幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

 今までは証拠に証拠を積み重ねるとも秀子に悪事が有るなどとは決して信ぜず、之が為には全世界と闘うも辞せぬ程に思ったが今は先に立って秀子を罵らねば成らぬ、責めねばならぬ、素性が分れば心の中も能く分った、其の様な悪女で有ればこそ様々に手を盡してついに余の叔父の養女と為ったのだ、其の目的は外でもない、叔父が検事の職分を以て輪田夏子の罪案に対し、死刑を主張した者だから、自分の罪は思わずに唯叔父を恨み、何うかして仇を復そうとて先ず叔父の懐の中へ這入ったのだ、時々密旨を帯びて居る様に云う其の密旨は叔父へ復讐するに在るのだ、夫だからこそ夏子の墓へ詣でるのだ、詣でて死刑の悔しさや怨めしさを毎朝自分の心へ呼び起し復讐の熱心の一刻も冷めぬ様にして居るのだ、思えば、思えば恐ろしい毒々しい根性も有れば有る者、爾して其の心で時々余を煽動(おだて)て、暗に自分の密旨を手伝うて呉れろと云う様に勧め、猶其の上に、或る時は他人の事の様に夏子の事を物語り、又或る時は叔父が何れほど彼の死刑を主張したかと聞き出そうと勉めるなど、思い当る節も多い、爾して今は、何うか斯うか其の目的を達し、到々叔父を毒害する迄に至ったのだ、夫を知らずに唯秀子を助け度い一心で奔走に奔走した余の愚かさも愛想が盡きる。何で今まで気が附かずに居たのだろう。

    第八十四回 最後の一言

 余は全く自分の愚かさと、秀子が素性の穢らわしさとに愛想を盡したと云え、深く心の底に根を卸した愛の情は仲々是しきの事で消えて了う者では無い、唯残念だ、唯情け無い、真に手の裡(うち)の珠をでもなくした様な気持がして、急に身の上が、淋しく心細く成って了った。アア彼の様な者を愛せねば宜ったのに、愛しさえせずば其の素性を聞き、驚きはしようとも斯う絶望はせぬ筈だのに。
 残念、残念と幾度か呟いて、泣き出したい様な気になり、暫し何事も心に移らぬ様で有ったが、頓て先生の声に気が附いた、先生は余の肩を推し「モシ丸部さん、丸部さん、貴方は再び秀子嬢の顔を作り直して貰う為に来たではないのですか、その為でなくば何の為です、貴方の目的は何所に在ります」余は身を悶えて「エエ、其の様な目的ではないのです、貴方に逢えば秀子の素性の清浄潔白な事が分るかと思ってハイ其の清浄潔白を世に知らせる確かな証拠を得たいと思って」先生「オヤオヤ夫はお気の毒です、少しでも秀子の素性を潔白らしく認めたくば私の許へ足踏みをしては成らぬのです、茲は穢い素性ばかり集めてある畜蔵所の様な者ですから、手もなく貴方は反対の方角へ来たのです」余「ハイ是で自分の愚かさに愛想が盡きまして」先生「そう仰有られては私も、何とも早やお気の毒に堪えませんが、と云って先刻受け取った報酬をお返し申す訳には行きません、私は何所までもアノ報酬に対し自分の勤むべき丈勤める覚悟のみならず報酬を得た上で無くば打ち明けられぬ貴重な秘密を打ち明けて、云わば貴方に活殺(かっさつ)の灸所を握られたと一般ですから」
 勿論報酬を返して貰い度いなどとは思わぬ、唯何となく悔しくて殆ど身の置き所もない程故、余は何の当ても決心もなく、徒(いたずら)に室の中を駆け廻った、今思うと定めし気違いじみて居た事だろう。
 頓て余は、再び卓子の前に立ち留り、愛らしい夏子の顔形と美しい秀子の顔形とを見較べた、是さえなくば此の様な辛い思いもせぬだろうにと、男にも有るまじき愚痴の念が湧いて来た、余「先生、先生、貴方が秀子と夏子と同人だという事を証拠立てる品物は、唯此の二個の顔形と、裏に書き附けてある貼紙とだけですか」先生は怪しむ様子で「ハイ勿論是だけです、是だけとはいう者の、之が幾十幾百の他の証拠より有力です」余は少しの間だけれど真に発狂して居たかも知れぬ、「是さえなければ秀子の素性を証明する事は六かしいのですネ」先生「爾ですとも是さえ無くば、少くとも秀子と夏子と同人だと云う事を証明するは、六かしいのみならず殆ど出来ぬ事でしょう」余は此の語を聞くよりも直ちに二個の顔形を手に取り上げ裏の貼紙を引き剥(めく)りて、爾して其の顔形を力に任せて床の上に叩き附けた。
 先生はびっくりして、余の手を遮り「何をなさる、何を成さる」と叫んだけれど後の祭りだ、顔形は極脆(もろ)い蝋の細工ゆえ、早や床の上で粉微塵に砕けて了った、余は猶も飽き足らず先生の手を振り払って顔形の屑(かけら)を粉々に踏み砕いた、先生は呆気に取られ、呆然と見て居たが、又忽ち余を捕え「貴方は余りな事を為さる。其の顔形をなくして置いて、爾して私を其の筋へでも訴える気で」余「イエ、爾では有りません、先刻の三千ポンドで此の秘密を買ったのですから、私の自由に秘密を消滅させて了うのです。此の顔形は私の買い受け品です」先生は余の顔と砕けた顔形、否寧ろ蝋の粉とを見較べた末、聊か安心する所が有った様子で、「イヤまさかに貴方が、私を其の筋へ訴えもなさるまい、顔形を砕かれたのは残念ですが、成るほど三千ポンドの代りと思えば致し方が有りません、断念(あきら)めましょう、貴方も最う長居する用事は有りますまい、サア御勝手にお帰り成さい」云いつつ此の室の鉄の戸を開き余に指し示した。余「勿論長居する事は有りません、帰ります」後をも見ずに立ち去ろうとすると先生は最後の一言を吐いた。「念の為申して置きます、若し是で最う秀子の素性を証明する物がないなどと安心して私をイヤ私の職業を其の筋へ訴えなど成さると間違いますよ、此の顔形は此の頃権田時介氏の注文に由り、別に一組同じ物を作りましたから」

    第八十五回 帽子を眉深に

 権田時介に頼まれて同じ顔形を作ったと云う先生の最後の一語は、嘘か実か、或いは余をおびやかして其の筋へ訴えるのを妨げん計略の様にもあれど、又思えば権田が先に小腋に挾んで去った品が、如何にも此の顔形の箱と同じ物の様にも見えた。
 併し余は深く考える心はない、唯「其の様な事は何うでも宜しい」と言い捨てて此の家を立ち出でた、余ほど時間の経った者と見え、早や夜深(ふ)けて、町の往来も絶えて居る。
 夜中は何うする事も出来ぬ故、宿を尋ねて一夜を明かし、翌日直ぐに英国へ帰って来たが倫敦へ着いたのは、夜の九時頃である、途々の船の中、汽車の中、唯心を動かすは松谷秀子の事ばかりで全体此の後を何う処分して好い事か更に取り留めた思案は出ぬ、秀子が人殺しと脱獄の罪を犯した恐ろしい女で有る事も確かで、復讐の為幽霊塔へ入り込んで既に余の叔父を毒害せんと試みた事も確かである、是だけの所から云えば探偵森主水に次第を告げ秀子を捕縛させる一方である、併し又他の方面から考えれば秀子と余との間は夫婦約束の成り立って居る事も事実、秀子が愈々捕縛せらるれば余と叔父との丸部一家に拭う可からざる不名誉を来たすのも事実である。
 縦し不名誉にもせよ罪人を保護する訳には行かぬ、まして叔父の命を狙い、恐ろしい毒草を隠して居る罪人を、若し保護するに於いては全く人間の道を逆行する者である、と斯う迄は幾度も思い定めるけれど余の心中には猶一点の未練が有る、自分で掻き消すにも掻き消されぬ、勿論斯う成った以上は秀子を余が妻にする訳には行かぬ、けれど何だか可哀相でも有る、茲の思案が決せぬ間は家に帰って叔父に逢う訳にも行かぬ、秀子に逢う訳には猶更行かぬ、余は倫敦へ着いた者の其の後は何うして宜いか暫しがほど躊躇したが、漸くに思い定めたのは、兎に角に権田時介に逢って見ようとの一念である。
 彼抑(そもそ)も何が為に余に先んじてポール・レペル先生を尋ねたか、果たして顔形を得る為とすれば何が為に其の顔形を要し、何が為に其の復写を作らせたのであるか、或いは彼、秀子を余に取られた悔しさに、其の顔形を以て秀子をおびやかす積りかも知れぬ、爾だ、何うせ爾とより外は思われぬ、若し其の様な心とすれば、彼と余との間に於いて秀子の問題を決着させねば成らぬ、孰れにしても逢って話せば分る事だ。
 愈々権田時介の住居の前に着いたのは夜の十時頃である、雨も蕭々(しょぼしょぼ)と降って居て、町の様も静かであるのに、唯不思議なは、何者だか権田が家の入口に立ち、探偵又は盗賊(どろぼう)など総て忍びの職業をする者が用うる様な忍び提灯を高く差し附け門札の文字を読んで居る、爾して余の近づく足音に、其の者は直ちに提灯を消し、コソコソと暗(やみ)の中へ隠れて了った、何者であるか更に想像は附かぬけれど確かに帽子を眉(ま)深に冠り、目には大きな目鏡を掛けて居た様に思われる、通例の人ではなく、他人に認められるを厭う人だと云う事は是だけで分って居る。
 併し余は自分の身に疚(やま)しい所がないから、敢えて恐れぬ、深く詮索の必要が有ろうとも思わぬ、縦しや有った所で実に詮索する便りもないのだ、其のまま余は中に入り権田の室の戸を叩くと、中には何だか話し声が聞こえて居たが、戸の音に連れ、其の声は忽ち止まり、遽しく物など片付ける様な音が聞こえた、余の察する所では密話の相手を次の間か何所かへ退かせたのだ。
 爾して置いて中から戸を開いたのは権田自身である、戸の間から差す燈の光に見れば、彼は肝腎の話を妨げられて忌々(いまいま)しと云う風で顔に一方ならぬ不機嫌の色を浮べて居る、殆ど眉の間に八の字の皺を寄せて居ると云っても好い、彼は余の顔を見て「オヤ丸部さんですか」と云ったが「サアお這入りなさい」とは言わぬ、寧ろ「お帰りなさい」と云い度げに構えて居る、余も爾(さ)る者だ、「御覧の通りです、他の人では有りません」と答えて無躾に戸に手を掛け引き開けて、殆ど権田を拒退(おしの)ける様にして室の中に入り、「先(ま)あ掛けさせて呉れ給え」と有り合わす椅子の上に腰を卸した。

    第八十六回 差し当りの問題

 無理に室の中へ入って、無理に腰を卸した余の無遠慮な振舞いに権田時介は少し立腹の様子で目に角立てて余の顔を見詰めたけれど頓て思い直したと見え「アア何うせ貴方とは充分に話をせねば成りません、寧(いっ)そ今茲で云う丈の事を云い、聞く丈の事を聞くとしましょう」とて、始めて座に就いた。
 余は先ず来意を述べ「今夜来たのは松谷秀子の身に就いて篤と御相談の為ですが、第一に伺い度いは、貴方の両三日来の振舞いです、貴方は巴里のレペル先生の許から顔形を持って来た相ですが其の顔形を何うしました」
 随分短兵急の言葉ではあるが、権田は物に動ぜぬ日頃の持ち前に似ず、殆ど椅子から飛び離れんとする迄に驚いて「エ、巴里のレペル先生とな、何うして其の様な事を御存知です」余は言葉短かに養蟲園の事柄から巴里へ行って来た次第をまで述べ終り、「多分貴方が秀子を劫(おびや)かす為に顔形の複写を作らせただろうと鑑定しましたが、其の複写を何うしました」権田「お察しの通りに致しました、帰ると直ぐに秀子の許へ送りました」余「エ、既にですか」権田「ハイ既にです」余「爾して其の結果は何うなりましたか」権田「私の予期した通りになりました」
 余は今以て秀子を気遣う心が失せぬ、畢竟其の心が失せねばこそ、此の通り権田の許へも立ち寄った訳では有るが、此の言葉を聞いては猶更気遣わしい心が増した、秀子が余の叔父に毒害を試みた事が何うも確からしいとは云えそれでも無暗(むやみ)に秀子を窘(いじ)めて懲らせようとは思わぬ、何うか穏便な取り計いで、余り窘めずに方を附けたい、余「権田さん、夫は甚いと云う者です、秀子は昨今身に余る程の心配を持って居ますのに夫を又劫かすなどとは余り察しのない仕方では有りませんか」権田「イヤそれもこれも総て貴方の所為です、貴方が秀子の心を奪うたから私は止むを得ず邪慳な挙動に出るのです」余「エ何と、私が秀子の心を奪うた」権田「勿論です、秀子は本来私の妻たる可き女です、最う貴方は秀子の素性を能く御存じゆえ、少しも隠さずに云いますが、牢から秀子を連れ出したも私の力、今の通り無事に此の世に居られる事にしたのも私の力です、私は権利として秀子を自分の妻、自分の物と言い張る事は出来ますけれど、唯私の恩を感ずるのみで、私を愛すると云う情の起らぬ者を妻とするも不本意ゆえ、其のうちには愛の心も出るだろうと気永く親切を盡して居るうち、貴方が横合いから出て秀子の心を奪ったのです、全体此の様な事と知れば秀子を貴方の叔父上の家へ入り込ませる所ではなかったのです、唯当人が是非ともと云うに任せ、真逆に貴方に奪われるだろうとは気も附かず其の望みを許したのが私の間違いでした」余は殆ど茲へ故々権田を尋ねて来た主意さえ忘れ「自分の間違いなら間違いで、断念(あきら)めるが好いでは有りませんか、猶も未練を残し、非常な手段を取って、劫かすなどとは何たる仕方(しうち)です」
 権田「イヤ其の様なお説教は今更貴方から受けるには及びません、茲で差し当りの問題は秀子が貴方の物か将(は)た私の物かと云うを極めるに在るのでしょう」余「夫は爾ですが――」権田「爾ならば余計の問題は入りません。唯一言で決します、貴方は秀子の素性を知った上で、猶秀子を妻にする勇気が有りますか」余はグッと詰った。「サアそれは」権田「それはもこれはも入りません、貴方は明日にも叔父上の前へ出て秀子は全くの所、昔幽霊塔の持主お紺婆を殺した犯罪者として裁判所に引き出され、叔父上貴方が死刑を主張した輪田夏子ですが、私は家名よりも夏子を深く愛しますから、直ぐに彼の女と結婚しますと立派に言って、爾して立派に秀子を妻とする丈の勇気が有りますか」余は身を震わせて「妻とする事は最う断念せねば成りませんが、夫でも秀子を愛する事は誰にも劣りません、私は最う秀子の素性を知り、自分の理想が消えて了い、殆ど生きて居る甲斐もない程に思うのです、何うか此の後の秀子の身の落ち着きを安楽にして遣り度いと思い」
 権田「イヤ妻にする事が出来ねば最う何にも仰有るな、秀子の身の上に口を出す権利はないのです、貴方に反して私は、明日にも秀子が承諾すれば、世間へ叫び立てて自分の妻にするのです、之が為に名誉を失おうと地位信用を落そうと其の様な事は構いません、秀子に対する私の愛は貴方の愛に百倍して居るのです」余は大声に「貴方の愛は野蛮人の愛と云う者です、名誉にも道理にも構わず、唯我意を達すれば好いと云う丈で、心ある女は決して其の様な愛を有難いとは思いません、何うして其の様な野蛮人に秀子を任せて置く事が出来ます者か」と云ううち次の室(ま)から何やら物音が聞こえたゆえ、驚いて振り向くと何時からか知らぬが、秀子が次の室と此の室との界(さかい)に立って、余と権田との争いの様を眺めて居る、余は今まで自分の熱心に心が暗み、少しも気が附かなんだけれど、先刻から茲に居たのに違いない。

    第八十七回 三日月形

 秀子が茲に来て居ようとはホンに思いも寄らなんだ、而も一々余の言葉を聞いて居たとは実に気の毒な次第である。
 アア分った、余が此の室の入口へ来た時に、中で何だか話して居る様な声がしたのは秀子であった、外から叩く戸の音に、余が来たとは知らぬから時介が遽てて次の室へ隠したのだ、爾して次の室で聞いて居ると余だと分った故、室の境まで出て来たが、其の身に関する大変な談話だから、出もならず去りもならず、立ちすくんで聞いて居たのだ。
 爾と知ったら余は最っと物柔かに云う所であった、最早妻にする事は出来ぬの、牢を出た身であるのと気色に障る様な言葉は吐かぬ所であった、斯様な言葉をのみ聞いて何れほどか辛く感じたであろう、定めし居耐(たた)まらぬ想いをしたに違いない、いま物音をさせたのも余りの事に聞きかねて気絶しかけ、身の中心を失って蹌踉(よろめ)いた為ではあるまいか、何うも其の様な音であった。
 斯う思って見ると、秀子は全く身を支えかね、今や仆(たお)れんとする様である、其の顔色の青い事其の態度の力なげに見ゆる事は本統に痛々しい、仆れもせずに立って居られるが不思議である。
 秀子の眼は余の顔に注いで居るか権田時介の顔に注いで居るか、寧ろ二人の間の空間を見詰めて爾して目ばたきもせずに居る、アア早や半ば気絶して居るのだ、気が遠くなって、感じが身体から離れ掛けて居るのだ。
 余が斯う見て取ると同時に其の身体は横の方へ傾いて、宛も立木の倒れる様に、床の上へ□(どう)と仆れた、余は驚いて馳せ寄ったが、余よりも権田の方が早く、手を拡げて余を遮り「可けません、可けません、貴方は今自分の口で明らかに秀子を捨てて了いました、秀子の身体に手を触れる権利はないのです、介抱は私が仕ますから、退いてお出でなさい」嫉妬の所為だか将た発狂したのか権田は全く夢中の有様で、秀子を抱き起して一方の長椅子の上へ靠(もた)れさせた。
 見れば秀子は左の前額(ひたい)に少しばかり怪我をして血が浸(にじ)んで居る、仆れる拍子に何所かで打ったのであろう、余は手巾を取り出し、其の血を拭いて遣ろうとするに、之をも権田が引っ奪(たく)って自分で拭いて遣った、全く此の男の恋は野蛮人の恋であると、余は此の様に思いながら熟々と秀子の顔を見たが、真に断腸の想いとは此の事であろう、其の美しい事は今更云う迄もないが、美しさの外に、汚れに染まぬ清い高貴な所が有る、世に美人は幾等も有ろうが斯くまで清浄に見ゆる高貴な相は又と有るまい、顔を何の様に美しくするとも将た醜くするとも、此の何とのう高貴に感ぜられる所だけは取り除ける事も出来ず、附け添える事も出来ぬ、本統に心の底の清い泉から自然に湧いて溢れ出る無形の真清水とも云う可きである。
 或る人の説に相(そう)は心から出る者で、艱難が積れば自ら艱難の相が現れ悪事が心に満つれば、顔の醜美に拘わらず自ら悪相と為り、又善事にのみ心を委ね、一切の私慾を離れて唯良心の満足をのみ求めて居る人は、自ずから顔に高貴の相が出来、俳優(やくしゃ)も真似する事が出来ず画工も彫刻師も写す事の出来ぬ宏壮な優妙な所の備わって来ると云ってある、此の秀子の事が正しく其の宏壮な優妙な所の備わった者ではあるまいか、人を殺し牢を破る様な女が、私慾を離れて良心の満足を求めるなどとは余り不似合に思われもするけれど、何う見ても宏壮で爾して優妙である、悪心などは一点も現れて居ぬ。
 若し、一点だも此の顔に悪意悪心の認む可き所が有ったら、余は何れほど安心したかも知れぬが、唯一点も其の様の所のない為に全身を切り刻まれる様な想いがした、何うして此の女を思い切ることが出来よう、此の女の外には世に「清い」と云う可き者はない、罪あっても罪に染(そ)む顔でない、汚れても汚れはせぬ、之に悪人悪女の様に思うては罰が当るとは、殆ど空畏(おそろ)しい程に思い、腹の底から「オオ秀子さん許して下さい、私は今と云う今、自分の不実、自分の愚かさを思い知りました」と我知らず打ち叫んで、再び権田を跳ね退けて、秀子の身に縋り附こうとすると、権田は猶も強情に遮って「丸部さん、今更何と後悔しても及びません、其の証拠には、コレ之を御覧なさい」と云いつつ、秀子の左手を取って、其の長い手袋を脱(はず)し爾して手首の所を露出(むきだし)にして余に示した、示されて余は見ぬ訳に行かぬ、見たも見たも歴々(ありあり)と見たのだが、是こそは秀子が生涯の秘密として今まで堅く人に隠して居た旧悪の証跡である、お浦が秘密を見届けたと叫んだも之であろう、高輪田長三が曾て夏子の墓の辺で秀子の手を取り争うて居たのも此の証跡を見ん為で有っただろう、証跡とは他ではない、お紺婆が臨終の苦痛に噛み附いたと云う歯の痕である、肉は死骸の口に残り、生涯不治の痕を遺したと幾度か人の話に聞いて居る、見れば全く骨までも達した者で、三日月形に肉が滅して最とも異様に癒え上って居る、余は二目と見る勇気がない、権田時介は余の顰(しか)む顔を見て「ソレネ、是が貴方と秀子とを離隔する遮欄(しゃらん)です、それに反して私は、之がなくば秀子を我が物とする事が出来なんだかと思い之を月下氷人とも崇め做すのです」と云いつつ其の手を取り上げて熱心に其の傷の所に接吻した、余はゾッと身の震うを制し得ぬ。

    第八十八回 逃れる工夫を

 三日月形の創の痕を甞め廻して、権田は聊か心が沈着(おちつ)いたのか、余り気狂いじみた様子も見えなくなった、静かに秀子の其の創の手を弄ぶ様にして居る、爾して彼は説き明かす口調で「丸部さん、私がアノ顔形の復写を何うしたとお思いです、直ぐに私は無名で以て秀子に送り届けました、定めし秀子は驚いたでしょうが、驚かせるのが私の目的です、驚かせて遣らねば秀子は私の許へ来ませんもの」是だけ云って余の顔を見、余が聞き入って居るを見届けて「イヤ全くですよ、秀子は近来、貴方にさえ保護されれば此の世に少しも恐い者はないと思ったか、私へ対しての振舞いが甚く冷淡に成りました。用事の有る時は相談も仕ますけれど、不断は殆ど捨てて顧みぬ有様です、併し私はそう冷淡に取り扱わる可き筈で無い、秀子の為に命の親とも云うべき者です、夫だから何うか此の家へ呼び寄せて悠(ゆっく)り諭し度いと思い、色々考えて見ましたが、夫には顔形を以て威かすに限る、無名で以てアノ顔形を送りさえすれば、秀子は自分の身の弱点を思い出し、此の秘密が消えぬ以上は何うしても権田時介の保護を離れる訳に行かぬと思い、且は顔形の送り主が何者であるか之に対して何の様な処分をすれば宜いか此の辺の相談に必ず私の許へ馳け付けて来よう、来れば何の様な話でも出来ると私は斯う思いました、斯う思って此の通りに仕た所、果して秀子は私の所へ遣って来て纔(わず)かに話を始めた所へ又貴方が来たのです、貴方の為に肝腎の話を妨げられたは遺憾でしたが、イヤナニ今思えば結句幸いになりましたよ、貴方の口から秀子を妻にする事は出来ぬとの一言を私が聞いたのみならず確かに秀子も聞きました、御存じの通り秀子は仲々気位の高い女ですから、アノ一言を聞いた以上は決して貴方の妻には成りません、此の後貴方が何の様に詫びたとて無益な事です」
 余は殆ど死刑の宣告を聞く様な気持がした。余の一言を秀子が此の様に怒るだろうか、怒って何の様な詫びにも心が解けぬ事になるだろうか、斯う思うと実に心細い、今現に目の前に秀子の美しい顔と、其の気絶した傷々しい様とを見て、此の女から生涯疎まれる事に成るかと思うと殆ど一世界を失う様な心地がする、エエ残念、残念と思うに連れ、秀子の犯した罪さえも、何だか左程咎めるに足らぬ様な気がして、腹の中で其の軽重を計って見ると、決して悪意でお紺婆を殺した訳では有るまい、善悪の区別も未だ充分には呑み込めぬ我儘盛りの年頃で、甚く心の動く事が有って我知らず殺すに至ったとすれば随分其の罪を赦しても宜い、殊に其の罪の為に死刑、終身刑の宣告まで受け、牢の中に憂月日を送ったとすれば既に罪だけを償った者では有るまいか、況(ま)してや死人と為って、生まれ変って来て見れば、全く別人の様な者で、前身の輪田夏子の罪の為に、後身の松谷秀子が生涯罪人の様に見做さるるは、視做す方が余り邪慳だ、決して慈悲ある人間の道では無いと、一方から此の様な気が込み上げて来れば又一方からは、幼い時から家庭、学庭、境遇、口碑などに仕込まれた是非善悪の本念が湧き起り、何が何でも罪人を敬愛する道はないと思い、余が心の裡は殆ど火水の戦争である。
 其のうちに秀子は気が附いて、徐ろに目を開き、第一に硝燈の光を見、次に室中を見、権田時介を見、最後に余の顔を見た、幸い手の古傷は権田が既に包み直した後で有った為自ら見なんだ、見廻す中に今までの事を思い出したか、小児の様な力無げな口調で「貴方がたお両人が喧嘩でも成さるかと気遣って茲の境に立って居るうち、アア気絶したと見えますよ。此の様な心弱い事では仕方がないけれど、此の頃苦労な事ばかり引き続いた者ですから」と自分の気絶を詫びる様に云うた。余は茲ぞと思い「ナニ秀子さん最う何の様な苦労が有ろうと心配に及びません、私が附いて居ますから」と云い、権田を推し退けて其の傍に近づくと、何の気力も為さ相に見えた秀子は、殆ど電気に打たれた様に身を起し、腹立たしげ恨めしげに余の顔を見詰めて「再び私の身にお障り成さるな、私は輪田夏子です」と最と苦い言葉を吐いた、如何にも権田の云った通り、気位の高い女で、痛く余の言葉を気に障え、再び余とは交わらぬ程に思って居ると見える、余は憐れむ可き有様と他人が見たら言い相な有様と為り必死の声を絞って「秀子さん、秀子さん、お腹も立ちましょうが其の様に云わずと過ぎ去った昔の事は全然(すっか)り忘れて――」秀子「ハイ貴方と一旦お近づきに成った事まで忘れましょう、最う茲に居る用は有りません、丸部さん、貴方にはおさらばです、爾して権田さん貴方には又お目に掛ります」両人へ別様に挨拶して、未だ定まり兼ねる足を蹈みしめ早や此の室を立ち去ろうとする様子である、余は熱心に「イヤ秀子さん、茲を立ち去る前に何とか無事の地へ逃れる丈の工風を相談して定めませねば」余は秀子が明日にも探偵森主水の為に捕縛されるだろうとの念が有る為に斯う云うた、全く何処か無事の地へ、縦しや当分の間なりとも逃して置く外はない、秀子は此の声に又一入(ひとしお)腹を立つ様に、余に振り向いて「逃れるとは何を逃れるのです、罪もないのに」余「イヤ、探偵森主水が貴女を捕縛する許りに成って居るのをヤット私が二日だけ猶予を請うたのです、二日の間に私は貴女の清浄潔白な証拠か証人かを得る為に巴里へ行き、今帰る所ですが、既にお聞きの通り其の目的を達せずに来たのですから、茲で三人の智恵を以て、何うか当分の貴女の身の隠れ場所及び其の方法を定めねば」余の言葉の未だ終らぬに戸の外から「イヤ二日の猶予は既に切れたのですから其の相談の無益と云う事をお知らせに、ハイ此の森主水が参りました」と云って此の室へ這入って来る者が有る、見れば確かに、先刻忍び提灯で此の家の門札を読んで居た怪しい男である、是が森主水であったとは驚いた。

    第八十九回 呼吸の根

 探偵森主水は何しに来た、松谷秀子を捕縛に来た、エエ、彼の来るのが今半時も遅かったなら、余は充分秀子を逃す丈の手続きを運んだ者を、其の相談の未だ定まらぬ中に遣って来たとは、其所が探偵の機敏な所とは云え折も折、時も時だ、実に余は驚いた、余のみでない権田時介も驚いた、松谷秀子も驚いた、暫し三人で顔見合わす許りである。
 一人驚かぬは森主水だ、彼は先にも記した通り大きな眼鏡を掛け、自分の面相を変えては居るが三人の驚く様を平気で見て憎らしいほど落ち着いて、徐ろに其の眼鏡を取り外し、冷かに笑って「アハハハ、此の眼鏡が大層役に立ちました、是がなければ丸部さん此の門口で貴方に気附かれる所でしたよ、実は此の婦人が」と云いつつ秀子の方を目で指して「幽霊塔を出る様子ゆえ、或いは世に云う風を喰って逃げ出すのでは有るまいかと、姿を変えて後を尾けて来たのですが、イヤ逃げ出す為ではなかったけれど、尾けて来た甲斐は有りましたよ、何も彼も戸の外で立ち聴きして、今まで合点の行かぬと思ったことも皆合点が行きました、全体立ち聴きと云う奴は余り気持の好い者でなく、又、余り安心して居られぬ仕事でも有りませんけれど、此の様な功能があるから、此の職業では用いずに居られません、丸部さん、丸部さん、貴方も口ほどには信用の出来ぬ方ですねえ、決して松谷秀子を逃さぬと私へ固く保証し、其の保証の為に二日間の猶予を得て置いて爾して御自分が先に立って秀子を無事の地に逃れさせる議を持ち出すなどとは、併しナニ茲が痴情の然らしむる所でしょう、私としても貴方の地位に立てば貴方と同様のことを目論むかも知れませんから先ア深くは咎めますまい、兎も角も貴方の其の目論見を妨げて、貴方が法律上の罪人に成るのを喰い止めたのは何よりも幸いです、他日貴方も痴情が醒め、静かに考え廻して見れば実に好い所へ森主水が来て邪魔して呉れた、彼が来なくば全く罪人を逃亡させる容易ならぬ罪に触れる所で有ったと御自分で私を有難くお思いなさる、ハイ夫は必ずですよ」
 自問自答の様に述べ終って、更に容儀を正して爾して秀子の方へ振り向いた、此の時まで余は唯呆気に取られ殆ど茫然として居たが、彼が容儀を正すを見て、初めて真成に秀子の身の危険な事を暁(さと)った、彼は容儀の改まると共に、全く厳めしい法律の手先と云う威厳が備わり、何となく近づき難い所が現われた、権田時介も余と同様に、此の時初めて秀子の危険を知り、容易ならぬ場合と思ったか、電光の様に余に目配せした、余も同じく目配せした、目配せの中には暗々(やみやみ)秀子を渡して成る者かと云う意味が籠り充分互いに通じて居る。
 森主水は秀子に向かって「モシ、輪田夏子さん綽名(あだな)松谷秀子嬢、貴女を茲で捕縛するは私の最も辛く思う所ですが、私情の為に公の職務を怠る訳には行きません、養父丸部朝夫に対し毒害を試みた嫌疑の為に、貴女は唯今から私の捕縛を受けた者とお心得なさい」丁寧な言葉では有るけれど、其の意味は「御用だぞ、神妙にせよ」と叱り附けるのと少しも違いはない。
 アア養母殺しの輪田夏子、死刑終身刑の宣告を受け、首尾よく牢を脱け出だして松谷秀子と生まれ代わり今は又養父殺しの罪に捕わる、業か因果か、無実の罪か抑(そもそ)も又覿面(てきめん)の天罰か。
 余と権田とは再び眼を見交わせた、船を同じくして敵に合わば呉越も兄弟、今まで競い争うた恋の敵も、秀子捕縛の声の為には忽ち兄弟の様に成って、言い合わせる暇もないが、早くも二人の間に分業の課が定まり、時介は飛鳥の様に室の入口に飛んで行き、其の戸に堅く錠を卸し、猶念の為にと自分で戸を守って居る、此の心は探偵を其の室から此のままは帰さぬ積りであろう、余も其の呼吸に少しも後れず、直ちに後ろから森主水に飛び附いて、抱きすくめ、爾して其の顎をば拉(ひし)げるほどにしめ附けた、之は声を立てさせぬ用心である。此の様な事には余の大力が最も適して居る、権田とても随分頑丈な男では有るが、荒仕事に掛けては大力の評判の有る余に及ぶ筈はない、彼自らそうと知って其の身は戸を守る役を勤め荒仕事を余に振り分けたは当意即妙と賞めても好い、探偵は余の手の内で悶くけれども宛も悪戯児供の手に掛かった人形の様である、グーの音も出る事でない、権田は此の様を見て「好く遣った、其の手を少しでもお弛め成さるな、探偵などと云う者は得て呼子の笛を鳴らします、其の笛を鳴らしたら、万事休焉(きゅうす)です、今に私が呼吸の根を止める道具を持って来ますから」と云って次の室へ退いた。

    第九十回 鸚鵡返し

 探偵森主水の呼吸の根を止めると云って、権田時介は何の様な道具を持って来る積りか知らん、次の室へ這入って了った。まさかに探偵の息の根を本統に止める訳には行かぬ、余には余だけの考えがある。
 けれど森主水は必死の場合と思ったか、時介の恐ろしい言葉を聞いて益々悶掻き始めた、余は実に気の毒に堪えぬ、然り余の心には充分の慈悲があるけれど余の手先には少しも慈悲がない、彼が悶掻けば悶掻くだけ益々しめ附ける許りである、此の様を見兼ねたか、松谷秀子は青い顔で余の前に立ち「此の方が幽霊塔で私の挙動を見張って居た探偵ですか、若しそうならば何うか其の様な手荒な事を仕て下さるな、私の為に人一人を苦しめるとは非道です、私は捕縛せられようと、何うされようと最う少しも構いません」健げなる言い分では有るけれど余は唯「ナアニ」と云って聞き流した、思えば実に邪慳な乱暴な振舞いでは有る、余は自分で自分が非常な悪人に成った様に感じた、若し他人が女の為に探偵を此の様な目に逢わせたならば余は其の人を何と云うであろう、決して紳士と崇めは仕まい、それもこれも皆秀子の為だから仕方がない。
 其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を食(は)ませて置く積りと見える、余の了見とても詰りそれに外ならぬ、唯秀子を無事に落ち延びさせる迄此の探偵の手足の自由を奪い、爾して声を出させぬ様に仕て置けば宜いのだ、時介は余に向かい「丸部さん、少しも手を弛めては了ません、足の方から私が縛りますから、ナニ私は水夫から習って繩を結ぶ術を心得て居りますよ、私の結んだ繩は容易に解ける事では有りません」と云い早や探偵の両足を取り、グルグル巻に巻きしめて縛り始めた。
 森主水は幾等悶掻いても到底余の力には叶わぬと断念(あきら)めたか悶掻く事は止めた、其の代わり彼の眼には容易ならぬ怒りの色を浮かべ、余の顔を睨み詰めた、人を睨み殺す事の出来る者なら余は此の時睨み殺されたに違いない、たとい決心はして居る身でも、斯う睨まれては余り宜い心地はせぬ、何とか、言葉だけででも慰めて遣り度い、余「森さん、森さん、恨めしくも有りましょうけれど、ナニ全く貴方の為ですから我慢なさい、今此の通り貴方の自由を奪わねば、貴方は罪のない秀子を捕縛し、職務上の失策として後々まで人に笑われますよ、先刻貴方は好意を以て、私が罪人を助ける罪を妨げて遣るのだと仰有ったが、今は其のお礼です、私も厚意を以て、貴方の職務上の大失策を妨げて上げるのです、ナニ秀子が無事に落ち延びて、貴方の手の届かぬ所へ行けば、直ぐに貴方を解いて上げます、其の時には解いたとて貴方が失策をする種が有りませんから」と殆ど鸚鵡返しの様に云うた、彼の心が此の言葉に解けたか否やは判然せぬ。
 彼は物言いたげに口を動かそうとするけれど、其の顎をしめ附けて居る余の手が少しも弛まぬから如何ともする事が出来ぬ、唯犬の唸る様な呻き声を発する許りだ、秀子は此の様を見、此の声を聞き「丸部さん、何うあっても其の方を許して上げぬのですか」と云い、更に権田時介に向かい「貴方は紳士の名に背く様な卑怯な振舞いはせぬと先刻も仰有ったでは有りませんか、此の様な振舞いが何で卑怯で有りませんか、何で紳士の名に負(そむ)きませんか、私の名を傷つけまいと思うなら、何うか其の繩をお捨てなさい」権田も一様に聞き流して、早や腰から手から首の所まで、宛も簀巻(すまき)の様に森主水を縛って了い、最後に猿轡をまで食ませ終った、権田「サア丸部さん是ならば呼吸の根を止めたのも同様です、次の間へ運んで暫く押入れの中へ投げ込んで置きましょう」言葉に応じて余は彼の首を、権田は彼の足の方を、双方から捕えて舁ぎ上げ、次の間へ運んで行き、瓦礫(がらくた)道具でも扱う様に押入れの中へ投げ込んで戸を閉じた。

    第九十一回 真に烈女

 手も足も首も胴も、長い繩でグルグル巻に巻き縛られては、幾等機敏な森主水でも如何ともする事は出来ぬ、余と権田とに舁ぎ上げられ、手もなく次の室へ運ばれて押入れへ投げ込まれたは、実に見じめな有様である。
 余は彼を次の室へ運びつつも、秀子が何の様に思うて居るかと、横目で其の様を見たが、秀子は青い顔を益々青くし、唇を噛みしめて、爾して一方の壁に靠(もた)れ、眼は只室内を見詰めて居る、全く心中に容易ならぬ苦しみが有って、非常の決心を呼び起こそうとして居るのだ、或いは自殺でもする気では有るまいか。
 之を見ると実に可哀相である、世間の娘達は、猶だ是位の年頃では浮世に艱難の有る事を知らず、芝居や夜会や衣服や飾物に夢中と為って騒いで居るのに、如何なれば此の秀子は牢にも入り死人とも為り、聞くも恐ろしい様な境涯にのみ入るのであろう、犯せる罪の為、心柄の為とは云う者の、斯くまで苦しき思いをすれば大抵の罪は亡ぶる筈だ、最う既に亡び盡して清浄無垢の履歴の人より猶一層清浄に成って居るかも知れぬ。
 此の様に思いつつ元の室へ出て来ようとすると権田は背後から余を引き止め「お待ちなさい、茲で相談を極めて置く事が有ります」余「エ茲で、茲では森主水に聞かれますが」権田「構いません、爾ほど秘密のことではなく、殊に秀子の前では言いにくい事柄ですから」余「では聞きましょう、何の相談です」権田は今探偵を投げ込んだ其の押入れの直ぐ前に立ったまま「是から秀子を逃がすとしても、只一人で逃がす訳にも行かず、貴方か私か随いて行って、愈々之で無難と見届けの附く迄は一身を以て保護して遣らねば成りませんが、其の任は何方が引き受けます、貴方ですか、私ですか」
 余は縦しや秀子を我が妻には為し得ぬ迄も、永く後々まで有難い人だと秀子の心に善く思われたい、茲で保護の役を引き受ければ外の事は兎も角も充分恩を被せる事が出来るから、少しも躊躇せず「夫は無論私が勤めます、貴方は弁護士と云う繁忙な身分ですから」権田「イヤお為ごかしは御免です、職業などは捨てても構わない決心です」余「そう仰有れば私の方は命でも捨てて宜い決心ですが」権田「イヤ斯う争えば果てしがない、寧その事、秀子に選ばせる事に仕ましょう、選ばせるとは聊か心細い手段では有るけれど仕方がない」余「宜しい」と云って承知し、二人で元の室へ帰って見た。
 オヤオヤ何時の間にか肝腎の秀子が、居なくなって居る、察するに秀子は、今し方唇を噛みしめて非常な決心を呼び起こそうと仕て居る様に見えたが、全く決心が定まって何処へか立ち去った者と見える、錠を卸して有った入口の戸が明け放されて居る、兼ねて権田が、何時でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」
 早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は後(おく)れたのだ、ハテな秀子が此の汽車へ乗ったか乗らぬかと気遣いつつ其の汽車を見て居ると、一等室の窓からチラリと秀子の姿が見えた、さては全く幽霊塔へ帰るのだナと是だけは先ず安心し、次の汽車は何時かと時間表を検めると今のが真夜中の汽車で、次のは午前一時半の終列車だ、猶だ一時間半だけは権田と相談する事が出来ると、気を落ち着けて、茲で電報を認め、秀子へ向けて兎も角も一二日は安心だから余の帰るまで幽霊塔を去る勿れとの文意を送り、爾して約の如く又権田の許へ引き返した、全体権田が何の様な事を云う積りだか、聞き度くも有り聞き度くもなしだ。
 権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」

    第九十二回 貴方は人間

「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。
 とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。
 若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど清くして殆ど超凡脱俗とも云い度い所がある、此の様な稀世の婦人が何で賤しい罪などを犯す者か。
 余が初めて秀子の犯罪をポール・レペル先生から聞いた時、何れほど之を信ずるに躊躇したかは読者の知って居る所である、余は顔形の証拠に圧倒せられ、止むを得ず信じはしたが、決して心服して信じたでは無い、夫だから信ずる中にも心底に猶不信な所があって動(やや)ともすれば我が心が根本から、覆(くつがえ)り相にグラついた、其の故は外で無い、唯秀子其の人の何の所にか、到底罪人と信ず可からざる明烱々(めいけいけい)の光が有って、包むにも包まれず打ち消すにも打ち消されぬ如く感ぜられる為で有る。
 爾れば意外であるけれど、其の意外は決して、罪人と聞いた時の意外の様に我が心に融解し難い意外では無い、罪人と聞いた時には余は清き水が油を受けた様に心の底から嫌悪と云う厭な気持が湧き起こって、真に嘔吐を催す様な感じがした、決して我が心に馴染まなんだ、今度は全く之に反し、一道の春光が暖かに心中に溶け入って、意外の為に全身が浮き上る様に思った、極めて身に馴染む意外である、此の様な意外なら幾等でも持って来いだ、多ければ多いだけ好い、縦しや信じまいとした所で信ぜぬ訳に行かぬ、心が之を信ぜぬ前に早や魂魄が其の方へ傾いて、全く爾に違い無いと思って了った。
「エ、貴方は真に其の事を知って居ますか」とは余が第一に発した言葉である、権田「知って居ますとも、今では其の犯罪人が秀子で無い、此の通り外に有るのだと証明する事が出来ます、貴方に向かっても世間へ向かっても、法律に向かっても立派に証拠が見せられるのです、其の証拠を見せるのも、見せぬのも別言すれば罪人が外に在るなと証明するも証明せぬも、単に私の心一つですと云い度いが、実は丸部さん貴方の心一つですよ」余「エ、エ、貴方は、其の様な証拠を握って居ながら、今までそれを証明せずに秀子を苦しませて置いたのですか、全体貴方は人間ですか」と余は目の球を露き出して問い返した。
 権田「イヤ先ア、そう遽て成さるな、決して知り乍ら故と証明せずに居た訳では無い、纔かに此の頃に至って其の証拠を得たのです、尤も私は秀子の件イヤ輪田夏子の件を弁護した当人ですから其の当時幾度も秀子即ち夏子の口から全く此の人殺しは自分で無いとの言葉を聞き大方其の言葉を信じました、信ずればこそ一生懸命に肩を入れ充分弁護しましたけれど、如何せん其の時は総ての事情が秀子に指さして居る様に見え、私も反対の証拠を上げ得なんだ者ですから、弁護も全く無功に帰し、秀子即ち夏子は殺人の刑名を受けましたけれど、其の時私は秀子に向かい、真に貴女が殺さぬ者なら、遅かれ早かれ終には誠の罪人の現われ、何所にか其の証拠が有りましょうから、貴女が牢に入って居る間に私が其の証拠を捜しますと受け合い、秀子も亦、甘んじて此の乱暴な裁判に服する事は出来ぬから、何の様な事をしてなりと牢を抜け出で、盡くすだけの手を盡くして、縦んば唯の一人なりとも此の世に輪田夏子は殺人の罪人でないと信ずる人の出来る様にせねば置かぬ、此の目的の為には自分の生涯を費やす覚悟だと殆ど眼に朱を注いで私へ語りました、即ち秀子が牢を脱け出たも其の結果です、牢に居ねばならぬ義務の有るのに牢を抜け出る世間の脱獄者とは聊か違うのです、牢に居る可き筈がないのに唯法律の暴力の為に圧せられて、止むを得ず牢に居るから及ぶ丈の力を以て其の暴力の範囲から脱け出たのです、脱け出て後も、今日まで全力を其の目的の為に注いで居たのでしょう」
 是で見れば秀子が密旨と云ったのも多分は其の辺に在ったであろう、尤もそれだけとしては猶多少合点の行かぬ所も有りはするけれど、兎に角大体の筋道だけは分った、余は殆ど目の覚めた気持がする。

    第九十三回 そこが相談

 余は何も彼も打ち忘れて喜んだ、「成るほど権田さん、アノ裁判は間違いに違いない、秀子が人殺しなど云う憎む可き罪を犯す女でない事は誰の目にも分って居ますよ」権田は嘲笑って「爾ですか、誰の目にも分って居りますか、実に貴方は感心ですよ、自分の妻と約束までした女を、ポール・レペル先生から人殺しの罪人だと聞けば直ぐに其の気になり、今又私から罪人でないと聞けば、何の証拠も見ぬうちに又成るほどと合点成さる、実に暁(さと)りが早いですネエ」余は殆ど赤面はしたけれど「ハイ証拠を見ずとも是ばかりは信じます、秀子の容貌、秀子の振舞いなどが百の証拠より優って居ます」
 斯う云い切って更に考え見れば、唯喜んでのみ居る可き場合でない、愈々其の様な清浄無垢の女なら早く其の清浄無垢が世に分る様に取り計って遣らねばならぬ、余「イヤ権田さん、私が軽々しく有罪と信じ又無罪と信ずる反覆は如何にも可笑しいでしょう、之は何の様な嘲りでも甘受しますが、夫よりも先に其の秀子の清浄な証拠と云うのを世に示そうでは有りませんか、世に示して秀子の濡衣を乾して遣りましょう」権田は何故か返事をせぬ、余は迫き込んで「エ、権田さん、二人で声の続く限り世間へ対して叫ぼうでは有りませんか、殊に秀子は今既に養父殺しと云う二度目の恐ろしい嫌疑をさえ受けて居りますから、差し当りアノ森主水にも其の証拠を示し秀子が少しも罪など犯す汚れた履歴でない事を知らせ、此の差し掛かった厄難を払って爾して取り敢えず秀子の身を安泰にして遣りましょう、サア其の証拠は何所に在ります茲へお出しなさい、サア茲へ」
 権田は重々しく落ち着いて「其所が即ち相談です、貴方と私との間に確たる相談の極った上でなくては」余「相談は極ったも同じ事です、私は何の様な相談にでも応じますよ」権田「そう早まらずと、静かに私の言葉からお聞き成さい、第一貴方は秀子を救い度いと断言しますか」余は燥(いら)って「何で其の様な余計な事をお問い成さる、秀子を救わずに何としましょう」権田「所が之を救うには余ほどの決心が要るのですよ、非常に辛い事を耐えねば可けませんよ」余「何の様な事でも平気で耐えます」権田「宜しい、其の一言を聞けば安心して言いますが、秀子を救うには、是から貴方は幽霊塔に帰り、秀子に向かって明らかに宣告成さい、和女(そなた)は人殺しの罪に汚れた身で到底此の丸部道九郎の妻には出来ぬのみか此の家へ置くも汚らわしいから用意の出来次第に此の家を立ち去って呉れと」余「エ、夫は何の事です」権田「何の事でもない、秀子を救う第一着の準備です」
 奇怪な事を云う者かな、罪人でない者に、罪人と言い聞けるが濡衣を乾す準備とは真に有られもない言い種である、余「何で其の様な事が準備です」
 権田「そう云わねば、秀子が貴方へ愛想を盡さぬのです、先刻既に貴方へ愛想を盡した様に見えましたけれど、アレは真正に愛想を盡したのではなく、一時腹を立てたのです、貴方を恨んだのです、恨むとか腹を立てるとか云うのは猶だ充分貴方を愛して居る証拠で、愛想を盡すときと余ほどの違いです、真に愛想を盡したなら恨みもせず怒りもせず、只賤しんで、最早取るにも足らぬ男だと全く貴方を度外に置くのです、貴方は真に秀子を救い度いなら、此の通り度外に置かれる事になる様にお仕向けなさい」余「ダッテ権田さん秀子はアノ通り心の堅固な女ですから一旦私に愛想を盡せば、縦しや其の身が救われた後と成っても、決して其の盡した愛想を回復することは有りません、生涯私を度外に置きますが」
 権田「無論です、生涯貴方を度外に置き、秀子の眼中に全く丸部道九郎と云う男のない様に成らねば救うことは出来ません」
 此の様な奇怪な言い分が世に有ろうか、世は唯呆気に取られ「権田さん貴方の言う事は少しも私に分りません、何で秀子が生涯私を賤しむ様にならねば其の濡衣を乾す事が出来ませんか。其の様な其の様な理由は何所に在ります、夫も明白に説き明かし、私の心へ成るほど合点の行く様に言い立てねば、私は遺憾ながら貴方を狂人と認めます、貴方の言葉は少しも辻褄が合わず全く狂人の囈語(たわごと)です」権田は怒る様子もなく「左様さ、狂人の囈語なら少しも貴方へお気の毒な思いは致しませんが、狂人の囈語でなく、全く此の外に秀子を救う道がないから残念です」余「とは何故です、何故です」
 権田「一口に申せば、貴方へ心底から愛想を盡さぬ以上は、秀子は決して此の権田時介の妻に成りません、時介の妻にならねば、時介は決して救うて遣る事は出来ません。持って居る証拠を握り潰します、ハイ是は最う男子の一言で断言します、是でお分りに成りましたか」アア彼の言葉は全く嫉妬に狂する鬼の言葉だ。

    第九十四回 血を吐く思い

 人が井戸の中に落ち込んで居るを見て、誰か救うて遣り度いと思わぬ人が有ろうか、人が無実の濡衣に苦しんで居るのを見て、誰か其の濡衣を乾して遣り度いと思わぬ者が有ろうか、若し有れば其の人は鬼である。
 況(ま)して其の濡衣たるや養母殺し養父殺しと云う大罪で其の人は自分の愛し憐れみ尊敬する女である、其の女を大罪大嫌疑から救い出すのに、自分の妻に成らねば厭だとは是が人間の言葉で有ろうか、余は暫し呆れて権田時介の顔を見詰めて、殆ど一語も発する事が出来なんだが、彼も余の言葉を聞く迄はと云う風で一語を発せぬ。何時まで黙って居たとて果てしが無いから余は竟(つい)に「権田さん貴方の云う事は余り甚いでは有りませんか、秀子が自分の妻に成らねば救うて遣る事は出来ぬなどと」権田「左様さ、或いは甚いかも知れませんけれど、是は他人から評す可きで貴方から評せらる可き事柄では有りません」余「何んで」権田「其の甚さは貴方とても同じ事ですもの、貴方とても仔細に心の裡を解剖して見れば矢張り自分の妻にせねば救わぬと云うに帰するでは有りませんか」余「ナアニ私は其の様な卑劣な了見では――」権田「其の様な卑劣な了見ではないとならば、直ちに幽霊塔へかえり、私の申す通り、秀子に心底から愛想を盡される様にお仕向け成さい、貴方が秀子に愛想を盡させさえせば秀子は終に私の妻、サア私の妻に極まりさえせば三日と経ぬうちに其の汚名は消えますから」余「だって夫は」権田「だって夫はと云う其の心が即ち私と同じ心では有りませんか、秀子を救うて自分の妻に仕たい、縦しや救うにも自分の妻にせねば詰らぬと斯う云うに帰着します、自分の妻にせねば救わぬと云う私の心と何の違いが有りますか、若し違うとならば茲で明らかに私に向かい、秀子を妻にせずとも宜いから何うか汚名だけ助けて呉れと何故斯う仰有いません」
 なるほど斯う云われて見れば、余の心とても権田の心と大した違いはないか知らん、妻にせずして唯救うだけでは何だか飽き足らぬ所が有る、エエ余自らも人と云われぬ鬼心に成ったのか、茲で全く秀子を思い切り、秀子に生涯の愛想を盡される様にして爾して秀子の助かる道を開かねば成るまいか、折角清浄無垢の尊敬す可き女と分った所で、直ちに愛想を盡される仕向けをせねば成らぬとは余り残念な次第では有るが、之を残念と思うだけ余の心も権田の鬼心に近づくか知らん、残念残念、何とも譬え様のない残念な場合に迫ったものだと身を掻きむしる程に思うけれど仕方がない、「権田さん貴方の言葉は実に無慈悲な論理です」権田「貴方の言葉もサ」
 余は太い溜息を吐いて「権田さん、権田さん、私が若し茲で、何うしても生涯秀子に愛想を盡される様な其の様な仕向けは出来ませんと言い切れば何と成さいます」権田「爾言い切れば何とも致しませんよ、私は貴方の様に何時までも女々しく未練らしくするは嫌ですから、夫なら御随意に婚礼成さい、お目出度うと云って祝詞を述べてお分れにする許りです」余「夫で貴方は満足が出来ますか」権田「出来ますよ、恋には負けても復讐には勝ちますから、ハイ恋は一時の負、復讐は生涯の勝」余「復讐とは何の様な」
 権田「貴方と秀子と婚礼するのが即ち復讐に成りますよ、先ア能くお考えなさい、貴方が秀子を妻に仕ましょう、貴方は秀子を潔白な女と思っても世間では爾は思いません、何時何人の手に依ってアノ顔形が世間に洩れ今の丸部夫人は昔養母殺しで有罪の裁判を経た輪田夏子だと世間の人が承知する事に成るかも知れず、イヤ縦し顔形は現われぬとしても探偵森主水の口から夫だけの事が直ぐに公の筋へ伝わります、秀子は無論此の国に居る事が出来ず貴方と共に此の国此の社会と交通のない他国の果てへ逃げて行く一方です、逃げて行っても何時逮捕せられるか一刻も安心と云う事がなく風の音雨の声にもビクビクして、三年と経たぬうちに年が寄ります、早く衰えて此の世の楽しみと云う事を知らぬ身に成って了います、爾して貴方に対しても妻らしい嬉しげな笑顔は絶えてなく夜になると恐ろしい夢に魘(うな)され、眠って居て叫び声を発する様な憐れな境界に成るは必定です、此の様な事に成って夫婦の幸いが何所に有りましょう、爾して貴方は此の妻が少しも斯様に世間や物事を恐れるに及ばぬ身だと知って居ながら少しも夫を証明する事は出来ず、少しも妻の苦痛を軽くする事は出来ず、アノ権田の妻に仕て置いたなら女傑とも烈女とも云われ充分尊敬せられて世を渡る事の出来る者を、己の妻と仕た許りで此の様な苦しみをさせるものだと、自分で気を咎める念が一日は一日より強くなり、貴方も安き日とてはなく、丁度自分の妻と能く似た陰気な夫婦が出来ましょう、私は之を思うて満足します、イヤ一時の恋の失敗を耐えるのです、モシ丸部さん貴方は本統に人間です、決して鬼では有りませんよ、自分の愛する女が、立派に此の世を送られる道があるのに只自分の一時の満足の為に其の女の生涯の幸福を奪い、人殺しと云う恐ろしい罪名の下へ女の一生を葬って了おうと云うのですから、貴方の愛は毒々しい愛と云う者です、人を殺す様な愛です、女に一生を誤らせる様な愛です、秀子も後で此の様な次第を知れば定めし有難いと思いましょう、爾して貴方を邪慳な人だなどと恨みはしまい、何つか其の愛で秀子を濡衣の中にお埋めなさい」
 何たる恐ろしい言葉ぞや、余は此の時介を敵としては到底秀子の生涯に何の幸福もないを知った、余が秀子と婚礼すれば其の日から此の男は直ちに復讐の運動を始め、真に余と秀子とを不幸の底へ落とさねば止まぬであろう、日頃は仲々度量の広い、男らしい男で、幾分の義侠心を持って居るのに恋には斯うまで人間が変る者か、真に此の男の愛は余の愛よりも強いには違いない、夫を知って猶も秀子を我が妻とし、今此の男の云うた様な儚い有様に若しも沈ませる事が有っては、全く余の愛は毒々しい愛と為る、幾等残念でも此の男に勝利を譲る外はない、余は断乎として「承知しました、権田さん、秀子を貴方の妻になさい」血を吐く想いで言い切った。

    第九十五回 証拠とは何の様な

 余は全く降参した。「秀子を貴方の妻になさい」と権田に向かって言い切った、真に血を吐く想いでは有るけれど是より外に仕方がない、斯うせねば到底秀子の汚名を雪(そそ)ぎ、秀子に其の身相当の幸福な生涯を送らせることは出来ない、斯うするのが秀子に対する真性の愛情と云うものだ。
 権田は別に嬉し相にもせぬ、宛も訴訟依頼人に対して手数料の相談でも取り極める様な調子で「なるほど流石は貴方です、夫でこそ清い愛情と云う者です、併し一歩でも今の言葉に背いては了ませんよ、秀子に対して、何所までも其の有罪を信ずる様に見せ掛け貴方の方から愛想を盡したと云う様に仕て居ねばなりません、爾して居れば秀子は必ず貴方を賤しみ、斯うも軽薄な、斯うも不実な、斯うも浅薄な男を今まで我が未来の所天(おっと)の様に思って居たは情け無いと、貴方の傍へも来ぬ事になりますから、其の後は私の運動一つです、其の機を見て私が親切を盡せば、貴方の不実と私の実意とを見較べて、漸く心が私の方へ転じ今日貴方を愛する様に私を愛し始めます、宜しいか、少しも貴方は秀子に向かい機嫌を取る様な素振りを見せては了ませんよ、秀子の貴方に愛想を盡す事が一日遅ければ、其の汚名も一日長く成るとお思いなさい、長くなる中に時機を失えば取り返しが附きませんから」余は涙を呑んで「宜しい、分りました、けれど秀子を救うのは直ぐに着手して下さらねば」権田「無論です、私の未来の妻ですもの、貴方から催促が無くとも早速に着手します、救うて遣って親切に感じさせる外に私の手段は有りませんから」

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