくるについて、父母(ちちはは)の苦心したことを思い出した。わずか一円の金すら容易にできない家庭の憐(あわれ)むべきをつくづく味気(あじき)なく思った。
 夜着(よぎ)の襟(えり)は汚(よご)れていた。旅のゆるやかな悲哀(ひあい)がスウイトな涙を誘(さそ)った。かれはいつかかすかに鼾(いびき)をたてていた。
 翌日は学校の予算表の筆記を頼まれて、役場で一日を暮らした。それがすんでから、父母に手紙を書いて出した。
 夕暮れに校長の家から使いがある。
 校長の家は遠くはなかった。麦の青い畑(はた)のところどころに黄いろい菜の花の一畦(いっけい)が交った。茅葺(かやぶき)屋根の一軒立(だ)ちではあるが、つくりはすべて百姓家の構(かま)えで、広い入り口、六畳と八畳と続いた室(へや)の前に小さな庭があるばかりで、細君のだらしのない姿も、子供の泣き顔も、茶の間の長火鉢も畳の汚(よご)れて破れたのも、表から来る人の眼にみなうつった。校長の室(へや)には学校管理法や心理学や教育時論の赤い表紙などが見えた。
「君にはほんとうに気の毒でした。実はまだ手筈(てはず)だけで、表向(おもてむ)きにしなかったものだからねえ……」
 と言って、細君の運(はこ)んで来た茶を一杯ついで出して、「君もご存じかもしれないが、平田というあの年の老(よ)った教員、あれがもう老朽でしかたがないから、転校か免職かさせようと言っていたところに、ちょうど加藤さんからそういう話があるッて岸野君が言うもんだから、それでお頼(たの)みしようッていうことにしたのでした。ところが少し貴君(あなた)のおいでが早かったものだから……」
 言いかけて笑った。
「そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……」
「それはそうですとも、貴君(あなた)は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着(むとんじゃく)ですからな」
「それじゃその教員がいたんですね?」
「ええ」
「それじゃまだ知らずにおりましたのですか」
「内々は知ってるでしょうけれど……表向きはまだ発表してないんです。二三日のうちにはすっかり村会で決(き)めてしまうつもりですから、来週からは出ていただけると思いますが……」こう言って、少しとぎれて、
「私のほうの学校はみんないい方ばかりで、万事(ばんじ)すべて円(まる)くいっていますから、始めて来た方にも勤めいいです。貴下(あなた)も一つ大いに奮発していただきたい。俸給もそのうちにはだんだんどうかなりますから……」
 煙草(たばこ)を一服吸ってトンとたたいて、
「貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?」
「ええ」
「じゃ一つ、取っておくほうが、万事都合(つごう)がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか」
「少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです」
「どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな」
 学校教授法の実験に興味(きょうみ)を持つ人間と、詩や歌にあくがれている青年とがこうして長く相対(あいたい)してすわった。点心(ちゃうけ)には大きい塩煎餅(しおせんべい)が五六枚盆にのせて出された。校長の細君は挨拶(あいさつ)をしながら、顔の蒼白(あおじろ)い、鼻の高い、眉と眉との間の遠い客の姿を見て、弱々しい人だと思った。次の間(ま)では話をしている間、今年生まれた子がしっきりなしに泣いたが、しかし主(あるじ)はそれをやかましいとも言わなかった。
 襁褓(むつき)があたりに散らばって、火鉢の鉄瓶(てつびん)はカラカラ煮え立っていた。
 中学の話が出る。師範校の話が出る。教授上の経験談が出る。同僚になる人々の噂(うわさ)が出る。清三は思わず興に乗って、理想めいたことやら、家庭のための犠牲ということやらその他いろいろのことを打ち明けて語って、一生小学校の教員をする気はないというようなことまでほのめかした。清三は昨日学校で会った時に似ず、この校長の存外性質のよさそうなところのあるのを発見した。
 校長の語るところによると、この三田ヶ谷という地は村長や子弟の父兄の権力の強いところで、その楫(かじ)を取って行くのがなかなかむずかしいそうである。それに人気もあまりよいほうではない、発戸(ほっと)、上村君(かみむらぎみ)、下村君(したむらぎみ)などいう利根(とね)川寄りの村落では、青縞(あおじま)の賃機(ちんばた)が盛んで、若い男や女が出はいりするので、風俗もどうも悪い。七八歳の子供が卑猥(ひわい)きわまる唄(うた)などを覚えて来てそれを平気で学校でうたっている。
「私がここに来てから、もう三年になりますが、その時分(じぶん)は生徒の風儀はそれはずいぶんひどかったものですよ。初めは私もこんなところにはとてもつとまらないと思ったくらいでしたよ。今では、それでもだいぶよくなったがな」と校長は語った。
 帰る時に、
「明日(あした)は土曜日ですから、日曜にかけて一度行田(ぎょうだ)に帰って来たいと思いますが、おさしつかえはないでしょうか?」
 かれはこうたずねた。
「ようござんすとも……それでは来週から勤めていただくように……」
 その夜はやはり役場の小使室(べや)に寝た。

       四

 朝起きると春雨(はるさめ)がしとしとと降っていた。
 ぬれた麦の緑と菜の花の黄いろとはいつもよりはきわだって美しく野をいろどった。村の道を蛇(じゃ)の目(め)傘(がさ)が一つ通って行った。
 清三は八時過ぎに、番傘(ばんがさ)を借りて雨をついて出た。それには三田ヶ谷村役場と黒々と大きく書きつけてあった。
 小川屋のかたわらの川縁(かわべり)の繁みからは、雨滴(あまだ)れがはらはらと傘の上に乱れ落ちた。錆(さ)びた黒い水には蠑□(いもり)が赤い腹を見せている。ふと街道の取つきの家から、小川屋のお種という色白娘が、白い手拭いで髪をおおったまま、傘もささずに、大きな雨滴(あまだ)れの落ちる木陰(こかげ)を急いで此方(こなた)にやって来たが、二三歩前で、清三と顔見合わせて、ちょっと会釈(えしゃく)して笑顔を見せて通り過ぎた。
 学校はまだ授業が始まらぬので、門から下駄箱の見えるほとりには、生徒の傘がぞろぞろと続いた。男生徒も女生徒も多くは包みを腰のところにしょって尻をからげて歩いて来る。雨の降る中をぬれそぼちながら、傘を車の輪のように地上に回して来る頑童(わっぱ)もあれば、傘の柄を頸(くび)のところで押さえて、編棒(あみぼう)と毛糸とを動かして歩いて来る十二三の娘もあった。この生徒らを来週からは自分が教えるのだと思って、清三はその前を通った。
 明方(あけがた)から降り出した雨なので、路(みち)はまだそうたいして悪くなかった。車や馬の通ったところはグシャグシャしているが、拾えば泥濘(どろ)にならぬところがいくらもある。路の縁(ふち)の乾いた土には雨がまだわずかにしみ込んだばかりであった。
 井泉村の役場に助役を訪ねてみたが、まだ出勤していなかった。路に沿った長い汚ない溝(どぶ)には、藻(も)や藺(い)や葦(あし)の新芽や沢瀉(おもだか)がごたごたと生(は)えて、淡竹(またけ)の雨をおびた藪(やぶ)がその上におおいかぶさった。雨滴(あまだ)れがばらばら落ちた。
 路のほとりに軒の傾(かた)むいた小さな百姓家があって、壁には鋤(すき)や犁(くわ)や古い蓑(みの)などがかけてある。髪の乱れた肥った嚊(かかあ)が柱によりかかって、今年生まれた赤児(あかご)に乳を飲ませていると、亭主らしい鬚面(ひげづら)の四十男は、雨に仕事のできぬのを退屈そうに、手を伸ばして大きなあくびをしていた。
 鎮守(ちんじゅ)の八幡宮の茅葺(かやぶき)の古い社殿は街道から見えるところにあった。華表(とりい)のかたわらには社殿修繕の寄付金の姓名と額(たか)とが古く新しく並べて書いてある。周囲(しゅうい)の欅(けやき)の大木にはもう新芽がきざし始めた。賽銭(さいせん)箱の前には、額髪(ひたいがみ)を手拭いで巻いた子傅(こもり)が二人、子守歌を調子よくうたっていた。
 昨日の売れ残りのふかし甘薯(いも)がまずそうに並べてある店もあった。雨は細く糸のようにその低(ひく)き軒をかすめた。
 畑にはようやく芽を出しかけた桑、眼もさめるように黄いろい菜の花、げんげや菫(すみれ)や草の生(は)えている畔(あぜ)、遠くに杉や樫(かし)の森にかこまれた豪農の白壁(しらかべ)も見える。
 青縞を織る音がところどころに聞こえる。チャンカラチャンカラと忙しそうな調子がたえず響いて来る。時にはあたりにそれらしい人家も見えないのに、どこで織ってるのだろうと思わせることもある。唄(うた)が若々しい調子で聞こえて来ることもある。
 発戸河岸(ほっとかし)のほうにわかれる路(みち)の角(かど)には、ここらで評判だという饂飩(うどん)屋があった。朝から大釜(おおがま)には湯がたぎって、主(あるじ)らしい男が、大きなのべ板にうどん粉をなすって、せっせと玉を伸ばしていた。赤い襷(たすき)をかけた若い女中が馴染(なじみ)らしい百姓と笑って話をしていた。
 路の曲がったところに、古い石が立ててある。維新前からある境界石で、「これより羽生領(はにゅうりょう)」としてある。
 ひょろ長い榛(はん)の片側並木が田圃(たんぼ)の間に一しきり長く続く。それに沿って細い川が流れて萌(も)え出した水草のかげを小魚(こうお)がちょろちょろ泳いでいる。羽生から大越(おおごえ)に通う乗合馬車が泥濘(どろ)を飛ばして通って行った。
 来る時には、路傍(みちばた)のこけら葺(ぶき)の汚ないだるま屋の二階の屋根に、襟垢(えりあか)のついた蒲団(ふとん)が昼の日ののどかな光に干されて、下では蒼白い顔をした女がせっせと張(は)り物(もの)をしていたが、今日は障子がびっしゃりと閉じられて、日当たりの悪いところには青ごけの生えたのが汚なく眼についた。
 だんだん道が悪くなって来た。拾って歩いてもピシャピシャしないようなところはもうなくなった。足の踵(かかと)を離さないようにして歩いても、すりへらした駒下駄からはたえずハネがあがった。風が出て雨も横しぶきになって袖(そで)もぬれてしまった。
 羽生の町はさびしかった。時々番傘や蛇の目傘が通るばかり、庇(ひさし)の長く出た広い通りは森閑(しんかん)としている。郵便局の前には為替(かわせ)を受け取りに来た若い女が立っているし、呉服屋の店には番頭と小僧とがかたまって話をしているし、足袋(たび)屋の店には青縞と雲斎織(うんさいお)りとが積(つ)み重ねられたなかで、職人がせっせと足袋(たび)を縫っていた。新式に硝子(がらす)戸の店を造った唐物屋(とうぶつや)の前には、自転車が一個、なかばは軒の雨滴(あまだ)れにぬれながら置かれてある。
 町の四辻には半鐘台(はんしょうだい)が高く立った。
 そこから行田道(ぎょうだみち)はわかれている。煙草屋(たばこや)、うどん屋、医師(いしゃ)の大きな玄関、塀(へい)の上にそびえている形のおもしろい松、吹井(ふきい)が清い水をふいている豪家の前を向こうに出ると、草の生(は)えた溝(みぞ)があって、白いペンキのはげた門に、羽生分署という札がかかっている。巡査が一人、剣をじゃらつかせて、雨の降りしきる中を出て来た。
 それからまた裏町の人家が続いた。多くはこけら葺(ぶき)の古い貧しい家並(な)みである。馬車屋の前に、乗合馬車が一台あって、もう出るとみえて、客が二三人乗り込んでいた。清三は立ちどまって聞いたが、あいにくいっぱいで乗せてもらう余地がなかった。
 清三の姿はなおしばらくその裏町の古い家並みの間に見えていたが、ふと、とある小さな家の大和障子(やまとしょうじ)をあけてはいって行った。中には中年のかみさんがいた。
「下駄を一つ貸していただきたいんですが……、弥勒(みろく)から雨に降られてへいこうしてしまいました」
「お安いご用ですとも」
 かみさんは足駄(あしだ)を出してくれた。
 足駄(あしだ)の歯はすれて曲がって、歩きにくいこと一通りでなかった。駒下駄(こまげた)よりはいいが、ハネはやっぱり少しずつあがった。
 かれはついに新郷(しんごう)から十五銭で車に乗った。

       五

 家は行田町(ぎょうだまち)の大通りから、昔の城址(しろあと)のほうに行く横町にあった。角(かど)に柳の湯という湯屋があって、それと対して、きれいな女中のいる料理屋の入り口が見える。棟割(むねわり)長屋を一軒仕切ったというような軒の低い家で、風雨にさらされて黒くなった大和障子(やまとしょうじ)に糸のような細い雨がはすに降りかかった。隣には蚕(かいこ)の仲買(なかが)いをする人が住んでいて、その時節になると、狭い座敷から台所、茶の間、入り口まで、白い繭(まゆ)でいっぱいになって、朝から晩までごたごたと人が出はいりするのが例であるが、今は建(た)てつけの悪い障子がびっしゃりと閉(しま)って、あたりがしんとしていた。
 清三は大和障子をがらりとあけて中にはいった。
 年のころ四十ぐらいの品のいい丸髷(まるまげ)に結(ゆ)った母親が、裁物板(たちものいた)を前に、あたりに鋏(はさみ)、糸巻き、針箱などを散らかして、せっせと賃仕事をしていたが、障子があいて、子息(せがれ)の顔がそこにあらわれると、
「まア、清三かい」
 と呼んで立って来た。
「まア、雨が降ってたいへんだったねえ!」
 ぬれそぼちた袖やら、はねのあがった袴(はかま)などをすぐ見てとったが、言葉をついで、
「あいにくだッたねえ、お前。昨日の工合いでは、こんな天気になろうとは思わなかったのに……ずっと歩いて来たのかえ」
「歩いて来(こ)ようと思ったけれど、新郷(しんごう)に安いかえり車があったから乗って来た」
 見なれぬ足駄(あしだ)をはいているのを見て、
「どこから借りて来たえ、足駄(あしだ)を?」
「峰田(みねだ)で」
「そうかえ、峰田で借りて来たのかえ……。ほんとうにたいへんだったねえ」こう言って、雑巾(ぞうきん)を勝手から持って来ようとすると、
「雑巾ではだめだよ。母(おっか)さん。バケツに水を汲んでくださいな」
「そんなに汚れているかえ」
 と言いながら勝手からバケツに水を半分ほど汲んで来る。
 乾いた手拭(てぬぐ)いをもそこに出した。
 清三はきれいに足を洗って、手拭いで拭いて上にあがった。母親はその間に、結城縞(ゆうきじま)の綿入れと、自分の紬(つむぎ)の衣服(きもの)を縫い直した羽織とをそろえてそこに出して、脱いだ羽織と袴(はかま)とを手ばしこく衣紋竹(えもんだけ)にかける。
 二人はやがて長火鉢の前にすわった。
「どうだったえ?」
 母親は鉄瓶(てつびん)の下に火をあらけながら、心にかかるその様子(ようす)をきく。
 かいつまんで清三が話すと、
「そうだってねえ、手紙が今朝着いたよ。どうしてそんな不都合なことになっていたんだろうねえ」
「なあに、少し早く行き過ぎたのさ」
「それで、話はどうきまったえ?」
「来週から出ることになった」
「それはよかったねえ」
 喜びの色が母親の顔にのぼった。
 それからそれへと話は続いた。校長さんはどういう人だの、やさしそうな人かどうかの、弥勒(みろく)という所はどんなところかの、下宿するよいところがあったかのと、いろいろなことを持ち出して母親は聞いた。清三はいちいちそれを話して聞かせた。
「お父(とっ)さんは?」
 しばらくして、清三がこうきいた。
「ちょっと下忍(しもおし)まで行ッて来るッて出かけて行ったよ。どうしても少しお銭(あし)をこしらえて来なくってはッてね……。雨が降るから、明日(あした)にしたらいいだろうと言ったんだけれど……」
 清三は黙ってしまった。貧しい自分の家のことがいまさらに頭脳(あたま)にくり返される。父親の働きのないことがはがゆいようにも思われるが、いっぽうにはまた、好人物(こうじんぶつ)で、善人で、人にだまされやすい弱い鈍い性質を持っていながら、贋物(にせもの)の書画(しょが)を人にはめることを職業にしているということにはなはだしく不快を感じた。正直なかれの心には、父親の職業は人間のすべき正業ではないようにつねに考えられているのである。
 だまされさえしなければ、今でも相応(そうおう)な呉服屋の店を持っていられたのである。こう思うと、何も知らぬ母親に対する同情とともに、正業でない職業とはいいながら、こうした雨の降る日に、わずか五十銭か一円の銭で、一里もあるところに出かけて行く老いた父親を気の毒に思った。
 やがて鉄瓶(てつびん)がチンチン音を立て始めた。
 母親は古い茶箪笥(ちゃだんす)から茶のはいった罐(かん)と急須(きゅうす)とを取った。茶はもう粉(こ)になっていた。火鉢の抽斗(ひきだ)しの紙袋には塩煎餅(しおせんべい)が二枚しか残っていなかった。
 清三は夕暮れ近くまで、母親の裁縫(しごと)するかたわらの暗い窓の下で、熊谷(くまがや)にいる同窓の友に手紙を書いたり、新聞を読んだりしていた。友の手紙には恋のことやら詩のことやら明星(みょうじょう)派の歌のことやら我ながら若々しいと思うようなことを罫紙(けいし)に二枚も三枚も書いた。
 四時ごろから雨ははれた。路はまだグシャグシャしている。父親が不成功で帰って来たので、家庭の空気がなんとなく重々しく、親子三人黙って夕飯を食(く)っていると、「ご免なさい」という声を先にたてて、建(た)てつけの悪い大和障子(やまとしょうじ)をあけようとする人がある。
 母親が立って行って、
「まア……さあ、どうぞ」
「いいえ、ちょっと、湯に参りましたのですが、帰りにねえ、貴女(あなた)、お宅へあがって、今日は土曜日だから、清三さんがお帰りになったかどうか郁治(いくじ)がうかがって来いと申しますものですから……いつもご無沙汰ばかりいたしておりましてねえ、まアほんとうに」
「まア、どうぞおかけくださいまし……、おや雪さんもごいっしょに、……さア、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ」
 と女同士はしきりにしゃべりたてる。郁治の妹の雪子はやせぎすなすらりとした田舎(いなか)にはめずらしいいい娘だが、湯上がりの薄く化粧(けしょう)した白い顔を夕暮れの暗くなりかけた空気にくっきりと浮き出すように見せて、ぬれ手拭いに石鹸箱を包んだのを持って立っていた。
「さア、こんなところですけど……」
「いいえ、もうそうはいたしてはおりませんから」
「それでもまア、ちょっとおかけなさいましな」
 この会話にそれと知った清三は、箸(はし)を捨てて立ってそこに出て来た。母親どもの挨拶し合っている向こうに雪子の立っているのをちょっと見て、すぐ眼をそらした。
 郁治の母親は清三の顔を見て、
「お帰りになりましたね、郁治が待っておりますから……」
「今夜あがろうと思っていました」
「それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし、毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれも淋(さび)しくってしかたがないとみえましてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……」
 郁治の母親はやがて帰って行く。清三も母親もふたたび茶湯台(ちゃぶだい)に向かった。親子はやはり黙って夕飯を食った。
 湯を飲む時、母親は急に、
「雪さん、たいへんきれいになんなすったな!」
 とだれに向かって言うともなく言った。けれどだれもそれに調子を合わせるものもなかった。父親の茶漬けをかき込む音がさらさらと聞こえた。清三は沢庵(たくあん)をガリガリ食った。日は暮れかかる。雨はまた降り出した。

       六

 加藤の家は五町と隔たっておらなかった。公園道のなかばから左に折れて、裏町の間を少し行くと、やがていっぽう麦畑いっぽう垣根(かきね)になって、夏は紅(くれない)と白の木槿(もくげ)が咲いたり、胡瓜(きゅうり)や南瓜(とうなす)が生(な)ったりした。緑陰(りょくいん)の重(かさ)なった夕闇に螢(ほたる)の飛ぶのを、雪子やしげ子と追い回したこともあれば、寒い冬の月夜を歌留多(かるた)にふかして、からころと跫音(あしおと)高く帰って来たこともあった。細い巷路(こうじ)の杉垣の奥の門と瓦屋根、それはかれにとってまことに少なからぬ追憶(おもいで)がある。
 今日は桜の葉をとおして洋燈(らんぷ)の光がキラキラと雨にぬれて光っていた。雪子の色の白いとりすました顔や、繁子のあどけなくにこにこと笑って迎えるさまや、晩酌に酔って機嫌よく話しかける父親の様子(ようす)などがまだ訪問せぬうちからはっきりと目に見えるような気がする。笑い声がいつも絶えぬ平和な友の家庭をうらやましく思ったことも一度や二度ではなかった。
 郡視学といえば、田舎(いなか)ではずいぶんこわ持(も)てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質(たち)のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味(おもみ)があると人から思われていた。鬚(ひげ)はなかば白く、髪にもチラチラ交(まじ)っているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。清三と郁治と話している室(へや)に来ては、二人を相手にいろいろなことを語った。
 門をあけると、ベルがチリチリンと鳴った。踏み石をつたって、入り口の格子戸の前に立つと、洋燈(らんぷ)を持って迎えに出たしげ子の笑顔が浮き出すように闇の中にいる清三の眼にうつった。
「林さん?」
 と、のぞくようにして見て、
「兄さん、林さん」
 と高い無邪気な声をたてる。
 父親は今日熊谷に行って不在であった。子供がいないので、室がきれいに片づいている。掃除も行き届いて、茶の間の洋燈(らんぷ)も明るかった。母親は長火鉢の前に、晴れやかな顔をしてすわっていた。雪子は勝手で跡仕舞(あとじま)いをしていたが、ちょうどそれが終わったので、白い前掛けで手を拭き拭き茶の間に来た。
 挨拶をしていると、郁治は奥から出て来て、清三をそのまま自分の書斎につれて行った。
 書斎は四畳半であった。桐(きり)の古い本箱が積み重ねられて、綱鑑易知録(こうかんいちろく)、史記、五経、唐宋八家本(とうそうはっかぶん)などと書いた白い紙がそこに張られてあった、三尺の半床(はんどこ)の草雲(そううん)の蘭の幅(ふく)のかかっているのが洋燈(らんぷ)の遠い光におぼろげに見える。洋燈(らんぷ)の載(の)った朴(ほお)の大きな机の上には、明星、文芸倶楽部、万葉集、一葉全集などが乱雑に散らばって置かれてある。
 一年も会わなかったようにして、二人は熱心に話した。いろいろな話が絶え間なく二人の口から出る。
「君はどう決(き)まった?」
 しばらくして清三がたずねた。
「来年の春、高等師範(しはん)を受けてみることにした。それまでは、ただおってもしかたがないからここの学校に教員に出ていて、そして勉強しようとおもう……」
「熊谷(くまがや)の小畑(おばた)からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて」
「そう、君のところにも言って来たかえ、僕のところにも言って来たよ」
「小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ」
「そう書いてあったね」
「どこにはいるつもりだろう?」
「小島は第一を志願するらしい」
「杉谷は?」
「先生はどうするんだか……どうせ、先生は学費になんか困らんのだから、どうでも好きにできるだろう」
「この町からも東京に行くものはあるかね?」
「そう」と郁治は考えて「佐藤は行くようなことを言っていたよ」
「どういう方面に?」
「工業学校にはいるつもりらしい」
 同窓に関する話がつきずに出た。清三の身にしては、将来の方針を定めて、てんでに出たい方面に出て行く友だちがこのうえもなくうらやましかった。中学校にいるうちから、卒業してあとの境遇をあらかじめ想像せぬでもなかったが、その時はまたその時で、思わぬ運が思わぬところから向いて来ないとも限らないと、しいて心を安んじていた。けれどそれは空想であった。家庭の餓(うえ)は日に日にその身を実際生活に近づけて行った。
 かれはまた母親から優(やさ)しい温かい血をうけついでいた。幼い時から小波(さざなみ)のおじさんのお伽噺(とぎばなし)を読み、小説や歌や俳句に若い思いをわかしていた。体(からだ)の発達するにつれて、心は燃えたり冷えたりした。町の若い娘たちの眼色(めつき)をも読み得るようにもなった。恋の味もいつか覚えた。あるデザイアに促されて、人知れず汚ない業をすることもあった。世間は自分の前におもしろい楽しい舞台をひろげていると思うこともあれば、汚ない醜(みにく)い近づくべからざる現象を示していると思うこともある。自己の満(みた)しがたい欲望と美しい花のような世界といかになり行くかを知らぬ自己の将来とを考える時は、いつも暗いわびしいたえがたい心になった。
 熊谷にいる友人の恋の話から Art の君の話が出る。
「僕は苦しくってしかたがない」
「どうかする方法がありそうなもんだねえ」
 二人はこんなことを言った。
「昨日公園で会ったんさ。ちょっと浦和から帰って来たんだッて、先生、いたずらに肥えてるッていう形だッた」
 郁治はこう言って笑った。
「いたずらに肥えてるはいいねえ」
 清三も笑った。
「君のシスタアが友だちだし、先生のエルダアブラザアもいるんだし、どうにか方法がありそうなもんだねえ」
「まア、放っておいてくれ、考えると苦しくなる」
 胸にひそかに恋を包める青年の苦しさというような顔を郁治はして見せた。前にみずからも言ったように、郁治は好男子ではなかった。男らしいきっぱりとしたところはあるが、体格の大きい、肩の怒った、眼の鋭い、頬骨の出たところなど、女に好(す)かれるような点はなかった。
 若い者の苦しむような煩悶(はんもん)はかれの胸にもあった。清三にくらべては、境遇もよかった。家庭もよかった。高等師範にはいれぬまでも、東京に行って一二年は修業するほどの学費は出してやる気が父親にもある。それに体格がいいだけに、思想も健全で、清三のようにセンチメンタルのところはない。清三が今度の弥勒(みろく)行きを、このうえもない絶望のように――田舎(いなか)に埋(うずも)れて出られなくなる第一歩であるかのように言ったのを、「だッて、そんなことはありゃしないよ、君、人間は境遇に支配されるということは、それはいくらかはあるには違いないが、どんな境遇からでも出ようと思えば、出て来られる」と言ったのでも、郁治の性格の一部はわかる。
 その時、清三は、
「君はそういうけれど、それは境遇の束縛の恐ろしいことを君が知らないからだよ、つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ」
「そんなことはないよ」
「いや、僕はそう思うねえ、僕はこれっきり埋(うも)れてしまうような気がしてならないよ」
「僕はまた、かりに一歩譲(ゆず)って、人間がそういう種類の動物であると仮定しても、そういう消極的な考えには服従していられないねえ」
「じゃ、どんな境遇からでも、その人の考え一つで抜け出ることができるというんだねえ」
「そうさ」
「つまりそうすると、人間万能論だね、どんなことでもできないことはないという議論だね」
「君はじきそう極端に言うけれど、それはそこに取り除(の)けもあるがね」
 その時いつもの単純な理想論が出る。積極的な考えと消極的な考えとがごたごたと混合して要領を得ずにおしまいになった。
 かれらの群れは学校にいるころから、文学上の議論や人生上の議論などをよくした。新派の和歌や俳句や抒情文などを作って、互いに見せ合ったこともある。一人が仙骨(せんこつ)という号をつけると、みな骨という字を用いた号をつけようじゃないかという動議が出て、破骨(はこつ)だの、洒骨(しゃこつ)だの、露骨(ろこつ)だの、天骨(てんこつ)だの、古骨(ここつ)だのというおもしろい号ができて、しばらくの間は手紙をやるにも、話をするにも、みんなその骨の字の号を使った。古骨というのは、やはり郁治や清三と同じく三里の道を朝早く熊谷に通(かよ)った連中(れんちゅう)の一人だが、そのほんとうの号は機山(きざん)といって、町でも屈指(くっし)の青縞商(あおじましょう)の息子で、平生(へいぜい)は角帯(かくおび)などをしめて、つねに色の白い顔に銀縁(ぎんぶち)の近眼鏡をかけていた。田舎(いなか)の青年に多く見るような非常に熱心な文学好(ず)きで、雑誌という雑誌はたいてい取って、初めはいろいろな投書をして、自分の号の活字になるのを喜んでいたが、近ごろではもう投書でもあるまいという気になって、毎月の雑誌に出る小説や詩や歌の批評を縦横にそのなかまにして聞かせるようになった。それに、投書家交際(づきあい)をすることが好きで、地方文壇の小さな雑誌の主筆とつねに手紙の往復をするので、地方文壇消息(しょうそく)には、武州行田(ぶしゅうぎょうだ)には石川機山(きざん)ありなどとよく書かれてあった。時の文壇に名のある作家も二三人は知っていた。
 やはり骨の字の号をつけた一人で――これは文学などはあまりわかるほうではなく、同じなかまにおつき合いにつけてもらった組であるが、かれの兄が行田町に一つしかない印刷業をやっていて、その前を通ると、硝子戸の入り口に、行田印刷所と書いたインキに汚れた大きい招牌(かんばん)がかかっていて、旧式な手刷りが一台、例の大きなハネを巻(ま)き返(かえ)し繰り返し動いているのが見える。広告の引(ひ)き札や名刺が主(おも)で、時には郡役所警察署の簡単な報告などを頼まれて刷(す)ることもあるが、それはきわめてまれであった、棚に並べたケースの活字も少なかった。文選も植字も印刷も主(あるじ)がみな一人でやった。日曜日などにはその弟が汚れた筒袖(つつそで)を着て、手刷り台の前に立って、刷(す)れた紙を翻(ひるがえ)しているのをつねに見かけた。
 金持ちの息子(むすこ)と見て、その小遣いを見込んで、それでそそのかしたというわけでもあるまいが、この四月の月の初めに、機山がこの印刷所に遊びに来て、長い間その主人兄弟と話して行ったが、帰る時、「それじゃ毎月七八円ずつ損するつもりなら大丈夫だねえ、原稿料は出さなくったって書(か)き手はたくさんあるし、それに二三十部は売れるアね」と言った顔は、新しい計画に対する喜びに輝いていた。「行田文学」という小雑誌を起こすことについての相談がその連中の間に持ち上がったのはこれからである。
 機山がその相談の席で、
「それから、羽生(はにゅう)の成願寺(じょうがんじ)に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原香花(はらきょうか)の原稿ももらえるよ」
「あの古城ッていう人はここの士族だッていうじゃないか」
「そうだッて……。だから、賛成員にするのはわけはないさ」
 ちょうど清三が弥勒(みろく)に出るようになった時なので、かれがまずその寺を訪問する責任を仲間から負わせられた。
 その夜、「行田文学」の話が出ると、郁治が、
「寄ってみたかね?」
「あいにく、雨に会っちゃッたものだから」
「そうだったね」
「今度行ったら一つ寄ってみよう」
「そういえば、今日荻生(おぎゅう)君が羽生に行ったが会わなかったかねえ」
「荻生君が?」と清三は珍しがる。
 荻生君というのは、やはりその仲間で、熊谷の郵便局に出ている同じ町の料理店の子息(むすこ)さんである。今度羽生局に勤めることになって、今車で行くというところを郁治は町の角(かど)で会った。
「これからずッと長く勤めているのかしら」
「むろんそうだろう。羽生の局をやっているのは荻生君の親類だから」
「それはいいな」
「君の話相手ができて、いいと僕も思ったよ」
「でも、そんなに親しくはないけれど……」
「じき親しくなるよ、ああいうやさしい人だもの……」
 そこにしげ子が「昼間こしらえたのですから、まずくなりましたけれど……」とお萩餅(はぎ)を運んで、茶をさして来た。そのまま兄のそばにすわって、無邪気な口(くち)ぶりで二言(こと)三言(こと)話していたが、今度は姉の雪子が丈(たけ)の高い姿をそこにあらわして、「兄さん、石川さんが」という。
 やがて石川がはいって来た。
 座に清三がいるのを見て、
「君のところに今寄って来たよ」
「そうか」
「こっちに来たッてマザアが言ったから」こう言って石川はすわって、「先生がうまくつとまりましたかね?」
 清三は笑っている。
 郁治は、「まだできるかできないか、やってみないんだとさ」
 とそばから言う。
 雪子もしげ子も石川の顔を見ると、挨拶(あいさつ)してすぐ引っ込んで行ってしまった。郁治と清三と話している間は、話に気がおけないので、よく長くそばにすわっているが、他人が交(まじ)るとすましてしまうのがつねである。それほど清三と郁治とは交情(なか)がよかった。それほど清三とこの家庭とは親しかった。郁治と清三との話しぶりも石川が来るとまるで変わった。
「いよいよ来月の十五日から一号を出そうと思うんだがね」
「もうすっかり決(き)まったかえ」
「東京からも大家では麗水(れいすい)と天随(てんずい)とが書いてくれるはずだ……。それに地方からもだいぶ原稿が来るからだいじょうぶだろうと思うよ」
 こう言って、地方の小雑誌やら東京の文学雑誌やらを五六種出したが、岡山地方で発行する菊版二十四頁(ページ)の「小文学」というのをとくに抜き出して、
「たいていこういうふうにしようと思うんだ。沢田(印刷所)にも相談してみたが、それがいいだろうと言うんだけれど、どうも中の体裁(ていさい)はあまり感心しないから、組み方なんかは別にしようと思うんだがね」
「そうねえ、中はあまりきれいじゃないねえ」と二人は「小文学」を見ている。
「これはどうだろう」
 と二段十八行二十四字詰めのを石川は見せた。
「そうねえ」
 三人は数種の雑誌をひるがえしてみた。郁治の持っている雑誌もそこに参考に出した。洋燈(らんぷ)は額(ひたい)を集めた三人の青年とそこに乱雑に散らかった雑誌とをくっきり照らした。
 やがてその中の一つにあらかた定(き)まる。
 石川の持って来た雑誌の中に、「明星」の四月号があった。清三はそれを手に取って、初めは藤島武二や中沢弘光の木版画のあざやかなのを見ていたが、やがて、晶子(あきこ)の歌に熱心に見入った。新しい「明星派」の傾向が清三のかわいた胸にはさながら泉のように感じられた。
 石川はそれを見て笑って、
「もう見てる。違ったもんだね、崇拝者(すうはいしゃ)は!」
「だって実際いいんだもの」
「何がいいんだか、国語は支離滅裂(しりめつれつ)、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ」
 いつかもやった明星派是非(ぜひ)論、それを三人はまたくり返して論じた。

       七

 夜はもう十二時を過ぎた。雨滴(あまだ)れの音はまだしている。時々ザッと降って行く気勢(けはい)も聞き取られる。城址(しろあと)の沼のあたりで、むぐりの鳴く声が寂しく聞こえた。
 一室には三つ床が敷いてあった。小さい丸髷(まるまげ)とはげた頭とが床を並べてそこに寝ていた。母親はつい先ほどまで眼を覚ましていて、「明日眠いから早くおやすみよ」といく度となく言った。
「ランプを枕元(まくらもと)につけておいて、つい寝込(ねこ)んでしまうと危いから」とも忠告した。その母親も寝てしまって、父親の鼾(いびき)に交って、かすかな呼吸(いき)がスウスウ聞こえる。さらぬだに紙の笠(かさ)が古いのに、先ほど心(しん)が出過ぎたのを知らずにいたので、ホヤが半分ほど黒くなって、光線がいやに赤く暗い。清三は借りて来た「明星」をほとんどわれを忘れるほど熱心に読(よ)み耽(ふけ)った。
椿それも梅もさなりき白かりきわが罪問はぬ色(いろ)桃(もも)に見る
 わが罪問はぬ色桃に見る、桃に見る、あの赤い桃に見ると歌った心がしみじみと胸にしみた。不思議なようでもあるし、不自然のようにも考えられた。またこの不思議な不自然なところに新しい泉がこんこんとしてわいているようにも思われた。色(いろ)桃(もも)に見ると四の句と五の句を分けたところに言うに言われぬ匂いがあるようにも思われた。かれは一首ごとに一頁(ページ)ごとに本を伏せて、わいて来る思いを味わうべく余儀なくされた。この瞬間には昨夜役場に寝たわびしさも、弥勒(みろく)から羽生(はにゅう)まで雨にそぼぬれて来た辛(つら)さもまったく忘れていた。ふと石川と今夜議論をしたことを思い出した。あんな粗(あら)い感情で文学などをやる気が知れぬと思った。それに引きかえて、自分の感情のかくあざやかに新しい思潮に触れ得るのをわれとみずから感謝した。渋谷の淋(さび)しい奥に住んでいる詩人夫妻の佗(わ)び住居(ずまい)のことなどをも想像してみた。なんだか悲しいようにもあれば、うらやましいようにもある。かれは歌を読むのをやめて、体裁(ていさい)から、組み方から、表紙の絵から、すべて新しい匂いに満たされたその雑誌にあこがれ渡った。
 時計が二時を打っても、かれはまだ床の中に眼を大きくあいていた。
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