旅愁
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著者名:横光利一 

 久慈の見たのでは、このセザンヌの晩年の東洋画のように渇筆を用いた画面には、もうそれから以後の人人の迷いくらんでゆくような、絵画上の手法の乱れる徴が顕れているように感じられた。前の二室に満ちているそれぞれの絵には、対象に集中された精神に簡略された軽さがどこ一点もないのに反し、最後の浴みには、未成品とはいえ画面の構図と線にいちじるしい精神主義が顕れ、も早や現実に倦怠を感じた画家の抽象性が際立って見えていた。それはまことに嫋嫋とした美しい線と淡彩から成っていて、カンバスの生地の色もそのまま胡粉の隙からいちめんに顔を出し、それが全体の色調の直接な基準色ともなり変っていた。
 久慈は鼻を浴みのカンバスに喰つけるようにして油の匂いまで嗅いでみてから、三室を幾回となく歩いた。暗くもなく明るくもない光線に満された部屋の中には、絵や人を不必要に威圧する壮厳さもなく、観るものの心を動揺させる不自由さもない。初めの間、彼はふと外へ出ていってまた観に這入りたくなるような、気軽な気持ちで画面を眺めているうちに、だんだんセザンヌのその絵にさえ特種の美しさの何もない単純化に気がついて、「おや。」と思った。それは求め廻っていたものが、ほのかに顔を赧らめつつこっそり傍を通り抜けていく姿をかい間見た思いに似ていたが、次の瞬間、
「これはッ。」
 と久慈はベンチに腰かけたまま無言だった。とにかく同じ驚きが一回廻るごとに、ごそりごそりと底へ落ち込んで来るような得体の知れぬ感動だった。彼はもう何んの想念も泛んで来なかった。まったくいつもとはどこも変った顔ではなかったが、内心彼は愕然としていた。今まで日夜考えつづけていたことは何んだったのだろうと思い、ここまで来てただこんな単純な美しさに愕いたとは、何んという脱けた自分だったのだろうと思って歎息するばかりだった。
「マルセーユで見た景色とそっくりのあるのね。あの海の絵ね。横の山もそうだわ。」
 真紀子は巻いた目録を唇にあてながら久慈の横のベンチへかけて云った。
 久慈は、「うむうむ。」とただ頷いた。しかし、巻き襲い群り圧して来ている数数の流派の複雑多岐な大濤を、この単調な小さい絵が噴きあげ突き跳ねして崩れぬ正しさについて、どのように形容して良いのか彼は分らなかった。それは久慈にはただ単に絵画のことばかりは見えず、世の中を横行している思想や人の行為がすべて同様だと思われ、そして、自分もまさしく噴き上げられたその一人だと思うと、にわかにあたりを見廻し、失われたものを探し求める謙遜な気持ちにふとなって来るのだった。
「ただ何んでもない、何んでもないことが肝腎なんだなア、つまり。」
 久慈はこんなことをひとり呟いて真紀子と一緒に絵画館を出ていった。彼は階段を降りながらも、夾雑物のとり除かれた眼にいつもより深く真紀子が映るように感じた。真紀子も照りつける日光に眩しげに首をかしげつつ明るく嬉しそうだった。二人はチュイレリイの廃墟の跡を横切って花壇の方へ出ていった。アマリリスやカンナ、スミレなどの咲いた花壇の中に噴水があった。その傍のベンチに休むと、前方の広場に幾つも上っている高い噴水も一緒に眼に入り、あたりは日に輝き砕ける水柱にとり包まれた爽やかな競演を見る賑やかさだった。
 久慈はどんなことが頭に流れて来ても懼るるに足らぬと思い、出来事も昨夜のことなどはもっとも自然なことのうちの、とるに足らぬ一つだったのだと思った。
「ウィーンから手紙来ることあるの。」
 暫くして、久慈はまだ訊き忘れていた真紀子の別れた良人のことを、このときを機会に一度はっきり質しておきたくて訊ねてみた。
「たまには来るの、だけどその方は御心配いらないのよ。」
 強いて安心を与えるためばかりでもないらしく、真紀子は無造作に笑ってちらりと久慈の顔を見た。その笑顔も一度は云っておかねばならぬことを思い出したという風に、
「それよりあたしこう思うの、いけないようにお話とらないでね。その方がつまらないこと考えずともいいんですから。――あたし、御存知のように勝気な性質でしょう。ですから、結婚のお話だけはどちらも出来る限りしないことにしましようね。あたしの家はそれや複雑な家ですから、考え出すととても駄目。」
 こちらでの出来事はすべてこちらだけとしてすませたい真紀子の希望は、昨夜千鶴子からも云われたように、久慈にも意外なことではなかった。しかし、また昨日のようにいきなり俳句を持ち出して自分を怯ませた真紀子の勝気が、こんな出来事の後までもつづくものとは久慈も予想しなかった。久慈はセザンヌを見た後の幸いな後味を崩したくなかったので、そのまま真紀子の隠された意志を追求してみる興味はもう感じなかった。そうして暫時、彼は暖味な微笑で両手を頭の後ろに組み、絶えず噴き上っては変化する噴水の色を眺めながら、まだ午前の思って見たこともなかった空虚な豊かさを持ち扱いかねているのだった。
 噴水はそれぞれ無数の水粒を次ぎから次ぎへ噴きのぼらせていた。ある頂点で水粒は一度頓狂な最後の踊りをすると、どれもこれも力を崩し、速力を増して落ち散り、無に戻る運動を繰り返し、そうして、絶えず地中の法則というような姿だけは崩さず保って流動していた。ときどきは風のままに散る方向は変っても、噴きのぼるときには、風を突きぬけた気力の若若しい緊張がある上に、頂きで跳ね踊る姿のみな違うその面白さ。――久慈はこの朝の見事な噴水から眼が放れなかった。彼は自分がその一粒のどれかに似て見え、瞬時の休息の隙もなく砕け散る光りの嬉嬉としているのが、生きている瞬間の楽しさとなって身内に静かな情慾さえ次第に高まって来るのだった。
「噴水を見ているというのは実に面白いものだな。砕けるものまで嬉しそうだ。しかし、まったくそうかもしれない。」
 とふと久慈は呟いた。
「あなた今までそんなことを考えてらっしたのね。」
 と真紀子は、それで初めてあなたが分ったというような、久慈には意外に見えるほど満足した微笑だった。
「でも、ほんとうに面白いもの。あの頂上で分れて水の落ちる瞬間のところに、ある一線があるでしょう。あの線のところを見ていると、君の姿までぼんやりあそこへ浮き上って来るんだからな。なかなか楽しいよ。」
「そういうものかしら。男の方は。」
 と真紀子は云って暫く噴水を眺めていてから、「分らないわ。」と小声で呟いたが、何か久慈と共通のものを感じたらしい赧らめた顔で身を彼の方へ傾け、そわそわした風情ながらも、またそれを急いでもみ消す苦心だった。
「さア、いきましようか。」
「もう少しいよう。この噴水だって、フランス革命のときの血の中から噴き上っているようなものだからな。」
 チュイレリイ宮殿の跡といっても、今は画館と浮草の巻き返った高い金色の門より残ってはおらず、プラターンの繁みの下で子供たちが白い股を露わしているだけの公園だったが、しかし、久慈は跳ね散る水玉の絶え間ない運動をうっとりと見つづけているうちに、そこに見える唐草の金色の門から噴き上った革命の騒擾が、まただんだんと思い描かれて来るのだった。そのときは眼の前に連っている鉄柵を揺り動かして群衆が押しよせ、またその狂乱する群衆の心理の底をかい潜って、これを煽動する一群の貴族や躊躇逡巡して決意を知らぬルイ十六世の若いインテリの眼の前で、膨れ上って燃えるダントンの情熱と平行し、民衆に謀反の油を注ぎつつ、しかも、王の安全に奮闘して斃れるミラボオの苦策など――人の脳中にほんの些細な疑いの片影がかすめ去る度びに、ばたばたと首の飛び散った大噴水がここに立ち狂っていたのである。
 久慈はその有様を手短かに真紀子に話した後で云った。
「ところが、その狂暴な噴水に整理をつけたのが、イタリア人のナポレオンなんだからな。――ここのフランスの愛国心の権化になったのがイタリア人だというのが、そこが僕らの不思議なところだ。分ったようで分らない。実際ここにこうしていると、まだまだ生きてみる値打ちのある構図を人生はとっているのだとつくづく思うね。」
「ナポレオンはイタリア人ですの?」
 と真紀子は意外なことを聞いたという顔つきで訊ねた。
「それやコルシカ島民だから、その当時のあそこはイタリア領だったので、ナポレオンの父親はフランスと戦争をして負けたのさ。ところが、その負けたばかりのコルシカ島民のナポレオンがたった一人でフランスを征服したというんだからここの愛国心というものは、僕らにはまったく分らない。征服した方もされた方も、博奕に出た賽(さい)の目を信じただけだ。それ以外の何ものでもないのだからな。化体なものさ。」
 人間の進行のうえになくてはならぬ唯一のものが、賽の目のままだったという恐るべき滑稽な大事件も、も早やここでは国民の整理癖に舐め尽され、死に絶えてしまったのであろうか。
 久慈は後ろの方から子供の賑やかな笑い声が聞えて来たので振り向いてみた。汚い一人の老人が肩や手さきに呼び集めた雀を沢山たからせ、舌の先で手の甲にとまった一羽の雀に餌をふくませているところだった。久慈は真紀子の肩を打った。
「どうだ。あれひとつ俳句にならんものかね。」
「ナポレオン見たいね。あのお爺さん。」と真紀子は笑って云った。
 老人は雀の自由なように全力を肩に張り、枝のようにしならせた腕の形を崩さず、立ちはだかったまま誇らしげな恍惚とした笑顔で雀の顔を眺めつづけた。久慈は真紀子と一緒に立ってその方へ見にいったが、すぐそれにも倦いてルーブルの方へ花壇を横切っていくのだった。
 ルーブルの横を通りへ出たところにセーヌ河があった。河ではモーターボートの競走があった。五つ並んだボートの首が、速力を増すと水面から飛び上り、たちまち見えなくなったが、久慈はそれにもすぐ倦いて河岸をぶらついた。彼は太いプラターンの幹を仰ぎ、自分の一番倦き易いことを一つどこまでも耐えてみようと考えた。そして、その忍耐でいつも自分を虐めつけ、何事か呻くような復讐を自分にしてやりたいと思うと、もう襲って来ている退屈さの底から、セザンヌの画面が鮮やかな緊り顔でじっと自分を見詰めているように感じられた。


 久慈たちが矢代と落ち会ったのはお茶どきだった。千鶴子は日本へ帰る準備の土産を探しに朝から出歩いて来たのだといって、少し疲労の泛んだ顔で、カフェーのテラスの群りよる外人たちの中に混っていた。
「もうお帰りになるの。あたしも帰りたい。」
 と真紀子は思わず云ってから、久慈のいるのに気がつき、
「今日は何にお買いになって?」と訊ね返した。
「いろいろなもの。でも、いいお店は皆ストライキで休みでしょう。欲しいもの何も手に這入らないんですのよ。ロンドンだと男の方の欲しいものばかりだけど。――女のものはやはりここでなければありませんのね。」
「もう帰る話か。うらやましいな。」
 と久慈は云ったが、一向に羨望した様子にも見えなかった。
「でも、これでもあたし長くなりすぎた方なの。ほんの一寸と思って出て来たのにもう幾月になるかしら。ロンドンの兄からしきりに手紙が来るの。早く来なければ置いてきぼりにして帰ってしまうぞって、そんなに云って来てるんですのよ。あたし、もう少しいたいのだけれど。」
 千鶴子は荷物を取り上げ、詰って来た客に椅子をあけて真紀子に向い、
「あなたはまだお帰りにはなれないでしょうね。なかなか?」
 軽く訊ねたつもりらしいのも、それがそのままとならず波紋を強く真紀子に与えたらしかった。真紀子は、「ええ。」と言葉を濁して暫く黙っていてから、
「でも、帰ろうと思えば、いつでもあたしはいいんですのよ。別にこれって邪魔は、もうないんですの。」
 むしろ千鶴子によりも久慈に答えるらしい含みでそんなに真紀子の云うのを、久慈はにやにや笑いながら聞いていた。
 女人のことは君に任すと云いたげな矢代は、昨夜の真紀子と久慈との出来事も知っているのか知らぬのか、さも気附かぬらしい様子で煙草を吹かせていた。しかし、久慈は、矢代こそ千鶴子の帰りをどんな心で見送っているものかと一寸推しはかってみたものの、頑なほど不思議と意志を見せぬ矢代のこととて、外から想像したほどの変化もないにちがいないと簡単に興ざめてしまうのだった。
「ロンドンへはそのうち僕も行ってみたいと思っているんだが――そのときはもう千鶴子さんいないんだな。」
 久慈のそう云うのに矢代は、千鶴子の帰る話題を切りとるような強い調子で云った。
「どうもパリ祭を待つためだけに僕らはこうしているのだが、考えればつまらないね。何かその日に起ったところで、フランスの事じゃないか。馬鹿馬鹿しい。」
「しかし、起ることは見ておいたっていいよ。損にはならんさ。」
 と久慈は云った。
「損にはならんが、左翼と右翼の衝突など起ったところで、少しばかり血が流れるか、さもなきゃ、どっかへまた吹出物みたいに潜り込んでは出るだけだろ。」
「ところが、それが分らないんだからね。君がパリ祭を見たくなきゃ、千鶴子さんとロンドンへ行けよ。後でヒステリ起されちゃ、お相手するのかなわないぞ。」
 斜めに射した光線を額に受けたまま矢代はただ笑ったきりだったが、千鶴子と別れる矢代の淋しさなど久慈にはもうあまり響くことではなかった。
「しかし、見るところ静かだが、何んとなく物情騒然として来た様子だね。今ごろは日本も眼を廻して来ているよ。どこもかしこも火点けと火消しの立廻りだ。」
 自分に触れる話を避けてそう云う矢代に、久慈はふとびくりとして、自分もひとり胸中の何物かに火を点けたり消したりしているなと思った。街路に向って籐椅子を集めたあたりのテラスには、いつもの顔馴染の客たちがだんだん集って来た。およそ百人あまりもいるかと思えるそれらの中には、新しい顔も混っていたが、誰からともなく客の素性の聞えて来ているところを見ると、さも互に無関心らしくしている外人たちとはいえ、これでいつとはなく、話のついでに落ち合う客の話も洩れているのだろうと久慈は思い、自分や矢代や千鶴子、真紀子のことなども、おぼろに彼らの頭の中にも何かの影を与えているのだろうと想像された。いずれも各国から集って来ている火消しか火点けかにちがいない客たちだったが、パリでもこのドームは特種に名高いところと見え、郊外遠くで拾った自動車もただこのカフェーの名を一口云えば、忽ち通じて車の動くほどの便利さだった。初めは気附かなかったことだが、このようなカフェーのテラスでも、久慈たちの一団はいつの間にか生彩を放った組となっていた。千鶴子と真紀子が現れると、うるみを帯んだ繊細な肌を鳳の眼のように涼しく裂いて跳ねている瞼など、一きわ目立って人の視線を集めるのだった。
 矢代は近よって来たボーイを顎でさして云った。
「このボーイだよ、この男、一昨日マネージャーにここで詰めよってストライキの膝詰談判をしてたんだが、今日はどっちもけろりとして仲がいいね。習慣というものは、喧嘩にまで形式を与えて来ているのかな。」
 久慈は何も答えずそのまま階段を降り地下室の化粧室へ這入った。掃除婦が鏡に向ってひとり髪を梳いている閑そうな姿の上に電灯がついていた。彼は用をすませ、皿に金を入れようとしているとき千鶴子が上から降りて来た。久慈は財布に細かいのが見附からなかったので千鶴子に借りながら、
「君、今日はもうどこへも用がないの。」と訊ねた。
「ええ、これから版画のお土産でも買いに行こうかしらと思ってたとこなの。ね、一緒にお見立てして下さらない。でも、真紀子さんにいけなければ、御遠慮してちょうだい。」
 白銅をハンドバッグの中から出し、千鶴子はもうみな分ってるのよときめつけるような冷たさで、ぴちりと皿の上に白銅を置いた。擦れ違いざま久慈は、不必要なまでに厳しい金属性の響きが髄に刺さるのを感じた。それではもうこれで最後のボタンをひきち切られたのだと、薄笑いのまま彼は階段を昇ってまたテラスの光線の中へ戻って来た。
 千鶴子も戻って来たとき四人は附近の版画屋を数軒見て廻った。ある店でゴッホの若い時代の写実的な版画を見つけると、久慈は、これは誰の土産にもやれないと云って自分が買った。千鶴子はベラスケス、グレコ、ゴヤなどとスペイン物を一番欲しがった。イタリア物も少し買ったが、そのついでに子供たちにやるクレヨンも買い整えてからふと見ると、日本製というマークが這入っていた。
「いや、それは何より土産だから買って帰りなさいよ。」
 と皆の大笑いする中で久慈は云った。一つだけ千鶴子はそれも買ってみてまた次の店へ歩いたが、帰り支度を手伝いながら歩いている途中にも、久慈は何んとなく日本へ自分も帰ってみたくなるのだった。
「どうも一人に帰り支度をされると淋しいね。脱けかかった歯を動かしてるみたいで、落ちつかないや。」
 久慈もその気ならと思ったらしい真紀子もすぐそれに応じた。
「そうよ、あたしもさきから、帰りたくってむずむずして来てたところなの。ほんとにあたしも帰りたいわ。帰ろうかしら。あたし。」
「お帰りなさいよ。」
 と千鶴子はすかさず眼を輝かせて真紀子の方を一寸見返る様子だったが、ふと久慈と真紀子のことに気附いた素振りで急に黙ってまた歩いた。久慈は足早やに矢代を誘い婦人たちから放れていったとき、
「君、千鶴子さんとのことどうなったのだ。」
 と矢代に小声で訊ねた。
「別段何んの変りもないね。」
 と矢代は久慈から顔を背けるようにして答えた。
「それで良いのかい? 変らなくたって。」
「変ろうたって、変りようがないよ。」
「しかし、まアそう云ったものでもないだろう。何んとか約束めいたものでもしとくとか、何んとか方法があるからな。帰ればとにかくもう駄目だよ。」
 矢代は黙っていた。
「僕が代りに相談に乗っといてやってもいいよ。何んの表現もしないというのは、こちらが困るより向うが困るんだからな。」
「とにかく、好意は有り難いが今日はそのことは、まアよそう。」
 矢代はあくまで慎重な態度だった。久慈は、自分の問題が自分の中ばかりで膨れているように、矢代のも外から触られぬところに疼いているのであろうと思い返し、婦人たちが近よって来たとき話を一変させるのだった。
 しかし、久慈はここで二人の争いつづけたものは、婦人のことではなかったことを思って心も慰められて来た。
「僕らがこうしてパリの街を歩いていて、ふと自分の考えていることに気がつくと、どういうものだか、どっか胸の底で一点絶望しているものを感じるね。君はどうだかしらないが、僕はたしかにそうだ。何んというか、眼にするものを尽く知り尽そうとしていら立つ精神が、これやとても駄目だと知って投げ出された後の、まアいわば、あきらめみたいなものだよ。この街の成り立っているそもそもの初めから、人間が今まで考えて来たこと、して来たことを、全部くぐり込もうとするもんだから、絶望をするんだ。つまり、自分がたったこれだけより知らんのだと、思わせられてばかりいるんだね。」
 ある街角のところで突然久慈がこう云い出したが、皆だれもそれにつづけては云わなかった。すると暫くして矢代は笑い出して云った。
「前へ行っても駄目、後へ戻っても駄目だというんだろ。」
「そうだよ。ここは戦場と同じだね。頭の中は弾丸雨飛だ。看護卒が傍へ助けに来てくれても、こ奴までピストルを突きつけやがる。もう僕もだいぶ負傷をしたよ。」
「どっちも生還おぼつかないかな。」
 笑うところも考えればもう二人は笑えなかった。
 久慈は西日の照りつける中へ動かす矢代の足を見ながら、彼も同様に無数の手傷だなと思われ自然に労わりの心が起って来るのだった。


 その夜千鶴子のホテル附近の広場に祭があるというので、夕食後四人はそれを見物に出ていった。広場に繁り揃ったマロニエの幹の間で、いつもとは違った篝火のような明るい電灯が輝き、色めいた屋台の夜店が沢山出ていた。機械の中から吹き出る綿菓子を雪のように積らせた店や、彩色入りの長い飴棒を束ねた店や、玩具店などと並んだところは、日本の縁日に似た町祭だったが、その間を歩く人人はあまり嬉しそうな様子もなかった。四人は夜店の天蓋の下を散歩してから見世物の前に立った。大きな本物の馬ほどもある背の高い廻転木馬が眼を怒らし人も乗せず街路樹の青葉を擦りつつ廻転している様は、空を馳けぬける駻馬のように勇しかった。その横に円形の音楽堂のようなものがあって、コンクリートの狭い床の上を、二人乗りの豆自動車が十数台も動いていた。
 四人はそれを一番面白がって長く見ていた。天井の全面に張られた鋼鉄の網には電流が通じていると見え、豆自動車の頭から天井へそれぞれポールが延びていた。運転する客たちはみな愛人らしい婦人を自分の横に乗せ、わざと他人の自動車へ自分のを衝突させ瞬間のスリルを楽しむ風な遊びだった。乗っている人種がさまざまなところへ衝突御免の遊びであるから、見ていてこれほど秩序のない乱暴なものもなく、露骨に好意や敵意のまま突進して相手の悲鳴や笑いを楽しむのである。一人乗っているものは自由にひらりひらり衝突を避け、ここぞと思うと首を廻して矢庭に敵の胴腹へ突撃した。衝突の度びに車体の間から火華が噴いた。お人好しは突き衝られてばかりで、左を除けると右から来、右を除けると左から攻められ、うろうろしている間に前後左右から突き衝てられて立往生をしたりした。
 久慈は朝チュイレリイの噴水を見て来たためか、これも何んとなくフランス革命を象徴している遊びのように思われて面白かった。
「やってみようじゃないか。国際法のない戦争だ。こんな勉強はないぜ。やろう。」
 しかし、まだ矢代は、「うむ。」と云ったままやり出しそうにもなかった。美人の愛人を横に乗せている自動車ほど衝てられる気味があり、またあまり衝てられないのも流行らぬ店のようで、手持無沙汰な愛人たちの顔つきだった。
「おい、やってみようよ。手さえ横へ出していなきゃ絶対安全だよ。皆でやろうやろう。」
 久慈はそう云いながら矢代を曳いて無理に自分がさきに立ち段を上った。おじけるかと思った真紀子や千鶴子も素直に後からついて来た。空いた自動車の一つに乗った久慈は横へ真紀子を乗せ、他の車に矢代と千鶴子が乗って無造作に運転し始めた。二人がきっちりと腰を並べられるほどな狭さの低い自動車だったが、さて走らせるとなると、あんまり自由にどちらへでも辷りすぎる不安定さで、なかなか思うようには動かなかった。
「ははア、これや、いよいよ真人間だ。」
 と久慈は矢代の方を面白そうに見て笑った。少し辷り出してまだ笑いの停らぬ間に、もう残酷に一台の車が突進して来だ。そして、「あッ。」と云う途端に横腹へひと突き衝っていった。大きな音の割りに痛さを身に感じない具合は急に久慈を大胆にさせた。彼は電流の不安定さに任せて群がる自動車の中へ辷り込んだ。みな誰も手もとの狂いのままに相手の狂いも赦している寛容な顔がひどく久慈に気に入った。初めは人に突き衝ることよりどうして避けようかと気を張ったが、無秩序を理性としている他の車の進行に注意していては、この混雑した闘争のさ中をきり脱けることが出来なかった。あ奴が衝って来そうだぞと勘づくと必ず衝って来る予想に緊張して、衝突の前に早や真紀子は、「あッ。」と悲鳴をあげ久慈の胴に獅噛みつくのだった。二つ三つも衝りをくってぐらついたころ、矢代の車の中でも千鶴子の叫びが上っていた。
「よし、ひとつ矢代に衝ててやろう。」
 と彼は真紀子に云った。そして、ハンドルを廻し矢代の車の胴を直角に狙って勢いをつけてみた。矢代より千鶴子の方が眼ざとく久慈を見つけると、恐れおののく風に上体を横に反らせて矢代の胴を抱き、追って来る車を見詰めつつ、
「いや、いや。」
 と眉を顰めた。そこを久慈はにんまりと笑って突撃した。物凄い音響と同時に火華が散った。どちらの車も停ったまま睨み合っていたが、すぐ矢代の方から辷り出すと今度は彼が、久慈の方へ突っかかって来るのだった。
 久慈は失敬しながら矢代の首を避け、遠廻りに廻ろうとしかけたそのとき、さきから意志を少しも見せず衝るを幸い薙ぎ倒していた青年の車が、「がッ。」と久慈の後尾を突き動かした。ハンドルを取りそこね、久慈の車は半廻転ほど横になった。すると、そこをすかさずまた矢代の車が一撃した。二度の衝撃で久慈はS字形に曲ったまま、思わぬ車の横腹へ突き衝ってしまった。そこへまた他のが蹌踉けて来て首を突っ込む。三つが捻じれているところへ意地悪いのが故意に首を入れたので、たちまち楔に裂かれた三つが意外な開きで散っていった。
 幾らか自由になったとき久慈は矢代の方を見てみると、彼も反対の隅へ押し籠められていて、出ようとする度びに、後から後から来るのに突き衝てられて困っていた。
 ところが、気をつけるともなく久慈は気附いたことだったが、千鶴子に突進してゆく車の多くの婦人は、運転している自分の男のそのときの心を忖度する気色でむっと衝る時ごとに怒った表情に変った。そして、誰かから自分が突撃を受けると遽に笑顔の悲鳴となるのだった。しかし、そう思えば、たしかに久慈も矢代へ突きかかってゆくときには、千鶴子に点数を入れたい気持ちが強いのを思い出した。殊に千鶴子への態勢を構えるとき、ぴたりと矢代に身体をよせかける千鶴子のなまめかしさが、妙に敵意の残酷さを久慈に抱かせ、彼は廻すハンドルに手心も加えず突き放すのだった。
 場内は絶えず微妙に変転するので、叫声と笑い以外に物を云うものは一人もなかった。同乗者は身体がくっついているためにその動きで忽ち意志が分った。久慈は真紀子の希望する男の車が近づくと、自然に延びる真紀子の体を感じ、突然その方へハンドルをひねり変えて突き衝った。が、また真紀子をつけ狙う男の車に向かっても容赦なく突撃した。
 運転が馴れるのに随って車はかなり自由に操縦することが出来た。そうなると争う気持ちを技術の拙劣さに隠す便利も出来て、一層この勝負は時間を忘れ、同乗の婦人も看板娘のようにますます役目を自覚して来る。そして、衝突の度びに発する火華が口づけの変形とも成り深まって来るのだった。
 特に自分の好きな男と衝突したとき、女のあげる悲鳴は大げさだった。一人の女は絶えずこれ見よとばかりに好んで悲鳴を上げた。久慈はその女が小憎らしくて突きかかったが、その度びにも女は喜びの悲鳴を上げるのだった。一番操縦の上手い顔の緊った美しい青年は、悠悠とひとり遠方を廻って来ては、急ピッチでいつも真紀子の横腹へ突入して来た。真紀子もその青年が近よる度びにそわそわとして、自分以外の誰に衝るものかと注意を怠らない風情だった。
 久慈は度び度び美青年の自動車を狙って衝った。青年の猛烈な攻撃が頻発して来ると、久慈は真紀子への嫉妬も嵩じ、突然首を廻して千鶴子の車へ突撃したりした。こんなにして戯れも時とともに次第に意識を変えて来たときである。久慈はまたも千鶴子を狙って突きかかろうとした瞬間、
「あッ。」
 と叫びを上げて真紀子が傾きよったと思う間に、青年は久慈のハンドルを突き飛ばした。
「こ奴ッ。」
 と久慈は思い、捻じれた首を立て直して青年に狙いをつけた。すると、また青年は隼のように久慈に向って飛びかかって来た。久慈と青年との間で火華の発する度数が増すにつれ、真紀子はもう叫びも上げなくなってしまった。二人の争いがだんだん人目に立って来ると、矢代も見るに見かねたものか、今度は彼がその青年に突撃を開始した。しかし、何んといっても青年の操縦は見事だった。これに敵うものはなく誰も後を追っ馳けるものもいなかった。青年は巧みに群がる車の狭い隙間をひらりひらりと体を翻し、遠くへ存在をくらませては、機を見て不意に殺到して来て引き上げるばかりだった。
 久慈はいら立たしくなると悲鳴を上げる女へぶっつけたり、千鶴子の体へ捻じ込んだり、衝るを幸いに衝り散らして運転をつづけてみた。しかし、いら立てばいら立つほど人からもぶっつけられ追い込められ、やがて冷汗をかきかきハンドルの自由が少しも利かなくなるのだった。そうして、久慈は、とどのつまり、まったく意志の乱用は自由を失うという教訓を身をもって証明させられる結果となっただけで、この電気遊びは終ったのである。
「ああ面白かった。でも、がちゃんとぶつかるときは恐いわね。」
 円形のホールを降りてからそういう真紀子と並び、久慈は、マロニエの間を矢代たちと歩いた。彼は生活の縮図から解き放されたほッとした安らかな気持ちだったが、見せつけられた人生の見本から立ち去って歩んでいる今のこの延びやかさは、つまりは際限のない死のようなものかもしれぬと思った。
 円形のホールを振り返ると、檻の中ではまた新しい客たちの火華を散らしているのが樹の間から眺められた。久慈はより添って来る真紀子に何ぜともなく情愛を強く感じ、腕を支えてホテルの方へ歩いていった。今はもう彼は千鶴子や矢代のことには介意ってはいられなかった。


 当分の間は久慈は真紀子の部屋で泊ったり真紀子が久慈の部屋で泊ったりした。ときにはまた二人でどこかのホテルで一泊したりしたが、久慈は外見一点の非のうちどころもないほど完全に真紀子を愛するように努めてみた。街を歩くときにも外人のように腕まで支え、あれを食べたいと真紀子が云えばそれを食べさせ、またこれが見たいと云えばそこへも行った。閑のきくときに一人の婦人にも満足も与えられないような男なら、日本へ帰って何をしてもしれていると思われたからだった。またそんなにすることにかけては、ここは日本にいるときよりもはるかに手易いことであり、そうしていても誰からも邪魔されないように、ここの日日の生活様式が出来ていた。二人に争うことがあるといえば、夜眠るときどちらかの一方が早く眠りすぎたとか、デパートで少し買物の時間をかけすぎたとか、いくらか会う時間が遅すぎたとかいうほどのことよりなかった。しかし、そうとはいえ久慈の心底には絶えず何か物足らぬものがあった。いずれ二人が別れるものなら、いつ別れても良いと準備している心がいつも二人の中にひそんでいたからだったが、それも一つは、そのような予想が互いにあればこそ争いのない旅の日といえばいえるのかもしれなかった。もしどちらかそれを明瞭に切り出して云ったなら、二人のどちらかが困りはてる結果になるということも定っているのだった。
 こんなにつき詰めた感情をどっか最後の一点に置き残している久慈と真紀子とのある日、いよいよパリ祭が明日だという日になった。街角には踊りに準えるバンドの杭の打ち込まれる音が聞える一方に、フランスの各県から集って来た労働者の団体が三十万四十万と、檻のようなパリの中へ続続くり込んで来ていた。夜になると、明日の朝まで大行進をつづけるのだという細民の太鼓の音が、街街から聞えて来た。この左翼の勢揃いの固まるにつれ、右翼の陣形もますます練り固まって来たという噂が久慈たちの耳にももれ伝った。バスティユの牢獄を打ち破ったフランス革命のときのように、明日も第一番にバスティユの門が砕かれるであろうという話も、一般の予想の一つだった。
 銃剣をつけた警官隊が街街の辻に群がり立って暴徒の警戒にあたった。自動車がどこかへ徴発されたと見えて数少くなっている街の中を、この夜久慈は矢代と一緒に歩き廻ってみた。街の通りを行列をつくって進む群衆を見るときどき、彼は祭の夜の電気自動車を運転した檻の中を見る思いで、明日はいよいよ火華が飛び散るであろうと更けゆく夜を待つのだった。二人はサンミシェルを振り出しに河を越え、グランブルヴァールからサンマルタンの方へと坂を登っていったとき、久慈は突然矢代に訊ねた。
「それはそうと、千鶴子さんいつ帰ることになったのかね。」
「十五日の朝だ。」
「じゃ、明後日だな。汽車か飛行機か。」
「飛行機にした。もう切符も手に入れたんだ。」
 二人の黙ってしまった遠くから絶えずバスティユの方へ行進してゆく群衆の響きが、ちょうど法華宗の進行のような太鼓のリズムの連音をなみなみとつづかせて聞えて来ていた。
「明日がすんだらもう僕もベルリンの方へ行くつもりだよ。」と矢代は云った。
 サンマルタンからクニヤンの方へ廻って行くに随い、薄霧の中に赤旗を靡びかせた行列がだんだん増して夜の深むにつれ熱気が街に溢れて来るのだった。


 人の心がパリ祭だといって騒ぐのに、その日の朝は、矢代は眼がさめても一向に浮き立つ気持ちも起らなかった。彼はゆっくり起きてから千鶴子に電話をかけ、明朝のあなたの帰る支度は今夜自分がするからそのままにしとかれるようにと云って、すぐ食事場のドームで待っていることを告げると、身支度にかかった。
 ネクタイもある店で久慈と取り合いでとうとう買い占めた柄のを締めた。そして矢代はホテルを出たが、出るとき鍵さしに差さった日本からの手紙を見た。それは長らく海岸で寝ている妹からのものだった。手紙にはいろいろのことが病人らしく書いてある中に、次ぎのようなことがあった。

 ――いつかお報せしたかと思いますが、お父さまも気がこのごろお弱くなりましたのか、お金貸しもあまりひどいことをなさらなくなりました。お伊勢参りをお母さんとなさったとき、偶然に郷里の消防団と一緒になって驚かれたことがありましたが、それ以来急にお年をとられたように思います。郷里へも先日初めて帰られ、御先祖のお墓参りをされました。わたくしは東京で生れたせいか、自分の故郷がどこだか分りません。お兄さんはパリに行かれ、東京を故郷と思われましたよし、まことに自分のことのように嬉しく思いました。これでわたくしの家では、ただ一人わたくしだけが、ふらふらしている人間かと思いますと、悲しゅうございます。それでも、もうお帰りになるのかと思いますと、それまでに病気もよくなっていたいと、朝夕心こめてお待ちしております。波の音が午後になると、いつもここの海岸は高くなります。この海の向うにいらっしゃるのね。――

 箱根の山の見える海ぎわに、夕日のさしている風景が矢代の頭に浮んだ。そして、そこの下でまだ療養している妹の寝姿を思い急に心は曇ったが、手紙をポケットにしまい込むと、毎朝の日課のルクサンブールの公園の中へ這入っていった。樹の幹の間に落ちている日光の斑点の中で聖書を読みつつ歩いて来る若い牧師の華奢な両手――その指の間から閃く金色の聖書の頁が矢代の眼を強く刺して来た。
 日ごとに蕾を開いてふくれて来る大輪の黄薔薇の傍を通り、芝生の中の細い砂を踏んで歩くうちに、矢代は不意に千鶴子と今日でもうお別れだと思った。どっと波の襲うような音波が一瞬公園の緑の色を無くした。それでもじっとベンチに腰を落し樹の幹を見ている間に、また断ち切られた緑の色がもとのように静まって来るのだった。


 ドームのテラスにはもう塩野を初め、東野やその他知人三四人の日本人の顔も見えていた。一人はある新聞社の特派員で、今日は一日馳けずり廻らねばならぬのだと云って、どこへ行けば一番右翼と左翼の衝突が見られるだろうかと、よりより協議の最中らしく興奮した面だったが、矢代はそんなのもあまり見たいと思わなかった。
「しかし、とにかく、パリ祭も変れば変るものだなア。毎年このあたりの通りは踊り狂う群衆で、もう電車なんか通れたもんじゃなかったんだが、どうだ、このさびれ様は。」
 とこう云ったのは塩野だった。パリ祭の賑やかさは前から矢代も話に聞き、映画などでも見知っていた。しかし、実地に見たのはこの日が初めてだったから、見たところ常の日とそんなに変らぬ街の様子も、塩野の驚くほどには感じなかった。
「僕らは旅人だからそう云われても、どうも分らない。これじゃ、フランスも表面を素通りしているだけで、何も知らないのだな。」
 と矢代は塩野に云って笑った。フランスのことをどんなによく知っているものでも、長くここにいるものには頭の上らぬ先輩意識が起り、自然と日本人は圧えられ謙遜になるのだったが、矢代は、その先輩を気取っているものさえ、どこまでフランスを知っているものか、怪しいものだと思った。日本人が他国を見るのに自分の中から日本人という素質を放して見るということは、どんなことをするものかよく分らず、またそのようなことは人間に出来得られることでないと、今もなお思い通していることに変りはなかった。
「この中田さんは明日ドイツへ行かれるんだが、あなたはいつです。」
 と塩野はまた矢代に訊ねた。中田はある大学の政治学の教授で、特にこのパリ祭を見たくてロンドンから渡って来たのである。この人は闊達明朗な笑顔のうちにも、学生時代からまだ曲って来たこともない素朴剛健な風貌があったので、定めし今日の左翼のこの旺盛さと、右翼の民族意識との対立は、学問として好個の見学材料である以上に、悩ましい問題も解き難く頭を襲っているに相違ないと矢代には感じられた。しかし、見渡したところ、それは中田ばかりとは限らなかった。ここにいるもののすべては云うに及ばず、恐らく世界の知識階級のものたちにとって、この日ほど、注目すべき日は近来になかっただろう。それも、どんなことが起ったところで、ニュースは言葉を濁し、明白な報知をしないに定っているのである。
「僕ももうじきベルリンへ行こうと思ってます。また向うでお会いしましよう。」
 と矢代は云って中田のどことなく困惑している笑顔を眺めた。皆が一番衝突の激しいのはバスティユであろうとか、サンゼリゼであろうかと云っている時でも、中田はひとり腕を組み、ときどき黙ってはしきりに考え込んだ。
「ここがこんな風になっちゃ、これから学生に教える人は困りましょうね。」
 と矢代は茶飲み話にふと口を辷らせた。
「そうです。われわれはもう教えようがなくなりましたよ。この間からここを見ていて、日本がこんなになられちゃ、こりゃ困ると思ってるんです。」
 大学の教授がこんなことを素人に云うのは、一応考うべき重大なことにちがいなかったが、それをふと思わず洩した中田に矢代は好感を持った。世界通念を理由として論理的に中田の呟きを引き延ばし論争をし出すとすれば、日本の大学は破滅すること勿論だった。しかし、中田の呟きには美しい感覚の愁いが籠っていた。破滅させるより続かせる方が良いと万人の希う限りは、念い希う根柢の民族の心を知るより法はない。矢代は久慈と続けて来た論争の焦点がいつもそこだったと思い、今日こそ久慈に誤りを徹底的に感じさせ、一応は日本人の立場に引き戻さねばならぬと決心したが、頭に泛んで来た久慈の顔には、まだ頑な勝気だけが眼に見えて来るのだった。
「ああ、あれには敵わん。あ奴は幽霊に憑かれてる。」
 彼は思わずこう胸中で呟きながらも、やはり久慈の出て来るのを誰よりも待つのだった。彼には久慈の勝気が知性というような合理性には見えず、ただ単に勝気という日本人の肉感な癖により見えぬのである。
「失礼なことお訊きするようですが、あなたはこんな今日のようなここの問題、どんな風に考えてらっしゃいますか。青年の問題としてですね。」
 と突然、中田は矢代に向って興味あるらしい微笑で訊ねた。
「僕はどうも、公式主義というのは嫌いでしてね。そういうせいか、ここの問題はどうにもぴったり僕の感覚に訴えて来ないんですよ。」
「じゃ、論理的にもですか。」
「そうです。」
 と矢代は答えた。自分はここで生活して来てみたわけではないから、無論ここの人間の感情さえ分らないという意味だった。彼はそんなに答える傍ら、感情も分らぬのにどうしてここの論理が分るのかと、内心久慈へいつもあたる抗議を繰り返してみるばかりだった。
「しかし、何んと云っても論理ですからね。」
 と中田は呟くように云って俯向き込み、そろそろ頭の中を締め縛っている通念の論理に気を落ちつけた様子で黙った。矢代も黙ったが、しかし、出て来る新人の誰も彼も、論理論理と考え込んでいる無数の頭の進行が、眼だけぱちぱちさせて風景を見ている怪奇極まる図を思い描くと、ふと光線の強く射している対岸の鋪道の石を眺め、早く千鶴子でも来てくれぬものかと待つのだった。すると、後ろの方で立ち上った東野は、
「円周率は三コンマの何んとかじゃ割り切れんわい。そんならみんな用心してくれ頼むぞ。」
 と誰にともつかず云って猫背のまま電車通りを横切っていった。その後から駆り出しに廻って来た罷業委員らの無蓋自動車が数台列なり、それぞれ逞しく盛り繁った態勢のまま拳を振り上げて、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
 と叫んだ。そして、鋪道のよく光った鋲の上を貫き流れていくのに和し、テラスの外人たちも、いつもとは違って熱して来た。塩野の顔は急に赤くなったと思うと、突然、
「馬鹿野郎ッ。」
 と自動車に向ってひとり叫んだ。早口の日本語だったから誰にも分らなかったが、塩野は胸にぶら下ったカメラを手で受けつつ、
「さア、行こうや。あ、そうだ、君に上げるの忘れてた。」
 と云って、ポケットの中から大使館で貰って来た金属で出来た小さなカルトを二つ出し矢代に渡した。記者の標のそのカルトを持っていると、その日一日は、どこへでも這入って行ける便利があり、前から久慈や矢代の頼んであったものだった。駆り出しの委員らの自動車はまた次ぎ次ぎに叫びながら馳けて来た。特派員たちは種材を集めに散っていったが、矢代は久慈の来るまで動けなかったので、塩野らに先にバスティユへ行ってもらうことにして、落ち合う所をサンゼリゼのトリオンフに定めた。
 テラスが急に空虚になってから矢代はひとりコーヒーを飲んでいた。外から戻って来た外人の話では、グランブルヴァールからナシオンの広場の方へ行進しつつある群衆の数は、およそ五十万ほどだとのことだった。
 あたりの街の人人は、行進を見に行っているのかどこにも人影がなかった。通りの街角に造られた踊り場も、櫓の脚の木材だけ新しく石の間に目立たせたまま、一人の人も寄りついていなかった。石の古い空虚な街がかすかな傾きを明瞭に泛べている真上に、日のあかあかと輝いているのは、落ちている蝉の脱殻を手にしたときのような、軽い頓馬な愁いをふと矢代に感じさせた。間もなく、久慈は枕を脱したらしい膨れぼったい眼でその剽軽な通りを歩いて来た。
「いやに閑静だね。」
 矢代の傍へ腰かけそういう久慈の籐椅子の背が、もうすでにぎしぎしとよく静かな中で響いた。
「婦人連は遅いね。塩野君さっきまでここに待っていてくれたんだが、もう皆いったよ。誰も彼も今日は血眼だ。」
「そうだろう。」
 と久慈は云っただけでコーヒーと鮭を□咐けた。いつもなら何んとか矢代に突っかかって来る彼だったが、今日は何も云わず、黙って額を揉みほごすと軽く横に振ってみていた。
「衝突はあったのかね。」
「さア、どうだか。」
 矢代はふと椅子の下を走り廻っている一疋の鼠を見つけた。隙間のない石ばかり続いて出来たこんな所へ出て来ては、逃げるとすると、鼠も放射線を伝って郊外まで一里あまり走らねばなるまいと思った。そこへコーヒーと鮭とパンが出た。
「いやに静かだね。気味が悪いや。」
 とまた久慈はあたりを見廻して云った。波頭のような二百ばかりの空虚の椅子の犇めき詰っている中にぼつりと浸っている二人だった。コーヒーだけが湯気を静かに立てていた。
「千鶴子さん明日帰るとすると、今夜一つ送別会をしなきやならないが、どこでしょう。ボアの湖へ行くか。それともモンマルトルの山の上がいいかね。」
 久慈が読みとるようにそう云って矢代の眼を見詰めても矢代はすぐ返事が出来なかった。
「どこでも良かろう。」
「どこでも良いってどういうことだ。二人きりがいいなら、僕らは遠慮をするよ。」
「いや、そんな必要はもうないのだ。」
 と矢代は急いで云った。
「もうないって? 何んだか分らないね。」
 妙にくぐり込んで笑う久慈を矢代はうるさく思って黙った。確かに千鶴子と今日一日二人きりの世界を楽しみたいと矢代の思っていたことは事実だったが、それを久慈から指摘されることは、用を不用にする歪みを二人の間にひき起す危さを感じ、矢代は黙ったのである。すると、しつこく久慈は、
「だって、今日一日じゃないか。何んとか恰好をつけとく方がいいに定ってるよ。」
 と押しつけた。矢代は久慈の恰好という意味を一寸考え、まだ千鶴子との間の具体的な恰好は何もつけていない自分だと思った。しかし、それはもう幾度となく考えてしまった後の事でもあり、外国での無理な恰好を急いでつける工夫の愚かなことを、賢さとすることに賛成し難いものを感じるのだった。これは歯を喰いしばるような矢代の痛さだったが、日本へ帰っても今の気持ちが切れるものなら、それならいっそ今のうちに切ってしまうのも、二人のためと思うことに変りはなかった。いずれにせよ、矢代は、ここで自分たちの中に起っていることのすべては夢遊病者の夢中での出来事だと思った。
 もしこの夢が変らぬ事実だったなら、日本へ帰っても変らぬだろうと思い、せめてそれが事実であってくれと祈る気持ちで何事も云わず、千鶴子と別れてゆこうと試みる、ある実証に臨んだような決心とも云うべきものが強かった。恐らく帰れば久慈のいうように、千鶴子と断ち切られてしまうような事があるかもしれぬと怖れはしても、何ものにも代え難いものを失うなら、それならそれは自分の身の錆びであり、自分の受けるべき罰だと思った。
 しかし、そんなに突き詰めたような考えだったにも拘らず、矢代は最後の一点で千鶴子を信じて疑わなかった。外国の婦人ならともかくも、千鶴子を信じ切ってしまったのを、今さら何んの形をつけようというのか、矢代が久慈をうるさく思うのは、大切なこちらの心の暖め方を一挙に突き崩そうとする無理をそこに感じたからだった。
「君のいうように、どこの国でも通用するのは、それや論理かもしれないが、論理以外に人間を信用するという心の方が、もっと通用するよ。その方が大切だ。」
 とこう矢代は久慈に定めつけてみたいのである。しかし、こんなことも今は無用の返答だと思い止まった。そして、
「君はいつごろ日本へ帰るのだ。」と彼は訊ねた。
「さア、そ奴はまだ考えていないね。しかし、まア、僕ぐらいはここで沈没してみるのも、良かろうと思っているんだ。」
 久慈は切り裂いた鮭の中から小骨を抜きとりながら、
「これ日本のかもしれないぜ。今日のは馬鹿に美味いや。千鶴子さん、鮭をフランスへ入れるのに手伝ったって云ってたが、こ奴かな。」
 と云って矢代を見て笑った。そう云えば、このあたり一帯のカフェーにあるコーヒー茶碗や食器などは、皆どこのも日本製ばかりだと聞いたことも矢代は思い出され、よくもあの地球の端からここまで満ちて来たものだと、街の拡がりを今さらのように眺めてみるのだった。


 真紀子が来てから少し遅れて千鶴子が来た。千鶴子は、ほッと洩れる息を押し込めたような気の張った快活さで、
「明日帰るんだと思うと何んだかそわそわするのよ。そのくせ何もすることないの。」
 と云って腰を降ろそうとした。久慈はすぐこれから行進のある通りまで車で行こうと云って、自動車を呼びとめに立った。四人は気忙しい思いのまま車に乗った。
 ナシオンの近くの通りまで来かかったとき、早くも見物の群衆で車は動かなくなった。五列ずつほど腕を組み合せて行進して来る隊伍は、所属団体に随ってそれぞれ幟の色を違えていたが、中でも赤や白が一番に多かった。それも労働団体ばかりとは限らず、左翼の政府を支持している文化団体の尽くが混っているといっても良いほどだった。中には自分の子供を肩に乗せて歩いて来るものもあり、少年も少からず混っていた。
「あら、ジイドの写真まで出て来たわ。」
 と真紀子は云って笑った。見物の群衆は十重二十重に通りを埋めているので、矢代たちのいる外側からよく行進が見えなかったが、染屋の晒布のような無数の幟の進んで来る中に混った出し物には、工夫をこらしたものも多かった。
 特にそれらの隊伍のどこが面白いのか分らなかったが、街路樹という街路樹の枝葉の中から、鈴なりの果物のように群がり繋って下を覗いている見物の顔も街を埋めた群衆も、どういうものか固唾を呑んだように物も云わず、何かの予想に緊張している無気味な空気があたりの街に漂っていた。矢代は、葬列か凱歌かしれぬこんな光景が暫く眼の前を通過しているのを見ている間に、何ぜともなく久慈を突っつきたくなって来たが、それもじっと胸もとで耐えた。
 人の肩越しで行進を見られぬ見物の女たちは、ハンドバッグから鏡を出してそれぞれ後ろを向き、鏡面に行進のさまを映し出して眺めていた。
 千鶴子や真紀子もそれに倣い鏡を空にかざした。久慈と矢代は爪立ち疲れてふと顔を見合すことがあったが、ぎりぎりとせっぱ詰った云われぬ冷たい表情ですぐ視線を反らせた。その度びに、どちらも、「ふん。」と一瞬相手をせせら笑うような唇の動きを感じ、何か一言いえば生涯の破れになるかと思われる悪寒が、白白しく二人を黙らせつづけるのだった。
 そのうち高い建物の上の方から拡声器の革命歌が響きわたって来ると、行進の歩調が揃って来た。しかし、またそれがすぐ国歌に変ってマルセエーズが放じられた。見ている群衆はどちらの歌が空に響きわたっても同じで、誰も声を立てず、すでにこのような訓練が行きとどいた後のように静かだった。
「何か起るのかしら、見ている人、嬉しそうでもないのね。」
 と真紀子は不安な顔で久慈に訊ねた。
 進行して来る団体の幟が中核をなす赤旗ばかりになって来ると、眼の光りも異様な殺気を帯び、腕組む粒揃いの体の間から勝ち誇った巌乗な睥睨が滲み出て来た。みな誰も紺の背広にネクタイを垂していたから、一見、パリ祭をぶち壊した群れのようには見えなかったが、文化団体とは違い、緊張した弾力が見るから観衆を押し動かして迫った。幟の中にもここのは明らさまにスターリンやレエニン、それからマルクスなどという本家の似顔絵ばかりを押し立てて、もうフランスという国情の匂いなど少しもなかった。
 矢代は見ていて、この行列のさまを翻訳して各国へ報らせれば、分り通じるところは、この国情の失われ取り払われた個所ばかりだと思った。こんなに国情のない部分ばかりが他国に通じ、その国の大部分を形づくっている国情という伝統が通じないとすれば、――矢代は、その次ぎに起って来ることは凡そ想像することが出来た。
「これは困る。こうなっちゃ。」と矢代も思わず中田のように云って、ぶらぶら俯向き加減に人垣の後の方をひとりほっつき廻りながら、――もし生きるという生を構成している国情の大部のものが通じ合わぬなら、世の中の秩序を保つための政治は、ただ僅かな外面的な形式の部分ばかりで他国と触れ合うまでにすぎぬと思った。そんなら恐るべき人生の進行だ。――
「まったく困る。何んとかならぬものか、何んとか。」
 このように考えているときでも、赤旗の流れはますます続いて来ていた。ぶるんぶるんと精悍な胴ぶるいをしているような、脂の満ち張った足並みで繰り出て来たのは、ひと目でこの日の行事の中心団体と目された一群だと分ったが、内臓を立ち割って日に晒し出したようなこれらの光景は、それはすでにもう伝統ではないものが、政治を掴み動かしているのと同じだった。しかも、先日までこれを制御していた洒脱な警官の群れは、自分の意志を隠し、政府の与えた命令のまま今日はこの行進の無事ならんことを護っている。
 ふと矢代は、ここに法を守護するフランスの伝統を見たと思った。もしこの法の守護という精神が失われたら、このフランスから自由も失われたときであろう。――彼はそんなに思うとここまで押し転げて来たフランスの国の歴史と、自分の国の歴史の相違を合せ考えてみるのだった。
「サンゼリゼの方、三時半だって?」
 と久慈は写真を一二枚とってから矢代に訊ね時計を見た。
「うむ、もう行こう。」
 サンゼリゼでは今ごろは伝統派が待ち構えているころだと矢代は思ったが、久慈には黙って自動車に千鶴子や真紀子を乗せて走らせた。
「何んだかこの間ドームで聞いていたら、社会意識がフランスみたいに変って来たら、音楽意識も変ってしまうんだって、そんなに云ってる人があるのよ。そしたら、べートオベンの曲なんかももうそれや駄目だ、と他の一人が云ってるの。本当かしら。」
 と真紀子が久慈の方に身をよせて訊ねた。
「それは外人が云ってるの?」
 と久慈は訊ね返した。
「ええ、そう、あれはたしかルーマニア人らしかったわ。」
「日本でも一時そんなことが、問題になったことがあったな。誰だったか、天文学にマルキシズムの天文学だの、ブルジョアの天文学だのって区別、あってたまるかって、あのころは日本も危なかったね。」
 矢代はそれとなく真紀子の提出した複雑な問題をこの場合の単純さに納めて笑った。しかし、このような後でもふと明日は千鶴子が日本へ帰るのだと思うと、急に話していることや、眼にした光景の総てが空しく見え、自分だけの世界が重重しく立ち戻って来るのだった。
「僕の知人の天文学者でね、豪いのがいるんだが、その男は星を観測するときに、その前に食った食物が野菜だったか、肉だったかという質の違いで、もう観測に現れた数字の結果が同じでないと云ってたことがあるね。食い物でもう違って来るというんだから、天文学にも区別あるかもしれんぞ。」
 と久慈は自分に不利な云い方を我知らずに口走って笑った。矢代は自分ひとりの落ち込んでゆく淋しさから延び上り、今は当面の話題にとり縋っていたかったので、強いて勇気を取り戻そうとして云った。
「そんなら、科学は誤謬を造るのが目的だというようなものじゃないか。あ、そうだ。さっき、東野さんがドームにいたんだが、人民戦線の駆り出しが通ったときに、円周率は三コンマの一四じゃ割り切れんぞ、用心をせいと呶鳴っていたな。」
 そう云いつつ矢代は、東野のそのときの言葉の意味を初めて了解するのだった。しかし、こんな会話も争いを起さぬ工夫に捻じれ気味で、辷りの悪さを感じたものか千鶴子は、
「あら、あんな所で踊っているわ。今日は踊りを初めて見てよ。淋しそうな踊りだこと。」
 と云って皆の視線をある街角の鋪道に向けた。そのあたりはもう人気のない空虚の街だった。通る人もなければ振り向く者もない一角に、数組の男女が慎重にステップに気をつけた態度で踊っていた。山中の踊りかと見えるその男女の舞いの上に、雨も降りかかっているらしく石の上には斑点が浮んでいた。
 ドームの前まで来かかったとき、たった一人のお客がテラスに腰かけたままぼんやりと空模様を眺めていた。それが東野だった。
「あッ、おやじ一人いるわい。」
 と久慈は懐しそうに云って窓ガラスを叩いたが、その前を通りすぎた一行の自動車は、凄い速力で早やテラスから遠ざかってしまっていた。ここは雨が降ったと見え鋪道は濡れていて、急に冷えた空気が千鶴子たちの香水の匂いをあおり返して来た。
「東野さん、人民戦線なんか御覧になりたくないのね。」
 と真紀子は後ろの方を振り返ってみて云った。
「そうじゃない。きっともう見ているよ。」
 こう云う久慈に矢代は、
「それや見てる。ただあの人は心の騒ぐのがうるさいんだよ。今日のような日は、一番難しいのは塩野君かもしれないね。写真を写すときには、写す対象がどんなものでも、レンズと同じように冷たくなる努力を要すると云ってたからな。あの情熱家が冷たくなるのは難しいよ。」
 何か久慈は云いたそうに薄笑いを泛べてから、ふと翻るおもむきで、
「じゃ、僕の方が写真上手いぞ。」と云った。
「そう。あなたは冷たい人だから、上手よきっと。」
 と真紀子はすかさず虚を突いて久慈を見た。
 車がアンヴァリイドからセーヌ河の方へ外れていくに随って、皆な黙り勝ちになり、矢代の淋しい想いもまた自然に重く返って来るのだった。


 サンゼリゼの坂下で車を降り、一行はすぐ眼に見えるトリオンフまで歩いた。ここは伝統派の本拠のこととて、今は警官の圧迫を受けているとはいえ、見て来た行進のあった街街の様子とは違っていた。
 凱旋門から両側に連り下ったカフェーは道路に向い、大劇場の客席の雛壇を展いたような豪華な形だった。ちょうど道路が舞台となり、そこから見渡す両側は、どちらを見ても統一された真紅の観客席のゆるやかな傾斜をつづけ、人人はそこに充満していた。それぞれここのはスタイルの見本帳から出て来たような、端正な服装の紳士や淑女ばかりだったが、もうみんな戦闘の準備を終えたらしく、壮麗な一帯の展望ながらステッキを握った手を前に突き立て、凱旋門の無名戦士の墓を占拠しに襲って来る左翼を待ち構えている興奮がどの面面にも漲っていた。
 ここを失えば、もう世界の文化は破壊されるばかりだと確信を抱いた必死の反抗が、建物の窓窓にも現れ、一丈ほどもある三色旗の大旗を横に掴んだ老婆まで、高い窓から下の通りへ向って旗を振り振り応援していた。
 通りの下の方からは、七八十人の学生の群れが女学生も中に加え、腕を組み、国歌を合唱しつつねり登って来た。

祖国のために
今日の光栄の
日は来れり
老若男女
剣を持て

 この合唱に応じて両側の通りやカフェー、建物の窓窓からまた合唱がつらなり起った。窓の老婆も顔を充血させ、洗濯をするような恰好でますます強く大旗を揺り動かして歌った。照るともなく曇るともない空模様のうちに雨が降って来た。鉄甲を冠り銃を肩にした警官隊が横町に塊っていたが、これは政府党の警官ではなくパリ市直属の精鋭で、もっぱら市街の秩序の維持に当てられるものだった。駅夫のようなフランス帽を冠った政府党の警官たちは群衆の合唱が大きな声になると、畳んだマントを左右に振って鎮めようとつとめたが、それもどことなく自分もともに歌い出したいらしい顔つきで、「これこれ。」と云うほどの程度でゆったりとしていた。
 矢代たちがトリオンフの椅子を占めてから間もなく、バスティユの方から戻って来た塩野や中田たちと落ち合った。
「あっちはもう赤旗ばかりだが、こっちは頑張っとるな。」
 と塩野の元気な声で云うのに、久慈は、

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