病状
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著者名:牧野信一 

 彼は私が訊ねもしないのに、切りとそんな弁解めいたことを口走つたりした。
 眼ばかりが、らんらんと光つてゐる男だつた。私は明るみの中を歩く彼の姿を、はじめて眺めた。前こゞみにのめり工合の細く骨張つた肩先きを、物を言ふ毎に角度をつけて振り向くと、おこつた蟷螂に似てゐた。
「この河のふちを半みちも歩かなければならないんですよ。」
「さしづめ、これは河童だな…‥」
 彼は、片方に弁当の折、片方に仕事道具らしい手提袋をぶらさげた両腕を、二つの提灯でも持つたやうにさゝげて、田甫道をすたすたと先へ立つた。
 恰度離室(はなれ)が六畳八畳の二間なので、私はもと/\からの南向きの六畳に、彼は西向きの部屋に、わかれた。
 私は夜になつても町へ戻らぬ日がつゞきはぢめた。――仕事部屋に引き籠つてゐる彼は、屡々ひとりで鴉のやうなワラヒ声をたてるのであつた。
 私は襖越しに彼の鑿の音を聞きながら夜をこめて机に向つてゐた。――私は、日記を書くより他に術がなかつた。
「R、非常なる酒に酔ひて現れ、隣り村の茶屋へ吾を誘ふ。吾は一滴の酒も飲めぬものなり、Rは、吾を指して自殺の怕れが感ぜられると云ひたり。」
 私の日記にはそんな個所があつた。Rといふのは叔父である。
「Rの車に送られて部屋に戻ると、隣室よりは鑿の音切りなり。その音にせかれて机に向ふものゝ、Rに対して決して思ひ切つたことの云へぬ自分の意久地なさのみが省みられて憮然たるばかりなり。御面師と共に旅立ちたいものよ。」
「Rの叔母が来て泣く。Rの行状に関してなり。叔母はもう五年来Rと別居してゐるといふ。K村のRの家へ叔母を案内する。大勢の親類のうちで、やさしい心をもつてゐる者は、お前さんひとりだと云つて叔母はみちみちも泣き止まず、自分は唇を噛むおもひ――。Rの家の前で叔母と別れる。やさしい心だなどと云はれるのは斯んなにも切ないものかとおもふと、そゞろに自棄を覚ゆるなり。」
「またRが来る。非常に酔つてゐる。思ひあまることがあるなら何事でも相談しなければいけぬと云ふのだが、人に云ふべき類ひの煩悶はないのだ。此処は自分の仕事部屋だから酔ふた人に来られるのは迷惑だ! と、たつたこれだけのことさへ云へぬのは何うしたといふことであらう。」
「作家志望だと称する泥酔の佐田某なる老村吏が現れて、最もあやふやな自然主義の主張を喚きたてた。猥雑聴くに堪えざるものであつた。或る時の吾酔態にも似たるかと慄然たり。」
「町から来たる妻に、口を極めて罵らる。何故に多くの縁者を振り棄てぬのか? といふのであつた。吾に生活能力の欠けたるは、その間の怯堕がわざはひする所以なりと非難の声尽きず。多くの縁者の吾を軽蔑すること夥しき由、かゝる渦中に再び戻りたる吾が所業の不甲斐なさを妻は哭して止まず。」
「R叔母来りて、先日送られしものゝRの行衛皆目不明にて未だ会はざりしといふ。此処に同居を促したれど、吾が身辺のうそ寒き気はひを察してか諾かず、深更に至りて町へ戻り行く。劇中の人物にも似たる悄々たるさまなり。」
「K叔母来りて、吾と吾が母との同居をすゝむるなり。母は既に零落して、子の帰来を待つ由なりと伝ふれど、K叔母の所存こそ信じ難きものなり。R叔母の言とおそらく反対にて、R叔母に依ると、凡そK叔母の言たるや、吾が母の意志には非ずして、K叔母は寧ろ吾が心を苛立たしめて(以下五行抹殺……筆者)一家の団欒を希ふはもとよりなり。されど、この心の、母を敬ひ得ざる不幸の、怕るべき佗しさの(以下四行抹殺……筆者)所詮、吾には母を放擲してまでの放浪性は抱けぬものならむ。その零落こそを待ちて、吾はすゝみて扶養の任をはたしたき念なり。」
 日記に現はるゝ私の片言は、何処をひらいて見ても惨憺としてゐた。
 或る日御面師は、Rの振舞ひで、よろよろと酔つて戻つた。
「何だつて、もうお好み次第のものをつくつて御覧にいれます。それについては、是非ともひとつあなたには、これまでのお礼のためにお贈りいたしたいんですが……」
「折角だが僕は貰つても仕方がありませんから、Rさんが世話をして呉れると云ふんならそつちへ売つた方が好いでせう。」
「いえ/\……」
 と彼は行儀好く手をついて首を振るのであつた。「是非ともこの部屋に、わたしの仕事を一つ遺させて戴きたいんで……」
 彼がそんなことをくど/\と、申し立てはぢめると、私は何故か急に腹が立つて来て、
「Rのうちへ行つて呉れ。僕は、やはりひとりでなければ自分の仕事は出来さうもない。」
 と突つぱなした。誌しもしないのだが、彼の言のうちにはさつきから頻繁に、Rさん、Rさんといふ名前が出没してゐたのだ。
「わたしが居たら邪魔になりますか?」
「今迄は気にもならなかつたんだ。然し、若し邪魔になつても、さしあたり行き場のない時にはさうも云はないが、Rさんと、そんなはなしが出来たといふんなら、君にしたつて其方へ行つた方が運が向くだらうよ。」
「妙なことは云はないで下さいよ。わたしは何うしても此処で、一つだけはこしらへて、あなたへ置いて行かなければ気が済まない。」
「僕は御面なんて欲しくないんだ。」
 斯んな場合のそんな返礼などといふわざとさに私は敵はなかつた。
「欲しくなくつても、わたしは置いてゆかずには居られないんだ。」
 と彼は飽くまで強情を張つた。
「…………」
 私は、そんなものを置いてゆかれることが、ほんとうに迷惑だつた。
「止めて呉れないか、僕は子供の時分から御面といふものが妙に怕くて……」
「だから、好みの注文を出して……」
「しつこいな。好みも何もありはしないよ。君には僕の云ふことが解らないのかしら。僕は御面なんていふものは嫌ひなんだよ。」
「一概に、左う云つてしまふものぢやありませんや。御面師と知つて、今迄あなただつて、あたしを置いて呉れたんぢやありませんか、急にそんな……」
 彼の調子には不意と棄鉢の気が萌したやうであつた。贈らうと主張するのを、贈られたくないと謝絶する自分のわざとらしさも随分ときわどいものとおもふのであつたが、左うなると私も益々強情になつて、その上、不気味さともつかぬ戦きにさへ襲はれ出したのである。何をつくるのか知らぬが、いろいろな顔つきの御面を私はあれこれと想像すると、それが何んな類ひのものであつても、自分の持物になどなつたら、たとへ一日であらうとも、何か自分との因縁でもついて、いつまでゞもの思ひ出の種にでもなりさうな堪らぬ厭気を覚ゆるのであつた。――それにしても、あの朝停車場で彼と遇つた以来、もう一ト月にもなるのに、今が今迄、彼といふ人物にとても迂滑な親しみなどを覚えてゐた自分が今はもう他人の夢のやうに翻つてゐるのが吾ながら不思議であつた。
「ともかく注文を出して下さい。」
 彼は頑として坐り込んでゐたが、余程酩酊してゐると見えて、思はず達磨のやうに前へのめりかゝつたりするのであつた。――「きくまでは決して動きませんよ。」
「困つたなあ……」
 と私は大声で叫んだ。斯んな途方もない、斯んな仰山な、加けに厭に意味あり気な――何といふ馬鹿々々しいことだらうと私は苛立つたが、不図彼が私の面上に注いでゐる凝然たる視線に気づくと、わけもなく抗し難いきつさきに似たものに貫かれて、もう言葉もなくなつてゐた。
 そして私は、つぶやくともなしに、
「俺も一日も早く、小説家に逆戻りをしなければならんぞ。――一体、何をまご/\してゐたんだらう。」
 などといふ声を出してゐた。
「こつちも漸く、あぶらがのつて来たところだから……」
 彼もつぶやくのであつた。
 夜になれば、あたりはもう全くの夜中の感じで、Rが酔つた声でも挙げて繰り込んで来るより他は、滅多に人の声もない青畑の一隅である。――私は、暗闇に飛んでゐる蛍の点々たる光りをかぞえてゐた。肉親の人々の顔かたちがいくつとなく浮びあがり、その中にはもうこの世にゐない人達の、たゞ呆然と、とり済した御面が、ありありと入り交つてゐた。
 私は、御面師の腕で彫まれるあれこれの御面のさまざまを、眼の先に描き出した。そして、在りのまゝなる人間の顔のつまらなさに引き換へて、仮面などといふものゝ、絶対に誇張された表情の怪美に眼を視張つた。自分の作風は、太い線をもつて滑稽(バロク)の段階に鮮明でありたいものだ! と夜空へ向つて眼を据えた。
「大層な蛍ですな!」
 こちらの顔ばかり視詰めてゐるのかとばかり私はおもつて、気拙がつてゐたところが、その時彼は舌を巻いて蛍の美観を嘆じた。




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