「香水の表情」に就いて
著者名:大手拓次
三
もの忘れした時のやうに、おぼえもあらぬ残り香の漂ひきて薄明(うすあかり)のなかをそぞろあるきするにも似た心地に誘はれることがある。
香水の持つ、この expression(表情)の魅惑は、更に鋭い感性の探針によつて、いよいよ豊かに、その盛りあがり、湧(わ)きたつ幻想曲を吾々の前に現出する。
香水は、それを愛用するものに、見知らぬ国を与へるのだ。薄明と夢との交錯する国でありうつらうつらとした青き白日夢(デードリーム)の国である。また、限りない漂泊の旅路の想ひの国である。
そこに、香水撰択の至難がある。譬へていへば、その表情のハイフエツツの優婉に似通ひしもの、エルマンの甘さに似通ひしもの、ヂンバリストの寂びに似通ひしもの又は、イサドラダンカンの舞踊に、あの華やかなりし頃のニヂンスキーの「牧神の午後」の怪奇さに相通ずるものなど、吾々近代人の香水の選び方は様々の聯想を強ひられる。
◇
若し、日本音楽を愛し、歌舞伎劇を愛し、紫の色を愛(め)で、白緑の色を好み、紺蛇(こんじや)の目を好き而も、近代ジヤズに魅力を感ずる女性あらば、如何なる香水がふさはしいか。マリー・ローランサンの画のやうな香水が好(い)いだらう。あのおぼろげな、眼のない、五月の空気のやうな感情を持てる女の、動物との遊戯の雰囲気。この雰囲気こそ、うつてつけのものだらう。
リラ・ブランの甘さをキイノートとし、これにバイオレツト・リーブスのやうな快い野性味を極少量伴奏させ、更にジヤスマンの古典風景で包んだとしたら如何であらう、この女性に似合はしくはないか。
◇
時代の刺戟が、吾々をとりまくことの激しさにつれて、吾々の神経系統は著しく敏感になつてきてゐる。
百合の香に堪へられない人、赤薔薇の香に堪へられない人、リラの香に堪へられない人等(とう)が出てくる。そして、いよいよ香気の「ほのかさ」に向つて、心が誘はれるやうになる。この「ほのかさ」を愛すやうになつてやうやく香水使用の第一門に入つたのだ。
◇
香水を選ぶのには、まづ大体次の如き二十五種の「感じ」の鍵の助に依ることが便利である。――二十五と限つた訳ではなく数限りなくあるが、茲では、主なるものを挙げたにすぎない。
すなはち、ある一つの香水を対象として、見つめつつ行つてとぎすまされた感性の触手を動かし、斯くて、その香水から放射される二十五(無限)の「感じ」の一つ一つを味ひ尽すのである。その時、香水は、残るくまなく打ちとけて、親しみの手をさしのべるのだ。
1 速度感 14 性別感
2 重量感 15 硬度感
3 形態感 16 角度感
4 音響感 17 容貌感
5 時刻感 18 性格感
6 季節感 19 生物感
7 言語感 20 光度感
8 年齢感 21 触感
9 韻律感 22 粘着感
10 方位感 23 湿度感
11 振幅感 24 運命感
12 色彩感 25 生長感
13 金属感
――図解参照を乞ふ
◇
さうして、この「感じ」が一つ一つ認められるとともに、また全体が共鳴(ともな)りして、絶えまない水の流れゆくやうな交響楽を奏するのである。
で、この綜合感と個々の感じとは、即(つ)き、離れ、即き、離れつつ諧調をなし、破調をなして旋回するのだ。
その波紋を作つて進みきたり吾々に呼びかける、香水の表情の幻想の渦は、それぞれに、ある統一のもとに動いてゐる。その幻想の渦の形と色と速度とは、それを感じる者の感情の質量とによつて千変万化することは言ふまでもないが、その限りない変化の中に、なほ分つことの出来ない「自然の特質」が貫き漂つてゐる。
◇
けれども、その人の持つ感覚世界が一定の型のなかにとどまつてゐて、香水の発する放射線と快き合流を為(し)ない時は、その香水は、その人にとつて「開かざる蕾の花」であるか、又は、「半開の花」である。
かういふ人は、香水の話しかける言葉を読み得ない人である。香水の言葉と自分の感情とが手を結びあはせないのである。その言葉のこゑが聞えないのである。
香水の言葉を読みうるやうに成るためには、単純な花の香料から入つてゆき、最後に香料の極秘の殿堂に漫歩すべきであらう。
◇
ここに難問がある。heliotrope(エリオトロープ)(天然香料)と heliotropine(エリオトロピーヌ)(人工香料)との如き二つのものの表情的差別である。この二者は、放射する外貌は同じやうであるけれど、後者の方は前者に比して、表情線がこはばつてゐて、前者のやうな豊富な言葉の波動と幻想量とを有してゐない。二者の比較は、しかし、なかなかむづかしい。
総じて人工香料の香気の表情は沈澱性を帯び、その渦紋の回転数も少なく、どこかしら金属性の影を偲ばせるのが欠点である。そして、微(かす)かながらも、吾吾の夢幻への飛翔に対し、ある種の反撥性を蔵してゐる。
けれどもです、自然の和(なご)みのなかに溶け入る黄金の針のやうに微動し戦慄する感受性を開花させないならば、人工香料の平面的な、固定的な、直線的な表情でも、十分に酔(ゑ)ふことが出来るかもしれない。
要するに、香水を真に味ふには、見えざる感性の触手をはぐくみそだてることが捷径だ。
吾々の見えざる触手が感覚の花の盛りを呼びきたすならば、香水の移りゆく香気は、まどみ(ママ)のなかに羽を搏(う)つ蝶のごとく、彼方此方に吾々の感情の色どりを植ゑてゆくだらう。
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