幽霊塔
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著者名:黒岩涙香 

貴方の眼力には驚きました」と褒める様に云い、直ぐに調子を変えて「所で私へのお話とは何事です」と軽く問うた。
 余は何事も腹蔵なく打ち明け呉れと頼んで置いて、爾して何故に秀子へ恐ろしい嫌疑が掛かったかと詳しく聞いたが、成るほど仔細を聞けば尤もな所も有る。
 彼の言葉に依ると余が彼の穴川甚蔵を追跡して此の家を去った日の未だ暮れぬうち、余の叔父は兼ねて言って居た通り法律家を呼んで遺言書を作り、余と秀子とを丸部家の相続人に定め、余には未だ言い渡さぬけれど秀子には直ぐに其の場で全文を読み聞かせたと云う事だ。スルト翌日の朝になり、彼の高輪田長三が叔父の手へ何事か細々と認めた手紙の様な者を渡した。其の中には何でも秀子の身の素性や秘密などを書いて有った相で、叔父は非常に驚いて、直ぐに秀子を呼び附け、其の方は此の様な事の覚えが有るかと問い詰めた。秀子は暫くの間、唯当惑の様を示すばかりで何と返事もし得なかったが、頓て深く決心した様子で有体に白状した。
 サア其の決心と云うのが、探偵の鑑定に由ると叔父を殺すと云う決心らしい。茲では白状して叔父に安心させ油断させて置いて、後で窃かに毒殺すれば好いと斯う大根(おおね)を括ったのだ。叔父は真逆秀子に此の様な事は有るまいと思ったのが、意外に事実で有ったので、余りの事に気色を損じ、秀子を退けて一室へ閉じ籠った儘と為った。
 其の有様を察すると、前日の遺言状の旨を後悔し、迚も秀子を相続人にする事は出来ぬから、何とか定め直さねば成らぬと独り思案をして居たのかも知れぬ。随分其の様に言えたので、秀子は多分、其の遺言状を書き直さぬうちに叔父を殺さねば其の身が大身代の相続権を失うが上に、又此の家から放逐せられ、身の置き所もない事になると思っただろう、数時間の後再び叔父の室へ行き、二言三言機嫌を取った末、余り叔父の血色が悪いからとて、葡萄酒でもお上り成さいと勧め、棚の硝盃(こっぷ)を自分で取って自分で酒を注ぎ爾して自分の手で叔父に与えた、叔父は受け取って呑むと其のまま身体が痺れた。
 幸い叔父は皆まで呑まずに気が附いたから其の時は唯身体の痺れたくらいで済んだ、爾して直ぐに此の酒には毒があると云い、呑み掛けた硝盃と酒の瓶とへ両手を掛け人を呼んで封をさせて了った、夫だけがやっとの事で其の中に痺れが総身へ廻り、後は何事も為し得ぬ容体と為った。
 けれども是も少しの間であった。医者の手当の好かった為か、宛も酒の酔の醒める様に数時間の後は醒めて了ったが、叔父は少しも之を秀子の仕業とは思わず、猶も秀子に介抱などさせて居たが、唯叔父を診察した医者が容易ならぬ事に思い、其の帰り道に偶然警察署長に逢ったを幸い、兎に角も内々で注意して呉れと頼んだ相だ。丁度其の署長が警察署へ帰った時に、此の森探偵が来合わせて居て其の話を聞き、既にお浦の紛失の事件も自分が調べ掛けて其のままに成って居るし、何しろ幽霊塔には合点の行かぬ事が多いから暫く此の事件を自分へ任せて呉れと云い、漸く其の承諾を得て此の土地の探偵一名を手下とし、看護人の様で、右の医者から此の家へ住み込ませて貰ったと云う事である。
 爾して第一に彼の呑み掛けの盃(こっぷ)と酒の瓶とを分析させた所、瓶の酒には異状がないが盃に在る呑み残りの分には毒が混って居ると分った。シテ見れば酒を注ぐ時にソッと毒薬を盃へ入れた者としか鑑定は出来ぬ。殊に其の毒が不思議にも此の国にはない印度の植物でグラニルと云う草の液であると分った。
 余は是まで聞き「グラニル」とは曩(さき)に余が刺された時、其の刃に塗って有った毒薬である事を思い出し、其の旨を森に告げると森は点頭いて「其処ですて、何しろ此の様な珍しい毒薬に、少しの間に二度も而も同じ家で出会わすとは余り不思議ですから充分手下に調べさせましたが、其の出所が分りました。此の村の盡処(はずれ)に千艸屋(ちぐさや)と云って草花を作って居る家の有るのは御存じでしょう」成る程余は知って居る、曾て其の家の小僧が偽電報の件を余に知らせて来て十ポンドの褒美を得て去った事まで此の話の初めの方へ書き込んで置いた積りだ。余「ハイ知って居ます」森「其の家の主人はお皺婆と云い、昔印度に居た事も有り、今でも印度の草を作って居ます、其の中にグラニルも有るのです」余「ソレがどうしました」森「ソレから此の家に居る人でアノ家へ折々行く人が有ります」余「それは誰です」森「秀子さんの附添虎井夫人です」余「夫人は病気ですが」森「イエ病気は既に大方直りました。昨日も此の夫人がアノ家へ行ったのです」余「何の為に」森「アノ婆が狐猿の飼方や其の病気の時の手当て方をも心得て居るとの事で、毎も表面はそれを問いに行くのです」余「グラニルを買いに行くのではないでしょう」森「ハイそれは買おうにも売りませんから盗む外はないのです」余「では婦人が其の草を盗んで来て」森「イイエ、真逆に自分で盗みも仕ますまいが、アノ夫人はアノ家の小僧に窃かに小使銭を与えて居ます」余「爾としても叔父を毒害したのが秀子だと云う証拠には成りますまい」森「勿論之は証拠ではないのです。唯グラニルの出所をお話し申したのです」余「では何を証拠に秀子を疑いますか」森「生憎其のグラニルの液を入れた小さい瓶が、秀子さんの室から出たのです」

    第六十七回 前科者

 毒薬の瓶が秀子の室に隠して有ったとは実に意外な事柄である、流石の余も弁解する事は出来ぬ。
 併し余は必死となり「けれど森さん、世に疑獄と云い探偵の過ちと云う事は随分有る例です。是こそは動かぬ証拠と裁判官まで認めた証拠が豈(あに)図らんや全くの間違いで有ったなどと云う話は、聞いた事がお有りでしょう」森「左様です、其の様な事柄は貴方より私が能く知って居ます」余「夫だのに貴方は唯毒薬の瓶一個で、既に秀子を疑いますか」森「唯瓶一つではなく、今まで申す通り様々の事情が総て秀子を指して居るのです」余「様々の事情とて、又一方から見れば秀子の仕業でないと云う事を指して居る事情も沢山有りましょう」森「平たく云えば反対の証拠が沢山あると云うのですね」余「そうです。縦しや反対の証拠と云うには足らずとも、反対の事情と云うには足るのです」森「何れ、何の様な反対の事情です、沢山の中の一二を挙げて御覧なさい」
 サテ斯う云われては、之が反対の事情だと指して示す程の事柄は一つもない。余はドギマギと考えつつ「え譬えばさ」森「ハイ譬えば」余「お浦の紛失に就いても秀子が疑われたでは有りませんか、シテ見れば誰か秀子に犯罪の疑いを掛け度いと企んで居る人が有るかも知れません」森「有るかも知れずないかも知れず、其の様な事は数えるに足りません。夫から」余「夫から、左様さ此の家には素性履歴の分らぬ人間も随分あります。夫等の人間が何かの目的を以て秀子に疑いの掛かるように仕組まぬとは云えますまい」森「其の人間は誰ですか、先ず多勢ある者と見做して其の中のたった一人で宜いから名指して御覧なさい」余「譬えば高輪田長三の如き」
 余は言い来(きた)って、余りに自分の大胆なるに呆れ、言葉を止めて森探偵の顔を見た。探偵も亦余の顔を見た。けれど彼は別に呆れる様子もなく、余が思ったより寧ろ深く余の言葉に動かされた様子で、是から暫しが間、無言で何事をか考えたが頓て「成るほど根西夫妻が鳥巣庵(とりのすあん)を引き払って以来、高輪田氏が此の家の客と為って逗留して居るのは何う云う心か私にも聊か合点の行かぬ所は有ります。けれど彼が此の件に関係して居ようとは思われません」余は此の言葉に聊か力を得て「関係して居ぬとは云えますまい、第一彼が叔父へ密書を送ったと仰有ったではありませんか、夫が此の事件の初(はじま)りでしょう」森「所が其の密書は秀子を憎む為ではなく、全く秀子の為を思って親切から仕た事だとは貴方の叔父上が能く認めて居るのです」余「エ、秀子へ親切の為に秀子のことを悪様に叔父へ密告したのですか」森「イヤ悪様にと云うと違います。尤も私自ら其の密書を見た訳ではなく、唯叔父上の話に由ると、単に事実を書いたので、秀子の口から叔父上へ云わねば成らぬ事柄だのに秀子自ら云い得ぬ為、見るに見兼ねて云って遣ったのだと云う事です。全く秀子の身の為になり相です」
 其の様な密告がある筈が無いと思うけれど、実際何事の密告で有ったか余も森も知らぬから言い争うわけにも行かぬ。森は猶言葉を継いで「夫に高輪田氏は一昨日此の家の二階から落ち、私が扶け起して遣りましたが、殆ど身動きも出来ぬ程と為り、一室に寝て居ます。医者の言葉に由ると外に心臓の持病もあり、夫が大分に亢じて居る様子で此の様な事に関係する力も無いのです」余の言い立つる所より森のいう所が何うも力が強そうだ、余「縦しや高輪田が関係せぬにしても、秀子の仕業と云う証拠にはなりません」森「所が秀子は叔父上の室へ出入りを止められて居るにも拘わらず、昨朝も病気見舞に托して叔父上の傍に行き今度は盃へ水を注いで呑ませましたが、其の水にも又毒が有ったと見え叔父上は前と同様に身体が麻痺しました」
 余は唯驚くばかりだ。何と弁解する事も出来ぬ、泣き度い様な声を発して、全くの必死と為って「だって森さん、人を疑うには其の人の日頃をお考えなさい、日頃秀子が、人を毒殺する様な女ですか、又高輪田長三の日頃をもお考えなさい」森「サア日頃を考えるから猶更秀子に疑いが落ちるのです」余「エエ、秀子に日頃何の様な欠点が有ると仰有る」森は直接には之に答えず「高輪田氏の日頃は一の紳士として少しも疑う所はなく、此の幽霊塔の前の持主で、お紺婆に育てられて、尤も一時は大分放蕩をした様ですが夫も若気のいたずらで随分有り勝ちの事、其の頃から今までも一通りの取り調べは附いて居ますが、別に紳士の身分に恥ずべき振舞いとてはありません、之に反して秀子の身は」余「エ、秀子の身が何故『之に反して』です」森「貴方には云わぬ積りでしたが、イヤ貴方はお知りなさるまいが、秀子は前科者ですぜ」余「エエ、前科者とは何の事です」森「イヤ、既決囚として監獄の中で苦役した事のある女ですぜ」此の恐ろしい言葉には、余一言も発する能わず。

    第六十八回 而も脱獄

 前科者、此の美しい、虫も殺さぬ様な秀子が、懲役から出て来た身だなどと誰が其の様な事を信ずる者か。
 とは云え、信ぜぬ訳にも行かぬ。余は養蟲園の一室で、秀子が着たと思われる日影色の着物と一緒に、牢屋で着る女囚の服の有るのを見た。其の時は或いは虎井夫人でも着たのかと思ったが、アレが秀子ので有ったのか、全く秀子が懲役に行って居たのか。
 懲役に行ったとて牢屋の着物を外まで被て出る者はない、牢屋の着物は監獄のお仕着せだ、縦しや着て居たいと思ったとてそうは行かぬ、之を着て出るのは牢破りの逃走者ばかりだ、若しアノ服を秀子の着たものとすれば秀子は牢破りの罪人か知らん、アノ服を着けたまま監獄から忍び出て来たのか知らん、思えば思うほど恐ろしい。
 待てよ秀子の着物の中には医学士と自称する大場連斎の名札が有った。連斎は一頃監獄医を勤めたと穴川が云って居た。此の辺の事柄を集めて見ると一概に森主水の言葉を斥ける訳に行かぬ。秀子は前科者で無いとは限らぬ、而も脱獄の秘密まで有るが為で、夫に今までも甚蔵等にユスられる境涯を脱し得ぬので有ろうか。
 余は腹の中は煮え返るほど様々に考えた末、森に向い「では是から何うなさるのです」と問うた。森「する事は極って居ます、繩掛けて引立てる迄の事です」余「だって秀子が前科者で有る無しは今の所単に貴方の推量では有りませんか、推量の為に人を拘引するなどは」余「イヤ前科者で有る無しは別問題です、縦しや前科者と極った所が既に服する丈の刑を服して来たのならかれこれ私が問う訳はなく、其の点は唯心得までに調べさせて有る丈です。其の点の如何に拘わらず、既に貴方の叔父御に毒害を試みたという明白な罪跡が分りますから、此の儘に捨て置く事は出来ません」余「何時拘引するのです」森「是から私が詳細の報告書を作って倫敦へ送り其の筋から逮捕状を得ねばならぬのですから、多分は明後日になりましょう。是は職務上の秘密ですけれど真逆(まさか)に貴方が秀子に知らせて逃亡させる様な事は有るまいと信ずるからお打ち明け申すのです。其の間に若し秀子が逃亡すれば貴方が幇助した者と認めますよ」
 余「私は飽くまで其の嫌疑の無根な事を信じますもの、何で逃亡を勧めますものか、又秀子とても其の身の潔白さえ恃(たの)んで居ますもの。何で逃亡など仕ますものか」と余は立派に言い切ったけれど実は心細い。どうかして逃亡させる工風はあるまいかと思いたくはないけれど独りそう思われる。
 けれど若し逃亡せねばならぬ様な身上の女なら勿論愛想の盡きた話で、逃亡させる必要もなく寧ろ余から繩を掛けて出さねばならぬが、秀子に限って其の様な事は決してない、どうしても余の力で其の潔白を証明して遣らねばならぬ、何うすれば其の証明が出来るだろう、余が唯一つの頼みとするは甚蔵から聞いた彼の巴里のポール・レペル先生だ。兎に角も此の人に相談する外はない。若し此の人が深く秀子の日頃を知り、決して前科者でなく、決して毒薬など用うる女でないといえば此の土地へ伴うて来て証言させる。此の人と秀子との関係は分らぬけれど、秀子に新しい命を与えるとまで云われる人だから、此所で其の新しい命を与え、死中に活を得て秀子の危急を救うて貰わねばならぬ。
 余は堅く決心して、森に向い、何うか秀子の拘引を今より三日猶予して呉れと請い、其の間には必ず反対の証拠を示しますと断言した。森「イヤ今から三日ならば大方私の思う通りですから、別に貴方の請いに応じて猶予して上げるという程でもありません。反対の証拠が(若しあるなら)充分にお集めなさい、併し三日より上の猶予は決してありませんよ」余「宜しい」森「何うして貴方から決して秀子に逃亡させぬという事を誓って貰わねばなりません」余「誓います、決して逃亡はさせません」先ず相談一決した様な者だ。巴里へ行って何の様な事になるかは知れぬけれど外に何の工風もないから、余は早速巴里を指し出発する事とした。

    第六十九回 悪魔の世界

 心矢竹(こころやたけ)に逸(はや)るとは此の時の余の思いであろう。一刻も早く巴里へ行きレペル先生とやらに逢って、一刻も早く秀子を救う手段を得たいとはいえ、真逆(まさか)に死に掛って居るという我が叔父の顔をも見ずに出発するわけにも行かぬ。叔父の目の覚めるまでは何うしても待って居ねばならぬ。
 待つ間を、秀子の室に行ったが、探偵の云った事を其の儘秀子の耳に入れる訳には行かぬ。御身は果たして前科者なるやと、茲で問えば分る事では有るが、余の口が腐っても其の様な事は能う問わぬ。前科者でないに極って居るのに何も気まずく問うに及ばぬ、又茲で逃亡を勧めるのも最と易い、けれど是も必要のない事だ、潔白と極って居る者に、逃亡など勧める馬鹿が有る者か、其の潔白の証拠を集めるのが此の巴里行の余の目的ではないか。
 余は唯秀子に向い、何も彼も余が引き受けたから少しも心配するに及ばぬ、親船に乗った気で居るが好いとの旨を、繰返し繰返して云い聞かせた、秀子は誰一人同情を寄せて呉れる者のない今の境涯に、此の言葉を聞き深く余の親切に感ずる様子では有るが、併し親船に乗った気には成れぬと見える、兎角に心配の様子が消えぬ。
 其のうちに叔父が目を覚ましたと、女中の者が知らせて来た。余は秀子に向い、止むを得ず巴里へ行くけれど一夜泊で帰ると云い猶留守中に何事もない様に充分計って置いたからと、保証する様な言葉を残し、直ちに叔父の寝室をさして行ったが、廊下で又も森主水に逢った。彼は用ありげに余を引き留め「丸部さん、先刻秀子を引き立てるには猶だ三日の猶予が有る様に申しましたが事に由るとそれ丈の猶予がないこととなるかも知れません」余「エ、事に由ると、貴方はあれほど堅く約束して今更事に由るとなどは何の口で仰有るか」森「イヤ一つ言い忘れた事が有ります。若しも叔父上は明日にも病死なされば、既に毒害という事が其の筋の耳に入って居ますから、必ず検屍が居るのです、検屍の結果として直ちに其の場から秀子が引き立てられる様な場合となれば私の力で、如何ともする事が出来ませんから是だけ断って置くのです」成るほど其の様な場合には森の力には合うまいけれど、此の言葉は実に余の胸へ剣を刺した様な者だ。
 叔父の身は果たして三日の間も持ち兼ねる様な容体であろうか。若し爾ならば見捨てて旅立する訳には行かぬ。秀子を救い度い余の盡力も全く時機を失するのだ、実に残念に堪えぬけれど仕方がないと、余は甚く落胆したままで叔父の病室へ入った。叔父は目を覚まして居る。「オオ、道九郎か、今女中に呼びに遣ったが」余「ハイ叔父さん、御気分は何うですか」叔父「一眠りした為か大層宜く成った。此の向きなら四五日も経てば平生に復るだろう」成るほど大分宜さ相だ。真逆に探偵の云った様な三日や四日の中に検屍が有り相には思われぬ。余は聊か力を得て「若し叔父さんの御用がなくば、私は止むを得ぬ用事の為大急ぎで巴里へ行って来たいと思いますが」叔父は目を張り開いて余の顔を見「又旅行か」と殆ど嘆息の様に云うは余ほど余の不在を心細く思うと見える。余「ハイ行き度くは有りませんが止むを得ぬ用事です」叔父「其の方が居なくては定めし秀子は困るだろう」秀子の事を斯うまでに云うは、猶だ秀子を見限っても居ぬと見える、余は其の心中を確かめる様に「ハイ何だか秀子が様々の疑いを受けて居る様に聞きますが」叔父「ナニ秀子は己に毒などを侑(すす)める者か、外の事は兎も角も、其の様な事をする女ではない」叔父が疑って居ぬのは何よりの強みで有る。併し「外の事は兎も角も」の一句で見れば、外に何か秀子の身に疑う所が有って、今まで程に信任しては居ぬらしい、何うか余は秀子の為に警察の疑いを解くのみならず、叔父の信任をも回復する様にして遣りたい。
 叔父は熟々(つくづく)と何事にか感じた様な語調で「併し秀子も可哀想な身の上だ。若し己れが死にでもすれば何の様な事に成り行くやら」余「叔父さんがお死に成さるなどと其の様な事が有りますものか、縦しや有っても秀子は私が保護しますから」叔父は余が秀子を保護するを好まぬか、一言も返事をせぬ。今まで余と秀子とを早く夫婦にも仕たい様に折々言葉の端に見えたとは大きな違いだ、叔父は又感じた様に「アア此の世の事は兎角思う様に行かぬ、全く悪魔の世界だよ、悪魔が人間を弄ぶのだ、己は最う何事もなり行きに任せて、遺言状も書き替えぬ、書き替えたとて又も悪魔が干渉すれば無益だからよ」
 言葉に籠る深い意味は察する事が出来ぬけれど、甚く此の世に不満足を感じて居るは確かだ。或いは余が秀子を思い始めたのを悪魔の干渉とでもいうのだろうか。秀子に身代を遣るという遺言状を書き替え度いのは見えて居るが夫を書き替えれば余の身の利害にも関係するから、夫ゆえ書き替えずに断念(あきら)めると云う意味であろうか。余は聊かながら直接に余の父から伝えられた余の財産が有るから、縦しや遺言を書き替えられても別に苦痛とは思わぬが、茲で其の旨を云うのは却って叔父の気に障るか知らんなど、取つ置いつ思案して右左(とこう)の挨拶も口には出ぬ。叔父「アア又眠くなった、医者が眠れるだけ眠れと云うから、幾分か好い兆候と見える、話は此の後に幾等もする時が有るから巴里へ行くなら早く行って来い」といい褥の上に身を横たえた。余は去るに忍びぬ心地もするが、情に駆られて居る場合でない。「叔父さん何事も御心配に及びません」との一語を残して、静かに此の室を退き、仕度もそこそこに愈々此の家を出発した。巴里に行って果たして何の様な事になるか殆ど無我夢中である。

    第七十回 鏡に写る背影(うしろかげ)

 ポール・レペル先生とは何の先生であろう。余は夫さえも知らぬ。全く無我夢中ではあるけれど唯何となく其の人に逢いさえすれば秀子が助かる様に思う、尤も外に秀子を助くべき道はないから何が何でも此の人に逢って見ねばならぬ。
 此の様な決心で塔を出て、夜に入って倫敦へは着いたが、最う終列車の出た後だ、一夜を無駄に明かすも惜しい程の場合だから、何か此の土地で秀子の為になる仕事は有るまいかと思案して、思い出したは彼の弁護士権田時介の事だ。
 今まで彼の事を思い出さなんだが不思議だ。彼が秀子の秘密を知り且は一方ならず秀子の為を計って居る事は今まで能く知れた事実で、此の様な時には秀子の為に熱心に働くに違いない。のみならず余よりも工夫に富んで居る、余は巴里へ行く前に彼に相談するが然るべきだ。唯彼は秀子に対する余の競争者である、恋の敵である、此の点が少し気掛りで聊か忌まわしくも思われるけれど、今は其の競争に余が勝って居るのだから、彼を忌むよりは寧ろ大目に見るべき場合だ、殊に秀子の為なれば区々たる其の様な感情は云って居られぬ。何れほど好ましからぬ相手とでも協同一致せねばならぬ。
 夜深(よふけ)では有るけれど、叩き起して、語り明かしても好いという決心で彼の宿を尋ねた。けれど不在だ、倶楽部をも尋ねた、同じく不在だ、或いは彼余と同じく既に秀子の事に奔走して夫が為に何処かへ行ったのではあるまいかと、余は此の様な疑いを起したけれど不在の人ばかりは如何ともする事が出来ぬ、宿へも倶楽部へも、名刺の裏へ、緊急な用事のため至急に面会したいとの意を書いて残して置いた。
 此の翌日の午後には早や巴里へ着した、ラセニール街二十九番館へ尋ねて行った。街は至って静かな所で殊に二十九番館は人が住むか狐が住むか、外から見ては判じ兼ねる様な荒れ屋敷で、門の戸も殆ど人の出入りする跡が見えぬ。或いはレペル先生が茲に住んだのは数年前の事で今は何処へか引越したかも知れぬと思ったけれど、潜りから入って陰気な玄関の戸を叩いた。暫くして出て来る取り次は年の頃六十程で、衣服も余ほど年を取って居る、此の向きではレペル先生というも余り世間に交際せぬ老人らしい、其の様な人が、どうして遠く英国に居る秀子を助ける事が出来ようと、余は初めて危ぶむ念を起したけれど、今は当って見る一方だ、余は唯「先生は御在宅ですか」と問うた。取り次の言い様が面白い「ハイお客に依っては御在宅ですが」とて穴の明くほど余の相恰を見た上で「貴方は何方です」余「ポール・レペル先生の知り人から紹介を得て、遠く英国からたずねて来ました」取り次「英国ならば、別に遠くはありません、当家の先生へは濠洲其の他世界の果てから尋ねて来る客もあります」とて、先ず主人が世界に名を知られた身の上なるを匂(ほのめ)かし、次に余の差し出す名刺を威儀正しく受け取って退いたが、思ったよりも早く余は客待室へ通された。
 室の中は外の荒れ果てた様とは打って変り注意周到に造作も掃除も行届いて、爾して室の所々に様々の鏡を配列してある。何だか其の配列が幾何学的に出来て居る様に思われる、鏡から鏡へ、反射又反射して、遠く離れた場所の物影が写って見える、余り類のない仕組である、唯是だけでも主人が一通りの人でない事が分るが、又思うと余が茲にウロウロ鏡を眺めて感心して居る様が遠く主人の室に写り、今正に主人に検査せられて居るかも知れぬ。
 斯う思うと急に身構えを直したくなるも可笑しいけれど、主人の室から余の姿が見えれば此の室へも主人の姿が写るだろうと又見廻したが、天井も処々に鏡をはめて有って、爾して天井際の壁に、イヤ壁と天井との接する辺に、幅一尺ほどの隙間がクルリと四方へ廻って居る、此の隙間が、此の室と外との物の影が往き通う路であるに違いない。併し人の姿らしい者は何の鏡にも写っては居ぬ。
 余は身構えを正して許り居る訳には行かず、只管鏡に映る幾面幾色の影を、かれこれと見て廻って居たが其の中に、影の一面へ忽ち人の姿が写った、其の姿たるやだ、旅行服を着けた背の高い紳士で小脇に方一尺ほどの箱の様な物を挾み、急いで立ち去る様な有様で有るが、生憎に背姿で顔は分らぬ、けれど確かに余が目に見覚えのある人らしく思われる。
 ハテな誰だろう、此方(こっち)へ向けば好いと、気を揉んで待ったけれど、歩む許りで此方へ向かず、早や鏡から離れ相に成った。残念だと思う拍子に忽ち気が附き、自ら振り向いて見ると有難い、一方の鏡に反映して、其の人の正面が写って居る、余は実に驚いた、其の人は外でもない彼の権田時介である。

    第七十一回 童顔鶴髪

 権田時介、権田時介、余は英国を立つ時にも彼を尋ねて逢い得なんだのに、今此の家から彼の立ち去るを見とむるとは実に勿怪の幸いである。暫し彼を引き留め度いと思い、室の外へ走り出て見たが、鏡に写った彼の影が、実際何処に居る者やら少しも当りが附かぬ、廊下には何の人影もない、更に庭へ降りて門の辺まで行って見たけれど早や彼の立ち去った後と見え、四辺寂寞として静かである。
 彼が何の為に此の家へ来たのか、云う迄もなく秀子の為であろう。併しどうして此のポール・レペル先生に頼る事を知ったであろう。余さえも唯非常な事情を経て漸く知り得た所であるのにイヤ是を見ても彼が余よりも深く秀子の素性を知って居るは確かである。恐らく彼は穴川甚蔵や医師大場連斎などと同じく秀子の身の上を知り盡して居るであろう、然るに余は、然るに余は――そうだ、全くの所秀子が何者であるかと云う事さえ知らぬ、幽霊塔へ現われる前、秀子は何所に何うして居た女であろう。思えば実に余の位置は空に立つ様な者である。実を云えば此のポール・レペル先生がどうして秀子を助け得るやをさえ知らぬのだ。
 併し先生に逢えば何も彼も分るであろうと独り思い直して元の室へ帰った。暫くすると前の取り次の男が再び来て、先生の手がすいたから此方へと云い、奥深く余を連れて行きとある一室の中に入れた、此の室は今まで居た室と大違い、最と風雅に作り立て、沢山古器物杯を飾り、其の中に仙人の様に坐して居る一老人は確かにポール先生であろう、童顔鶴髪と云う語を其のまま実物にしたとも云う可き様で、年は七十にも近かろうが、顔に極めて強壮な色艶が見えて居て、頭は全くの白髪で有る、余は人相を観ることは出来ぬけれど、此の先生確かに猶太人(ゆだやじん)の血と西班牙人(すぺいんじん)の血を受けて居る、決して純粋の仏国人ではない、先ず余を見て子供に対する様な笑みを浮べて「私の知人から紹介せられたと聞きましたが知人とは誰ですか」
 誰と答えて好かろうかと少し躊躇する間に熟々先生の顔を見るに、実に異様な感じがする、初めて秀子を見た時に、余り美しいから若しや仮面を被って居るのでは有るまいかと怪しんだが、今此の先生の顔を見ても矢張り其の様な気がするのだ、或いは此の人が秀子の父ででもあろうか、イヤ其の様な筈は決して無い、此の様な勢力の有る人が秀子の父なら、何で今まで、秀子が様々の苦境に立つのを見脱して居る者か、秀子は既に父母を失った身の上で有る事が様々の事柄に現われて居る。
 余は此の様に思いつつ、詮方なく「ハイ穴川甚蔵から聞きまして」と云った。先生は少しも合点の行かぬ様子で「ハテな、穴川甚蔵と、其の姓名は私の耳に、左様さ貴方の顔が私の目に新しいと同様に新しいのです」余「エエ」先生「イヤ初めて聞く姓名です」と云って、少し余を油断のならぬ人間と思う様な素振りが見えた。余は大事の場合と言葉を改めた、「ハイ其の穴川と云うは医師大場連斎氏の親友です」先生「アア大場連斎ならば分りました、久しく彼から便りを聞きませんけれど数年前は度々私の門を叩きました、彼の紹介ならば心置きなくお話し致しましょうが、イヤ好うこそお出で下さった、此の様な場合に根本から救う事の出来るのは広い世界に私より外はないのです」
 根本から救うと云う所を見れば、早や余の目的を知って居るのか知らん、余は聊か気を奪われ、少し戦(おのの)く様な語調で「実は貴方が御存じの様に聞きます松谷秀子の件も大場氏から聞きましたが」と半分云えば先生は思い出した様に「アア秀子、彼の美人ですか、イイエ彼の件は何うも私の不手際でしたよ、救い方が聊か不充分で有った為、或いは今以て多少の禍いが残りはせぬかと、時々気に掛る場合が有ります、何しろ本来が美人ですから何うも六かしい所が有りました、けれど大抵の事では大丈夫だろうと思って居ます、それにしても貴方は」と云い掛けて熱心に余の顔を眺め「貴方も実に困難なお望みですよ、殆ど秀子と同じ場合で実に惜しむ可き所が有りますから私が充分の力を施し兼ねます、併し秀子の場合で御合点でしょうが、全く根本的に救うのですから決して後悔なさる様な事はありません。秀子とても其ののち何の様な境遇に遭ったかも知れませんが兎に角私を命の親だと思って居ましょう」
 余「ハイ貴方を命の親の様に思えばこそ、遙々救うて戴きに来たのですが」
 先生「では早速条件を定めて其の上で着手致しましょう。多少の出来不出来こそあれ、万に一つも全く仕損ずると云う事は私の手腕にはないのですから」充分保証する言葉の中にも何だか腑に落ちぬ所が有る。着手するの仕損じがないのと、此の先生は直接に余の身体へ、何うか云う風に手を下す積りでは有るまいか、斯う思うと何だか余は自分の肉が縮み込む様な気持に禁(た)えぬ。

    第七十二回 又と此の世に

 何うも先生の言葉に、余の腑に落ちぬ所がある。余は秀子を助けて貰う積りで来て、若しや飛んでもない事に成りはせぬかと気遣わしい心が起きた。併し余よりも先に権田時介が来た所を見れば此の先生が秀子を助け得る事は確からしくも思われる、全体権田は何の様に此の先生へ頼み込んだであろう。それさえ聞けば大いに余の参考にも成るのにと、此の様に思ううち先生は独語の様に「妙な事も有る者です、松谷秀子の名前は、久しく思い出さずに居たのですが今日は久し振りで、二人の紳士から別々に其の名を聞きますよ」余は隙(すか)さず「二人の紳士とは、一人は私で今一人は只今此の家を立ち去った権田時介でしょう、彼は私の知人ですが、秀子の事に就いて何を先生へ願いましたか」先生は急に面持を厳かにし「イヤそれはお返事が出来ません、頼って来る人の秘密を守らねば此のポール・レペルの天職は行われません、縦しや此の後で貴方の親兄弟が来て、貴方が私へ何を頼んだかと聞いても私は其の様な事は知らぬと答える許りです」余は聊か赤面して直ちに自分の問い過ぎを謝した。けれど先生に対する信用はやや深くなり、是ならば成るほど秀子を助ける事が出来ようかと又思い直した。
 余「では先生、貴方にお頼み申せば、何の様な事件でも助けて下されましょうか」先生は猶も厳かに「無論です、けれど私は依頼者から充分事情を聞き取った上で無ければ承諾せぬのです、少しでも私へ隠し立てをすればそれでお分れですが」余「勿論一切の事情を打ち明けます」先生「詰まり助ける人と助けられる人とは一身同体とも云う可き者で、全く利害を共にする故、双方の間に充分信じ合う所が無くては成りません、所が私は未だ貴方の姓名をさえ知らぬのです」余「ハイ、私は丸部道九郎と云う者です」
 先生「様子を見た所では多分英国の貴族でしょうが、私は平生貴族名鑑などを読みませんから、丸部という姓へ何れほどの尊敬を加えて好いか少しも見当が附きません」余「イヤ別に尊敬せられたくは有りませんが」
 先生「爾でしょう、爾でしょう、尊敬を得るよりも救いを得るのがお望みでしょう、分りました、シテ見ると貴方は決闘でもして法律に触れたのですか、或いは人を殺したのですか、私に救いを求める所を見れば、今にも逮捕される恐れが有るに違い有りませんが」余「爾です、法律上逃れるに逃れられぬ場合ですから」先生「夫なら実に私の所へ来たのが貴方の幸いです、私の外に決して救い得る者は有りません」
 実に奇妙な言葉では有る。法律に攻(せめ)られて居る者を何の様にして救うだろう。余「ですが先生確かに救われましょうか」先生「夫は最う一点の曇りも残らぬ様に、左様さ、いわば罪も何も無い清浄無垢の世界へ生まれ替った様にして上げます、全く新たな命を与えるのですから」新たな生命とは甚蔵が云った言葉にも符合して居る。秀子に新たな生命を与え全く生まれ替った様に救うはポール先生の外にないと、彼は確かに余に告げたのだ。
 余「併し先生、救って戴くのは私自身ではないのです」先生「エエ、貴方自身でない、では誰をです」余「今申した松谷秀子をです」先生は驚いた様子で「エ、秀子を最一度、ハテな今まで同じ人を二度救うた事は有りませんが、と云うのは一度救えば夫で生涯を救うのですから再び私へ救いを求める必要のない事に成る筈」余「では二度救う事は出来ぬと仰有りますか」先生「イヤ爾ではない、二度が三度でも救う事は出来ますが」余「では最う一度秀子を救うて戴きましょう、秀子は目下一方ならぬ困難な位置に落ち、殆ど救い様のない程の有様に立ち到って居るのですから」先生は嘆息して「アア夫は可哀想です、先ア彼の様な異様な身の上は又と此の世に有るまいと思いましたが、夫が再び困難に落ちるとは何たる不幸な女でしょう。けれどナニ助からぬ事は有りませんよ」余「何うすれば助かりましょう、何うかその方法を聞かせて下さい」
 先生は又聊か改まりて「何うすれば、サア其所が私の職業ですから、先ず報酬の相談を極めた上でなければ此の上は一言も申す事が出来ません」余「報酬は幾等でも厭いませんが、真に貴方の力で、相違なく助かりましょうか」先生「諄(くど)くお問い成さるに及びません、私の力ならば助けるぐらいは愚かな事、何の様にでも貴方の望む通りに救って上げます、が其の代り驚くほど報酬が高いのです」余「高いとて幾万磅(ぽんど)を要するのですか」先生は打ち笑い「イヤ爾までは要しませんが三千ポンド戴きます」

    第七十三回 背後は暗室

 此の場に臨んで報酬の高いのに驚かぬ。真に秀子が助かるなら、財産は愚かな事、命までも捧げても厭わぬが余の決心だ。
 余は少しも躊躇せずに承諾した。とは云え三千ポンドは決して安い金ではない、医師の報酬や弁護士の手数料などに較ぶれば、殆ど比較にならぬほどの多額だ。余は承諾しながらも心の底に此の様な想いがする、先生は見て取ったか「全く高い報酬でしょう、ナニ実際の費用と云えば、幾等も受け取らずに出来ますけれど、人を法律の外へ救い出すのは随分危険な事柄で、動(やや)ともすれば私自身が其の筋の探偵から睨まれます、探偵が依頼者の真似をして私を陥れるなどいう事は随分有る例です。夫で私は到底探偵風情の払い得ぬ程に報酬を高くして有るのです、幾等探偵が熱心でも千と名の附く金は払い得ません、今までも報酬で幾人の探偵を追っ払ったかも知れませんが、貴方は真逆(まさか)に探偵ではあるまいけれど報酬の受け渡しが終らねば、此の上一歩も話を進める事が出来ません」
 報酬の受け渡しと云って、勿論余は其の様な大金を持っては居ぬ。けれど融通の附かぬ事はない、余は僅かながら親譲りの財産が有る、其の財産は父の遺命で悉く金に替え、倫敦の銀行へ托し、利殖させて有る、其の額が今は一万ポンドの上になり、余に使われるのを待って居るのだ、今こそは使って遣る可き時である、幸に此の巴里にも叔父の懇意な取引銀行が有って其の頭取は曾て英国へ来て叔父に招かれ余と同席したのみならず、余も叔父と共に其の後巴里へ来て其の頭取に饗応せられた事もある、此の人に話せば大金とはいえナニ三千や五千、一時の融通は附けてくれる。
 その旨を先生に話すと先生も兼ねて其の銀行頭取を知って居るとの事だ、併し其の金を我に払うとの旨は決して頭取へも何人へも話す可からずと口留めをせられた。素より誰にも話すべき事でない、それではと愈々茲を立とうとすると先生は自分の馬車を貸して呉れた。馬車には先刻見た取り次の老人が御者役を勤めて居る、察する所此の老人は先生の真の腹心だ、先生は猶幾分か余を疑い若しや探偵ではないかと思う為、実は此の様な事をして腹心の者に余の挙動を見届けさせる積りらしい。
 頓て銀行へ行った、余は来たり。余は観、余は勝てりという該撤(しいざあ)の有様で、万事旨く行って少しの間に金も手に入った。勿論利子を附けて返す筈である。夫も一週間を過ぎぬと云う約束だから余り余の信用を誇るには足らぬ、爾して先生の許へ帰って行くと、先生は暫く次の間へ退いたが、御者から余の挙動を聞き取る為であったと見える、其の結果に満足したか十分間も経たぬうちに又余の前へ来た。今度は前よりも打ち解けた様に、顔の締りも幾分か弛んで居る。「サア直ぐに事務に取り掛りましょう。此方へ」との案内が先生の最初の言葉であった。之に応じて先生の後へ随き、更に奥まりたる一室へ通ったが茲にも種々の鏡を備えてある、先生は誇り顔に笑みて「茲は、私の書斎です、茲に居れば来訪する客の姿が悉く分ります」といい、更に「貴方の様子もお目に掛る前、此の鏡に写し一応検めましたが、逢っても危険のない人だと見て取りました。権田時介の姿を見て、急いで外へ出た時の様子などが、何うも素人らしくて探偵などとは違って居ました」
 今は斯くあろうと思って居た故、別に驚きもせぬが、此の室で何をするのか更に合点が行かぬ故「先生、茲で報酬を差し上げましょうか」先生「イヤ報酬は無難な所へ行って戴きます、此の室へは下僕でも誰でも這入って来ますから」云いつつ先生は一方の棚から二個の手燭を取って火を点した。猶だ昼だのに手燭を何にするのだろう、頓て「サア是を持って私と一緒に来るのですよ」と教え、書棚の中から厚い本を二冊ほど抜き出した。爾して其の本の抜けた後の空所へ手を差し入れたが、秘密の鈕(ぼたん)でも推したのか忽ち本箱が扉の様に両方へ開いた。其の背後は暗室になって居る、成るほど秘密の仕事をする人の用心は又格別だと、余が感心する間に先生は暗室へ入って余を呼んだ、余も続いて其の中へ這入った、スルト先生は又も何所かの鈕を推したらしいが、扉の書棚は元の通り閉じて了った。秀子を救うのと此の暗室と何の関係が有るだろう。余と先生と、暗室の中に全くの差し向いである。

    第七十四回 前身と後身

 余を此の暗室へ連れ込んで何をするのか、余は少しも合点が行かぬ。
 先生はそれと見て説明した。「私が何の様にして松谷秀子嬢を救うか貴方には少しも分りますまい、此の暗室の中で其の手段だけを見せて上げるのです、見せて上げれば此の前に私が何の様にして嬢を救ったか、救われる前の嬢の有様は何うで有ったか、ポール・レペルの手際が何れほどで有るか総て分ります」
 斯う聞いては早く其の手段を見せて貰い度い。取り分けて此の先生に救われる前の秀子の有様などは最も知り度い、扨は此の暗室の中で詳しく秀子の素性成長などが分るのかと早や胸が躍って来た。
 先生「茲は猶だ入口です。サア、ズッと深くお進み成さい」言葉に応じ手燭を振り照らして見ると、成る程茲は穴倉の入口と見える、少しむこうの方に、下へ降りる石段が有る、気味は悪いが余は先に立って之を降った、降り盡すと鉄の戸が有って、固く人を遮って居る。先生は戸に不似合なほど小さい鍵を取り出して此の戸を開いた。中は十畳敷ほどの空な室になって居る、此の室へ這入ると先生は又も戸を閉じ「茲が私の秘密事務を取る室です、茲までは私の外に誰も来ません、金庫も此の室へ備えて有ります」と、茲で報酬を差し出せと云わぬ許りの口調なれば、余は彼の三千ポンドを出して渡した。
 不思議にも此の室には電燈が備えて有る、先生は電燈の鈕を推して忽ち室を昼の様にした。余は手燭を消そうとしたが、先生は遽てて「イヤ未だ消しては可けません、茲より奥には電燈がないのですから」余「猶だ此の奥が有るのですか」先生「無論です」とて先生の指さす方を見ると成るほど一方の壁に第二の鉄の扉が有る、斯うまで奥深く出来て居るとは実に用心堅固の至りだ、其のうちに先生は報酬の金を数え盡し隅の方の金庫へ納め、もっと嬉し相に頬笑みて「イヤ三千ポンドは大金です、実は私も取る年齢ゆえ、最早隠退したいと思い、数年来、金子を溜めて居りますが今の三千ポンドで丁度、兼ねての予算額に達したのです、今まで随分人を救い、危険な想いをしましたから此の一回が救い納めです、再び貴方が来(いら)しってもポール・レペルは多分此の家に住んで居ないでしょう、田舎へ地所を買い、楽隠居として浮世の波風を知らずに暮らすは何ほどか気安い事でしょう」
 述懐し了って、再び第二の鉄扉を開き余と共に又中へ降り入ったが、茲は余程地の下深くへ入って居ると見え、空気も何となく湿やかで余り好い心地はせぬ、墓の底へでも這入ったなら或いは此の様な気持で有ろうか、兎に角も人間の地獄である、此の様な所に秀子の秘密が籠って居るのかとおもえば、早く取り出だして日の光に当てて遣り度い。
 気の所為か手燭の光まで、威勢がなく、四辺の様が充分には見て取られぬ、けれど何だか廊下の様に成って居て、左右にズラリと戸棚がつらなり、其の戸に一々貼紙をして何事をか書き附けてあるが、文字は総て暗号らしい、余には何の意味だか分らぬ。頓て先生は、壁の一方に懸けてある鍵の束を取り卸し、其の中から真鍮製の最も頑丈なのを余に渡し「サア此の鍵の札と、戸棚の貼紙とを見較べてお捜し成さい、そうして記号の合った戸棚を開けば宜いのです」余は全く夢を見る様な心地だ、訳も知らずに只其の差図に従い一々左右の戸棚の戸を検めた末、ヤッと記号の合った戸を見い出した。先生「サア其の鍵で其の戸をお開き成さい」
 此の戸の中に何が入って居る、之を開いて何の様な事になる、若し洞看(みぬ)く事が出来たなら、縦し又燃える火に我が手を差し入れる事はするとも、此の鍵穴へ錠を突き入れる事はせぬ所で有っただろう、けれど悲しい哉、爾まで見抜く眼力はない、只何となく悪い気持がするけれど、躊躇しても詮ない事と、差し図の儘に鍵を入れ、此の戸を開いた、中は幅も深さも二間ほど有って左の壁には棚が有り右の壁には棚が有り右の壁には又小さい戸棚が有る、云わば仏壇の様な作り方だ、爾して左の棚には白木で作った三個の箱が有る、方一尺ほどで扁(ひら)たく出来て、先ず硯箱の聊か大きい様なものだ、先刻権田時介が小脇に挾んで去った品も或いは此の類の箱ではなかったか知らん。
 只是だけの事で、何の驚く可き所もないけれど余は身体の神髄から、ゾッと寒気を催して、身震いを制し得ぬ、先生も何だか神経の穏かならぬ様な声で「茲に秀子の前身と後身が有るのです」と云い、今度は自分で彼の仏壇の様な戸を開き掛けた、余は物に臆した事のない男だけれど、自分で合点の行かぬほど気が怯(ひるん)だ、何でも今が、恐ろしい秘密の露(あらわ)れ来る間際に違いない、人生に於ける暗と明との界であろう、先生の此の次の言葉が恐ろしい、恐ろしいけれど又待ち遠い、胸の底から全身が固くなって殆ど息を継ぐ事も出来ぬ。

    第七十五回 死人の顔形

 仏壇の様な戸の中も、略ぼ左の棚と同じ工合で、白木の箱が二個乗って居る。
 何の箱であるか更に合点が行かぬ、けれど唯気味が悪い、先生は暫く双方の棚を見比べて居たが頓て決定した様子で「矢張り前身を先にお見せ申しましょう、爾すれば私の手腕が分り、成るほど新しい生命を与える人だと合点が行きます」
 斯う云って左の棚から其の箱を取り卸した。「サア此の箱を開けて御覧なさい」余は開ける丈の勇気が出ぬ、「ハイ」と云ったまま躊躇して居ると先生はじれった相に「では私が開けて上げましょう」とて余の手に在る鍵の束から一個の鍵を選り出し「ソレ此の鍵の札と此の箱の記号とが同じことでしょう、貴方には是が分りませんか」と叱りつつ箱を開いた、兎に角之ほど用心に用心して納(しま)って居る箱だから中には一方ならぬ秘密を隠して有るに違いない、鬼が出るか蛇が出るか余は恐々に其の中を窺いて見た。
 第一に目に留まるは白い布だ、白い布で中の品物を包んで有るのだ、先生は箱の中に手を入れて其の布を取り除き、布の下の品物を引き起した、何でも箱の中に柱が有って、蓋する時には其の柱を寝かせ、蓋を取れば引き起す事の出来る様に成って居るのだ。
 引き起された其の品は何であろう、女の顔である、余は一時、生首だろうかと怪しんだが生首では無い、蝋細工の仮面である、死んだ人の顔を仮面に写して保存して置く事は昔から世に在る習いで其の仮面を「死人の顔形」と称する由であるが、此の蝋細工は即ちそれである、誰の顔形だか兎に角も顔形である、余は一目見て確かに見覚えの有る顔と思ったが、見直すとそうでない、円く頬なども豊かで先ず可なりの美人では有るが、病後とでも云う様で気の引き立たぬ所が有る、寧ろ窶(やつ)れたとも云う可きである。
 先生は更に箱の中から、少し許りの髪の毛を取り出した、死人の遺身(かたみ)かと思われる、其の色は緑がかって聊か黒味を帯びて居る、随分世に類の多い髪の毛だ、先生「此の仮面と此の髪の毛を見て何と思います」余「別に何とも思いませんが」先生は聊か気の落ちた様子で「ハテナ」と小首を傾け更に「仮面の裏を能く御覧なさい」とて仮面を柱から外して、余に渡した。余は其の言葉通り仮面の裏を見たが貼り紙が有って何事をか認めて有る、其の文字を読むと驚くべしだ。「輪田阿夏(おなつ)」とあって、更に「殺人罪を以て裁判に附せられ有罪の宣告を経て終身の刑に処せらる」とあり、次の項に「千八百九十六年七月二十五日大場連斎氏の紹介、権田時介氏連れ来る。同年同月十一日に故あって獄を出たる者なりと云う」との文字がある。
 輪田お夏とは幽霊塔の前の持主お紺婆を殺した養女である、千八百九十六年に牢の中で病死し其の死骸は幽霊塔の庭の片隅に葬られ、石の墓と為って残って居る、秀子が屡々其の墓へ詣で居たのみならず、同じお紺婆の養子高輪田長三も其の墓の辺に徘徊して居た事は余が既に話した所である、墓の表面には確か七月十一日死すとの日附が有った、茲には其のお夏が同じ日に出獄した様に記し、其の月の二十五日に権田時介が茲へ連れて来た様に記して有るのは何の間違いであろう。
 余は叫んだ。「先生、先生、貴方は欺かれたのです、殺人女輪田お夏が茲へ連れられて来るなどとは実際に有り得ぬ事です、死骸と為って地の下へ埋って今は其の上へ石碑まで立って居ますが」先生は少しも怪しむ様子がない。
「勿論石碑も立って居ましょうか、併し夫は事柄の表面さ、アノ墓をあばいて御覧なさい、空の棺が埋って居る許りです」余「エ、何と仰有る」先生「イヤ此のお夏は一旦死んで、爾して私の与えた新しい生命で蘇生(よみがえ)ったのです、死んだお夏は此の顔形で分って居ますが更に、其の蘇生った時の顔をお目に掛けましょう」云うより早く先生は仏壇の様な中から又彼の白木の箱を取り卸し、前と同じ事をして同じ顔形を引き起した。「サア是を見れば、云わずとも事の次第が分りましょう、エ丸部さん合点が行きましたか」余は更に其の顔形を見たが、此の方は松谷秀子である、秀子の顔を、ソックリ其の儘蝋の仮面に写したのである。

    第七十六回 真の素性

 勿論、愛らしい活々した秀子の美しさが蝋細工の顔形へ悉く写し取らるる筈はない、此の顔形を真の秀子に比ぶれば、確かに玉と石ほどの相違はある、けれど秀子の顔を写した者には違いない、人間業で秀子の顔を、他の品物へ写すとすれば是より上に似せる事は到底出来ぬ。
 けれど、何が為に秀子の顔形が人殺しの牢死人輪田夏子の顔形と共に、此の先生に保存せられ、余の眼前へ持ち出されたであろう、夏子を秀子の前身だといい、秀子を夏子の後身だというのだろうか、其の様な意味にも聞こえたけれど余りの事で合点する事が出来ぬ、牢の中で死んだ夏子と、余の未来の妻として活きて居る秀子と、何うして同じである、養母を殺すほどの邪慳な夏子と一点も女の道に欠けた所のない完全な秀子と何うして同じ人間である、余は遽しく先生に問うた。
「秀子の顔形と夏子の顔形との間に何の関係があるというのです」
 先生は少しも騒がぬ、少しも驚かぬ、寧ろひとしお落ち着いて、誇る様な顔附きで「是で私の手腕が分ったでしょう、斯様な事に掛けては、此のポール・レペルは今日の学者が未だ究め得ぬ所をまで究めて居ります、電気、化学、医療手術等の作用で一人の顔が、斯うも変化する事は、殆ど何人も信じません、政府と雖も信じません、信ぜねばこそ今までポール・レペルの職業が大した妨げを受けずに来たのです」余「では秀子と夏子と同じ女だと仰有るか」先生「勿論一人です、秀子が即ち夏子です。夏子が牢を出て、其のままの顔では世に出る道もない為に私へ頼み、今の秀子の姿にして貰ったのです、名を替えた通りに姿をまで変えたので」
 余は只恐ろしさに襲われて、訳もなく二足三足背後の方へ蹌踉(しりぞ)いた、けれど又思えば余り忘誕(ぼうたん)な話である、頓て恐ろしさは腹立たしさとなり「エエ人を欺すにも程があります、秀子と夏子と同人だなどと誰が其の様な事を信じますものか」と叫んだ、殆どポール・レペルを攫み殺さん程の見幕で又前へ進み出た。「悪党、悪党」と罵る声は思わず余の口から洩れた、先生は怪しむ様な顔で余の顔を見「オヤ、オヤ、貴方は今まで、秀子の真の素性をさえ知らなんだのですか、秀子と夏子と同人だという事を、エ、それさえ知らずに夏子をイヤ秀子を助けたいと思い、私の許へ来たのですか。其の様な事ならば私は迂闊に此の秘密を知らせるのではなかったのです、秀子に聞き合わせた上にするのでした」余「嘘です、嘘です、夏子が牢の中で死んだ事には一点の疑いもないのです」
 云い切っても先生の顔には、少しも嘘を云って居る様な色は見えぬ、何所迄も事実を守って居る人の様に、其の心底に最も強い所が見える。
 頓て先生は思い定めた調子で「イヤ是まで口外した以上は、最早秘密が破れた者です、詳しく説き明かして、秀子夏子の同一人という次第を、貴方へ能く呑み込せる外はないのです、先ず今通って来た金庫室までお帰りなさい、話は彼処で致しましょう」と云って二個の顔形を箱のまま重ねて持ち、余には振り向きもせずに、サッサと元来た方へ遣って行く、余は随いて行かぬ訳には行かぬ、足も地に附かぬ様で、フラフラと随いて行くと、先生は愈々金庫室へ入り、電燈を再び点(とも)して「先ず此の明るい所で熟く二個の顔形をお見較べなさい、爾すれば、私の説明が幾分か分りましょう」と云って、隅の方から卓子を持ち出して来た、其の上へ顔形と顔形とを静かに置いた、是から詳しく説き明かす積りと見える。

    第七十七回 同中の異

 卓子の上に置いた二個の顔形を、余は電気の光に依りつくづくと見較べた、夏子の顔と秀子の顔、何(いず)れを優る美しさと云って善かろう、夏子は秀子より肥って居る、丸形である、秀子は楕円である、丸形の方には顎に笑靨(えくぼ)がある、顎の笑靨は頬の笑靨より尚(とうと)いと或る詩人が云ってあるけれど、秀子の頬の笑靨は決して夏子の顎の笑靨に見劣りはせぬ、夏子は若く水々して愛らしく、秀子は洗って研ぎ出した様に垢脱(ぬ)けがして美しい、生際は夏子の方が優って居るが口許は確かに秀子に及ばぬ、勿論両人全く別人の人である、けれど能く見て居れば似寄った所が有る、初見には全くの別人で見るに従い似寄った所が多くなり或いは姉妹でも有ろうかと思われる程にも見える。
 先生は秀子の顔形の箱から又髪の毛を取り出して卓子の上に並べ「御覧なさい。双方の髪の毛が此の通り違って居ます、夏子のは緑が勝って色が重く、秀子のは黄が勝って色が軽いけれど、其の艶は一つです、毛筋の大小も優(しなや)かさも、少しも異った所はなく、若し目を閉じて撫でて見れば誰でも同じ髪毛としか思いません」
 と云いつつ自ら目を閉じて双方の髪毛を撫で較べて居る、余は胸に何とも譬え様のない感が迫って来て殆ど涙の出る様な気持になった。「けれど先生」とて争い掛けたけれど後の言葉は咽喉より出ぬ。
 先生は静かに腰を卸し「詳しく言いますから先ずお聞き成さい、全体私は脳の働きが推理的に発達して居ると見え、許多(あまた)の事柄の中で似寄った点を見出し、此の事は彼の事の結果だとか、これはかれの変態だとか云う事を見破るのが極めて早いのです、夫ですから自然犯罪の記事などを読み自分一身の見解を作るが好きで、今まで余り外れた事がないのです、此の夏子の老婆殺し事件なども初めから英国の新聞紙で読み自分一個の考えを定め、絶えず後の成行如何と気に掛けて居ましたが、其のうちに夏子牢死の報が伝わり又間もなく、私の許へその夏子が救いを求めに来る事になりました」
 是まで云いて思想の順序を附けるためか、又目を閉じて暫く考え「先刻も申しました通り、私の仕事は全く依頼者と利害を一にする様な性質で、私は依頼者から何も彼も打ち明けて貰った上でなければ仕事を始めませぬゆえ、此の件に就いて当人と、当人を連れて来た弁護士権田時介氏に充分今までの成り来たりを聞きました、両人ともには多少隠す所が有りましたけれど、大抵の事は既に私が見貫いて居て、急所急所を質問するのですから、果ては洩れなく話しました、其の話や其の後私の仕た事を陳(の)べれば、幾等貴方が疑い深くとも疑う事は出来ません、成るほど夏子と秀子とは同人だと信じます」
 此の様に順序を立てて言い来たられては、或いは信ぜぬ訳に行かぬ事となるかも知れぬ、と余も此の様に思い始めた、先生は余が心の斯く聊か動かんとするを見て取った様子で「先ず私の仕事から話しましょう、私は篤(とく)と夏子の顔を見ましたが、如何にも美人で、作り直す事が勿体ない、見る影もない醜婦にする事は容易ですが、それでは造化の美術を傷つける様な者で天に対して恐れが多い、何うか天然の美術を傷つけぬ様に、爾して全く別人と見える様に生れ替らせ度いと色々苦心を仕ましたが此の苦心の為に却って私の手際が不断ほど現われなんだのです、通例の顔ならば誰が何う見ても同一人とは見えぬ様に生れ替わらせる事が出来ますけれど、何しろ美しい者を美しい儘で変形させようというのですから、手際を現わす範囲が至って狭い、異中に異を求めるのでなく、同中に異を求めるのですから、全体云えば無理な話ですけれど、私は仕遂げました、とは云え何うも二人の顔に似寄った所が大変に残って居ます、既に鼻などは少しも変る事が出来ん。変れば必ず見劣りがするのです、歯並びなども其の通りで、真に天然の完全に達して居る者をば、其の完全を傷つけずに並べ変えると云う事は、如何なる彫刻師も出来ますまい、試みに双方の顔形に就き鼻の形を御覧なさい、何所にか違った所が有りますか」
 余「有りません」と答うる外はない、成るほど何う見ても違っては居ぬ、先生「ソレ御覧なさい。同じ事でしょう、歯は閉じた唇に隠れて、較べる事が出来ませんけれど若し出来たなら、是も貴方は私の言葉に服する外はないのです、サア此の様な訳ですから全く生れ替らせたとは云う者の、真に能く夏子の顔を知って居る人が、秀子の顔を見れば、真逆に同人だとも思わずとも、何等かの疑いを起すかも知れません、是のみは今までも私の気に掛けて居た所です、併し此の点をさえ見許して戴けば外の点は充分私の手際が現われて居ます、再び同じ程の美人を連れて来て此の顔を同じ程の美人に作り直して呉れと云った所で、私は再び是だけの手際を現わす事は殆ど出来まいと思って居ます、では何うして活きた人間の顔を作り直すかとお問いでしょう、仮面を被せるのか、肉を削るのか左様さマアマア仮面を被せる様な者、肉を削ったり殖(ふや)したりする様な者、其所が即ち学者も未だ研究し得ぬ此のポール・レペルの秘術です」

    第七十八回 発明の実益

 先生「今の学者が若し専心に、私と同様の事を研究したなら、人間の顔を作り直す事が出来るのですけれど、彼等は唯名誉を揚げるが先で、上部だけは様々の研究もしますけれど、名誉の外に立ち、世間から隠れて学術と情死する程の決心を以て必死に研究する事は致しません、だから私の専門の技術に於いて、私に及ばぬのです、ナニ私としても名誉を好む心があれば此の発明を世に知らせます、之を知らせたなら空前の発明だとか、学術上の大進歩だとか云って私の前へ拝跪(はいき)する人が沢山出来ましょう、世界中の医学新誌などは争うて私の肖像を掲げましょう、けれど私は夫は嫌いだ、嫉妬の多い学者社会に名を出して面倒の競争をするよりも、静かに我が発明の実益を収めるが好い、此の術を世間に知らさず唯独りで秘めて居れば、隠す者は現われる道理で夫から夫へ聞き伝え、貴方の様に権田時介の様に、輪田夏子の様に、密かに尋ねて来る人が一年に十五人や三十人は必ずあり通例名誉ある医者や学者の二人前位は実益を収める事が出来るでしょう」
 滔々(とうとう)と述べ立てる先生の有様は、宛も気焔を吐きたくて、誰か聞いて呉れる人を待って居たとでもいう風である、余は唯我が心の中は旋風(つむじかぜ)の吹き捲(まく)る様な気持で、思いも未だ定まらねば、先生の言葉に対し批評の語を発する事を得せぬ、先生「今の学者には学閥という者がありまして、同じ学校から出た同士とか、同じ目的を持って居る同士とかいう様な工合に友達から友達へ縁を引き、陰然として一つの団体、一つの当派を作って居り、爾して盛んに毛嫌いをするのです、当派の中から出た発明は詰らぬ事でも互いに称揚して大きな事の様に言い做し、寄って集(たか)って広く売り附ける様にしますが当派の外から現われた発明は、非難に非難を加え、何うやら斯うやら信用を失わせて了います、今私の様な独学孤立の人間が、此の様な発明をしたと云って学者の間へ出て行って御覧なさい、一時は今もいう通り、世界中の新聞雑誌にまで書き立てられましょう、けれど私の名が揚がれば揚がる丈、学閥の猜(そね)みは益々加わり、第一に私を山師だといい、私の術を実用する事の出来ぬ様にして了い、夫で足らずば、次には学閥の中から、是はポール・レペルの法よりも一層完全な発明で、実はレペルより先に成就して居たのだ、レペルは窃(ひそか)に其の法を盗んだのだなどと本家を奪いに掛かるもありましょう、中には此の様な法は罪人に姿を変えさするに通ずるのみで詰り犯罪を奨励して国家社会を危くする者だと叫ぶ者も出来、夫は夫は私を滅さねば止まぬのです」

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