狂人日記
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著者名:ゴーゴリニコライ 

   一日
 使節の悠長さ加減にも呆れかへる。一體どんな故障があつて、かう遲れてるのだらう? また佛蘭西が邪魔だてをしてるのかな? 何しろ一番仲の惡い國だからなあ。郵便局まで出掛けて行つて、まだ西班牙から使節は到着してゐないかと訊いてみたが、郵便局長つたら話にならん間拔野郎で、何んにも知りやあがらない。その言ひ草がかうだ。『西班牙の使節なんてものは來てゐませんねえ。しかし手紙が出したいのなら、規定の料金で受けつけますがね。』と。馬鹿にしてやがる! 手紙がなんだい? 手紙なんて、全くくだらないものさ。手紙は藥劑師の書くもので、それも豫め酢で舌を濡(しめ)してから書かないと、顏ぢゆうに疱疹(ぶつぶつ)が出て堪つたものぢやないて。

   マドリッドにて二月三十日
 さて、おれは西班牙へ來てしまつた。それがまた、あんまり出し拔けだつたので、おれは夢に夢みる心持だ。けさ西班牙の使節がやつて來たので、いつしよに場所に乘り込んだが、そのまた速力がいやどうも、なみ大抵のものではなかつた。疾風迅雷のやうに走つたので、三十分ばかりの後にはもう西班牙の國境へ到着してゐた。尤も當今は歐羅巴ぢゆうに鐡道が敷設されて、汽船なども途轍もない速力で走る世の中だからなあ。それはさうと、西班牙つて實に不思議なところだ! ひよいと取つつきの部屋へ入ると、頭を毬栗坊主にした人間がうじやうじやゐるんだ。ははん、これは西班牙の大公か兵士なんだなと、おれは推察した。――でなきや、頭を剃つてゐる筈がない。總理大臣がおれの手を執つて案内したが、その扱ひが甚だ怪しからんと思つた。奴はこのおれを小つぽけな部屋へ押し込んでからに、その言ひ草がどうだらう――『さあ、そこにおとなしく坐つとるんだ。これからはフェルヂナンド王だなんて名乘ると、懲(こ)らしめのために毆(ぶ)ちのめされるぞ。』だが、それは試しに過ぎないことを知つてゐたので、おれが奴に逆らふと、總理大臣め棍棒で二度おれの背中を毆りつけをつた。あまりの痛さに危(あぶ)なく悲鳴をあげるところだつたが、いやいや、西班牙といふ國には今だに騎士道が行はれてゐるのだから、屹度これは至高の位に登る際に受ける騎士の作法に違ひないと思つて、じつと押しこらへた。一人になると、おれは政務を親裁することにした。ふと發見したことだが、支那と西班牙とはまつたく同國なのに無學なばかりに誰でもそれを別々の國のやうに思つてゐるのだ。論より證據、紙の上に西班牙と書いてみるがよい――西班牙と書いたのが、いつの間にやら支那となつてゐるから。だが、それよりも明日に迫つてゐる大事件が頭痛の種だ。明日の七時に奇怪な現象が起る――地球が月に乘つかかるのだ。これに就いては既に英吉利の有名な科學者ウエリントンも書いてゐる。まつたくの話が、おれは月の至つて軟らかで脆いことを想像すると、ほんとに心配で心配でたまらない。大抵、月は漢堡(ハンブルグ)でこしらへてゐるが、どうも出來がよくない。英吉利がそれに目をつけないのがおれには不思議でならん。跛(びつこ)の桶屋が拵らへてゐるのだが、こいつが馬鹿で、てんで月に就いての知識を辨まへてゐないらしい。材料に樹脂(やに)をひいた綱を用ひ、木油も少しはまぜるので、地球全體におそろしく惡臭が漂ひ、鼻の孔に栓をする必要が起る。そのために出來た月が至つて軟らかな球體で、とても人間には住まはれなくて、今あすこには鼻だけが住んでゐる。だから人間は自分の鼻を見ることが出來ないのだ。それといふのも鼻が月の世界へ行つてゐるからさ。地球は重い物體だから、こいつが乘つかつた日には、われわれの鼻は粉微塵に潰れてしまふと考へるとおれはもう居ても立つてもゐられなくなつたので、靴下をはき、半靴をつつかけざま、大急ぎで參議院の議事堂へ駈けつけた――警察に命じて、月に乘つからせないやうに地球を取り押へさせようと思つたからだ。議事堂には、毬栗頭の大公たちがわんさとゐたが、この連中は物の道理をよく辨まへてゐたから、おれが『皆の者よく承はれ、地球が月に乘つからうとしてゐるのぢや、月を救つてとらせようぞ!』といふと、一同は言下におれの君命を果さうとて馳せ集まり、多くの者は壁へ擧ぢのぼつて月をつかまへようとしたが、丁度その時、例の總理大臣が入つて來た。それを見ると、一同は四方八方へと逃げ散つたが、おれは王のこととて一人あとに殘つてゐると驚ろいたことに總理大臣め、おれを棍棒でひつぱたきながら、もとの部屋へと追ひこんでしまつた。西班牙ではこのとほり民風に權威があるのだ!

   如月の後に改まつた同じ年の一月
 今だに西班牙といふ國の正體が掴めない。民風といひ、宮廷の儀禮といひ、まるで尋常一樣のものではない。分らない、どうも分らない、何もかもがさつぱり分らない。今日なども、坊主になんかなるのは厭だといつて、おれが一生懸命に喚いたけれど、たうとう頭を剃つてしまやがつた。しかし、冷たい水を頭にぶつかけられた時の氣持は、どうも憶えがない。兎に角あんな厭な想ひをしたのは生れて初めてだ。おれは狂人(きちがひ)のやうに暴れだすところだつたが、大勢の者に抑へつけられてしまつた。まつたく奇態な風習で、何のことやらさつぱり譯が分らん。愚にもつかぬ無意味な風習さ! こんな惡風をこれまで廢(よ)させなかつた歴代の王の無分別さ加減が分らない。かれこれ思ひ合はせると、どうもおれは宗教裁判の手にひつかかつたのぢやないかと思ふ。だがさうすると、おれは總理大臣だと思つてゐたのが、さしづめ大審問官といふところだ。それにしても、王樣が宗教裁判にかけられるといふのは、どうも腑に落ちないことだ。しかし佛蘭西がは殊にポリニヤックが絲をひいてをれば、何ともいへん。第一あのポリニヤックといふ奴が曲者なんだ! あいつはおれに死ぬまで祟つて、邪魔だてをしようと誓ひを立ててやがるんだ! それでかう、後から後からと迫害をしやがるんだが、へん、おれはちやんと知つてるぞ、貴樣は英吉利人のからくりで踊つてるのぢやないか。英吉利人つて奴は大の策士だからなあ。奴は到るところへ首を突つこむのさ。英吉利が煙草を嗅げば佛蘭西が嚔めをするくらゐのことは、もう世界ぢゆうに知れ渡つてらあな。

   二十五日
 今日また大審問官がおれの部屋へやつて來たが、遠くの方でその跫音が聞こえるなり、おれは椅子の下へ身を隱してしまつた。彼奴はおれの姿が見えないものだから、呼びにかかつた。初めに『ポプリーシチン!』と大聲で呼んだが、おれは返辭をしなかつた。すると今度は、『アクセンチイ・イワーノフ! 士族の九等官!』と呼んだが、おれはやはり默つてゐた。すると、『フェルヂナンド八世、西班牙の王樣!』とおいでなすつた。おれは思はず首を出さうとしたが、『どつこいその手は食はないぞ! 分つてらあ、また人の頭へ冷水をぶつかけるつもりだらう。』と、すぐに思ひとどまつた。しかし彼奴は間もなくおれを見つけると、棍棒で椅子の下からおれを小突き出した。呪はしい棍棒だ、そいつで毆(どや)されると堪らなく痛い。とはいへ、さうした苦しみも忘れて嬉しかつたのは、けふの發見だ――雄鷄にはどの雄鷄にもそれぞれ西班牙があつて、それは尾に近い羽交(はがひ)の下に隱れてゐることをおれは發見したのだ。かんかんに憤つた大審問官は、おれに何らかの懲罰を加へると言つて威しておいて出て行つた。しかし彼奴なんか幾ら憤つたつて高が知れてるから、おれはすっかり輕蔑してゐる。なあに、あいつは英吉利人の手先に使はれて機械のやうに動いてゐるだけさ。

   三百四十九年、月二[#「月二」は180度回転]、三十四日
 いや、おれはもうどうにも我慢が出來ない。噫、あ! なんて酷いことをしやがるのだ! 頭からは冷水をぶつかけやがる! 奴らは情けもなければ、容赦もなく、てんでおれの言ふことなんか取りあげないのだ。おれが奴らに何か惡いことでもしただらうか? どうしてかう虐めるだらう? おれのやうな貧乏人から何を取らうといふのだらう! いつたい何かやれるとでも思ふのだらうか? おれは何ひとつ持つてやしない。これではもうもうとても堪らん、かう酷い目にあはされては我慢が出來ん。頭がかつと燃えるやうで、眼の前の物がぐるぐる□る。助けてくれい! 連れてつてくれい! 疾風(はやて)のやうによく走る三頭立の馬をつけてくれい! さあさ馭者も乘つたり、鈴も鳴れ、馬も元氣に跳ねあがり、世界の果てまで連れ出してくれ! 何もかも見えなくなるまでどんどん走れ。さあさ、もつと遠くへとつとと駈けろ。あれあれ、空があすこへ舞ひあがり、遠くの方では星がきらきら光つてる。森が黒い樹と飛びや月も走る。足もとには銀鼠の霧が棚びき、霧の中では絃の音(ね)がする。片方には海がひろがり、片方には伊太利が見える。あれ、向ふの方に露西亞の百姓家が見えてゐる。あの青ずんで見えるのはおれの生家(うち)ではないか? 窓に坐つてゐるのはお袋ではないか? お母さん、この哀れな伜を助けて下さい! 惱める頭にせめて涙でも一滴(しづ)くそそいで下さい! これ、このやうに酷(むご)い目にあはされてゐるのです! その胸に可哀さうなこの孤兒(みなしご)を抱きしめて下さい! 廣い世の中に身の置きどころもなく、みんなから虐(いた)めつけられてゐるのです!……お母さん、この病氣の息子を憐れんで下さい!……ええとアルジェリアの總督の鼻の下に瘤のあるのを御存じかね?

――一八三四年作――



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