無惨
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著者名:黒岩涙香 

          無惨序

 日本探偵小説の嚆矢(こうし)とは此無惨を云うなり無惨とは面白し如何なること柄(がら)を書しものを無惨と云うか是れは此れ当時都新聞の主筆者涙香小史君が得意の怪筆を染め去年築地河岸海軍原に於て人殺(ひとごろし)のありしことを作り設け之れに探偵の事項を附会して著作せし小説なり予(よ)本書を読むに始めに探偵談を設けて夫(それ)より犯罪の事柄に移りお紺と云う一婦人を捜索して証拠人に宛て之れが口供より遂いに犯罪者を知るを得るに至る始末老練の探偵が自慢天狗若年の探偵が理学的論理的を以て一々警部に対(むか)って答弁するごとき皆な意表に出(いで)て人の胆を冷し人の心を寒(さむか)らしむる等実に奇々怪々として読者の心裡を娯(たのし)ましむ此書や涙香君事情ありて予に賜う予印刷して以て発布せしむ世評尤も涙香君の奇筆を喜び之を慕いて其著書訳述(やくじゅつ)に係る小説とを求めんと欲し続々投書山を為(な)す之をもって之を見れば君が文事に於ける亦(ま)た羨むべし嗚呼(あゝ)涙香君は如何なる才を持て筆を採るや如何なる技を持って小説を作るや余は敢て知らず知らざる故(ゆえ)に之れを慕う慕うと雖(いえど)も亦た及ばず是れ即ち天賦(てんぷ)の文才にして到底追慕するも亦画餠に属すればなりと予は筆を投じて嗟嘆(さたん)して止みぬ
明治廿二年十月中旬香夢楼に坐して梅廼家かほる識(しる)す[#改ページ]

          上篇(疑団(ぎだん))

 世に無惨(むざん)なる話しは数々あれど本年七月五日の朝築地字(あざな)海軍原の傍らなる川中に投込(なげこみ)ありし死骸ほど無惨なる有様は稀なり書(かく)さえも身の毛逆立(よだ)つ翌六日府下の各新聞紙皆左の如く記したり
◎無惨の死骸 昨朝六時頃築地三丁目の川中にて発見したる年の頃三十四五歳と見受けらるゝ男の死骸は何者の所為(しわざ)にや総身に数多(あまた)の創傷、数多の擦剥(すりむき)、数多の打傷あり背(せな)などは乱暴に殴打せし者と見え一面に膨揚(はれあが)り其間に切傷ありて傷口開き中より血に染みし肉の見ゆるさえあるに頭部(あたま)には一ヶ所太き錐にて突きたるかと思わるゝ深さ二寸余の穴あり其上槌(つち)の類にて強く殴打したりと見え頭は二ツに割(さ)け脳骨砕けて脳味噌散乱したる有様実に目も当(あて)られぬ程なり医師の診断に由れば孰(いず)れも午前二三時頃に受けし傷なりと同人の着服(きもの)は紺茶堅縞(たてじま)の単物(ひとえもの)にて職業も更に見込附かず且つ所持品等は一点もなし其筋の鑑定に拠れば殺害したる者が露見を防がんが為めに殊更奪い隠したる者ならん故に何所(いずこ)の者が何の為めに斯く浅ましき死を遂げしや又殺害したる者は孰れの者か更に知る由なければ目下厳重に探偵中なり(以上は某(それ)の新聞の記事を其儘(そのまゝ)に転載したる者なり)
 猶(な)お此無惨なる人殺(ひとごろし)に附き其筋の調(しらべ)たる所を聞くに死骸は川中より上げたれど流れ来(きた)りし者には非ず別に溺(おぼ)れ漂いたりと認むる箇条は無く殊に水の来らざる岸の根に捨てゝ有りたり、猶お周辺(あたり)に血の痕の無きを見れば外(ほか)にて殺せし者を舁(かつ)ぎ来りて投込みし者なる可(べ)し又此所(このところ)より一町ばかり離れし或家の塀に血の附きたる痕あれど之も殺したる所には非ず多分は血に塗(まみ)れたる死骸を舁ぎ来る途中事故ありて暫し其塀に立掛し者なる可し
 殺せしは何者か殺されしは何者か更に手掛り無しとは云え七月の炎天、腐敗(くさ)り易き盛りと云い殊(こと)に我国には仏国巴里府(ぱりふ)ルー、モルグに在(あ)る如き死骸陳列所の設けも無きゆえ何時(いつ)までも此儘(このまゝ)に捨置く可きに非ず、最寄(もより)区役所は取敢(とりあ)えず溺死漂着人と見做(みな)して仮に埋葬し新聞紙へ左の如く広告したり
 溺死人男年齢三十歳より四十歳の間当(とう)二十二年七月五日区内築地三丁目十五番地先川中へ漂着仮埋葬済○人相○顔面長(おもなが)き方(かた)○口細き方眉黒き方目耳尋常左りの頬に黒痣(あざ)一ツあり頭(かしら)散髪身長(みのたけ)五尺三寸位中肉○傷所数知れず其内大傷は眉間に一ヶ所背に截割(たちわり)たる如き切傷二ヶ所且肩より腰の辺りへ掛け総体に打のめされし如く膨上(はれあが)れり左の手に三ヶ所、首に一ヶ所頭の真中に大傷其処此処に擦傷(かすりきず)等数多あり、咽(のど)に攫(つか)み潰せし如き傷○衣類大名縞単物(ひとえもの)、二タ子唐桟(ことうざん)羽織但紐附、紺博多帯、肉シャツ、下帯、白足袋、駒下駄○持物更に無し○心当りの者は申出ず可し
明治二十二年七月六日最寄区役所(右某新聞より転載) 人殺しは折々あれど斯くも無惨な、斯くも不思議な、斯くも手掛(てがゝり)なき人殺しは其類少し去れば其日一日は到る所ろ此人殺しの噂ならぬは無(なか)りしも都会は噂の種の製造所なり翌日は他の事の噂に口を奪われ全く忘れたる如し独り忘れぬは最寄(もより)警察の刑事巡査なり死骸の露見せし朝の猶お暗き頃より心を此事にのみ委(ゆだ)ね身を此事にのみ使えり、心を委ね身を使えど更に手掛りの無きぞ悲しき
 刑事巡査、下世話(げせわ)に謂う探偵、世に是ほど忌(いま)わしき職務は無く又之れほど立派なる職務は無し、忌わしき所を言えば我身の鬼々(おに/\)しき心を隠し友達顔を作りて人に交り、信切顔(しんせつがお)をして其人の秘密を聞き出し其(そ)れを直様(すぐさま)官に売附けて世を渡る、外面(げめん)如菩薩(にょぼさつ)内心如夜叉(にょやしゃ)とは女に非ず探偵なり、切取強盗人殺牢破りなど云える悪人多からずば其職繁昌せず、悪人を探す為に善人を迄も疑い、見ぬ振をして偸(ぬす)み視(み)、聞かぬ様をして偸み聴(きく)、人を見れば盗坊(どろぼう)と思えちょう恐(おそろし)き誡めを職業の虎の巻とし果は疑うに止(とま)らで、人を見れば盗坊で有れかし罪人で有れかしと祈るにも至るあり、此人若(も)し謀反人ならば吾れ捕えて我手柄にせん者を、此男若し罪人ならば我れ密告して酒の代(しろ)に有附(ありつか)ん者を、頭に蝋燭は戴(いたゞ)かねど見る人毎を呪うとは恐ろしくも忌わしき職業なり立派と云う所を云えば斯くまで人に憎まるゝを厭わず悪人を看破(みやぶ)りて其種を尽し以て世の人の安きを計る所謂(いわゆる)身を殺して仁を為す者、是ほど立派なる者あらんや
 五日の朝八時頃の事最寄警察署の刑事巡査詰所に二人の探偵打語らえり一人は年四十頃デップリと太りて顔には絶えず笑(えみ)を含めり此笑見る人に由りて評(うわさ)を異にし愛嬌ある顔と褒(ほ)めるも有り人を茶(ちゃ)かした顔と貶(そし)るも有り公平の判断は上向けば愛嬌顔、下へ向(むい)ては茶かし顔なる可(べ)し、名前は谷間田(たにまだ)と人に呼ばる紺飛白(こんがすり)の単物(ひとえもの)に博多の角帯、数寄屋(すきや)の羽織は脱ぎて鴨居の帽子掛に釣しあり無論官吏とは見えねど商人とも受取り難し、今一人は年廿五六小作りにして如才(じょさい)なき顔附なり白き棒縞の単物金巾(かなきん)のヘコ帯、何(ど)う見ても一個の書生なれど茲(ここ)に詰居る所を見れば此頃谷間田の下役に拝命せし者なる可し此男テーブル越(ごし)に谷間田の顔を見上げて「実に不思議だ、何(ど)う云う訳で誰に殺されたか少しも手掛りが無い」谷間田は例の茶かし顔にて「ナニ手掛は有るけれど君の目には入らぬのだ何しろ東京の内で何家(どこ)にか一人足らぬ人が出来たのだから分らぬと云う筈は無い早い譬(たと)えが戸籍帳を借りて来て一人/\調べて廻れば何所にか一人不足して居るのが殺された男と先(ま)斯(こ)う云う様な者サ大鞆君(おおともくん)、君は是が初めての事件だから充分働いて見る可しだ、斯う云う六(むず)ヶしい事件を引受けねば昇等(しょうとう)は出来ないぜ(大鞆)夫(そ)りゃ分(わか)ッて居る盤根錯節(ばんこんさくせつ)を切(きら)んければ以て利器を知る無しだから六(むず)かしいは些(ちっ)とも厭(いと)ヤせんサ、けどが何か手掛りが無い事にや―先(ま)ア君の見た所で何(ど)の様な事を手掛と仕給うか(谷)何(ど)の様な事と、何から何まで皆手掛りでは無いか第一顔の面長いのも一ツの手掛り左の頬に痣(あざ)の有るのも亦(また)手掛り背中(せなか)の傷も矢張り手掛り先ず傷が有るからには鋭い刃物(はもの)で切(きっ)たには違い無い左(さ)すれば差当り刃物を所持して居る者に目を附けると先(ま)ア云う様な具合で其目の附所(つけどころ)は当人の才不才と云う者君は日頃から仏国(ふらんす)の探偵が何うだの英国(いぎりす)の理学は斯(こう)だのと洋書を独りで読んだ様な理屈を並べるから是も得意の論理学とか云う者で割出して見るが好いアハヽヽ何と爾(そう)では無いか」大鞆は心中に己れ見ろと云う如き笑(えみ)を隠して故(わざ)と頭を掻き「夫(それ)は爾(そう)だけどが書物で読むのと実際とは少し違うからナア小説などに在る曲者は足痕が残ッて居るとか兇器を遺(わす)れて置くとか必ず三ツ四ツは手掛りを存(のこ)して有るけどが是ばかりは爾(そう)で無い、天(てん)きり殺された奴の名前からして世間に知て居る人が無い夫(それ)だから君何所から手を附けると云う取附(とっつき)だけは知(しら)せて呉れねば僕だッて困るじゃ無いか(谷)其取附と云うのが銘々の腹に有る事で君の能(よ)く云う機密とやらだ互いに深く隠して、サアと成る迄は仮令(たと)え長官にも知(しら)さぬ程だけれど君は先ず私(わし)が周旋で此署へも入(いれ)て遣(やっ)た者では有(ある)し殊に是が軍(いくさ)で言えば初陣の事だから人に云われぬ機密を分けて遣る其所の入口を閉(しめ)て来たまえ(大)夫や実に難有(ありがた)い畢生(ひっせい)の鴻恩(こうおん)だ」谷間田は卓子(ていぶる)の上の団扇(うちわ)を取り徐々(しず/\)と煽ぎながら少し声を低くして「君先ず此人殺しを何と思う慾徳尽(よくとくずく)の追剥と思うか但しは又―(大)左様サ持物の一ツも無い所を見れば追剥かとも思われるし死様の無惨な所を見れば何かの遺恨だろうかとも思うし兎に角仏国(ふらんす)の探偵秘伝に分り難き犯罪の底には必ず女ありと云ッて有るから女に関係した事柄かとも思う(谷)サ、爾(そう)先(さき)ッ潜りをするから困る静(しずか)に聞(きゝ)たまえな、持物の無いのは誰が見ても曲者が手掛りを無くする為に隠した事だから追剥の証拠には成らぬが、第一傷に目を留たまえ傷は背(せな)に刀で切(きっ)たかと思えば頭には槌で砕いた傷も有る既に脳天などは槌だけ丸く肉が凹込(めりこ)んで居る爾かと思えば又所々には抓投(かなくっ)た様な痕も有る(大)成るほど―(谷)未だ不思議なのは頭にへばり附て居る血を洗い落して見た所頭の凹込んで砕けた所に太い錐(きり)でも叩き込んだ様な穴も有るぜ―君は気が附くまいけれど(大)ナニ気が附て居るよ二寸も深く突込んだ様に(谷)夫なら君アレを何で附けた傷と思う(大)夫は未だ思考(かんがえ)中だ(谷)ソレ分るまい分らぬならば黙ッて聞く可しだ、私(わし)はアレを此頃流行るアノ太い鉄の頭挿(かんざし)を突込んだ者と鑑定するが何(ど)うだ」大鞆は思わずも笑わんとして辛(やっ)と食留(くいと)め「女がかえ(谷)頭挿(かんざし)だから何(ど)うせ女サ、女が自分で仕なくても曲者が、傍に落て居るとか何うとかする女の頭挿を取て突(つい)たのだ孰(いず)れにしても殺す傍(そば)には女びれが居たは之で分る(大)でも頭挿の脚は二ツだから穴が二ツ開(あ)く筈だろう(谷)馬鹿を言い給え、二寸も突込(つきこも)うと云うには非常の力を入れて握るから二ツの脚が一ツに成(な)るのサ(大)一ツに成(なっ)ても穴は横に扁(ひら)たく開く筈だ、アノ穴は少しも扁たく無い満丸(まんまる)だよシテ見れば頭挿で無い外の者だ」谷間田は又茶かす如く笑いて「爾(そう)気が附くは仲々感心是(これ)だけは実の所ろ一寸(ちょっ)と君の智恵を試して見たのだ」大鞆は心の底にて「ナニ生意気な、人を試すなどと其手に乗る者か」と嘲り畢(おわ)ッて「夫(そん)なら本統(ほんとう)の所ろアレは何の傷だ(谷)夫は未だ僕にも少し見込が附かぬが先(まあ)静かに聞く可し、兎に角斯う種々様々の傷の有る所を見れば、好(よい)かえ能(よ)く聞(きゝ)たまえ、一人で殺した者では無い大勢で寄て襲(たか)ッて殺した者だ(大)成る程―(谷)シテ見れば先ず曲者は幾人(いくたり)も有るのだが、併し寄て襲ッて殺すには何うしても往来では出来ぬ事だ(大)夫(そり)ゃ何(ど)う云う訳で(谷)何う云う訳ッて君、聞たまえよ(大)又聞たまえか(谷)イヤ先(まあ)聞たまえ、往来なら逃廻るから夫を追掛ける中には人殺し人殺しと必ず声を立(たて)る其中(そのうち)には近所で目を醒すとか巡査が聞附るとかするに極って居る(大)夫では野原か(谷)サア野原と云う考えも起る併し差当り野原と云えば日比野(ひゞや)か海軍原だ、日比谷から死骸をアノ河岸まで担いで来る筈は無し、又海軍原でも無い、と云う者は海軍原へは矢鱈(やたら)に這入(はいら)れもせず、又隅から隅まで探しても殺した様な跡は無し夫に一町ばかり離れた或家の塀に血の附て居る所を見ても海軍原で殺して築地三丁目の河岸へ捨るに一町も外(ほか)へ舁(かつい)で行く筈も無(なし)(大)夫では家の内で殺したのか(谷)先(まあ)聞たまえと云うのに、爾(そう)サ家の内とも、家の内で殺したのだ、(大)家の中でも矢張り騒しいから近所で目を醒すだろう(谷)ソオレ爾(そう)思うだろう素徒(しろうと)は兎角爾(そう)云う所へ目を附けるから仕方が無い成るほど家の中でも大勢で人一人殺すには騒ぎ廻るに違い無い、従ッて又隣近所で目を醒すに違い無い、其所だテ隣近所で目を醒してもアヽ又例の喧嘩かと別に気にも留(とめ)ずに居る様な所が何所にか有るだろう(大)夫では屡々(しば/\)大喧嘩の有る家かネ(谷)爾サ、屡々大勢の人も集り又屡々大喧嘩も有ると云う家が有る其様(そのよう)な家で殺されたから隣近所の人も目を醒したけれど平気で居たのだ別に咎めもせずに捨て置(おい)て又眠ッて仕舞ッたのだ(大)併し其様な大勢集ッて喧嘩を再々する家が何所に在る(谷)是ほどいッても未だ分らぬから素徒(しろうと)は夫で困る先(まあ)少し考えて見たまえな(大)考えても僕には分らんよ(谷)刑事巡査とも云われる者が是位いの事が分(わか)らんでは仕方が無いよ、賭場(どば)だアネ(大)エ、ドバ、ドバなら知て居る仏英の間の海峡(谷)困るなア冗談じゃ無いぜ賭場とは賭博場(ばくちば)だアネ(大)成るほど賭場は博奕場(ばくちば)か夫なら博奕場の喧嘩だネ(谷)爾サ博奕場の喧嘩で殺されたのよ博奕場だから誰も財布の外は何も持(もっ)て行ぬがサア喧嘩と云えば直(すぐ)に自分の前に在る金を懐中(ふところ)へ掻込んで立ち其上で相手に成るのが博奕など打つ奴の常だ其所には仲々抜目は無いワ、アノ死骸の当人も矢張り夫(それ)だぜ詳しい所までは分らぬけれど何でも傍に喧嘩が有(あっ)たので手早く側中(かわじゅう)の有金を引浚ッて立(たと)うとすると居合せた者共が銘々に其一人に飛掛り初の喧嘩は扨置(さておい)て己の金を何うしやがると云う様な具合に手ン手(で)ンに奪い返す所から一人と大勢との入乱れと為り踏れるやら打(うた)れるやら何時(いつ)の間にか死(しん)で仕舞ッたんだ、夫だから持物や懐中物は一個(ひとつ)も無いのだ、エ何うだ恐れ入(いっ)たか」大鞆は暫し黙考(かんが)えて「成る程旨く考えたよ、けどが是は未だ帰納法(きのうほう)で云う「ハイポセシス」だ仮定説だ事実とは云われぬテ之から未だ「ヴェリフィケーション」(証拠試験)を仕て見ん事にや(谷)サ夫が生意気だと云うのだ自分で分らぬ癖に人の云う事に批(ひ)を打(うち)たがる(大)けどが君、君が根拠とするのは唯(たゞ)様々の傷が有(ある)と云うだけの事で傷からして大勢と云う事を考え大勢からして博奕場と云う事を考えた丈じゃ無いか詰り証拠と云うのは様々の傷だけだ外に何も無い、第一此開明世界に果して其様な博奕場が有る筈も無し―(谷)イヤ有るから云うのだ築地へ行ッて見ろ支那人が七八(チーパー)も遣るし博奕宿もあるし宿ッてもナニ支那人が自分では遣らぬ皆日本の博徒に宿を借して自分は知らぬ顔で場銭(ばせん)を取るのだ場銭を、だから最(も)うスッカリ日本の賽転(さいころ)で狐だの長半などを遣(やっ)て居るワ(大)けどが博奕打にしては衣服(みなり)が変だよ博多の帯に羽織などは―(谷)ナアニ支那人の博奕宿へ入込む連中には黒い高帽を冠ッた人も有るし様々だ、夫に又アノ死骸を詳しく見るに手の皮足の皮などの柔な所は荒仕事をした事の有る人間でも無し、かと云(いっ)て生真面目(きまじめ)の町人でも無い何うしても博奕など打つ様な惰(なま)け者だ」大鞆は真実感心せしか或は浮立(うきたゝ)せて猶お其奥を聞(きか)んとの巧計(たくみ)なるか急に打開けし言葉の調子と為り「イヤ何うも感心した、何にも手掛りの無いのを是まで見破ぶるとは、成る程築地には支那人が日本の法権の及ばぬを奇貨として其様な失敬な事を仕て居るかナア、実に卓眼には恐れ入(いっ)た」谷間田は笑壷(えつぼ)に入り「フム恐れ入たか、爾(そう)折(おれ)て出れば未だ聞(きか)せて遣(や)る事が有る実はナ」と云いながら又も声を低くし「現場に立会た予審判事を初め刑部(けいぶ)に至るまで丸ッきり手掛が無い様に思って居るけれど未だ目が利(きか)ぬと云う者だ己は一ツ非常な証拠者(しょうこもの)を見出して人知(しれ)ず取て置(おい)た(大)エ、何か証拠品が落て居たのか夫は実に驚いたナ(谷)ナニ斯う抜目なく立廻らねば駄目だよ夫も君達の目で見ては何の証拠にも成らぬが苦労人の活(いき)た目で見れば夫が非常な証拠に成る(大)エ其品は何だ、見せたまえ、エ君賽転(さいころ)の類でも有るか(谷)馬鹿を云うな賽転などなら誰が見ても証拠品と思うワな己の目附(めっけ)たのは未だズット小さい者(もの)だ細い者だ」大鞆は益々詰寄(つめよ)り「エ何だ何(ど)れ程細い者だ(谷)聞(きか)せるのじゃ無いけれど君だから打明けるが実は髪の毛だ、夫も唯一本アノ握ッた手に附て居たから誰も知らぬ先に己がコッソリ取ッて置た」大鞆は心の中にて私(ひそか)に笑を催おし、「ナニ其髪の毛なら手前より己様(おれさま)の方が先に見附たのだ実は四本握って居たのをソッと三本だけ取て置た、夫を知らずに残りの一本を取て好い気に成て居やがる老耄(おいぼれ)め、併(しか)し己の方は若しも証拠隠匿(いんとく)の罪に落ては成らぬと一本残して置たのに彼奴(きゃつ)其一本を取れば後に残りが無いから取(とり)も直さず犯罪の証拠を隠したに当る夫を知(しら)ないでヘンなにを自慢仕やがるんだ」と笑う心を推隠(おしかく)して「ヘヽエ、君の目の附所(つけどころ)は実に違うナル程僕も髪の毛を一本握ッて居るのをば見たけれど夫が証拠に成(なろ)うとは思わず、実に後悔だ君より先へ取て置(おけ)ば好ったのに(谷)ナアニ君などが取たって仕方が無いワネ、若し君ならば一本の髪の毛を何うして証拠にする天きり証拠にする術(すべ)さえ知らぬ癖に(大)知(しら)なくても先へ取れば後で君に問うのサ何うすれば証拠に成るだろうと、エー君、何うか聞かせて呉れたまえ極内(ごくない)で、エ一本の髪の毛が何うして証拠に成る」下から煽(あお)げば浮々(うか/\)と谷間田は誇り裂けるほどに顔を拡げて「先(ま)ア見たまえ此髪の毛を」と云いながら首に掛たる黒皮の懐中蟇口(ふところがまぐち)より長さ一尺強も有る唯一本の髪の毛を取出し窓の硝子に透(すか)し見て「コレ是だ、先ず考え可し、此通り幾曲りも揺(ゆっ)て居るのは縮れッ毛だぜ、長さが一尺ばかりだから男でもチョン髷に結(いっ)て居る髪の毛は是だけの長(たけ)は有るが今時の事だから男は縮毛なら剪(かっ)て仕舞う剪(から)ないのは幾等(いくら)か髪の毛自慢の心が有る奴だ男で縮れっ毛のチョン髷と云うのは無い(大)爾々(そう/\)縮れッ毛は殊に散髪に持(もっ)て来いだから縮れッ毛なら必ず剪て仕舞う本統に君の目は凄いネ(谷)爾すれば是は女の毛だ、此人殺の傍には縮れッ毛の女が居たのだ(大)成る程(谷)居たドコロでは無い女も幾分か手を下したのだ(大)成るー(谷)手を下さ無(な)ければ髪の毛を握(つか)まれる筈が無い是は必ず男が死物狂(ぐるい)に成り手に当る頭を夢中で握(つか)んだ者だ夫(それ)で実は先ほどもアノ錐の様な傷を若(も)しや頭挿(かんざし)で突たのでは無いかと思い一寸(ちょっ)と君の心を試して見たのだ素徒(しろうと)の目でさえ無論簪(かんざし)の傷で無いと分る位だから其考えは廃したが兎に角、縮れッ毛の女が傍に居て其髪を握(つか)まれた事は君にも分るだろう(大)アヽ分るよ(谷)其所で又己が思い出す事が有る、最(も)うズッと以前だが博賭徒(ばくちうち)を探偵する事が有て己が自分で博賭徒(ばくちうち)に見せ掛け二月(ふたつき)ほど築地の博徒宿に入込んだ事が有る其頃丁度築地カイワイに支那人の張(はっ)て居る宿が二ヶ所あった、其一ヶ所に恐しいアバズレの、爾サ宿場女郎のあがりでも有(あろ)うよ、でも顔は一寸と好い二十四五でも有うか或は三十位でも有うかと云う女が居た、今思えば夫が恰度(ちょうど)此通りの縮れッ毛だ(大)夫は奇妙だナ(谷)サア博賭宿と云い縮れッ毛の女と云い此二ツ揃ッた所は外に無い、爾思うと心の所為(せい)かアノ死顔も何だか其頃見た事の有る様な気がするテ、だからして何は兎も有れ己は先ず其女を捕えようと思うのだ、名前は何とか云(いっ)たッけ、之も手帳を見れば分る爾々(そう/\)お紺と云ッた、お紺/\余り類の無い名前だから思い出した、お紺/\、尤も今未(ま)だ其女が居るか居無いか夫も分らぬけれど、旨く居て呉れさえすれば此方の者だ、女の事だから連て来て少し威(おど)し附ればベラベラと皆白状する、何(ど)うだ剛(えら)い者だろう(大)実に恐入ったナア、けどが其宿は何所に在るのだ築地の何所いらに、夫さえ教えて呉れゝば僕が行て蹈縛(ふんじばっ)て来る、エ何所だ直に僕を遣て呉(くれ)たまえ」谷間田は俄(にわか)に又茶かし顔に復(かえ)り「馬鹿を言え是まで煎じ詰めた手柄を君に取られて堪る者か(大)でも君は、僕の為に教えて遣ると云ッたでは無いか、夫で僕を遣て呉れ無いならば教えて呉れたでは無い唯だ自慢を僕に聞せた丈の事だ(谷)夫れほど己の手柄を奪い度(た)きゃ遣てやろうよ(大)ナニ手柄を奪うなどと其様な野心は無い僕は唯だ―(谷)イヤサ遣ても遣(やろ)うが第一君は何うして行く(大)何うしてッて外に仕方は無いのサ君に其町名番地を聞けば後は出た上で巡査にでも郵便配達にでも聞くから訳は無い、其家へ行て此家(このや)にお紺と云う者は居無いかと問うのサ」谷間田は声を放ッて打笑い「夫だから仕方が無い、夜前人殺と云う大罪を犯したもの、多分は何所かへ逃たゞろう、好(よし)や居るにしても居るとは言(いわ)ぬよ、事に由れば余温(ほとぼり)の冷(さめ)るまで当分博賭(ばくち)も止(やめ)るかも知れぬ何うして其様な未熟な事で了(いけ)る者か、差当り其家へは行かずに外(ほか)の所で探偵するのが探偵のいろはだよ、外の所で愈々突留めた上は、此方の者だ、先が逃(にげ)ようとも隠れようとも其ンな事は平気だ、隠れたら公然と御用で以て蹈込む事も出来る、支那人なら一旦隠れた日にゃ日本の刑事巡査が何ともする事は出来ぬけれどお紺は日本の女だから(大)併し君、外(ほか)で聞(きく)とは何所で聞くのだ(谷)夫を知らない様で此事件の探偵が出来る者か夫は最(も)う君の常に謂う臨機応変だから己の様に何所を推せば何(どん)な音が出ると云う事をチャーンと知た者で無くては了(いけ)ない是ばかりは教え度(たい)にも教え様が無いから誠に困るテ」斯く云う折しも先ほど閉置(しめお)きたる入口の戸を開き「谷間田、何うした略(ほ)ぼ見当が附(つい)たかえ」とて入来るは此事件を監督する荻沢(おぎさわ)警部なり谷間田は悪事でも見附られしが如く忽ち椅子より飛退(とびの)きて「ヘイヘイ凡そ見当は附きました是から直(すぐ)に探りを初めましてナニ二三日の中には必ず下手人を捕えます」と長官を見上たる谷間田の笑顔、成るほど此時は愛嬌顔なりき―上向けば毎(いつ)でも、
 谷間田は直(すぐ)帽子を取り羽織を着てさも/\拙者は時間を無駄には捨(すて)ぬと云う見栄で、長官より先に出去(いでさり)たり、後に長官荻沢は彼(か)の取残されし大鞆に向い「何(ど)うだ貴公も何か見込を附けたか、今朝死骸を検(あらた)めて頭の血を洗ったり手の握具合(にぎりぐあい)に目を留めたりする注意は仲々素徒(しろうと)とは見えんだッたが」大鞆は頭に手を置き「イヤ何うも実地に当ると、思ッた様に行きませんワ、何うしても谷間田は経験が詰んで居るだけ違います今其意見の大略(あらまし)を聞てほと/\感心しました(荻)夫(そり)ゃなア何うしても永年此道で苦労して居るから一寸(ちょっ)と感心させる様な事を言うテけれども夫に感心しては了(いけ)ん、他人の云う事に感心してはツイ雷同と云う事に成て自分の意見を能(よ)う立(たて)ん、間違(まちがっ)ても好(よい)から自分は自分だけの見込を附け見込通り探偵するサ外の事と違い探偵ほど間違いの多い者は無いから何うかすると老練な谷間田の様な者の見込に存外間違いが有て貴公の様な初心の意見が当る事も有る貴公は貴公だけに遣(やっ)て見たまえ(大)ヘイ私(わた)しも是から遣て見ます(荻)遣るべし/\」と励す如き言葉を残して荻沢は立去れり、大鞆は独り手を組で「旨い長官は長官だけに、一寸(ちょい)と励まして呉れたぞ、けどが貴公の様な初心とは少し癪に障るナ、初心でも谷間田の様な無学には未だ負けんぞ、ナニ感心する者か、併し長官さえ彼(あ)れ程に賞(ほめ)る位だから谷間田は上手は上手だ自惚(うぬぼれ)るも無理は無い、けどが己は己だけの見込が有るワ、見込が有るに依て実は彼奴(きゃつ)の意見の底を探りたいと下から出て煽起(おだて)れば図(ず)に乗てペラ/\と多舌(しゃべ)りやがる、ヘン人(ひと)、彼奴が経験経験と経験で以て探偵すれば此方は理学的と論理的で探偵するワ、探偵が道楽で退校された己様だ無学の老耄(おいぼれ)に負て堪る者か、彼奴め頭の傷を説明する事が出来んで頭挿(かんざし)で突たなどと苦(くるし)がりやがるぞ此方は一目見た時からチャアンと見抜てある所持品の無い訳も分って居るは、彼奴が博奕場と目を附たのも旨い事は旨いけどがナニ、博奕場の喧嘩に女が居る者か、成る程ソリャ数年前に縮れッ毛の女が居たかも知れぬ、けどが女が人殺の直接のエジェンシー(働き人(て))と云う事は無い、と云って己も是だけは少し明解し兼(かね)るけれどナニ失望するには及ばぬ、先ず彼奴(きゃつ)の帰るまで宿へ帰ってアノ髪の毛を理学的に試験するだ、夕方に成って又茲(こゝ)へ来りゃ彼奴必ず帰って居るから其所で又少し煽起(おだて)て遣れば、爾(そう)だ僕は汗水に成て築地を聞合せたけどが博奕宿の有る所さえ分らなんだと斯う云えば彼奴必ず又図に乗て、手柄顔に自分の探偵した事も悉皆(すっか)り多舌(しゃべっ)て仕舞うテ無学な奴は煽起(おだて)が利くから有難いナア、好い年を仕て居る癖に」
 独言(ひとりごち)つゝ大鞆は此署を立去りしが定めし宿所にや帰(かえり)けん扨も此日の将(まさ)に暮んとする頃彼(か)の谷間田は手拭にて太き首の汗を拭きながら帰り来り直(すぐ)に以前の詰所に入り「オヤ大鞆は、フム彼奴何か思い附(つい)て何所かへ行たと見えるな」云いつゝ先ず手帳紙入など握(つか)み出して卓子(ていぶる)に置き其上へ羽織を脱ぎ其又上へ帽子を伏せ両肌脱ぎて突々(ずか/\)と薪水室(まかないべや)に歩み入りつ手桶の水を手拭に受け絞り切ッて胸の当りを拭きながら斜に小使を見て例の茶かし顔「お前(めえ)アノ大鞆が何時出て行たか知ないか(小)何でもお前(めや)様が出為(でさしっ)てから半時も経たんべい、独りブックリ/\言(こき)ながら出て行ッたアだ(谷)フーム何所へ行たか、目当も無い癖に(小)何だかお前様の事を言ッたアだぜ、私(わし)が廊下を掃(はい)て居ると控所の内で谷間田は好年(いゝとし)イして煽起(おだて)エ利くッて、彼奴浮々(うか/\)と悉皆(すっか)り多舌(しゃべっ)て仕舞たと言(こ)きやがッて、エお前様煽起(おだて)が利きますか谷間田は眼を円くし「エ彼奴が己の事を煽起が利くッて失敬な奴だ好々(よし/\)是から見ろ何も教えて遣(やら)ぬから好いワ、生意気な」と打呟(つぶや)きつゝ早々拭終り又も詰所に帰りて帽子は鴨居に掛け羽織は着、手帳紙入は懐中に入れ又「フ失敬な―フ小癪な―フ生意気な」と続け乍ら長官荻沢警部の控所に行(ゆき)たり長官に向い谷間田は(無論愛嬌顔で)先ほど大鞆に語りし如く傷の様々なる所より博奕場の事を告げ頓(やが)て縮れたる髪筋を出して差当りお紺と云える素性(すじょう)不明の者こそ手掛りなれと説き終りて更に又手帳を出し「斯う見込を附たから打附(ぶっつ)けに先ず築地の吉(きち)の所へ行きました、吉に探らせて見るとお紺は昨年の春あたり築地を越して何所へか行き今でも何うかすると築地へ来ると云う噂サも有るが多分浅草辺だろうとも云い又牛込だとも云うのです実に雲を握(つか)む様な話しさ、でも先(まず)差当(さしあた)り牛込と浅草とを目差して先ず牛込へ行き夫々(それ/″\)探りを入て置て直(すぐ)又(また)車で浅草へ引返しました、何うも汗水垢(あせみずく)に成て働きましたぜ、車代ばかり一円五十銭から使いました夫是(それこれ)の費用がザッと三円サ、でも先(ま)アヤッとの事に浅草で見当が附(つき)ました(警部は腹の中でフム牛込だけはお負(まけ)だナ、手当を余計せしめようと思ッて)実は斯うなんですお紺の年頃から人相を私の覚えて居るだけの事を云て自分でも聞き又兼(かね)て頼み附(つけ)の者にも捜らせた所、何だか馬道の氷屋に髪の毛の縮れた雇女が居たと云う者が有るんです今度は直(すぐ)自分で馳附(かけつけ)ました、馳附て馬道の氷屋を片ッぱしから尋ねました所が居無い又帰って能く聞くと―(荻)爾(そう)長たらしくては困るズッと端折(はしょっ)て/\、全体お紺が居たか居ぬか夫(それ)を先に云わんけりゃ(谷)居ました居ましたけれど昨夜三十四五の男が呼(よび)に来て夫(それ)に連られ直帰るとて出たッ切り今以て帰らず今朝から探して居るけれど行衛も知れぬと申ます、エ怪いじゃ有りませんか的切(てっき)り爾ですぜ三十四五の男と云うのがアノ死骸ですぜ、夫も詳しくは覚えぬと云いますけれど何(どう)だか顔が面長くて別に是と云う癖も無く一寸(ちょっ)と見覚えの出来にくい恰好だッたと申ます、左の頬に黒痣(あざ)はと聞きましたら夫は確かに覚えぬが何でも大名縞の単物(ひとえもの)の上へ羽織を着て居たと云う事です、コレは最(も)う氷屋(こおりや)の主人も雇人も云う事ですから確かです(荻)併し浅草の者が築地まで―(谷)夫も訳が有ますよお紺は氷屋などの渡り者です是までも折々築地に母とかの有る様な話をした事も有り、又店の急(いそが)しい最中に店を空(あけ)た事も有ます相で(荻)夫では最(も)う何(ど)うしてもお紺を召捕らねば(谷)爾ですとも爾だから帰ったのです何でも未だ此府下に隠れて居ると思いますから貴方に願って各警察へ夫々(それ/″\)人相なども廻し其外の手配も仕て戴き度いので、私(わた)しは是より直(すぐ)に又其浅草の氷屋で何う云う通伝(つて)を以てお紺を雇入たか、誰が受人だか夫を探し又愈々築地に居る母とか何とか云う者が有るなら夫(それ)も探し又、先の博奕宿が未だ有るか無いか若し有るなら昨夜何(ど)の様な者が集ッたか、其所(そのところ)へお紺が来たか来ないか、と夫から夫へ段々と探し詰ればナニお紺が何所に隠れて居ようと直に突留めますお紺さえ手に入れば殺した者は誰、殺された者は誰、其訳は是々と直(すぐ)に分ッて仕舞います」何の手掛も無き事を僅か一日に足らぬ間に早や斯くまでも調べ上(あげ)しは流石老功の探偵と云う可し、荻沢への説明終りて又も警察署を出て行く、其門前にて「イヨ谷間田君、手掛りが有(あっ)たら聞(きか)せて呉れ」と呼留(よびとめ)たるは彼の大鞆なり大鞆は先刻宿に帰りてより所謂(いわゆる)理学的論理的に如何なる事を調(しらべ)しや知らねど今又谷間田に煽起(おだて)を利(きか)せて彼れが探り得たる所を探り得んと茲に来りし者なる可(べ)し去れど谷間田は小使いより聞得し事ありて再び大鞆に胸中の秘密を語らじと思える者なれば一寸(ちょっ)と大鞆の顔を見向き「今に見ろ」と云いし儘(まゝ)、後は口の中にて「フ失敬な―フ小癪な―フ生意気な」と呟(つぶや)きながら彼の石の橋を蹈抜(ふみぬ)く決心かと思わるゝばかりに足蹈鳴して渡り去れり大鞆は其後姿を眺めて「ハテナ、彼奴(きゃつ)何を立腹したか今に見ろと言ふアノ口振(くちぶり)ではお紺とやらの居所でも突留たかなナニ構う者かお紺が罪人で無い事は分ッて居る彼奴(きゃつ)夫(それ)と知らずに、フ今に後悔する事も知らずに―夫にしても理学論理学の力は剛(えら)い者だ、タッた三本の髪の毛を宿所の二階で試験して是だけの手掛りが出来たから実に考えれば我ながら恐しいナア、恐らく此広い世界で略(ほ)ぼ実(まこと)の罪人を知(しっ)たのは己一人だろう、是まで分ッたから後は明日の昼迄には分る、面白い/\、悉皆(すっかり)罪人の姓名と番地が分るまでは先ず荻沢警部にも黙ッて居て、少しも私(わた)しには見当が附ませんと云う様な顔をして散々谷間田に誇らせて置て爾(そう)だ明日の正午十二時にはサア罪人は何町何番地の何の誰ですと明了(めいりょう)に言切ッて遣る愉快愉快併し待(まて)よ唯一通りの犯罪と思ッては少し違う、罪人が何うも意外な所に在るから愈々其名前を打明る日にゃ社会を騒がせるテ、輿論を動かすテ、条約改正の様に諸方で之が為に、演説を開く様になれば差当り己が弁士先ず大井憲太郎君と云う顔だナ―故郷へ錦、愉快/\」大鞆は独り頬笑み警察署へは入らずして其儘又も我宿へブラ/\と帰り去れり
 アヽ大鞆は如何なる試験を為し如何なる事を発明せしや僅か三本の髪の毛、如何なる理学的ぞ如何なる論理的ぞ谷間田の疑えるお紺は果して全くの無関係なるや、疑団又疑団、明日の午後(ひるすぎ)には此疑団如何に氷解するや


          中篇(忖度(そんたく))

 翌六日の正午、大鞆は三筋の髪の毛を恭(うや/\)しく紙に包み水引を掛けぬばかりにして警察署に出頭し先ず荻沢警部の控所に入れり、折柄警部は次の室(ま)にて食事中なりしかば其終りて出来(いできた)るを待ち突如(だしぬけ)に「長官大変です」荻沢は半拭(はんけち)にて髭の汚(よご)れを拭取りながら椅子に憑(よ)り「唯だ大変とばかりでは分らぬが手掛でも有たのか(大)エ手掛、手掛は最初の事です最う悉皆(すっかり)分りました実(まこと)の罪人が―何町何番地の何の誰と云う事まで」荻沢は怪しみて「何うして分った(大)理学的論理的で分りました而(しか)も非常な罪人です実に大事件です」荻沢は殆ど大鞆が俄(にわか)に発狂せしかと迄に怪しみながら「非常な罪人とは誰だ、名前が分って居るなら先ず其名前を聞(きこ)う(大)素(もと)より名前を言(いい)ますが夫より前に私(わた)しの発見した手続きを申ます、けどが長官、私しが説明して仕舞う迄は此室(ま)へ誰れも入れぬ事に仕て下さい小使其他は申すに及ばず仮令(たと)い谷間田が帰って来るとも決して無断では入れぬ事に(荻)好々(よし/\)谷間田はお紺の隠伏(かくれ)て居る所が分ったゆえ午後二時までには拘引して来るとて今方出て行たから安心して話すが好い」荻沢は固(もと)より心から大鞆の言葉を信ずるに非ず今は恰(あたか)も外に用も無し且は全く初陣なる大鞆の技量を試さんとも思うにより旁々(かた/″\)其言う儘に従えるなり(大)では長官少し暑いけどが茲等(こゝら)を締(しめ)ますよ昨日も油断して独言を吐(いっ)て居た所ろ後で見れば小使が廊下を掃除しながら聞て居ました、壁に耳の譬えだから声の洩れぬ様にして置(おか)ねば安心が出来ません」と云いつゝ四辺の硝子戸を鎖(とざ)して荻沢の前に居直り、紙包みより彼の三筋の髪毛(かみのけ)を取出しつ細語(さゝや)く程の低き声にて「長官此(この)髪(け)を御覧なさい是はアノ死人が右の手に握って居たのですよ(荻)オヤ貴公も夫(それ)を持て居るか谷間田も昨日一本の髪を持て居たが(大)イエ了(いけ)ません谷間田より私しが先へ見附たのです、実は四本握って居たのを私しが先へ廻って三本だけソッと抜て置きましたハイ谷間田は夫に気が附きません初めから唯一本しか無い者と思って居ます」荻沢は心の中にて(個奴(こやつ)馬鹿の様でも仲々抜目が無いワえ)と少し驚きながら「夫(それ)から何(ど)うした(大)谷間田は之を縮れ毛と思ってお紺に目を附ました、夫が間違いです若し谷間田の疑いが当れば夫は偶中(まぐれあた)りです論理に叶った中方(あたりかた)では在ません、私しは一生懸命に成て種々の書籍を取出しヤッと髪の毛の性質だけ調べ上げました(荻)無駄事は成る可く省いて簡単に述(のぶ)るが好いぜ(大)ハイ無駄事は申しません先ず肝腎な縮れ毛の訳から云いましょう髪の毛の縮れるには夫だけの原因が無くては成(なら)ぬ、何が原因か全体髪の毛は先ず大方円いとした者で、夫が根(もと)から梢(すえ)まで一様に円いなら決して縮れません何(ど)うかすると中程に摘(つか)み挫(ひし)いだ様に薄ッぴらたい所が有る其扁(ひら)たい所が縮れるのです、ですから生れ附の縮毛には必ず何所かに扁(ひらた)い所が有る、若し夫が無ければ本統の縮毛では無い、所で私しが此毛を疏末(そまつ)な顕微鏡に掛けて熟(よ)っく視ました所根(もと)から梢(すえ)まで満遍なく円い、薄ッぴらたい所は一ツも無い、左すれば是は本統の縮毛で有ません、分りましたか、夫だのに丁度縮毛の様に揺れ/\して居るのは何う云う訳だ、是は結(むす)んで居るうち附た癖です譬えば真直な髪の毛でもチョン髷に結べば其髷の所だけは解(とい)た後でも揺れて居ましょう、夫と同じ事で此髪も縮れ毛では無い結んで居た為に斯様(かよう)に癖が附たのです、ですからお紺の毛では有りません、分りましたか」荻沢は少し道理(もっとも)なる議論と思い「成る程分(わか)った天然(うまれつき)の縮毛(ちゞれげ)で無いからお紺の毛では無いと云うのだナ(大)サア夫が分れば追々云いましょう、僅(わずか)三本の髪の毛ですけれど斯う云う具合に段々と詮議して行くと色々の証拠が上って来ます貴方先(ま)ア御自身の髪の毛を一本お抜なさい奇妙な証拠を見せますから、此証拠ばかりは自分に試験して見ねば誰も誠と思いません先ア欺されたと思って一本お抜なさい、抜て私しの云う通りにすれば期(きっ)と実(まこと)の罪人が分ります」荻沢警部は馬鹿/\しく思えど物は試験(ためし)と自ら我頭より長サ三四寸の髪の毛を一本抜き取り「是を何うするのだ(大)其髪の根(もと)を右向け梢(すえ)を左り向けて人差指と親指の二ツで中程をお摘みなさい(荻)斯うか(大)爾(そう)です/\、次に又最(もう)一本同じ位の毛をお抜なさい、イエナニ何本も抜には及びません唯二本で試験の出来る事ですから僅(わずか)に最(もう)一本です、爾々(そう/\)、今度は其毛を前の毛とは反対(あべこべ)に根を左り向け末を右向て、今の毛と重ね、爾々(そう/\)其通り後前(あとさき)互違(たがいちがい)に二本の毛を重ね一緒に二本の指で摘(つまん)で、イヤ違ます人差指を下にして其親指を上にして爾う摘むのです、夫で其人差指を前へ突出(つきだし)たり後へ引たり爾々(そう/\)詰(つま)り二本一緒の毛へ捻(より)を掛たり戻したりするのですソレ奇妙でしょう二本の毛が次第/\に右と左へズリ抜るでしょう丁度二尾(ひき)の鰻を打違(うちちが)えに握った様に一ツは右へ抜け一ツは左りへ抜(ぬけ)て段々とソレ捻れば捻るほど、ネエ、奇妙でしょう(荻)成る程奇妙だチャンと重(か)さねて摘んだのが次第/\に此通り最う両方とも一寸ほどズリ抜(ぬけ)た(大)夫(それ)は皆根(もと)の方へずり抜るのですよ、根が右に向(むかっ)て居るのは右へ抜け根が左へ向(むい)て居るのは左へ抜けて行くのです(荻)成る程爾(そう)だ何(ど)う云う訳だろう(大)是が大変な証拠に成るから先ず気永くお聞なさい、斯様にズリ抜ると云う者は詰り髪の毛の持前です、極々(ごく/\)度の強い顕微鏡で見ますと総て毛の類には細かな鱗(うろこ)が有ります、鱗が重なり重なッて髪の外面(うわべ)を包んで居ます丁度筍の皮の様な按排式(あんばいしき)に鱗は皆根から梢(すえ)へ向て居るのです、ですから捻(より)を掛たり戻したりする内に鱗と鱗が突張り合てズリ抜(ぬけ)るのです(荻)成る程爾(そう)かな(大)未だ一ツ其鱗の早く分る事は髪の毛を摘んで、スーッと素扱(すご)いて御覧なさい、根(もと)から梢(すえ)へ扱(こ)く時には鱗の順ですから極(ごく)滑(なめら)かでサラ/\と抜けるけれど梢より根へ扱く時は鱗が逆ですから何と無く指に膺(こた)える様な具合が有て何(ど)うかするとブル/\と輾(きし)る様な音がします(荻)成る程爾(そう)だ順に扱けば手膺(てごたえ)は少しも無いが逆に扱けば微かに手膺えが有る(大)サア是で追々に分ります私しは此三筋の髪の毛を其通りして幾度も試してみましたが一本は逆毛ですよ、是は最(も)う死骸の握って居る所を其儘取ッて堅く手帳の間へ挿み大事にして帰ッたのだから途中で向(むき)の違う事は有ません此三筋を斯う握って居たのです、其中でヘイ此一本が逆髪(さかげ)です外の二本とは反対に向て居ます(荻)成る程(大)サア何うです大変な証拠でしょう(荻)何故―(大)何故だッて貴方、人間の頭へは決して鱗の逆に向た毛の生(はえ)る者では有りません、何(ど)の様な事が有(あっ)ても生(はえ)た儘の毛に逆髪(さかげ)は有ません、然るに此三本の内に一本逆毛(さかげ)が有るとは何故でしょう即ち此一本は入毛(いれげ)です、入毛や仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33-17]《かもじ》などには能く逆毛の在る者で女が仮※[#「鬟」の「口」の下の部分に代えて「小」、33-17]を洗ッて何うかするとコンガラかすのも矢張(やっぱ)り逆毛が交ッて居るからの事です逆毛と順の毛と鱗が掛り合うからコンガラかッて解(とけ)ぬのです頭の毛ならば順毛ばかりですから好(よし)んばコンガラかッても終には解(とけ)ます夫(それ)や最(も)う女髪結に聞(きい)ても分る事(荻)夫が何の証拠に成る(大)サア此三本の中に逆毛が有て見れば是は必ず入毛です此罪人は頭へ入毛を仕て居る者です(荻)夫(それ)なら矢ッ張り女では無いか女より外に入毛などする奴は無いから(大)爾(そう)です私しも初は爾(そう)思いましたけれど何(ど)うも女が斯う無惨(むざ)/\と男を殺すとは些(ち)と受取憎いから色々考えて見ますと、男でも一ツ逆毛の有る場合が有ますよ、夫(それ)は何かと云うに鬘(かつら)です鬘や仮面(めん)には随分逆毛が沢山交ッて居ます夫(それ)だから私しは若しや茶番師が催おしの帰りとか或は又仮粧蹈舞(ファンシーボール)に出た人が殺したでは無いかと一時は斯も疑ッて見ました併し大隈伯が強硬主義を取てから仮粧蹈舞は悉皆(すっかり)無くなるし夫(それ)かとて立茶番(たちちゃばん)も此頃は余り無い、夫に逆毛で無い後の二本を熟(よ)く検めて見ると其根の所が仮面(めん)や鬘から抜(ぬけ)た者で無く全く生(はえ)た頭から抜た者です夫は根の附て居る所で分ります殊に又合点の行かぬのは此(この)縮(ちゞ)れ具合です、既に天然(うまれつき)の縮毛では無く全く結癖(ゆいぐせ)で斯う曲ッて居るのですから何(ど)う云う髪を結べば此様な癖が附ましょう、私しは宿所へ来る髪結にも聞きましたが何(ど)うも分らぬと云いました、爾(そう)すれば最(も)う全然(すっかり)分らん、分らんのを能く/\考えて見ると有りますワエ此通り髪の毛に癖の附く結い方が、エ貴方何うです、此癖は決して外では無い支那人ですハイ確に支那人の頭の毛です
 荻沢警部は暫し呆れて目を見張りしが又暫し考えて「夫(それ)では支那人が殺したと云うのか(大)ハイ支那人が殺したから非常な事件と云うのです、固より単に人殺しと云うだけの罪ですけれど支那人と有(あっ)て見れば国と国との問題にも成兼(なりかね)ません事に由ては日本政府から支那政府へ―(荻)併し未だ支那人と云う証拠が充分に立(たゝ)ぬでは無いか(大)是で未だ証拠が立ぬと云うは夫(それ)や無理です、第一此罪人を男か女かとお考えなさい、アノ傷で見れば死(しぬ)る迄に余ほど闘った者ですが女ならアレほど闘う中に早く男に刃物を奪取(うばいとら)れて反対(あべこべ)に殺されます、又背中の傷は逃(にげ)た証拠です、相手が女なら容易の事では逃げません、夫に又女は―(荻)イヤ女で無い事は理屈に及ばぬ箱屋殺しの様な例(はなし)も有るけれど夫は不意打、アノ傷は決して不意打で無く随分闘った者だから夫は最(も)う男には違い無い(大)サア既に男とすれば誰が一尺余りの髪(け)を延(のば)して居ますか代言人の中には有(ある)とか言いますけれど夫は論外、又随分チョン髷も有りますが此髪の癖を御覧なさい揺れて居る癖を、代言人や壮士の様な散(ちら)し髪(げ)では無論、此癖は附かず、チョン髷でも同じ事、唯だ此癖の附くのは支那人に限ります、支那人の頭は御存(ごぞんじ)でしょう、三ツに分て紐に組ます、解(とい)ても癖直しをせぬ中は此通りの曲(くせ)が有ます根(もと)から梢(すえ)まで規則正しくクネッて居る所を御覧なさい夫に又支那人の外には男で入毛する者は決して有りません支那人は入毛をするのみならず夫(それ)で足(たら)ねば糸を入れます、此入毛と云い此縮れ具合と云い是が支那人で無ければ私しは辞職します、エ支那人と思いませんか」荻沢は一応其道理あるに感じ猶(な)お彼(か)の髪の毛を検めるに如何にも大鞆の云う通りなり「成るほど一理屈あるテ(大)サア一理屈あると仰有る柄(から)は貴方も最(も)う半信半疑と云う所まで漕(こぎ)つけました貴方が半信半疑と来れば此方の者です私しも是だけ発明した時は尚(ま)だ半信半疑で有たのです、所が後から段々と確な証拠が立(たっ)て来るから遂に何(ど)うしても支那人だと思い詰め今では其住居其姓名まで知て居ます、其上殺した原因から其時の様子まで略ぼ分って居ます、夫も宿所の二階から一足も外へ蹈出さずに探り究めたのです(荻)夫では先ず名前から云うが好い(大)イエ名前を先(さき)云(いっ)て仕舞ては貴方が終りまで聞(きか)ぬから了(いけ)ません先ずお聞なさい、今度は傷の事から申します、第一はアノ背中に在る刃物の傷ですが是は怪(あやし)むに足りません、大抵人殺は刃物が多いから先ず当前(あたりまえ)の事と見逃して扨て不審儀(ふしぎ)なのは脳天の傷です、医者は槌で叩いたと云いますし、谷間田は其前に頭挿(かんざし)でゞも突ただろうかと怪んで居ますが両方とも間違いです、何より前(さき)に丸く凹込(めりこ)んで居る所に眼を留(とめ)ねば成ません、槌で叩たなら頭が砕けるにもしろ必ず膨揚(はれあが)ります決して何日(いつ)までも凹込んで居ると云う筈は無い、夫(それ)だのにアノ傷が実際凹込んで居るのは何(ど)う云う訳でしょう、是は外でも無いアレ丈の丸い者が頭へ当って当ッた儘で四五分間も其所を圧附(おしつけ)て居たのです、其中に命は無くなるし血は出て仕舞い膨上(はれあが)るだけの精が無く成(なっ)た、サア精の無く成た後で其丸い者を取たから凹込切(めりこみぎり)に成たのです、夫なら其丸の者は何か、何うして爾(そう)長い間頭を圧附けて居たのか是が一寸(ちょっ)と合点の行きにくい箇条、併しナニ考えれば訳も無い事です、其説明は先ず論理学の帰納法に従って仮定説から先に言(いわ)ねば分らぬ、此闘いは支那人の家の高い二階ですぜ、一方が逃る所を背後(うしろ)から二刀(ふたかたな)三刀追打に浴せ掛たが、静かに坐って居るのと違い何分にも旨(よ)く切れぬ夫(それ)だから背中に縦の傷が幾個(いくつ)も有る一方は逃げ一方は追う内に梯子段の所まで追詰た、斯うなると死物狂い、窮鼠却て猫を食(は)むの譬えで振向いて頭の髪を取(とろ)うとした、所が悲しい事には支那人の頭は前の方を剃(すっ)て居るから旨く届かぬ僅に指先で四五本握(つかん)だが其中に早や支那人の長い爪で咽笛(のどぶえ)をグッと握まれ且つ眉間を一ツ切砕(きりくだ)かれウンと云って仰向に脊(うしろ)へ倒れる、機(はず)みに四五本の毛は指に掛った儘で抜けスラ/\と尻尾の様な紐が障(さわ)る其途炭(とたん)入毛だけは根が無いから訳も無く抜けて手に掛る。倒れた下は梯子段ゆえドシン/\と頭から背(せな)から腰の辺(あたり)を強く叩きながら頭が先に成(なっ)て転げ落(おち)る、落た下に丁度丸い物が有(あっ)たから其上へヅシンと頭を突く、身体の重サと落て来る勢いでメリ/\と凹込(めりこ)む、上から血眼で降(おり)て来て抱起すまでには幾等(いくら)かの手間が有る其中に血が尽きて、膨上(ふくれあが)るだけの勢が消(きえ)たのです、背中から腰へ掛け紫色に叩かれた痕や擦剥(すりむい)た傷の有るのは梯子段の所為(せい)、頭の凹込は丸い物の仕業、決して殺した支那人が自分の手で斯う無惨な事をしたのでは有(あり)ません、何うです、是でも未だ分りませんか(荻)フム仲々感心だ、当る当らんは扨置いて初心の貴公が斯う詳しく意見を立(たて)るは兎に角感心する、けれど其丸い者と云うのは何だえ(大)色々と考えましたが外の品では有ません童子(こども)の旋(まわ)す独楽(こま)であります、独楽だから鉄の心棒が斜に上へ向(むかっ)て居ました其証拠は錐を叩き込だ様な深い穴が凹込の真中に有ます(荻)併し頭が其心棒の穴から砕(くだけ)る筈だのに(大)イヤ彼(あ)の頭は独楽の為に砕(くだけ)たのでは無く其実、下まで落着かぬ前に梯子の段で砕けたのです独楽は唯アノ凹込を拵えただけの事です(荻)フム成る程爾(そう)かなア(大)全く爾です既に独楽が有たとして見れば此支那人には七八歳以上十二三以下の児(こ)が有ます(荻)成る程爾だ(大)此証拠は是だけで先ず留(とめ)て置きまして再び髪の毛の事へ帰ります、私しは初め天然の縮毛で無い事を知(しっ)た時、猶お念の為め湯気で伸して見ようと思い此一本を鉄瓶の口へ当(あて)て、出る湯気にかざしました、すると意外千万な発明をしたのです実は罪人の名前まで分ったと云うも全く其発明の鴻恩です、其発明さえ無けりゃ何(ど)うして貴方、名前まで分りますものか」荻沢も今は熱心に聞く事と為り少し迫込(せきこ)みて「何(ど)、何う云う発明だ(大)斯(こう)です鉄瓶の口へ当ると此毛から黒い汁が出ました、ハテなと思い能々(よく/\)見ると、何うでしょう貴方、此毛は実は白髪(しらが)ですぜ白髪を此様に染めたのですぜ、染てから一週間も経つと見え其間(そのあいだ)に五厘ばかり延びてコレ根の方は延びた丈け又白髪に成て居ます(荻)成る程白髪だ、熟(よ)く見れば白髪を染(そめ)た者だ、シテ見ると老人だナ(大)ハイ私しも初めは老人と見込を附(つけ)ましたが猶お考え直して見ると第一老人は身体も衰え、従っては一切の情慾が弱くなり其代り堪弁(かんべん)と云う者が強く為(なっ)て居(おり)ますから人を殺すほどの立腹は致しませず好(よし)や立腹した所で力が足らぬから若い者を室中(へやじゅう)追廻(おいまわ)る事は出来ません(荻)夫(それ)も爾(そう)だな(大)爾ですから是は左ほどの老人では有りません随分四十に足らぬ中に白髪ばかりに成る人は有ますよ是も其類です、年が若く無ければアノ吝嗇(しわんぼう)な支那人ですもの何うして白髪を染めますものか、年に似合ず白髪が有て能(よ)く/\見ッとも無いから止(やむ)を得ず染たのです(荻)是は感服だ実に感服(大)サア是から後は直(じき)に分りましょう支那人の中で独楽を弄ぶ位の子供が有(あっ)て、年に似合わず白髪が有て、夫で其白髪を染て居る、此様な支那人は決して二人とは有ません(荻)爾(そう)とも/\、だが君は兼て其支那人を知て居たのだな(大)イエ知りません全く髪の毛で推理したのです(荻)でも髪の毛で名前の分る筈が無い(大)ハイ髪の毛ばかりでは分りません名前は又外に計略を廻らせたのです(荻)何(ど)の様な計略を(大)イヤ夫(それ)が話しの種ですから、夫を申上る前に先ず貴方に聞て置く事が有ります今まで私しの説明した所に何か不審は有ませんか、若し有れば夫を残らず説明した上で無ければ其計略と其名前は申されません(荻)爾かな今までの所には別に不審も無いがイヤ待て己は此人殺しの原因が分らぬテ谷間田の云う通り喧嘩から起った事か夫(それ)とも又―(大)イヤ喧嘩では有ません全く遺恨です、遺恨に相違ありません谷間田はアノ、傷の沢山有ると云う一点に目が暗(くれ)て第一に大勢で殺したと考えたから夫が間違いの初です成る程、大勢で附けた傷とすれば喧嘩と云うより外に説明の仕ようが有りません、併し是は決して大勢では無く今も云う通り当人が、逃廻ったのと梯子段から落た為に様々の傷が附たのです矢張り一人と一人の闘いです一ツも大勢を対手と云う証拠は有ません(荻)併し遺恨と云う証拠は(大)其証拠が仲々入組(いりくん)だ議論です気永くお聞(きゝ)を願います尤(もっ)とも是ばかりは私しにも充分には分りません唯遺恨と云う事丈が分ったので其外の詳しい所は到底本人に聞く外は仕方が有ません、先ず其遺恨と云う丈の道理を申しましょう」とて掌裏(てのひら)にて汗を拭いたり

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