幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 兎に角も検屍官が「何者とも知れぬ者の死骸、何者とも知れぬ者の殺人犯」と判決したに付いて秀子に対する恐ろしい嫌疑は消えて了った、余は直ちに此の事を秀子に知らせて喜ばせたいと思い、早速其の室へ行こうとすると廊下で虎井夫人に逢った、夫人は遽しく余を引き留めて「お浦さんの死骸ではない様に貴方が言い立てたと聞きましたが、其の言い立てが通りましたか、判決は何うなりました」余「判決は何者とも知れぬ女となりました」夫人「オオ夫は有難い、松谷嬢もさぞ喜びましょう、嬢は先ほどから此の様な疑いを受けて悔しいと何んなに嘆いて居るでしょう」余「夫にしても貴女は病気の身で」夫人「イイエ熱が冷めましたから最う病気ではないのです、御覧の通りヨボヨボしては居ますが、松谷嬢が傷わしゅうて、知らぬ顔で居られませんゆえ、先刻から検屍の模様を立ち聞きしては嬢に知らせて遣って居ます」悪人でも流石は乳婆だ、嬢の事がそうまでも気になるかと思えば余は聊か不憫に思うた、余「では直ぐに判決の事を貴女の口から嬢に知らせてお遣りなさい」夫人「イイエ最う私は安心して力が盡きました、室へ帰って休まねば耐りませんから嬢へは何うぞ貴方から」と言い捨て、全く力の盡き果てた様でひょろひょろして自分の室の方へ退いた。
 余は其の足で直ぐに秀子の室へ行ったが、秀子は全く顔も青ざめ、一方ならず心配に沈んで居る、余の姿を見ても立ち上る気力もないから、余は其の背を撫でる様にして「秀子さんお歓(よろこ)び成さい、あの死骸はお浦のでなく加害者も被害者も何者か分らぬと判決になりました」秀子は打って代ったほど力を得て立ち上り「アア本統に有難いと思います、貴方には命を助けられ、今は又命より大切な事を助けられました」余「ナニ是しきの事を何も有難いなどと云うには足りませんよ」秀子「イエ貴方は何も御存じがないからそう仰有るのです、若し私に嫌疑でもかかれば、幾等自分が潔白でも私は活きて居られぬと思いました、イエ本統ですよ、夫だから亡き後の事を頼む積りで権田時介を呼んで置きました」猶だ余よりも彼の権田弁護士を真逆の時の頼みにするかと思えば余は何となく不愉快だ、余「シテ権田は最う来ましたか」秀子「ハイ最う多分着く時分です」余「私は権田の身に成りたいと思います、若し権田の様に私を信任して下さらば権田の百倍も貴女の為に盡しますが」秀子「アレ信任などと、私は――何れほど、貴方を頼みにして居るか知れませんのに」余「頼みにするとて私へ愛と云う一言をすらお酬い下さらぬでは有りませんか」是が嫉妬と云う者か、余は斯様な事を言う積りでなかったのに、知らず知らず口が辷った、秀子「私の様な到底人の妻と為られぬ者の愛を得たとて何に成ります」余「妻になる成らぬは構いませぬ、唯貴女に愛せられて居るとさえ思えば――」秀子「ではそうお思いに成って宜(よ)いのです」と云ったが、是も言うて成らぬ事を云ったと思ったのか直ちに余の胸に前額(ひたい)を隠した。
 余は夢の様に恍惚として「秀子さん、其のお言葉を聞けば私は身を捨てても――イヤ貴女の身に人の妻と為られぬ何の様な事情が有ろうとも其の事情を払い退けます、如何なる困難を冒して成りとも」秀子は飛び離れて「了ません、丸部さん、私は大変な事を忘れて居ました、此の度の事は貴方のお蔭で助かりましたが、之よりも恐ろしい、到底(とて)も助かる路がなかろうと思う様な事柄に攻められて居るのです、妻にもなれず、永く此の世に居る事も出来ません」秀子の言葉は常に秘密の中に包まれ何事だか察することも出来ぬけれど今まで偽りの有った事がない、分らぬながらも皆誠だ、余「人として此の世に居る事の出来ぬ様な其んな事柄が有りますものか、今までは他人ゆえ、深く貴女に問う事も出来ませんでしたが、愛と云うお言葉を聞いた上は最う自分の事として其の困難に当ります、何の様な事ですか、何の様な事ですか」秀子は首を垂れて考え込み、顔も見せねば返事もせぬ、余「其の事柄が若し今直ぐに聞かして下さる事が出来ぬとならば、其の方は後として、其の前に貴女が人の妻に成られぬと云う其の訳を伺いましょう、私を愛しても私の妻に成れぬとは何故です、間を隔てる人でも有るのですか、有れば其の人は誰ですか」
「権田弁護士」と取り次の者の名乗る声が此の時聞こえた、引き続いて権田時介が此の室へ入って来た。

    第四十三回 空な約束

 権田時介が来た為に、余は実に肝腎の話を妨げられた、若し彼の来るのが半時間も遅かったら、余は必ず秀子を説き伏せて末は夫婦と云う約束を結んだのに、惜しい事をした。
 時介が秀子に何を云うか、又秀子が時介に何を頼むか、余は茲に居て聞き取り度いと思ったけれどもまさかにそうも出来ぬ。既に秀子から故々(わざわざ)時介を呼びに遣ったと聞いて居る丈に、厭でも茲を立ち去らねばならぬ、恨み恨み彼の顔を眺むれば彼も余と秀子との間に何か親密な話でも有ったのかと嫉む様に余の顔を見る、余「イヤ権田さん」時介「イヤ丸部さん」と互いに挨拶の言葉だけは親しげに交えたけれど腹の底は火と火の衝突だ、互いに焼き合いだ。
 余は詮方なく此の室を退いて、我が心を鎮める為庭に出て徘徊したが心は到底鎮まらぬ、益々秀子の事が気に掛かる一方だ、何で秀子は権田の様な者を呼び寄せただろう、余に打ち明ければ何の様な事でもして遣るのに、何でも権田は秀子の身の秘密に、久しく関係して居るに違いない、今初めて怪しむ訳ではないが其の秘密は何であろう、秀子は到底此の世に活きて居られぬと迄に云った、シテ見ると余ほど切迫して居る事に違いない、唯一度余に打ち明けて呉れさえすれば余は骨身を粉にしても助けて遣るのに、権田には打ち明けて余には隠して居る、何の秘密だか少しも見当が附かぬ、見当が附かぬのに助けると云う訳には行かず、と云って助けずに、知らぬ顔で済ます訳にも猶更行かぬ、困った、実に困った、只問う丈では幾度問うたとて打ち明ける事ではなし、矢張り此の上は、秘密にも何にも構わずに、余の妻になると云う約束をさせ、爾して許婚の所天と云う資格を以て充分の親切を盡くし、追々に其の信任を得て、爾して打ち明けさせるより外はないか知らん、追々と云う様な気の永い話では此の切迫して居る今の場合に間に合わぬかも知れぬけれど、外には何の道もないから仕方がない。
 余は此の様に思って再び秀子の室へ行ったが、中は大層静かだ、猶だ権田と話して居るか知らん、斯うも静かな様では余ほど湿やかな話と見える、余が這入るのは勿論悪い、悪いけど此の様な大事の場合に権田の都合の好い様に許りはしては居られぬと、今思うと半ば殆ど狂気の様で、戸を推し開いて中へ這入った、オヤオヤ、オヤ、権田は居ぬ、秀子が一人で泣いて居る、余は安心もしたが拍子も抜け「権田弁護士は何うしました」秀子は泣き顔を隠して「疾(と)うに話が済んで帰りました」彼が来てから三十分とも経たぬ程だのに「疾うに話が済んだ」と云う所を見ると、纔(わずか)に五分か十分で事が分ったと見え、二人の間は余ほど深く合点し合って居るのだなと、斯う思うと余り権田の早く帰ったのが又忌々しい、余「では権田は虎井夫人の室へでも行ったのですか」秀子「イイエ此の家を立ち去ったのです」余「叔父さんにも会わずに」秀子「ハイ誰にも会わずに」
 彼の急いで去ったのは愈々秘密が切迫して居る為と見る外はない、余の運動も、少しも早くなくては可けぬと、余は咄嗟の間に思案を定めて、我が思う丈の事を秀子に述べた、秀子は一時「其の様なお話を聞いて居れる時では有りません」と云って、腹を立てて、余に出て行って呉れと云わん許りの様を示したが、併し余の今までの忠実と親切とは充分腹に浸みて居るに違いない、此の後とても余の親切は多少嘉納するに足ると思って居るらしい、腹を立ったも少しの間で再び余の言葉に耳を貸す事に成ったが、愈々論じ詰めた結果が、何時も云う「到底人の妻に成れぬ身です」との一語に帰した、それならそれで宜しいから「若しも人の妻になる事の出来る時が来たなら私の妻になりますか」と云うと「其の様な時は決して来ません」「其の来ぬ者が若しも来る者と仮りに定めれば」「其の時は貴方の妻にでも誰の妻にでも成りますよ」「誰の妻にでもでは了けぬ、私の妻になるとお約束成さい」「約束したとて履行と云う時のない約束だから無益です」「無益でも宜しいから約束なさい」「其の様な空(くう)な約束が何か貴方のお為になりますか」「成りますとも、空でも是が貴女の出来る中の一番近い約束と思えば私に満足ドコロでは有りません、世界を得たほど嬉しく思います」秀子は涙の未だ乾き果てぬ目許(もと)で異様に笑い「オホホホ可笑い方です事ネエ」余「可笑くても宜いから約束なさい」秀子「ハイ其の様な空な約束なら幾等でも致しますよ」
 空とは云っても空ではない、既に此の約束がある以上は、秀子は生涯所天(おっと)を持たずに終わるかはた余の妻になるかの二つだ、余の妻にならずして他人の妻になると云う事は決して出来ず、又生涯所天を持たぬと云う事は余の叔父が許すまい、叔父は只管此の家に然る可き後嗣ぎの出来て子孫の繁栄する事を祈って居るから。
 殊に又秀子の心も此の約束で分って居る、幾等空な約束にせよ、真実余を嫌って居るなら承諾する筈がない、成るほど本心は生涯所天などを持つ様な安楽な事は来ぬと充分覚悟を仕て居るだろうよ、覚悟は仕て居るだろうけれど、若しも婚礼の出来る時が来れば余と婚礼すると云う積りに違いない、之を如何ぞ余たる者豈(あ)に砕身粉骨して秀子の難を払わざる可けんやだ、余は雀躍(こおどり)して此の室を出て叔父の許に行き、未だ婚礼の時は極らぬけれど秀子と夫婦約束だけは出来たと告げた、叔父は大いに喜んで、秀子と余とを半々に此の家の相続人として早速遺言状を書き替えると云った、果たして三日と経たぬうちに其の通りに仕て了った。
 けれど秀子の災難は余の思ったより切迫して居て、又実際余の力で払い除ける事の出来ぬ様な恐ろしい秘密的の性質であった。

    第四十四回 星の様な光

 余は秀子に向って、問い度い事、言い度い事、様々にあるけれど、此の日も翌日も其の暇を得なんだ。と云う訳は、首のない死骸の事件が遠近(えんきん)へ聞こえたと見え、見舞いに来る客も仲々多い、其の死骸がお浦でなかったと聞いて安心する人も有り怪しむ人も有った様子だが、兎に角是等の客の応接に秀子の手の空いた時は余が忙しく、余の暇な時は秀子が差し支えると云う有様だ、今から考えて見ると秀子の身には真に恐ろしい秘密事件が差し迫って居たのだが能くも秀子は其の心配の中で平気で客の待遇などが仕て居られた者だ、尤も客と談笑する間には夫となく心配気に見ゆる所は確かにあった。他人には分るまいが余の目には暗に分った、夫だから余は折さえ有れば慰めもし問いもしたいと唯此の様に思って居たが、此の日も暮れて早や夜の十二時を過ぎたろう、秀子は客が雑談などに夢中になって居るのを見定め、密(そっ)と客間から忍び出た。
 イヤ忍び出たのではない当り前に出たけれど余の目には忍び出る様に見えた、若しや秘密とか密旨とか云う事の為では有るまいかと、余も引き続いて出て見たが、早や廊下には秀子の姿が見えぬ、居間へ行っても居らぬ、或いは虎井夫人の許かと又其の室へ尋ねて行けば、虎井夫人さえも居らぬ、既に病気は直ったと自分では云って居ても未だ客の前へも出得ない夫人が夜の十二時過ぎに室を空けるとは、何うも尋常の事ではない、若しやと思って余は庭へ出たが、月のない夜の事とて樹の下の闇が甚だ暗く、何と見定める事も出来ぬけれど、其所此所を辿って居るうち、一方の茂みの蔭から、密々(ひそひそ)と話しつつ来る二人の人の声が聞こえる、清いのが秀子の声で濁ったのが虎井夫人の声だ。
 二人は余の居る所から二三間先まで来て、立ち止った、余が居るを疑っての為ではなく、話が大変な所へ掛った為足を運ぶのを忘れたのだ、秀子の声「幾等大胆でも真逆に茲へは来ませんよ」虎井夫人の声「来ますとも、開放も同様の此の家ですもの、庭まで来たとて誰に見咎められる恐れもなく」秀子「恐れがないから来るが好いと貴女が云うて遣ったのでしょう」夫人「ナニ私が云うて遣りますものか」秀子「夫なら決して来る筈は有りません、自分の身に悪事が重なって居るのですもの」夫人「論より証拠実は最う来て居ますよ、先刻から向うの榎木の蔭で貴女の出て来るのを待って居ます」
 何者の事かは知らぬが、何うせ秀子の身に害を為す奴に違いないから、余は其の榎木の蔭へ馳せ附けて引捕えて遣ろうかと思ったが、爾も出来ぬ、承諾も得ずに横合いから手を出して、後で秀子に喜ばれるか恨まれるか夫も分らぬから先ア静かに事の成り行きを見て、秀子が甚く当惑するとか其の者が暴行でもする場合に現われようと、此の様に思い直して、暗の中で自分の身へ力を入れて見るのに、創は勿論既に癒えて、力も充分に回復したらしい、何うも其の様な気がする、是なら悪人の一人や二人を擲倒(なぐりたお)すは造作もない。
 秀子は、既に来て居るとの虎井夫人の言葉に余ほど驚いた様子で「エ、今夜来て居るのですか」と叫んだ。虎井夫人「私にも制する事が出来ぬから致し方が有りません、最う逃れぬ所と断念(あきら)めてお了いなさい」オヤオヤ此の夫人まで秀子の敵に成って、悪者に力を添えて居るのだな、尤も今までとても彼の蜘蛛屋とか云う所へ秀子の手帳を盗んで送って遣ったなどで分っては居るけれど余は事新しい様に感じた、暫くして秀子は「断念めよとて何う断念めるのです」夫人「断念めて向うの請求に応じますのサ、夫も六かしい事ではなく、唯貴女の知って居る秘密を一言彼の耳へ細語いて遣るだけですワ、貴女に取っては損もなく彼に取っては大層な利益です、爾して貴女の身も後々が安楽では有りませんか」秀子「可(い)けません、私の口から一言でも洩す事は出来ませんよ」夫人「其の様な事を仰有って、若し彼が立腹すれば、イヤ最う立腹はして居ますけれど、此の上に少しも容赦せぬ事に成れば貴女の身は何うなると思います」秀子「最う既に容赦せぬ事に成って居るでは有りませんか。夜に紛れて此の庭へ忍び入り、爾して私に逢い度いなどと、ナニ構いません。私こそ最う断念めて居るのですから、彼が何の様な事をするか思う存分な目に逢いましょう、彼を恐れて、彼のユスリに従い、縦しや一言でも秘密を教えて遣れば私の密旨は大事の目的を失います、私が密旨の為に生きて居る事は貴女が知って居るでは有りませんか、密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と威(おど)されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです、金銭ででも済む事なら、イヤ今まで彼と貴女には云うが儘に金銭の報酬を与え、此の上遣るにも及びませぬ、けれど未だ御存じの通り自分の金子が銀行に在りますから惜しいとは思いません、金銭の外の頼みには、応ずるよりも死ぬる方を先にしますから、何うか彼に爾云って下さい、アノ様な者には逢うのも厭です」夫人「厭ですとて、最うソレ、返事の遅いのを待兼ねて彼所(あすこ)へ遣って来ました」
 暗の中で何を指さして、彼処へ遣って来たなどと云うかと思い、余は四辺を見廻したが、三十間ほども離れた彼方に、一点星の様な光が有って、何だか此方へ寄って来る様子だ、分った、葉巻煙草を咬(くわ)えて居るのだ、光るのは煙草の火だ、人の屋敷へ忍び入って咬煙草などして居るとは余程横着な奴と見える、其のうちに安煙草の悪い臭気が余の居る所へまでも届いた。

    第四十五回 拳骨と気転

 安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一埓(らつ)は何の様に終わるだろう、余は息を殺して居ながらも全身の筋肉が躍る様な想いである。秀子は再び虎井夫人に向い「厭ですよ。アノ様な人に逢うのは、ナニ初めから来て居ると知れば茲へ出て来る所ではなかったのです、私を欺して連れ出すとは余り甚いではありませんか」と叱る様に云うた、夫人「でも逢わせるのが貴女の為だと思いました、悪気でお連れ出し申したではなく」秀子「何うか貴女から彼にそう云って下さい、金子の外のユスリには決して応ずる事は出来ぬと」夫人「そう云えば決闘状を送るのも同じです、彼は決して容赦せぬ気になりますよ」秀子「構いません、今云う通り、最早密旨の成就する見込みは絶えましたから、愈々の果ては斯うと充分覚悟を極めて居ます、何うか彼に窘(いじ)めて呉れと私から言伝てだと云って下さい」言い捨てて秀子は虎井夫人を振り放し、家の方へ去って了った、何と見上げた勇気ではないか、成るほど是だけの勇気がなければ、女の身として唯一人で、何の様な密旨か知らぬけれど密旨に身を委ねるなどと云う堅い決心は起し得ぬ筈だよ。
 虎井夫人は「仕ようがない事ネエ」と呟いたが、病後の身で秀子を追い掛けたり引き留めたりする事は出来ぬと見え、其のまま呟き呟き星の光の方へ行って了った、サア余は何うしたら好かろう、夫人と同じく星の光の方へ行き、彼の男を捕えて呉れ様か、イヤ捕えたとて仕方がない、夫より彼奴の立ち去るを待ちその後を附けて彼奴の何者かと云う事を見届けて呉れよう、何でも此の様な悪人だから身に様々の旧悪が在るに違いない、何うかして其の旧悪の一を捕えて置けば幾等秀子に仇(あだ)しようとても爾はさせぬ、アベコベに彼奴を取り挫(ひし)ぐ事も出来ると斯う思案を極めて了った、其のうちに彼と虎井夫人は、余の居る所から十間ほど離れた所で逢った様子だ、姿は見えぬが何か言葉急しく細語き合う声が聞こえ、爾して巻煙草は口から手へ持ち替られたと見え、星の光が低くなり胸の辺かとも思われる見当で輝いて居る、暫くすると話は終り、二人は分れて、夫人は内へ、男は外の方へと立ち去った、余は直ぐに彼の後を尾けて行こうかと思ったが、秀子の有様も気に掛る、家に這入って何の様な事をして居るか一応は見届けて置き度い。
 一先ず家へ帰って客間を窺いて見ると、秀子は何気もない体で、猶起き残る宵ッぱりの紳士三四人の相手になり笑い興じて居る、実に胸中に何れ程余裕のある女か分らぬ、是ならば秀子の事は差し当って心配するにも及ばぬと思い、其のまま戸表(おもて)へ駆出した、勿論彼の男が庭から裏の方へ立ち去った事は知って居るが、裏からは何所へも行く事が出来ぬから、必ず表の道へ出て、停車場の方へ行くに違いない、縦しや姿は見えずとも人通りのない夜の最う一時過ぎだから人違いなどする気遣いはない心の底で多寡(たか)を括って居ると、例の安煙草が何処からか臭って来る、ア、是だ、猟犬が臭いを嗅いで獲物の通った道を尾けるは全く此の工合だと、余は臭いを便りに徐々と終に停車場まで行った。
 見ると安煙草は早や切符を買い、橋を渡って線路の向う側へ行き、上り汽車を待って居る、時間表に依ると上り汽車は夜の十二時から先は唯二時五分に茲に通過するのが有る許りだ、未だ半時間ほどの猶予がある、何でも彼が如きシレ者を附けるには余ほど用心して掛らねば可けぬと思い、ズッと心を落ち着けて先ず前後を見廻すと、第一に不都合なは余の衣服だ。余は客間に居た儘で来たので小礼服を着けて居る、是では疑われるに極って居るが、家へ引っ返す事は出来ず止むを得ず駅夫に向い、五ポンドの貨幣を二片見せ、夜寒の用意にお前の着替えを売って呉れぬかと云うと存外早く承知して、何所へか走って行き、間もなく風呂敷包みを持って来て、是ではと差し出すのを開けて見ると少し着古したけれど着るに着られぬ事はない、紺色の外被(こうと)と筒袴(ずぼん)が入って居る、筒袴は要らぬと外被だけを取って、上へ着たが寸法も可なり合って居る。
 それから切符を、先ず倫敦まで買ったが、先の人が何所まで買ったかと思い、夫となく今の駅夫に聞いて見るとローストン駅まで買ったと云う事だ、扨は倫敦迄行くのではないと見えるが、何でもローストン駅は何処かへ分れる乗り替える場所だ、是も駅夫に聞いて見ると、駅夫は今の売物で非常に機嫌が好く為って居るので、其の乗替えの汽車が通過する駅々を、指を折りつつ読み上る様に話して呉れた。外の名前は耳に留まらぬけれど其の五番目に数えたペイトン市と云うのが何だか余の耳に此の頃聞いた所の様に感じた、爾だ、爾だペイトン市在の養蟲園と虎井夫人の手紙の上封へ書いて遣ったのだ、扨は彼の男、其の蜘蛛屋とか云う処から来たのであろうか、人を食い殺す毒蜘蛛が網を張って居るとて秀子の身震いをした其の養蟲園へ、余は彼の悪人の後に就いて歩み入る事になるか知らん、斯う思うとわれ知らず右の手が腰の短銃、衣嚢の処へ廻った、撫でて見ると残念な事には短銃を持って居ぬ、エエ何うなる者か、真逆の時には此の拳骨と気転とに頼るまでさ。

    第四十六回 奇と云えば

 其のうちに二時五分の上り汽車が来る刻限と為ったから、余も橋を渡り、線路の向う側へ行き、頓て彼と同じ汽車へ乗り込んだが、幸か不幸か外に相乗りはない、車室の内に余と彼の只二人である。
 車室を照らす電燈の光に余は初めて能く彼の姿を見たが、年は五十位でもあろうか、背が低くて丸々と肥え太って居る。顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも懐(なつ)き相な所がある、誰やらの著書に、悪相を備えたる人は一見して人に疑わる、故に真の悪人たる能わず、真の悪人には人を油断せしむる如き愛らしき所のある者なりとの、意味を記してあるのを見たが、此の男などが或いは其の一例では有るまいか、併し能く見ると眼の底に一種の凄い光を隠しては居る、是は博奕などに耽る人に能くある目附きだよ、何うしても尋常の人間ではない。
 余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。
 彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に障(さ)えて居るのか、顔の柔和さに比べては何となく不機嫌である、話に釣り込れようとはせぬ。
 けれど其のうちに彼は新しい安煙草に火を附け直し、一寸近くも吸うた上で漸くに「貴方は塔の村の停車場から乗りましたネ」と余に問い掛けた、占めたぞ此奴幽霊塔を自分の出稼ぎ場か戦場の様に思って居るので其の近辺の事柄を問う積りと見える、斯なれば余り口数を利かぬ方が却って安心させる元だろうと思い、唯「ハイ」とのみ答えた、果して彼は進み出て「アノ土地に住んで居ますか」余「ハイ彼の村の盡処(はずれ)に昨年から住んで居ます」彼「名高い幽霊塔の中は御覧なさったでしょうね」余「彼の様な恐ろしい噂ばかり有ります所を誰が見ますものか」彼「では少しも塔の事を知りませんか」余「先頃から都の金持が引き移って大層立派に普請した様子ですが未だ招かれた事は有りませんから」彼「アレは丸部朝夫と言う官吏揚りです、彼処に此の頃養女に貰われた女がありますが――」余「爾々大層な美人だとて村の者は評判します」彼は嘲笑って「ヘン、美しくて評判、ナニ美しいよりも最と評判される事が有るのですワ」余「ヘエ貴方は能く御存じですねエ」感心した様に目を見張り、馬鹿になって彼の顔を見揚げるに、彼は悪人には似合わしからぬほど得意げに「世間に私ほど、能く彼の女の事を知った者は有りません、実は彼の女に古い貸し金が有って前夜も催促に行きましたが、最う立派な身分に成ったと思い、高ぶって居て私を相手に仕ませんワ」
 全く悪人にしては少し喋り過ぎる様だけれど、余は夫よりも異様に感じたは秀子の素性だ、此奴に何か秘密を知られて居るのは無論であろうが、夫にしても決して賤しい身分ではなく、生れ附き立派な令嬢であろうと余は確かに思い詰めて居るのに、此奴の言葉では何だか賤しい素性の様にも聞こえる。「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。
 仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、併し余は此の言葉を聞き、余は初めて秀子に薄暗い所で逢って、余り其の顔が異様に美しいから若しや仮面では有るまいかと思った時の事を思い出す、勿論其の後は見慣れたから、何とも思わず、唯絶世の美人と尊敬する許りではあるが、夫にしても偶然に此の男が仮面という言葉を用うるも、奇と言えば奇だ。
 併し彼様な偶中(ぐうちゅう)は有り中の事で畢竟気に掛ける余が神経の落ち着いて居ぬ為である、夫は兎も角も此の男が斯うも秀子の事を悪く言うは許婚も同様な余の身として甚だ聞き捨て難い所がある、此奴め、最っと深い巧みのある悪人かと思ったら、腹立ち紛れに何も彼も口外する、存外浅薄な、存外与(くみ)し易い奴である、茲で一言に叱り附けて呉れようかとも思ったが、此の時忽ち思い附いた、イヤイヤ仲々浅薄どころではない深い深い、底の知れぬほど横着な奴だ、浅薄と思ったのが、余の浅薄だ。
 此奴め、昨夜旨く秀子を劫えさせる事が出来なんだので、先ず近辺へ秀子の身に秘密があると言う噂を立たせ爾して秀子に驚かせて置いて再び行く積りである、余を近所の者と思う為、是くらい聞かせて置けば、余の口から村中へ好い加減に広まって爾して秀子が不安の想いをする時が来ると此の様に思って居るのだ、手もなく余を道具に使う積りだ、人つけ、汝等の道具に使われて耐る者かと腹の底で嘲り、更に彼に向い、然る可く返辞せんと思う折しも、汽車は何物にか衝突して、真に百雷の一時に落ちるかと思われる程の響きを発し、オヤと叫ぶ間もない中に早や顛覆し破砕した。乗客一同粉々に為ったかと余は疑うた。

    第四十七回 穴川甚蔵

 汽車の転覆は、遺憾ながら随分例の有る事ゆえ、管々しく書き立てずとも、何の様な者か能く読者が知って居られる筈だ、此の度の転覆は僅かに一間ばかりある小河の橋が落ちて居るのを気附かずに進んだ為に起ったと言うことだ、怪我人は十四五人あったが幸いに死人は無かった、怪我人の中の最も重い一人は余と同車して居る例の安煙草で、無難の中の最も無難な一人は余であった。
 勿論余も汽車の衝動と共に逆筋斗(さかもんどり)を打って、何所へか身体を打ち附けて暫しが程は何事だか殆ど合点の行かぬ程ではあったけれど、汽車の転覆と気の附いた時は早や毀(こわ)れ毀れの材木の間に立ち上って居た、唯気の毒なは安煙草である、悪人は斯る場合にも自然の憎しみを受けて、人より余計に甚い目に遭うと言う訳ではあるまいが、覆(くつがえ)った車室の台板に圧し附けられ、最(いと)ど赤い顔の猶一層赤くなったのを板の下から出して、額の筋をも痛みに膨らませて、爾して気絶して居ると言う仲々御念の入った有様だ。
 此奴死んで了ったのか知らん、兎も角斯の様な目に遭えば当分秀子を虐めに来る事は出来ぬと有体に云えば余は聊か嬉しかった、けれど助けぬ訳には行かぬ、茲で恩を着せて置けば後々此奴を取り挫ぐに何の様な便宜を得るかも知れぬと得手勝手な慈悲心を起して台板を持ち挙げて遣った、軽い物かと思ったら仲々重い、力自慢の余の腕にさえヤットである、此の重みに圧(おさ)れては身体は寸断寸断(ずたずた)であろうと思ったが、爾ほどでもなく、拾い集めずとも身体だけ纒って居る、扶けつつ起して見ると肩も腰も骨が挫けて居る様子で少しの感覚もない。水でも呑ませば生き返るかと、四辺を見ると誰のか知らんが、酒を入れる旅行持の革袋が飛び散って居る、是屈強と取り上げて口を開けるとブランデー酒の匂いがあるから、之を彼の口に注ぎ込んだが、死んだ蛙の生き返る様に生き返った。
 何しろ混雑の中で、余一人の力では此のうえ何うする事は出来ぬが、幸い近村の人も馳け附けて来たから、其の一人に番を頼んで置いて、余は遠くもあらぬローストンの町へ馳け附け自分の馬車と医者とを呼んで来た。兎も角も停車場のある所まで馬車で此の者を運んで行く外はない、医者の見立てでは此の者は余ほど大怪我だから早速家へ送り届け、厚く手当をせねば可けぬとの事だ、家とて何所が此の者の家だろう、多分ペイトン在の蜘蛛屋であろうとは既に察しては居るけれど、若し衣嚢の中には姓名を書いた手帳でもあろうかと探って見ると手帳もある名刺もある、名刺の表面を見ると覚悟した。余も流石に胸を騒がせた、真中に「博士穴川甚蔵」とあって端の方にペイトン在養蟲園とある、是が養蟲園の主人で、曾て余が虎井夫人の為に手紙の宛名として認めて遣った其の穴川甚蔵であるのだ。
 軈(やが)て余は彼を馬車に乗せ、停車場まで連れて行った。勿論差し支えはないと云う医者の言葉を聞いた上だ、何をするにも費用の掛かる事だから若し電信為替で金子を取り寄せねば可けまいかと自分の紙入れを検めて見ると嬉しい事には五円の札が厚ぼったいほど這入って居る、是ならば好し、此の穴川を養蟲園まで送り届け、人を食い殺す様な毒蜘蛛の巣をも見よう、爾するには一日や二日掛かるかも知れぬ。家では定めし叔父も秀子も気遣って、余の紛失を前のお浦の紛失と同様に思い做して居ようも知れぬと、先ず電信を認めて叔父に宛て、急用の為倫敦へ行くが用の済み次第に帰るから心配するなと書いて発し、爾して穴川を連れてローストン駅まで上等の汽車に乗った。
 穴川は辛(やっ)と言葉を発する有様で、苦痛の中から余に向い時々「有難い」と云う言葉を洩した。余は「艱難には相見互いだ」と答え、口を利くと宜くないから成る可く無言で居ろと親切げに制止した。彼も口を利かぬ方が自分の勝手だと見え、其のうちに全くの無言となり、目をも閉じて了った。余は看護人の如く其の頭の辺に控え、彼の様子を見て、猶様々に思い廻すに、彼此の頃は好い悪事のないのに窮して居るかと、衣服其の他の上に何となく「財政困難」と言う意味が浮んで居る。余の察する通り仏蘭西の人とすれば煙草なども上等を呑む可きに、甚い安煙草で間に合わせて居るなどが何よりの証拠だ、爾して姓名の上に博士とあるのは何故だろう。是も怪しむには足らぬ、誰にも素性を知られて居ぬを幸いに、博士などと冒称して居るのだ。悪人の中で少し智恵の捷(はしこ)い奴は、能く此の様な白痴威(こけおどし)の称号を用うるよ。汽車がペイトンの停車場へ着いたのは早や昼過ぎである。是から穴川の家まで再び馬車を雇う外はないから、穴川を待合室へ抱き入れて置いて、余は外へ出て馬車を呼び、此の在の養蟲園まで行くのだと言うと、馬丁は妙な顔して「エ、養蟲園ですか」と推して問うた。其の様は「アノ様な恐ろしい所へ」と訝り問うように見えた。

    第四十八回 婆の顔

 養蟲園と聞いて馬丁まで好い顔をせぬ所を見ると余り評判の宜くない家と言う事が分る、余は様々に聞き糺したが今の主人「穴川甚蔵」は六七年前に此の土地へ来た者で、何所から移住して来たかは誰も知る者がなく、殊に町から離れた淋しい土地だから誰も度外に置いてあるとの事だ。
 併し馬車は余が充分の賃銭を約束したから行く事になった。馬丁は「アノ様な淋しい所で帰りに乗せる客があるではなし、余計に貰わねば引き合わぬ」と呟いた。余は馬車の中で喫(たべ)る為に、幾種の食品を買い調え、馬丁に手伝わせて大事に甚蔵を馬車に乗せ、車体の動揺せぬ様に徐々(そろそろ)と養蟲園を指して進んだ。
 成るほど淋しい所である、町を離れて野原を過ぎ、陰気な林の中に分け入って、凡そ五哩も行ったかと思う頃、養蟲園へ達した。見れば草の茫々と茂った中に、昔の大きな石礎などが残って居る、問うまでもなく零落した古跡の一つで、元は必ず大きな屋敷であっただろう、それが火事に逢って家の一部分だけ焼け残ったのを、其のまま修繕して住居に直したらしく、家の横手に高大な煉瓦の壁だけが所々に立って、低く崩れたもあり高く聳えたもある、但し焼けたのは今より五七十年も前だろうと余の目では鑑定する。
 今住居と為って居る家だけでも可なり広い、家の背後は山、左は林、右は焼跡から矢張り林へ連なって居るが、何しろ人里から離れた土地で山賊でも住んで居そうだ、爾して焼けた古煉瓦を無造作に積み上げたのが門の様に成って居て戸が締って居る、誰も此の様な家へ侵入する者はあるまいに戸には錠までも卸してある、後で分ったが外から入る人を防ぐよりも、寧ろ内から出る者を妨げる為であった、不束ながら門に続いて疎な丸木の垣がある、犬猫なら潜って出る事は出来ようが人間には六かしい。
 余は門を推してもあかぬから軽く叩いて見ると馬車の中から、今まで無言で居た甚蔵が声を出したから「何事ぞ」と返って問うと「此の鍵がなければ開きません」とて鉄の大きな鍵を差し出した、彼は肩も腰も骨を挫かれて居るけれど右の手だけは達者で、自分で衣嚢を探り鍵などを取り出す事が出来るのだ、何しろ主人が外へ出ると、門に錠を卸してその鍵を持って去るとは全で番人のない家の様だが、内はガラ空か知らんと、此の様に思いつつ進み入ろうとすると、甚蔵は馬車の中から又呻いて余を呼び「門が開いたらその鍵を返して下さい」と請求した、半死半生の癖に仲々厳重な男である、是も何か家の中に秘密がある為に、斯う用心の深い癖と成ったのに違いない、余はその秘密を看て取る迄は此の家を去らぬ事に仕よう。
 鍵を返して門を入れば玄関に案内の鐘を吊り、小さい槌を添えてある、槌を取って鐘を叩いたが中からは返事がなく、唯何所からか犬の吠える声が聞こえる、幾度叩いても同じ事だ、再び馬車に返って甚蔵に問うと、彼は鍵を取り返して安心したのか、痛く力が脱けた様子で、唯「裏へ、裏へ」と云う声を微かに洩し、差し図する様に顋を動かす許りである、今度は其の意に従って家の裏口へ廻って見ると茲も戸が閉って居るが、窓の硝子越しに窺くと薄暗い中に、何とも評し様のないほど醜い老人の顔が見えて居る。人間よりは寧ろ獣に近い様だと、怪しんで見直したが獣に近い筈よ犬だもの、此の国にては余り見ぬが仏蘭西には偶に居る、昔から伝わるボルドウ種と云う犬の一類で、身体も珍しいほど大きいが顔が取り分けて大きいのである、爾して大犬の中では此の種類が一番賢いと云う事だ、併し幾等賢いにせよ犬一匹に留守をさせるは余り不思議だと、更に台所の方の窓を窺くと、居るわ、居るわ、是は犬でない全くの人間だ、年頃は七十以上であろう、白髪頭の老婆である、其の顔と来たら実に恐(こわ)らしく、今見た犬の方が猶だ余っぽど慈悲深く見ゆる程だけれど、その顔に何処となく余の目に慣れた処がある、余の知って居る人に似て居るのだ、それは誰に、虎井夫人にサ、若しや此の婆が虎井夫人の母では有るまいか、猶能く考えると穴川甚蔵も此の婆の子で夫人と同胞(はらから)ではあるまいか、甚蔵の顔には愛嬌は有るが彼の創所(きずしょ)の痛みの為にその顔を蹙めた時は此の婆に幾等か似て居る、甚蔵は父の容貌を受け夫人は母の容貌を受けたとすれば別に怪しむに足らぬ、夫人の顔を二分、甚蔵の苦痛の顔を二分、今の犬の顔を二分爾して残る三分は邪慳な心を以て加えたなら十分に此の婆の顔が出来よう。

    第四十九回 壁も柱も天井も

 余は窓の硝子を叩きつつ、婆に向いて「穴川甚蔵が怪我したから、茲を開けて入れて下さい」と大声に叫んだが、婆は一寸顔を上げた許りで返事をせず、其のまま立って犬の居る方を振り向いた、爾して馳せて来る犬を随がえ、次の室の入口とも思われる一方の戸を開いて、素知らぬ顔で引込んで了い、待っても待っても出ては来ぬ。
 余り腹の立つ仕打ちだから、余は憤々(ぷんぷん)と怒って門へ引返し、甚蔵の寝て居る馬車を連れて再び此の台所口まで帰って来た、馬丁(べっとう)の力を借り、共々に戸を叩き破る積りで馬丁にその旨を告げると穴川が目を開いて「硝子窓の戸を持ち上げて家の中に入れば次の間の卓子の上に鍵があります」と云うた、然らばとその言葉に従い、窓の戸を持ち上げた所、中から待ち兼ねて居た様に彼の犬が飛び出した、初めは余に飛び掛る積りかと思い、余は叩き倒さんと見構えしたが、犬は余には振りも向かず一直線に主人の馬車の許へ行った、余はその後で窓を乗り越え台所から次の室の中へ這入ったが薄暗くて宜くは見えぬけれど、第一に余の目に映じたは、壁も柱も、異様に動いて居る一条だ。
 余は此の様な有様を見た事がない、壁の表面、柱の表面、総て右往左往と動き、静かな様で少しも静かでない、殊に天井の下に横たわって居る梁などは恰で大きな巨蛇(うわばみ)が背(せな)の鱗を動かして居るかと疑われる許りだ、余は自分が眩暈でもする為に此の様に見えるのかと思い、暫し卓子へ手を附いて居ると、何やらソロソロと手へ這上った者がある、払い落して宜く見ると二銭銅貨ほどの大きさのある一匹の蜘蛛である。ハテなと更に壁に寄って見たが、何うだろう壁一面に細い銅網(かなあみ)が張ってあってその中に幾百幾千万とも数の知れぬ蜘蛛が隊を成して動いて居る、壁その物は少しも見えず唯蜘蛛に包まれて居ると云う有様だ、壁の所々に棚もあり穴もある様だけれどその棚その穴悉く蜘蛛に埋められて居るのだ、養蟲園と云い蜘蛛屋と云う名前で凡そ分って居る筈では有るが、実際是ほど蜘蛛を養って居ようとは思わなんだ、又蜘蛛が斯うまで厭らしく恐ろしく見える者とは思わなんだ、勿論蜘蛛は見て余り気持の好い者ではないが併しその一匹や二匹を見た丈では実際に壁一面、天井一面家の中一面に広がって居る蜘蛛の隊が何れほど厭らしいと云う事は想像が届かぬ、余は頭から足の先までもゾッとした、若し女だったら、絶叫して目を廻す所だろう、男だけに目は廻さぬが、而し立って居る力もなく再び卓子の上へ手を突いたが、見れば此の卓子も蜘蛛の台だ、上へ硝子の蓋をした木の箱が幾個となく並んで居て中には大小幾十百種類の蜘蛛が仕切に隔てられて蠢(うごめ)いて居る、是は見本の箱でもあろう。
 余は兎に角も能く心を鎮めた上でなければ、此の室に永くは得留まらぬ、真逆に蜘蛛が銅網を破って追い掛けて来る訳ではなけれど、逃る様に室を出てその戸を閉め切り、爾して先刻婆の居た台所の一方に立った、此の時は最う眼も暗いに慣れて、暗いと感ぜぬ様になったから、茲にもかと四辺を見廻すに茲には蜘蛛らしい物は見えず、却って余の求める鍵が、戸の錠前の穴へ差し込んだ儘であるのが目に入った、多分は婆が次の間に在ったのを持って来て是へ填て置いたのであろう、婆の姿は何所へ行ったか更に見えぬ。
 若し余に深い目的がないのなら此の家へは再び這入らぬ、秀子と同様に、此の家の事を思い出してさえ身震いをするであろう、けれど余は再びも三たびも、此の家の秘密を腹へ入れる迄は這入らねば成らぬ、此の家の秘密を知れば秀子の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ復(かえ)って来て、穴川甚蔵に、寝間は何所に在るかと聞いた、早く彼を家の中へ寝かして遣らねば成らぬから。
「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の由(よし)を甚蔵に告げて置いて又も家に入り、其所此所を見廻すと、曩(さき)に犬の居た室を隔て其の次に階段がある、狭い裏階子の様な者だ。此の辺にも若し蜘蛛が居はせぬかと見廻しながら階段を上ったが見廻して居て仕合せだったよ、若し見廻さずに昇ろう者なら飛んでもない目に逢う所であった。

    第五十回 閉じ込んで置く者

 見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に潜戸(くぐりど)の様な所がある、何か秘密の一室へでも通ずる隠し道ではあるまいか、戸の色と壁の色と一様に燻(くすぶ)って閉じてあれば、容易には見分けも附くまいが、開いて居る為余の目には留まった。
 余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い石片(いしきれ)の様な者を投げ附けた、余は大いに用心して居る際ゆえ手早く身体を転(かわ)して何の怪我もせなんだが、後で見たら危ない哉、石片の様に見えたは古い手斧の頭であった、何者の仕業かと少し躊躇して居ると、潜戸の中から以前の婆が、手に斧の柄だけを以て立ち現われ、階段を遮って、寄らば打たんと云う見幕で、其の斧柄(おのえ)を振り上げ「茲へ入っては可けません」と叫び横手の潜戸を尻目に見た、誰も入ろうとは云わぬのに、アア分った此の婆は多少精神が錯乱して居て、爾して多分日頃から甚蔵に、此の潜戸へ人を入れては成らぬと言い附けられて居るのだ、爾すれば此の潜戸の中に此の家の秘密を押し隠してあるのではなかろうかと、此の様に思ったけれど今は穿鑿する時でない、先ず婆を取り押えようと、三つ四つは擲(なぐ)られる積りで敢然と進んで行くと婆は少年の様に身を軽く潜戸の中へ隠れて了った。
 余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲団毛布(けっと)寝巻などの類が五六点、散らばって居る、其のうちの好さ相な毛布(けっと)を二枚選び寝台に載せて持ち上げたが、余の大力にも仲々重いけど、下まで運ばれぬことはない、運ぼうとして俯向いて居ると、背後から出し抜けに余の頭をしたたか擲った者がある、振り向いて見ると今の婆で早や二度目を打ち下そうと彼の斧の柄を振り上げて居る、余は遽てて其の痩せた凋(しな)びた手を捕え鋭く叱り附ける調子で「何を成さる、私を敵とでも思ってですか」と云いつゝ篤と其の顔を見ると婆は柄にない子供の様な声で「オヤ甚蔵の敵ではないの」と問い返した、愈々以って狂人だ、余「敵ならば大怪我をした貴女の息子を何で故々馬車に乗せてここまで送って来ますものか」婆は驚き「エ甚蔵が怪我をした、アノ馬車に寝て居ますか」と云って捕えた手を振り離して下へ行った、狂人でも親子の情は別と見える、是で以て婆が甚蔵の母と云う事も分った、後には余が寝台を引きずり、斜めに階段の上をすべらせて下へ卸しつつも、潜戸の所を見ると早や戸を閉めて壁だか戸だか一寸と見分け難い程になって居る、狂人の用心深いも驚く可しだ、ナニ今に此の潜戸の中を検める時も来るだろうと呟き、其のまま下へ降りて廊下を其処此処と検めたが、漸く然る可き一室を見出して、甚蔵を寝かせる丈の用意を済ませた、茲には幸い余の嫌いな蜘蛛も居ぬ。爾して再び馬車の許へ行き、犬と婆とを押し退けて馬丁に手伝わせ、甚蔵の頭と足とを持って叮嚀に家の中へ運んだが、此の叮嚀には大いに婆と犬とに信用せられたと見え、双方とも有難相に尾を振って(イヤ婆は手を――振って)転々(ころころ)と随いて来る、頓て甚蔵を寝台に上せ、馬車には定めの上の賃銀を与え猶ペイトン市から至急に医者を寄越して呉れと言い附けて帰し、爾して余は婆や犬やに対するには却って権柄を示すが宜いと思い、殆ど主人風を吹かせて甚蔵の頭元(まくらもと)へ座を占めたが、甚蔵は家に帰り着いた安心の為好く眠り込んだ、婆は唯茫乎(ぼんやり)して甚蔵の寝顔を見て居る、爾して犬は獰猛な質に似ず、余の膝へ頭を擦り附けて居る。
 婆は此の様を見て「アア貴方は甚蔵の敵でない、敵なら此の犬が斯うは狃染(なじ)みません」余は口軽く「ナニ甚蔵に敵などある者か」と云いて口占(くちうら)を引くに、婆「でも此の家へ来る者は皆敵だから誰も入れては可けぬと甚蔵が云いますもの、閉じ込んで置く者の外は誰も入れません」閉じ込んで置くとは何を指して云うのだろう、余は又軽く「閉じ込んで置くとは蜘蛛の事ですか」婆「ナニ此の上のですよ」と云って天井を見上げたが何の意味か益々分らぬ、婆は語を継いで「閉じ込むのは貴方の様に昼間は来ませんよ。夜半に蓋をした馬車で甚蔵か医学士かが連れて来るのです」医学士とは何の謂いにや、甚蔵自ら博士と称し、外に医学士と称する相棒でも有ると見える、余「連れて来られたのは男――女」婆「女はアノ美しい若いのが来た時から、一人も来ませんよ、本統に美しい顔で私は貴婦人だろうと思いました、けれど馬車から抱き降された時の顔は真青で、死骸かと思いましたよ」狂人の云う事ゆえ分らぬは当然だ。一々之に解釈を試むるは愚の至りの様では有るが、併し狂人とて全く根のない事は云うまい、若しや此の美しい女と云うは秀子の事ではあるまいか、秀子が何等かの事情の為に昔夜中に馬車に乗せられ此の家へ連れて来られた事でも有るのではなかろうか、其の事は何時頃であったのだろう、ズッと近くか若しや又、行方知れずに為ったお浦の事ではなかろうかなど、兎に角自分の知った事柄へ引き寄せて考えるのが人間の癖でも有ろうか、余は其の事の余程以前か将(は)た此の頃かを確かめ度いと思い「男は其の後も随分来ましたネ」婆「エエ男は最う去年も一昨年も今年も、馬車の音さえすれば必ず男の子供です」愈々幾年か昔の事に違いないが、併し総体の上から何の為に、夜半に馬車で人を連れて来るのか更に見当が附かぬ、子供と云い閉じ込めるなどと云った今の言葉に思い合わすと益々分らぬ。

    第五十一回 天井の上の音

 気の違って居る婆の言葉を茲へ一々記すにも及ばぬが、其の中に、医学士と云う言葉が二三度あり、又夜半に甚蔵が庭の木の下へ穴を掘り何物をか埋めたと云う様な言葉もあった、何を埋めたのかと此の点は特に問い直したが、何だか人を殺して埋めたかの様にも思われる、而も其の事は一度ならず二度も三度も有ったらしい。
 若し此の辺の秘密が一つでも、充分に分ったならば、彼の運命を余の手の中に握ったも同様ゆえ、此の後決して彼に頭を擡げさせぬのに、能く分らぬは惜しい者だ、此の上は唯先刻の潜戸を開き其の中を検める外は有るまい、アノ中には、秘密其の者か将(は)た秘密を明らかにする証拠物とか参考品とか云う様な物が有るに違いない、何かして中へ入って見たい。
 此の様に思って猶も婆の話を引き出す様に仕向けて見たが、此の婆全くの狂気ではない。狂と不狂との間に在るので、時々は常の人と余り変らぬほど心の爽かな場合もある、後で聞いた所に由ると数年前に二階から落ちて頭を打ち、一時は全くの狂人と為って了ったが、此の頃は幾分か軽くなり、偶に精神の爽やかな時が来ると云う事だ、併し此の様な事は何うでも好い、唯甚蔵の咽喉を握る様な秘密をさえ手に入るれば。
 斯くて暫く話の途切れた頃、頭の上の方で、何だか緩(にぶ)い足音とも云う様な響きが聞こえた、或いは天井の上を、ソッと何者かが歩いたのでは有るまいか、若し爾すれば、益々彼の潜戸の中へ這入る必要が出て来る、彼の中へ入れば自然此の室の上などへも来る事が出来ようも知れぬ。
 余は殆ど思案の暇もなしに、仰いで天井を眺め「オヤ今の音は何だろう」と問うたが、此の一言は忽ち婆の暗い脳髄を明るくする力があったと見え、婆は急に容(かたち)を更め「貴方はアノ音を知りませんか、夫では矢張り甚蔵の敵だ、敵だ、此の家の事を何にも知らぬのだ、知らずに聞いて居なさるのだ、ハイ此の家の内事を知らぬ者は皆敵だから決して内へ入れては了けぬと甚蔵が言いました、先ア敵の癖に、優しい言葉で油断をさせて」と恨めしげに言い募ろうとするから、余「ナニ悪事をせぬ人に、何で敵がある者か」婆「イイエ、貴方は甚蔵が何か悪事でもするかと思い、様々に問うて居るのですよ、甚蔵は悪事は致しません、世間の人と同じ様に正直に稼いで正直に暮して居るのです、商売は蜘蛛を育てるのです、蜘蛛を育てて何にするか、ハイ買う人に売るのです、同業の少い商売だから悪事はせずとも充分に立って行きます」
 早口に弁ずる様は通常の人でもないが今までの狂人とも思われぬ、併し蜘蛛を育てるが何の様な商業に成るだろう、是も後で分ったが、酒造家などが、自分の貯えてある酒の瓶へ、時代の附いて居る様に見せる為様々の蜘蛛を其の貯蔵室へ入れる相だ、スルと蜘蛛が何の瓶へも、何の瓶へも絲を附け、一年も経ると百年も経た瓶の様に見えるので、買人(かいて)が直ぐに幾十年の古酒だとか幾百年続いて居る貯蔵室だとか云う様に信ずると云う事だ、其のほか物を貯蔵する穴倉へ蜘蛛を欲しがる商売は随分あり、夫に又此の節は蜘蛛の糸を紡績する方法が発明せられ、其の試験や実行に用うる人も多いので此の虫の買人(かいて)が仏国や米国などに現われた、幾等も輸出もする事になり、随分蜘蛛を養って、商売にはなるのだとさ、けれど甚蔵が養うのはそれのみの目的ではない、人が厭がる虫を飼って我家へ他人の来ぬ様にしたいと云うのが主になって居る。
 夫は扨置き婆は暫く弁解の様に、又余を攻撃する様に、述べ立てて居るうち、其の弱い脳髄は早や疲れたと見え、徐々と言葉の筋道が立たなくなり、最後に「オヤ、私は何を云って居たか知らん」と云い少し考え込んだまま元の狂人に復って了った、此の様を見ると多少は気の毒にもなる。
 婆に再び問い試みたとて此の上好結果を得る見込みはない、余は無言と為って甚蔵の枕許に控えて居たが、彼は傷から熱を発しでもしたか、目は醒したけれど囈言(うわごと)の様な事を云って居る、もはや先刻馬車の馬丁に頼んで遣ったペイトン市の医者が来そうな者だのに未だ来ない。其のうちに日も暮れた、腹も幾分か空いて来た、何とか思案をせねば可けぬ、併し思案とて外にない。余自らペイトン市へ、行って来る一方だ。医者とても馬丁に頼んだ丈ゆえ果して通じて居るか否か覚束ない、ナニ余の足でなら一走りだ、行って来ようと決心し、分る人に云う様に婆に甚蔵の介抱に就いての注意を与え、爾して外へ出て見たが、秋の天気は変り易く、雨もボツボツ降り、風も出て居る。
 暗さも暗いけれど、迷うほどの込み入った路ではない、只管(ひたすら)に急いで凡そ一里ほども行くと林から続いて小高い丘がある、来る時に馬車で越した所だから勿論丘と名を附け兼ねるほどの小さい丘ではあるが、余が此方から登る途端に、向うから来て丁度其の一番高い所へ来掛けた人があり、下の方から透して見ると、何だか鞄の様な物を提げて居るらしい。其の風附(ふうつき)が何うしても医者である、医者でなくては夜に入って此の辺へ来る筈がない、余は咄嗟の間に一種の考えが浮んだから、間近くなるを待って此方から声を掛け「其所へ来るのは医学士では有りませんか」と云った。婆の云うた医学士と此の医者と或いは同人では有るまいかと試して見るのだ、彼は声に応じ「オヽ私を呼ぶのは何方です」と問い返した。

    第五十二回 木の下へ穴

 此奴が穴川甚蔵と云う立派な博士の相棒の其の医学士とすれば、余は後々の為に此奴の素性や挙動までも一応は探って置き度く思うから、今は此奴に成る可く油断をさせて置かねばならぬ。
 咄嗟の間に此の様に思案を定め、余は口から出任せの名を名乗り、実は偶然穴川と同車して彼の怪我を救い、其の家まで送り届け、医者を迎えに遣ったけれど、其の来ようが余り遅い故、何時までも待つ訳に行かず、自分で医者の家へ立ち寄った上、其のまま立ち去る積りであるとの旨を答えた、彼は聞き終って「でも私を医学士と呼び掛けたは何う云う訳です」と問い返した。ヘンお出でだな、此奴が世間一般に医学士として知られて居る男なら、誰に医学士と呼び掛けられても自ら怪しみは仕まいけれど、医学士と云うは唯穴川などから呼ばれる一種の綽名か符牒の様な者なので、呼び掛けられて自分で少し後暗く思うのだ、余は是も言葉巧みに「イヤ彼の家に変な婆さんが居て、最う医学士が来そうな者だなと云って居ましたゆえ、夫で私は医学士ですかとお尋ね申したのです」彼は合点し「爾でしたか。私は唯知らぬ人から医学士と呼び掛けられ、別に自分の肩へ医学士と云う建札をして居る訳でもないのに、何うして分ったかと怪しみましたが、併し貴方は私と共に彼の家へ引き返しますか」余「ハイ引き返さねば済みませんが、実は取り忙いだ用事を控えて居ますので、成ろう事なら、此のまま立ち去り度いと思います、素人の私が怪我人の枕許に居たとて貴方のお手伝いも出来ませず」と非常に当惑の体を粧うて云うた。彼は少し考え「貴方は別に荷物などを彼の家へ残しては有りませんか」勿論荷物とては初めから一点も持って居らぬけれど「イヤ荷物は悉く停車場へ預けて有ります、其の中には日を経ると傷む者も有りますので猶更グズグズは仕て居られません」彼「御尤も、夫では宜しい怪我人は私が引き受けました」と一通りの挨拶を言って其のまま医学士は進んで行った。
 余は直ぐに彼の後を見え隠れに尾けて帰ろうかと思ったが、外に多少の用意もあるから爾はせずに真直ぐにペイトン市へ行き第一には食事を済ませ、第二には人の家へ忍び込むとき足音のせぬ様に、漉毛(すきげ)で作った靴を買い、第三には若しもの用意に色々な道具の附いた小刀を一挺買い求めた。事に寄ると余は随分盗賊にも探偵にも成れる男かも知れぬと、此の様に思って独り可笑く感じたが、併し無駄事を考えて居る場合でないから直ぐ様元の養蟲園へ引っ返した、第一に目指す所は無論彼の潜戸の中に在るのだ。
 再び養蟲園へ着いたは夜の十二時頃で有った。若し彼の潜戸の中が何れほど恐ろしい所かと云う事を前以て知って居たなら余は斯う引き返す勇気は出なんだかも知れぬ、茲が世に云う盲蛇だ、知らぬほど強い者はない、愈々帰り着いて様子を見ると、宵に少しばかり降った雨も歇(や)んで風の音の外は森として何の聞こゆる響きもない、医学士はもう立ち去ったか知らん、兎に角も案内は既に知って居るから裏口へ廻り、中を窺くと先刻甚蔵を舁ぎ込んだ台所の戸が猶だ開いた儘で居る、実は初めて這入った時の様に窓から這入る積りであったが、窓には及ばぬ、直ちに忍びの靴を着けて其所から入ったが、目の届く限りには誰も居ぬけれど、彼の恐ろしい蜘蛛の室からは話し声も洩れ、爾して其の戸の鍵穴からは燈光も射して居る、耳を着けて聞いて見ると、医学士が猶だ居るのだ、怪我人の手当を終った後で、此の室へ来て婆と話をして居る者と見える「随分甚い怪我だよ、何所の奴だか知らぬが、直ぐに救って呉れんなら、今頃は庭の松の木の下へ例の穴でも掘って居る所だアハハハ」と打ち笑うは医学士の声だ。此の言葉で見ると庭の木の下へ穴を掘るのは余の想像した通り全く死骸を埋めるのだ、余も事に由ると埋められる者と成りは仕まいか、真逆。

    第五十三回 忘れたよ

 話は聞こえるが勿論姿は見えぬ、医学士は婆と何の様な事をして居るだろう、烏酒(ういすきい)でも飲みながら話して居るのか、成ろう事ならソッと戸を開けて窺いて見たい、けれど窺いたら大変だ、アベコベに見附けられて、硝燈(らんぷ)でも持って出て来られたなら、余は何の様な目に逢うも知れぬ。
 医学士は猶言葉を継いで「大事な時に怪我をしたなあ、何でも甚蔵は美人に逢いに行って、其の帰りに汽車が転覆したのだ、美人の口から彼の秘密を聞き取ったか知らん、博士の腕前だからよもや聞き取らずに帰りは仕まいが、聞いたのなら己も早く聞かせて貰い度い、生憎囈言(うわごと)の外に何にも云わず、問うたとて仕方がない、若しや婆さん、お前に何か云わなんだか、甚蔵がアノ美人の事に就いてさ」美人とは確かに秀子の事である、秀子の敵が此の様な所に居て様々の狂言を仕組んで居ようとは実に意外千万な訳だ。けれど余は此の意外の所へ、意外の事で来た為に、此の様な密事を知る事が出来るのだ、云わば鉱脈に掘り当てた様な者だから余は何処までも此の脈を手繰って、鉱のある丈は掘り盡さねば成らぬ。
 婆は例の間の抜けた声で「美人とは誰だネ、倅が情婦でも拵えたのかネ」と問うた、医学士は腹立しげに舌鼓して「エエお前もそう老耄(おいぼ)れては仕方がない、頭を打たぬ以前は娘より十倍も捷(かしこ)い女であったが今は何うだ、虎井夫人の十分の一の智慧もないワ」愈々虎井夫人も此の婆の娘で、甚蔵の姉か妹である事が分る、丁度似た年頃で何方が上だか分らぬが、虎井夫人の方が姉だろう、女は八十に成っても矢張り若く見られたがって、若作りをする者だから、男と同じ年頃に見えるなら必ず女の方が年上だ。婆は諄(くど)くも「でもお前さんは甚蔵は美人に逢いに行ったと云うたじゃないか。
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