無惨
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著者名:黒岩涙香 

 大鞆は一汗拭いて言葉を続け「第一に目を附け可き所は殺された男が一ツも所持品を持て居無(いな)い一条です、貴方を初め大概の人が是は殺した奴が露見を防ぐ為めに奪い隠して仕舞ッたのだと申ますが決して爾(そう)では有りません、若し夫(それ)ほど抜目なく気の附く曲者なら自分の髪の毛を握られて居る事にも必ず気が附く筈です然るに髪の毛に気が附かず其儘握らせて有たのは唯最(も)う死骸さえ捨れば好いとドギマギして死骸を担ぎ出したのです(荻)フム爾だ所持品を隠す位なら成る程髪の毛も取捨る筈だシテ見ると初(はじめ)から持物は持て居無(いなか)ったのかナ(大)イエ爾でも有ません持て居たのです、極々下等の衣服(みなり)でも有ませんから財布か紙入の類は是非持て居たのです(荻)併し夫は君の想像だろう(大)何うして想像では有ません演繹法(えんえきほう)の推理です、好(よ)し又紙入を持ぬにしても煙草入は是非持て居ました彼れは非常な煙草好ですから(荻)夫(それ)が何(どう)にして分る(大)夫は誰にも分る事です私しは死骸の口を引開て歯の裏を見ましたが煙脂(やに)で真黒に染って居ます何(ど)うしても余程の烟草好(ずき)です煙草入を持て居ない筈は有ません、是が書生上りとか何(なん)とか云うなら随分お先煙草(さきたばこ)と云う事も有ますけれど彼れは爾で有ません、安物ながら博多の帯でも〆(しめ)て居れば是非最(も)う腰の廻りに煙草入が有る者です(荻)夫(それ)なら其煙草入や財布抔(など)が何うして無(なく)なッた(大)夫が遺恨だから無(なく)なったのです遺恨とせねば外に説明の仕様が有ません、遺恨も唯の遺恨では無い自分の身に恨(うらま)れる様な悪い事が有て常に先の奴を恐れて居たのです、何でも私しの考えでは彼れ余程緩(ゆっ)くりして紙入も取出し煙草入も傍に置き、打寛ろいで誰かと話でも仕て居たのです其所へ不意に恐しい奴が遣(やっ)て来た者だから取る者も取合えず逃出したのです夫だから持物は何も無いのです(荻)而し夫だけでは何うも充分の道理とも思われんが(大)何故充分と思われません第一背の傷が逃た証拠です自分の身に悪い覚えが無くて何故逃ます、必ず逃る丈の悪い事が有る柄(から)です、既に悪い事があれば恨まれるのは当前(あたりまえ)です、自分でさえ悪いと思って逃出す程の事柄を先方が恨まぬ筈は有ません(荻)夫(それ)は爾(そう)だ、左すれは貴公の鑑定では先ず奸夫(まおとこ)と見たのだナ奸夫(かんぷ)が奸婦と密(しの)び逢て話しでも仕て居る所へ本統の所夫(おっと)の不意に帰って来たとか云う様な訳柄(わけがら)で(大)爾です全く爾です、私しも初から奸夫(まおとこ)に違い無いと目を附けて居りましたが誠の罪人が分ってから初て奸夫では無かったのかナと疑いを起す事に成りました(荻)夫(それ)は何う云う訳で(大)別に深い訳とても有ませんが実(まこと)の罪人は妻が無いのです夫(それ)は後で分りました(荻)併し独楽を廻す位の子が有れば妻が有る筈だが(大)イエ、夫(それ)でも妻は無いのです或は昔し有たけれど死だのか離縁したのか、殊に又其の子と云うのも貰い子だと申します(荻)貰い子か夫(それ)なら妻の無いのも無理ではないが、併し―若し又羅紗緬(らしゃめん)でも有はせんか(大)私しも爾(そう)思って其所(そこ)も探りましたが、兎に角自分の宅(うち)には羅紗緬類似の女は一人も居ません(荻)イヤサ家に居無くとも外へ囲(かこ)って有れば同じ事では無いか(大)イエ外へ囲って有れば決して此通りの犯罪は出来ません何故と云(いう)に先(まず)外妾(かこいもの)ならば其密夫(みっぷ)と何所で逢います(荻)何所とも極らぬけれど爾(そう)サ、先ず待合其他の曖昧な家か或は其(その)囲(かこ)われて居る自分の家だナ(大)サ夫だから囲い者で無いと云うのです、第一、待合とか曖昧の家とか云う所だと是程の人殺しが有(あっ)て御覧なさい、当人達は隠す積(つもり)でも其家の者が黙って居ません、警察へ馳附るとか隣近所を起すとか左も無くば後で警察へ訴えるとか何とか其様な事を致します、ですから他人の家で在った事なら此様な大罪が今まで手掛りの出ぬ筈は有ません(荻)若し其囲われて居る家へ奸夫(まおとこ)を引込で居たとすれば何(ど)うだ(大)爾(そう)すれば論理に叶いません先ず自分の囲われて居る家へ引込む位なら必ず初から用心して戸締を充分に附けて置きます、殊に此犯罪は医者の見立で夜の二時から三時の間と分って居ますから戸締をして有(あっ)た事は重々確(たしか)です、唯に戸締りばかりでは無い外妾(かこいもの)の腹では不意に旦那が戸を叩けば何所から逃(にが)すと云う事までも前以て見込を附て有るのです夫(それ)位の見込の附く女で無ければ決して我(わが)囲(かこ)われて居る所へ男を引込むなど左様な大胆な事は出来ませんサア既に斯(こう)まで手配(てくばり)が附て居れば旦那が外から戸を叩く、ハイ今開ますと返事して手燭を点(つけ)るとか燐寸(まっち)を探すとかに紛らせて男を逃します逃した上で無ければ決して旦那を入れません(荻)夫(それ)は爾(そう)だ、ハテナ外妾(かこいもの)で無し、夫(それ)かと云って羅紗緬(らしゃめん)でも妻でも無いとして見れば君の云う奸夫(まおとこ)では無いじゃ無いか(大)ハイ夫(それ)だから奸夫とは云いません唯だ奸夫の様な種類の遺恨で、即ち殺された奴が自分の悪い事を知り兼々恐れて居(いる)と云うだけしか分らぬと申ました(荻)でも奸夫より外に一寸(ちょっ)と其様な遺恨は有るまい(大)ハイ外には一寸と思い附ません併し六ヶしい犯罪には必ず一のミステリイ(不可思議)と云う者が有ますミステリイは到底罪人を捕えて白状させた上で無ければ何(ど)の様な探偵にも分りません是が分れば探偵では無い神様です、此事件では茲が即ちミステリイです、斯様に奸夫騒ぎで無くては成らぬ道理が分って居ながら其本人に妻が無い是が不思議の不思議たる所です、決して当人の外には此不思議を解く者は有ません(荻)爾(そう)まで分れば夫(それ)で能い最(も)う其本人の名前と貴公の謂(い)う、計略を聞(きこ)う(大)併し是だけで外に疑いは有ませんか(荻)フム無い唯だ今謂(いッ)たミステリイとかの一点より外に疑わしい所は無い(大)夫(それ)なら申ますが斯(こう)云(い)う次第です」と又も額の汗を拭きたり
 扨大鞆は言出(いいいず)るよう「私しは全く昨日の中に是だけの推理をして罪人は必ず年に似合ぬ白髪が有て夫(それ)を旨く染て居る支那人だと見て取(とり)ました、夫(それ)に由り先ず谷間田に逢い彼れが何(ど)う云う発明をしたか夫を聞た上で自分の意見も陳(のべ)て見ようと此署を指して宿所を出ました所宿所の前で兼て筆墨初め種々の小間物を売(うり)に来る支那人に逢(あっ)たのです何より先に個奴(こやつ)に問うが一番だと思いましたから明朝沢山に筆を買うから己の宿へ来て呉れと言附て置ました、夫より此署へ来た所丁度谷間田が出て行く所で私しは呼留たれど彼れ何か立腹の体で返事もせず去て仕舞いました夫(それ)ゆえ止(やむ)を得ず私しは又宿所へ引返しましたが、今朝に成て案の如く其支那人が参りました、夫(それ)を相手に種々の話をしながら実は己の親類に年の若いのに白髪の有て困って居る者が有(ある)がお前は白髪染粉の類を売はせぬかと問ますと其様な者は売(うら)ぬと云います夫(それ)なら若し其製法でも知ては居ぬかと問ましたら自分は知らぬが自分の親友で居留地三号の二番館に居る同国人が今年未だ四十四五だのに白髪だらけで毎(いつ)も自分で染粉(そめこ)を調合し湯に行く度に頭へ塗るが仲々能く染るから金を呉れゝば其製法を聞て来て遣(やろ)うと云います扨は是こそと思いお前居留地三号の二番と云えば昨日も己は三号の辺を通ったが何でも子供が独楽を廻して居た彼(あ)の家が二番だろうと云いました所アヽ子供が独楽を廻して居たなら夫(それ)に違いは有ません其子供は即ち今云った白髪のある人の貰い子だと云いました夫(それ)より色々と問いますと第一其白髪頭の名前は陳施寧(ちんしねい)と云い長く長崎に居て明治二十年の春、東京へ上り今では重(おも)に横浜と東京の間を行通(ゆきかよ)いして居ると云います夫(それ)に其気象は支那人に似合ぬ立腹易(はらだちやす)くて折々人と喧嘩をした事も有ると云いましたサア是が即ち罪人です三号の二番館に居る支那人陳施寧が全く遺恨の為に殺したのです」荻沢は暫し黙然として考えしが「成る程貴公の云う事は重々尤も髪の毛の試験から推て見れば何うしても支那人で無くては成らず又同じ支那人が決して二人まで有(あろ)うとは思われぬ併し果して陳施寧として見れば先ず清国領事に掛合も附けねばならず兎に角日本人が支那人に殺された事で有るゆえ実に容易ならぬ事件で有る(大)私しも夫(それ)を心配するのです新聞屋にでも之が知れたら一ツの輿論を起しますよ何しろ陳施寧と云うは憎い奴だ、併し谷間田は爾(そう)とは知らず未だお紺とかを探して居るだろうナ
 斯く云う折しも入口の戸を遽(あわた)だしく引開けて入来るは彼の谷間田なり「今陳施寧と云う声が聞えたが何うして此罪人が分ッたか―(荻)ヤヽ、谷間田貴公も陳施寧と見込を附けたか(谷)見込所では無い最(も)うお紺を捕えて参りました、お紺の証言で陳施寧が罪人と云う事から殺された本人の身分殺された原因残らず分りました(荻)夫(それ)は実に感心だ谷間田も剛(えら)いが、大鞆も剛い者だ(谷)エ大鞆が何故剛い―


          下篇(氷解)

 全く谷間田の云いし如くお紺の言立にも此事件の大疑団は氷解したり今お紺が荻沢警部の尋問に答えたる事の荒増(あらまし)を茲に記さん
 妾(わらわ)(お紺)は長崎の生れにて十七歳の時遊廓に身を沈め多く西洋人支那人などを客とせしが間もなく或人に買取られ上海(しゃんはい)に送られたり上海にて同じ勤めをするうちに深く妾(わらわ)を愛し初めしは陳施寧と呼ぶ支那人なり施寧は可なりの雑貨商にして兼てより長崎にも支店を開き弟の陳金起(ちんきんき)と言える者を其支店に出張させ日本の雑貨買入などの事を任(まか)せ置きたるに弟金起は兎角放埓にして悪しき行い多く殊に支店の金円を遣い込みて施寧の許へとては一銭も送らざる故施寧は自ら長崎に渡らんとの心を起し夫(それ)にしてはお紺こそ長崎の者なれば引連れ行きて都合好きこと多からんと終(つい)に妾を購(あがな)いて長崎に連れ来れり施寧は生れ附き甚だ醜き男にして頭には年に似合ぬ白髪多く妾は彼れを好まざれど唯故郷に帰る嬉さにて其言葉に従いしなり頓(やが)て連(つれ)られて長崎に来り見れば其弟の金起と云えるは初め妾が長崎の廓にて勤めせしころ馴染を重ねし支那人にて施寧には似ぬ好男子なれば妾は何時しかに施寧の目を掠めて又も金起と割無(わりな)き仲と無(な)れり去れど施寧は其事を知らず益々妾を愛し唯一人なる妾の母まで引取りて妾と共に住わしめたり母は早くも妾が金起と密会する事を知りたれど別に咎むる様子も無く殊に金起は兄施寧より心広くしてしば/\母に金など贈ることありければ母は反(かえ)って好き事に思い妾と金起の為めに首尾を作る事もある程なりき其内に妾は孰(たれ)かの種を宿し男の子を儲(もう)けしが固より施寧の子と云いなし陳寧児(ちんねいじ)と名(なづ)けて育てたり是より一年余も経たる頃風(ふ)とせしことより施寧は妾と金起との間を疑い痛(いた)く怒りて妾を打擲(ちょうちゃく)し且つ金起を殺さんと迄に猛りたれど妾巧(たく)みに其疑いを言解(いいと)きたり斯くても妾は何故か金起を思い切る心なく金起も妾を捨(すて)るに忍びずとて猶お懲りずまに不義の働きを為し居たり、寧児が四歳の時なりき金起は悪事を働き長崎に居ることが出来ぬ身と為りたれば妾に向いて共に神戸に逃行(にげゆ)かんと勧めたり妾は早くより施寧には愛想尽き只管(ひたす)ら金起を愛したるゆえ左(さ)らば寧児をも連れて共に行かんと云いたるに※[#「研のつくり」、第3水準1-84-17]《そ》は足手纏いなりとて聞入るゝ様子なければ詮方(せんかた)なく寧児を残す事とし母にも告げず仕度を為し翌日二人にて長崎より舩(ふね)に乗りたり後にて聞けば金起は出足(であし)に臨(のぞ)み兄の金を千円近く盗み来たりしとの事なり頓(やが)て神戸に上陸し一年余り遊び暮すうち、金起の懐中も残り少くなりたれば今のうち東京に往き相応の商売を初めんと又も神戸を去り東京に上り来たるが当時築地に支那人の開ける博奕宿あり金起は日頃嗜(たしな)める道とて直(ただち)に其宿に入込みしも運悪くして僅に残れる金子(きんす)さえ忽ち失い尽したれば如何に相談せしか金起は妾を其宿の下女に住込ませ己れは「七八(チーパー)」の小使に雇れたり此後一年を経て明治二十年の春となり妾も金起も築地に住い難きこと出来たり其因由(わけ)は他ならず彼の金起の兄なる陳施寧商業(しょうばい)の都合にて長崎を引払い東京に来りて築地に店を開きしと或人より聞たれば当分の中(うち)分れ/\に住む事とし妾は口を求めて本郷の或る下等料理屋へ住込み金起は横浜の博奕宿へ移りたり或日妾は一日の暇を得たれば久し振に金起の顔を見んと横浜より呼び寄せて共に手を引き此処彼処見物するうち浅草観音に入りたるに思いも掛けず見世物小屋の辺(ほと)りにて後より「お紺/\」と呼ぶものあり振向き見れば妾の母なり寧児も其傍にあり見違るほど成長したり「オヤ貴女は(母)お前は先(ま)ア私にも云わずに居無く成て夫切(それき)り便りが無いから何処へ行(いっ)たかと思ったら先(ま)ア東京へ先(ま)ア、而(そ)して先ア金起さんも先(ま)ア、寧児覚えて居るだろう是が毎(いつ)も云うお前のお母さんだよ、お父さんはお前を貰い子だと云う筈だ此れがお前の本統のお父さん、私は先ア前(さき)へ云わねば成らん事を忘れてサ、お紺や未だ知る舞(ま)いが用心せねば了(いけ)ないよ東京へ来たよ、親指が、私もアノ儘世話に成て居て此通り東京まで連(つれ)られて来たがの、今でもお前に大残りに残て居るよ未練がサ、親指は、お前が居無(いなく)なッた時何(ど)の様に怒ッたゞろう、私まで叩き出すッて、チイ/\パア/\言たがネ、腹立(はらたっ)た時やア少(すこし)も分らんネ、言(いう)ことが、でも後で私しを世話して置けば早晩(いつか)お前が逢い度く成て帰ッて来るだろうッて、惚(のろ)い事は箝(わ)を掛てるネ日本人に爾(そう)して今は何所に、ア爾(そ)う本郷に奉公、ア爾う可愛相に、金起さんも一緒かえ、ア爾う金起さんは横浜に、ア爾う別々で逢う事も出来ない、ア爾う可愛相に、ア爾う親指の来た事を聞いて、ア爾う可愛相に用心の為め分れてか、ア爾う今日久ぶりに逢ッて、ア爾う可愛相に、夫(それ)ではお前斯うお仕な今夜はネ家へ来てお宿りな金起さんと二人で、ナニ浮雲(あぶな)い者か昨日横浜へ行て明後日で無ければ帰らんよイエ本統に恐い事が有る者かイエお泊りなお泊りよ若し何だアネ帰ッて来れば三人で裏口から馳出さアネ、ナニ寧児だッて大丈夫だよ、多舌(しゃべり)や仕無(しない)よ本統のお父さんとお母さんが泊るのだもの多舌するものか、ネエ寧児、此子の名前は日本人の様で呼び易くッて好い事ネ隣館(おとなり)の子は矢ッ張り合の子で珍竹林と云うのだよ可笑(おかし)いじゃ無いかネエ、だから私が一層の事寧次郎とするが好と云うんだよ、来てお泊りな裏から三人で逃出さアネ、イエ正直な所は私しも最う彼処(あすこ)に居るのは厭で/\成(なら)ないのお前達と一緒に逃げれば好かッた、アヽ時々爾(そう)思うよ今でも連れて逃げて呉(くれ)れば好いと、イヽエ口(くち)には云(いわ)ぬけれど本統だよ、来てお泊りな、エ、お前今夜も明(あす)の晩も大丈夫、イエ月の中に二三度は家を開るよ横浜へ行てサ、其留守は何(どん)なに静で好だろう是からネ其様(そんな)時には逃(のが)さず手紙を遣るから来てお泊りよ、二階が広々として、エお出なネお出よお出なね、お出よう」母は独りで多舌立(しゃべりた)て放す気色も見えざる故、妾も金起もツイ其気になり此夜は大胆にも築地陳施寧の家に行き広々と二階に寐(い)ね次の夜も又泊り翌々日の朝に成り寧児には堅く口留して帰りたり此後も施寧の留守と為ること分るたびに必ず母より前日に妾の許へ知らせ来る故、妾は横浜より金起を迎え泊り掛けに行きたり、若し母と寧児さえ無くば妾(わらわ)斯(かゝ)る危き所へ足蹈もする筈なけれど妾の如き薄情の女にも母は懐しく児は愛らしゝ一ツは母の懐しさに引(ひか)され一ツは子の愛らしさに引されしなり、去れば其留守前日より分らずして金起を呼び迎える暇なき時は妾唯一人(ひと)り行きたる事も有り明治二十年の秋頃よりして今年の春までに行きて泊りし事凡(およ)そ十五度も有る程なり、今年夏の初め妾は余り屡々奉公先を空ける故暇を出されて馬道の氷屋へ住込しが七月四日の朝母より「親指は今日午後五時の汽車で横浜へ行き明後日(あさって)まで確かに帰らぬからきッとお出(いで)待(まっ)て居る」との手紙来れり妾は暫く金起に逢ぬ事とて恋しさに堪えざれば早速横浜へ端書を出したるに午後四時頃金起来りければ直に家を出で少し時刻早きゆえ或処にて夕飯を喫(た)べ酒など飲みて時を送り漸(よう)やく築地に着きたるは夜も早や十時頃なり直ちに施寧の家に入り母と少しばかり話しせし末例の如く金起と共に二階に上り一眠りして妾は二時頃一度目を覚(さま)したり、見れば金起も目を覚し居て「お紺、今夜は何と無く気味の悪い事が在る己は最(も)う帰る」と云いながら早や寐衣(ねまき)を脱ぎて衣物(きもの)に更(あらた)め羽織など着て枕頭(まくらもと)に居直るゆえ妾は不審に思い「何が其様に気味が悪いのです帰るとて今時分何処へ帰ります(金)何処でも能(よ)い、此家には寐(ね)て居れぬ(妾)何故ですえ(金)先程から目を醒して居るのに賊でも這入て居るのか押入の中で変な音がする、ドレ其方(そっち)の床の間に在る其煙草入と紙入を取ッて寄越せ(妾)なに貴方賊など這入(はいり)ますものか念の為めに見て上(あげ)ましょう」と云いながら妾は起きて後なる押入の戸を開けしに個(こ)は如何に中には一人(ひと)り眠れる人あり妾驚きて「アレー」と云いながら其戸を閉切れば眠れる人は此音に目を覚せしか戸を跳開(はねひら)きて暴出(あれいで)たり能く見れば是れ金起の兄なる陳施寧なり、今より考え想い見るに施寧は其子寧児より此頃妾が金起と共に其留守を見て泊りに来ることを聞出し半ば疑い半ば信じ今宵は其実否を試さんとて二日泊りにて横浜へ行くと云いなし家を出たる体に見せかけ明るき中より此押入に隠れ居たるも十時頃まで妾と金起が来らざりし故待草臥(まちくたび)れて眠りたるなり、殊に西洋戸前(とまえ)ある押入の中に堅く閉籠りし事なれば其戸を開く迄物音充分聞えずして目を覚さずに居たる者なり夫(それ)は扨置(さてお)き妾は施寧が躍出るを見て転(ころが)る如くに二階を降しが、金起は流石に男だけ、徒(いたずら)に逃たりとて後にて証拠と為る可き懐中物などを遺しては何んの甲斐も無しと思いしか床の間の方に飛び行かんとするに其うち早や後より背の辺りを切り附けられたり妾是まではチラと見たれど其後の事は知らず唯斯く露見する上は母は手引せし廉(かど)あれば後にて妾よりも猶お酷(ひど)き目に逢うならんと、驚き騒ぎて止まざるゆえ妾は直に其手を取り裏口より一散に逃出せり、夜更なれども麻布の果には兼て、一緒に奉公せし女安宿の女房と為れるを知るに由り通り合す車に乗りて、其許に便(たよ)り行きつゝ訳は少しも明さずに一泊を乞いたるが夜明けて後(の)ちも此辺りへは人殺しの評(うわさ)も達せず妾は唯金起が殺されたるや如何にと其身の上を気遣うのみ去れども別に詮方あらざれば何とかして此後の身の振方を定めんと思案しつ又も一夜を泊りたるに今日午後一時過ぎに谷間田探偵入来り種々の事を問われたり固(もと)より我身には罪と云う程の罪ありと思わねば在りの儘を打明けしに斯くは母と共に引致(いんち)せられたる次第なり
 以上の物語りを聞了(きゝおわ)りて荻沢警部は少し考え夫(それ)では誰が殺されたのか(紺)誰が殺されたか夫(それ)までは認めませんが多分金起かと思います(荻)ハテ金起が―併し金起は何(ど)の様な身姿(みなり)をして居た(紺)金起は長崎に居る時から日本人の通りです一昨夜は紺と茶の大名縞の単物に二タ子唐桟の羽織を着て博多の帯を〆て居ました(荻)ハテ奇妙だナ、頭は(紺)頭は貴方の様な散髪で(荻)顔に何か目印があるか(紺)左の目の下に黒痣(ほくろ)が
 アヽ是にて疑団(ぎだん)氷解(ひょうかい)せり殺せしは支那人陳施寧殺されしは其弟の陳金起少も日本警察の関係に非ず唯念の為めに清国領事まで通知し領事庁にて調(しらべ)たるに施寧は俄に店を仕舞い七月六日午後横浜解纜の英国船にて上海に向け出帆したる後の祭にて有たれば大鞆の気遣いし如く一大輿論を引起すにも至らずしてお紺まで放免と為れり去れど大鞆は谷間田を評して「君の探偵は偶(まぐ)れ中(あた)りだ今度の事でも偶々(たま/\)お紺の髪の毛が縮れて居たから旨く行た様な者の若しお紺の毛が真直だッたら無罪の人を幾等(いくら)捕えるかも知れぬ所だ」と云い谷間田は又茶かし顔にて「フ失敬なッ、フ小癪な、フ生意気な」と呟き居る由(よし)独り荻沢警部のみは此少年探偵に後来の望みを属し「貴公は毎(いつ)も云う東洋のレコックになる可しなる可し」と厚く奨励すると云う
(明治二十二年九月〈小説叢〉誌発表)



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