痴日
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著者名:牧野信一 

        一
 頭の惡いときには、むしろ極めて難解な文字ばかりが羅列された古典的な哲學書の上に眼を曝すに如くはない――隱岐はいつも左う胸一杯に力んで、決して自分の部屋から外へ現れなかつた。活字の細いレクラム本に吸ひつくやうに覆ひ被さつたまゝ、終日机から離れなかつた。だが、やがて運ばれる晩飯を下宿人のやうにひとりでぼそ/\としたゝめてから、何か吻つとしてラムプを眺める時分になると、急にあたりが寒々として來て、暖い部屋が慕はしくなつた。
「しかし……」
 彼は激しく頭を振つて、餘程ちゆうちよするのであつたが、ふらふらと渡り廓下[#「廓下」はママ]を踏んで明るい部屋の方に出向かずには居られなかつた。でも彼は、今度は成るべく活字の大きさうな二三册の部厚な洋書と、ウエブスタアと更に英和辭書を抱え込んでゐた。――そして彼は、襖に手をかけぬうちに
「あけるぞ?」
 と唸らずには居られなかつた。一度、うつかりと默つて襖をあけた途端に、
「きやあツ……」
 といふ叫びといつしよに彌生が炬燵の中から跳ねあがつて、騷動だつた。彼女は夢中で毛布にくるまると――厭々々!と笑つて喚きながら、押入の中へ飛び込んだ。彼女が裸體だつたことよりも、隱岐はその騷ぎに驚いてしまつた。かねがね彼の細君は、畫を習つてゐて、追々と人體の素描に移つて、彌生をモデルにしてゐることは薄々隱岐も知つてゐたから、裸體像にはさして驚きもしなかつたのであるが、あんまりモデルが大袈裟に仰天して狼狽するので、返つて飛んでもない痴想に攪亂されさうだつた。
「まあ、眞ツ闇で――何も解らないわ、端(はし)を少し、開けてよ、お姉さん……」
 押入れの中で彌生は、切りと、くすくすとわらつてゐた。二枚つゞきの純白の毛布が、たぐりきれないで、押入れの端から長い裾を長椅子の下までのこしてゐた。隱岐の細君は、仕事の邪魔をされた佛頂面で、立ちあがつてゆくと――彌生が中から
「そんなに開けちや駄目よ、馬鹿……」
 などと焦れて、三寸位ひの隙に直させた。
「あゝら、何にもありやしないわ――お湯殿から、さつき寢間着ひとつで來ちやつたんだもの……」
「あゝ、こゝにあるわ――」
 細君が棒縞のタオルのパヂヤマを拾ひあげると、彌生は隙間から白い腕を肩まで露はして、はやく/\! とせきたてた。
「でも、何だか變だな。それと解つてゐられて、これ一つだけで出て行くのは。」
「何よ、やあ子、急に柄でもないことを云つてるわ、いつだつて平氣でそのまゝ炬燵に寢てゐるんぢやないのよ。」
 その部屋だけは百燭の電燈をつけ、ストーヴも、らんらんと點け放してある上に、雪國のでもあるやうな爐がきつてあるので、それにはヤグラをかけて、すつぽりともぐり込めるやうに備えてあつた。その時細君はヤグラに腰かけて、長椅子に横たはつた眞正面の寢像をモデルにしてゐたのだつた。
「穿くものだけでも持つて來て呉れよ。」
「煩いよ。關やしないぢやないか。」
 取合はうともせずに、細君は不機嫌さうに煙草を喫してゐた。――隱岐は默つて、炬燵に寢てしまつたが、愴てゝ飛び込んだ折の、眞白にうつつた彌生の姿態が厭に何時までも印象に殘つてゐて敵はなかつた。
「開けても好いのか、描いてゐるんぢやないのか?」
「あら、また來たわよ。お氣の毒見たいだわね。」
「おい、ふざけるなよ。俺は向方が寒くなつたから、あたりに來たゞけのことだよ。失敬なことを云ふなよ。」
 隱岐は眞面目に眉を寄せて突返した。
「ぢや勝手に這入つて來たら好いぢやないの、西洋館ぢやあるまいし……」
――そもそもから、それで隱岐は氣嫌を損じて、ふん! とつまらなさうに鼻を鳴らして這入つて行くと、女達も、ふん! と顏をあげずにうつむいたまゝ、一枚のカーテン地のやうなものを二人で兩端をつまんで、せつせつと草花の模樣か何かを刺繍してゐた。彌生はうしろの壁に短刈りの頭を持たせかけて、恰で寢風呂(バス)にでもつかつてゐるやうに、ヤグラの上に脚を伸し、掛つてゐる毛布をピラミツド型にして、胸の上で針を動かしてゐた。細君は二の腕までたくしあげたワイシヤツ一枚で立膝でゝもあるらしかつた。そして二人は、隱岐の氣合ひには全く素知らぬ振りで、谷間にはランプがひとつ灯つてゐた、年寄つた母親は息子のかへる日を待つてゐた――といふやうな英語のはやり唄を口吟んでゐた。
 彼女等の、素知らぬ氣の、そんな風な樣子にだけは、隱岐はいつも敏感で、それまで彼女等が暮し向きに關する不平をならべてゐたに相違ないのが、想像されるのであつた。はじめからの向方の敵意めいた口調は、無論それより他はなかつた。――隱岐も、もうそれには慣れてゐたから、一切此方から言葉をかけることなしに、憤つとしてあをむけになつて、本を開くだけだつた。
「ひとりで、あたるつもりになつて、あんまり脚を伸しちや厭よ。」
「ほんとうよ、この先生たら、あんな顏をしてゐて仲々油斷がならないのよ。――眠つた振りなんかして、あたしの膝に脚を載つけたりするんだもの。」
 彌生は、づけ/\とそんなことを云ふのであつた。隱岐はさつきからむか/\してゐるところだつたので、
「馬鹿ツ、自惚れてやがら……」
 と、もう少しで怒鳴りさうになつたが、辛うじて胸をさすつた。
「關はないから、しびれる程、擲つてやれば好いんだよ。」
 ……何のつもりであんなことを云ふのか……と彼は、女房を横目で睨んだ。細君は不氣嫌の時に限つて、口の端でものを云ひながら決して相手の顏を見なかつた。うつかり彼が、そんな時に憤つた返答がへしでもすると、この頃では、女房よりも、女房の從妹の方が先へ厭味を持ち出すといふ風であつた。
「まさか、あたし、斯んなぢやないと思つたわ……」
 彌生は、從姉の謀反心を掻き立てるやうに不滿を竝べ出すのが屡々だつた。時には隱岐も堪えきれなくなつて、強張つた權幕を示す時もあつたが、彌生は一向平氣で、何さ、その顏つきは――などと切れの長い眼眦で凝つと相手の容子を睨めた。彼女は自分の左ういふ表情に餘程の自信を持つてゐるかのやうに、そして、いつも冷たくセヽラ笑つた。隱岐は、客觀的にはたしかに彼女の美しさを認めてゐた。加けに十七・八も歳下の者に――と無氣になりさうな心を壓へた。
「いくら、兄さんの働きがないと云つたつて、故郷なんだもの、ちつとは、もう少し何とかなつてゐると思つたわ。――あゝ、あきれた、あきれた。これぢや、姉さんばかりがほんとうに可愛相だ。」
 彌生にそんなことを言はれると、細君は忽ちヒステリの發作を起して
「あたしはもう十年も辛抱してゐる――着るものもなくなつちやつた!」
 と自分で自分の言葉に逆上した。
 元は隱岐が、保養しなければならない頭の状態に陷つて、とてもおちおちとは都會で小説などは書いて居られなくなつたので、大概の困窮には堪へられるから――と從姉妹達が先に立つて田舍行きをとり決めたのにも係らず、何か、田舍といふものに憧れる輕薄な夢が滿足されぬと見える欝憤が、次第にふくれあがつて、稍ともすれば病人であつた筈の亭主の方が、看護婦共の氣嫌をとらなければならない傾向だつた。
 隣りの酒匂(さかわ)村が隱岐の郷里で、はじめほんの一二ヶ月のつもりだつたので、自分の村の知合の農家を借りてゐたが、飯を食つてゐるところが表から見えるから始末が惡いとか、芋畑のふちで雨が降れば傘(からかさ)をさして這入るやうな風呂に浸(つか)れるものか――などと、東京に住んだところで、何うせ長屋風の家より他に知りもしない癖に彼女達は事毎に勿體振つた風を吹かせて、隱岐を痛ませた。
 秋のはじめであつた。――昔から隱岐の家と知合ひだつた國府津の塚越といふ漁家の主人が、彼を訪れた時、
「どうせ、これからは空いてゐるんだから、好かつたら使ひませんかね。」
 と貸別莊なるものをすゝめた。――町端れの海岸に向つた半洋風の十間もある眞新しい別莊で、部屋部屋には一通の仲々重味ある家具まで配置されてゐた。表側は破風型の門構えで、家のまはりは四方とも充分に庭をとつて、廣々とした芝生だつた。有名な市會議員がかくし女のために建てたのだが、その男が牢に入れられることになつて持ち扱つてゐたのを塚越が買收したのだ左うだつた。
 隱岐は、見るまでもなくたぢろいたが、女達は亢奮して
「玄さん、この家(うち)、家賃いくらなのよ、え? え? え?」
 などと追求した。――漁家といふよりも今では避暑客を相手に土地などを賣買してゐる塚越は、何處か宿屋の番頭泌みた人を見る眼に肥えてゐるといふ風で、洋裝婦人連の素姓を逸早く見拔いたらしかつた。子供の頃隱岐は、祖父や祖母に伴はれて東京へ赴く時、電車を降りるといつも、先づ玄八郎の家に寄つて小半日も遊んだことを覺えてゐる。今の玄八郎は同名の先代の長男で、たしか隱岐よりも二つ三つ歳上だつた。先代の時には二三艘の小舟とわづかばかりの蜜柑山を持つた半漁半農だつたが、今の玄八は二十代に鰤網で大儲けをして、傾きかけた家産を數倍に増したさうである。貸別莊なども數軒持つてゐて、近頃では下曾我通ひの乘合自動車や、小田原の驛の附近に「ヲダハラ會館」といふカフエーを經營してゐた。しかし、そのくせ少しも才子肌のところも見えず、はなしをしてゐると、稍ともすれば意味もなくテレ臭さうにわらつて、顏を赤くするやうな悠長な人柄だつた。
「さあ、いくらといはうかね?」
 彼は隱岐の方に向きをかへて、にやにやしてゐた。隱岐が默つてゐると、彼は婦人達に事更にいんぎんに
「いゝえ、もう住んで戴くだけで結構なんですよ。」
 と氣轉を利かせた。しかし彼女達には玄八の好意は通ぜぬらしかつた。そんな場合に殊の他内心では見得を切りたがる隱岐は、重苦しくて返事も出來なかつたが、彼女等は易々と享け入れて、現像の暗室があるなどと悦んだりした。
 だまつてゐても庭掃除の者が來たり、レコード屋が御用聞きにうかゞつたりするのであつた。――彌生は專門學校の英文科を左傾がかつたことを云つて自分から退學したのであるが、この頃ではけろりとしてしまつて
「ねえ、このぐらひの家に住むとなれば、何うしたつて着物から先きに一と通りはそろえてなくては、あたし表へ出るのも耻しいのよ。何處へ出るにも、海岸散歩の歸り見たいな恰好ぢや、いまどきいくら田舍だつて相當氣が引けるわ。」
 追々とそんなことを口にしはじめた。すると細君は躍氣になつて
「あたしは、和服なら相當もつてゐるんだもの?――何も買つて呉れつて云やしないよ。……無責人な男だなあ!」
 と滾した。
「矢つ張り、こゝの生活には和服がふさはしいわね。ちやんと、お太鼓の帶をしめて、……それは左うと、姉さん、春時分に江戸づまの金紗を持つてゐたわね、あれ、あたしとても氣に入つてんのよ、あたしに恰度好いぢやないの、あれ、見せてよ。」
「…………」
「大島だつてあるぢやないの。着ようよ。姉さんがそれを着て、あたしが、あの着物の袖を直してさ……そんな畫の方が好いな、第一、安心で――。」
「止めとくれよ、……」
「まあ、どうして――着せて呉れないの。」
「そんなんぢやないさ――チエツ!」
「あれも?」
 と彌生は意味あり氣に眼を視張つた。
「あれも――もくそもありはしないわよ。トランクをあけて御覽! ――野郎のふんどしばかりだ。」
 細君は女だてらに太々しくそんなことをほき出した。
 すると彌生は、机に凭つてゐる隱岐の離室まで突き通る金切聲で
「意久地なし――素つ裸になつて暴れてやりたいや」などと怒鳴つた。
 こんな家に移れば移るで、彼女等の不滿の種はジヤツクの豆の木のやうに天までとゞきさうだつた。――全く彼女等も日増に鬱憤が積み重なつて、あられもない矛盾の板挾みになるのも道理だつた。樂屋では、そんなにも言語同斷な女書生(アマゾン)が、この家に移つてからといふものは、一度び門の外へ踏み出したとなると、如何にも立派な家に住んでゐるとばかりな濟し込んだ顏つきに變つて、奇妙に眼(まなこ)をかすめて、さもほのぼのと散歩するのであつた。そして停車場の前の待合茶屋にやすんで、用もないのに隱岐を電話に呼び出したりするのであつた。
「厭だよ。俺は、ゆふべ、まんじりとも出來なかつたんだから、これから眠らなけりやならないんだよ。」
「いらつしやいよ、お兄さま――二人で往くの、何だか退屈なんですつて、お姉さまつたら……」
「どこへ行くんだよ?」
「あら、何を空呆けていらつしやるの。オデオン座にボレロを見に行くんだつて、さつき申しあげたぢやありませんか。」
 隱岐は、彼女等が自分を笑はせようと、わざと氣どつた聲を出すのかとさへ疑ることさへあつたが、やはり彼女等は眞面目さうだつた。――永年の間彼は、女房にストイツクな精神生活を吹き込んだつもりだつたが、他合もないことで斯んなにも空々しく逆戻りしてしまふのかしら? と寧ろ不思議さうに首を傾けずには居られなかつた。畢竟、自分の罪だとおもつた。――眞實隱岐が、何も今更彼女等の行動を、皮肉や曲つた眼つきで眺めてゐるわけではなかつたのだ。うつかり批難めいたやうなことでも口にすると(少々隱岐のそれも毒々しくなるのであつたが――)特に近頃は彌生も細君も默つては居ずに、忽ち氣狂のやうに喰つてかゝつた。
「偉さうなことを云ひなさんなよ。あたしは何でも知つてゐるんだよ。お前は、いつか彌あ子に接吻したことがあるんぢやないか。加けに何といふ無責任なはなしだ。」
 細君は短氣を起して、いきなり彼の腕に喰ひついたことがあつた。――もう、それは大分前のことで東京にゐた頃であるが、隱岐は全く遇然の過失から、彌生に接吻だけを犯したことがあつた。
「ごめんよ。」
 とその時彼は、あやまつた。彌生は彼の膝に突伏して泣いてゐた。そして、夢中さうに首をうなづいてゐた。
 それきり、その後は、手を觸れたためしもなかつた。妻君の言葉に依ると、それ以來彌生の性格が變つたといふのであつた。
「責任といふのは……」
 隱岐は、さすがに蒼ざめて唇を震はしてゐた。長い間、知つて知らぬ振りを保つてゐた細君も細君だが、何時、どうして彌生はそれを口外したのか? と彼は降伏した。
「學校のことだよ。彌生が止めてしまつたのはお前のせゐぢやないか――」
 隱岐は、彼女の學校の費用ぐらゐは續けてゐるつもりだつたが、はなしが大それた問題に陷ちてゐるので、二の句もつげなかつた。
 うつかり四角張つたことを云ふと、今では彌生までが、それを叫び出す怖れがあつた。



        二
「このカーテン何處に掛けるんだと思ふ?」
 彌生は切りと圓い枠の中に針を動かしながら、妙に意地惡るさうな眼でちらりと隱岐を眺めた。隱岐はいちにち坐り續けた脚を炬燵の中に伸々とさせるのであつたが、折々爪先が彌生の膝がしらに觸つた。うつかりすると、平氣で彌生は無禮なことを云ふので隱岐は決して自分からは動かなかつたのであるが、如何にも邪魔ものが這入つて來たといふやうにぶつぶつ云ひながなら[#「云ひながなら」はママ]、彌生が窮屈がる度にひとりでに觸れて來るのであつた。それ位のことは彌生も無意識で、慌てゝ逃るやうな動作もせず、隱岐の方も無關心を裝つてゐたが、だが彼はその度毎に颯つと全身がしびれるのであつた。――彼は仰向けのまゝ、胸の上に立てかけた本を熱心に讀んでゐる容子だつたが、意味などは解りもしなかつた。
「さあ、何處にかけるのかね、俺の書齋の窓かしら?」
「ふツふ……、違ふわよ。このベツトの横に幕のやうに引くんだわよ。何時、誰に這入つて來られても安心のやうに――」
 と彼女は長椅子の上の鴨居を見あげた。その椅子は寢臺に變る仕掛けだつた。彼女等は、いつも二人で、そのまゝ炬燵に眠つたりした。
「この子は、ほんとうに寢像が惡いんだからな。」
 と細君は自分がいつも手傳つて慥へて[#「慥へて」は底本では「[てへん+慥のつくり]えて」と誤植]やる彌生の顏を凝つと眺めた。彼女は餘程彌生を自慢の種にしてゐて、殊に近頃は勿體振つて化粧のことまで兎や角と世話を燒き出し、何時でも相當につくつて置かないと、表へ出る時が如何にもケバ/\しくなるからなどと工夫を凝して、彌生が湯から上つて來ると、どういふのが一番似合ふかしら――と、人形の顏でも慥へる[#「慥へる」は底本では「[てへん+慥のつくり]える」と誤植]やうにして、白くして見たり、ドーランをはいて見たりするのであつた。つくつた上で、つくつてゐないやうに見えなければならない――などと注意して、睫毛に耽念なブラツシユをあてたり、眉を剃つて見たりするのであつた。
「あら……どつちがよ。」
 彌生は、細君を睨めたりしたが、細君は、その表情の動きと、化粧の具合を驗べて、自分の畫でも眺めるやうに眼を据えてゐた。
「ねえ、ちよつと起きあがつて見て呉れない、これぢや少しあくど過ぎやしないかしら?」
 彼女は隱岐を促した。彼は、顏の上に、ばつたりと本を伏せて
「俺には解らないよ。」
 と云つた。
「……、あたしの、あの、フアコートを着せてやり度いな。」
 細君は泌々と呟くのであつた。――彼女は、隱岐のアメリカの友達から贈られた可成り上等らしいビーバーの外套を持つてゐたが、殆んど手をとほしたこともなく、餘程以前から手もとには無かつた。何も彼も釣り合ひはしないから――と、さすがに細君は照れて、あきらめてゐたのであるが、この門構えの家を見た最初に、忽ち、それを着て外出する姿を浮べたのである。
「たつた四十圓で持つて來られるんだもの、何でもないぢやないの。」
 と彼女は口癖にして、隱岐を病ませてゐたが、一向それほどの段取りもつかなかつたのである。
「自分はちつとも欲しくはないんだけど、やあちやんに着せてやり度いのよ。」
「欲しいなあ……」
 彌生は深い息を衝いて憧れに滿ちた眼を輝かすのであつた。
 そのはなしになると何時も終ひには喧嘩が起つて、聞くに堪えない罵倒を浴びながらほうほうの態で逃げ出さなければならないので、隱岐はフアコートと聞くと慄然とした。
「コートだけあつたつて仕樣がないさ。第一、こんな陽氣の好い田舍の街を歩くのに、あんなものを着て歩くのは物々しいよ。」
「それが氣に喰はないのよ。理屈をつけるのは止めて欲しいわ。あなたはね、實に――」
 と細君はそろそろ昂奮した。「手前勝手な人間だわね、男らしくないよ。ひとを悦ばせて、結局自分も悦ばうといふ風な大きさぐらひは、誰だつて持つてゐるのが普通よ。實に、低級な自分勝手しかしらない憐れな人間だわ。」
「左うよ/\!」
 と彌生も眞面目になるのであつた。「自分で自分をごまかしてゐるのよ、狡いんだわ、そして度胸が無いんだ。」
「だから、何事につけても、やるならやるで、思ひ切りやり通すといふことも出來やしないぢやないか。――嫌ひだ。道樂をするならするで、凡てを放擲して、飽くまでも自分の思ひを通して見せるつていふ一貫したものが無い。あたしなんか、生活のことなんかに就いては、何もびく/\してはゐないわ。何時破壞されたつて、ちやんとやつて行ける自信があるわ。あたしはね、返つて、この人が滅茶苦茶なことをやつて呉れる方が、清々とするわ。何方つかずの奴が一番嫌ひさ。」
「戀人でもつくると好いんだよ。」
「さうとも――否應なく崖のふちに追ひやらなければ、いつまで經つたつて埒は明かないといふのさ。女でもこしらへて、うんと酷い目に合されると好いんだ。」
「つまり、姉さんが、あんまり兄さんに忠實過ぎるのがいけないのね。」
「他所の人のやうに、何でも、あなた/\と云つて、亭主にばかり頼つてゐた方が好いのね。なまじ、あたしに強い一面があることが不幸なのよ。――でも、あたし此頃泌々と他所の人が羨しいわ。夫に頼りきつてゐられたら、何んなに樂だらうと思ふわ。自分の女房ぐらゐは、落着かせて置くのが當り前のはなしぢやないかね。あたしなんか斯うやつてゐたつて年柄年中、びく/\してゐて、やりたいと思ふことは何んにも出來やしないしさ――これぢや堪らない。一層、別になつた方が好いと思ふばかりだわ。」
「妻に、そんな類ひの不安を與へるやうな男は死んだ方が増しだわね。」
「――生活! ほんとに、生活のことだけがちやんと出來ないやうな男は、何をやつたつて駄目よ。」
「ヴアイタリテイのない人間ほど醜惡なものはないね。」
 二人は左ういふはなしに走ると夢中になつて、止め度もなかつた。隱岐も全く有無もなかつた。胸が震えるだけで、返す言葉などは一つも浮ばないのであつた。その上、二人の者に、あんな弱點を握られてゐることが敵はなかつた。
「あたし達が、こんなにやきもきしてゐるのが解らないのかしら。聞えないのかしら?」
「圖々しいのよ。」
「あんまり、人を馬鹿にして貰ひたくないわ――此方は何時も眞劍なんだから――」
 默つてゐればゐるで、細君は更に業を煮すのであつた。
「馬鹿になんかしちやゐないよ。」
 と彼は怕る/\呟くより他はなかつた。
「あゝ、焦れつたい。男の考へることまで、あたしは心配しなければならないんだもの。」
 彼女は手細工の道具を力一杯投げつけたりした。どうせ、ものになるやうな腕ではなかつたが、畫でも描いたら少しは了見が廣くなるだらうと隱岐は思ひもしたのであるが、まるで駄目だつた。性根が浮調子で、ひがみ強いのだから何をやつたつて中途半端なのだが、彼女は自分の才能までを悉く夫の犧牲と心得てゐた。
「そんな本なんて讀んでゐる振りをしないで、これでも見てゐる方が好いでせうよ――だ。」
 細君は、やをら立ちあがるとデスクの抽出しから二三通の封書を取り出して彼の上に落した。「流れ御通知」といふ書付ばかりであつた。――一圓五十錢、男袴。三圓、男袷。七圓、女帶。四圓、麻雀……」などと、とても判讀の出來ない態の達者な文字が讀みきれぬ程竝んでゐた。



        三
 或晩細君は、落ち着いた氣分で斯んなことを云つた。
「やあちやんに、あたしはまるで戀してゐる見たいだわ。自分が女であるといふことを、忘れるんだもの。」
「同性愛といふのかね?」
 と隱岐も興味を感じた。
「……堪らない言葉だけれどね。」
 細君はあかくなつた。彌生は、廊下を隔てた浴室にゐた。細君は、わざと廊下の燈りを消しに行つて、誰もゐやしないから平氣よ。影を見せてね――などと彌生にさゝやき、硝子戸に映る姿に見惚れてゐた。
「以前には隨分聞いた言葉ぢやないか、この頃は別の言葉になつてゐるかも知れないが。學生時分に經驗があるかね?」
 ――隱岐は、それは自分が凡ゆる點で彼女に不滿足ばかりを與へてゐるので、自然と變質的な傾向に走つたのであらう――と考へ、殊に田舍に移つてからの自分をいろいろと振り返つて見たりした。
「ほんとうは、あたし畫なんか描きたくはなかつたのよ。だましちやつたのさ。」
「……愉快だね。」
「いつまで見てゐても飽きないわ。それよりも、このごろぢや、嫉妬を覺えて、苦しくなつたりするわ。彼女の結婚を考へると、凝つとしてゐられなくなつたりするのさ。……だつて、まあ、あの子の、體の綺麗さ加滅[#「加滅」はママ]と云つたら、それあもう、何とも彼とも、云ひやうもない――ふるひつかずには居られないほどの……」
「ふるひついたことは、あるか?」
「あら、眼をまるくしてら……でも、あたし、いろいろ考へて、いつかのお前のことを無理もないと思つてるわ。」
「……馬鹿だつた!」
「あたしだつて、それより激しい氣持になることがあるんだもの。」
(以下の會話數行省略する。)
「顏はそれほどの美人といふほどのこともないけど、ヘツプバアン見たいな口つきで、何か不敵な魅力を持つてゐるぢやないの。それよりもね、肉體の素晴しさつたらないのよ、女のあたしがつくづく見惚れるほどなんだもの、きめがこまかくて、張りきつてゐて……」
「君とは正反對なんだな。」
 隱岐は、なりが厭に大きいばかりで、ごつごつとした中性のやうな細君を想つて鳥肌になり、凡そ反對らしい蠱媚に滿ちた豐かな色艶の肉體を想像した。
「それあもう恰で――」
 細君はわけもなく淡白に、自尊心などは置き忘れてゐた。
「顏だつて俺は……」
 隱岐は、彈みさうになる言葉つきを慌てゝ控えた。――「眼つきなんかに不思議な落着きを持つてゐるぢやないか。そして相當教養のありさうな不良性で。」
「不良性は感じないわ。そんな感じではない、寧ろ冷たさうな、何でも突つ放してゐる見たいな……」
「どつちでも好いさ。」
 と隱岐は、細君の手前そんな類ひの立入つたはなしを厭つてゐたが、細君はいつまでも微細な觀賞眼を批瀝して、まるでその皮膚は處女を失つた當座でゝもあるかのやうな沾みに富んでゐるとかなどゝ、口を極めて、益々自分の女らしさを忘れてゐた。
 冬らしくもない暖い晩がつづいてゐた。その上にストーヴなどを焚いてゐる部屋にゐると、温泉にでもつかつてゐるかのやうに蒸々として、汗が滲みさうだつた。――不圖隱岐がうしろの壁を見ると、何うして持ち出して來たものか訊きもしなかつたが、あの毛皮の外套が獲物のやうにうやうやしく懸つてゐた。彼女等の好氣嫌は、どうやらその獲物に依るらしかつた。
「やあ子つたら、バカよ――すつかり悦んぢやつて、まるつきり何にも着ないで、いきなりこれにくるまつてゐるのよ。今日などいちんち、そのまゝごろごろしてゐるのさ。體ぢうにタルカンを振りまいて、ふわりとこれをひつかけてゐると、とてもうつとりとしちやふんだつて!」
「折角、持つて來たんなら、そんな亂暴な着方をしては臺なしになつてしまふだらうに。他所行きに……」
 隱岐が云ひかけると、忽ち細君は嶮し氣な調子になつて、
「他所行きに使へるやうに、他のものもそろへて貰ひたいものだわ――」
 とさへぎつた。「何うせ駄目なんだから、滅茶苦茶にしてしまふのさ。」
「なるほど、それも好からう。」
 隱岐は危くなつたので、
「意味があるよ。」
 などとわらつた。まつたく、マゾー伯爵ではないが、毛裏の外套に包まれた裸女の皮膚や動作を想像することは、仲仲[#「仲仲」はママ]の意味がある――と彼は胸のうちで呟き、凝つと眼を閉ぢた。
「まあ、厭あね、お姉さんひとりぢやなかつたの、酷いわ――」
 襖の蔭で彌生が頓興な聲をあげた。そして、「外套とつてよ、はやくつたら……」
 などと焦れて、激しい脚踏みの音を鳴り響かせた。
「粉が一杯ついてるわ……」
 細君は外套の肩を掴んで、はたはたと振りまはしながら、彌生へ投げ渡した。タルカムの甘つたるい香りが、部屋一杯に濛々と溢つて、隱岐は身動きもならぬ心地だつた。



        四
 遙かの山々には斑らな雪が見えたが、陽氣は日毎に春のやうに暖かつた。くつきりと冴えた山肌の紫地に、殘雪の痕が翼を擴げて舞ひ立つた鶴のやうに飛び散つてゐた。――隱岐の窓から見渡せる砂濱には、夏の日傘を立てゝ寢轉んでゐる人や、蹴球のあそびに耽つてゐる四五人の若者達が、運動シヤツの姿で飛びまはつてゐた。
 隱岐は、もう好い加滅[#「加滅」はママ]に本を讀むことを切りあげて、ぼつぼつ創作の仕事にとりかゝらうとして苛々しはじめてゐたが、ブロバリンばかりを服み過ぎて眠るので、止め度もなく頭がぼんやりしてゐて、さつぱりと空想力が働いて來なかつた。そして五體は、恰も枯木のやうに干乾びて、風邪の引きつゞきであつた。かあツと頭が熱くなると、急に脚の先から水がおし寄せて來るやうに冷え込んで來て、のべつにくしやみは出るし、鼻水は垂れるし、あまつさへ、レウマチスの氣味でもあるのか、腰骨や膝がしらが螺線のやうにしびれてゐて、全く埒もない有樣であつた。腹には懷爐などをあてゝ、木像のやうに坐つてゐたが、歩かうともするのには杖がほしいほどだつた。
 酷く六ヶしい顏をして彼が、海邊の方を眺めてゐると、彌生が口笛を吹きながら廊下をまはつて來て、窓先の縁側に置いてある布椅子に寢ると、
「日光浴に出たいんだけれど、人がゐるんで困つてしまつたわ。」
 と呟いた。パジヤマのパンツを穿いた長い脚を、恰度隱岐の眼上に組んで、桃色のスリツパをつつかけた一方の爪先を、天井を蹴るやうに動かせてゐた。
「姉さんは?」
「頭が痛くつて起きられないんだつて。―― menses なんだらう。」
「――日光浴は病人がすることぢやないか。」
「うつかり出任せなことを云つたら、婆さんたら本氣にしちやつて、お天氣が好いと屹度起しに來るのよ。――お孃樣お起き遊ばせ、お起き遊ばせ――だつて。辛いね」
 彌生は聲をあげて、笑つた。留守居の老婆が耳が遠いのであつた。――「遊ばせ――と聞かされちや、さすがに照れちやふよ。」
「お孃樣は大變立派な外套をお召しになつて、見違えましたわ、此度御注文なすつたんですつてね、――なんて云つてゐたぞ。そんな出鱈目云つたのかい?」
「はつはつは……何うだか知らねえよ。女房が吹いたんだらう……ともかく今日は、素晴しい日光浴日和ぢやないの。」
「それや左うに違ひない――」
 隱岐は眼を霞めて、陽炎の立つてゐるかのやうな明るい砂原を見渡した。微かな風もなかつたが、海の上から溢れて來るやうな陽(ひかり)の肌ざわりは、それこそ深々とした毛皮か、鳥の羽毛にくるまれてゐるやうな物柔らかさだつた。
「ねえ、ずつと向ふの松林の方まで行つて見ない、誰も人の居さうもない――」
「日光浴、するのか、ほんとに?」
「何時だつてしてゐるわよ、今日に限つたことぢやないわ。川のふちまで行くと恰で砂漠見たいなところがあるわよ。決して、人になんか見つかりつこないわ。停車場からサンドヰツチでも買つて、お午過ぎまで遊んて[#「遊んて」はママ]來ませうよ。」
 と、隱岐は左程氣がすゝみもしなかつたが、否應なく誘ひ出された。
「どうせ駄目ときまつてゐるのに、そんな顏をして机にかぢりついてゐても仕方がないぢやないの。氣分ばかり惡がつてゐたつて、それは運動不足だからぢやないの。歩いて來れば、屹度清々としてしまふわよ。」
 街にまはつて、出來あがつてゐる寫眞の燒つけなどをとつてから、もう一度家に引き返すと、彌生は靴下を脱いで、素足に重たげな庭下駄を穿いた。彼女は未だ、執拗にも例の外套を着て、兩腕で胸のあたりを堅く掻き合せるやうにしながら、酷く無器用な脚どりで砂を踏んでゐた。隱岐は、模擬革のボストンバツクをぶらさげて、彼女と肩を竝べた。
「さつき、玄さんに遇つたら――どちらへ? なんて云つたわね。東京ですか? だつてさ。」
「ちよつと左う見えたんだらう。」
「なにしろ、鞄までぶらさげて、氣取つてゐるんだからね……」
 彼女は、何が可笑しいのか、ひとりでクスクスと笑ひ出した。「寫眞屋も、そんなことを訊いてゐるのさ。あのまゝ汽車に乘つたら何うだらう。」
「え?」
「人に會つたり、喫茶店に寄つたり、それから映畫でも見たり……」
 彼女はいつまでも、ひとりで呟いで奇妙な笑ひを浮べてゐた。
「その外套、お前には餘つ程大きいね。エスキモー見たいだぞ。」
 ひとりごとなど呟いで笑つてゐる彌生を、隱岐は難じてやつた。
「左うよ。だから、何うせ他所行きになんかなりつこないさ。――その代り、凡そ窮屈ぢやなくつてよ、中で泳いでゐる見たいよ。」
「さすがに、それぢや、暑過ぎるだらう。」
「ほんの少し……」
 と彌生は、薄ら笑ひのまゝ、何やら思ひ切つたやうに輕く默頭いて、立ちどまつた。そして、ぐるりとあたりを見まはした。
 球蹴りをしてゐる若者達の姿が、遙かの後ろに、鳥のやうに小さく見えたゞけだつた。折々遊びに來て、彌生と文學の話などを取り交す青年もゐた。――見つかると困るから、遠くを廻らう――といふので、はじめから二人は彼等を避けて、街をまはつてずつと西寄りの濱邊に降りたのである。
 彌生は稍しばらく笑ひを堪へるかのやうに、襟の中に顎を埋めながら、凝つと隱岐の顏を見据えてゐたが、やがて、
「でも、大したことはないわよ。――だつて、斯うなんだもの――」
 と云ふがいなや、非常な速やかさで、ぱつと、一瞬間、それを脱ぐ眞似をした。隱岐は、思はず、アツ! と云つた。たしか一糸も纏つてはゐなかつた。
「さつきから、そのまんまだつたのかえ、驚いたな。」
「えゝ――。靴下だけで。」
 彌生は何故か急に濟してゐた。「だから、東京へ行くのかなどゝ聞かれると、變な氣がしちやつたのよ。でも、あたし、よくよく困つたことに慣れちやつたな。」
 と、そこはかとなく憂愁氣な顏色に變つてゐた。
「心の半分まではらはらしながら、このまんま、何處までゞも行つて見たいやうな氣がするのよ。」
「くだらんぞ。」
 と隱岐は唸つたが、あとから/\矢つぎばやに胸先を襲つて來る稻妻のやうなものに射られて震えが込みあげて來るのであつた。
「あら! あんなところから、人が來るわよ。氣をつけてよ。」
 氣をつけることもないのに、彌生は耳の根まであかくして、彼の腕をとつた。極く稀に、散歩の人々に出遇つた。
「駄目だわね。――引つ返さうかしら?」
 彌生は、はぢめのうちの元氣はすつかりなくなつて、弱音を吐き出した。
「ともかく川尻のちかくまで行つて見ようよ。――それとも、いつそ、思ひきつて、そこからバスに乘つて、小八幡(こやはた)か酒匂(さかわ)の方まで行つて見ようか、松濤園の下あたりまで……」
「……ドレスや下着も、靴だつて、要心に、その中に入れて來たんだから、日光浴なんて止めにして、散歩に變へても好いけれど、着ることが出來ないわ。この分ぢや――」
「夏だと、更衣所があるんだがね。」
「何云つてんのよ、馬鹿――。しつかり、頭を働かせてよ。」
 さう云つて彌生は、突き飛すやうに隱岐の背中をたゝいた。
「この邊には、舟も見あたらんな!」
「飛んだ砂漠だつたわね。――あら、いまごろあんなところで、子供が凧をあげてるわよ。こんなに、風も無いのに好くあがつたものだわね。」
「やあ、三つも、四つもあがつてやがら。ヤツコやカラス凧は、風がなくつたつて、あがるんだよ。」
 隱岐は、大した六つかし氣な知識でも吹聽するかのやうな重々しい口調で、世にも愚かなことを呟きながら、水のやうな空に浮いてゐる凧を見あげて、何といふこともなしに太い吐息を衝いた。
「でも、運動になるから結構ぢやないの。具合の好いところが、見つかつたら、着ることにして、もつと勢ひ好く歩いて行つて見ようぢやないの。」
「運動不足はいかんね。歩かう。」
 彼は、片方に彌生の腕を執り、左には、何も彼も一處くたに下穿までも丸め込んであるといふ鞄を大きく振りながら、歩調を合せて、さへぎるものもない廣々として[#「て」はママ]砂原を颯々と歩きはじめた。
「こんな下駄、棄てゝ、靴だけ出してよ、歩き憎いわ。」
「――穿かせてやらう、肩につかまりな。」
「サンドヰツチ、喰べようか。」
「胸が一杯だ。」
 と隱岐は應へた。




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