藍色の蟇
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:大手拓次 

水草(みづくさ)のやうなやはらかいくちびる、
はづかしさと夢とひかりとでしなしなとふるへてゐるおまへのかほ。


  雪のある国へ帰るお前は

風のやうにおまへはわたしをとほりすぎた。
枝にからまる風のやうに、
葉のなかに真夜中をねむる風のやうに、
みしらぬおまへがわたしの心のなかを風のやうにとほりすぎた。
四月だといふのにまだ雪の深い北国(ほつこく)へかへるおまへは、
どんなにさむざむとしたよそほひをしてゆくだらう。
みしらぬお前がいつとはなしにわたしの心のうへにちらした花びらは、
きえるかもしれない、きえるかもしれない。
けれども、おまへのいたいけな心づくしは、
とほい鐘のねのやうにいつまでもわたしをなぐさめてくれるだらう。


  焦心のながしめ

むらがりはあをいひかりをよび、
きえがてにゆれるほのほをうづめ、
しろく しろく あゆみゆくこのさびしさ。
みづのおもての花でもなく、
また こずゑのゆふぐれにかかる鳥のあしおとでもなく、
うつろから うつろへとはこばれる焦心(せうしん)のながしめ、
欝金香(うつこんかう)の花ちりちりと、
こころは 雪をいただき、
こころは みぞれになやみ、
こころは あけがたの細雨(ほそあめ)にまよふ。


  四月の顔

ひかりはそのいろどりをのがれて、
あしおともかろく
かぎろひをうみつつ、
河のほとりにはねをのばす。
四月の顔はやはらかく、
またはぢらひのうちに溶(と)けながら
あらあらしくみだれて、
つぼみの花の裂(さ)けるおとをつらねてゆく。
こゑよ、
四月のあらあらしいこゑよ、
みだれても みだれても
やはらかいおまへの顔は
うすい絹のおもてにうつる青い蝶蝶の群れ咲(ざ)き


  季節の色

たふれようとしてたふれない
ゆるやかに
葉と葉とのあひだをながれるもの、
もののみわけもつかないほど
のどかにしなしなとして
おもてをなでるもの、
手のなかをすべりでる
かよわいもの、
いそいそとして水にたはむれる風の舌、
みづいろであり、
みどりであり、
そらいろであり、
さうして 絶えることのない遥かな銀の色である。
わたしの身はうごく、
うつりゆくいろあひのなかに。


  四月の日

日は照る、
日は照る、
四月の日はほのほのむれのやうに
はてしなく大空のむなしさのなかに
みなぎりあふれてゐます。
花は熱気にのぼせて、
うはごとを言ひます。
傘のやうに日のゆれる軟風(なんぷう)はたちはだかり、
とびあがる光の槍をむかへます。
日は照る、
日は照る、
あらあらしく紺青(こんじやう)の布をさいて、
らんまんと日は照りつづけます。


  月に照らされる年齢

あめいろにいろどられた月光のふもとに
ことばをさしのべて空想の馬にさやぐものは、
わきたつ無数のともしびをてらして ひそみにかくれ、
闇のゆらめく舟をおさへて
ふくらむ心の花をゆたかにこぼさせる。
かはりゆき、うつりゆき、
つらなりゆき、
まことに ひそやかに 月のながれに生きる年頃。


  月をあさる花

そのこゑはなめらかな砂のうへをはしる水貝(みづがひ)のささやき、
したたるものはまだらのかげをつくつてけぶりたち、
はなびらをはがしてなげうち、
身をそしり、
ほのじろくあへぐ指環(ゆびわ)のなかに
かすみゆく月をとらへようとする。
ひらいてゆけよ、
ひとり ものかげにくちびるをぬらす花よ。


  しろいものにあこがれる

このひごろの心のすずしさに
わたしは あまたのしろいものにあこがれる。
あをぞらにすみわたつて
おほどかにかかる太陽のしろいひかり、
蘆のはかげにきらめくつゆ、
すがたとなく かげともなく うかびでる思ひのなかのしろい花ざかり、
熱情のさりはてたこずゑのうらのしろい花、
また あつたかいしろい雪のかほ、
すみしきる十三のをとめのこころ、
くづれても なほたはむれおきあがる青春のみどりのしろさ、
四月の夜の月のほほゑみ、
ほのあかい紅(べに)をふくんだ初恋のむねのときめき、
おしろいのうつくしい鼻のほのじろさ ほのあをさ、
くらがりにはひでる美妙(びめう)な指のなまめかしい息のほめき、
たわわなふくらみをもち ともしびにあへぐあかしや色の乳房の花、
たふれてはながれみじろぐねやの秘密のあけぼののあをいいろ、
さみだれに ちらちらするをんなのしろくにほふ足。
それよりも 寺院のなかにあふれる木蓮(もくれん)の花の肉、
それよりも 色のない こゑのない かたちのない こころのむなしさ、
やすみをもとめないで けむりのやうにたえることなくうまれでる肌のうつりぎ、
月はしどろにわれて生物(いきもの)をつつみそだてる。


  夢をうむ五月

粉(こ)をふいたやうな みづみづとしたみどりの葉つぱ、
あをぎりであり、かへでであり、さくらであり、
やなぎであり、すぎであり、いてふである。
うこんいろにそめられたくさむらであり、
まぼろしの花花を咲かせる昼のにほひであり、
感情の糸にゆたゆたとする夢の餌(ゑ)をつける五月、
ただよふものは ときめきであり ためいきであり かげのさしひきであり、
ほころびとけてゆく香料の波である。
思ひと思ひとはひしめき、
はなれた手と手とは眼をかはし、
もすそになびいてきえる花粉の蝶、
人人も花であり、樹樹も花であり、草草も花であり、
うかび ながれ とどまつて息づく花と花とのながしめ、
もつれあひ からみあひ くるしみに上気する むらさきのみだれ花、
こゑはあまく 羽ばたきはとけるやうに耳をうち、
肌のひかりはぬれてふるへる朝のぼたんのやうにあやふく、
こころはほどのよい湿りにおそはれてよろめき、
みちもなく ただ そよいでくるあまいこゑにいだかれ、
みどりの泡をもつ このすがすがしいはかない幸福、
ななめにかたむいて散らうともしない迷ひのそぞろあるき、
恐れとなやみとの網にかけられて身をほそらせる微風の卵。


  莟から莟へあるいてゆく人

まだ こころをあかさない
とほいむかうにある恋人のこゑをきいてゐると、
ゆらゆらする うすあかいつぼみの花を
ひとつひとつ あやぶみながらあるいてゆくやうです。
その花の
ひとの手にひらかれるのをおそれながら、
かすかな ゆくすゑのにほひをおもひながら、
やはらかにみがかれたしろい足で
そのあたりをあるいてゆくのです。
ゆふやみの花と花とのあひだに
こなをまきちらす花蜂(はなばち)のやうに
あなたのみづみづしいこゑにぬれまみれて、
ねむり心地(ごこち)にあるいてゆくのです。


  六月の雨

六月はこもるあめ、くさいろのあめ、
なめくぢいろのあめ、
ひかりをおほひかくして窓(まど)のなかに息をはくねずみいろのあめ、
しろい顔をぬらして みちにたたずむひとのあり、
たぎりたつ思ひをふさぐぬかのあめ、みみずのあめ、たれぬののあめ、
たえまないをやみのあめのいと、
もののくされであり、やまひであり、うまれである この霖雨(ながあめ)のあし、
わたしはからだの眼といふ眼をふさいでひきこもり、
うぶ毛の月のほとりにふらふらとまよひでる。


  卵の月

そよかぜよ そよかぜよ、
わたしはあをいはねの鳥、
みづはながれ、
そよかぜはむねをあたためる。
この しつとりとした六月の日は
ものをふくらめ こころよくたたき、
まつしろい卵をうむ。
そよかぜのしめつたかほも
なつかしく心をおかし、
まつしろい卵のはだのなめらかなかがやき、
卵よ 卵よ
あをいはねをふるはして卵をながめる鳥、
まつしろ 卵よ ふくらめ ふくらめ、
はれた日に その肌をひらひらとふくらませよ。


  春の日の女のゆび

この ぬるぬるとした空気のゆめのなかに、
かずかずのをんなの指といふ指は
よろこびにふるへながら かすかにしめりつつ、
ほのかにあせばんでしづまり、
しろい丁字草(ちやうじさう)のにほひをかくして のがれゆき、
ときめく波のやうに おびえる死人の薔薇をあらはにする。
それは みづからでた魚(うを)のやうにぬれて なまめかしくひかり、
ところどころに眼をあけて ほのめきをむさぼる。
ゆびよ ゆびよ 春のひのゆびよ、
おまへは ふたたびみづにいらうとする魚(うを)である。


  黄色い接吻

もう わすれてしまつた
葉かげのしげりにひそんでゐる
なめらかなかげをのぞかう。
なんといふことなしに
あたりのものが うねうねとした宵でした。
をんなは しろいいきもののやうにむづむづしてゐました。
わたしのくちびるが
魚(うを)のやうに
はを はを はを はを はを
それは それは
あかるく きいろい接吻でありました。


  頸をくくられる者の歓び

指をおもうてゐるわたしは
ふるへる わたしの髪の毛をたかくよぢのぼらせて、
げらげらする怪鳥(くわいてう)の寝声(ねごゑ)をまねきよせる。
ふくふくと なほしめやかに香気をふくんで霧のやうにいきりたつ
あなたの ゆびのなぐさみのために、
この 月の沼によどむやうな わたしのほのじろい頸をしめくくつてください。
わたしは 吐息(といき)に吐息をかさねて、
あなたのまぼろしのまへに さまざまの死のすがたをゆめみる。
あつたかい ゆらゆらする蛇のやうに なめらかに やさしく
あなたの美しい指で わたしの頸をめぐらしてください。
わたしの頸は 幽霊船(いうれいぶね)のやうにのたりのたりとして とほざかり、
あなたの きよらかなたましひのなかにかくれる。
日毎に そのはれやかに陰気な指をわたしにたはむれる
さかりの花のやうにまぶしく あたらしい恋人よ、
わたしの頸に あなたの うれはしいおぼろの指をまいてください。


  死は羽団扇のやうに

この夜(よる)の もうろうとした
みえざる さつさつとした雨のあしのゆくへに、
わたしは おとろへくづれる肉身の
あまい怖ろしさをおぼえる。
この のぞみのない恋の毒草の火に
心のほのほは 日に日にもえつくされ、
よろこばしい死は
にほひのやうに その透明なすがたをほのめかす。
ああ ゆたかな 波のやうにそよめいてゐる やすらかな死よ、
なにごともなく しづかに わたしのそばへ やつてきてくれ。
いまは もう なつかしい死のおとづれは
羽団扇(はうちは)のやうにあたたかく わたしのうしろに ゆらめいてゐる。


  雪が待つてゐる

そこには雪がまつてゐる、
そこには青い透明な雪が待つてゐる、
みえない刃をならべて
ほのほのやうに輝いてゐる。

船だねえ、
雪のびらびらした顔の船だねえ、
さういふものが、
いつたりきたりしてうごいてゐるのだ。

だれかの顔がだんだんのびてきたらしい。


  髪

おまへのやはらかい髪の毛は
ひるの月である。
ものにおくれる はぢらひをつつみ、
ちひさな さざめきをふくみ、
あかるいことばに 霧をまとうてゐる。
おまへのやはらかい髪の毛は、
そらにきえようとする ひるの月である。


  夕暮の会話

おまへは とほくから わたしにはなしかける、
この うすあかりに、
この そよともしない風のながれの淵に。
こひびとよ、
おまへは ゆめのやうに わたしにはなしかける、
しなだれた花のつぼみのやうに
にほひのふかい ほのかなことばを、
ながれぼしのやうに きらめくことばを。
こひびとよ、
おまへは いつも ゆれながら、
ゆふぐれのうすあかりに
わたしとともに ささめきかはす。


  道化服を着た骸骨

この 槍衾(やりぶすま)のやうな寂しさを のめのめとはびこらせて
地面のなかに ふしころび、
野獣のやうにもがき つきやぶり わめき をののいて
颯爽としてぎらぎらと化粧する わたしの艶麗な死のながしめよ、
ゆたかな あをめく しかも純白の
さてはだんだら縞の道化服を着た わたしの骸骨よ、
この人間の花に満ちあふれた夕暮に
いつぴきの孕(はら)んだ蝙蝠のやうに
ばさばさと あるいてゆかうか。


  あをい馬

なにかしら とほくにあるもののすがたを
ひるもゆめみながら わたしはのぞんでゐる。
それは
ひとひらの芙蓉の花のやうでもあり、
ながれゆく空の 雲のやうでもあり、
わたしの身を うしろからつきうごかす
よわよわしい しのびがたいちからのやうでもある。
さうして 不安から不安へと、
砂原のなかをたどつてゆく
わたしは いつぴきのあをい馬ではないだらうか。


  青い吹雪がふかうとも

おまへのそばに あをい吹雪がふかうとも
おまへの足は ひかりのやうにきらめく。
わたしの眼にしみいるかげは
二月のかぜのなかに実(み)をむすび、
生涯のをかのうへに いきながらのこゑをうつす。
そのこゑのさりゆくかたは
そのこゑのさりゆくかたは、
ただしろく いのりのなかにしづむ。


  朝の波
   ――伊豆山にて――

なにかしら ぬれてゐるこころで
わたしは とほい波と波とのなかにさまよひ、
もりあがる ひかりのはてなさにおぼれてゐる。
まぶしいさざなみの草、
おもひの縁(ふち)に くづれてくる ひかりのどよもし、
おほうなばらは おほどかに
わたしのむねに ひかりのはねをたたいてゐる。


  白い階段

かげは わたしの身をさらず、
くさむらにうつらふ足長蜂(あしながばち)の羽鳴(はなり)のやうに、
火をつくり ほのほをつくり、
また うたたねのとほいしとねをつくり、
やすみなくながれながれて、
わたしのこころのうへに、
しろいきざはしをつくる。


  しろい火の姿

わたしは 日のはなのなかにゐる。
わたしは おもひもなく こともなく 時のながれにしたがつて、
とほい あなたのことに おぼれてゐる。
あるときは ややうすらぐやうにおもふけれど、
それは とほりゆく 昨日(きのふ)のけはひで、
まことは いつの世に消えるともない
たましひから たましひへ つながつてゆく
しろい しろい 火のすがたである。


  みづいろの風よ

かぜよ、
松林(しやうりん)をぬけてくる 五月の風よ、
うすみどりの風よ、
そよかぜよ、そよかぜよ、ねむりの風よ、
わたしの髪を なよなよとする風よ、
わたしの手を わたしの足を
そして夢におぼれるわたしの心を
みづいろの ひかりのなかに 覚(さ)まさせる風よ、
かなしみとさびしさを
ひとつひとつに消してゆく風よ、
やはらかい うまれたばかりの銀色の風よ、
かぜよ、かぜよ、
かろくうづまく さやさやとした海辺の風よ、
風はおまへの手のやうに しろく つめたく
薔薇の花びらのかげのやうに ふくよかに
ゆれてゐる ゆれてゐる、
わたしの あはいまどろみのうへに。


  睫毛のなかの微風

そよかぜよ、
こゑをしのんでくる そよかぜよ、
ひそかのささやきにも似た にほひをうつす そよかぜよ、
とほく 旅路のおもひをかよはせる そよかぜよ、
しろい 子鳩の羽(はね)のなかにひそむ そよかぜよ、
まつ毛のなかに 思ひでの日をかたる そよかぜよ、
そよかぜよ、そよかぜよ、ひかりの風よ、そよかぜは
胸のなかにひらく 今日(けふ)の花 昨日(きのふ)の花 明日(あした)の花。


  そよぐ幻影

あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、
あなたは はてしなくくもりゆく こゑのなかのひとつの魚(うを)、
こころを したたらし、
ことばを おぼろに けはひして、
あをく かろがろと ゆめをかさねる。
あなたは みづのうへに うかび ながれつつ
ゆふぐれの とほいしづけさをよぶ。

あなたは すがたのない うみのともしび、
あなたは たえまなく うまれでる 生涯の花しべ、
あなたは みえ、
あなたは かくれ、
あなたは よろよろとして わたしの心のなかに 咲きにほふ。

みづいろの あをいまぼろしの あゆみくるとき、
わたしは そこともなく ただよひ、
ふかぶかとして ゆめにおぼれる。

ふりしきる ささめゆきのやうに
わたしのこころは ながれ ながれて、
ほのぼのと 死のくちびるのうへに たはむれる。

あなたは みちもなくゆきかふ むらむらとしたかげ、
かげは にほやかに もつれ、
かげは やさしく ふきみだれる。


  薔薇の散策

     1

地上のかげをふかめて、昏昏とねむる薔薇の唇。

     2

白熱の俎上にをどる薔薇、薔薇、薔薇。

     3

しろくなよなよとひらく、あけがた色の勤行(ごんぎやう)の薔薇の花。

     4

刺(とげ)をかさね、刺(とげ)をかさね、いよいよに にほひをそだてる薔薇の花。

     5
翅(つばさ)のおとを聴かんとして 水鏡(みづかがみ)する 喪心(さうしん)の あゆみゆく薔薇

     6

ひひらぎの葉(は)のねむるやうに ゆめをおひかける 霧色(きりいろ)の薔薇の花。

     7

いらくさの影(かげ)にかこまれ 茫茫とした色をぬけでる 真珠色の薔薇の花。

     8

黙祷の禁忌のなかにさきいでる 形(かたち)なき蒼白の 法体(ほつたい)の薔薇の花。

     9

欝金色の月に釣られる 盲目の ただよへる薔薇。

     10

ひそまりしづむ木立(こだち)に 鐘をこもらせるうすゆきいろの薔薇の花。

     11

すぎさりし月光にみなぎる 雨の薔薇の花。

     12

吐息をひらかせる ゆふぐれの 喘(あへ)ぎの薔薇の花。

     13

ひねもすを嗟嘆する 南の色の薔薇の花。

     14

火のなかにたはむれる 真昼の靴をはいた黒耀石の薔薇の花。

     15

くもり日(び)の顔に映る 大空の窗(まど)の薔薇の花。

     16

掌(て)はみづにかくれ 微風(そよかぜ)の夢をゆめみる 未生(みしやう)の薔薇の花。

     17

鵞毛(がもう)のやうにゆききする 風にさそはれて朝化粧(あさげしやう)する薔薇の花。

     18

みどりのなかに 生(お)ひいでた 手も足も風にあふれる薔薇の花。

     19

眼にみえぬ ゆふぐれのなみだをためて ひとつひとつにつづりあはせた 紅玉色(こうぎよくいろ)の薔薇の花。

     20

現(うつつ)なるにほひのなかに 現(うつつ)ならぬ思ひをやどす 一輪のしづまりかへる薔薇の花。

     21

眼と眼のなかに 空色の時をはこぶ ゆれてゐる 紅(あか)と黄金(こがね)の薔薇の花。

     22

朝な朝な ふしぎなねむりをつくる わすられた耳朶色(みみたぶいろ)のばらのはな。

     23

かなしみをつみかさねて みうごきもできない 影と影とのむらがる 瞳色(ひとみいろ)のばらのはな。

     24

ゆたゆたに にほひをたたへ 青春を羽ばたく 風のうへのばらのはな。

     25

陽(ひ)の色のふかまるなかに 突風のもえたつなかに なほあはあはと手をひらく薄月色(うすづきいろ)の薔薇の花。

     26

またたきのうちに 香(か)をこめて みちにちらばふ むなしい大輪のばらのはな。

     27

はだらの雪のやうに 傷心の夢に刻(きざ)まれた 類のない美貌のばらのはな。

     28

悔恨の虹におびえて ゆふべの星をのがれようとする 時をわすれた 内気な 内気なばらのはな。

     29

魚(うを)のやうにねむりつづける 瀲□(れんえん)としたみづのなかの かげろふ色のばらの花。

     30

白鳥(はくてう)をよんでたはむれ 夜の霧にながされる 盲目(めしひ)のばらのはな。

     31

あをうみの 底にひそめる薔薇(ばら)の花、とげとげとしてやはらかく 香気(にほひ)の鐘(かね)をうちならす薔薇の花。

     32

けはひにさへも 心ときめき しぐれする ゆふぐれの 風にもまれるばらのはな。

     33

あをぞらのなかに 黄金色(こがねいろ)の布(ぬの)もてめかくしをされた薔薇の花。

     34

微笑の砦(とりで)もて 心を奥へ奥へと包んだ 薄倖のばらのはな。

     35

欝積する笛のねに 去(さ)りがての思慕をつのらせる 青磁色のばらのはな。

     36

さかしらに みづからをほこりしはかなさに くづほれ 無明の涙に さめざめとよみがへる薔薇の花。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:66 KB

担当:undef