幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 恐々ながら燐燧を擦った、爾して潜戸を見ると鍵穴は有るけれど鍵は填めてない、真逆の時には錠前を捻じ開ける積りで、様々の道具の附いた小刀は買って来たけれど、何うしても此の危険な所で此の戸を捻じ開けて見ようと云う度胸は出ぬ。兎も角も先ず廊下へ誰が出たとて容易には見附からぬ無難な所へ身を隠して篤と考えて見ねばならぬ、夫には二階へ上り、甚蔵の元の寝間に入るが第一だ。
 思い定めて二階へ登り甚蔵の寝間の空いて居るのへ這入り、真っ暗の中で先ず胸を撫でて気を鎮めた、爾して色々と思い廻すにアノ潜戸を開ける事は到底出来ぬ。何でも彼は内から錠を卸して有る者に違いない、愈々内からとすれば、外の方面に最う一つ出這入りの戸がなくては成らぬ、宜し宜し、表口は捨てて置いて其の裏口を探して遣ろう。
 是から二階の廊下へ出て、相変らず手探りと跼き足とで、奥へ奥へと進んで見た、所々では燐燧を擦ったが、実に奇妙な構造だよ、普通の感覚から遠く離れた昔の貴族か何かが建った家でなければ此の様な不思議なのはない、廊下を界(さかい)として一つ屋根の下が二階と三階とに建て分けて有るのだ、廊下を奥へ突き当たって左へ曲った所に余り高くない階(はしご)が有って三階へ登る様に成って居る。之へ上れば丁度潜戸の方へ向って行く様に思う、事に依ると秘密の在る所の最う一階上へ出るかも知れぬ、何でも試さぬ事は分らぬと余は三階へ上った。茲にも廊下の左右に戸を閉じた室が幾個もある、戸の引き手を旋して見ると敦れも錠が卸りて居るが、中に唯一つ爾でないのが有るから、戸を開いて首を入れて見ると蜘蛛の巣がゾロリと顔に掛った。
 エエ茲も厭な蜘蛛室であると見える、余は遽てて戸を締め、更に廊下をズッと奥へ行くと行き止りに戸が閉って幸に鍵穴に鍵が填って居る。之を取って戸を開けば、下へ降りる様に成って居る、降りれば果して中二階らしい、何う考えても茲が彼の潜戸の中に当たる。
 占めた、占めた、最う秘密は手近で有ろうと又も燐燧を擦って見ると只の広い板の間で少し先の方に室らしい処が見え、入口の戸が新しく目立って居る、是だなと其の前へ立ち、暫く戸に耳を当てて居たが、其のうちに微かながらも異様な声が内から聞こえた。人だか獣だか夫までは分らぬけれど、長く引く呻吟(うめき)の声だ、其の物凄い事は何とも云えぬ。唯ゾッとする許りである。

    第五十五回 暗(やみ)の中の一物

 余が何よりの失念は蝋燭を買い調えて来なんだ一事で有る。此の様な時に燐燧の明かりほど便りない者は無い、少しの間、少しの場所を照すけれど、直ぐに燃えて了って其の後は一層暗くなる様な感じがする。若し衣嚢の中に忍び蝋燭が一挺あったら、何れほどか助かるだろうに、殊に心細い事は、生憎余が持って居る燐燧が残り少なく成って居る、数えて見ると僅かに十二本しか無いのだ、十二本の燐燧で暗い暗い此の蜘蛛屋の大秘密を見究める事が出来ようか。
 けれど唯一つ幸いなは戸の鍵穴に鍵が填った儘である、猶予すれば益々恐ろしく成って気が怯む許りだから余り何事も考えずに、目を瞑って猛進するが宜かろうと、余は直ぐに其の戸を明けて中へ這入った。仲々重い戸である、牢獄の戸かとも思われる戸の中が、暫しの間矢張り廊下になって居る様子だが、狭い事は非常である、決して二人並んで通る事は出来ぬ。余は此の狭い所をば、挾まれる様になって三間ほども歩んでヤッと広い所へ出た。茲が即ち室に違い無い。獣類だか人だか分らぬ声を発したも此の室の中に住んで居る何かの業であろう。
 多分此の室は今、医学士の婆と話して居る頭の上に当たるらしい。「アレが動くのだ」と云った物音も此の室だろう。アレの本体も此の室で分るだろう。余は狭い所から身体を半分出して様子を伺ったが、室の中には不潔極まる臭気が満ちて居るけれど、何の物音もせぬ。茲こそはと、燐燧を擦(こ)すると、未だ其の火が燃えも揚らぬ中に、忽ち右手の暗から黒い一物が飛び出し、余の前を掠めて左の暗へ跳ねて這入った。余の燐燧は消されて了った。のみならず其の物が強く余の手に触れた為、余は肝腎の燐燧の入物を何所へか叩き落された。
 暗がりでは命にも譬う可き燐燧を、箱ぐるみ叩き落されては、何うする事も出来ぬ。余は真に途方に暮れ、唯身を蹐めて床の上を探る許りだ、何でも燐燧の箱を探し出さぬ事には一寸の身動きもせられぬ場合だ。
 ソロソロと探る手先に、塗れ附く様な気のするのは床の埃で、仰山に云えば五六分も積んで居ようか。此の様な所で、人にもせよ獣にもせよ、能く命が続いたものだ。燐燧の箱も或いは埃の中へ埋まったかも知れぬ、夫とも何処かへ飛び散ったのか、余の手の届く丈の場所には無い。斯して居る間にも何者かが暗の中から余の挙動を伺って居る者と見え、手に取る様に其の呼吸が聞えるのみならず、呼吸の風が温かに余の頬に触わるかとも疑われる。
 余は漸くに燐燧の箱を探り当てたが、何うだろう中は全く飛び散って空になって居る、之には全く絶望した。箱さえも埋まるかと思う埃の中で、細い燐燧に何うして探り当てる事が出来よう。と云って探らずには居られぬから、今は自狂(やけ)の様で、前へ進み出で、右に左に探るうち今度は更に今の怪しい生物に探り当てた。何だか匍匐(よつんばい)に這って居る様子だが獣物でなく、人の様だ。寒いのか恐ろしいのかブルブルと震えて居る、今の時候では未だ震える程の寒さではないが、爾すれば全く余を恐れての事と見える。
 斯う思うと余は聊か気丈夫に成った。先が余を恐れるならナニも余が先を恐れるには及ばぬ、寧ろ声を掛けて安心さして遣るが宜いと、低い声で「コレ何も己を恐れる事はない、お前の敵ではなく味方だよ、助けに来たのだよ」と云った、けれど少しも通ぜぬ様子だ、シテ見ると或いは人ではなく、矢張り獣物だか知らんと、又一応探り廻して見ると確かに被物(きもの)、而も襤褸(ぼろ)を着ては居るが背中に大きな堅い瘤の様な者がある。ハテな脊僂(せむし)ででも有ろうかと其の瘤を探り直すと、出し抜けに彼は余を跳ね返した。
 余は不意の事に、思わず背後へ手を突いたが、有難い其の手の下に正に一本の燐燧がある。早速に之を取り上げ、自分の被物で擦って見ると、明かりと共に余の目に映ずるは双個の光る眼である。次には大きな口から白い歯を露出(むきだ)して光らせて居るのも見える、人間は人間だが、余ほど異様な人間である。エエ最う一本燐燧が有ればと思う折しも、背後の方に荒い足音が聞こえて誰かヅカヅカと這入って来た。見咎められて捕われては大変ゆえ余は直ぐに燃え残る燐燧を吹き消し、遽てて背後を向いて見たが、狭い彼の入口から手燭を持って、医学士と其の後に婆が続いて入り来るのであった。

    第五十六回 兵法のいろは

 医学士は早や狭い廊下を通り盡して此の室の入口に全身を現わした。其の腋の辺から彼の婆が首を出して窺いて居る、彼は左の手に燭を持ち右には抜身の光る長剣を提げて居る、余を殺す積りか知らん。
 併し彼は、余の姿を見て驚いた様子だ、多分此の室に此の様な他人が居ようとは思わず、唯何だか物音のするを聞き、此の室の兼ねての住者が騒ぐ者とのみ思い、威かして取り鎮める積りで長剣を光らせて来たので有ろう。余は彼の驚き怪しむ顔色を見て確かに爾だと見て取った。
 彼は暫く余の姿を眺めた末、厳重な余の身体に少し恐れを催したか、身を引いて狭い入口の道へ這入った。スハと云えば逃げ出す覚悟と思われる。成るほど思えば尤もではある。医学者などと云う者は縦しや如何ほど悪党でも、腕力で以て直接に人と格闘して取り挫ぐなど云う了簡はないもので、一身の危い様な場合には兎角に逡巡(しりごみ)する者だよ、殊に此の様な室へ余が独りで忍び込んで居る所を見ては、何の様な命知らずだろうと奥底を計り兼ね、余が彼を恐れるよりも彼一層余を恐れたと見える。
 医学士の姿を見て此の室の住者は、全く畏縮して余の背後へ小さく隠れた。余は斯る間にも、医学士の持って居る手燭のお蔭で聊か看て取る事を得たが住者は全く人間で有る、獣物ではない、爾して鎖で繋がれて居た者と見え、一方に鎖が横たわって居る、併し其の鎖は切れて居る、是で先刻医学士が、最っと鎖を緊ねば可けぬなど云った意味も分る。
 頓て医学士は顔に怪しみの色を浮かべたままで婆に振り向き「オヤオヤ婆さん茲に此の様な紳士がいるぜ」と云った。紳士とは痛み入る叮嚀なお言葉だが、商売柄だけ誰を見ても紳士と云うのが口癖に成って居ると見える、婆は医学士の背後から「イエイエ、お待ちなさいよ、グリムを呼んで来て噛み殺させるから」と云い早や立ち去ろうとする様子だ。グリムとは例の犬の名と察せられる、男たる物が犬を相手に、而も彼の猛き中の最も猛きボルドー種の犬を相手に、命の取り遣りをせねば成らぬかと思えば余り好い気持でない、医学士は之を留めて「イヤ婆さん、お前は此の紳士を知って居るのか」
 婆「アア先っき伜を馬車に乗せて連れて来た人だよ」医学士「爾かい。では先刻途中で私を医学士とお呼び掛け成すったは貴方ですか」と是だけは余に向って云った。余は勿論叮嚀に、且つ厳かに、「ハイ私です」
 医学士「ハハハハ停車場(すていしょん)へ、預けてある荷物を受け取らねば成らぬと仰有ったが茲は停車場では有りませんよ、貴方の商用とは大変な商用ですネエ」嘲けるよりも寧ろ打ち解けて笑談(じょうだん)を云う様な口調で云うた。是も彼が日頃の職業柄で慣れて居る口調であろう。余「ハイ有体に申せば、此の家へ忍び込む為に貴方を欺いたのです」
 彼は急に真面目になり「成るほど私に油断をさせたのですネ、夫は兵法の「いろは」ですが、併し何で此の家へ忍び入り度いと思ったのです、貴方は探偵ですか」余「イイエ」医学士「成るほど探偵ではない、物の言い振りで分って居るが、矢張り唯の紳士ですな、唯の紳士が何の為に他人の家へ、物取りですか」余「先ア其の様な事とお思いなさい。兎も角私は忍び込んで既に多少見届ける所が有りましたから目的の一部は達しました。之で此の室の住者と共に茲を立ち去りますから、サア其所を退いてお通しなさい」
 余は全く此の住者を連れて立ち去る積りである、此の住者が、何者か又何の為に茲に居るか、少しも考えは附かぬけれど、鎖まで附けて繋いである所を見れば、当人の意に背いて引き留めてある事は確かだから此の者を連れて去るのは此の者を救うのも同様だ。医学士は考えつつ「イヤ勿論貴方の立ち去るのを吾々が邪魔する権利は有りませんから勝手にお立ち去りなされですが、併し私は此の家の主人ではなく、只主人と懇意な間柄と云う許りで、御存知の通り主人は大怪我の為前後も知らず寝て居ますから、後で正気に返った時、若し私に向い、何故に他人の家へ忍び入る紳士を其のまま帰したかと問わるれば私は一応の返事もせねば成りません。其の時何と返事を致しましょう、是だけは貴方から伺って置かねば成りません」余「其の時は――左様サ、私が一枚の名刺を残して置きますから私の許へ親しく聞きに来いと言って下されば宜しいのです」医学士「では茲へ此の手燭を置きますから、余り時間の経たぬ中にお立ち去りを願います。お名札は下で戴きましょう、其の節猶一言申し度い事も有りますから」
 斯う云って狭い出口を悠々と去って了った。婆は気を揉んで「お前、アノ様な者を何故立ち去らせる。お前は好かろうが、後で私が甚蔵から何の様な目に遭うかも知れぬ」と頻りに苦情を云う声も聞こえた。けれど何の甲斐もなく医学士に連れ出されて了った。
 とさ、斯う思って居る中に早や外から入口の戸を犇々(ひしひし)と締める音が聞こえる、サア大変だ。余は医学士に一ぱい陥(は)められた。

    第五十七回 後は真の暗闇

 戸を閉じる音を聞きて余はハット驚いた、若しや医学士に一ぱい陥められたのではなかろうか、斯う思って狭い廊下を、戸口の所へ馳せ附けたが、残念、残念、事既に遅しである。外から既に戸に閂木を差し了った後である。
 今思うと余は実に愚かであった、医学士が意外に弱い音を吐いて、少しも余の立ち去るのを妨げぬ様に云った時、余は彼の心に一物ある可きを看て取らねば成らぬ処であった。真逆に少しも疑わなんだ訳でもないが、斯様な巧みとまでは気附かなんだ、殊に手燭を置いて行かれた嬉しさに、此の燈光で室の中を見ようと思い、イヤ見ようと思うほどの暇もなく、只浮っかり見廻して居る間に、早くも斯様な目に逢ったのだ。
 戸の外には未だ医学士と婆とが居るらしいから、余は戸を叩いて「モシモシ何で此の戸をお締めなさる」と叫んだ。医学士は鍵穴の辺へ口を接近させた様子で「イヤ貴方は其の室の中の住者を大層お可愛がり成さる様子だから当分同居させて上げようと思いまして」と無体極まる言葉を吐いて呵(から)々と打ち笑った、余は怒髪冠を衝くと云う程の鋭い声で「実に貴方がたは失敬です、人を一室へ閉じ込むなどと」医学士「左様、夜中に他人の家へ忍び込むのと大体似寄った仕打ちでしょう、私の方ばかりが失礼でも有りませんよ」余「余り卑怯です。私の所業に咎む可き所が有れば公公然とお咎め成さい。逃げも隠れもする男では有りません、裁判所の召喚にでも、決闘の挑発書にでも、ハイ何にでも応じます」医学士「爾でしょうよ、決闘などは仲々お強そうだ、今では迚も私は叶いませんから最う四五日も経てばお相手致しますよ。先ア其の室に四五日居て御覧なさい、幾等貴方が強くとも飢えと云う奴には勝てませんよ、好い加減に身体が弱って、決闘するなどの心がなくなりますから、ハイ其の節緩くり御意見を伺いに参りましょう」
 此の様な横着な、狡猾な、爾して癪に障る仕打ちが又と有ろうか、余を飢えさせて弱らせて其の上で相手にする積りで居やあがる、余「では四五日も私を此の室へ閉じ籠めて置くと云うのですか」医学士「ハイ抵抗力のなくなるまでお宿を致す外は有りません」余「実は貴方がたのする事は人間に有るまじき所業です、何等の卑劣、何等の卑怯です、私の立ち去るのを少しも邪魔せぬなどと云い欺いて油断させて置いて、出し抜けに私を此の室へ閉じ込むなどと」医学士「ハイ夫が貴方に教わった兵法のいろはですよ。確か停車場へ荷物を取りに行くとか云って私に油断させ、爾して此の家へ忍び込んだは貴方でしたねえ、唯貴方の名刺を頂かなんだは残念ですが、夫を戴いたりする間に気が附かれては成らぬと、何れほどか私の心が迫(せ)かれたでしょう。ナニ名刺は今戴かずとも貴方が抵抗力のなくなった頃、衣嚢を探れば分ります。何しろ貴方のお得意の此の兵法のいろはと云うは、用いて見ると仲々功能が有りますねエ」余は悔しさに地団太を踏んだ。余「エエ、其の様な無礼な言葉は聞きたく有りません、口数に及ばず一言でお返辞なさい。此の戸を開けますか開けませんか」医学士「ハイ一言で申します、開けません」とせんの語音に非常の力を込めて云う憎さ、余「開けねば内から叩き破ります」医学士「何うかそう願います」余は我が身が微塵と成っても宜いと、全身の力を込めて戸に突き当ったが宛で石の壁に突き当てたる様な者だ、音はするけれどビクともせぬ、外からは医学士が「オオ中々力がお強い、今に戸が破れますから精出してお突き当り成さい」
 無益とは知っても斯う冷かされては其の儘止む訳に行かぬ、最一度突き当たって驚かせて遣ろうと、身構えをして居ると、忽ち室の中が暗くなって来た。余は此の時までも気附かずに居たが、医学士の置いて行った手燭の短い蝋燭が段々に燃え下り、到頭燃え盡きて了ったのだ。エエ残念な事をしたと、是も今更後悔の念に堪えぬけれど仕方がない、医学士は鍵穴から此の様を窺いて知ったと見え「サア婆さん最う行こうよ、己はな、油断させる為に手燭を室の中へ置いて来たから、夫が気に成り何でも蝋燭の盡きるまで調弄(からこ)うて居るが得策だと思ったが最う調弄うて居る必要もなくなった」と云い捨てて全く立ち去る様子である。彼何所迄悪智恵の行き届く悪人だろう。到底余の如きの手に終える奴ではない、余は只管に呆れつつも「お待ちなさい、お待ちなさい」と呼び立てた。けれど彼は耳にも掛けずに去って了った。後は深山の様に静かで、爾して真の暗闇である。

    第五十八回 絵姿の眼

 余は実に痛い目に遭った、真暗な一室へ閉じ籠められ、今は如何ともする事が出来ぬ。
 何うすれば好いだろうと様々に考えても何の思案も浮んで来ぬ。此のまま茲に飢死にせねば成らぬだろうか。そうだ何うも飢え死ぬるまで此の室の囚人となって居る外はない、余を閉じ籠めた悪医学士の目的は分って居る、余に此の家の秘密を探られ自分等の罪悪を察せられたと思うから、唯余を此の世になき者とする一方だ、徒らに余を窃(いじ)めたり威したりする訳ではなく真に余の一命を取る積りで掛って居るのだ、何も爾としか思われぬ。
 誰か余を助けて呉れる者は有るまいか。イヤ有る筈がない。余が此の家に居る事は誰も知らぬ。真の夜中に、誰一人知らぬ間に我が家を脱出し、尤も途中でローストンの停車場から秀子に宛て電報を出したけれど用事の為倫敦(ろんどん)へ行く様に書いて置いた。余が数日帰らねば必ず倫敦を探すに違いないが、倫敦に居ぬとなれば其の上の探し様はない。
 此の家の奴等は人を殺すのを商売の様にして居るのだから、余一人を殺すのを爾まで臆劫にも思うまい。庭の樹の下へ穴を掘ると婆の喋ったので分って居る、今まで幾人も此の室で殺して屋敷うちへ埋めたに違いない、余が此の通りの目に遭ったとて、誰がそうと知る事が出来よう。単に倫敦から行衛知れずに成った者と見做されて了うのだ。
 実に辛い、残念だ、自分の死ぬるを厭わぬとしても、後で秀子が何の様な目に遭うだろうか。余の外に保護者とてはなく、叔父は有ってもなきが如しだ、少しも真逆の時の役には立たぬ。事に寄ると今既に秀子は肝腎の時に余が不在と為ったのを心細く思って居るかも知れぬ。
 お浦が紛失して未だ幾日も経たぬのに、又も余が消滅したのならば、世間の人が幽霊塔を何の様に言うだろう。叔父も住み兼ねて他へ引き移るかも知れぬ。
 併し空しく考えたとて詮ない訳だ、何とかして逃げ出さねば成らぬ。命の残って居る限りは逃げ出す道も求めねば成らぬ、併し此の暗やみで室の中の様子さえ分らぬでは道を求める由もないのだ。何時まで暗い訳ではなく、五六時間も経てば自ら夜は明ける、とは云え昼間では益々逃げ出すに都合が悪い。扨は明日の晩まで此の室に居ねば成らぬのか知らん。
 如何にも癪に障る訳だ、夜の明けるまで寝るとしても埃の一寸も溜って居る室の中に身を横たえる訳に行かず、室の何所かに寝台でも有れば好いのに、爾だ、手探りに探って見よう、探って少しでも能く室の様子を知り、縦し身を横たえる所はないにしても少しでも早く逃げ出る道を得ねばならぬ、斯う思って余は探り探り元の室へ来、中の住者にも構わず、只管四方の壁を探ったが、一方には昔火を焚いたと思われる燈炉(すとうぶ)の様な所も有る、窓も有る、窓には大きな鉄の棒を竪に幾本もはめて有る、昔は多分立派な居室ででも有っただろうが今は全く牢屋も同様だ。窓の鉄の棒などの頑丈なことは、宛で熊でも縋り相だ。
 又一方の壁には入口と違って通常の戸の締った出口の様な所が有る。アア此の室は一室ではなく、幾室か続いて一組の座敷を為して居るのであろう。次の室、居室、寝室と元は立派に備わって居たのかも知れぬと、更に其の戸を開けて見ると錠も卸りて居ぬ、全く次の室らしい、之へ歩み入って又探ると、茲は前の室と違い、様々の造作がある、押入、戸棚、化粧台の様な物も手に触わる、爾して片方には、オヤオヤ寝台がある、最一つ次の室が有ろうかと探って見ると、成るほど一つの戸口は有るけれど、此は固く締って居る、此の上に探ったとて同じ事よ、先ず寝台の有るのを幸いに、矢張り夜の明けるまで寝るより外は仕方がない。
 寝台は爾ほど汚れても居ぬ様に思われる、埃の臭気は鼻に慣れて別に感じぬが、其の外に何だか鼻なれぬ香いがある、扨は女が此の間に居て今に化粧品でも残って居るのか知らん、余り心持の悪くない香いだ、臭気ではなく寧ろ香気だ、爾だ爾だ化粧台の有ったのを見ても女の住んだ事は分る、斯う思うと幾分か心の中も寛(ゆるや)かになり其のまま寝台へ上ったが、香気は極微弱では有るけれど余の神経へ最と妙なる影響を及ぼした。確かに此の香いは秀子が常に愛して居る香料と同じ者だ、秀子の室へ這入る度に余が精神の爽かになるのを覚えるのは確かにこれだ、扨は此の室が即ち秀子の居た室か知らん、秀子が此の家に居た事は様々の事柄で察せられるのみならず、宵の程幾度か婆の口から美人と云ったのも秀子の様だ、シテ見ると此の寝台が秀子の寝た跡かも知れぬ。
 余は唯是だけの事に大いに心を打ち寛(くつろ)ぎ、何時の間にか眠って了った、僅かに二三十分も眠ったかと思う心持だのに、目が覚めて見れば早や、古い窓の戸の透(すき)から朗かな旭日の影が射して居る、余に取っては蘇生の想いだ、気も軽く寝台より下り、室中を見廻したが、室に在る多少の小道具などを見ると茲に秀子の身の秘密が幾等か残って居る様に思われた。併し此等よりも猶余の心を惹く一物は寝台の枕の方に当たる壁に、大きく貼り附けてある異様な絵姿である、イヤ其の絵姿の眼である。

    第五十九回 次の間の住者

 絵姿は余り古くもなく勿論見事でもない。多分は名もない絵工が内職に描いたのであろう。併し大きさは絵絹が勿体ないほど大きい、姿は女の立った所である、何も別に取り所とてはないが、唯其の眼が、真成に生きた様な光を発し、余を瞰(み)下して居る様に見える、顔にも容(かたち)にも生気はないが眼だけには実に異様な不似合な生気が有る、画の眼とは思われぬ。
 余が今の境遇は、知りもせぬ女の画姿などに気を留めて居るべきでない、夫だのに何となく其の眼だけが気に掛かる、扨は余が未だ寝呆けて居るのか知らんと自分ながら怪しんで自分の目を擦って見た。爾して再び頭を上げて見直したが、是は何うだ、画姿の眼の生気は全く失せて居る、何の意味も何の光もなく、矢張り画相応に無趣味無筆力の眼である、余は何うしても合点が行かぬ、或いは寝呆けて見誤ったのかも知れぬが、併し此の画像の眼に何等かの曰くがあるに違いない、決して自分の見損いとのみは思えぬ。
 けれど其の詮索は、今は仕て居られぬ、第一に見たいのは昨夜の、次の室の住者である、彼は何者か何の様な姿形か、斯う思って次の室へ行って見たが、室の向うの片隅に小さくなって背屈(しゃが)んで居る、夜前思うた通り脊僂(せむし)の男、イヤ未だ男とも云い難い十五六の子供であるが、其の穢く汚れて居る事は譬うるに物もない、髪の毛は何時剃刀を入れたとも知れず、蓬々と延びて塵に塗り、猩(しょう)々の毛の様に顔に被さり、皮膚の色は殆ど煤がかった鼠色である。斯うも不衛生な有様で能く先ア活きて居られることだ。余は色々と声を掛けたが、全くの白痴と見えて一言の返事もせぬ、唯異国から連れて来た動物が檻の中から珍し相に人間の顔を眺めるのと略ぼ同じ面持を示して居る。何故に此の様な者を匿まって置くであろう、分った多分は可なり財産の有る家に生まれたので、其の親が世間体の為に此の様な子を家に置く訳にも行かず、と云って慈善院などへ入れるのも世間へ知れる恐れがあるので、金を附けて此の家へ預けたのでも有ろう。爾だ、此の家は総て人の秘密を食物にして居るので、此の様な者を預り、親から金をユスリ取る事の出来る間は活かして置き、金が出ぬ様になれば殺してひそかに庭の木の下へ穴を掘って埋めるのだ。世間に満ざら類のない商売でもない、物の本では折々読んだ事もある。
 先ア何しろ此の態では可哀相だ、救い出して人間並みの待遇を受ける事に仕て遣り度い。縦しや秘密の場所へ隠すにしても、是では遙かに犬猫に劣る仕向だから、若し余が茲を脱け出る事が出来れば必ず此の者を連れて出よう、夫が出来ずば此の者と共に留まり自分の手で傷わって遣ろうと、余は今までに覚えぬほど惻隠の心を起した。
 切(せめ)ては此の室の中で窓の隙から日の光の差す辺へでも坐らせて置き度いと思い、手を取って引くと、オヤ其の手に麺麭(ぱん)の屑(かけら)を持って居る。扨は今朝既に食物の差し入れが有ったと見える、斯う思うと誠に賤しい話では有るが余には未だ差し入れがない、時計を見れば、早朝かと思ったのに既に九時を過ぎて居る。余は俄かに空腹を感じたが、何でも余は医学士の言葉の通り断食の儘で、身体の弱り果てるまで置かれる事と見える、今からひもじいなど思う様では仕方がないと、忽ち思い直して再び彼の手を引き立てると、彼の足には鎖が附いて重さが七八貫も有ろうかと思われる鉛の錘(おもり)へ、極短く結び附けられて居るのだ。
 夜前は飛んだり跳ねたりして居たのに、アア爾だ今朝食物の差し入れの時、更に繋ぎ直されたのだ、誰が此の様な事をするか、是も医学士だ、シテ見ると医学士が今朝茲へ這入って来たのだ。実に大胆不敵な奴、余が此の室に居るのも構わず、イヤ夫とも余の眠って居たのを知って居たか知らん、爾だ知って居た、知って居た、爾なくば到底も這入って来はせぬ、併し待てよ余の眠ったを知って居たとすれば、何処かからひそかに余の挙動を窺いて居ると見える、ハテ其の様な窺く所があるか知らん。オオ、分ったぞ、分ったぞ、アノ絵姿の眼がそれだ、目の所が抉抜(くりぬ)いて有って、丁度外から其の目へ目を当てて中を窺くのだ、余り面白くもない工風を仕た者だ、宜し、斯うと分れば余にも亦余だけの工風がある。
 余は胸の中に工風をたたみ、先ず此の住者の足の鎖を解いて遣ろうと、衣嚢から例の小刀を取り出して、其の中の錐や旋抜きなどを、鎖に附けて有る錠前に当て、智恵の限りを盡して見たが凡そ三十分の余に及んで到頭錠前を外して了った。
 白痴ながら住者は甚(ひど)く喜んで室の一方の隅へ行き、何か拾って握って来て、お礼と云う見得で余に差し出した。其の手を開かして見ると、有難い、昨夜余が翻(こぼ)した燐燧を拾い集めた者で其の数が七本ある。余は涙の出るほど有難い、早速受け取って、一本の葉巻莨(たばこ)を燻らせたが、是でも蘇生の想いがある、ナニ空腹も大した苦痛ではない。
 余は何か返礼をと思い、次の室へ行った、化粧台の中にある小箱や抽斗の戸などを外して来て夫等を砕いて煖炉に火を焚いて遣った。ナニ此の室の造作は悉く薪にしても惜しくはない、手当り次第に持って来て投げ込むと中々大きな火が燃え出したが、秋とは云えど朝などは早や肌寒を覚える頃だから、彼白痴の喜ぶ事、手を拍って煖炉の前で雀躍(こおどり)して居る、是が多分は余が生まれて以来第一等の功徳であろう。

    第六十回 後に三本

 煖炉の燃えて居る間に余は次の室に行き戸棚の中を検査したが、殆ど無一物の有様では有るけれど棚の隅に二三の薬壜が埃に埋まった儘である。若し余の想像の通り秀子が此の室に入った事が有るとすれば或いは是等の薬を呑んだかも知れぬと、取り出して埃を吹き払い、其の貼紙を見ると、一個は「阿片丁幾(ちんき)(毒薬)」と記して有る、一個は「発病の際頓服(とんぷく)す可し」とあり、残る一個は単に「興奮薬」とのみ記して有る。医学の心得のある人なら是だけで何等かの想像も附くだろうが、余には別に手掛りと云う程の手掛りにもならぬ、次に押入を開いて見たが、下の隅に着物を丸めて突込んだと云う様な一塊がある。取り出すと非常に黴臭いが、確かに女の着物で、是も二三種は有る様だ。先ず別々に取り分けたが、其の内の一枚は秀子のに相違ない、秀子が何時も着て居る日影色の無地である、今一枚は少し短くて幅が広いかと思われる、之は仕立の粗末な所が何うも出来合いの安物を買ったのらしい。或いは虎井夫人が着たのでは有るまいか、此の着物と一緒に成って、白布の上っ張がある、之は看護婦などの着けるのだ、扨は秀子が此の室で病気をして看護婦でも呼んだのであろうか、夫とも秀子か虎井夫人かが之を着けたのであろう、執れとも判り兼ねる。
 今一枚、妙な浅黄色のが有るから最後にそれを検めると、余は実に気分が悪くなった。何うだろう、其の服は英国の監獄署で女の囚人が着ける仕着せである。真逆に秀子が此の様な物を被た筈はない。虎井夫人であろう、爾だ虎井夫人だ、虎井夫人だ、念の為衣嚢を引っ繰返して見れば、或いは中から誰のだか分る様な品物が出るかも知れぬ、ドレ引っ繰返そうかと余は手を出したけれど容易にそれほどの勇気が出ぬ、万に一つも秀子のと云う証拠でも出たなら取り返しが附かぬ、イヤ其の様な筈はない、何で秀子が囚人の服などを着ける者かと、又思い直して終に其の中を取り調べたが有難い事には中に何にもない。矢張り誰のとも分らぬのだ、エエ余計な心配をしたと、つまらぬ事を安心して是から残らずの着物の衣嚢を検めたが、唯一つ秀子のと思われる日影色の着物から一枚の名刺が出た、唯夫だけの事だ。
 名刺の活字は鉛筆で甚く消して有る。けれど熟く視れば読める、「医学士大場連斎」とある、これが彼の医学士であろうか、更に名刺の裏を見ると、同じ鉛筆の文字で細かく「今の境遇にて真に御身を助け得る人は仏国巴里ラセニイル街二十九番館ポール・レペル氏の外には決して之なく候、既に同氏へ御身の事を通信致し置き候間、直々に行きて御申込成さる可く候」とある。何の事だか分らぬけれどこれこそは大切の手掛りとも云う可きだ。余が此の室を逃げ出し得ずして死んで了えばそれ迄だが、若し死骸と為らずして此の室を出る事が出来たなら必ず此のポール・レペルと云う巴里人をも尋ねて見よう。秀子を助け得るは此の人の外に無いと云う意味だから、秀子が何の様な境遇で何の様に助けられたのか夫とも茲に「御身」とあるは、秀子ではないのか、其の辺の事を突き留めずには居られぬ。
 其のうちに早や午後と為り日暮と為った。余は空腹が益々空腹と為る許りだ。此の上に取り調べる所もないから、もう逃げ出す道を求める一方だが、さて何うしたら逃げ出されよう、少しも見込みが附かぬ。
 考えながら次の室へ行って見ると、彼の白痴は煖炉の前に仆れ、眠ったかと思えば可哀相にサ、余が眠らぬ為此の者にまで食物の差し入れがないと見え弱り果てて、物欲し相にサ、余の顔を眺める許りだ。余は傷(いた)わって「今に私が此の室から連れ出して上げるから、ヨ、辛くても少しの間、辛抱して居るのだよ」と言い聞かせた。彼は聞き分けたと見え、重そうに起き上った、爾して自分の足と繋がれて居た鎖とを、暫しの間見較べて、頓て余の今まで居た次の間の方へ行った。
 見れば既に煖炉の火も消えて居る。猶焚く物は有るのだから、再び火を起すのは容易だが、何しろ燐燧が乏しいから夜に入って寒くなるまで此のままに置くが好かろう。
 夜に入らぬうち逃げ道を探すのが肝腎だと、余は又立って室中の窓を悉く検めたが、孰れも真の牢屋の様に、鉄の棒を入れてある棒の中に、若しや上下の弛んで居るのはなかろうかと、一本々々を揺さぶって見るけれど孰れも堅固だ。幾等余の力を加えたとて其の甲斐はない。最早落胆せざらんと欲するも得ずだ。其のうちに愈々夜に入った、万感交々(こもごも)胸に迫るとは此の様な場合を云うだろうか。勿論腹は益々空く一方だが、寒さも追々に強く感ずる、何しろ腹に応えがなくては寒さを凌ぐ力もないと見える。最う煖炉を焚かずには居られぬ、丈夫な余さえも此の通りだから彼の白痴は猶更耐え難いだろうと思い、再び煖炉を焚き附けて次の室へ行き、残り少ない燐燧を奢って見廻すと白痴は居ぬ、扨は何所か出て行く所があるだろうかと二本目の燐燧を擦った。心細い事には最う後に三本しか残って居ぬ。

    第六十一回 余の身代り

 何処に出口が有って彼の白痴は居なく成ったか。二度目の燐燧(まっち)で照らし見ると、居なくなったのではなく、余の寝た寝台の上に寝て居るのだ、此の様な境遇を爾まで辛くも思わぬ、其の眠りの安々と心地好げに見ゆることは、ホンに羨ましいと云っても宜い。余は寧っそ白痴に生まれたなら、苦痛を苦痛とも感ぜぬだけ却って仕合せで有ったかも知れぬが、今更それ愚痴に過ぎない。
 斯う旨々と眠て居る者を、起すのも罪だから其のまま余は煖炉の前にかえり燃える火を眺めて居たが、余ほど身体が疲れたと見え、椅子に凭(よ)ったまま居眠った。幾時の後にか目が覚めて見ると煖炉が全く消えて、室の中は昨夜の様な暗闇と為り、寒さは宛かも背中から水を浴びせられる様だ。暁方まで何うして凌ごうかと思って居るうち、何所からか此の暗闇の室へ散らりと燈光が射した。熟く見ると、庭に向った方の窓の戸の隙から洩れて来るのだ、最う何時か知らぬけれど此の夜更に誰が何の為に庭へ出て居るだろうと窓の所へ行き、鉄の棒に顔を当て戸の隙の最も大きい所から窺いて見るとズッと向うの樹の下に燈りを持って居るのは婆で、其の燈光をたよりに彼の医学士が鍬を以って大きな穴を掘って居る。
 是だ、是だ、穴を掘って死骸を埋めるとは、此の事だ、ハテな今夜は誰を埋めるのだろう、考える迄もない。余を埋める積りなのだ。医学士の言葉では余が空腹の為疲れるのを待ち、爾して取って押えると云う事で有ったから四五日は間があるかと思ったが、何かそう長く待たれぬ事情でも出来たのか、夫とも余が既に疲れて了ったと見込んだのか、ナアニ、未だ中々彼等の手に取り拉れる男ではない。来るならば来て見るが好いと、腹立たしさと共に俄かに勇気が出、身を引き緊めて瞰て居ると、穴は最う余ほど前から掘って居た者と見え、早や掘り上げて、医学士は身を延ばして見直した上、婆と共に家の方へ帰って来た。
 サア、愈々余を殺しに来るのだと、余は彼の小刀を手に持って、入口の戸の所へ行き立って居ると忽ち次の室に当たり、非常な物音が聞こえた。何の物音とも判断は附かぬが、何しろ尋常ではないと思い、徐々次の室に行き、三本残る燐燧のうち一本を擦って見たが、余は余りの事に「アッ」と叫んだ。何うだろう、彼の白痴が寝て居た寝台がなくなって床へ夫だけの穴が開いて居る、全く、彼の寝台が陥穽で、床が外れて、寝て居る人ぐるみ下へ落っこちる様になって居るのだ。
 此の様な惨酷な仕組みが有ろうとは思わなんだが、何でも昔此の家へ住んだ貴族か何かが敵を殺す為に此の様な秘密の仕掛を作って置いたのだ、夫を医学士が利用して、今まで幾人の命を奪ったであろう、実に残忍極まる奴等だ、夫にしても何が為にアノ白痴を此の仕掛けで殺しただろう。殆ど鶏を割くに牛の刀を以ってする様な者だと、余は少し怪しんだが、アア分った、彼等は此の寝台に白痴が寝て居ようとは思わず、全く余が寝て居ると思ったのだ。
 余は其の穴へ近づいて下を瞰いたが、真っ暗で何れほど深いか更に分らぬ。仕方なく手に有る燃え残りの燐燧を其のまま落して見ると、凡そ二丈ばかりの深さはあるかと思われる。燐燧は光を放ちつつ落ちて妙な音がして消えて了った。是で見ると下は水だ、何でも古井戸の様な者で、白痴は余の身代りと為り其の中へ入って水死したのだ。
 実に可哀相な事をした、と云って此のまま居れば遠からず人違いと云う事が分り、彼の医学士が驚いて何の様な事をするかも知れぬ、成るにもせよ成らぬにもせよ、何とか此の室を出る工風をせねば成らぬ、彼が充分に用意して、余を殺し直しに来るのを便々と待って居て耐(たま)る者かと、余は全く死物狂いになった。勿論何所から逃げると云う見込みはないが、聊か便りとするは寝台の枕許に当る絵姿である、寝台は先刻煖炉を焚いた室の方へ足を向ける方向に据って居たから絵姿の背後は廊下に違いない。爾して絵姿の眼から内を窺く眼が、丁度絵姿の目の様に見えた所から察すると、之を貼り附けて有るのは壁ではなく、板であろう、板ならば叩き破られぬ事はないと、先ず試みに叩いて見た。思ったよりも薄い様な音だ、余の力ならば一破りだ。
 余は先ず小刀を以って抉って見たが、大して骨も折れずに其の刃が突串(つきとお)った。板の厚さは僅かに四分位である、是ならばと所々に穴を開け、頓て全身に力を籠めて、推しつ叩きつした。初めてから三十分と経ぬうちに其の板を推し破った。此の様な事なら、早く気が附けば好かったのに、併し夫は今思うても帰らぬ事、兎に角室を脱け出すは勝利の第一歩だから、何の様な所かと又も燐燧の二本のうち一本を擦って見ると思った通り廊下であるが、此の廊下はダラダラと雪崩の様に向うの方へ傾いて居る。偖(さて)は穴倉へでも通じて居るのかそれとも下の室へ出られるのかと、下へ下へと降りて行くと突き当たる所に又戸がある。アア是で分った、絵姿の所の板が薄かったのも、全くはアノ板を破ったとて茲に此の様な戸が有って到底外へ出られぬ様に成って居る為である。アノ板戸はホンの身を隠して中を瞰(のぞ)く便利の為仕切りだけに設けたのだ。
 爾すればアノ戸を破ったのも実際何の役にも立たぬかと、聊か残念におもい、先ず四辺(あたり)の様子を考えるに、此の戸の前へは横手からも廊下が来て居て、茲で「丁」の字形になって居るらしい。横手へ行ったとて矢張り、突き当りに戸が有るのに極って居るから、先ず此の戸から試そうと、厚い薄いを叩き試みるに、戸の先に人の声がする。「ナニ医学士、其の様に甚く叩かずとも其の戸は先ほど婆さんが瞰きに行ったとき開けた儘で、錠は卸りて居ないのだよ」此の声は確かに穴川甚蔵である。錠が卸りて居ないとは何たる仕合せだろう。余は蘇生の心地をして「医学士ではなく私ですよ」と云いつつ其の戸を開いて内へ這入った、果して甚蔵の寝て居る室である。

    第六十二回 毒蜘蛛

 今考えて見ると彼の絵姿を貼ってあった所は元の戸口で有ったけれど、其の戸がなくなったので板を填めそうして壁の色の違うのを隠す為に詰まらぬ絵を貼り、旁々外から内の様子を窺く便利に供して置いたのだ。つまり彼の室の内で一番破り易い所であった。余が彼処へ目を附けたのは幸いで有った。其の上に丁度甚蔵の寝室の戸の開いて居る時に出て来たのは殆ど天の助けとも云う可きだ。
 余が甚蔵の室へ這入ると、彼は寝て居ながら直ちに短銃(ぴすとる)を取って余を狙い「身動きをすると命がないぞ」と威かした。余は落ち着いた調子で「穴川さん、貴方は馬車で此の家へ帰り着くまで、有難いの、命の親だと私を拝まぬ許りで有ったのに、短銃を以てその謝意を表するのですか」穴川は余の顔を打ちながめて、「エ、エ、貴方ですか、大場医学士が貴方だとは云わぬ者だから」と言訳の様に云いつつも猶短銃を下げようとはせぬ。余は此の忙しい間にも大場と云う名を耳に留め、偖(さて)は秀子の服と思われる彼の日影色の被物から出た名刺に大場連斎とあったのが全く此の悪医者だなと、心の底にうなずいて「ハイ汽車の中から此の家まで貴方を介抱して来た当人です、ナニ未だ逃げもせず、貴方を害しもせぬから暫く其の短銃をお下げなさい」穴川「イヤ此の身体では此の外に頼りとする者も有りませんから下げません。けれどナニ貴方が正直にさえ仕て居れば、必ず射殺すと云う訳でもないから」余「では有体に云いますが、貴方に少し話が有るから、外の人に妨げられぬ様に此の室の戸を閉じなさい」余「鍵は何所にありますか」穴川「鍵は其の戸に附いた儘で有る筈です」成るほど錠前の穴へ填った儘である。余は全く此の家を立ち去る前に厳しく穴川に談判して置かねば成らぬと思う為、医学士の這入り得ぬ様、中から確かに錠を卸した。爾して室の中を見廻すと、穴川の枕許に、小卓の上へ、食物を盛った皿や飲物などが出て居る。多分は医学士が仕事を了った上で夜食する積りであろう。けれど遠慮する場合で無い。「穴川さん今日一日食干(ひぼし)に遭った為、空腹で言葉の順序さえ間違い相です。先ず御馳走に與かりますよ、話は腹の出来た上に致しますから」と云い、卓子に就いて遠慮無く喫(た)べ始めた。勿論粗末な品では有るが、此の様な旨い思いは、覚えてから仕た事がない。甚蔵は感心した様子で「アア好い度胸だ、立派な悪党に成れる」と独語(ひとりごと)の様に云うて居る。余「ナニ悪党などに成り度くは有りませんが、腹の空いた時に喫いたいのは度胸の有無に係わりませんのさ」
 余が喫べて居る間に室の外では頻りに足音がする。何でも医学士と婆とだろう。音の様子では余の閉じ籠められて居た室を検めに行ったらしい。今に驚いて降りて来るだろうと思う間もなく、果たしてドサクサと降りて来て室の外から「博士、博士、大変だよ、彼奴巧みに様子を察し、身代りを立てて置いて逃げて了った」確かに医学士の声だ。穴川「ナニ逃げはせぬ、今此の室で、貴殿の用意して置いた、夜食を喫べて居るのよ」医学士「エエ彼奴がか、余っぽど腹が空いたと見える、拙者の今までの経験では空腹ほど人を意気地なくする者はない。先ア好かった拙者は最う、貴殿が彼奴に絞め殺されては居ぬかと気遣ったが」穴川「ナニ身体は利かずとも短銃を持って居るからそう易々絞め殺される様な事はない、安心したまえ」医学士「でも茲を開けて呉れと云って貴殿が起きて来て開ける事は出来ず、全体此の戸は何うして錠を卸したのだ」云いつつ、頻りに戸の引き手を廻して居る。穴川「ナニ短銃で差図して彼奴に鎖(とざ)させたのだよ」医学士「では再び短銃で差図して開かさして貰おう」穴川「イヤ少し拙者と彼の間に話があるのだ、それの済むまで、例の室に控えて居て貰いたい」医学士「仕様がないなあ」と呟きつつ往生する様子であるが、今度は婆の声で「甚蔵や、甚蔵や、今度は大層旨く穴が掘れたよ。段々慣れて来る者だから次第に医学士の手際が好く成ってサ」穴川「エエ、其の様な余計な事を云うに及ばぬ」
 叱り附ける声で、婆も黙って了った。余も此の時、器だけを残して丁度食事を終ったが、是等の有様に依り熟々感じた。成るほど秀子が、毒蜘蛛が網を張って居て、人を捕えて逃がさぬ様に話したのは茲の事だ、毒蜘蛛と云ったのは全く言葉の上の比喩(たとえ)で有ったけれど、学士と云い博士と云い、爾して博士の母までも全くの毒蜘蛛だ。秀子も一度は此の網に掛ったに違いない、イヤ今以て未だ其の網から脱け得ては居ないのだ、それを脱け得させて遣るのが余が目的だ。余とても同じ網に掛ったけれど、幸い何うやら斯うやら脱けて出られ相に成った。今まで脱け得ずして毒蜘蛛の餌食と為って果てた者は幾人であろう。死骸を埋める穴を掘るのに慣れて、医学士の手際が上ったなどとは、唯短い言葉だけれど、能く思えば実に千万無量の恐ろしさが籠って居る、其の代り余が脱け出たなら此の毒蜘蛛の巣窟に大掃除を施さずには置かぬ、これから愈々其の談判に取り掛かるのだ。

    第六十三回 応か否か

 余は穴川に大談判をせねば成らぬが、兎に角彼の手に在る短銃が気に掛かる。折さえ有れば奪い取り度い、アレを取って了いさえせば、彼は骨も筋もない海月(くらげ)同様の者になるのだ。
 余は故と短銃に少しも頓着せぬ様な風を見せて、愈々言葉を発した。「扨穴川さん、私が貴方と汽車に同乗して貴方を助け、爾して此の家へ来る様に成ったのは偶然の様で、偶然でない、実は貴方と談判を開く積りで幽霊塔から尾けて来たのだよ」と云って先ず余の名刺を出して渡した。彼は幽霊塔と云う言葉に既に驚いた様子であったが、余の名刺を見て益々驚き「エ、エ、貴方が丸部道九郎さんですか」と呆れた様な顔をした。是が彼の運の盡きで有った、呆れる拍子に少しの隙が有ったから、余は直ぐに彼の手から短銃を□ぎ取った、真に咄嗟の間で、彼に少しも抵抗の猶予を与えなんだのは我ながら手際で有った。
 彼が立腹の一語をも発し得ぬ間に、余「此の様な物が有っては話の邪魔に成って仕方がない。話の済むまで私が預って置きましょう」彼「夫は非道い、出し抜けに奪い取るとは紳士に有るまじき――」余「イヤ紳士の談話には短銃の囃(はやし)など用いません」彼「でも夫がなくては私は怪我人で身体も利かず」余「イヤ身体は利かずとも口さえ利けば沢山です」彼「宛で貴方の手の裏に入った様な者で、貴方の強迫なさる儘に」余「イヤ私は短銃を以て人を強迫するのは嫌いです、其の証拠には此の通り短銃を衣嚢の中へ収います」と云いつつ早や腰の辺にあるピストルをポケットへ入れて了った。
 唯是だけで、早や主客処を異にした有様と為った。彼は猶グズグズ云うを「お黙り成さい、男らしくもない」と一言に叱り鎮めて置いて「実は私は茲で貴方に射殺されて了い度いのだ。勿論生きては還らぬ積りで、夫々後の用意をして貴方を尾けて来たのですから」甚蔵は独語の如くに「アア夫だから秀子が意地が強かったのだ、何の様な目に逢っても面会はせぬから勝手にするが好いなどと、失敬な返事を言伝にして」余「或いはそうかも知れません、兎に角私は叔父朝夫に相談して、此の身が若し三日目までに帰らなんだら、殺された者だから直ぐに其の筋へ訴えて捕吏を此の養蟲園へ差し向けて呉れと云うて有ります。夫だから何うしても明日中に帰らねば好くないのです、今夜此の通りアノ室を脱け出したのは私よりも寧ろ貴方の為と云う者です」穴川「だって短銃を取られた上は、貴方を殺す訳にも行かず、捕吏が来たとて私を捕える廉(かど)は――」余「有るかないか捕吏の方で判断するから茲で争うには及びません。先ず私の話からお聞きなさい」穴川「ハイ其の様に云わずとも聞くより外に仕方のない場合です」余「では云いますが、貴方は今から三十日以内に、此の土地を去り、外国へ移住なさい、再び此の国へ足踏みせぬと云う約束の上で、旅費は私が二百磅(ぽんど)出しますから」穴川「夫は何う云う訳で」余「何う云う訳とて、貴方が此の国に居ては秀子の幸福に邪魔に成ります」彼は何等かの決心を呼び起そうとする様に暫く無言で考えたが、頓て「左様さ邪魔にもなり助けにもなり、夫は私の心一つです、けれど否と云えば何うします」余「厭と云えば捕吏を差し向ける許りの事です。私が此の室へ忍び込んだのも、捕吏(ほり)を差し向ける丈の罪跡を得たいばかりの一念です。今は充分の罪跡(ざいせき)を見届けたから、貴方の否応は大して私に利害はなく、応と云えば無事に外国へ逃がして上げるし、否と云えば死刑と云う法律の手を仮りて人間の外へ、ハイ此の世の外へ引越して戴く許りです。サア何方を択(えら)びますか、敢て私から何方にせよと勧める訳ではない、唯貴方の随意の一言を聞けば好いのです、応ですか、否ですか」
 彼の顔附きは見るも憐れな有様である。立腹と当惑と、決心と恐れとが戦って居る、頓て彼は弁解する様な口調で「罪跡とて私に何の罪跡が有るのです、正直に蜘蛛を養って一家を立てて居る殖産家ですが、エ、二階に白痴を留め置いたのが罪跡ですか。彼は私の知った事ではなく、唯大場医学士、イヤ医学士ではないけれど仮に医学士と云いますが、監獄医大場連斎の頼みに応じ二階の空間を貸した迄で、貸した室へ大場が何を入れて置くか私の知った事では有りません」偖は彼の医学士は監獄の医者を勤めて居た者と見える、余「勿論大場の罪と云う事は逃れますまいが――」穴川「イイエ大場とても爾ほどの罪ではないのです、世間の医者が誰もする一通りの事をして居るのです」余「エ、世間一通りの事」穴川「ハイ夫は最う素人が聞けば驚きましょうが、医者と云う他人の家へ立ち入る商売から云えば当り前です。孰れの家にも随分家名に障る様な家族は有る者で、公の養育院や瘋癲院(ふうてんいん)などへは入れ兼ねる場合に医者に頼むのです。医者は頼まれて真逆に人一人を殺して了う訳にも行かず、仕方なく尤も秘密の場所を求めて隠し飼殺しにするのです。だから繁昌する医者は、大抵此のような秘密の場所を特約して有るのです」余「アノ贋医学士は其の様な繁昌する医者ですか」穴川「イヤ繁昌は何うだか知りませんが、彼は昔監獄医を勤めた丈に、人の家の秘密を他の医師よりは余計に知って居て、自然に秘密事件を頼まれることも多いのです。今居る白痴なども其の一です、成るほど白痴に対して多少は不行届きも有り、手当の悪いと云う非難は免れぬかも知れませぬけれど、それを罪跡などとは」余「成るほど私の思い違いかも知れません、併し罪跡か否やの鑑定は貴方と私と素人同志で茲で争ったとて果てしがないから先刻も云う通り其の筋の判断に任せましょう、寝台が陥穽に成って居て、眠って居る者を出し抜けに古井戸へ落し込んだり、或いは当主の母が燈火を持って、庭へ穴を掘り、爾して公の手続きも経ずに埋めた死骸が数の知れぬ程あるなどは、其の筋で医者の普通と認めるか、縦し又普通と認めた所で、家の当主には何の構いもない者か、其の辺の所は直ぐに分りますから、其の方が早道です。ドレ穴川さん誠に長座を致しました」と故と謝する様に云い、余は胸の中に充分の勝利を畳んで、座を立ちかけた。

    第六十四回 新たな生命

 余が愈々立ち去ろうとするを見て、穴川はあわてて熱心に引き留めた。「お待ち成さい、お待ち成さい丸部さん、少し云う事が有りますから」
 偖は彼全く閉口したと見える、余は言葉短かに「何ですか」穴川「貴方は未だ秀子の身の上を知らぬのです、私を追い払えば秀子が助かると思うから間違いです。秀子の身の幸福にする事の出来るは広い世界に唯一人しかないのです、其の人は私では有りません」実に異様な言い分で、余は合点し兼ねるけれど、何だか口調が嘘らしくも見えぬから「エ、何ですと」穴川「其の人の許へ行って頼みさえすれば、イヤ其の人が諾(うん)と承諾しさえすれば、誰が何と云ったとて秀子をどうする事も出来ません。私が此の国に居ようが居まいが少しも関係はないのです。又其の人の承諾を得ぬ限りは貴方が何の様に骨折ったとて少しも秀子の身を幸いにする事は出来ません、云わば秀子が神の使いの様な者で神の意一つで幸福にも不幸福にも成るのです。其の神へ願わずに他人が小刀細工を施したとて何うなりますものか」是だけ云いて余が猶充分に信ぜぬ様を見、「丸部さん、貴方は秀子が密旨を帯びて居ると云うのを聞いた事は有りませんか。それを聞いた事がなくば私の話は分りませんが、若しも聞いた事が有るなら必ずお分りになりますよ」益々奇妙な事を云うが、併し秀子の密旨などを持ち出す所を見れば聞き捨てる訳にも行かぬ。余「ハイ聞きました」穴川「命に代えても行い度いと云う程の密旨ですから一通りの事では有りません。其の密旨を誰が秀子に授けました。私の今云うた神様です、サア其の神様は秀子に命をも捧げさせようと云うのですから一通りや二通り秀子の身の運命を握って居るのではなく、全く秀子を、自分の思う儘にする事が出来るのです。秀子を助けると助けぬとは、其の人に縋るか其の人を度外に置くかの区別です、嘘と思って其の人にあって御覧なさい、縦しや秀子が死んだとても其の人なら新しい命を与えて秀子を生き返らせる事が出来ると云っても好い程です」
 余は問い返さぬ訳に行かぬ。
「其の人は誰ですか」穴川「サア其処が私の秘密ですよ、只は聞かせる事が出来ません、貴方から堅い約束を得た上でなくては」余「何の様な約束です」穴川「私を其の筋へ訴えたり、又は外国へまで遣ったりする前に、屹度其の人の所へ行くという約束です」余「其の様な約束が何になります」穴川「私に取っては重大な事柄です」余「何んで」穴川「貴方が其の人の所へ行って頼みさえすれば成るほど是では穴川を窘(いじめ)るにも訴えるにも及ばぬと云う合点が行って、私の有無を構わぬ事に成りますから」余「若し其の人の所へ行って、貴方の言葉が嘘だと分ったなら」穴川「其の時には私を訴えようと、何うなさろうと御随意です、勿論此の通りの身体ですから貴方が其の人の所へ行って来る間に逃げ隠れをする訳にも行かず、帰って来て捕えようと裁判所へ引き出そうと、ハイ何の様な目にも遭わす事が出来るのです」
 成るほど夫もそうである、其の人に逢って見て、若し余が穴川に欺されたと分れば其の上で散々に穴川に仇を復す事が出来る。欺される気で、其の人に逢って見るも一策だ。余「では其の人の住所姓名を聞かせて下さい」穴川「佶(きっ)と其の人の所へ行くと約束しますか」余「します」穴川「行くなどといって、行かずに其のまま私を訴えたりすればそれこそ秀子は助かりませんよ。秀子は其の人から新しい命を貰わねば助かり様のない身体です。今までも既に一度新しい命を貰って、其の恩返しに、密旨の為に働いて居るのだから今度も矢張り新しい命を貰い、爾して幸福の中へ更に生まれ返った様に成らねば無益です」
 余り異様な言葉だから、多分は余を馬鹿にする積りだろうと幾度か思い直したけれど、実地に試さねば分らぬ事、エエ欺されて見ようと思い「必ず其の人の許へ行く事を約束しますから住所姓名を聞かせて下さい、サア誰ですか」穴川は此の際になり、嘘か誠か、惜し相に少し躊躇し「仕方がない、私の身には大変な損害ですけれど云いましょう。巴里のラセニール街二十九番に住んで居るポール・レペル先生です」扨は日影色の着物から出た彼の医学士の名刺に、御身を助けるは広い世界に此の人の外にないと書いて有った其の人だ、事の符号して居る所を見ると満更嘘らしくもない。縦しや嘘にしても、多少は此の人が秀子の身の秘密に関係して居る丈は、確からしいから兎に角逢っては置く可きだと、余が心に思案する間に、甚蔵は全く残念に堪えぬ様子で「エ、此の人が再び秀子を保護し、新たな生命を与えたなら、最う秀子をユスる事も何うする事も出来ぬ、大事の金の蔓に離れる様な者だけれど、背に腹は替えれぬから仕方がない」と呟いた。余「では成る可く早く其の人の所へ行く事に仕よう」と口にも云い心にも思いて、甚蔵に分れを告げ、直ぐに此の室の窓を開いて其所から出て、爾して窓の外から先程の短銃をば「サア確かに返しますよ」と云って内へ投げ込み、ヤッと此の厭な養蟲園を立ち出でた。

    第六十五回 今は又――今は又

 養蟲園を出て、余は直ぐにも巴里へ行き度い程に思ったが、併し先ず秀子の顔を見たい。既に二日も秀子に逢わぬから、何だか他の世界へでも入った様な気がする、平たく云えば秀子の顔が恋しいのだ。
 此の時は既に夜明けで、夫から歩んで停車場へ着いたのが丁度一番汽車の出る時であった。直ぐに乗って午後の二時頃に幽霊塔へ帰り着いた、玄関へ歩み入ると番人が異様な顔して「秀子様も旦那様も貴方の行く先の分らぬのを大層御心配でした」と云う。其の言葉には語句の外に尋常(ただ)ならぬ所が見える、若しや余の留守に何か又忌わしい事件でも起こったのかと余は毎(いつ)になく胸騒ぎを覚え、唯「爾か」と答え捨てゝ後は聞かずに秀子の室へ馳せて入った。
 何事にも用心の行き届く日頃に似ず、室の戸も開け放して有る、中に入れば隅の方の傾斜椅子に、秀子は身を仰向けて倚り掛り、天井を眺めて、散し髪を椅子から背後へ垂らし、そうして両手を頭の上へ載せて組んで居る。実に絶望とも何ともいい様の無い有様である。殆んど余の来た事さえ気が附かぬ程に見えるから、余「秀子さん何う成さった」秀子は驚いた様に飛び起きて「オオ好う早く帰って下さった」と云い其のまま余の胸へ縋り附いた。不断は仲々此の様な事をせず、恐れでも悲しみでも又は嬉しさでも総て自分の胸へ畳み、最と静かに、何気なく構えて居る質だのに、今に限り斯うまでするは能く能くの事に違いない。「どうしました、先ア静かに話して下さい」と背を撫でて傷わるに、秀子「最うとても助かりません天運です、広い世界に、何で私だけ此の様な目にのみ逢うのでしょう。前には浦子さんを殺したなどという疑いを受け、今は又――今は又」と云い掛け、後の言葉は泣き声と成って了った。余「今は又何うしました、エ秀子さん又何かに疑いでも掛りましたか」秀子「掛りましたとも、ハイ私が父上を毒害したなどと云いまして」父を毒害とは何の事ぞ。余は「エ、エ」と叫んで我れ知らず秀子を推し退け「叔父の身に何か事変が有りましたか」
 秀子「ハイ、私の注いで上げた葡萄酒に毒が有ったとの事で、一昨日から御病気です」余「エ、一昨日から、爾して今は」秀子「今は何の様な御病体だか、下女などの話に少しお宜しい様には聞きますけれど――私が直々に介抱して上げたいと思っても、私を其の室へ入れては又も毒薬でも用いる様に疑い、近づけてさえ呉れません、此のまま父上が若しもお亡くなりなされば、秀子の毒害の為だと云い、又お直り遊ばせば秀子を遠ざけて、毒害を続けさせなんだ為だと云います、何方(どっち)にしても私は――」余「ですが、誰が貴女を父上の室へ入れません」秀子「附いて居る看病人です、多分は警察から探偵をば看病人の様に姿を変えさせて寄越したのだろうと私は初めから疑って居りますが」余「夫にしても余り乱暴な疑いでは有りませんか、何も父上を殺すべき謂われがないのに」秀子「イイエ其の謂われが有るのだから、運の盡と申すのです。何から何まで私が父上を殺さねばならぬ様に総て仕組が行き届いて居ます。誰か私を憎む者が――イヤ真逆に其の様な人が有ろうとは思われませんけれど、有るとでも思わねば合点が行きませんもの」
 余は恐ろしい夢を見て居る様な気持だ。「イエ秀子さん、誰が何と仕ようとも又運が何の様に悪かろうとも、最う私が居るなら、大丈夫です、決して貴女へ其の様な疑いを掛からせて置きは仕ません。既にお浦の事件でも貴女にアレ程重く疑いの掛かって居たのを私の言葉で粉微塵にしたでは有りませんか。少しも心配なさらずに全く私へ任せてお置きなさい」
 秀子「其の様に行けば、何ほどか嬉しかろうと思いますけれど、今度の事ばかりは、何方の力にも合いません」
 云う中にも余を便りにして幾分かは落ち着く様子が見える。余は何にしても叔父の容体が気に掛かるから、幾度も秀子に向い「全く安心してお出でなさい」と念を推した上、更に叔父の病室へ遣って行った。
 余が戸口まで行くと恰も中から看護人の服を着けた男が出て来た。看護に疲れて交代する所らしい、余は此の人の顔に確かに見覚えがある、けれど其の誰と云う事は今は云うまい、先ず急(せわ)しく其の男を引き留めて「イヤ一寸伺いますが、今此の病室へ入って好いでしょうか」看護人「可けません、ヤットお眠りに成った所ですから」余「では目の覚めた頃にしましょうか。併し今貴方に少し伺い度い事が有ります」看護人は怪しげに余の顔を見たけれど「貴方は誰方です」余「ハイ病人の甥丸部道九郎です」看護人「では何なりとお返事致しましょう」余は此の者を連れて、密話に最も都合の好い一室に入り、先ず一椅子を指して「サア立って居ては話も出来ません、之へお掛けなさい、エ、森主水(もりもんど)さん」と名を指した。

    第六十六回 何を証拠

 姿は異って居るけれど確かに此の看護人は先にお浦の事件にも関係した探偵森主水である。余は彼の目の底に一種の慧敏(けいびん)な光が有るので看て取った。
 彼は名を指されて痛く驚いたが強いて空とぼけもせぬ。忽ち笑って「イヤ姿を変えるのは私の不得手では有りますが、けれど素人に見現わされたは二十年来初めてです。
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