幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 一段、又一段、愈よ段の下に着いた、正しく人の様な者が横たわって居る、蝋燭の光で見ると、其の着物が昔の錦襴の様な織物で有る、秀子の衣服とは全で違う、ハテなと思って余は、其の背だか何所だか手の当るに任せて引き上げて見たが、着物は余ほど古いと見え、朽た木の葉の破れる様に音もなく裂けて来る。
 此の時、大方蝋燭が盡き、殆ど手に持って居るが六かしくなったから、更に新たなのを点け替て、此の人の頭の方を検めに掛かったが、余は尻餅を搗(つ)かぬ許りに驚いた、何うだろう、人と思ったのは幾年を経た骸骨で、晒しも切らずに黒く固まって居る、アア骸骨が錦を着て塔の底に寝て居るとは聞いた事がない。
 けれど余は直ぐに思い出した、此の骸骨が昔此の幽霊塔を立てた此の家の先祖に違いない、塔の底へ這入ったまま、出る事が出来ずして、助けを呼びながら死んで了い、其の死骸は今日まで取り出す事が出来ずに在ると世の伝説に残って居るのが此の不幸な骸骨である、死ぬるまでに何れほどか残念であったやら、何れほどか悶いたやら、定めし其の恨みが今も消え得まいと思えば哀れにも有り、恐ろしくも有る、けれど余は猶此の上を見極めずに此の所を離れる事は出来ぬ、宛も目に見えぬ縄を以て死骸の傍へ縛り附けられた様な工合に、只躄(すく)み込んで殆ど身動きも得せずに其の死骸の顔を見るに、何れほどか恨めしく睨んだであろうと思われる其の眼は単に大きな穴を留むるのみで、逞しい頬骨が最と悔しげに隆起して居るのも、其の時の痛苦の想像せられる種になる。
 爾して猶だ驚いた一事は、骸骨の右の手が、堅く握った儘で、其の握りの中に古い銅製の大きな鍵を持って居る、何の鍵かは知らぬけれど、若し咒語に在る「明珠百斛、王錫嘉福」の語が、此の塔の底へ宝を隠して有る謎とせば、此の鍵は其の宝を取り出す為の鍵であろう、アア此の人や、生前に其の宝を隠さんが為に、斯様な異趣異様の塔を立て、自ら其の底に死し、猶足らずして、白骨と為って後までも宝庫の鍵を確(かた)く持ち、爾して髑髏の目を凹まして此の入口に見張って居るとは、宝に奇妙な因縁の生まれでは有ると、余は感慨に堪えぬ想いがした。
 兎も角も此のまま置くとは何とやら其の人の冥福にも障る様な気がしたから余は手巾を取り出し、骸骨の顔を蔽(かく)し、回向(えこう)の心で口の中に一篇の哀歌を唱えた。
 何分にも永居するに堪ぬから起き上り、最早此の辺に秀子の居る可き筈であると四辺を見廻したけれど何分にも蝋燭の光が弱く、一間と先は見えぬ、蝋燭を高く持てば自然と遠く其の光が達する筈と、頭の上へ差し上ようとしたが、忽ち天井へ支えて燈は消えた、爾だ茲は穴倉である、天井と床との間が僅かに六尺ほどしかない、三たび燈光を点け直し、静かに検めると、此の室の広さは分らぬけれど、壁に添うてズッと奥まで緋羅紗で張った腰掛台が列(つらな)って居て、其の前に確かに棺だろうと思われる大きな箱が、布の蔽に隠されて並んで居る、此の箱に何が収って居るかは余の問う所でない、余は唯、秀子は、秀子はと目を配るに腰掛台の端の方に伏俯向いた一人の姿は、見擬う可くもない秀子である、秀子、秀子、何が為に俯向いて居る、何が為に身動きもせぬ、若しや既に事切れとなった後にはあらぬかと、余は其の所へ馳せ寄った、爾して秀子の手を取ったが、悲しや其の手は全く冷え切って居る。

    第百十回 毒蛇でも捨てる様に

 取った手先の冷え切って居るのは全く事切れた後の様では有るけれど、余は何となく秀子の身体に猶だ命が籠って居ると思う。
 真に秀子が死んだのなら、余は自ら制し得ぬ程に絶望すること無論であるけれど、何と云う訳か爾ほどには絶望せぬ、随分呼び活(い)ければ生き返る様な気がする。
 片手に冷えた手を持った儘に四辺を見ると、多分は秀子が持って来たのであろう、腰掛台の上に手燭がある、蝋燭は今より幾十分か前に燃えて了った物らしい、依って余は自分の持って居る蝋燭を其の手燭の上に立てた、猶見れば秀子の頭の辺に当り極小さい瓶がある、之が千艸屋から買って来た毒薬に違いない、既に之を呑んだであろうかとは第一に余の心に起った疑問だが、有難い未だ呑んだ者ではなく、瓶の口も其の儘なら中の薬剤(くすり)も其のままである。
 余は自分の体温を以て秀子を温め活す程に両手を以て死人同様の其の体を抱き上げた、オヤオヤ手先の様に身体は冷えて居ぬ、通例の人の温さも有れば何だか脈なども打って居るようだ「秀子さん、秀子さん」穏かに呼んで見ると、秀子は薄く目を開き、聞えるか聞えぬか分らぬ程の細い声で、全くの独語の様に「茲は死んだ後の世界か知らん」と呟いた、余は此の様に身も魂も溺れる程の愛情が湧き起り、充分親切な言葉を以て慰めて遣り度く思ったけれど、悲しや権田時介との堅い約束が有って、露ほども情の有る親切な言葉を掛けては成らぬ、アノ約束の辛い事が今更のように浸々(しみじみ)と身に徹(こたえ)たけれども仕方がない、唯当り前の言葉を以て「イイエ死んだのでは有りません、私が助けに来て、ヤッと間に合ったのです、茲は未だ此の世です」聞えは聞える様だけれど猶半ばは独言で「未だ死なぬ、其れは――其れは大変です、何うしても死なねば成りません、皆なの為に」と呟いた。
 夢寐(むび)の間にも此の語を吐くは如何に思い決して居るかが分る、殊に「皆なの為」の一言は実に秀子の今の辛い境遇を説明して余り有るのだ、其の身に懸る二重の汚名が、到底雪ぐ可き由はなくして其の筋に捕わるれば自分のみか此の家の家名にも、続いては物の数ならぬ余の名前にまでも障る訳だ、四方八方へ気を兼ねて終に死ぬる一方と決心したのは全く余が見て取った通りである、余は熱心ならじとすれば熱心ならぬ訳には行かぬ「イイエ秀子さん、死ぬるには及びません、貴女の濡衣は全く晴れました、ハイ一切の疑いが無実であったと云う事を証拠立ることも出来ます、だから私は其の事を貴女へ告げに来たのです」
 秀子は初めて人心地に返った様で、怪しげに四辺を見廻したが、漸く我が地位を思い出したと見え「アア分りました、茲は猶だ塔の底でしたか、けれど何して貴方が茲へ来る事が出来ました」問う声は依然として細いけれど余ほど力は附いて来た、余「ハイ何うしてとて、貴女の行く先も目的も凡そ推量が附きましたから後を追っ掛けて来たのです、ハイ貴女が茲へ来たのと同じ事をして」秀子「私は茲へ来るのに八時間掛かりました、昼の十二時から夜の八時過まで、ハイ来る路に分らぬ所や錠の錆附いて、開かぬ戸などが幾何(いくつ)も有りまして、寧そ途中で死んだ方が好ったのに」余「最う死ぬなどと其の様な事を云うにも及びません、私は唯貴女の足跡を附けて来たのですから爾ほどの苦労も無かったのですが、夫でも昼の十二時過ぎから今まで掛かりました、時計の秘密を解くことが出来ぬ為に」秀子「でも貴方には到頭、時計の秘密が分りましたネ、何うか早く此の秘密をお解き成さる様にと一頃は祈りましたけれど、今は貴方に此の秘密を悟られぬが好いと思い、私は来る時に、一切の機械を元の通りに直し、十二時が来て自然に戸の開く時までは何うにも仕様のない様に仕て置きましたのに」斯かる問答は岐路(えだみち)と知りつつも「エエ、何うかして、十二時でなくも出這入りする工夫が有るのですか、其れを知らぬ者だから随分甚い目に逢いました」秀子は益々常の心地に復(か)えるに連れ、愈々其の身の位地に当惑する如く「貴方、貴方、丸部さん」と最と鋭く叫んだ、余「ハイ何ですか」秀子「貴方は、日頃の慈悲がお有り成されば是限り何うか私の後を追わぬ様に仕て下さい、此のまま私を立ち去らせて下さい」
 素より承知の出来る請ではない、と云って秀子は余の承知と不承知に拘らず茲を去る決心であることは言葉の調子にも現われて居る。思えば其の決心も決して無理ではない、一旦夫婦約束まで出来て居た余に汚らわしい女と思われ愛の言葉さえ掛けられぬ様に成ったと知って、何うして茲に居られよう、殊に心の澄み渡るほど綺麗な秀子の気質としては、唯此の一事のみの為にも深く心を決す可き筈である。
 之を思うと余は愚痴の様だけれど益々権田時介との約束が恨めしい、茲で情けある言葉を掛け我が愛にも尊敬にも、少しも変る所はないから矢張り未来の妻として茲に留まって居て呉れと、何うして言わずに居られよう、約束は何うなろうと、エエ儘よとの一念に余は心も顛倒し、蹙(しが)み附く様に再び秀子の手を取った、然り再び秀子の手を取ったけれども、又思い出して、茲で若し約束を破り其が為に権田時介を怨ませて、彼の恨が余と秀子との上に降り下る事に成れば何うで有ろう、秀子は養母殺しの罪人として、養父殺し未遂の罪人として、牢破りまで企てた稀代の毒婦として再び如何の責苦に遭うも知れぬのみか縦しや世界の果てまで逃れても生涯安心の時はないと、権田の言葉が其のまま胸に浮んで見ると、茲で情ある言葉を掛けるは決して秀子の為ではなく却って其の仇に成ると云う者、真に秀子を愛するならば、邪慳に余所々々しく突き放して了わねば成らぬ、と忽ち斯う思って余は秀子の手を投げ捨てる様に放して了った、何たる人を馬鹿にした仕打ちと見えるだろう、秀子若し心が落ち着いて居て、余が斯く毒蛇でも捨てる様に秀子の手を投げ捨てた仕打ちに気が附いたなら是切りで心底から余に愛想を盡すだろう、イヤ昨夜より既に愛想を盡して居るけれど、更に其の上に生涯の敵だとまで余を憎み賤むに至るであろう、余の地位の辛さも決して秀子に劣りはせぬ。

    第百十一回 密旨の一部分

 秀子は心の騒いで居る際ゆえ、余が毒蛇でも捨てる様に其の手を放した振舞には気の附かぬ様子である、之だけは有難い、けれど其の手の放されたを幸いに早や立ち去ろうと身構えて居る。
 余は厳重な言葉で「秀子さん命を捨てるの身を隠すのと少しも其の様な事をするに及びません」と云いつつ、秀子が置いて有った彼の毒薬の瓶を手早く取り上げ、自分の衣嚢へ隠して了った、秀子は其れと見たけれど強いて取り返そうともせず、唯何か合点の行かぬ様に考え「オヤ私は――貴方の来る前に何で其の薬を呑まなんだでしょう、貴方の来た時私は何様な事をして居ました」と問うた。
 成ほど是だけは余も合点が行かぬ、余の来る前に何故に毒薬を呑まなんだで有ろう、毒薬を呑まぬ者が何故死人同様の有様で茲へ倒れて居ただろう、秀子は漸く思い出したと見え「アア分りました、瓶を取り出したけれど、此の世を去る前に、神に祈り此の身の未来を捧げねば成らぬと思い、長い間祈って居ました、爾して愈々と其の瓶を取り上げた時に、恐ろしい電光が差し込み、此の室まで昼の様に明るく成ったと思いました」如何にも、余が塔の時計の中から、遙の真下に此の室の石段を窺き得たのと同じ時で有ったに違いない。
 秀子「其の時限り何うしたのか、私は何事もおぼえませんでした」
 扨は其の時電気に感じて忽ち気を失って居たのである、直接に電気に打たるれば即死し、打たれる迄に至らずして震撼せらるれば気を失うこと、外にも例の有る所である。
 其れにしても実に不思議と云わねば成らぬ、丁度毒薬を呑む間際に気を失い、余が助けに来た時まで、毒薬をも呑まず何事をも知らずに倒れて居たとは天の助けとも何とも譬え様がない、若しアノ時に強い電光が差し込まなんだなら何うであろう、余は茲へ来て秀子の死骸を見出す所であった、之を思うと真実神に謝する心が起った、余「秀子さん其れこそ神が貴女の祈りを聞し召して救いの御手を差し延したと云う者です、斯くまで厚く神の恵みを得る人は千人に一人と云い度いが、実は万人に一人もない程です、之に対しても貴女は死ぬの、身を隠すのと其の様な了見を起しては成りません」
 此の諭しには深く感じた様子で、立ち去ろうと構えて居た身を、再び腰掛の上に卸し、暫く目を閉じ胸を撫で、漸く心の落ち着くと共に更めて神に謝した、余も共々に祈って居た。
 頓て祈り終ると徐に余に向い「丸部さん、貴方が茲へ来て下さったので私の密旨の一部分は届きました」余は合点の行かぬまま「エエ」秀子「イエ私の密旨は三つ有りますが、三つとも届かずに此の世を去る事と思いましたのに一つだけ届く事に成ったのは、成ほど神の救いです」余「一つだけとは何の事です」秀子「ハイ此の塔の秘密として茲に隠されて居る宝を世に出し度いと云うのです、初めは自分で取り出すと云う積りでしたが、貴方にお目に掛かって後は、貴方に取り出させるのが当然だと思い、咒語の意味をお判じ為さいとか、図□を能く研究なさい抔と屡ばお勧め申しました」なるほど爾う勧めたのみでなく、実際咒語と図□とを余の目に触る様にしたのも此の秀子である、余「爾でしたか、私は爾とまで思いませず、図□も咒語も充分には研究せずに」秀子「其れだから私は歯痒い様に思って居ましたが、今は貴方が塔の底の此の室迄お出成さったからは、実際に咒語を解いたも同じ事です」と云い又も言葉を更ためて「丸部さん、私は自分の穢れた名の為に、貴方のお名をも父上のお名をも穢し、申し訳が有りませんが、唯此の塔の底の宝が貴方の手で取り出される事に成ったと思えば、聊か罪を償う事が出来た様におもい、幾等か心が軽くなります」
 言葉の意味は分って居るが、塔の底の宝とは何の事であるか合点が行かぬ、余「エ、塔の底の宝とは」と問い返すと、秀子は呆れる様に目を見開き「オヤ、貴方には未だ之が分りませんか」

    第百十二回 夜水竜哭

 真に此の塔の底に其の様な宝が有るだろうか、余は半信半疑である、秀子は此の様を見て悶(もど)かしげに「貴方は其を疑いますか、若し宝を隠す為でなければ何の為に此の様な、人の出入る事の出来ぬ塔を立てたとおおもいなさる」余「イヤ何等かの秘密を隠す為とは思いますけれど、其の秘密が果たして宝で有るとも見認(みと)め得ませんが」秀子「其れだから私が咒語を研究なさいとお勧め申したのです、咒語の意味を能く考えれば明白に分ります」余「何うも私には爾まで明白に解釈する事が出来ません」秀子「では私が此の家に存(のこ)って居る記録や古来人の口に存って居る所などを寄々に取り調べて自分で合点して居るだけの事を申しましょう、最う長く話して居る時間も有りませんから、掻い摘んで申しますが」と、斯う云って秀子は説き初めた。
 秀子「此の家の第一の先祖が昔の国王ランカスター家の血筋から出て居る事は勿論御存じで有りましょうが、其のランカスター家の最後の王であった顕理(へんりい)六世が死する時に、後の王位をヨーク家より争われ相に見えましたから、六世は昔から朝廷に伝わって居る金銀珠玉を取り纒めて悉く此の家の先祖へ与え斯うして置けば縦しや王位はヨーク家に伝わるとも王位よりも値打ちの有る宝物は依然として我が血筋に伝わる訳だと申しました、夫だから咒語に「明珠百斛、王嘉福を錫う」とあるのです、其ののち果たしてヨーク家から王位を争う内乱を起しまして此の家の先祖は朝廷を立ち退き身を隠す事と為りました、其の頃朝廷に出入りする僧侶のうち慾心の逞しい者が有りまして、内乱の軍が猶朝廷へ推し寄せぬ間に、其の宝を取り、之は自分が保管を頼まれたのだと称し、幾頭幾台の馬や車に附けて奪い去ったのです、咒語に有る妖□(ようこん)とは此の僧侶を指したのです、けれど此の僧侶も取り出した者の何しろ王位よりも貴(たっと)いと云われる程の宝ゆえ、隠して置く所もなく、殊には内乱の徒が軍資にする為其の宝へ目を附ける恐れが有りますから、止むを得ずして湖水の底へ沈めたと申します、誠に此の先祖と云うは不幸な人で、逃げたまま再び世に出る事が出来ず、配所同様の侘しい所で、空しく宝の安否を気遣いながら死んだとの事ですが、然し其の配所の様な所で実子を一人儲けました、其の実子は父から宝の事を聞いては居ますけれど、何所に何う成って在るかは知らず、是も我子に宝の行方を詮索せよと遺言して死に、其ののち代々子も孫も唯宝の行方を尋ねるのみを生涯の目的とし子々孫々同じ様で暮しましたが、遂に此の塔を立てた人の世と為り、漸く僧侶の仕業で水の底へ沈んで居る事を調べ上げました「妖□奪い去りて、夜水竜哭す」とは即ち僧侶が水底に沈めた事を指したのでしょう「言(ここ)に湖底を探って、家珍□に還る」と有るので、遂に其の人が湖水の中から其の宝を取り出した事が分るでは有りませんか」
 成るほど爾う聞いて見れば咒語の意味は実に明白である、今まで無意味の文字と云われ、或いは狂人が囈言(たわごと)を記したに過ぎぬなどと笑われた彼の咒語は、其の実苦心惨憺の余に成った者で、之を作った当人は一字一字に心血を注いだに違いない、余は之まで聞いて、思わず目の覚めた様な気がして、腹の中に彼の咒語を誦しつつシテ「逆焔仍熾なり、深く諸を屋に蔵す」とは何の意味ですと問い掛けた。
 秀子は事もなげに「其れが此の塔を立てた事を指すのでしょう、記録も色々に成っていて、諸説区々(まちまち)と云う有様で確かに斯うと断言は出来ませんが、私の最も確実と云うのは此の塔を建てた時代が丁度閣竜英(くろんうぇる)の革命の時で有っただろうと思います、此の革命と前に宝を盗まれた時の内乱とは二百六七十年ほど時代も違い事柄も違って居ますけれど「逆焔仍熾なり」とは逆徒の勢が仲々盛んだとは閣竜英の徒を指したのでしょう、閣竜英の改革は御存じの通り千六百四十年代の事ですから今より凡そ二百五十年以前です爾すれば此の塔の年齢も今は三百五十歳ほどに当るのです、世間では数千年を経た塔だと云いますけれど爾うは経て居ぬのです、若し其の時に宝が水の底から出たなどと分れば閣竜英に没取せられる事は無論ですから、何うか之を無事に隠して置きたいと云うので此の様な塔を立て、爾して暗に自分の子孫へ知らせる様に、咒語を作ったのです「深く諸を屋に蔵す」との語の中に、深く塔の底へ蔵めて置くと云う意味が見えて居るでは有りませんか」

    第百十三回 人生の沙漠

 是だけの説明を聞いて見れば最早咒語の意味は疑う隙間がない、読者は覚えて居るだろうけれど茲に其の全文を再録せん。
明珠百斛、王錫嘉福、妖□偸奪、夜水竜哭、言探湖底、家珍還□、逆焔仍熾、
深蔵諸屋、鐘鳴緑揺、微光閃□、載升載降、階廊迂曲、神秘攸在、黙披図□、
 全く此の家の先祖が国王より賜わった莫大の宝物を此の塔へ隠して置いて、爾して其の旨を子孫へ暁らせる為に作ったのである、先祖代々此の家の当主が相続の時に必ず咒語を暗誦せねば成らぬ事に成って居た仔細も分る、此の塔の底なる、今余と秀子との立って居る此の室に其の宝が隠れて居るのだ。
 秀子は説き終って「此の咒語を解き明して宝を取り出す道を開いたのが、私の密旨の一部です、一部だけでも仕遂げたのは未だしもの幸いゆえ、之を父上と貴方とへの万一の御恩返しと致します」斯う云って未練もなく立ち上った、之で全く此の所を、イヤ此の家を立ち去る積りと見える、余は再び叫んだ「貴女は先刻私が、貴女の身に掛かる濡衣が総て晴れる事と成ったと云ったのを何とお聞きでした、昔の汚名も新しい疑いも悉く無実であると云う事が明白に分る事と為って居ますのに」誠ならば嬉しやとの心、顔には現われねど、何所にか動き立つ様に見えた、秀子「誰れが其の無実と云う事を証明して呉れますか」余「夫は権田時介が」秀子は唯怪訝に、「ヘエ」と云った儘だ。
 余は自惚かも知れぬけれど「私が証明します」と答えたなら秀子が定めし喜んだで有ろうけれど、権田時介が証明するとでは余り嬉しくないと見え、確かに失望の様が見えた、爾して「でも権田さんは其れを証明する代りに何うせよとか斯うせよとか報酬の様に何か条件を附けるのでしょう」其れは勿論である、救うて遣る代りに己の妻と為れと云うのが彼の唯一の目的である、けれど決して妻に成らねば救わぬと云うではない、又救うた報酬に無理に妻にしようと云うでもない、唯救うて遣って其の上に猶及ぶ丈の親切を盡したなら其のうちには秀子が自然と恩に感じ、自分を愛する事に成るだろうと、極めて気永く、極めて優しく、決心して居るに外ならぬ。実に秀子に対しては此の上の恩愛はないので全くの無条件で有る、然り秀子に対しては全くの無条件で、条件は唯余に対してのみ有るのだ、決して秀子の愛を横合いから偸むな、何うでも秀子に愛想を盡される様にせよと唯是だけが余への条件、余が之を守りさえせば秀子は何の約束をもするに及ばぬ、何の条件にも縛られる事はない、余は斯様に思い廻し「イイエ権田は貴女に対しては何の条件もないのです」と貴女に対してはの一語へ、聊か力を込めて云うた。
 無条件と聞いて秀子は初めて安心した様子である「エエ無条件ですか、其れは聊か不審ですが――イヤ私から何の約束をするには及ばぬと、全く爾う云うのですか」念を推すも尤もである、余「無論です」秀子は暫し考えて、何とやら言いにくげに、何とやら物静かに「ですが貴方は」と余に問うた、「……ですが貴方は」アア此の短い一語実は千万無量の意味が有る、秀子は権田が何の条件を望まぬと知って、確かに之は余から充分の報酬を約束した者と見て取った、余が其の通り報酬を約束するからには、条件は余から持ち出す者だろうと思った、其れだから「ですが貴方は」と問うのである、此の言葉を通例の言葉に引き延せば「権田さんが、私を妻にするなどの条件は出さぬとすれば、貴方は其の条件を出しませぬか」と云うに帰するのだ、此の身を妻にする気はないかと問うのも同じ事である。勿論昨日までも夫婦約束が出来て居た間であるもの斯う問うは尤もである、余は心底から嬉しさの波が全身を揺ぶる様に覚えたけれど、悲しや何の返事する事も出来ぬ、茲で嬉しい顔色を見せてすら権田への約束を破るのである、秀子の生涯を誤らせるのである、罪に汚れた見下げ果てた女を何うして妻などにせられる者かと全く愛想を盡した様な容子を見せよ、と云うのが権田からの註文である、真逆其の様な容子を見せる事は出来ぬけれども、何と返辞して宜い事やら、返辞の言葉がグッと余の咽に支えた、余は応とも否とも何とも云わず、顔を傍向(そむ)けて徒らに目を白黒した。
 斯様な時に女ほど早く人の心の向背(こうはい)を見て取り、女ほど深く不興を感ずる者はない、秀子は忽ち余の心変りを見て取った、勿論態々(わざわざ)余の昨日からの不実らしい所業を許して呉れようとて、余に許しの言葉を掛けたのを余が雀躍して飛び附きはせずに却って顔を反したのだから怒るのも無理はない、之を怒らねば秀子でない、秀子以下の女である、けれど又其の怒りを陽(あらわ)に現わすのも秀子でない、秀子以下だ、秀子は再び何にも云わぬ、唯静かに手燭を取り上げた、余は今更熱心の色を示されもせず唯当り前に「ドレ私が送りましょう」と云った、秀子は実に冷淡である、唯「イイエ、独りで歩まれます」此の一語が余に対して生涯の勘当状である、余も単に「爾うですか」と味のない返事をしたが、此の時初めて、秀子の愛を失うが何ほど辛いかと云う事を思い知った、今までとても権田の条件に服して以来秀子を失わねば成らぬ者と幾度か嘆きは嘆いたけれど実際に秀子の愛を失うたのは今が初めてである、全く余が心は宇宙の太陽系統から太陽を引き去った様に、最暗黒と為って了った、滋味もない露気もない、此の後の生涯は、生涯の搾滓(しめかす)である、人間一人が生きながらの搾滓と為って了ったのだ、清風も有り清水も有り、萠え出る草の緑も咲き盛る花の紅も有る絶景の沃野を通り盡して索々(さくさく)の沙漠に入ったのだ、本統に死んで了い度く成った、何にも言わずに秀子より先に立って此の室を去ろうとした、秀子は全くの他人に向かう調子で「ですが丸部さん、貴方は此の塔の底に宝の有る事を知りながら其の宝が塔の底の何所に、何の様に成ってあるか其の実質は何であるか、其れを見届けずにお立ち去りなさるのですか」と問うた、余「ハイ見届ける必要は有りません、幾百年此の底に隠れて居た者ですから、其の儘に隠れさせて置きましょう、縁が有れば誰か又外の人が取り出すでしょう」後は野となれ山と為れ、人間世界を捨てた様な此の身に宝などが要る者か、腹の中は全く自狂(やけ)の有様である。

    第百十四回 第一号家珍

 縦しや王位よりも貴い宝にせよ、既に人間の搾滓と為った余に取っては何の必要もない、余は全く塔の底の宝を、手にも附けずに捨て置いて立ち去る積りである。
 秀子は斯くと見て「イイエ開かずに置いては了いません、兎に角も私が見出したゆえ、私から貴方へ請うのです、サア何うか開いて、其の宝が何であるかを見届けて下さい、其の上で去るならばお去りなさい」殆ど命令かとも思うほど言葉に強い所が有る、余は其れでもと言い張る勇気はない、余「では検めましょう、其の宝は何処に在ります」秀子「コレ茲に、並んで居る棺の様な箱が皆、宝の入れ物です、此の蓋を開けば分ります」云いつつ秀子は手燭を少しく高く上げ、室の中を見廻す様にした。
 此の室の中央に棺の様な柩が、布に蔽われて並んで居る事は、前に一寸記して置いた、けれども熟くは視もせなんだが、之を真に宝の箱とせば全く莫大な宝である、恐らくは何所の国へ行ったとて一人の目で一時に是ほどの宝を見ると云う事は出来ぬだろう、是ほどの宝が又と有る筈でない。
 秀子は手燭を上げたまま箱の数を算えて居る、余も同じく算えたが都合で十七個ある、其の十七個に多少の大小は有るけれど、一番小さいのが大形の棺ほどに見えて居る、余「何うして之を開きましょう、定めし錠が卸りて居ましょうが」秀子「錠は此の家の先祖が今も猶握って居る鍵で開く事が出来ましょう、借りてお出で成さい」と云って、彼の先祖の倒れて居る石段の方を見向いた、死骸の握って居る鍵を取るとは何とやら気が進まぬけれど、秀子の言葉が毎もより断乎として宛も兵卒に対する将軍の号令の様である、余の神経が揺(うご)いて居る為此の様に聞えるのか、将た秀子の決心が非常に強い為自から此の様な声を発するのかも知らぬけれど、背く事の出来ぬ命令である、余は先に自分で其の顔に手巾を被せて置いた彼の亡骸(なきがら)の傍へ生き、震える手先で鍵を取った。爾して箱の所へ返ると、秀子は余を励(はげま)す気か「此の箱を開くのに少しも気の咎める所は有りません、開かずに置いてこそ済まぬと云う者です、サア先ず此の箱からお開き成さい」
 指さしたのは一方の隅に当る一番大きな箱である、余は秀子の挙げて居る手燭の光りの下で、布の蔽を取り除けた、鍵穴をも見出した、之を開くに多少の困難は有ったけれど記すには足らぬ、頓て箱の蓋を開き得た、箱は何の飾もない白木である。
 蓋を開くと共に、得も云えぬ香気が馥郁(ふくいく)と立ち上った、是は宝と共に何か高貴な香料を詰めて有るのであろう、後世此の箱を開く我が子孫に厭な想いをさせまいと云う先祖の行き届いた注意らしく思われる、第一に目に附くは此の室の腰掛けを張って有ると同じ様な緋羅紗である、腰掛は全く色が褪めて居るけれど、箱の中のは猶だ燈立(もえた)つ様に赤く見ゆる、此の緋羅紗を取り除くと下に一枚の板がある、之が中蓋であろう、此の中蓋の上に洋革紙を貼り附けて総目録と書いてある、先ず是を読んで見ると、箱の番号を一から十七まで記し、各番号の下に「金銀」だの「珠玉」だの「領地の献品」だのと云う文字がある、中には何年何月某国に対する戦勝の捕獲品と書いたのも一個あり、又美術品と記したのも有る、けれど一番多いのは金銀である、十七個のうち半分までは此の文字が見える。
 余の開いたのは十七箱の総目録の入って居る所を見ると無論第一号である。余は目録を読み、口の中で「第一号のは家珍」と呟いた、家珍と云えば多分は金銭にも替え難く丸部家の子々孫々に伝う可き品で有ろう、斯う思うて「宝などは」と見限って居た身も自から動悸で高く成って来る、愈々中蓋を開くと、其の下には又其れぞれに小さい箱詰になって居る、其の一番上の箱から昔の王冠が出た、無論金製である。
 之は割れたのを纒めて入れて有ったと見え、取り出すと共に四個に割れて了った、併し如何にも家珍の一である、是で此の家の先祖が王族から出た事が分る、爾して此の王冠のグルリに幾個となく珠玉が輝いて居て、其の真中の一個は、火の燃えるかと疑われる紅宝石(るびい)である、径一寸ほども有ろう、其の質の優れた事は単に是のみでも巨万の富である、是より取り出し又取り出すと袋も有る、箱も有る、袋の一個には香料が入って居たのだ、今の馥郁と立ち上った香気の元も分った、王冠の外に女王の冠も有る、之も価の積り切れぬ多くの珠玉の飾りである、次から次へ、頸輪(くびわ)も出た、腕飾も出た、指環や金釦などを初め衣服の粧飾品や、文房具の様な物や、孰れも金製又は銀製にて、今の世には求めて得られぬ高貴の珠玉を鏤入(ちりばめ)て有るので、是だけでもランカスター朝廷の一切の宝を集め盡くしたのではないかと疑われる。

    第百十五回 猶だ無用心

 箱の中の宝の数々は茲に記し盡くす事は出来ぬ、金目に積る事さえ六かしかろう。
 此の箱一個にさえ是ほどなれば総て十七個の箱を悉く開いたら何れほどの宝が出よう、幸いにして余は、イヤ不幸にして余は宝も何も惜からぬ今の位地に立って居る故、唯宝の多いのに驚くだけで済むけれど、若しも今日以前の如く浮世の慾の猶絶えぬ人間で有ったならば必ず気絶する所だろう、我が物ならば嬉しさに、人の物ならば羨ましさに、或いは発狂までもするか分らぬ。
 斯うなっては、箱を開くさえ無益だと思った先刻の様に引き替え、何だか外の箱をも窺いて見たい、決して宝の欲しい訳ではないが、云わば我が眼に贅沢をさせ度いのである、是ほどの宝を眸瞼(ひとみ)へ写すと云う事は王侯貴人でも先ず出来まい、秀子は余の気を察したか「念の為之と之を開けて御覧なさい」と云い次に並ぶ二個の箱を指さして、即ち「第二号金銀」と目録に在る箱と「第三号、珠玉」とある箱で有る。
 金銀、珠玉、ハテな何の様な金銀だろう、何の様な珠玉だろう、慾のない身も胴震いのする様な気持と為った、先ず第二号を開いたが、蓋も中蓋も前の通りで、唯中の実物だけ違って居る中には竪に九個の区画をして有って、其の一画毎に何々時代の金貨などと貼り紙が附き、昔の通貨が全く満々て居る、其の区画の六個は金貨で、残る三個が銀貨である、余は余りの事で手を触れると神聖を汚す様に思い、唯小声で「アアわかりました」と云った切り蓋を閉じた、猶心は鎮まらぬけれど、何となく長居するのが恐ろしく成って直ぐに次の「第三号」を開いた、之には区画もない唯幾個となく袋が入って居る。
 袋の中が定めし珠玉だろうと思い、試みに一番上の手頃なのを引き上げようとすると、知らなんだ、袋は既に朽ち果てて、中の物の重みの為、脆く破れた、破れたと共に余は「キャッ」と叫び目を塞いで退いた、是が退かずに居られようか、袋の中から戛然(かつぜん)の音と共に散乱して溢れ出たのは目を衝く様な無数の光る物である、薄暗い室の中に、秀子の持って居る手燭の光を反映し、殆ど天上の星を悉く茲へ落したかと怪しまるる許りである、唯燦々(きらきら)と暈(まぶ)しく輝くのみである、此の正体は問う迄もなく夜光珠(だいやもんど)で、中には十二乗を照すとも評す可き巨(でか)いのもある。
 秀子も余ほど驚いた様子で無言のまま立って居る、余は溢れた珠玉を元の袋に納めるも無益と知って其のまま蓋を閉じ「サア秀子さん、兎も角も茲を立ち去りましょう」と云った、秀子は仲々落ち着いて居る「イエ未だ」と云い暫くして「初めに開いた第一号の中に何か書き附けが有った様です、アレを読んで御覧なさい、其の上で立ち去りましょう」言葉に従い余は再び第一号の箱に向かい前に見た目録を取って調べると「珠玉」と記した箱は都合三個「金銀」と記したのが七個、残る七個は様々である、一箱のうちに纔(わずか)に一袋さえアノ通りなら一切で何れ程で有ろう、王侯よりも貴いと云うのは無理もない、全く全英国の国家ほどの値打ちが有る、是ほどの宝ならば、成ほど塔を立て此の様にして保蔵する外は有るまい、今まで此の塔の伝説を聞く者が、此の家の先祖を狂人の如くに云い其の用心の深過ぎるを笑ったとか云う事だが此れだけの宝を得て狂人に止まったのは猶心の確かな人と云わねば成らぬ、殊に其の用心とても此の宝に対しても猶無用心と云っても宜い、増して其の時代が閣竜英の乱の時で国王は弑せられ貴族は憎まれ、贅沢品は容赦なく取り上げられる物騒の極で有った事を思えば、縦んば余自身が其の人で有ろうとしても充分是くらいの、否是より以上の用心をする所である、と云って実は是より以上の用心とは聊か其の工夫にも困る訳だテ。
 余は目録を持ったまま此の様な事を思って暫し茫乎(ぼんやり)として居たが、秀子は背後から「其の目録では有りません、ソレ香料の袋の下に別に羊革紙が見えるでは有りませんか、其れに何を書いてあるかお読みなさいと云うのです」余は初めて我に復り、香料の袋の下を見ると成ほど羊革紙が見えて居る、宛も遺言状の様に丁寧に巻いてある、引き延して之を読むと、
「丸部家第十四世の孫朝秀(あさひで)、茲に誠意を以て証明す、此の塔に蓄うる金銀珠玉一切の宝物は正統の権利に依り、何人も争う可からざる丸部家の所有なり。事の仔細は別に当家の記録に明かなり、余は先祖代々の志を嗣ぎ、幾年の辛苦を以って、夜陰に之を水底より取り集め得たり
「此の宝、水底に在りし事、凡そ二百五十年なり、貴重なる絵画、絹布等祖先の目録に存する者は、惜む可し悉く水の為に敗し去りて痕跡なし、唯金銀珠玉の如き、年を経て朽ざる者のみ満足に存したれば、余は十有七個の箱に入れ、之を此の塔の底に蔵(かく)す
「余の子孫之を取り出す事を得ば、余の祝福は宝と共に其の身に加わらん
「余の子孫ならざる者、若し之を取り去らんか、余丸部朝秀の亡霊は其の人に禍せざれば止まざらんとす
 願くは子々孫々之に依りて永遠限りなき幸福を享けよ」
 之だけの文句であるが、此の宝が丸部家の物である事を知るには充分である。

    第百十六回 声も言葉も――出ぬ

 読んで了った此の書き附けは、先祖の遺骸の握って居た鍵と共に持って行って叔父に渡すが至当だろうと、軈(やが)て余と秀子との間に相談が極(きま)った、叔父に渡せば、宝を取り出すなら取り出す、遺骸を改葬するなら改葬すると、夫々処分も定まるだろう。
 何しろ余り莫大の宝だから此の上茲に長居するは空恐ろしい、余は第一号の箱をも成可く元の通りに蓋をして、手燭を以て先に進む秀子の後に随って茲を去った、頓て塔の出口間近くまで進むと秀子は余を顧み「是だけの宝が今まで人手に渡らなんだのは全く先祖の霊が保護して居たのでしょう、昔からの伝説を聞き込んで此の宝を取り出そうと計企(たく)らんだ人は何人あるかも知れません、既にお紺婆なども其の一人で実は宝を目当に此の塔を買ったのですが、生憎無学で咒語を読む事さえ出来ず、息子の高輪田長三へ相談しましたけれど長三は一口に伝説を蹶做(けな)して了いました、其だから彼は此の塔を売る気にも成ったのでしょう、若し彼がお紺婆と同じ心に成ったなら此の塔は再び丸部家の血筋の者へは復らぬ所でした」余「成ほど先祖の冥護にも依るでしょうが、全く貴女の熱心の為ですよ、貴女の智慧に依らぬ限りは、此の宝は永久地の底へ埋って了う所でした」
 語る間に、道も迷わず漸く時計の機械室の外に在る石の壁の所へ着いた、思えば此の塔を建てた当人さえ出る事が出来ずして悶き死んだ程の所を無事に茲まで出て来たのは之も冥護に因るだろうか併し何方かと云えば余は冥護のない方が望ましかった、出る事が出来ぬとならば、秀子と一所に死ぬる事も出来、又死に際には権田時介との約束に縛られて其れが為に秀子に賤(いやし)まれる様に仕向けた次第を打ち明け、充分に詫びて秀子の心を解く事も出来得るで有った者を、儘ならぬ浮世とは此の事だろう、併し未だ石の戸の関所が有る、此の関所は真逆に冥護では動くまいと思って居ると、秀子は説明(ときあか)す様に「アノ緑盤は重い此の戸に引かれて居ますから動かす事は出来ませんが此の戸を動かしさえすれば緑盤は自然に開きます」と云い、更に壁を検めて「確か図□に由ると此の辺に、戸の凸点を遮って居る壁の障子を外す穴が有る筈です、内部からは何うにも仕様がなく、唯十一時を待つ一方ですが、茲からならば何時でも開かれましょう、此の一事を見ても先祖朝秀卿の行き届いた苦心が分ります」とて、暫し壁を探って居て「アア有りました、サア」と云い石の戸を開けて了った。
 余り苦もなく開いたのに聊か呆気に取られる心地はしたが、最早機械室の中へ這入らぬ訳に行かぬ、這入って見ると成ほど緑盤も開いて居る、秀子は先ず余に緑盤の所を潜らせ、後で時計の機械を何うかして居る様で有ったが間もなく其の身も潜って出た、出ると直ちに石の戸も、之に引かれて居る緑盤も塞がった、余と秀子は余の居室の真上に当る所謂時計室の広い所へ立ったが、思わずも顔と顔とを見合わした、余の己惚かは知らぬけれど秀子の眼にも寧ろ無事に出られたのを悔む色が見えて居る。
 是より余の居室の外に在る縁側へ下ると、怪しや、中から此の室の戸を引っ掻く様な音が聞こえる、余は初めて此の室に寝た時、画板(えいた)の間から怪しい手(後に分った虎井夫人の手)の出た事など思い出し、又近く昨夜に、確か此の室から神経を掻き紊す様な恐ろしい叫び声の聞こえた事を思い出し、何か室の中に尋常(ただ)ならぬ事が有りはせぬかと気遣った、併し之は秀子に見せ可き次第でないから、後で独りで検めて見ようと思い「オオ最う大方夜が開け放れました、サア秀子さん、貴女は定めしお疲れでしょう、兎に角一休み成さらねば、エ、お居室(いま)まで私が送りましょうか」秀子は淋しげに笑み「左様です、思って見ると昨日の朝から未だ食事も致しません」全く疲れが顔の面に蒼白く現われて居る、余「サア送って上げましょう」
 全くの他人同様と為って了って、余に送られるのを果たして承諾するや否やと、余は聊か気遣ったが、秀子は承知とも不承知とも言わぬ、唯余の居室の方へ耳を傾け「オヤ、此の室の中には」と云った切りである。余「ナニ何事も有りませんよ」秀子は断乎として「此の戸をお開きなさい、お開きなさい」当惑に思うけれど拒む訳に行かぬ、其のうちに益々物音が高くなるから、止むを得ず戸を開いたが、秀子は余よりも先に、猶手燭を持った儘で進み入った、入ると同時に痛く打ち驚いた様子で、忽ち足を留めて突っ立った、余も続いて這入ったが、目に留る有様の余り非常である為に同じく足が留って了った。暫しは声も言葉も出ぬ。

    第百十七回 天の裁判

 若し秀子よりも先に余が此の室に入ったのならば、余は決して此の室に秀子を入れはせぬ、此の有様を見せはせぬ、何とか口実を設けて閾(しきい)の外から立ち去らせる所で有ったけれど、悲しや余よりも秀子が先に入って、此の様を見たのだから今更如何ともする事が出来ぬ。
 それでも余は猶何とかして秀子を立ち去らせ度い者と、其の肩に手を掛けて「サア秀子さん彼方へ行きましょう」と引き退ける様にした、此の時忽ち余の足許をば、矢を射る様に通り過して縁側に飛び出した一物が有る、それは虎井夫人の彼の狐猿で有る、今此の室の戸を内から引っ掻いて居たのも即ち此の狐猿であろう。
 秀子は石の柱の様に突っ立って少しも動かぬ、肩を推しても無益である、爾して恐ろしさに見開いた其の眼を宙に注ぎ、遠く眼前の以外に在る何事をか見詰めて居る様である、アア秀子は室の中の様に驚き、今は何事をか連想して、心を遠い遠い事柄に注いで居ると見える、宛(まる)で醒めながら夢でも見る有様で何事も移らぬのである。
 秀子を斯くまで驚かせた室の中の光景は如何である、余の常に倚(よ)る安楽椅子に、背様(うしろざま)に靠(もた)れ、一人の男が顔に得も云えぬ苦痛の色を浮かべ、目を見張った儘に死んで居る、爾して所々に血が附いて居て、殊に其の頬の辺に噛まれたか掻かれたか痛々しい傷が有る、之も確かに狐猿の仕業で有ろう、猶好く見れば其の手先も痛く噛まれて居る、抑も此の男は誰、余は容易に判じ得なんだが、見て居る中に高輪田長三と分って来た、生き顔と死顔とは相恰が変るとは云え斯くまで甚く変るとは思わなんだ、傷の為苦痛の為最っと醜く筋々が伸縮して居る外に猶、不断とは全く違って見える所が有る、本来彼の顔は美しくて滑らかで底に薄気味の悪い所が有りはするけれど、悪人程には見えなんだが死顔は全く大悪の相である、生前は余ほど容子を作り、自ら善人に善人にと見せ掛けて居た為に此の大悪の相恰(そうごう)が現われなんだのか知らん、兎に角も恐ろしい顔である。余が未だ充分には明け切らぬ薄暗い室の中で蝋燭の光で見ては猶更恐ろしく感ぜられる。
 アア彼何が為此の余の居間へ入ったのか何が為に死んだのか、真逆の狐猿の仕業で人一人を噛み殺す事は出来ぬ、合点の行かぬ事では有るが、昨夜の叫び声の出所だけは之で分った、彼の死に際の声で有った、爾すれば彼は夜の十二時が打って間もなく死んだものだ。
 余が斯の様に思いつつ猶死因を考えて居る間に秀子は忽ち身を躍らせて「分りました、分りました」と打ち叫んだ、何が分ったか知らぬけれど余ほど心の騒ぐと見え、日頃の落ち着いた様とは打って変り、発狂でもしたではないかと気遣わるる程である、余「何が分りました、秀子さん」
 秀子の耳に余の問いが聞こえたのか聞こえぬのか秀子は、猶も夢中の人の語る有様で「分りました、八年前に此の室で、養母お紺を殺したのは此の高輪田です、此の長三です、私一人其の声を聞き附けて此の室へ走って来ましたが、真暗の中で何者にか突き当たりました、これが確かに曲者とは思いましたけれど私を突き退けて逃げ去りました、女ながらもそれを追う為私が馳け出そうとする所を、暗の中から死に際の声で、曲者と云って私の手を捕え左の小腕へ噛み附いたのがお紺でして、死に際の苦痛と云い殊には暗の中と云い人の差別も分らなんだのでしょうが、私は唯痛さと恐ろしさに気を失い、自ら逃げるのか曲者を追い掛けるのか、夢中の様で駆け降りて堀の端まで行き、倒れました、翌朝我に復(かえ)って見ると早や養母殺しの罪人として警官の手に捕われて居たのです、外に罪人の有る事は知りながらも誰と指して云う事は出来ず、争いは争いましたが、手に残る歯形と云い、肉が老婆の口に残って居た事と云い、似寄った事情と間違った推量とが証拠と為って、自分の言い立ては少しも通らず、云えば云うだけ偽りを作るに巧みな天生の毒婦だと罵しられ、遂に人殺しの罪人として宣告を受けました、未丁(みてい)年の為死刑を一等だけ減じ終身刑に処するから有難く思えと言い渡されました。女王陛下にまで哀願しても許されず、終いに罪なき清浄の一少女が稀代の毒婦輪田お夏とて全国に唱われました」
 千古の恨みを吐き出して其の声は人間の界(さかい)を貫き深く深く冥界と相通ずるかと疑われる様な音である、余は感動せずに聞く事は出来ぬ、知らず知らず一身が秀子の声と相融和して自ら恨みの中の人と為り、共に悔しい想いがする、秀子は猶も同じ調子で「牢を抜け出て後、私の密旨の一つは誠の罪人を探し出し天の如き裁判を彼に加えて一身の無実を雪(そそ)ぐに在りましたが、今は其の罪人が有りました、彼に相当した通りに天の裁判が降りました、彼は此の高輪田長三です、多少彼では有るまいかと疑ぐった事は有りますけれど今此の天の裁判を見て初めて彼と確かに知る事が出来たのです、天の裁判が如何に彼に降ったか此の様を見れば分ります」真に秀子は其の熱心を以て、人の目に見えぬ所をまで見て取り得たのか、斯く叫ぶ間も、猶其の眼を、人間以外に注ぐ様に宇宙に浮かべて居る。

    第百十八回 シテ密旨の第三は

 成るほど秀子の「密旨」の一つが、お紺殺しの真の罪人を探し出し、自分の汚名を雪ぐに在ったのは尤も千万な次第である、塔の宝を見極めるが密旨の第一、罪人を突き留めるが同じく第二、シテ其の第三は何であろう、確か密旨が三個ある様な口振りで有った、第一第二は既に届いたも同じ事、第三の何とも未だ知れぬ密旨も果たして届く事で有ろうかと、余は世話しい中にも此の様な思案の浮かぶのを禁じ得なんだ。
 秀子は猶も夢中の様で言葉を継いだ。「此の天罰が何の様に彼の身に降り下ったとお思いなさる、私の目には面前(まのあた)り見る様に分ります、先年彼が養母お紺を殺したのは丁度此の塔の時計が夜の十二時を打った時でした、私が時計の音に目を覚まし、寝返りをして居ると此の室から養母の叫び声が聞こえたのです、それで私が馳せ上って来たのです、彼は其の後も此の時計の十二時を聞く度に其の夜の事を思い出すと見え、顔に恐れの色を浮かべます、彼が根西夫人に連れられ初めて此の家の宴会に来ましたとき、彼が挨拶の中途で言葉を留め、我知らず指を折って時計の音を数えた事は定めし貴方も御存じでしょう、彼は何故に時計の音が十一で止んだのを見て安心の色を浮かべました、十二時かと思ったのが未だ十二時より一時間前だと分った為漸く其の神経が鎮まったのです、彼若し養母を殺した本人ならずば十二時の音を斯うも恐るる筈は有りません、其の後彼は此の家へ出入し悪人同志は懇意と為るも早いと見え、虎井夫人と懇意に成りました、アノ夫人は兼ねて私が此の塔の秘密を解くに心を注いで居る事を知り、塔の宝を取り出したなら其の割前に与(あずか)る積りで兄の穴川甚蔵等と様々に私を威して居たのですが、其の威しの利かぬ為果ては自分で取り出すと云う非望を起し、遂に図□を盗み取り兄の許へ送った事は貴方が御存じの通りです、けれど一昨夜貴方が権田時介へお話の通り、兄も貴方に攻められて思う仕事が出来ぬ事と為りましたから、妹虎井夫人は兄の代りに高輪田長三を抱き込む気に成り、長三へ秘密を打ち明けたのです、長三は塔の底に宝が有るなどと昔は信じませんでしたが、夫人の言葉で信ずる事に成りました、それは此の頃彼と、虎井夫人とが折々密々(ひそひそ)話などして居た様子で私が見て取りました、彼全く虎井夫人と同じ気に成り、夜更けて人の寝鎮まるを待ち、自分の力で塔の秘密が解ける様に思い、貴方が此の家へ帰った事を知らず留守の間に仕事をする積りで昨夜此の室へ忍び込んだのが此の通り天罰を受ける元に成ったのです」
 理を推し情を尋ねて云う言葉、一々に順序あり脈絡あり、そうでなしと争う可き余地もない程に述べ来るは全く熱心の迸(ほとば)しりて知らず知らず茲に至る者と見える、余は唯聞き惚れて一言をも挿(さしは)さまぬ、秀子「此の室へ来て貴方の書類を探したり咒語の意味を考えたりする為に、自分で戸を〆切ったのですが、何うか云う事で虎井夫人の彼の狐猿が紛れ込み一緒に閉じ込められたのです、爾とも知らず彼様々に思案して居るうち直ぐに自分の頭の上で、時計が十二時を打ち、昔お紺婆を殺した時と同じ様に聞こえましたから、彼は必ず神経を騒がせました、其の時宛も室の隅か何所かで狐猿が異様な物音をさせたのでしょう、彼が何れほど驚いたかは茲に燃えさしの蝋燭が消えて居るのでも分ります、彼手燭を持って立ち上がらんとし其のまま取り落したのです、或いは其のとき彼の紊(みだ)れて居る神経へお紺婆の死に際の顔でも浮かんだかも知れません、彼は狼狽の余り怪物と思って狐猿を攫(つか)むか何うかしたのでしょう、狐猿も死に物狂いに彼の頬を掻き彼の手に噛み附いたのは此の有様で分って居ます」
 爾すれば昨夜十二時の打った後で、余が二度までも異様な悲鳴の声を聞いたは、確かに狐猿の声と彼の叫びとの混じたので有っただろう、秀子の考えに寸分の相違はない、秀子「真暗の処に入れば唯の人さえ恐れを生じますのに況(ま)して彼は自分が養母を殺した此の室に入り、手燭は消え時計の響きは残り、何んとも知れぬ狐猿は騒ぎ廻りますから、必ず逃げ出そうとして戸などを探りましても彼の知って居た頃とは此の室の案内も違い、暗闇で仲々戸を開けられる者では有りません、それに狐猿は或る国では雷獣とも名づけられて居るほどで、雷の鳴る時は甚(いた)く電気を感じ全く発狂の体と為るとも申しますゆえ、定めし散々に荒れ廻り彼の前、彼の背後などから飛び附いたり躍り掛かったりしたのでしょう、彼は子供の折から心臓に異状が有り、殊に此の頃は其の発病の為、若し甚く身体や心を動かしては心臓破裂に為るとて医師に誡められて居るほどゆえ、其の騒ぎに遂に此の通り死んだのでしょう、彼の仕業の為私が手の肉を噛み取られた此の室で、夜の同じ刻限に彼自ら狐猿に悩まされ所々を噛み切られて爾して最期を遂げるとは是が天の裁判では有りませんか、丸部さん私は誠の罪人を探し出して明らかに白状させて爾して自分の汚名を清め度いと思いましたが、彼の死んだ後で是だけの事を知り得たのは残念ですけれど、到底私の手では是だけの罰を彼に帰せる事は出来ず天が代って罰して呉れたかと思えば全く密旨の此の一部分も届いた者として深く感謝する外は有りません」と再び天に手を挙げて礼拝する様にした、余は只管感に打たれるばかりである。

    第百十九回 此の世へ暇を

 全く秀子の云う通りで有る、彼高輪田長三は天罰を受けて居たのだ。
 余は秀子に向かい「貴女の熱心が天に届いたのです、けれど秀子さん茲に長居する必要は有りません、死骸の後の処分などは私が致しますから、サア貴女は早く室へ行って一休みすると成さい、余ほどお疲れで有りましょう、ソレに又二人が塔の底へ忍び込んだ事が分り、塔の秘密を人に悟られる様な事が有っては宜く有りませんから」と云うに、秀子は今まで引き立てて居た気も弛んだか全く他愛も無いほど疲れた様で「ハイ、兎も角も暫し休みましょう、爾せねば私は、最う何の考えも定りません」実に其の筈である、二十四時間の上、食事もせず、而も人の一生にも無い程に心を動かした事なれば、如何に健(けな)げな女でも最早堪え難いであろう。
 余も疲れては居るけれど、余の心には大なる不平が有る、漸く秀子の念願が届き掛け其の身の上が幸福に成ろうと云う時に当って、自分から秀子に賤しまれる様に仕向け、秀子を失わねば成らぬかと思えば、仲々気の弛むトコロで無い、休もうとて休まれもせず、独りで篤と此の後の身の振り方なども考えて見ねば成らぬ。
 此の様に思いつつ秀子を送って塔を降り、此の家の二階へは着いた、秀子の室は未だ遠いけれど矢張り此の二階続きに在るのだ、秀子は最う送って貰うに及ばぬと謝して独りで立ち去った、余に愛想を盡さぬ前なら、何も其の室の入口まで余の送って行くのを邪魔だとも思うまいに、アア唯一時、意外な高輪田長三の死に様に驚いて居た間だけは、外の事を打ち忘れて、余に殆ど以前の通り打ち解けた様な容子に語ったけれど、其の驚きが過ぎ去って、心が常の水平に返れば直ぐに余を賤しむ心が戻り、口をきくのも好ましく思わぬと見える、実に権田時介との約束には甚い目に遭った。
 空しく秀子の姿が見えずなる迄見送って、兎に角誰かに高輪田長三の死を伝えねば成らぬがなど思案しつつ、徐々と、下に降る階子(はしご)段の所まで行った、此の時は既に窓の外が明るくなり、日の出る刻限であるけれど下では誰も起き出て居ぬ様子である、未だ降りて行ったとて仕様が無いか知らんと、暫し足を留め、段の上の横手に佇立(たたずん)で居ると、下から誰やら登って来る足音がする、下僕でも起きたのかと思えば爾でも無い、此の人も余と同じく何事をか思案して居る者か歩む足が甚だ捗々(はかばか)しく無い、一段上っては休み、休んでは又上る様である、誰だろうと暫し静かにして待って居ると、漸く其の頭より半身が上に現われた、是は何うだ権田時介である。
 彼は全く何の思案にか暮れて茫然として歩んで居る、余は驚いて、殆ど我知らず走り寄り「オヤ権田さん」と出し抜けに呼び掛けた、彼は恟(びっく)り驚いて「オオ」と云い、其の顔を上げる拍子に、身体の中心を失って、階子段を踏み外し、真逆様(まっさかさま)に下へ落ちはせぬけれど殆ど落ちん有様で有った、若し余が抱き留めねば必ず落ちる所で有った、余は遽てて抱き留めたが、権田は性根の附いた様に背後を向き今上って来た階段の高さを見て「オオ、貴方が抱き留めて呉れねば頭を砕いて此の世へ暇を告げる所でした、本統に一命を救われました」といい、彼に有るまじく思われるほど感謝の様を現わしたが、頓て「アア貴方は、抱き止めずに放って置けば手も無く恋の敵をなき者とする所で有ったのに、エ、爾では有りませんか、抱き止めずとも誰も貴方を咎める者は無く、私が自分の疎相で階段から落ちて死ぬのだから、私自身とても貴方を恨む訳には行きません、私が貴方なら決して抱き留めはせぬのです」
 真面目に云って、益々深く余の親切に感じて居る、余「成るほど爾でした。惜しい事を仕ましたよ、併し今貴方をなくしては、秀子の汚名を雪ぐに充分な反証を持って居る者がないから」権田「イヤ其の心配も今は消滅したのですよ」余「エ何と」権田「イヤ其の反証は既に悉く相当の手へ渡して了いました」余「相当の手とは誰の事です」
 権田「ハイ探偵森主水と、貴方の叔父朝夫君です」とて是より権田の説き明かす所を聞けば、一昨夜余が権田の許を辞して後、権田は彼の森主水を、次の間からクルクル巻に縛ったまま引き出して、細々と秀子、イヤ輪田夏子の事を話し、昔お紺婆を殺したのは其の実高輪田長三だとて、有る丈の事を語り、有る丈の証拠を示した所、森主水は証拠の争う可からざるに全く己れの過ちを悟り「好うこそ私を此の様に捕えて縛り、職務を行い得ぬ様に妨げて下さった、若し貴方がたが、此の断乎たる非常策を施さなんだなら、森主水は今までに無い職務上の大失策を遣らかし、同僚の物笑いと為って、探偵としての名誉を全く地に委(い)する所でした」とて深く謝したと云う事である、夫から森主水の繩を解いて遣ると彼は至急に運動せねば可けぬとて、其の夜の中から昨日へ掛け一生懸命に奔走して、其の反証が全く真物(ほんもの)で有る事を夫々突き留め、其の上に彼の高輪田長三が其の後も秀子を陥しいるる為に倫敦の解剖院の助手に賄賂して、女の死骸を買い取った事までも分り、昨日の昼頃礼旁々(かたがた)にそれ等の次第を報じて権田の許へ来たに依り、権田は直ぐ様同道して此の土地へ出張し、既に其の夜の中に余の叔父に逢いて、前に森主水に告げた丈の事実を悉く叔父にも告げたとの事である、爾して猶彼は、要を摘まむに慣れた弁護士の弁舌で、余の知らぬ様々の事を語った。

    第百二十回 思案も智慧も

 権田時介は言葉を継いだ。「私と一緒に来た森主水は第一に高輪田長三を逃さぬ様にせねばならぬとて彼長三の室へ行って見ると、流石悪人だけ、自分の身の危い事を知ったと見え、早や逃げ去った後でした、其処へ丁度此の土地の警察から森主水の手下が来て、先に消滅した浦原お浦嬢が此の土地の千艸(ちぐさ)屋に潜んで居るとの事を告げましたから、扨は長三め、必ずお浦嬢の所へ行っただろうと森主水は直ちに又其の家へ馳せ附けましたが其の家にも長三は居ず、其の上にお浦嬢の姿さえ見えぬので、甚く失望して帰って来ました、後で医者の言葉を聞くと長三は数日来、持病の心臓が起り、物に驚きでもすれば頓死すると云いました、シテ見ると逃げ去る途中で死ぬるかも知れません」余は話に釣り込まれ「ハイ彼長三は既に心臓病の為に昨夜死んで了ったのです」と云い、此の権田には隠すにも及ばぬ訳だから事の次第を詳しく語った、権田は合点の行った様に「それでは昨夜私が、貴方の叔父朝夫君に詳しく秀子嬢の身の上を語り終り、其の枕許で椅子に凭(よっ)たまま微睡(まどろん)で居ると、何か異様な叫び声が微かに聞こえた様に思いましたが其の声が彼長三の死に際の悲鳴でしたな」と驚きつつ点頭(うなず)いた。
 余「では最う叔父は詳しく秀子の事を知って居ますな」権田「ハイ叔父御は秀子が其の実輪田夏子だと云う事を先日高輪田長三の毒舌で聞されて非常に心を痛めて居たのですから私が悉く其の輪田夏子の清浄潔白な次第を告げたのです、それを聞いて叔父御の喜びは一方ならず、是で最う病気も癒ると云い、私を引き留めて放さぬのです、到頭私は叔父御の枕許で夜明かし同様に明かしました、ですが丸部さん肝腎の私自身が未だ秀子の其の後の有様を知らぬのです、今は何所に居るのですか」余「甚く疲れて居室へ退きましたから多分今は寝て居るのでしょう」権田「シタが貴方の約束は」余は少し不機嫌に「ハイ厳重に履行しました、秀子は全く私を恨み、不幸の境遇に陥った女を憐れむ事さえ知らぬ見下げ果てた男だと本統に愛想を盡して居るのです」
 之を聞いて権田は痛く打ち喜ぶかと思いの外聊か面目なげに「実に邪慳な約束でお気の毒に思いますが」と、一昨夜の様に代え、頭を掻いて何だか打ち萎れた様子である、余は猶も腹の底に癒え兼ねる所が有るから未練ではあるけれど「貴方は定めし満足でしょう」と聊か厭味の語を洩らした、権田「イヤ私は失礼ながら貴方を見損なって居ましたよ、斯うまで身を犠牲にして約束を守るとは、アア今時に珍しい真に愛す可く尊う可きお気質です」と云って暫し考えた末「併し叔父御が頻りに貴方の事を気遣い、何所へ行ったのだろうなどと云って居ますから、他の話は後にして先ず叔父御の寝室へお出でなさい」

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