幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 けれど森主水は必死の場合と思ったか、時介の恐ろしい言葉を聞いて益々悶掻き始めた、余は実に気の毒に堪えぬ、然り余の心には充分の慈悲があるけれど余の手先には少しも慈悲がない、彼が悶掻けば悶掻くだけ益々しめ附ける許りである、此の様を見兼ねたか、松谷秀子は青い顔で余の前に立ち「此の方が幽霊塔で私の挙動を見張って居た探偵ですか、若しそうならば何うか其の様な手荒な事を仕て下さるな、私の為に人一人を苦しめるとは非道です、私は捕縛せられようと、何うされようと最う少しも構いません」健げなる言い分では有るけれど余は唯「ナアニ」と云って聞き流した、思えば実に邪慳な乱暴な振舞いでは有る、余は自分で自分が非常な悪人に成った様に感じた、若し他人が女の為に探偵を此の様な目に逢わせたならば余は其の人を何と云うであろう、決して紳士と崇めは仕まい、それもこれも皆秀子の為だから仕方がない。
 其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を食(は)ませて置く積りと見える、余の了見とても詰りそれに外ならぬ、唯秀子を無事に落ち延びさせる迄此の探偵の手足の自由を奪い、爾して声を出させぬ様に仕て置けば宜いのだ、時介は余に向かい「丸部さん、少しも手を弛めては了ません、足の方から私が縛りますから、ナニ私は水夫から習って繩を結ぶ術を心得て居りますよ、私の結んだ繩は容易に解ける事では有りません」と云い早や探偵の両足を取り、グルグル巻に巻きしめて縛り始めた。
 森主水は幾等悶掻いても到底余の力には叶わぬと断念(あきら)めたか悶掻く事は止めた、其の代わり彼の眼には容易ならぬ怒りの色を浮かべ、余の顔を睨み詰めた、人を睨み殺す事の出来る者なら余は此の時睨み殺されたに違いない、たとい決心はして居る身でも、斯う睨まれては余り宜い心地はせぬ、何とか、言葉だけででも慰めて遣り度い、余「森さん、森さん、恨めしくも有りましょうけれど、ナニ全く貴方の為ですから我慢なさい、今此の通り貴方の自由を奪わねば、貴方は罪のない秀子を捕縛し、職務上の失策として後々まで人に笑われますよ、先刻貴方は好意を以て、私が罪人を助ける罪を妨げて遣るのだと仰有ったが、今は其のお礼です、私も厚意を以て、貴方の職務上の大失策を妨げて上げるのです、ナニ秀子が無事に落ち延びて、貴方の手の届かぬ所へ行けば、直ぐに貴方を解いて上げます、其の時には解いたとて貴方が失策をする種が有りませんから」と殆ど鸚鵡返しの様に云うた、彼の心が此の言葉に解けたか否やは判然せぬ。
 彼は物言いたげに口を動かそうとするけれど、其の顎をしめ附けて居る余の手が少しも弛まぬから如何ともする事が出来ぬ、唯犬の唸る様な呻き声を発する許りだ、秀子は此の様を見、此の声を聞き「丸部さん、何うあっても其の方を許して上げぬのですか」と云い、更に権田時介に向かい「貴方は紳士の名に背く様な卑怯な振舞いはせぬと先刻も仰有ったでは有りませんか、此の様な振舞いが何で卑怯で有りませんか、何で紳士の名に負(そむ)きませんか、私の名を傷つけまいと思うなら、何うか其の繩をお捨てなさい」権田も一様に聞き流して、早や腰から手から首の所まで、宛も簀巻(すまき)の様に森主水を縛って了い、最後に猿轡をまで食ませ終った、権田「サア丸部さん是ならば呼吸の根を止めたのも同様です、次の間へ運んで暫く押入れの中へ投げ込んで置きましょう」言葉に応じて余は彼の首を、権田は彼の足の方を、双方から捕えて舁ぎ上げ、次の間へ運んで行き、瓦礫(がらくた)道具でも扱う様に押入れの中へ投げ込んで戸を閉じた。

    第九十一回 真に烈女

 手も足も首も胴も、長い繩でグルグル巻に巻き縛られては、幾等機敏な森主水でも如何ともする事は出来ぬ、余と権田とに舁ぎ上げられ、手もなく次の室へ運ばれて押入れへ投げ込まれたは、実に見じめな有様である。
 余は彼を次の室へ運びつつも、秀子が何の様に思うて居るかと、横目で其の様を見たが、秀子は青い顔を益々青くし、唇を噛みしめて、爾して一方の壁に靠(もた)れ、眼は只室内を見詰めて居る、全く心中に容易ならぬ苦しみが有って、非常の決心を呼び起こそうとして居るのだ、或いは自殺でもする気では有るまいか。
 之を見ると実に可哀相である、世間の娘達は、猶だ是位の年頃では浮世に艱難の有る事を知らず、芝居や夜会や衣服や飾物に夢中と為って騒いで居るのに、如何なれば此の秀子は牢にも入り死人とも為り、聞くも恐ろしい様な境涯にのみ入るのであろう、犯せる罪の為、心柄の為とは云う者の、斯くまで苦しき思いをすれば大抵の罪は亡ぶる筈だ、最う既に亡び盡して清浄無垢の履歴の人より猶一層清浄に成って居るかも知れぬ。
 此の様に思いつつ元の室へ出て来ようとすると権田は背後から余を引き止め「お待ちなさい、茲で相談を極めて置く事が有ります」余「エ茲で、茲では森主水に聞かれますが」権田「構いません、爾ほど秘密のことではなく、殊に秀子の前では言いにくい事柄ですから」余「では聞きましょう、何の相談です」権田は今探偵を投げ込んだ其の押入れの直ぐ前に立ったまま「是から秀子を逃がすとしても、只一人で逃がす訳にも行かず、貴方か私か随いて行って、愈々之で無難と見届けの附く迄は一身を以て保護して遣らねば成りませんが、其の任は何方が引き受けます、貴方ですか、私ですか」
 余は縦しや秀子を我が妻には為し得ぬ迄も、永く後々まで有難い人だと秀子の心に善く思われたい、茲で保護の役を引き受ければ外の事は兎も角も充分恩を被せる事が出来るから、少しも躊躇せず「夫は無論私が勤めます、貴方は弁護士と云う繁忙な身分ですから」権田「イヤお為ごかしは御免です、職業などは捨てても構わない決心です」余「そう仰有れば私の方は命でも捨てて宜い決心ですが」権田「イヤ斯う争えば果てしがない、寧その事、秀子に選ばせる事に仕ましょう、選ばせるとは聊か心細い手段では有るけれど仕方がない」余「宜しい」と云って承知し、二人で元の室へ帰って見た。
 オヤオヤ何時の間にか肝腎の秀子が、居なくなって居る、察するに秀子は、今し方唇を噛みしめて非常な決心を呼び起こそうと仕て居る様に見えたが、全く決心が定まって何処へか立ち去った者と見える、錠を卸して有った入口の戸が明け放されて居る、兼ねて権田が、何時でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」
 早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は後(おく)れたのだ、ハテな秀子が此の汽車へ乗ったか乗らぬかと気遣いつつ其の汽車を見て居ると、一等室の窓からチラリと秀子の姿が見えた、さては全く幽霊塔へ帰るのだナと是だけは先ず安心し、次の汽車は何時かと時間表を検めると今のが真夜中の汽車で、次のは午前一時半の終列車だ、猶だ一時間半だけは権田と相談する事が出来ると、気を落ち着けて、茲で電報を認め、秀子へ向けて兎も角も一二日は安心だから余の帰るまで幽霊塔を去る勿れとの文意を送り、爾して約の如く又権田の許へ引き返した、全体権田が何の様な事を云う積りだか、聞き度くも有り聞き度くもなしだ。
 権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」

    第九十二回 貴方は人間

「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。
 とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。
 若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど清くして殆ど超凡脱俗とも云い度い所がある、此の様な稀世の婦人が何で賤しい罪などを犯す者か。
 余が初めて秀子の犯罪をポール・レペル先生から聞いた時、何れほど之を信ずるに躊躇したかは読者の知って居る所である、余は顔形の証拠に圧倒せられ、止むを得ず信じはしたが、決して心服して信じたでは無い、夫だから信ずる中にも心底に猶不信な所があって動(やや)ともすれば我が心が根本から、覆(くつがえ)り相にグラついた、其の故は外で無い、唯秀子其の人の何の所にか、到底罪人と信ず可からざる明烱々(めいけいけい)の光が有って、包むにも包まれず打ち消すにも打ち消されぬ如く感ぜられる為で有る。
 爾れば意外であるけれど、其の意外は決して、罪人と聞いた時の意外の様に我が心に融解し難い意外では無い、罪人と聞いた時には余は清き水が油を受けた様に心の底から嫌悪と云う厭な気持が湧き起こって、真に嘔吐を催す様な感じがした、決して我が心に馴染まなんだ、今度は全く之に反し、一道の春光が暖かに心中に溶け入って、意外の為に全身が浮き上る様に思った、極めて身に馴染む意外である、此の様な意外なら幾等でも持って来いだ、多ければ多いだけ好い、縦しや信じまいとした所で信ぜぬ訳に行かぬ、心が之を信ぜぬ前に早や魂魄が其の方へ傾いて、全く爾に違い無いと思って了った。
「エ、貴方は真に其の事を知って居ますか」とは余が第一に発した言葉である、権田「知って居ますとも、今では其の犯罪人が秀子で無い、此の通り外に有るのだと証明する事が出来ます、貴方に向かっても世間へ向かっても、法律に向かっても立派に証拠が見せられるのです、其の証拠を見せるのも、見せぬのも別言すれば罪人が外に在るなと証明するも証明せぬも、単に私の心一つですと云い度いが、実は丸部さん貴方の心一つですよ」余「エ、エ、貴方は、其の様な証拠を握って居ながら、今までそれを証明せずに秀子を苦しませて置いたのですか、全体貴方は人間ですか」と余は目の球を露き出して問い返した。
 権田「イヤ先ア、そう遽て成さるな、決して知り乍ら故と証明せずに居た訳では無い、纔かに此の頃に至って其の証拠を得たのです、尤も私は秀子の件イヤ輪田夏子の件を弁護した当人ですから其の当時幾度も秀子即ち夏子の口から全く此の人殺しは自分で無いとの言葉を聞き大方其の言葉を信じました、信ずればこそ一生懸命に肩を入れ充分弁護しましたけれど、如何せん其の時は総ての事情が秀子に指さして居る様に見え、私も反対の証拠を上げ得なんだ者ですから、弁護も全く無功に帰し、秀子即ち夏子は殺人の刑名を受けましたけれど、其の時私は秀子に向かい、真に貴女が殺さぬ者なら、遅かれ早かれ終には誠の罪人の現われ、何所にか其の証拠が有りましょうから、貴女が牢に入って居る間に私が其の証拠を捜しますと受け合い、秀子も亦、甘んじて此の乱暴な裁判に服する事は出来ぬから、何の様な事をしてなりと牢を抜け出で、盡くすだけの手を盡くして、縦んば唯の一人なりとも此の世に輪田夏子は殺人の罪人でないと信ずる人の出来る様にせねば置かぬ、此の目的の為には自分の生涯を費やす覚悟だと殆ど眼に朱を注いで私へ語りました、即ち秀子が牢を脱け出たも其の結果です、牢に居ねばならぬ義務の有るのに牢を抜け出る世間の脱獄者とは聊か違うのです、牢に居る可き筈がないのに唯法律の暴力の為に圧せられて、止むを得ず牢に居るから及ぶ丈の力を以て其の暴力の範囲から脱け出たのです、脱け出て後も、今日まで全力を其の目的の為に注いで居たのでしょう」
 是で見れば秀子が密旨と云ったのも多分は其の辺に在ったであろう、尤もそれだけとしては猶多少合点の行かぬ所も有りはするけれど、兎に角大体の筋道だけは分った、余は殆ど目の覚めた気持がする。

    第九十三回 そこが相談

 余は何も彼も打ち忘れて喜んだ、「成るほど権田さん、アノ裁判は間違いに違いない、秀子が人殺しなど云う憎む可き罪を犯す女でない事は誰の目にも分って居ますよ」権田は嘲笑って「爾ですか、誰の目にも分って居りますか、実に貴方は感心ですよ、自分の妻と約束までした女を、ポール・レペル先生から人殺しの罪人だと聞けば直ぐに其の気になり、今又私から罪人でないと聞けば、何の証拠も見ぬうちに又成るほどと合点成さる、実に暁(さと)りが早いですネエ」余は殆ど赤面はしたけれど「ハイ証拠を見ずとも是ばかりは信じます、秀子の容貌、秀子の振舞いなどが百の証拠より優って居ます」
 斯う云い切って更に考え見れば、唯喜んでのみ居る可き場合でない、愈々其の様な清浄無垢の女なら早く其の清浄無垢が世に分る様に取り計って遣らねばならぬ、余「イヤ権田さん、私が軽々しく有罪と信じ又無罪と信ずる反覆は如何にも可笑しいでしょう、之は何の様な嘲りでも甘受しますが、夫よりも先に其の秀子の清浄な証拠と云うのを世に示そうでは有りませんか、世に示して秀子の濡衣を乾して遣りましょう」権田は何故か返事をせぬ、余は迫き込んで「エ、権田さん、二人で声の続く限り世間へ対して叫ぼうでは有りませんか、殊に秀子は今既に養父殺しと云う二度目の恐ろしい嫌疑をさえ受けて居りますから、差し当りアノ森主水にも其の証拠を示し秀子が少しも罪など犯す汚れた履歴でない事を知らせ、此の差し掛かった厄難を払って爾して取り敢えず秀子の身を安泰にして遣りましょう、サア其の証拠は何所に在ります茲へお出しなさい、サア茲へ」
 権田は重々しく落ち着いて「其所が即ち相談です、貴方と私との間に確たる相談の極った上でなくては」余「相談は極ったも同じ事です、私は何の様な相談にでも応じますよ」権田「そう早まらずと、静かに私の言葉からお聞き成さい、第一貴方は秀子を救い度いと断言しますか」余は燥(いら)って「何で其の様な余計な事をお問い成さる、秀子を救わずに何としましょう」権田「所が之を救うには余ほどの決心が要るのですよ、非常に辛い事を耐えねば可けませんよ」余「何の様な事でも平気で耐えます」権田「宜しい、其の一言を聞けば安心して言いますが、秀子を救うには、是から貴方は幽霊塔に帰り、秀子に向かって明らかに宣告成さい、和女(そなた)は人殺しの罪に汚れた身で到底此の丸部道九郎の妻には出来ぬのみか此の家へ置くも汚らわしいから用意の出来次第に此の家を立ち去って呉れと」余「エ、夫は何の事です」権田「何の事でもない、秀子を救う第一着の準備です」
 奇怪な事を云う者かな、罪人でない者に、罪人と言い聞けるが濡衣を乾す準備とは真に有られもない言い種である、余「何で其の様な事が準備です」
 権田「そう云わねば、秀子が貴方へ愛想を盡さぬのです、先刻既に貴方へ愛想を盡した様に見えましたけれど、アレは真正に愛想を盡したのではなく、一時腹を立てたのです、貴方を恨んだのです、恨むとか腹を立てるとか云うのは猶だ充分貴方を愛して居る証拠で、愛想を盡すときと余ほどの違いです、真に愛想を盡したなら恨みもせず怒りもせず、只賤しんで、最早取るにも足らぬ男だと全く貴方を度外に置くのです、貴方は真に秀子を救い度いなら、此の通り度外に置かれる事になる様にお仕向けなさい」余「ダッテ権田さん秀子はアノ通り心の堅固な女ですから一旦私に愛想を盡せば、縦しや其の身が救われた後と成っても、決して其の盡した愛想を回復することは有りません、生涯私を度外に置きますが」
 権田「無論です、生涯貴方を度外に置き、秀子の眼中に全く丸部道九郎と云う男のない様に成らねば救うことは出来ません」
 此の様な奇怪な言い分が世に有ろうか、世は唯呆気に取られ「権田さん貴方の言う事は少しも私に分りません、何で秀子が生涯私を賤しむ様にならねば其の濡衣を乾す事が出来ませんか。其の様な其の様な理由は何所に在ります、夫も明白に説き明かし、私の心へ成るほど合点の行く様に言い立てねば、私は遺憾ながら貴方を狂人と認めます、貴方の言葉は少しも辻褄が合わず全く狂人の囈語(たわごと)です」権田は怒る様子もなく「左様さ、狂人の囈語なら少しも貴方へお気の毒な思いは致しませんが、狂人の囈語でなく、全く此の外に秀子を救う道がないから残念です」余「とは何故です、何故です」
 権田「一口に申せば、貴方へ心底から愛想を盡さぬ以上は、秀子は決して此の権田時介の妻に成りません、時介の妻にならねば、時介は決して救うて遣る事は出来ません。持って居る証拠を握り潰します、ハイ是は最う男子の一言で断言します、是でお分りに成りましたか」アア彼の言葉は全く嫉妬に狂する鬼の言葉だ。

    第九十四回 血を吐く思い

 人が井戸の中に落ち込んで居るを見て、誰か救うて遣り度いと思わぬ人が有ろうか、人が無実の濡衣に苦しんで居るのを見て、誰か其の濡衣を乾して遣り度いと思わぬ者が有ろうか、若し有れば其の人は鬼である。
 況(ま)して其の濡衣たるや養母殺し養父殺しと云う大罪で其の人は自分の愛し憐れみ尊敬する女である、其の女を大罪大嫌疑から救い出すのに、自分の妻に成らねば厭だとは是が人間の言葉で有ろうか、余は暫し呆れて権田時介の顔を見詰めて、殆ど一語も発する事が出来なんだが、彼も余の言葉を聞く迄はと云う風で一語を発せぬ。何時まで黙って居たとて果てしが無いから余は竟(つい)に「権田さん貴方の云う事は余り甚いでは有りませんか、秀子が自分の妻に成らねば救うて遣る事は出来ぬなどと」権田「左様さ、或いは甚いかも知れませんけれど、是は他人から評す可きで貴方から評せらる可き事柄では有りません」余「何んで」権田「其の甚さは貴方とても同じ事ですもの、貴方とても仔細に心の裡を解剖して見れば矢張り自分の妻にせねば救わぬと云うに帰するでは有りませんか」余「ナアニ私は其の様な卑劣な了見では――」権田「其の様な卑劣な了見ではないとならば、直ちに幽霊塔へかえり、私の申す通り、秀子に心底から愛想を盡される様にお仕向け成さい、貴方が秀子に愛想を盡させさえせば秀子は終に私の妻、サア私の妻に極まりさえせば三日と経ぬうちに其の汚名は消えますから」余「だって夫は」権田「だって夫はと云う其の心が即ち私と同じ心では有りませんか、秀子を救うて自分の妻に仕たい、縦しや救うにも自分の妻にせねば詰らぬと斯う云うに帰着します、自分の妻にせねば救わぬと云う私の心と何の違いが有りますか、若し違うとならば茲で明らかに私に向かい、秀子を妻にせずとも宜いから何うか汚名だけ助けて呉れと何故斯う仰有いません」
 なるほど斯う云われて見れば、余の心とても権田の心と大した違いはないか知らん、妻にせずして唯救うだけでは何だか飽き足らぬ所が有る、エエ余自らも人と云われぬ鬼心に成ったのか、茲で全く秀子を思い切り、秀子に生涯の愛想を盡される様にして爾して秀子の助かる道を開かねば成るまいか、折角清浄無垢の尊敬す可き女と分った所で、直ちに愛想を盡される仕向けをせねば成らぬとは余り残念な次第では有るが、之を残念と思うだけ余の心も権田の鬼心に近づくか知らん、残念残念、何とも譬え様のない残念な場合に迫ったものだと身を掻きむしる程に思うけれど仕方がない、「権田さん貴方の言葉は実に無慈悲な論理です」権田「貴方の言葉もサ」
 余は太い溜息を吐いて「権田さん、権田さん、私が若し茲で、何うしても生涯秀子に愛想を盡される様な其の様な仕向けは出来ませんと言い切れば何と成さいます」権田「爾言い切れば何とも致しませんよ、私は貴方の様に何時までも女々しく未練らしくするは嫌ですから、夫なら御随意に婚礼成さい、お目出度うと云って祝詞を述べてお分れにする許りです」余「夫で貴方は満足が出来ますか」権田「出来ますよ、恋には負けても復讐には勝ちますから、ハイ恋は一時の負、復讐は生涯の勝」余「復讐とは何の様な」
 権田「貴方と秀子と婚礼するのが即ち復讐に成りますよ、先ア能くお考えなさい、貴方が秀子を妻に仕ましょう、貴方は秀子を潔白な女と思っても世間では爾は思いません、何時何人の手に依ってアノ顔形が世間に洩れ今の丸部夫人は昔養母殺しで有罪の裁判を経た輪田夏子だと世間の人が承知する事に成るかも知れず、イヤ縦し顔形は現われぬとしても探偵森主水の口から夫だけの事が直ぐに公の筋へ伝わります、秀子は無論此の国に居る事が出来ず貴方と共に此の国此の社会と交通のない他国の果てへ逃げて行く一方です、逃げて行っても何時逮捕せられるか一刻も安心と云う事がなく風の音雨の声にもビクビクして、三年と経たぬうちに年が寄ります、早く衰えて此の世の楽しみと云う事を知らぬ身に成って了います、爾して貴方に対しても妻らしい嬉しげな笑顔は絶えてなく夜になると恐ろしい夢に魘(うな)され、眠って居て叫び声を発する様な憐れな境界に成るは必定です、此の様な事に成って夫婦の幸いが何所に有りましょう、爾して貴方は此の妻が少しも斯様に世間や物事を恐れるに及ばぬ身だと知って居ながら少しも夫を証明する事は出来ず、少しも妻の苦痛を軽くする事は出来ず、アノ権田の妻に仕て置いたなら女傑とも烈女とも云われ充分尊敬せられて世を渡る事の出来る者を、己の妻と仕た許りで此の様な苦しみをさせるものだと、自分で気を咎める念が一日は一日より強くなり、貴方も安き日とてはなく、丁度自分の妻と能く似た陰気な夫婦が出来ましょう、私は之を思うて満足します、イヤ一時の恋の失敗を耐えるのです、モシ丸部さん貴方は本統に人間です、決して鬼では有りませんよ、自分の愛する女が、立派に此の世を送られる道があるのに只自分の一時の満足の為に其の女の生涯の幸福を奪い、人殺しと云う恐ろしい罪名の下へ女の一生を葬って了おうと云うのですから、貴方の愛は毒々しい愛と云う者です、人を殺す様な愛です、女に一生を誤らせる様な愛です、秀子も後で此の様な次第を知れば定めし有難いと思いましょう、爾して貴方を邪慳な人だなどと恨みはしまい、何つか其の愛で秀子を濡衣の中にお埋めなさい」
 何たる恐ろしい言葉ぞや、余は此の時介を敵としては到底秀子の生涯に何の幸福もないを知った、余が秀子と婚礼すれば其の日から此の男は直ちに復讐の運動を始め、真に余と秀子とを不幸の底へ落とさねば止まぬであろう、日頃は仲々度量の広い、男らしい男で、幾分の義侠心を持って居るのに恋には斯うまで人間が変る者か、真に此の男の愛は余の愛よりも強いには違いない、夫を知って猶も秀子を我が妻とし、今此の男の云うた様な儚い有様に若しも沈ませる事が有っては、全く余の愛は毒々しい愛と為る、幾等残念でも此の男に勝利を譲る外はない、余は断乎として「承知しました、権田さん、秀子を貴方の妻になさい」血を吐く想いで言い切った。

    第九十五回 証拠とは何の様な

 余は全く降参した。「秀子を貴方の妻になさい」と権田に向かって言い切った、真に血を吐く想いでは有るけれど是より外に仕方がない、斯うせねば到底秀子の汚名を雪(そそ)ぎ、秀子に其の身相当の幸福な生涯を送らせることは出来ない、斯うするのが秀子に対する真性の愛情と云うものだ。
 権田は別に嬉し相にもせぬ、宛も訴訟依頼人に対して手数料の相談でも取り極める様な調子で「なるほど流石は貴方です、夫でこそ清い愛情と云う者です、併し一歩でも今の言葉に背いては了ませんよ、秀子に対して、何所までも其の有罪を信ずる様に見せ掛け貴方の方から愛想を盡したと云う様に仕て居ねばなりません、爾して居れば秀子は必ず貴方を賤しみ、斯うも軽薄な、斯うも不実な、斯うも浅薄な男を今まで我が未来の所天(おっと)の様に思って居たは情け無いと、貴方の傍へも来ぬ事になりますから、其の後は私の運動一つです、其の機を見て私が親切を盡せば、貴方の不実と私の実意とを見較べて、漸く心が私の方へ転じ今日貴方を愛する様に私を愛し始めます、宜しいか、少しも貴方は秀子に向かい機嫌を取る様な素振りを見せては了ませんよ、秀子の貴方に愛想を盡す事が一日遅ければ、其の汚名も一日長く成るとお思いなさい、長くなる中に時機を失えば取り返しが附きませんから」余は涙を呑んで「宜しい、分りました、けれど秀子を救うのは直ぐに着手して下さらねば」権田「無論です、私の未来の妻ですもの、貴方から催促が無くとも早速に着手します、救うて遣って親切に感じさせる外に私の手段は有りませんから」
 余は何とやら不安心の想いに堪えぬ、「けれど権田さん秀子を救う事は万に一つも遣り損じは有りますまいね」権田「其の問いはくど過ぎます、兎角に貴方は未練が失せぬと見えますが能く物の道理をお考え成さい、貴方と秀子との近づきは、云わば昨今の事ですよ、私は八年前から彼の女に実意を盡くし、唯弁護に骨折った許りでなく、牢を脱け出させた事から其の後今まで何れほど苦労して居るか分りません、此の苦労に免じても秀子は当然私の妻たる可き者、夫を思えば決して未練を残す可き道はないのです」余「イヤ一旦思い切った上は未練を残しはしませんが唯果たして助かるや否やが気掛かりです、貴方が確かな証拠と云うは、全体何の様な証拠ですか、一応夫も聞いて置き度く思いますが」権田「証拠の中で最も争い難い一物です、即ち私はお紺婆を殺した其の本人を突き留め、何時でも其の者を其の筋へ突き出す事が出来るのです、のみならず其の事が自分でないなどと強情を張る事の出来ぬ様に、何も彼も調べ上げて有りますから、多くの月日を経ぬうちに目的を達します、其の男が愈々白状して有罪と極まって御覧なさい、全社会が秀子の前に平身低頭して今までの見損じを謝し、秀子は罪なくして罪を忍んだ憐れむ可き犠牲と云われ、全国第一の名高い女と為り、非常な尊敬を博します。サア斯うまで位置が転倒して、貴方の愛する女が不名誉の極点から、名誉の極点に飛び上るかと思えば、貴方は秀子を私へ譲ったのを嬉しいと思わねば成りません、エこれが嬉しくは有りませんか」
 彼は余を慰める積りであるか将た冷やかす積りであるか、余には更に分らぬけれど、真に其の通りとすれば、余は嬉しい、然り残念ながら嬉しいのだ。
「ハイ権田さん、喜んで私は其の事を貴方に托します、斯う云ううちにも最う汽車の時間ですから立ち去りますが、直ぐにも何うか其の手続きを」権田「ハイ手続きの手初めは先刻の森主水の捕縛を解き彼の耳へ誠の罪人の姓名を細語いても済むのです」彼は斯く云いつつ、次の間の戸を開いたが、驚く可し森主水は、グルグル巻に縛られたまま、何うしてか此の戸の外まで転がって来て居る、多分二人の話を又も立ち聴き、イヤ寝聴きして居たので有ろう、寝聴きして何と思ったか知らぬけれど其の顔には相変らず怒りの色が現われて居る、併し余は彼に拘って居る暇はないから其のまま権田に分れを告げたが、権田は余の背影を見送りつつ「安心なさい丸部さん、此の探偵吏の始末も悉皆私が引き受けました、猶私は明日にも貴方の後を追い幽霊塔へ秀子に逢いに行きますから、其の時に若し秀子が少しも貴方に愛想を盡した様子がなければ、貴方は不徳なる違約者として充分に責めますよ」と云った、彼の声は絶望した余の耳へ警鐘の様に響いて居た。

    第九十六回 颯(さっ)と戸帳を

 余は権田時介の声を聞き流して二階を降りた、後で権田と森主水との間に何の様な応対が有ったかは知らぬ、唯早く幽霊塔へ帰って見度い一心で停車場へ駆け附けて、やっと終列車に間に合った。
 汽車の中で漸く気を落ち着けて見ると、秀子が清浄潔白の女と分ったのは実に有難い、之だけは神にも謝したい程の気がする、けれど其の清浄潔白の女を、猶も疑う様に見せ掛け、其の女から生涯賤しまれる様に、愛想を盡され度外に措かれる様に、仕向けねば成らぬとは何たる情け無い始末で有ろう、泣いて好いか笑って好いか、我が身で我が身が分らぬとは茲の事だ。
 併し其のうちに汽車の中で眠って了い、塔の村の停車場へ着いた時、初めて目が覚めた、早や朝の七時である、何でも秀子は夜の明けぬうちに茲へ着いた筈では有るが、実際此の地へ来たか知らん、途中で何所かの停車場から降りたでは有るまいかなど、様々に気遣われ、急いで幽霊塔へ帰って見た、爾して門の番人に、第一に秀子が帰ったかと問うて見たが、昨夜遅くに倫敦から秀子に宛てた電報の来た事は知って居るが、秀子の帰った事は知らぬとの返事、其の電報が即ち余の発したのに違い無いから、シテそれを何うしたと問えば虎井夫人に渡したとの事である、自分の室へも入らずに其のまま夫人の居室に行くと夫人は例の狐猿に顔を洗って遣って居る、其の様甚だ優長には見ゆるけれど併し心の中に何か穏やかならぬ所の有るは、余の顔を見ての眼の動き工合でも分る、扨は此の夫人、既に余が養蟲園へ行き夫人の身許まで探ったのを知り、居起(いたた)まらぬ気でもするのか、夫とも外に気に掛かる所が有るか知らんと、余は疑う色を推し隠して「秀子さんは」と極く軽く問うた、夫人は狐猿の顔を拭い終わって「サア昨日何処へか出て未だ帰りませんが、倫敦から電報なども来て居ますから、早く帰れば好いと思って居るのです」云う様が毎もの嘘ではないらしい、是で見ると秀子が此の家へ帰り着かぬのが本統だろう、夫とも夜が引き明けに、丁度番人の怠って居る時に着き、其のまま自分の室へでも隠れたのか知らん。
 若し彼の電報を見たのなら、兎に角余が安心させる様に認めて置いたから落ち着いて居るだろうが、彼の電報が猶秀子の手に渡らずに有って見れば、当人は今以て心も心ならずに居るで有ろう、早く逢って安心させて遣り度い、イヤ今は安心させる訳にも行かず、逢えば唯余に愛想を盡す様に仕向けねばならぬのだけど、夫でも逢い度い、逢って顔見ねば何だか物足らぬ所が有る。
 是から余は秀子の室へも行き猶家中をも尋ねたけれど、秀子の姿は見えぬ、此の上は再び停車場へ引き返して、誰か秀子の下車したのを見た者はないか聞き合わして見ねば成らぬ、トは云え余自ら此の家へ帰り、猶生死の程も分らぬ叔父の病気を見舞わぬ訳に行かぬから、先ず其の病室へ行き看護人に尋ねて見た所、叔父は日増しに快くなる許りであるが今は眠って居るゆえ、二時間程経ねば逢う訳に行くまいとの事だ、夫では停車場へ行って来ての上にしようと、先ず馬厩へ行き、日頃乗り慣れた一頭を引き出したが、三四日誰も乗らぬ為、余ほど奮(はず)んで、殆ど張り切って居ると云う様である、鞍置かせて乗るが否や、鞭も当てぬに一散に駆け出して少しの間に停車場へは着いた、茲で少し許り聞き合わせて見ると直ぐに分ったが、秀子は確かに今朝早くの汽車で此の停車場へ降り、居合わす馬車の御者が、乗る様に勧めたけれど、それに及ばぬと断って幽霊塔の方を指して歩み去ったとの事で、其の御者さえ猶だ茲に居合わせた、サア分らぬ、愈々着いて幽霊塔の方へ行ったとすれば、何う成っただろう、曾て浦原お浦が消滅した様に、消えて了ったのか知らん、或いは停車場と幽霊塔との間で何か用達しでも仕て居るのか、何さま合点行かぬ次第だから余は又馬のまま引き返して村の方へ来ると、少し先の方で歩んで居る小僧が有る、町で朝の買物をして帰る所とでも云う様に手に物を提げて居る、近づいて見れば後姿で分って居るが、其の小僧は確かに先頃余に贋電報の発信人を密告した、彼の千艸屋と云う草花売りの婆の雇人で、手に持って居る品が、此の辺の人の持たぬ貴夫人持ちの提皮包(さげかばん)である、秀子が昨夜此の様な皮包を提げて居たか否やは覚えぬけれど、若しや秀子が草花屋へ立ち寄って此の小僧に何か買物を托したでは有るまいかと思い、馬を猶も其の方に近づけると、小僧は足音に驚いて振り向いた、振り向く途端に馬は驚き、常よりも張り切って居る為に、忽ち逸して、余が手綱を引きしめる暇もないうち横道へ走り出した、後で思うと何か人間以上の力が此の馬を導いたかとも怪しまれる程である、馬は走り走った揚句、遂に其の草花屋へ駆け込んで其の庭で踏み留まった、是だけでは別に怪しむにも足らぬけれど、此の時此の家の奥の室とも云う可き所に方(あた)る一つの窓の戸帳(とばり)を内から颯(さっ)と開いた者が有る、何でも遽しい余の馬の足音に驚き何事かと外を窺いた者らしい、併し其の者、余の姿を見て又遽しく其の戸帳を閉め、内に姿を隠したが、余は自分にも信じられぬほど目早く、チラリと其の顔を見た、見て殆ど馬から落ちんとする程に驚き、思わず「ヤ、ヤ」と声を発した、此の様な所で此の様な顔を見るとは、余りの事で自分の眼を疑い度いけれど、余の眼は見損じなどする眼でない、今まで幽霊塔に満ちて居る秘密の一部分と云い度いが寧ろ大部分が今窓の中に隠れた其の顔に包まれて居るのだ、読者は此の顔を誰のと思う。

    第九十七回 彼奴とは彼奴

 窓に隠れた其の顔は、実に意外千万な人である、余は一時、秀子が事をさえ忘れる程に打ち驚き、直ちに馬を庭木に繋いで其の家の玄関とも云う可き所の戸を推し開き中に這入った、中は空間同様で誰も居ぬゆえ、今しも件の顔を見た奥の間の方へ行こうとするに界の戸に錠が卸りて居る。
 戸を叩き破っても奥へ入って見ねばならぬ、余は昨夜探偵森主水を縛った事を思えば人の家宅へ闖入する罪を犯す位は今更恐れるにも足らぬ所だ、戸に手を掛けて一生懸命に揺って居ると、一方の窓から「貴方は何をなさる」と咎めつつ六十にも近く見ゆる老婆が出て来た、見れば其の手に幾個の鍵を束ねて持って居る、多分是が此の家の主婦人であろう、余は「奥の室に居る人に合わねばならぬ用事があります」と云い其の婆の持って居る鍵を奪い、婆が驚いて妨げる間もないうちに早や界の戸を開いた、此の戸の中が確かに彼の顔の隠れた室である。
 婆の足許に鍵を投げ遣って置いて戸の中へ入ると、猫に追い詰められた鼠の様に隅の方に蹙(すく)んで居るは彼の顔の持主である、最早詮方のない所と断念したのか、立ち上って余に向かい「貴方は余り邪慳です。乱暴です、人の許しも得ずに此の室へ這入って来て」と余を叱る様に云うは、正しく窮鼠の猫を噛む有様である、此の窮鼠を誰とする、読者は大概推量し得たであろう、消失して更に成り行きの知れなんだ浦原お浦である。
 お浦が何うして紛失した、何うして此の家に隠れて居た、多分は種々の秘密が之に繋がって居る事で有ろう、余は何も彼も説明される時の来た如く思い、捕吏が罪人を捕える様にお浦の手を捕り「ハイ邪慳に乱暴に、私が此の室へ闖入するのを貴女は拒む権利が有りますか、お浦さん、貴女は実に女の身に有るまじき振舞いを為し他人に非常の損害を与えました、今は其の損害を償い、神妙に謝罪の意を表す可き時が来たのです」
 お浦「エ損害と仰有るか、謝罪と仰有るか、私こそ一方ならぬ損害を受けた女です」怒る様には云うけれど、実際怒る丈の勇気はなく、事の全く破れたを知って、絶望の余り空元気を粧うて居る事は其の声の恐れを帯びて震えて居るにも分って居る、余「其の様な空々しい偽りを吐く者では有りません、損害を掛けたのは貴女で、損害を受けたのは外の女だと云う事は貴女自ら能く知って居るでは有りませんか」お浦は悔しげに余の手を払い退け「貴方は爾うまで私が憎いのですか、爾までアノ女が可愛いのですか」と打ち叫んだ、余は厳重に「憎いの可愛いのと云う事は別問題です、私は愛憎に拘らず貴女を責めるのです、斯く云えば矢張り松谷秀子を愛する為に私が云う様にお思いでしょうが、秀子を愛すると云う事は過ぎ去った夢になりました、此の後再び秀子の顔を見るか否かさえ分りません」
 お浦は驚いて一歩前に進み出で「アア到頭貴方は松谷秀子の汚らわしい素性を看破りましたか」余「看破りも何も致しません、唯松谷秀子が無実の罪を被、長い間濡衣に苦しんで居た不幸なるイヤ清浄潔白な女だと云う事を知ったのです、夫は知りましたれど、秀子は私の者ではなく全く他人の者に成りました」お浦「エ他人の、とは弁護士権田時介氏の事でしょう」余「爾です、秀子は権田時介の妻とする事に定まりました」
 お浦は何事か合点し得ぬ様に暫し余の顔を見詰めて居たが、忽ちワッと泣き出した。「エエ、欺された、欺された、アノ悪人に、彼奴め復讐をさせて遣るの秀子を滅して遣るのと云い、初めから人を欺き、爾して今は其の復讐さえも出来ずして終わるとは」余は女の涙には極めて脆い性分である、お浦の様な忌む可く憎む可き女の顔にもまこと涙の流れるを見ては甚く叱り附ける勇気がない、少しは言葉を柔らげて「貴女は誰の事を其の様に云うのです、彼奴めとは誰を指します」お浦「彼奴めとは彼奴めですよ、彼の悪人ですよ、私の所天(おっと)ですよ」余「エ、エ貴女は既に所天を持ったのですか、貴女は所天が有るのですか」お浦「ハイ彼奴が私を欺いて無理に婚礼させました、御存じの通り私は自分の過ちの為とは云え貴方に捨てられ、其の腹立たしさやら絶望の余りに益々深く彼奴の様な悪人の言葉を聴き、彼奴が貴方に対して充分恨みを晴させて遣るの、秀子を滅して遣るのと云うにツイ載せられて、ハイ私は彼奴の為に道具に使われまして、今までとても気が附いては居ましたが、今ほど明らかに彼奴の憎さが分った事は有りません」余「だけれど其の彼奴と云うのが誰の事か未だ私には分りませんが」お浦「オヤ貴方に分りませんか、彼奴とは高輪田長三の事ですよ」高輪田長三に違いないと余は勿論推量して居た、推量しては居たけれど、お浦が随意に自分の口から言い切るのを聞こうとて待って居たのだ、愈々幽霊塔にあった此の頃の幾秘密は、彼高輪田長三に繋がって居るに違いはなく、お浦の口から分って来るに違いはない。

    第九十八回 危険な問題

 幾等悪心のお浦にもせよ、高輪田長三の妻に成ったとは聊か憐れむ可き堕落である、余は思わず嘆息して「貴女は罪な事、邪魔な事ばかりを目(もく)ろむから此の様な始末に成ったのです」と慰めるのか罵しるのか自分にも分らぬ様な言葉を吐いた。
 お浦は此の言葉にワッと泣き伏した、爾して泣き声と共に叫んだ、「道さん、道さん」斯うは云ったが流石に余を「道さん」などと幼名を以て慣々しく呼ぶのが気恥ずかしく成ったのか「丸部さん」と云い直して更に「貴方は何にも知らぬから其の様に私をお責め成さるのです、聞いて下さい、何も彼も云いますから」勿論余は聞かねば成らぬ、全体お浦が何うして幽霊塔の書斎の中で紛失したか、又其の後お浦の死骸として堀の中から引き上げられた女の死骸が何うしてお浦でなかったのか、此の辺のことは奇中の奇で、お浦自身の説明を聞く外はない、余「ハイ聞きましょう、貴女も有体に云う方が、罪が滅びます」とは云えお浦は仲々話などの出来そうな様ではない、顔の色青冷めて全身が震えて居る、余は此の様な悪人に手を触れるさえ汚らわしい程に思って居れど、此のまま置いては何の様な事に成ろうとも知れぬ故、先ず助け起こし長椅子へ息(やす)ませようと思い、其の手を取るとお浦は溺れる人の様に余の手に獅噛(しが)み附き、身体の重みを余の腕に打ち掛けた、余は彼の書斎でお浦が紛失した少し前に、丁度此の様に手に縋られ喃々(なんなん)と説かれた時の様を思い出した、余り好い気持はせぬから成る丈早く此の荷物を長椅子へ任せて了った。
 けれど猶話し得そうにも見えぬから、葡萄酒でも呑ませたらと思い、室中を見廻しつつ「浦原さん飲物でも欲しくは有りませんか」お浦は人生の恨みを唯此の一刻に引き集めた様に呻き「ハイ毒薬ならば飲みましょう」と云ったが、更に「イエ、イエ、私は生まれ附き臆病です、飲み度くとも毒薬などは飲み得ません、死ぬる苦痛が恐ろしい、死ねば真暗に成った様な気持がするだろうと夫が恐ろしいのです、道さん、イヤ丸部さん、何にも要らぬから、話す間貴方の手を握らせて置いて下さい、貴方と私は幼な友達では有りませんか」と云い半分ほど身を起こして爾して聊か声を確かにして「私は本統に過ち許り重ねましたが、其の過ちは総て愛と嫉妬から出たのですよ、云わば貴方の為ですよ」
 何から出たにせよ罪は罪、悪事は悪事、少しも許す所は無いが、併し愛と云い嫉妬と云い、事実には違いない、此の女が小児の頃から何かに就けて嫉妬の深かった事は余が知り過ぎるほどに知って居る、殊に其の嫉妬が余が為と云われては、余の身にも幾分か責任のある様に思われ、余は言い訳の如くに「私の為とて、私は貴女に愛せられて居るなどと少しも気が附かずに居たのですもの、又気の附く筈も有りませんワ、既に貴女から爾云ったでは有りませんか、到底私を愛する事が出来ぬから、無理な許婚を取り消して分れよう、其の方がお互いに清々すると」お浦「ハイ爾は云いましたけれど心の中は爾でなく、唯貴方と松谷秀子とが何だか親しい様に見え、夫が気に障って成りませんから、彼の様に云って分れて居れば其のうちに貴方の心が此方へ向く事に成るかと思い夫で伊国(イタリア)へ行きました。帰って来て貴方と秀子の益々親しい様を聞きも視もした時には自分で発狂するかと思いました、ハイ憎い二人、イヤ貴方と秀子とを取り殺して遣り度いと思いました」
 幾等嫉妬の為にもせよ人間の道を踏み迷うに至っては、全く一人前の善心がない者で、善よりも他の念が強いのだから、即ち悪人である、斥けねば成らぬ人間である。それは兎も角も、何しろ余に取っては極めて迷惑な、又極めて危険な問題であるから余は之を聞き度くない、余「イヤ浦原さん過ぎ去った感情はお互いに云わぬ事とし、事実だけを伺いましょう」冷淡過ぎるかは知らぬけれど、余は明らかに斯う云い切って、爾して自分の掛けて居る椅子を少しばかりお浦の傍へ引き寄せ、願いの通り握らせる様に、余の手だけを差し延べて遣った、お浦は幾分か力を得た様子で「ハイ感情は云う丈気分を損じます、忘れましょう、忘れましょう、爾して事実だけ申しましょう」とて余の手を取った、云わば頼みの綱に縋る様な風である。

    第九十九回 今以て大疑問

 余は早く合点の行かぬ廉々(かどかど)から聞き度いと思い「全体貴女が、何うして彼の書斎で消えて了ったか、其が今以て大疑問と為って居ますが」と言い掛けるに、お浦は「イイエ、事の初めから順を追うて申しましょう」と断り、さて愈々説き出した。
「私と根西夫人と伊国の旅館で初めて高輪田長三に逢いました。其の時は何者とも知りませんでしたが、私が幽霊塔の話をすると、彼は忽ち自分が其の塔の今までの持主で、此のほど丸部朝夫氏へ売り渡したのだと云いました、彼は私が其の丸部の養女だと知ってから急に私の機嫌を取る様に成りましたが、私が松谷秀子の身の上を知るに屈強の人に逢ったと思い、充分懇意に致しました、爾して或る時秀子の事を話し、多分古山お酉と云う女中で其ののち米国へ行ったのが、金でも儲けて令嬢に化けて此の国へ帰ったのだと思うが、何うだろうと問いますと、彼は秀子の様子の容貌などを詳しく聞き、イヤ夫はお酉とは違う様だ、若しや其の女の左の手に、異(かわ)った所はないかと問い返しました、左の手は斯々で異様な手袋に隠して居ると云いました所、彼は顔色を変えて驚き、頓て、事に由ると養母殺しの輪田夏子が、何うか云う次第で生き返り姿を変じて現われたのかも知れぬと云いました。
「其のうちに彼は私が深く秀子を恨んで居る事を見て取り、果ては自分の妻たる事を承諾さえすれば共々に力を合わせて其の秀子の化けの皮を剥ぎ、何の様な目にでも逢わせて遣ると云いました、勿論私は彼の妻などに成る気は有りませんけれど一時の手段と心得、夫は随分妻に成らぬ事もないが兎も角も貴方の手際を見ねばとて成るだけ彼を釣る様に答え一緒に此の国へ帰って来たのは貴方が御覧なさった通りです。
「彼は唯一目秀子の顔を見さえすれば直ぐに輪田夏子と云う事を看破すると云い、其の積りで幽霊塔の夜会へ出ましたが、愈々秀子に逢って見ると彼は気を失うほど驚きました、何うでも輪田夏子に違いない様にも見えるけれど、能く見れば又何うしても夏子ではない様に思われる、此の様な不思議な事はない、此の上は左の手の手袋を奪い其の下に何を隠して居るかを見る一方で、之をさえ見れば確かな所を断言する事は出来ると云いました。
「之より私は唯秀子の手袋を奪うのと、貴方に逢って能く自分の心の中を打ち明けることを目的とし其の機をのみ待って居るうち、貴方の仰有る私の紛失の日が来たのです。
「アノ日私は多分貴方か又は秀子かが読書の為に来るだろうと思い、独り書斎へ忍び込んで居りますと、兼ねて長三は私が貴方に心を寄せて居る事を疑い、嫉妬の様な心を以て窃に見張って居ると見え、窓の外へ来て、恨む様な言葉を吐きました、若し彼様な所を貴方にでも秀子にでも見られては何事も面白く行かぬと思い私は長三に其の旨を説き、ヤッと彼を追っ払いました、彼が立ち去ると引き違えて貴方が一方の戸の所から這入って来ました。
「其の後の事は申さずとも御存じの通りです。夫から私は貴方の言葉に失望して、庭の方へ立ち去ると松谷秀子に逢いましたから、寧ろ此の女を貴方の前へ連れて行って、無理にでも左の手袋を取らせるが近道かと思い、話が有るからと云って誘い、引き連れて再び書斎へ行って見ますと最う貴方は居ないのです、居ないのではなく、後で分りましたが大怪我をして声も立たぬほどの有様となって本箱の蔭に倒れ、私と秀子との問答を聞いておいでなさったのです。
「最う序でですから何も彼も申して置きますが貴方の怪我も長三の仕業です、彼は私に追い払われて一旦窓から立ち去りましたけれど、立ち去ったと見せて又引き返し、アノ室の仕組は誰よりも能く知って居る者ですから、壁の間に秘密の道が有ると知り其所へ潜り込んで爾して様子を窺って居た相です、窺って居ると私が貴方に向かいアノ通りの事を云いましたから、彼は貴方が世に有る間は到底(とて)も私を自分の妻にする事は出来ぬと思いましたか、自分では嫉妬の一念に目が眩んだと云いますが私の立ち去った後、貴方が壁の傍へ来て、丁度長三の居る所へ背を向けて立ったのを幸い、ソッと秘密の戸を開き貴方を刺したのだと申す事です」
 長三が其の様な事をするは余に取って左まで意外な事ではない、けれど余は今が今まで確かに彼とは思い得ず、又壁の間などに秘密の戸や秘密の道などが有る事も知らねば、到底説き明かす事の出来ぬ不可思議の事件だと思って居た、是で見るとお浦の口から未だ何の様な意外の事件が説明せられるかも知れぬ。

    第百回 成功の種

 勿論幽霊塔は、奇妙な建築で、秘密の場所のみ多いけれど、彼の書斎の壁の背後に人の隠れる様な所の有るは知らなんだ、探偵森主水さえ看破る事が出来なんだ、此の向きでは猶何の様な不思議の事を聞くかも知れぬと、余が耳を傾くると共にお浦は徐々(しずしず)語り続けた。
「貴方が怪我して、イヤ刺されて本箱の蔭に仆れて居ようとは私も秀子も其の時は未だ知りませんから、誰も聞く人はないと思い、云い度い儘を云い、争い度い儘に争った事は定めし御存じでしょう、爾して争いは私の勝と為り終に秀子の左の手袋を奪い取り其の下を見ましたが、全くお紺婆に噛み附かれた歯の痕が三日月形に残って居て、確かに輪田夏子だと分りました、夏子は痛く驚き怒って、此の秘密を他言せぬ様に堅く誓いを立てねば此の室を出さぬなど云い、甚い剣幕で私へ迫りました。私は之が養母をまで殺し、牢から脱け出て来た女かと思えば、唯の一刻も差し向かいで居るのが恐ろしくなり、何うかして室の鍵を奪い、戸を開いて逃げ出し度いと思い、再び争いを始めました、今度は口だけの争いではなく、身体と身体との争いです、私は鍵を取ろうとする、向こうは取られまいとする、組んづ解(ほぐ)れつ闘いますうち私は滑らかな床に足を辷らせ、自分で□と倒れました、此の時次の室の片隅から苦痛に耐えぬ声が聞こえました。
「是は貴方の声でしたが二人はそうとは知らず、さて聞いて居る人が有ったのかと一方ならず驚きました、けれど何方かと云えば秀子の方が私よりも深く驚いたのです、私は人に聞かれたとて大した迷惑は有りませんのに、秀子は誰にでも聞かれては全く身分を支える事が出来なくなります、夫ゆえ秀子は声を聞いて其の方へ馳せて行きましたが、其のあとで私の紛失と云う奇妙な事が出来たのです。
「お浦の紛失とか浦原嬢の消滅とか云って非常に世間が怪しんだ相ですが、爾まで怪しむにも及びません、私が床に仆れて起き上ろうとして居ると、横手の方から又異様な物音が、最と微かに聞こえました、振り向いて見ると、今まで戸も何もなかった壁の一方に、葢(ふた)を開けた様に戸が明いて居て、爾して、其の所から高輪田長三が顔を出して居るのです、私は何うして此の戸を脱け出そうかと苦心して居る時ゆえ此の様を見て嬉しく思いました、長三は総て様子を聞いて居たと見え、唇へ指を当てて私を招くのです、其の心は声を立てずに密に茲まで来いと云うのです、其の通りに私はソッと立って其所へ行きましたが長三は壁の間の暗い所へ私を引き入れ、何の音もせずに其の戸をしめて了い、爾して云いました、此の様な秘密の道の有る事は自分の外に知る者がないのだから是切り姿を隠して了えば充分秀子を窘(いじ)められると。
「私は、唯秀子を窘めると云う言葉が嬉しく、何分宜しく頼みますと答えました所、長三は私の手を引き壁の間から床の下へ降り、爾して穴倉の様な所へ私を入れて置いて、後ほど迎えに来るから夫まで静かに茲に居ろと云い、其の身は直ぐに立ち去りました、私は何処を何うすれば外へ出られるか少しも案内を知りませんから唯長三の言葉に従い彼の迎えに来るのを待って居る外はなかったのです。
「夜に入って後、彼は迎えに参りました、此の時は忍び提灯を持って居ましたから分りましたが、彼は一方の手に、書斎に在った卓子掛けを持って居るのです、兼ねて私も見覚えの有る印度の織物ですから、何んの為に其を持って来たと問いましたら、無言(だまっ)て見てお出でなさい、これが成功の種に成るのですと答えました、此の時は合点が行きませんでしたけれど、後で分りましたが、堀の中へ或る女の死骸を投げ込んだとき、其の卓子掛けに包みました」
 余は是まで聞いて殆ど恐ろしい想いがした、堀から出た彼の死骸も高輪田長三の仕業で有ったのか、彼の悪事は何れほど底が深いかも知れぬけれど、恐ろしさより先に立つは不審の一念だ、彼の死骸が何者であるかは今以て解釈の出来ぬ問題で、森主水は其の時、死骸に首の無いだけ却って手掛かりが得易いと云い、又其の首は倫敦で尋ねればなどと云ったが、果たして倫敦で充分の手掛かりを得たのであるか、未だ其の辺の事情を聞かぬけれど、兎に角も其の怪しさは今猶昨の如しである、之が今茲でお浦の口から分るかと思えば殆ど後の言葉が待ち遠しく思われ「シタが彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余は問い掛けた。

    第百一回 本統の悪魔

「彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余の問う言葉に、お浦「彼は高輪田が倫敦から得たのです」倫敦から得たと云えば、何うやら森主水の其の時の言葉が全く無根でもなさそうだ、余「エ倫敦から」お浦「ハイ能くは知りませんけれど、何でも解剖院の助手に賄賂を遣り、アノ様な死骸を買って来たのです」開いた口が塞がらぬとは此の事だろう、解剖院から窃に死骸を買い取るなどは何所まで悪智恵の逞しい男だろう。
 お浦「私の見た時は、既に首がなかったのです、多分首は倫敦で其の助手に切り捨てさせ、外の死骸と共に焼くか何か仕たのでしょう、夫だから彼の死骸が何所の何者だと云う事は分りません、何所かの貧民病院で何かの病気で死んだ女だろうと思われます」余「貴女が其の様な恐ろしい目ろみに賛成したとは驚きました」口に斯くは云う者のお浦の今までの挙動を考えて見れば、実は驚くにも足らぬのだ、曾ては秀子を虎の居る室に誘い入れ、其の生命を奪おうとまで仕たではないか、人殺しをさえ目ろむ女が、何事に躊躇する者か、お浦「私も余り恐ろしい事と思い、少しは争いましたけれど、是をせねば秀子に恨みを返す事が出来ぬと云われ、ツイ其の言葉に従う気になり、自分の指環や着物抔(など)を与えました、高輪田は其の指環や着物を以て死骸を私と見擬(みまが)う様にし、彼の印度の織物に包んで堀の中へ投じました」余「此の様な悪事に賛成するほど秀子が憎いとは貴女も能く能くの因果です、秀子の命を奪わねば到底満足が出来ぬと見えますネ」お浦「でも秀子は当然此の世に住む権利のない人間では有りませんか、之を殺すのは唯の人を殺すとは違い天罰を補うのだと高輪田が云いました、私も成るほどと思いましたけれど今では後悔します、ハイ後悔に堪えねばこそ此の通り何も彼も打ち明けて貴方へ申すのです」
 是だけは嘘らしくない、余ほどの後悔に責めらるるに非ずば仲々斯うまで打ち明ける事はせぬ、余「後悔が遅過ぎましたネ」お浦「本統に遅過ぎました、其の後と云う者は犇々(ひしひし)天罰が自分の身へ落ちて来るのかと思われました、アノ死骸が頓て堀から引き出され、貴方の証言で浦原お浦の死骸ではないと分って、全く高輪田の計略が外れたと知れた時は、私は世界の果てへでも逃げて行き度い程に思い、高輪田に其の心を伝えましたけれど、彼は猶慰めて、まだ様々の工夫が有るのだから、気長く仕揚げまで見て居ろと云い、爾して一方では私へ婚礼を迫りました、初めの中なら無論断りましたけれど、斯うまで彼と共に悪事へ深入りをしては最う断る事は出来ません、殊に彼は二言目には私を嚇かし、妻にならずば此の家へ隠れて居る事を世間へ知らせるの、又は自分へ縋って居ねば再び世間へ顔を出す時は来ぬのと様々の事を云いますから、到頭彼の言葉に従い彼と婚礼する事になりました」
 余「エ、此の様に隠れて居て、能く婚礼が出来ましたネ」お浦「ハイ夫は高輪田が巧みに計らいました、彼は私の姿を変えさせ、引き連れて夜汽車に乗り、此の隣りの州へ行き、矢張り之も賄賂の力で貧しい寺の和尚を説き、婚礼の式を挙げさせ、爾して翌々日の晩に此の土地へ帰って来ました」余「其の様に式まで行うた夫婦なら生涯彼の愛を頼みとする外は有りますまい」
 お浦は益々恨めしげに「エ、エ、彼の愛、彼に愛の心などが有りますものか、彼の目的は唯私を元の通り丸部の養女にして爾して叔父の財産を手に入れるのみに在るのです、彼は叔父さんが秀子の為に遺言状を作らぬ先に事を運ばねば了けぬから夫で当分は丸部家へ入り込んで居ねば成らぬと云い、私の許へは帰っても来ぬほどです、私は一人此の室に居て彼の心を考え、次第に恐ろしくなりまして、今では何うしたら宜かろうと唯途方に暮れて居るのです」
 余は是だけ聞いて殆ど目の醒めた想いがした、今まで高輪田長三を何となく怪しい奴とは睨んで居たが斯うまでの悪人とは思わなんだ、是で見ると過る頃から幽霊塔に引き続いた不思議の数々は悉く彼の仕業である、余の怪我も彼、お浦の紛失も彼、怪しの死骸も彼、シテ見れば叔父を毒害する者も彼に違いない、爾だ彼は叔父を殺して其の疑いを秀子に掛けさえすれば、丸部家の財産は、少くとも半分までお浦の物に成ると信じて居る、夫が為に幽霊塔へ詰め切って居るのである、夫が為に此の際疾(きわど)い場合に於てお浦を自分の妻にしたのである、猶此の上に叔父が秀子の為に先頃作った遺言状まで盗んで揉み消して了う積りで居るに違いない、是ほどの悪事を今まで察し得なんだとは我ながら愚の至りである。

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