幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一埓(らつ)は何の様に終わるだろう、余は息を殺して居ながらも全身の筋肉が躍る様な想いである。秀子は再び虎井夫人に向い「厭ですよ。アノ様な人に逢うのは、ナニ初めから来て居ると知れば茲へ出て来る所ではなかったのです、私を欺して連れ出すとは余り甚いではありませんか」と叱る様に云うた、夫人「でも逢わせるのが貴女の為だと思いました、悪気でお連れ出し申したではなく」秀子「何うか貴女から彼にそう云って下さい、金子の外のユスリには決して応ずる事は出来ぬと」夫人「そう云えば決闘状を送るのも同じです、彼は決して容赦せぬ気になりますよ」秀子「構いません、今云う通り、最早密旨の成就する見込みは絶えましたから、愈々の果ては斯うと充分覚悟を極めて居ます、何うか彼に窘(いじ)めて呉れと私から言伝てだと云って下さい」言い捨てて秀子は虎井夫人を振り放し、家の方へ去って了った、何と見上げた勇気ではないか、成るほど是だけの勇気がなければ、女の身として唯一人で、何の様な密旨か知らぬけれど密旨に身を委ねるなどと云う堅い決心は起し得ぬ筈だよ。
 虎井夫人は「仕ようがない事ネエ」と呟いたが、病後の身で秀子を追い掛けたり引き留めたりする事は出来ぬと見え、其のまま呟き呟き星の光の方へ行って了った、サア余は何うしたら好かろう、夫人と同じく星の光の方へ行き、彼の男を捕えて呉れ様か、イヤ捕えたとて仕方がない、夫より彼奴の立ち去るを待ちその後を附けて彼奴の何者かと云う事を見届けて呉れよう、何でも此の様な悪人だから身に様々の旧悪が在るに違いない、何うかして其の旧悪の一を捕えて置けば幾等秀子に仇(あだ)しようとても爾はさせぬ、アベコベに彼奴を取り挫(ひし)ぐ事も出来ると斯う思案を極めて了った、其のうちに彼と虎井夫人は、余の居る所から十間ほど離れた所で逢った様子だ、姿は見えぬが何か言葉急しく細語き合う声が聞こえ、爾して巻煙草は口から手へ持ち替られたと見え、星の光が低くなり胸の辺かとも思われる見当で輝いて居る、暫くすると話は終り、二人は分れて、夫人は内へ、男は外の方へと立ち去った、余は直ぐに彼の後を尾けて行こうかと思ったが、秀子の有様も気に掛る、家に這入って何の様な事をして居るか一応は見届けて置き度い。
 一先ず家へ帰って客間を窺いて見ると、秀子は何気もない体で、猶起き残る宵ッぱりの紳士三四人の相手になり笑い興じて居る、実に胸中に何れ程余裕のある女か分らぬ、是ならば秀子の事は差し当って心配するにも及ばぬと思い、其のまま戸表(おもて)へ駆出した、勿論彼の男が庭から裏の方へ立ち去った事は知って居るが、裏からは何所へも行く事が出来ぬから、必ず表の道へ出て、停車場の方へ行くに違いない、縦しや姿は見えずとも人通りのない夜の最う一時過ぎだから人違いなどする気遣いはない心の底で多寡(たか)を括って居ると、例の安煙草が何処からか臭って来る、ア、是だ、猟犬が臭いを嗅いで獲物の通った道を尾けるは全く此の工合だと、余は臭いを便りに徐々と終に停車場まで行った。
 見ると安煙草は早や切符を買い、橋を渡って線路の向う側へ行き、上り汽車を待って居る、時間表に依ると上り汽車は夜の十二時から先は唯二時五分に茲に通過するのが有る許りだ、未だ半時間ほどの猶予がある、何でも彼が如きシレ者を附けるには余ほど用心して掛らねば可けぬと思い、ズッと心を落ち着けて先ず前後を見廻すと、第一に不都合なは余の衣服だ。余は客間に居た儘で来たので小礼服を着けて居る、是では疑われるに極って居るが、家へ引っ返す事は出来ず止むを得ず駅夫に向い、五ポンドの貨幣を二片見せ、夜寒の用意にお前の着替えを売って呉れぬかと云うと存外早く承知して、何所へか走って行き、間もなく風呂敷包みを持って来て、是ではと差し出すのを開けて見ると少し着古したけれど着るに着られぬ事はない、紺色の外被(こうと)と筒袴(ずぼん)が入って居る、筒袴は要らぬと外被だけを取って、上へ着たが寸法も可なり合って居る。
 それから切符を、先ず倫敦まで買ったが、先の人が何所まで買ったかと思い、夫となく今の駅夫に聞いて見るとローストン駅まで買ったと云う事だ、扨は倫敦迄行くのではないと見えるが、何でもローストン駅は何処かへ分れる乗り替える場所だ、是も駅夫に聞いて見ると、駅夫は今の売物で非常に機嫌が好く為って居るので、其の乗替えの汽車が通過する駅々を、指を折りつつ読み上る様に話して呉れた。外の名前は耳に留まらぬけれど其の五番目に数えたペイトン市と云うのが何だか余の耳に此の頃聞いた所の様に感じた、爾だ、爾だペイトン市在の養蟲園と虎井夫人の手紙の上封へ書いて遣ったのだ、扨は彼の男、其の蜘蛛屋とか云う処から来たのであろうか、人を食い殺す毒蜘蛛が網を張って居るとて秀子の身震いをした其の養蟲園へ、余は彼の悪人の後に就いて歩み入る事になるか知らん、斯う思うとわれ知らず右の手が腰の短銃、衣嚢の処へ廻った、撫でて見ると残念な事には短銃を持って居ぬ、エエ何うなる者か、真逆の時には此の拳骨と気転とに頼るまでさ。

    第四十六回 奇と云えば

 其のうちに二時五分の上り汽車が来る刻限と為ったから、余も橋を渡り、線路の向う側へ行き、頓て彼と同じ汽車へ乗り込んだが、幸か不幸か外に相乗りはない、車室の内に余と彼の只二人である。
 車室を照らす電燈の光に余は初めて能く彼の姿を見たが、年は五十位でもあろうか、背が低くて丸々と肥え太って居る。顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも懐(なつ)き相な所がある、誰やらの著書に、悪相を備えたる人は一見して人に疑わる、故に真の悪人たる能わず、真の悪人には人を油断せしむる如き愛らしき所のある者なりとの、意味を記してあるのを見たが、此の男などが或いは其の一例では有るまいか、併し能く見ると眼の底に一種の凄い光を隠しては居る、是は博奕などに耽る人に能くある目附きだよ、何うしても尋常の人間ではない。
 余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。
 彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に障(さ)えて居るのか、顔の柔和さに比べては何となく不機嫌である、話に釣り込れようとはせぬ。
 けれど其のうちに彼は新しい安煙草に火を附け直し、一寸近くも吸うた上で漸くに「貴方は塔の村の停車場から乗りましたネ」と余に問い掛けた、占めたぞ此奴幽霊塔を自分の出稼ぎ場か戦場の様に思って居るので其の近辺の事柄を問う積りと見える、斯なれば余り口数を利かぬ方が却って安心させる元だろうと思い、唯「ハイ」とのみ答えた、果して彼は進み出て「アノ土地に住んで居ますか」余「ハイ彼の村の盡処(はずれ)に昨年から住んで居ます」彼「名高い幽霊塔の中は御覧なさったでしょうね」余「彼の様な恐ろしい噂ばかり有ります所を誰が見ますものか」彼「では少しも塔の事を知りませんか」余「先頃から都の金持が引き移って大層立派に普請した様子ですが未だ招かれた事は有りませんから」彼「アレは丸部朝夫と言う官吏揚りです、彼処に此の頃養女に貰われた女がありますが――」余「爾々大層な美人だとて村の者は評判します」彼は嘲笑って「ヘン、美しくて評判、ナニ美しいよりも最と評判される事が有るのですワ」余「ヘエ貴方は能く御存じですねエ」感心した様に目を見張り、馬鹿になって彼の顔を見揚げるに、彼は悪人には似合わしからぬほど得意げに「世間に私ほど、能く彼の女の事を知った者は有りません、実は彼の女に古い貸し金が有って前夜も催促に行きましたが、最う立派な身分に成ったと思い、高ぶって居て私を相手に仕ませんワ」
 全く悪人にしては少し喋り過ぎる様だけれど、余は夫よりも異様に感じたは秀子の素性だ、此奴に何か秘密を知られて居るのは無論であろうが、夫にしても決して賤しい身分ではなく、生れ附き立派な令嬢であろうと余は確かに思い詰めて居るのに、此奴の言葉では何だか賤しい素性の様にも聞こえる。「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。
 仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、併し余は此の言葉を聞き、余は初めて秀子に薄暗い所で逢って、余り其の顔が異様に美しいから若しや仮面では有るまいかと思った時の事を思い出す、勿論其の後は見慣れたから、何とも思わず、唯絶世の美人と尊敬する許りではあるが、夫にしても偶然に此の男が仮面という言葉を用うるも、奇と言えば奇だ。
 併し彼様な偶中(ぐうちゅう)は有り中の事で畢竟気に掛ける余が神経の落ち着いて居ぬ為である、夫は兎も角も此の男が斯うも秀子の事を悪く言うは許婚も同様な余の身として甚だ聞き捨て難い所がある、此奴め、最っと深い巧みのある悪人かと思ったら、腹立ち紛れに何も彼も口外する、存外浅薄な、存外与(くみ)し易い奴である、茲で一言に叱り附けて呉れようかとも思ったが、此の時忽ち思い附いた、イヤイヤ仲々浅薄どころではない深い深い、底の知れぬほど横着な奴だ、浅薄と思ったのが、余の浅薄だ。
 此奴め、昨夜旨く秀子を劫えさせる事が出来なんだので、先ず近辺へ秀子の身に秘密があると言う噂を立たせ爾して秀子に驚かせて置いて再び行く積りである、余を近所の者と思う為、是くらい聞かせて置けば、余の口から村中へ好い加減に広まって爾して秀子が不安の想いをする時が来ると此の様に思って居るのだ、手もなく余を道具に使う積りだ、人つけ、汝等の道具に使われて耐る者かと腹の底で嘲り、更に彼に向い、然る可く返辞せんと思う折しも、汽車は何物にか衝突して、真に百雷の一時に落ちるかと思われる程の響きを発し、オヤと叫ぶ間もない中に早や顛覆し破砕した。乗客一同粉々に為ったかと余は疑うた。

    第四十七回 穴川甚蔵

 汽車の転覆は、遺憾ながら随分例の有る事ゆえ、管々しく書き立てずとも、何の様な者か能く読者が知って居られる筈だ、此の度の転覆は僅かに一間ばかりある小河の橋が落ちて居るのを気附かずに進んだ為に起ったと言うことだ、怪我人は十四五人あったが幸いに死人は無かった、怪我人の中の最も重い一人は余と同車して居る例の安煙草で、無難の中の最も無難な一人は余であった。
 勿論余も汽車の衝動と共に逆筋斗(さかもんどり)を打って、何所へか身体を打ち附けて暫しが程は何事だか殆ど合点の行かぬ程ではあったけれど、汽車の転覆と気の附いた時は早や毀(こわ)れ毀れの材木の間に立ち上って居た、唯気の毒なは安煙草である、悪人は斯る場合にも自然の憎しみを受けて、人より余計に甚い目に遭うと言う訳ではあるまいが、覆(くつがえ)った車室の台板に圧し附けられ、最(いと)ど赤い顔の猶一層赤くなったのを板の下から出して、額の筋をも痛みに膨らませて、爾して気絶して居ると言う仲々御念の入った有様だ。
 此奴死んで了ったのか知らん、兎も角斯の様な目に遭えば当分秀子を虐めに来る事は出来ぬと有体に云えば余は聊か嬉しかった、けれど助けぬ訳には行かぬ、茲で恩を着せて置けば後々此奴を取り挫ぐに何の様な便宜を得るかも知れぬと得手勝手な慈悲心を起して台板を持ち挙げて遣った、軽い物かと思ったら仲々重い、力自慢の余の腕にさえヤットである、此の重みに圧(おさ)れては身体は寸断寸断(ずたずた)であろうと思ったが、爾ほどでもなく、拾い集めずとも身体だけ纒って居る、扶けつつ起して見ると肩も腰も骨が挫けて居る様子で少しの感覚もない。水でも呑ませば生き返るかと、四辺を見ると誰のか知らんが、酒を入れる旅行持の革袋が飛び散って居る、是屈強と取り上げて口を開けるとブランデー酒の匂いがあるから、之を彼の口に注ぎ込んだが、死んだ蛙の生き返る様に生き返った。
 何しろ混雑の中で、余一人の力では此のうえ何うする事は出来ぬが、幸い近村の人も馳け附けて来たから、其の一人に番を頼んで置いて、余は遠くもあらぬローストンの町へ馳け附け自分の馬車と医者とを呼んで来た。兎も角も停車場のある所まで馬車で此の者を運んで行く外はない、医者の見立てでは此の者は余ほど大怪我だから早速家へ送り届け、厚く手当をせねば可けぬとの事だ、家とて何所が此の者の家だろう、多分ペイトン在の蜘蛛屋であろうとは既に察しては居るけれど、若し衣嚢の中には姓名を書いた手帳でもあろうかと探って見ると手帳もある名刺もある、名刺の表面を見ると覚悟した。余も流石に胸を騒がせた、真中に「博士穴川甚蔵」とあって端の方にペイトン在養蟲園とある、是が養蟲園の主人で、曾て余が虎井夫人の為に手紙の宛名として認めて遣った其の穴川甚蔵であるのだ。
 軈(やが)て余は彼を馬車に乗せ、停車場まで連れて行った。勿論差し支えはないと云う医者の言葉を聞いた上だ、何をするにも費用の掛かる事だから若し電信為替で金子を取り寄せねば可けまいかと自分の紙入れを検めて見ると嬉しい事には五円の札が厚ぼったいほど這入って居る、是ならば好し、此の穴川を養蟲園まで送り届け、人を食い殺す様な毒蜘蛛の巣をも見よう、爾するには一日や二日掛かるかも知れぬ。家では定めし叔父も秀子も気遣って、余の紛失を前のお浦の紛失と同様に思い做して居ようも知れぬと、先ず電信を認めて叔父に宛て、急用の為倫敦へ行くが用の済み次第に帰るから心配するなと書いて発し、爾して穴川を連れてローストン駅まで上等の汽車に乗った。
 穴川は辛(やっ)と言葉を発する有様で、苦痛の中から余に向い時々「有難い」と云う言葉を洩した。余は「艱難には相見互いだ」と答え、口を利くと宜くないから成る可く無言で居ろと親切げに制止した。彼も口を利かぬ方が自分の勝手だと見え、其のうちに全くの無言となり、目をも閉じて了った。余は看護人の如く其の頭の辺に控え、彼の様子を見て、猶様々に思い廻すに、彼此の頃は好い悪事のないのに窮して居るかと、衣服其の他の上に何となく「財政困難」と言う意味が浮んで居る。余の察する通り仏蘭西の人とすれば煙草なども上等を呑む可きに、甚い安煙草で間に合わせて居るなどが何よりの証拠だ、爾して姓名の上に博士とあるのは何故だろう。是も怪しむには足らぬ、誰にも素性を知られて居ぬを幸いに、博士などと冒称して居るのだ。悪人の中で少し智恵の捷(はしこ)い奴は、能く此の様な白痴威(こけおどし)の称号を用うるよ。汽車がペイトンの停車場へ着いたのは早や昼過ぎである。是から穴川の家まで再び馬車を雇う外はないから、穴川を待合室へ抱き入れて置いて、余は外へ出て馬車を呼び、此の在の養蟲園まで行くのだと言うと、馬丁は妙な顔して「エ、養蟲園ですか」と推して問うた。其の様は「アノ様な恐ろしい所へ」と訝り問うように見えた。

    第四十八回 婆の顔

 養蟲園と聞いて馬丁まで好い顔をせぬ所を見ると余り評判の宜くない家と言う事が分る、余は様々に聞き糺したが今の主人「穴川甚蔵」は六七年前に此の土地へ来た者で、何所から移住して来たかは誰も知る者がなく、殊に町から離れた淋しい土地だから誰も度外に置いてあるとの事だ。
 併し馬車は余が充分の賃銭を約束したから行く事になった。馬丁は「アノ様な淋しい所で帰りに乗せる客があるではなし、余計に貰わねば引き合わぬ」と呟いた。余は馬車の中で喫(たべ)る為に、幾種の食品を買い調え、馬丁に手伝わせて大事に甚蔵を馬車に乗せ、車体の動揺せぬ様に徐々(そろそろ)と養蟲園を指して進んだ。
 成るほど淋しい所である、町を離れて野原を過ぎ、陰気な林の中に分け入って、凡そ五哩も行ったかと思う頃、養蟲園へ達した。見れば草の茫々と茂った中に、昔の大きな石礎などが残って居る、問うまでもなく零落した古跡の一つで、元は必ず大きな屋敷であっただろう、それが火事に逢って家の一部分だけ焼け残ったのを、其のまま修繕して住居に直したらしく、家の横手に高大な煉瓦の壁だけが所々に立って、低く崩れたもあり高く聳えたもある、但し焼けたのは今より五七十年も前だろうと余の目では鑑定する。
 今住居と為って居る家だけでも可なり広い、家の背後は山、左は林、右は焼跡から矢張り林へ連なって居るが、何しろ人里から離れた土地で山賊でも住んで居そうだ、爾して焼けた古煉瓦を無造作に積み上げたのが門の様に成って居て戸が締って居る、誰も此の様な家へ侵入する者はあるまいに戸には錠までも卸してある、後で分ったが外から入る人を防ぐよりも、寧ろ内から出る者を妨げる為であった、不束ながら門に続いて疎な丸木の垣がある、犬猫なら潜って出る事は出来ようが人間には六かしい。
 余は門を推してもあかぬから軽く叩いて見ると馬車の中から、今まで無言で居た甚蔵が声を出したから「何事ぞ」と返って問うと「此の鍵がなければ開きません」とて鉄の大きな鍵を差し出した、彼は肩も腰も骨を挫かれて居るけれど右の手だけは達者で、自分で衣嚢を探り鍵などを取り出す事が出来るのだ、何しろ主人が外へ出ると、門に錠を卸してその鍵を持って去るとは全で番人のない家の様だが、内はガラ空か知らんと、此の様に思いつつ進み入ろうとすると、甚蔵は馬車の中から又呻いて余を呼び「門が開いたらその鍵を返して下さい」と請求した、半死半生の癖に仲々厳重な男である、是も何か家の中に秘密がある為に、斯う用心の深い癖と成ったのに違いない、余はその秘密を看て取る迄は此の家を去らぬ事に仕よう。
 鍵を返して門を入れば玄関に案内の鐘を吊り、小さい槌を添えてある、槌を取って鐘を叩いたが中からは返事がなく、唯何所からか犬の吠える声が聞こえる、幾度叩いても同じ事だ、再び馬車に返って甚蔵に問うと、彼は鍵を取り返して安心したのか、痛く力が脱けた様子で、唯「裏へ、裏へ」と云う声を微かに洩し、差し図する様に顋を動かす許りである、今度は其の意に従って家の裏口へ廻って見ると茲も戸が閉って居るが、窓の硝子越しに窺くと薄暗い中に、何とも評し様のないほど醜い老人の顔が見えて居る。人間よりは寧ろ獣に近い様だと、怪しんで見直したが獣に近い筈よ犬だもの、此の国にては余り見ぬが仏蘭西には偶に居る、昔から伝わるボルドウ種と云う犬の一類で、身体も珍しいほど大きいが顔が取り分けて大きいのである、爾して大犬の中では此の種類が一番賢いと云う事だ、併し幾等賢いにせよ犬一匹に留守をさせるは余り不思議だと、更に台所の方の窓を窺くと、居るわ、居るわ、是は犬でない全くの人間だ、年頃は七十以上であろう、白髪頭の老婆である、其の顔と来たら実に恐(こわ)らしく、今見た犬の方が猶だ余っぽど慈悲深く見ゆる程だけれど、その顔に何処となく余の目に慣れた処がある、余の知って居る人に似て居るのだ、それは誰に、虎井夫人にサ、若しや此の婆が虎井夫人の母では有るまいか、猶能く考えると穴川甚蔵も此の婆の子で夫人と同胞(はらから)ではあるまいか、甚蔵の顔には愛嬌は有るが彼の創所(きずしょ)の痛みの為にその顔を蹙めた時は此の婆に幾等か似て居る、甚蔵は父の容貌を受け夫人は母の容貌を受けたとすれば別に怪しむに足らぬ、夫人の顔を二分、甚蔵の苦痛の顔を二分、今の犬の顔を二分爾して残る三分は邪慳な心を以て加えたなら十分に此の婆の顔が出来よう。

    第四十九回 壁も柱も天井も

 余は窓の硝子を叩きつつ、婆に向いて「穴川甚蔵が怪我したから、茲を開けて入れて下さい」と大声に叫んだが、婆は一寸顔を上げた許りで返事をせず、其のまま立って犬の居る方を振り向いた、爾して馳せて来る犬を随がえ、次の室の入口とも思われる一方の戸を開いて、素知らぬ顔で引込んで了い、待っても待っても出ては来ぬ。
 余り腹の立つ仕打ちだから、余は憤々(ぷんぷん)と怒って門へ引返し、甚蔵の寝て居る馬車を連れて再び此の台所口まで帰って来た、馬丁(べっとう)の力を借り、共々に戸を叩き破る積りで馬丁にその旨を告げると穴川が目を開いて「硝子窓の戸を持ち上げて家の中に入れば次の間の卓子の上に鍵があります」と云うた、然らばとその言葉に従い、窓の戸を持ち上げた所、中から待ち兼ねて居た様に彼の犬が飛び出した、初めは余に飛び掛る積りかと思い、余は叩き倒さんと見構えしたが、犬は余には振りも向かず一直線に主人の馬車の許へ行った、余はその後で窓を乗り越え台所から次の室の中へ這入ったが薄暗くて宜くは見えぬけれど、第一に余の目に映じたは、壁も柱も、異様に動いて居る一条だ。
 余は此の様な有様を見た事がない、壁の表面、柱の表面、総て右往左往と動き、静かな様で少しも静かでない、殊に天井の下に横たわって居る梁などは恰で大きな巨蛇(うわばみ)が背(せな)の鱗を動かして居るかと疑われる許りだ、余は自分が眩暈でもする為に此の様に見えるのかと思い、暫し卓子へ手を附いて居ると、何やらソロソロと手へ這上った者がある、払い落して宜く見ると二銭銅貨ほどの大きさのある一匹の蜘蛛である。ハテなと更に壁に寄って見たが、何うだろう壁一面に細い銅網(かなあみ)が張ってあってその中に幾百幾千万とも数の知れぬ蜘蛛が隊を成して動いて居る、壁その物は少しも見えず唯蜘蛛に包まれて居ると云う有様だ、壁の所々に棚もあり穴もある様だけれどその棚その穴悉く蜘蛛に埋められて居るのだ、養蟲園と云い蜘蛛屋と云う名前で凡そ分って居る筈では有るが、実際是ほど蜘蛛を養って居ようとは思わなんだ、又蜘蛛が斯うまで厭らしく恐ろしく見える者とは思わなんだ、勿論蜘蛛は見て余り気持の好い者ではないが併しその一匹や二匹を見た丈では実際に壁一面、天井一面家の中一面に広がって居る蜘蛛の隊が何れほど厭らしいと云う事は想像が届かぬ、余は頭から足の先までもゾッとした、若し女だったら、絶叫して目を廻す所だろう、男だけに目は廻さぬが、而し立って居る力もなく再び卓子の上へ手を突いたが、見れば此の卓子も蜘蛛の台だ、上へ硝子の蓋をした木の箱が幾個となく並んで居て中には大小幾十百種類の蜘蛛が仕切に隔てられて蠢(うごめ)いて居る、是は見本の箱でもあろう。
 余は兎に角も能く心を鎮めた上でなければ、此の室に永くは得留まらぬ、真逆に蜘蛛が銅網を破って追い掛けて来る訳ではなけれど、逃る様に室を出てその戸を閉め切り、爾して先刻婆の居た台所の一方に立った、此の時は最う眼も暗いに慣れて、暗いと感ぜぬ様になったから、茲にもかと四辺を見廻すに茲には蜘蛛らしい物は見えず、却って余の求める鍵が、戸の錠前の穴へ差し込んだ儘であるのが目に入った、多分は婆が次の間に在ったのを持って来て是へ填て置いたのであろう、婆の姿は何所へ行ったか更に見えぬ。
 若し余に深い目的がないのなら此の家へは再び這入らぬ、秀子と同様に、此の家の事を思い出してさえ身震いをするであろう、けれど余は再びも三たびも、此の家の秘密を腹へ入れる迄は這入らねば成らぬ、此の家の秘密を知れば秀子の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ復(かえ)って来て、穴川甚蔵に、寝間は何所に在るかと聞いた、早く彼を家の中へ寝かして遣らねば成らぬから。
「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の由(よし)を甚蔵に告げて置いて又も家に入り、其所此所を見廻すと、曩(さき)に犬の居た室を隔て其の次に階段がある、狭い裏階子の様な者だ。此の辺にも若し蜘蛛が居はせぬかと見廻しながら階段を上ったが見廻して居て仕合せだったよ、若し見廻さずに昇ろう者なら飛んでもない目に逢う所であった。

    第五十回 閉じ込んで置く者

 見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に潜戸(くぐりど)の様な所がある、何か秘密の一室へでも通ずる隠し道ではあるまいか、戸の色と壁の色と一様に燻(くすぶ)って閉じてあれば、容易には見分けも附くまいが、開いて居る為余の目には留まった。
 余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い石片(いしきれ)の様な者を投げ附けた、余は大いに用心して居る際ゆえ手早く身体を転(かわ)して何の怪我もせなんだが、後で見たら危ない哉、石片の様に見えたは古い手斧の頭であった、何者の仕業かと少し躊躇して居ると、潜戸の中から以前の婆が、手に斧の柄だけを以て立ち現われ、階段を遮って、寄らば打たんと云う見幕で、其の斧柄(おのえ)を振り上げ「茲へ入っては可けません」と叫び横手の潜戸を尻目に見た、誰も入ろうとは云わぬのに、アア分った此の婆は多少精神が錯乱して居て、爾して多分日頃から甚蔵に、此の潜戸へ人を入れては成らぬと言い附けられて居るのだ、爾すれば此の潜戸の中に此の家の秘密を押し隠してあるのではなかろうかと、此の様に思ったけれど今は穿鑿する時でない、先ず婆を取り押えようと、三つ四つは擲(なぐ)られる積りで敢然と進んで行くと婆は少年の様に身を軽く潜戸の中へ隠れて了った。
 余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲団毛布(けっと)寝巻などの類が五六点、散らばって居る、其のうちの好さ相な毛布(けっと)を二枚選び寝台に載せて持ち上げたが、余の大力にも仲々重いけど、下まで運ばれぬことはない、運ぼうとして俯向いて居ると、背後から出し抜けに余の頭をしたたか擲った者がある、振り向いて見ると今の婆で早や二度目を打ち下そうと彼の斧の柄を振り上げて居る、余は遽てて其の痩せた凋(しな)びた手を捕え鋭く叱り附ける調子で「何を成さる、私を敵とでも思ってですか」と云いつゝ篤と其の顔を見ると婆は柄にない子供の様な声で「オヤ甚蔵の敵ではないの」と問い返した、愈々以って狂人だ、余「敵ならば大怪我をした貴女の息子を何で故々馬車に乗せてここまで送って来ますものか」婆は驚き「エ甚蔵が怪我をした、アノ馬車に寝て居ますか」と云って捕えた手を振り離して下へ行った、狂人でも親子の情は別と見える、是で以て婆が甚蔵の母と云う事も分った、後には余が寝台を引きずり、斜めに階段の上をすべらせて下へ卸しつつも、潜戸の所を見ると早や戸を閉めて壁だか戸だか一寸と見分け難い程になって居る、狂人の用心深いも驚く可しだ、ナニ今に此の潜戸の中を検める時も来るだろうと呟き、其のまま下へ降りて廊下を其処此処と検めたが、漸く然る可き一室を見出して、甚蔵を寝かせる丈の用意を済ませた、茲には幸い余の嫌いな蜘蛛も居ぬ。爾して再び馬車の許へ行き、犬と婆とを押し退けて馬丁に手伝わせ、甚蔵の頭と足とを持って叮嚀に家の中へ運んだが、此の叮嚀には大いに婆と犬とに信用せられたと見え、双方とも有難相に尾を振って(イヤ婆は手を――振って)転々(ころころ)と随いて来る、頓て甚蔵を寝台に上せ、馬車には定めの上の賃銀を与え猶ペイトン市から至急に医者を寄越して呉れと言い附けて帰し、爾して余は婆や犬やに対するには却って権柄を示すが宜いと思い、殆ど主人風を吹かせて甚蔵の頭元(まくらもと)へ座を占めたが、甚蔵は家に帰り着いた安心の為好く眠り込んだ、婆は唯茫乎(ぼんやり)して甚蔵の寝顔を見て居る、爾して犬は獰猛な質に似ず、余の膝へ頭を擦り附けて居る。
 婆は此の様を見て「アア貴方は甚蔵の敵でない、敵なら此の犬が斯うは狃染(なじ)みません」余は口軽く「ナニ甚蔵に敵などある者か」と云いて口占(くちうら)を引くに、婆「でも此の家へ来る者は皆敵だから誰も入れては可けぬと甚蔵が云いますもの、閉じ込んで置く者の外は誰も入れません」閉じ込んで置くとは何を指して云うのだろう、余は又軽く「閉じ込んで置くとは蜘蛛の事ですか」婆「ナニ此の上のですよ」と云って天井を見上げたが何の意味か益々分らぬ、婆は語を継いで「閉じ込むのは貴方の様に昼間は来ませんよ。夜半に蓋をした馬車で甚蔵か医学士かが連れて来るのです」医学士とは何の謂いにや、甚蔵自ら博士と称し、外に医学士と称する相棒でも有ると見える、余「連れて来られたのは男――女」婆「女はアノ美しい若いのが来た時から、一人も来ませんよ、本統に美しい顔で私は貴婦人だろうと思いました、けれど馬車から抱き降された時の顔は真青で、死骸かと思いましたよ」狂人の云う事ゆえ分らぬは当然だ。一々之に解釈を試むるは愚の至りの様では有るが、併し狂人とて全く根のない事は云うまい、若しや此の美しい女と云うは秀子の事ではあるまいか、秀子が何等かの事情の為に昔夜中に馬車に乗せられ此の家へ連れて来られた事でも有るのではなかろうか、其の事は何時頃であったのだろう、ズッと近くか若しや又、行方知れずに為ったお浦の事ではなかろうかなど、兎に角自分の知った事柄へ引き寄せて考えるのが人間の癖でも有ろうか、余は其の事の余程以前か将(は)た此の頃かを確かめ度いと思い「男は其の後も随分来ましたネ」婆「エエ男は最う去年も一昨年も今年も、馬車の音さえすれば必ず男の子供です」愈々幾年か昔の事に違いないが、併し総体の上から何の為に、夜半に馬車で人を連れて来るのか更に見当が附かぬ、子供と云い閉じ込めるなどと云った今の言葉に思い合わすと益々分らぬ。

    第五十一回 天井の上の音

 気の違って居る婆の言葉を茲へ一々記すにも及ばぬが、其の中に、医学士と云う言葉が二三度あり、又夜半に甚蔵が庭の木の下へ穴を掘り何物をか埋めたと云う様な言葉もあった、何を埋めたのかと此の点は特に問い直したが、何だか人を殺して埋めたかの様にも思われる、而も其の事は一度ならず二度も三度も有ったらしい。
 若し此の辺の秘密が一つでも、充分に分ったならば、彼の運命を余の手の中に握ったも同様ゆえ、此の後決して彼に頭を擡げさせぬのに、能く分らぬは惜しい者だ、此の上は唯先刻の潜戸を開き其の中を検める外は有るまい、アノ中には、秘密其の者か将(は)た秘密を明らかにする証拠物とか参考品とか云う様な物が有るに違いない、何かして中へ入って見たい。
 此の様に思って猶も婆の話を引き出す様に仕向けて見たが、此の婆全くの狂気ではない。狂と不狂との間に在るので、時々は常の人と余り変らぬほど心の爽かな場合もある、後で聞いた所に由ると数年前に二階から落ちて頭を打ち、一時は全くの狂人と為って了ったが、此の頃は幾分か軽くなり、偶に精神の爽やかな時が来ると云う事だ、併し此の様な事は何うでも好い、唯甚蔵の咽喉を握る様な秘密をさえ手に入るれば。
 斯くて暫く話の途切れた頃、頭の上の方で、何だか緩(にぶ)い足音とも云う様な響きが聞こえた、或いは天井の上を、ソッと何者かが歩いたのでは有るまいか、若し爾すれば、益々彼の潜戸の中へ這入る必要が出て来る、彼の中へ入れば自然此の室の上などへも来る事が出来ようも知れぬ。
 余は殆ど思案の暇もなしに、仰いで天井を眺め「オヤ今の音は何だろう」と問うたが、此の一言は忽ち婆の暗い脳髄を明るくする力があったと見え、婆は急に容(かたち)を更め「貴方はアノ音を知りませんか、夫では矢張り甚蔵の敵だ、敵だ、此の家の事を何にも知らぬのだ、知らずに聞いて居なさるのだ、ハイ此の家の内事を知らぬ者は皆敵だから決して内へ入れては了けぬと甚蔵が言いました、先ア敵の癖に、優しい言葉で油断をさせて」と恨めしげに言い募ろうとするから、余「ナニ悪事をせぬ人に、何で敵がある者か」婆「イイエ、貴方は甚蔵が何か悪事でもするかと思い、様々に問うて居るのですよ、甚蔵は悪事は致しません、世間の人と同じ様に正直に稼いで正直に暮して居るのです、商売は蜘蛛を育てるのです、蜘蛛を育てて何にするか、ハイ買う人に売るのです、同業の少い商売だから悪事はせずとも充分に立って行きます」
 早口に弁ずる様は通常の人でもないが今までの狂人とも思われぬ、併し蜘蛛を育てるが何の様な商業に成るだろう、是も後で分ったが、酒造家などが、自分の貯えてある酒の瓶へ、時代の附いて居る様に見せる為様々の蜘蛛を其の貯蔵室へ入れる相だ、スルと蜘蛛が何の瓶へも、何の瓶へも絲を附け、一年も経ると百年も経た瓶の様に見えるので、買人(かいて)が直ぐに幾十年の古酒だとか幾百年続いて居る貯蔵室だとか云う様に信ずると云う事だ、其のほか物を貯蔵する穴倉へ蜘蛛を欲しがる商売は随分あり、夫に又此の節は蜘蛛の糸を紡績する方法が発明せられ、其の試験や実行に用うる人も多いので此の虫の買人(かいて)が仏国や米国などに現われた、幾等も輸出もする事になり、随分蜘蛛を養って、商売にはなるのだとさ、けれど甚蔵が養うのはそれのみの目的ではない、人が厭がる虫を飼って我家へ他人の来ぬ様にしたいと云うのが主になって居る。
 夫は扨置き婆は暫く弁解の様に、又余を攻撃する様に、述べ立てて居るうち、其の弱い脳髄は早や疲れたと見え、徐々と言葉の筋道が立たなくなり、最後に「オヤ、私は何を云って居たか知らん」と云い少し考え込んだまま元の狂人に復って了った、此の様を見ると多少は気の毒にもなる。
 婆に再び問い試みたとて此の上好結果を得る見込みはない、余は無言と為って甚蔵の枕許に控えて居たが、彼は傷から熱を発しでもしたか、目は醒したけれど囈言(うわごと)の様な事を云って居る、もはや先刻馬車の馬丁に頼んで遣ったペイトン市の医者が来そうな者だのに未だ来ない。其のうちに日も暮れた、腹も幾分か空いて来た、何とか思案をせねば可けぬ、併し思案とて外にない。余自らペイトン市へ、行って来る一方だ。医者とても馬丁に頼んだ丈ゆえ果して通じて居るか否か覚束ない、ナニ余の足でなら一走りだ、行って来ようと決心し、分る人に云う様に婆に甚蔵の介抱に就いての注意を与え、爾して外へ出て見たが、秋の天気は変り易く、雨もボツボツ降り、風も出て居る。
 暗さも暗いけれど、迷うほどの込み入った路ではない、只管(ひたすら)に急いで凡そ一里ほども行くと林から続いて小高い丘がある、来る時に馬車で越した所だから勿論丘と名を附け兼ねるほどの小さい丘ではあるが、余が此方から登る途端に、向うから来て丁度其の一番高い所へ来掛けた人があり、下の方から透して見ると、何だか鞄の様な物を提げて居るらしい。其の風附(ふうつき)が何うしても医者である、医者でなくては夜に入って此の辺へ来る筈がない、余は咄嗟の間に一種の考えが浮んだから、間近くなるを待って此方から声を掛け「其所へ来るのは医学士では有りませんか」と云った。婆の云うた医学士と此の医者と或いは同人では有るまいかと試して見るのだ、彼は声に応じ「オヽ私を呼ぶのは何方です」と問い返した。

    第五十二回 木の下へ穴

 此奴が穴川甚蔵と云う立派な博士の相棒の其の医学士とすれば、余は後々の為に此奴の素性や挙動までも一応は探って置き度く思うから、今は此奴に成る可く油断をさせて置かねばならぬ。
 咄嗟の間に此の様に思案を定め、余は口から出任せの名を名乗り、実は偶然穴川と同車して彼の怪我を救い、其の家まで送り届け、医者を迎えに遣ったけれど、其の来ようが余り遅い故、何時までも待つ訳に行かず、自分で医者の家へ立ち寄った上、其のまま立ち去る積りであるとの旨を答えた、彼は聞き終って「でも私を医学士と呼び掛けたは何う云う訳です」と問い返した。ヘンお出でだな、此奴が世間一般に医学士として知られて居る男なら、誰に医学士と呼び掛けられても自ら怪しみは仕まいけれど、医学士と云うは唯穴川などから呼ばれる一種の綽名か符牒の様な者なので、呼び掛けられて自分で少し後暗く思うのだ、余は是も言葉巧みに「イヤ彼の家に変な婆さんが居て、最う医学士が来そうな者だなと云って居ましたゆえ、夫で私は医学士ですかとお尋ね申したのです」彼は合点し「爾でしたか。私は唯知らぬ人から医学士と呼び掛けられ、別に自分の肩へ医学士と云う建札をして居る訳でもないのに、何うして分ったかと怪しみましたが、併し貴方は私と共に彼の家へ引き返しますか」余「ハイ引き返さねば済みませんが、実は取り忙いだ用事を控えて居ますので、成ろう事なら、此のまま立ち去り度いと思います、素人の私が怪我人の枕許に居たとて貴方のお手伝いも出来ませず」と非常に当惑の体を粧うて云うた。彼は少し考え「貴方は別に荷物などを彼の家へ残しては有りませんか」勿論荷物とては初めから一点も持って居らぬけれど「イヤ荷物は悉く停車場へ預けて有ります、其の中には日を経ると傷む者も有りますので猶更グズグズは仕て居られません」彼「御尤も、夫では宜しい怪我人は私が引き受けました」と一通りの挨拶を言って其のまま医学士は進んで行った。
 余は直ぐに彼の後を見え隠れに尾けて帰ろうかと思ったが、外に多少の用意もあるから爾はせずに真直ぐにペイトン市へ行き第一には食事を済ませ、第二には人の家へ忍び込むとき足音のせぬ様に、漉毛(すきげ)で作った靴を買い、第三には若しもの用意に色々な道具の附いた小刀を一挺買い求めた。事に寄ると余は随分盗賊にも探偵にも成れる男かも知れぬと、此の様に思って独り可笑く感じたが、併し無駄事を考えて居る場合でないから直ぐ様元の養蟲園へ引っ返した、第一に目指す所は無論彼の潜戸の中に在るのだ。
 再び養蟲園へ着いたは夜の十二時頃で有った。若し彼の潜戸の中が何れほど恐ろしい所かと云う事を前以て知って居たなら余は斯う引き返す勇気は出なんだかも知れぬ、茲が世に云う盲蛇だ、知らぬほど強い者はない、愈々帰り着いて様子を見ると、宵に少しばかり降った雨も歇(や)んで風の音の外は森として何の聞こゆる響きもない、医学士はもう立ち去ったか知らん、兎に角も案内は既に知って居るから裏口へ廻り、中を窺くと先刻甚蔵を舁ぎ込んだ台所の戸が猶だ開いた儘で居る、実は初めて這入った時の様に窓から這入る積りであったが、窓には及ばぬ、直ちに忍びの靴を着けて其所から入ったが、目の届く限りには誰も居ぬけれど、彼の恐ろしい蜘蛛の室からは話し声も洩れ、爾して其の戸の鍵穴からは燈光も射して居る、耳を着けて聞いて見ると、医学士が猶だ居るのだ、怪我人の手当を終った後で、此の室へ来て婆と話をして居る者と見える「随分甚い怪我だよ、何所の奴だか知らぬが、直ぐに救って呉れんなら、今頃は庭の松の木の下へ例の穴でも掘って居る所だアハハハ」と打ち笑うは医学士の声だ。此の言葉で見ると庭の木の下へ穴を掘るのは余の想像した通り全く死骸を埋めるのだ、余も事に由ると埋められる者と成りは仕まいか、真逆。

    第五十三回 忘れたよ

 話は聞こえるが勿論姿は見えぬ、医学士は婆と何の様な事をして居るだろう、烏酒(ういすきい)でも飲みながら話して居るのか、成ろう事ならソッと戸を開けて窺いて見たい、けれど窺いたら大変だ、アベコベに見附けられて、硝燈(らんぷ)でも持って出て来られたなら、余は何の様な目に逢うも知れぬ。
 医学士は猶言葉を継いで「大事な時に怪我をしたなあ、何でも甚蔵は美人に逢いに行って、其の帰りに汽車が転覆したのだ、美人の口から彼の秘密を聞き取ったか知らん、博士の腕前だからよもや聞き取らずに帰りは仕まいが、聞いたのなら己も早く聞かせて貰い度い、生憎囈言(うわごと)の外に何にも云わず、問うたとて仕方がない、若しや婆さん、お前に何か云わなんだか、甚蔵がアノ美人の事に就いてさ」美人とは確かに秀子の事である、秀子の敵が此の様な所に居て様々の狂言を仕組んで居ようとは実に意外千万な訳だ。けれど余は此の意外の所へ、意外の事で来た為に、此の様な密事を知る事が出来るのだ、云わば鉱脈に掘り当てた様な者だから余は何処までも此の脈を手繰って、鉱のある丈は掘り盡さねば成らぬ。
 婆は例の間の抜けた声で「美人とは誰だネ、倅が情婦でも拵えたのかネ」と問うた、医学士は腹立しげに舌鼓して「エエお前もそう老耄(おいぼ)れては仕方がない、頭を打たぬ以前は娘より十倍も捷(かしこ)い女であったが今は何うだ、虎井夫人の十分の一の智慧もないワ」愈々虎井夫人も此の婆の娘で、甚蔵の姉か妹である事が分る、丁度似た年頃で何方が上だか分らぬが、虎井夫人の方が姉だろう、女は八十に成っても矢張り若く見られたがって、若作りをする者だから、男と同じ年頃に見えるなら必ず女の方が年上だ。婆は諄(くど)くも「でもお前さんは甚蔵は美人に逢いに行ったと云うたじゃないか。美人とは何所の美人だエ」医学士「本統に呆れて了うなア、何れ思い出させて遣ろう、昔大雨大風の晩に、此の家へ馬車が着いただろう」婆「ウム馬車か」医学士「中から先ず馭者が出てよ、毛皮の襟を外して顔を出すと唯の馭者ではなくてよ」婆「オオ、爾々、馭者ではなくてお前だった」医学士「ソレ覚えて居るではないか、己だって、此の事件の為には馭者までも勤めて骨を折って居るのだから、茲まで漕ぎ附けて旨く行かねば間職に合う者か、爾して其の馬車の中から続いて出たのは誰で有った」婆「分かったよ、分ったよ、美人だったよ、爾だ先刻も其の事を誰かに話したのに最う忘れて居た」医学士「エ、エ、彼の事を人に話した、此の様な大秘密を仕様がないなア、夫だからお前に留守はさせられぬと己が常に甚蔵に言い附けて置くのだ、何処へ行って誰に何の様な事を饒舌るかも知れぬ、此の耄碌婆め、お前は甚蔵の留守に外へでも出て行ったのか」婆「ナニ出ては行かぬ門の戸まで甚蔵が例の通り閉めて行ったから」医学士「それでは誰に話しただろう」婆「忘れたよ」医学士「忘れたよもない者だ、ハテな、真逆に甚蔵を乗せて来た馬車の馬丁にでもあるまいネ」婆「アそう、そう、思い出した、甚蔵を送って来た美しい若者に話したんだ」医学士「ア途中で己を呼び掛けたアノ男にか、ハテな、彼奴真逆に探偵では有るまい、通例の商人なら、少しぐらい聞いたとて唯聞き流す丈の事だが、爾して何かコレ婆さん、其の男は根掘り葉掘り色々の事を聞きはせなんだか」婆「忘れたよ」
 忘れたは余に取って幸いである。若し覚え居て有の儘を話したら、悪に鋭い此の医学士は決して余を尋常(ただ)の若者とは思いは仕まい。医学士「エエ、好いわ、誰の目にも狂人と分り過ぎるほど分って居るお前だもの、何を云ったって人が真逆に気に留めもせぬだろう」と自ら慰める様に云い、良(やや)あって「所で婆さん、初めの話に帰るのだが、其の美人は誰が抱いて出たえ、馬車の中から」
 是が秀子の過ぎし身の事かと思えば、余の身体は石の様になり、爾して此の後は何の様な事を聞くかと、動悸が胸を張り裂く様に打った。婆「誰だったか忘れたよ」医学士「虎井夫人で有ったじゃないか」婆「爾だ、爾だ、娘だった、オオ最う何も彼も思いだした、爾してお前が、第一に仮面を被せねば了けぬと云って」医学士「エエ、思い出す時には余計な事まで思い出す、其の様な事は忘れて居るが好い」婆「爾して私が、其の美人の左の手を見ると、ネエ医学士、其の時には私の智恵が一同から褒められたじゃないか、アノ左の手にさ、エ医学士、お前は忘れなさったか」扨は愈々秀子が身の秘密まで今此の悪人等の口より聞くかと、余は凝り固まって我れ知らず身動きしたが、自分では何の響をさせたとも知らぬけれど、中に居る例の犬が早くも聞き附けたと見え、異様に警報を伝える様に一声吠えた、医学士「オヤ此の犬が吠えるとは奇妙だぞ、婆さん、お前の耳には、何か聞こえたか」婆「イイエ」医学士「真逆に戸の外で誰も聞いて居る訳でもあるまいが」と云って早や立って来る様子である。

    第五十四回 人だか獣物だか

 余は実に失敗(しくじ)ったと思った。医学士が立って来れば余は暗がりへ隠れる一方だが、それも硝燈を持って来らるればそれ迄だ。折角茲まで漕ぎ附けたのに肝腎の時と為って見現わされるのかと、本統に遺憾骨髄に徹したけれど仕方がない。所が中で婆の声が聞こえた。「ナニ誰が居る者かよ、甚蔵が傍に居ないと此の犬は時々アノ様な声を出すのだよ、上の室でアレの動く音でも聞こえたのだろう」アレとは何であろうと余は此の際疾(きわど)い場合にも怪しむのを耐え得ぬ、医学士「ウム例のか、動きなど仕やがって、仕ようがないなア、最っと鉄鎖を緊(きつ)くして置くが宜い」斯う言って、出て来るのを止めた様子だ、有難い、有難い、余は真に助かった、再び此の様な事のない中に早く目的の潜戸の中へ潜り込まねば。
 斯う思ううちにも「例のか」と言い「鉄鎖を緊く」など云った医学士の言葉が耳に残って居る。何だか薄気味の悪い言葉だ、併し此の意味も其のうちには分るだろうと、跼(ぬ)き足して此所を立ち去り、見て置いた階段の方へ行ったが、四辺は全くの闇である。別に躓く物も有るまいとは思うけれど手探りに進む外はない、昼間は明るかった所為か斯う広いとは思わなんだが、探って行くと階段まで仲々遠いけれど、何うか斯うか無事に着いた。
 又手探りと跼き足で階段を上って行き、茲辺だと思う所で壁を探った。潜戸は有るには有るが堅く締って居て、動かざること巌の如しだ。最早燐燧(まっち)を擦って検める外はない、茲で燐燧を擦るとは随分危険な事で、若しや犬でも婆でも医学士でも廊下へ出て来たらお仕まいだ。余は胸がドキドキする、是を思うと余は迚も盗坊などに成れる性質でない、最愛(いとお)しの秀子が為なればこそ斯様な事もするが金銭の慾などの為なら、寧ろ餓え死ぬ方が幾等気楽かも知れぬ。
 恐々ながら燐燧を擦った、爾して潜戸を見ると鍵穴は有るけれど鍵は填めてない、真逆の時には錠前を捻じ開ける積りで、様々の道具の附いた小刀は買って来たけれど、何うしても此の危険な所で此の戸を捻じ開けて見ようと云う度胸は出ぬ。兎も角も先ず廊下へ誰が出たとて容易には見附からぬ無難な所へ身を隠して篤と考えて見ねばならぬ、夫には二階へ上り、甚蔵の元の寝間に入るが第一だ。
 思い定めて二階へ登り甚蔵の寝間の空いて居るのへ這入り、真っ暗の中で先ず胸を撫でて気を鎮めた、爾して色々と思い廻すにアノ潜戸を開ける事は到底出来ぬ。何でも彼は内から錠を卸して有る者に違いない、愈々内からとすれば、外の方面に最う一つ出這入りの戸がなくては成らぬ、宜し宜し、表口は捨てて置いて其の裏口を探して遣ろう。
 是から二階の廊下へ出て、相変らず手探りと跼き足とで、奥へ奥へと進んで見た、所々では燐燧を擦ったが、実に奇妙な構造だよ、普通の感覚から遠く離れた昔の貴族か何かが建った家でなければ此の様な不思議なのはない、廊下を界(さかい)として一つ屋根の下が二階と三階とに建て分けて有るのだ、廊下を奥へ突き当たって左へ曲った所に余り高くない階(はしご)が有って三階へ登る様に成って居る。之へ上れば丁度潜戸の方へ向って行く様に思う、事に依ると秘密の在る所の最う一階上へ出るかも知れぬ、何でも試さぬ事は分らぬと余は三階へ上った。茲にも廊下の左右に戸を閉じた室が幾個もある、戸の引き手を旋して見ると敦れも錠が卸りて居るが、中に唯一つ爾でないのが有るから、戸を開いて首を入れて見ると蜘蛛の巣がゾロリと顔に掛った。
 エエ茲も厭な蜘蛛室であると見える、余は遽てて戸を締め、更に廊下をズッと奥へ行くと行き止りに戸が閉って幸に鍵穴に鍵が填って居る。之を取って戸を開けば、下へ降りる様に成って居る、降りれば果して中二階らしい、何う考えても茲が彼の潜戸の中に当たる。
 占めた、占めた、最う秘密は手近で有ろうと又も燐燧を擦って見ると只の広い板の間で少し先の方に室らしい処が見え、入口の戸が新しく目立って居る、是だなと其の前へ立ち、暫く戸に耳を当てて居たが、其のうちに微かながらも異様な声が内から聞こえた。人だか獣だか夫までは分らぬけれど、長く引く呻吟(うめき)の声だ、其の物凄い事は何とも云えぬ。唯ゾッとする許りである。

    第五十五回 暗(やみ)の中の一物

 余が何よりの失念は蝋燭を買い調えて来なんだ一事で有る。此の様な時に燐燧の明かりほど便りない者は無い、少しの間、少しの場所を照すけれど、直ぐに燃えて了って其の後は一層暗くなる様な感じがする。若し衣嚢の中に忍び蝋燭が一挺あったら、何れほどか助かるだろうに、殊に心細い事は、生憎余が持って居る燐燧が残り少なく成って居る、数えて見ると僅かに十二本しか無いのだ、十二本の燐燧で暗い暗い此の蜘蛛屋の大秘密を見究める事が出来ようか。
 けれど唯一つ幸いなは戸の鍵穴に鍵が填った儘である、猶予すれば益々恐ろしく成って気が怯む許りだから余り何事も考えずに、目を瞑って猛進するが宜かろうと、余は直ぐに其の戸を明けて中へ這入った。仲々重い戸である、牢獄の戸かとも思われる戸の中が、暫しの間矢張り廊下になって居る様子だが、狭い事は非常である、決して二人並んで通る事は出来ぬ。余は此の狭い所をば、挾まれる様になって三間ほども歩んでヤッと広い所へ出た。茲が即ち室に違い無い。獣類だか人だか分らぬ声を発したも此の室の中に住んで居る何かの業であろう。
 多分此の室は今、医学士の婆と話して居る頭の上に当たるらしい。「アレが動くのだ」と云った物音も此の室だろう。アレの本体も此の室で分るだろう。余は狭い所から身体を半分出して様子を伺ったが、室の中には不潔極まる臭気が満ちて居るけれど、何の物音もせぬ。茲こそはと、燐燧を擦(こ)すると、未だ其の火が燃えも揚らぬ中に、忽ち右手の暗から黒い一物が飛び出し、余の前を掠めて左の暗へ跳ねて這入った。余の燐燧は消されて了った。のみならず其の物が強く余の手に触れた為、余は肝腎の燐燧の入物を何所へか叩き落された。
 暗がりでは命にも譬う可き燐燧を、箱ぐるみ叩き落されては、何うする事も出来ぬ。余は真に途方に暮れ、唯身を蹐めて床の上を探る許りだ、何でも燐燧の箱を探し出さぬ事には一寸の身動きもせられぬ場合だ。
 ソロソロと探る手先に、塗れ附く様な気のするのは床の埃で、仰山に云えば五六分も積んで居ようか。此の様な所で、人にもせよ獣にもせよ、能く命が続いたものだ。燐燧の箱も或いは埃の中へ埋まったかも知れぬ、夫とも何処かへ飛び散ったのか、余の手の届く丈の場所には無い。斯して居る間にも何者かが暗の中から余の挙動を伺って居る者と見え、手に取る様に其の呼吸が聞えるのみならず、呼吸の風が温かに余の頬に触わるかとも疑われる。
 余は漸くに燐燧の箱を探り当てたが、何うだろう中は全く飛び散って空になって居る、之には全く絶望した。箱さえも埋まるかと思う埃の中で、細い燐燧に何うして探り当てる事が出来よう。と云って探らずには居られぬから、今は自狂(やけ)の様で、前へ進み出で、右に左に探るうち今度は更に今の怪しい生物に探り当てた。何だか匍匐(よつんばい)に這って居る様子だが獣物でなく、人の様だ。寒いのか恐ろしいのかブルブルと震えて居る、今の時候では未だ震える程の寒さではないが、爾すれば全く余を恐れての事と見える。
 斯う思うと余は聊か気丈夫に成った。先が余を恐れるならナニも余が先を恐れるには及ばぬ、寧ろ声を掛けて安心さして遣るが宜いと、低い声で「コレ何も己を恐れる事はない、お前の敵ではなく味方だよ、助けに来たのだよ」と云った、けれど少しも通ぜぬ様子だ、シテ見ると或いは人ではなく、矢張り獣物だか知らんと、又一応探り廻して見ると確かに被物(きもの)、而も襤褸(ぼろ)を着ては居るが背中に大きな堅い瘤の様な者がある。ハテな脊僂(せむし)ででも有ろうかと其の瘤を探り直すと、出し抜けに彼は余を跳ね返した。
 余は不意の事に、思わず背後へ手を突いたが、有難い其の手の下に正に一本の燐燧がある。早速に之を取り上げ、自分の被物で擦って見ると、明かりと共に余の目に映ずるは双個の光る眼である。次には大きな口から白い歯を露出(むきだ)して光らせて居るのも見える、人間は人間だが、余ほど異様な人間である。エエ最う一本燐燧が有ればと思う折しも、背後の方に荒い足音が聞こえて誰かヅカヅカと這入って来た。見咎められて捕われては大変ゆえ余は直ぐに燃え残る燐燧を吹き消し、遽てて背後を向いて見たが、狭い彼の入口から手燭を持って、医学士と其の後に婆が続いて入り来るのであった。

    第五十六回 兵法のいろは

 医学士は早や狭い廊下を通り盡して此の室の入口に全身を現わした。其の腋の辺から彼の婆が首を出して窺いて居る、彼は左の手に燭を持ち右には抜身の光る長剣を提げて居る、余を殺す積りか知らん。
 併し彼は、余の姿を見て驚いた様子だ、多分此の室に此の様な他人が居ようとは思わず、唯何だか物音のするを聞き、此の室の兼ねての住者が騒ぐ者とのみ思い、威かして取り鎮める積りで長剣を光らせて来たので有ろう。余は彼の驚き怪しむ顔色を見て確かに爾だと見て取った。
 彼は暫く余の姿を眺めた末、厳重な余の身体に少し恐れを催したか、身を引いて狭い入口の道へ這入った。スハと云えば逃げ出す覚悟と思われる。成るほど思えば尤もではある。医学者などと云う者は縦しや如何ほど悪党でも、腕力で以て直接に人と格闘して取り挫ぐなど云う了簡はないもので、一身の危い様な場合には兎角に逡巡(しりごみ)する者だよ、殊に此の様な室へ余が独りで忍び込んで居る所を見ては、何の様な命知らずだろうと奥底を計り兼ね、余が彼を恐れるよりも彼一層余を恐れたと見える。
 医学士の姿を見て此の室の住者は、全く畏縮して余の背後へ小さく隠れた。余は斯る間にも、医学士の持って居る手燭のお蔭で聊か看て取る事を得たが住者は全く人間で有る、獣物ではない、爾して鎖で繋がれて居た者と見え、一方に鎖が横たわって居る、併し其の鎖は切れて居る、是で先刻医学士が、最っと鎖を緊ねば可けぬなど云った意味も分る。
 頓て医学士は顔に怪しみの色を浮かべたままで婆に振り向き「オヤオヤ婆さん茲に此の様な紳士がいるぜ」と云った。紳士とは痛み入る叮嚀なお言葉だが、商売柄だけ誰を見ても紳士と云うのが口癖に成って居ると見える、婆は医学士の背後から「イエイエ、お待ちなさいよ、グリムを呼んで来て噛み殺させるから」と云い早や立ち去ろうとする様子だ。グリムとは例の犬の名と察せられる、男たる物が犬を相手に、而も彼の猛き中の最も猛きボルドー種の犬を相手に、命の取り遣りをせねば成らぬかと思えば余り好い気持でない、医学士は之を留めて「イヤ婆さん、お前は此の紳士を知って居るのか」
 婆「アア先っき伜を馬車に乗せて連れて来た人だよ」医学士「爾かい。では先刻途中で私を医学士とお呼び掛け成すったは貴方ですか」と是だけは余に向って云った。余は勿論叮嚀に、且つ厳かに、「ハイ私です」
 医学士「ハハハハ停車場(すていしょん)へ、預けてある荷物を受け取らねば成らぬと仰有ったが茲は停車場では有りませんよ、貴方の商用とは大変な商用ですネエ」嘲けるよりも寧ろ打ち解けて笑談(じょうだん)を云う様な口調で云うた。是も彼が日頃の職業柄で慣れて居る口調であろう。余「ハイ有体に申せば、此の家へ忍び込む為に貴方を欺いたのです」
 彼は急に真面目になり「成るほど私に油断をさせたのですネ、夫は兵法の「いろは」ですが、併し何で此の家へ忍び入り度いと思ったのです、貴方は探偵ですか」余「イイエ」医学士「成るほど探偵ではない、物の言い振りで分って居るが、矢張り唯の紳士ですな、唯の紳士が何の為に他人の家へ、物取りですか」余「先ア其の様な事とお思いなさい。兎も角私は忍び込んで既に多少見届ける所が有りましたから目的の一部は達しました。之で此の室の住者と共に茲を立ち去りますから、サア其所を退いてお通しなさい」
 余は全く此の住者を連れて立ち去る積りである、此の住者が、何者か又何の為に茲に居るか、少しも考えは附かぬけれど、鎖まで附けて繋いである所を見れば、当人の意に背いて引き留めてある事は確かだから此の者を連れて去るのは此の者を救うのも同様だ。医学士は考えつつ「イヤ勿論貴方の立ち去るのを吾々が邪魔する権利は有りませんから勝手にお立ち去りなされですが、併し私は此の家の主人ではなく、只主人と懇意な間柄と云う許りで、御存知の通り主人は大怪我の為前後も知らず寝て居ますから、後で正気に返った時、若し私に向い、何故に他人の家へ忍び入る紳士を其のまま帰したかと問わるれば私は一応の返事もせねば成りません。其の時何と返事を致しましょう、是だけは貴方から伺って置かねば成りません」余「其の時は――左様サ、私が一枚の名刺を残して置きますから私の許へ親しく聞きに来いと言って下されば宜しいのです」医学士「では茲へ此の手燭を置きますから、余り時間の経たぬ中にお立ち去りを願います。お名札は下で戴きましょう、其の節猶一言申し度い事も有りますから」
 斯う云って狭い出口を悠々と去って了った。婆は気を揉んで「お前、アノ様な者を何故立ち去らせる。お前は好かろうが、後で私が甚蔵から何の様な目に遭うかも知れぬ」と頻りに苦情を云う声も聞こえた。けれど何の甲斐もなく医学士に連れ出されて了った。
 とさ、斯う思って居る中に早や外から入口の戸を犇々(ひしひし)と締める音が聞こえる、サア大変だ。余は医学士に一ぱい陥(は)められた。

    第五十七回 後は真の暗闇


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