旅愁
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著者名:横光利一 

「じゃ、あなたにも上げてよ。」
 真紀子は小卓の方へ立っていって薔薇を折ると、寝台の上に脱ぎ捨ててあった久慈の服の襟へ同じように差し、
「あなたもこれを着てらっしゃいよ。もうそんなに暑くないんですもの。」
 と云って久慈の後ろへ廻った。云われるまま久慈は服に手を通した。
「花はいいものだな。花の嫌いなものはあるかね。」
「でも、お茶じゃあまりお花はいけないのよ。」
「お茶か。」
 久慈はお茶の師匠にもなれる母のことを思い出し、よくそんなことも母は云ったと思いながら真紀子と向き合って立った。かすめ過ぎる化粧の匂いのままどちらも黙って何をするでもなく暫く立っていたが、そのうちに徐徐に顔が合った。
「一寸、矢代さん、もう帰ってらっしゃるかもしれないわ。電話かけて見ようかしら。」
 あまり淡淡としすぎたほどの落ちつきで真紀子は久慈を見上げて訊ねた。久慈はそれには答えずドアの方を振り向いて見ている間に、真紀子はもう電話を矢代の部屋へかけていた。受け答えの様子では矢代は帰っているらしい。真紀子は受話器を置くと、
「いらっしゃるのよ。ここへ。」
 と云ってさも何事もなかったように自分の椅子へ戻った。久慈も椅子へ腰を降ろした。真紀子は眼を細め下から覗くように首を傾けて、
「セヴィラへ行きましようね。ほんとうよ。」
「どうも、しかし、けしからんね。矢代の奴。」
 と久慈は笑いながら煙草を取り出して云った。
「あ、そう、あなただけお花とってらっしゃる方がいいわ。」
 真紀子が腕を伸ばそうとするのを、久慈は肩を後へ引きとめた。
「いいよ。僕だってお花ぐらい貰わなくちゃ、パリへ何しに来たんか分らない。」
「でも、何んだかおかしいわ。また上げますからとっといて下さいよ。」
 真紀子は無理に久慈の襟から薔薇をむしりとると、捨て所を索すようにあたりを見廻していてから寝台の枕の傍へぽいと投げた。久慈は白い枕とシーツの間へとまった真紅の薔薇の一点を見ているうちに、何かある清らかな聖鳥を見るような思いに胸がつまって来るのだった。
「よし、分った。」
 久慈は思わず膝を打って嬉しそうに天井を仰いだ。
「何に?」
 不思議そうに見ている真紀子に久慈は介意(かま)わず、
「得度したぞ。ノートル・ダムのお蔭だ。」
 と云ってまた薔薇の方を眺め返した。そのとき、ノックの音がしたが久慈はもうドアの方を向こうともしなかった。心はしきりに弾み上って来るのに爽やかな流れが抵抗もなく胸の底を流れつづけた。
 真紀子が立っていってドアを開けたとき思いがけなく外に高が立っていた。
「あら、高さんですわ。あなた。」
 と真紀子は久慈の方を振り返ってからまた高に、
「いま矢代さんがいらっしゃるっていうもんですから、矢代さんだとばかり思って――さア、どうぞ。」
 久慈は高だと教えられても別に驚きもしなかった。這入って来るものがどこの国のものだって今はもう良いと思うと、淀みのない快活な心が波うって来るのを覚え、握手しながら船中以来の挨拶を高にした。長身に縞のダブルの服を着た高は、幾らか胃の窪んだような姿勢のまま眼鏡の奥で柔かに笑っていた。
「今日はノートル・ダムへ行きましてね。中へ這入ったものだから埃りだらけになりましたよ。えらい埃りだ。」
 久慈は高とさし向いに坐り理由もなくいきなりからからと笑ってから、
「どうです、その後御無事ですか。」
 と妙に大きな声で訊ねた。
「ええ、丈夫です。」
 高は東京にいたときの日本の挨拶を思い出したと見え少し遅れてこう云ったが、どこかにまだあたりを警戒している物腰が笑顔の中に漂った。真紀子の電話したとき高は家にいなかったから、宿の者の伝言で出て来た高にちがいなかったが、ここに自分のいることも一応は知って出て来たのかどうか久慈には分らなかった。
「ゆうべ矢代があなたにお会いしたとか云ってましたから、それじゃこちらにいらっしゃるとき一度と思いまして、それでお呼び立てしたようなわけです。こちらにはお友達が多いんですか。」
「少しおります。」
 高はこのような簡単な返事をするときでも、頭に閊えることが群りよるらしく、ぱッと赧らんだ顔の中から眼がきらきらと強く冴えた。
「あたしフランス語が下手なものですから、高さんにお言伝したの通じないんじゃないかと、心配しておりましたの。でも、良うござんしたわ。昨夜はいろいろ御面倒おかけしまして、――ほんとに久しぶりですのよ。あんな面白い遊びさせていただいたの。」
「僕らの踊りは下手だからな。」
 と久慈は皮肉のつもりもなく云った。
「そうよ。久慈さんなんか踊りにもまだ連れてって下さらないんですもの。高さんのはそれやお上手よ。今度またお願いしますわ。あたし下手でお邪魔かしれないけど。」
 こう真紀子が云っているときまたドアを叩く音がした。今度は矢代と千鶴子の二人だった。皆初めての者ではなかったので挨拶は簡単にすんだ。椅子が一つ不足していたから真紀子は浴室のを持ち出して来て自分のにあて、電話でコーヒーとウィスキーを下へ頼んだ。五人がテーブルを包み座をそれぞれに定めたとき、暫く妙に白んだ気重い沈黙がつづいたが、久慈は見事にそれも突き崩した。
「高さん、あなた覚えてらっしゃるかしら、沖さんという爺さんが僕らの船のグループにいたの。あの人先日ノルマンデイで日本へ帰ったんですが、帰るとき面白いことを云ってましたよ。僕らはヨーロッパで何をして来たかしらないけど、まア来たからには、何かの意味で遣欧使だから、まんざら役に立たぬこともあるまいというのですね。あの爺さんでもそのつもりなんですから、これで僕らも実はその気持ちにならなくちゃならんと思って、考えているんですが、どうですかね、高さん方、中国の人たちもそんな気持ちは無論お持ちでしょうね。そういう所を一つ今夜はお聞きしたいんです。」
「それはあなたがたより僕らの方がその気持ち強いと思います。」
 と高は頬に片手をあてたまま腹部を椅子の背にへこませて答えた。
「それややはり、高さんは日本へ来ていらしたから、よく日本の事情を知ってらっしゃるからでしょうが、しかし、これでどちらも僕らは、難しいところへさしかかって来たものだと思いますね。随分これや難しくなりますよ。政治だけの問題じゃありませんからね。何も政治だけならそうは難しくはならないんだけれども、近代というものには、政治の中に科学という理論が混入して来ているから、――科学だ曲者は。」
「そうそう。」
 と高は問題が気に入ったと云いたげに頷いた。
 反対に退屈そうにしていた矢代は突然、
「むかしの遣唐使のようにはいかんか。」
 と笑って久慈を見た。
「遣唐使だって君、あの時代はあの時代の仏教という論理の究明に行ったんだからね。あのときはあれがやはり科学だったんだ。」
「それやそうだ。あの時代は非合理の合理性を究明する時代だったんだが、近代は合理性以外は捨てる時代だから、東洋の近代人は皆そこでまごまごしてるんだ。非合理を捨ててしまって合理の成り立つ筈がないということを、知らない振りをするのが、学問という誇りになって来たからな。」
 矢代のこう云うのに、久慈は云いたいことがもぞもぞと襲って来た。しかし、異国人の高がいるのだと気がつくとやはりその心も抑えてかかるのだった。
「しかし、君これほど進んだ近代がもう一度むかしの非合理を愛するようにはならんよ。絶対にそれや駄目だ。だから政治をどこも誤るのだ。」
「それや君の云うのは立派なものは、立派だ、と云ってるようなものだよ。そんなことを云っていて人間というものは承知出来るものじゃない。だいいち、遣唐使があれほど惨澹たる苦心をして東洋の非合理の究明に行って、それを民衆の中へ植えつけた結果が日本の文明というものになったんだろ。中国精神というものを考えたって、精はこれ神なりというような非合理の合理を根柢に認めてから、それから物や心を考える工夫に進めているよ。日本精神にしたって、これはもう人間という代名詞みたいなもので、頭は一つで眼は二つ、足が二つで手も二つ、精神は神に従うというようなものだから、遣唐使も遣欧使も僕らには必要だったんだ。」
 高は矢代の言葉のままに表情を展いたり縮めたりしていたが、最後の飛躍した矢代の諧謔に会うと、声を立てずに笑っていてから云った。
「しかし、中国には近代が少いですからね。あなたのお国のように西洋をまだ採り入れておりませんから、そこが負けています。あなたのお国の方は、もうそんな必要あまりないのじゃありませんか。」
「いや、そこはまだ分らないところですよ。」
 久慈の云うのをすぐ矢代は受けて云った。
「しかし、遣唐使も取り入れるものがなくなった最後のころには、みな堕落して帰って来てるね。日本というところは、そうなるとぴたりと一度蓋をしてこれを固めなくちゃすまぬところだ。日本が中で固める必要の起っているときに、中国はいよいよこれから遣欧使の必要に迫られているときだから、日本と中国との間でごたごたがつづくのだと思う。早い話がまアそう云った二国の相違というようなものを、一番よく知っていて、その差をあれこれするものがここの西洋にはあるのだ。僕らは知られているのだ。」
 一同のふとまた黙ってしまったときにコーヒーとウィスキーが下から来た。真紀子は藤色の腕を延ばしそれをみなに配った。幾分とがり始めた男たちの気分もゆらめく真紀子の匂いにゆるみを帯んだ。久慈はウィスキーを取り上げようとしたときに、ふとまた真紀子の投げた枕もとの薔薇の花が眼に映った。さきほどまであれほど合理性の話に夢中になっていたときとて、その真紅の一輪を見ると、突然自分の話のひどく事物からかけ放れていたことに気がついて、ひとり悦に入っていた得度の優越した明るさも、苦笑に似た淋しさに変って来るのだった。
 ――しかし、合理性を信じることのどこが悪い。これで良いのだ。
 とまた彼は思い直して高に対いおだやかに云った。
「日本人のインテリというのは、高さんたち中国の人人や西洋のものが思うよりも、もっと、影響や恩恵を受けたということを感謝し敬愛する風習があるのですよ。ですから日本人は中国へむかし遣唐使を派遣して、文明を日本へ取り入れたというようなことでも、歴史ではっきりこれを書いて感謝をさせることを忘れていないのですね。そこを中国のインテリは、いや自分の方は教えたのだということだけを、いつまでも忘れぬ癖がぬけないんじゃないですか。中国の歴史家は他国から受けた影響を書かない癖が、どうもあるように思われるんですがね。」
 久慈の少し露骨な質問に対し高は答え難そうに笑ったまま黙っていた。
「そういうこともあるでしょうが、僕らは東京の学校で習ったのですから、やはり日本は懐しい思い出の国です。西洋で習った人もそれぞれ同じように思っていますから、帰っても、思ったことがそのまま表現出来なくなるのですよ。今はまたそれが一層僕らには難しいときですから、うっかりして日本は良いなど云ってはひどい攻撃を受けます。」
「誰かもそんなことを云ってたな。それだから日本の女は良いと云って、女だけを賞めるのだと。そんなら無事だそうだ。」
 矢代の云うのに久慈は真紀子に対い、
「君、聞いた?」
 とおどけた風に訊ねた。
「そういうことだけは忘れないわ。」
「女は賞めるに限るとワイルドはいうからね。ね、千鶴子さん。」
 と久慈は今まで黙っていた千鶴子を前へ引き出すようにして云った。
「矢代は君のことを賞めたことがないのだが、君も少し賞めさせなくちゃ駄目だな。僕が代りにあなたを賞めてやってるようなものだから、頼りないよ。」
「まだ修養がたりないのね。あたしたち。」
 と千鶴子はコーヒーを上げて応酬した。
「修養の不足は矢代の方だ。」
「君だって豪そうなことは云えないぞ。遣唐使も終りのころは堕落したからな。用心をしてくれ。」
 久慈は何んとなく矢代がもう今日の自分と真紀子のことを暗に睨んでいるような錯覚に陥りかけ、また視線が自然と寝台の薔薇の方へ向きかかろうとするのだった。
「遣唐使が堕落したのは、そのころの唐が滅亡の前で頽廃していたからだろ。何も遣唐使の方に罪はないよ。」
「ところがそうとばかりは云えないのだ。何んだって唐朝唐朝で、ひどいのは日本の衣物の襟を唐流に右前に流行させたこともあるんだ。新羅の方へいっていた留学生は、これは質実に勉強したらしいんだが、唐の方へ行ったものは堕落したのが多い。子供を造っては次の遣唐使に官費を持って来させたり、身を持ち崩して唐朝の厄介になったり、いろいろしてるよ。円載なんどという坊主は、入唐僧の間でも排斥をくってお負けに帰りに沈没して溺死してる。歴史に現れている人物の名だけでも留学生は百五十一人もあるんだから、この他に三倍はあったにちがいないとして、それなら今のパリへ来るみたいに随分これで堕落して帰ったのもいるんだよ。」と矢代は暗に納めた鋒を出し始めた。
「しかし、そういうのはあながち堕落とはいえないからな。何かそれぞれこれで役に立っているんだ。ただ歴史家が堕落と見てそのように書くから、そういうのは歴史家の堕落かもしれないね。」
「とにかく、現れたままだと堕落もしたのだよ。それも堕落するだろうようにあの当時の長安はなっていて、ただ唐朝の文化だけがあったのじゃないのだね。印度や西域や波斯(ペルシャ)、それから大食(タージ)、イラン文化までずらりと長安に並んでたんだから、まるで今のパリみたいだ。ところがそのころの日本にだって、天平六年に、唐招提寺を興した鑑真などという中国の坊さんは、如宝という建築彫刻の名人の西域人や、印度人や、中国人を二十四人もつれて帰化して来たものだから、イラン文化も同時に伝ってしまったのだ。そこから見ると源氏物語が平安朝に出たなんか当然なんで、仏像にしても奈良朝の天平八年に菩提とか仏哲などという印度人が日本へ来て、イラン文化というようなヨーロッパ文化の発祥みたいなものを仏像として日本に入れてしまっているよ。だからどこの国がどこから影響を受けたなどといちいち云っていたとてきりがないので、そんなことを云い出せば、どこの国だって必ずどこかの影響なしには国は成り立ってはいないのだ。ところが、ただ僕らに一番不思議なことは、科学という合理性が文明を起してはまたそれを滅ぼして他に移っていくことだよ。三段論法は結局は人間を滅ぼすのだ。」
 矢代はもう傍に高のいることも忘れたらしくだんだんと高潮した声で云った。久慈は二人の意志の擦れ違うところを感じまた乗り出した。
「つまり君は、結局非合理を人間は愛しなくちゃならんというのだね。」
「いや、人間から非合理がとれるかというのだ。とるなら取って見よというのだ。」
「じゃ、近代は間違いばかりをやってるというようなものじゃないか。君は近代の間違いばかりを指摘して、これの利益や恩恵を感じないのだ。しかし、近代はもう何んと云おうと近代に這入っているんだから、これの幸福を僕らは探さなくちゃならん。君はその不幸ばかりを探して歩いているのだ。」
「君は合理ということをそんなに尊敬するのか。」
 と矢代は悲しそうな声を出した。
「するもしないもないさ。頭と合理だ。政治じゃない。」
 と久慈は傲然として答えた。
「そんなら君は、ここのヨーロッパみたいに世界に戦争ばかり起すことを支持してるのだ。合理合理と追ってみたまえ、必ず戦争という政治ばかり人間はしなくちゃならんよ。それは断じてそうだ。日本は世界の平和を願うために、涙を流して戦うというようなことが、必ず近い将来にあるにちがいない。」
 高がいるためでもあろうか、このように終りを戦争に結んだ矢代の眼は、きらきらと電灯に光りつつ涙のようなものを泛べていた。がっかりとした久慈は勢いを増した矢代にウィスキーを注ぎ、
「君もカソリックになって来たね。千鶴子さんに伝染ったんだろ。」と云ってひやかした。
「あら。」――千鶴子は意外なときに刺されたものだと思ったらしく眼を見張ったが、かすかに開いた唇の微笑には蔽えない嬉しさが洩れていた。久慈は千鶴子のその清潔な表情に瞬間いまいましい恨みに似た火のゆらめきを感じた。それも、もう真紀子とどうしても結婚しなければならぬのだと思うと、ますます千鶴子が惜しまれるのだった。しまった、千鶴子と結婚しとくのだったと。このように後悔する気持ちが、遽に過ぎ去った船中の思い出をも曳き出し、暫く彼は視線のやり場を失ったが、傍の真紀子にもう気兼ねもなく身体は露わにだんだん千鶴子の方へ膨れ傾いてゆくのだった。
「高さん、もっと召し上れ。昨夜はあんなに上ったじゃありませんか。」
 真紀子は高のコップにウィスキーを注ぐと急に自分も高を見詰めてコップを傾けた。すすめられるままに高は黙ってウィスキーを舐めたが、矢代に、
「昨夜はあれからモンマルトルへ行ったので遅くなりました。」と突拍子もなく笑った。
 アルコールの廻りも手伝い久慈は制御しきれぬ懐しさを千鶴子に感じるばかりだった。どうしてこんなに思い出が突然噴きのぼって来たものか、夜のピナンの沖に碇泊している本船へ小舟に乗って帰るときの灯火、黒い波にゆれる舷、顔に打ちあたる飛沫を手巾で拭う千鶴子の愁いげな眼――と幻のように南海の夜景が次ぎ次ぎに泛かんで消えぬ楽しみを思うにつけ、あれほど仲の良かった千鶴子とそのまま立ち切れてしまった旅の心の切れ切れな思いを、久慈は継ぎ合せてみたが、もう過去は再び戻りそうにも感じられなかった。
「どうも、おかしいぞ今夜は。酔ったのかな。」
 久慈は一寸立ち上ってみた。足がふらふらして赤い絨氈が廻って見える。
「やられた。」と久慈は云ってまた坐ると高に、
「高さん、中国の人は日本人が酔うと馬鹿にするそうですが、日本人は反対ですよ。僕らはすぐ人を信用してしまう習癖があるから、酔うのも早いのです。つまり恩恵を感じると忘恩の徒にはなれないのだな。」
「君は合理主義者すぎるんだよ。」
 と矢代は云って久慈のコップにまたウィスキーを注いだ。
「それやそうだ。酒を飲んで酔わないのは、不合理だ。高さん、あなたはフランスへ合理主義を習いに来たんでしょう。合理主義なら僕の味方だ。矢代はこ奴敵だからな。愛国心を履き違えているんだ。」
「馬鹿を云え。愛国心に合理の愛国心だの非合理の愛国心だのって区別あってたまるか。そんな区別をするのが、植民地の愛国心というものだ。」
「いや、合理の愛国心というものはある。これこそ新しく生じて来た近代の愛国心というものだ。これこそ新しい心の対象となるべき精神だ。」
 と久慈はむっくり起き上るように背を立てて矢代の方へ詰めよった。
「愛国心に古いも新しいもあるものか。あるからあるのだ。」
「あるからあるなんて愛国心は近代のものじゃない。これを変形して工夫を加えてこそ、世界の荒波が渡れるのだ。合理主義の近代に古典主義の愛国心じゃ、生れて来る青年は皆古典になっちまう。青年を古典にしちまったら、科学も死ねば、国も死ぬ。中国と日本の友好という外交一つさえ砕けてしまう。」
 猛然とした久慈の攻撃にどうしたものか矢代は意外に小さな声で云った。
「自分の心の中に人間は一つは良い所があると思ってるものだよ。それさえあれば、誰でも世界のものは、皆こんな心になってくれれば良いと願う一点があるのだ。そこから愛国心が生れるので、そんなところがら生れて来る感情に近代も古代もないよ。」
「そこじゃないか。」と久慈はテーブルを叩いた。「そこのところに生じて来る心がてんでに誤りを冒すから、これこそ間違いを冒さぬという一点を索すのが合理的なんだ。その批評精神から愛国心が起ってこそ健全というべきだ。」
「いや愛国心に理窟はない。中国のインテリの誤りは理窟で抗日抗日ということだよ、抗日抗日と云われれば、そんならよしッとこっちは肚を定める。一ヵ所で肚を定めれば、どこもかしこも戦争だ。そんなときに合理的愛国心だから人を殺さぬの、殺すのといったところで、むかしより合理的ならもっと殺す、非合理なら寛仁大度という非合理の見本みたいなもので、サイン一つでうまく片づく。とにかく僕は合理的愛国心なんて不合理も甚だしいと思うね。そのくせ誰だって愛国心だけは持っているのだ。」
「愛国心というのは人前で云っちゃ一層不合理になるばかりだから、今夜はやめよう。高さんに気の毒だよ。」
 久慈は高のコップにウィスキーを満してから、「今夜はお呼び立てしといてどうも。」と矢代の失態を詫びるつもりで高の方に会釈した。
「面白かったですよ。僕らにも問題ですから、僕ももっと考えておきます。」
 と高は云うと矢代の方を見て、
「矢代さんは雄弁家ですね。僕はあなたの非合理のお説もよく分りましたが、中国の一般の人間は自分に必要のないことは一切考えませんから、愛国心というものがないのですよ。それに長い間中国では軍閥というものが民心を荒しつづけましたから、これから逃げ廻ることばかり考えるのに急がしくって、愛国心からも一緒に逃げる練習も出来たのですね。日本の方では封建制度が完全に行われていたから、大名が変っても民衆は逃げる要がなかったでしょう。それが愛国心の強い原因で、また兵も強いのじゃないかと思いますね。中国はやはり、愛国心の満ちて来るまで抗日はやめられないんだと思います。」
 特に深い云い方ではなかったが、しかし、高の答えは誰から聞かれていても安全な答えだと久慈は思った。それに皮肉も考えればうっすらと混じっている。
「愛国心が満ちたらなお抗日が激しくなりはしませんか。」と矢代は訊ねた。
「ところが、中国は自分から他国へ手を出すよりも、他国に自分の国を譲ることの方がむかしから上手な国ですから、やはりいつでも譲っておくだろうと思います。その方が政府は安全ですからね。」
 高の言葉に第一番に声を上げて笑い出したのは真紀子だった。皆な同時に真紀子を見た。眼の縁をぽッと桜色に染めた真紀子はうるんだ瞼を眠むそうに開け、何がおかしいのかひとり倒れんばかりにげらげらと笑った。久慈は急に腹立しくなって真紀子を睨んだ。見るともなく久慈の視線を感じたらしい真紀子は彼から眼を反らし、
「だって、そんな面白いお話はないわ。おお面白い。中国は面白い国だこと。」
 危くくねらせた斜めの体を、椅子の肱で支えようとしたその拍子に、片手の指に挟んだ煙草の火が、テーブルの縁に擦れぼろぼろと崩れ落ちた。
「何んです。そのざま。」
 久慈は足で絨氈の上の煙草の火を踏み消して云った。
「どうして悪いの。高さんがいらしたって、いいじゃありませんか。」
「失礼じゃないか。」
「だって、ゆうべもお世話になったんだわ。ね、高さん、もっとゆうべはお世話になりましたわね。」
 光って来た眼を高の方に上げた真紀子の鼻孔が大きく膨らみ、赤く濡れた唇が嘲笑を泛べて久慈に反抗するのだった。
「あなたはもう寝なさいよ。疲れが出たんだよ。」
 久慈は真紀子の脇に手を入れ寝台の方へ立たせようとすると、ぐたぐたになった真紀子の身体が、突然強く緊って底から久慈を突き除けた。
「あちらへ行ってよ。あたし、高さんと議論をするのよ。あなたのなんか聞いてられない。合理だの非合理だのって、何んなのそれ。」
 起き上ると、皆の眼をさもうるさげに視線を反らし、真紀子は半眼のままコップを手にとった。
「駄目だよ。馬鹿ッ。」と久慈は呶鳴りつけた。
「煙草。」
 真紀子は久慈の方へ手を延ばした。真紀子のどこにこんな放埒なものが潜んでいたのかと、久慈の驚きあきれて見ている間に、高はもう煙草を真紀子の方へ出していた。
「有りがとう。」
 真紀子はちょっと高に笑顔を向け、ライターを点けた彼の火の方へ跼んでから、また久慈に、
「あなたはもうお帰りになって。面白くない。煙草といえば煙草下さればいいわ。何を観察してるの。」
 久慈は下顎を強く蹴りつげられたようだった。煮えたぎってくるような怒りを圧えているうちにも、ますます喰み出して来る真紀子の美しさに呼吸も荒くなり、くるりと窓の方へ向き変った。
「不合理極まるぞ。」
 久慈の呟いた苦笑にどッと笑いが立ったが、すぐまたぴたりと静かになった。
「何を云ったの。何んだか云ったわね。」
 真紀子は向うを向いた久慈の背を自分の方へ廻そうとして、にたりとした笑みを泛べ、彼の腕の付根を引っぱりながら、
「こっちを向きなさいよ。何も羞しい人いないわ。皆さん船の中の人たちばかりよ。ね、千鶴子さん。あのころは面白うござんしたわね。香港のロマンス・ロードで、春雨の降って来た中で、海を見てあたしたち蜜柑を食べたでしょう。あんな美味しい蜜柑って生れて初めてよ。ああ蜜柑を食べたい。――アデンも良かったわ。塩の山があって、駱駝に乗った隊商が風に吹かれていて。――ほら、あの塩の山のあるところで高さんたちの自動車と会ったじゃありませんか、あなたはヘルメットを冠って、赧い顔をして手を上げたわ。」
「くッ。」と久慈だけ低い声で笑ったが、皆の者は共通に匂う潮の香を浴びた思いで柔いだ眼になった。
 久慈も千鶴子と仲良くなったのは香港あたりからだった。そのころはまだ真紀子は久慈や千鶴子とグループが違っていたので、むしろ真紀子の組と近づきだった矢代の方が、彼女の様子をよく知っているというべきだった。多分真紀子の今話した航海の思い出も、矢代にそのころの何事かを思い泛ばせようがためかもしれぬと久慈は思った。
「良い御機嫌だね。」
 久慈は暫くしてからまた一座に加わった。しかし、そのとき、今までぴちぴち跳ね上るように饒舌っていた真紀子は、急にがくりと千鶴子の膝の上へ折れ崩れて泣き出した。
「あんなことはもう無いのだわ。あんなこと、みんな夢だったんだわ。」
 あまり激しい真紀子の変化に誰もびっくりしている様子だったが、主人と離別して来ている淋しさの噴きこぼれた乱れであろうと、手をつかねた視線のまま蠢めく真紀子の際立った背の白さを眺めるばかりだった。
「もう眠みなさいよ。今夜はこの人疲れてるんだ。」
 久慈は真紀子をひき起そうとして寄ってゆくと、気を利かした高は立ち上って帰る挨拶をみなにした。
「いいんですよ。あたし、泣いたりして御免なさい。何んでもないの。」
 謝る真紀子を千鶴子と矢代は慰めながら立って帰ろうとした。真紀子はそれも引きとめたが、もう十一時を過ぎたからというので、皆はそれぞれ部屋の外へ出ていった。潮鳴りの退いたような静かな廊下に立った久慈と真紀子は、顔も見合さずまた部屋へ戻って来た。真紀子はもう久慈に物を云おうともせず寝台の上へ倒れてまた泣きつづけた。
 久慈は自分のいた椅子に凭れひとりコップを舐めていたが、だんだん嗚咽の声が鎮まるにつれ、真紀子に突き刺さろうとしていた棘も朧ろに凋んでいくのを感じた。
「もう良いだろう。ここへ来なさいよ。」
 と久慈は云った。真紀子は素直に起きて来ると、小娘のような初初しさで少し膨れ、久慈と並んで椅子に腰を降ろした。久慈はコップを真紀子の前に置き軽く溜息をつきながら、
「もう少し飲みなさいよ。」と云って顔を見た。
「駄目。」
 久慈は残っているウィスキーをコップに二はい続けて上げると、今度は妙に調子のとれぬ頓狂な速度で急に彼に廻って来た。しかし、彼はまだ飲みつづけた。肱がテーブルから脱け落ちるのを支え直しているうちに、叫び出したいような腹立しさが昂じて来たが、それでもまだ彼は飲んだ。すると、もう何か脱れたような勢いになり、注ぐのに壜もうまくコップに当らずただかちかちと鳴るだけになって来た。
「あなたもうおよしなさいよ。駄目だわ。そんなに飲んじゃ。」
 真紀子ももう真剣になってとめた。が、真紀子にとめられればとめられるほど久慈は一層やめられなかった。何んとなく腹立たしさが真紀子の物いう度びに高まって来て、もう抑えることが出来なくなった。
「みんな不合理な奴ばかりだ。何んて不合理だ。」
 と久慈は云うと、くらくら廻るように見える部屋の一点を見据えて立ち上ったが、もう足がきかなかった。あたりの椅子の背を伝い寝台の傍まで行って真紀子の投げた薔薇を掴み自分の胸へ差そうとした。しかし、それもうまく差さらなかった。
「あたしが差してあげますから、じっとしてらっしゃいよ。じっと。」
 真紀子が久慈の胸に薔薇を差そうとしている間、久慈は真紀子の肩を掴んで揺り動かした。
「合理がないなんて、そんな馬鹿なことがあるか。ちゃんとあるよ。ここにだってあるさ。」
「そんなものありませんよ。」
 真紀子は薔薇を差す真似をしてから久慈の上着を脱がし、毛布の下へ彼を寝せようとしたが、また久慈はむっくりと起きて来た。
「あるじゃないか。見えるぞ。はっきり見えて咲いてるぞ。」
「何んで馬鹿なこという人でしょう。みんな咲いてますわ。」
「ふん、不合理が咲くか。」
 真紀子は別れた前の良人を扱い馴れた手つきで器用に久慈の靴を脱がし、ズボンを脱がしネクタイも手早く引き脱してから彼を寝かした。仰向きになって眼を瞑っている久慈の眼から涙がしきりに流れて来た。
 真紀子は窓をあけあたりの乱れを片附けてから部屋の灯を一つずつ消した。そして、最後に枕もとのを一つ残したその傍で、前跼みに小さくなって煙草をひとり吸っていた。ときどき彼女は頭をかかえたまま身動きもしなかったが、そのうちに声を忍ばせて静かに泣き始めた。声に混じり煙草の火で頭髪の焦げ縮れる音がじじッとした。


 ――仕立てたばかりの格子模様の洋装で久慈の母が立っていた。久慈は母の紺色の襟飾が長く下まで垂れているのを見上げ、海軍の将校服に似ているねとひやかした。真紀子は傍から張りのある声で、
「これはあたしがお見立てしたのよ。そんなに云わないでちょうだい。」
 と云いながら、またぴんぴんと母の服の裾を下へ引っぱった。
 これはおかしいと久慈は思った。自分が眠っているのか眼が醒めているのかよく分らなかったが、起きているのだと思うとそのようにも思われた。すると、下にいた筈の母親が今度は二階から降りて来て、自分を呼んでいるような気持ちもするのだった。どうもそれが夢らしいようにも思われて来ると、
「馬鹿な。お母さんパリにいる筈ないや。」
 とこう呟いた。それでも母は洋服の似合ったことを真紀子に賞められ、絶えず嬉しそうにそわそわとしていた。
 どれほどたったか分らなかったが久慈はそのうちに眼が醒めた。咽喉がひどく渇いていたので起きて枕もとの電気をつけ、浴室へ水を飲みに立っていった。冷たい水が食道を流れ下る明瞭な重みに急に彼の眠気も醒めて来た。毛布が眠っている真紀子の曲げた膝のままに高まり、小さな黒子のある上唇がかすかに赤く跳ねて灯を受けている。彼はそれを見ていてももう一度その横に眠る気持ちは起らなかった。椅子に腰かけたまま暫くさきほどの母の夢を考えていると、今度は夢とは違い、自分の眼だけ異様にはっきり部屋の中を見ていることが、寒む寒むとした快感に似た安らかな含みに感じられて来るのだった。
 久慈は真紀子を起さぬように足音を忍ばせて靴を履き、それから服を着てそっと部屋を脱け出した。ホテルの外の通りはもう一人の人影もない、全く深夜だった。狭まった高い建物の彫刻の間で早く雲が動いている。石壁に沿って宿の方へ帰ってゆく靴音も久しぶりに自分の音らしく聞えて来た。
 彼は両手を振り振り危くこの自由を無くしてしまうところだったと思うと、真紀子から逃げて来た歩調が充実したものに感じ、石壁に閃めく影も主人の自分に秋波を送っているように見えて、
「よしよし。」とひとり頷いた。
 ホテルの前まで来たとき、視界に誰一人もいない美しさに久慈はすぐ中へ這入る気にならず、通りのベンチに腰を降ろして煙草に火を点けた。冷えきった真直ぐな通りの両側に並んだマロニエの幹が、森森とした静けさで一点に集中していくその直線の見事さ、結晶物の光りのような瓦斯灯が夜の放射の鋭さとなって輝くその設計の巧緻さ。未来の夢が眼のあたりにつづいて青青とした呼吸をし、寒冷な人工の極地の一典型を展いて見せているような世界である。久慈はますます眼が冴えわたって来るばかりだった。
「もう俺は恋愛は出来ぬ。これは恋愛以上だ。あの恋愛のどこが面白いのだ。」
 と久慈は思わず呟いた。
 時計の針が真直ぐに自分の額を射し貫いて来るように、ある恐怖に似た整然たる理智の尊厳優美な冷やかさが、このようにも人間に美しく見えるとは――これは何んという奇怪さだろう。
 久慈はもし自分がこの世で望むならば、これ以上の美しい恋愛の対象を望むばかりだと思った。しかし、そんなものがどこにあるだろう。あれば母親たった一人よりない。彼は悲しみを斬り落してくれた刃を見るように沁みわたって来る瓦斯の光りを仰ぎつづけた。重なり合った木の葉の細部にわたり、静かに通う一葉一葉の水流の上下も聞きとれるかと思われる瞬間の通過に、どこ一点の狂いもなく秩序は保たれつつ完璧な営みを繰りつづけているこの神秘――しかし、それもこれも皆人間の意志がしたのだった。合理を望んでやまぬ人間の智慧がしたのだ。
「しかし、合理とは何んだろう。」
 もう久慈はそこまで触れると答えることが出来なかった。彼はベンチから立ち上り、マロニエの幹の下の瓦斯灯の光りの集中している一点の方へ歩いた。
「徳修まらず、学講ぜず、不善改む能わざる是れ吾憂なり。」
 ふと孔子のそんな言葉が口から出て来たが彼にはそれも汚い言葉のように思われた。長い石の塀に添い樹木の幹の続いている前方の鋪道が坦坦としているにも拘らず、傾いた坂のように見える。久慈はその光線の斜角を縮めていくうちに一匹の犬が真向いの建物の下から出て来た。今まで自分ひとり美の世界だと信じていた楽しみも急に破られ、彼は近よる犬の姿を黒い毒液のような不潔な濁りに感じて見ていたが、それでも近よって来ると懐しかった。彼は蹲み込んだまま犬の下顎を撫でて、
「おい、こら。何んというんだ。」
 と日本語で云った。犬は黙って首を膝へ擦りよせて舐め上ろうとするのを、彼は顔をひきつつまた同じことをフランス語で云ってみた。筋骨の見える痩せたセッタアは両足を腕にかけ眼を光らせ、日向臭い毛並みを垂れて彼を見詰めていた。前脚の蹠がぷよッと冷たく手の甲に感じるただ一疋の生物である。視界に肉眼と云えばそれよりない眼の光りに久慈も犬の首を強く抱き締めた。腕の中に皮膚をそのままにさせながらも、骨骼だけ彼の方へ延び上ろうとする犬の動きを感じると、久慈もだんだん感動を覚えなかなか放れることが出来なくなった。
「お前、毎晩ここへ来なさい。そうすると俺も来るよ。」
 久慈はそう云って頭を撫でているうちにふと千鶴子のことを思い出した。行く手の鋪道を集めている広場から左に折れた所に千鶴子のホテルがあった。彼は通りから見えるその部屋の窓の下まで行きたくなってその方へ歩いていったが、犬も暫く後からついて来た。
「もう帰れよ。また明日明日。」
 久慈は振り返り振り返りして犬から遠ざかった。しかし、今夜に限りどうして千鶴子の純潔さがこのように美しく見えて来たのか、考えれば不思議だった。灯の消えている千鶴子の部屋の窓が五階の上に見え始めると、胸がそわそわして来て胸を一寸揺ってみた。
「どうも変だ。こんな筈はないんだが。」
 とこう彼は呟きながら下から上を仰ぎつづけた。これや恋愛じゃないか、馬鹿馬鹿しいとまた思うと、引き返そうとしたが、丁度良い具合に手ごろなベンチが広場に見附かったのでそこへ腰を降ろして煙草を吸った。窓を眺めながらも、久慈は、完全に慕い合っている矢代と千鶴子の横からこうして自分の羨望している図を思い描き、ひとり手出しの出来ぬ悔恨に淋しくなって来るのだった。
「どうもあ奴たちの恋愛は立派だ。これを壊してなるものか。」
 とまた祭壇を拝むように高い窓を見詰めつづけ、いまいましい感情の鎮まるまで久慈はそこから動かなかったが、一つは、後へ引き返せば自分のホテルへは戻らず前を通りぬけて、また虎穴の真紀子のホテルへ舞い戻りそうな危険を感じたからだった。事実、深夜のベンチに坐っているこのおかしな姿も、半ばはも早や真紀子から逃れ切れない予感のためでもあり、今や沈もうとしている身にとっての一握の藁が千鶴子の窓だとは、われながら思いもかけなかったこの夜の失策だったと久慈は苦笑するのだった。
 ベンチの鉄が露を噴いて冷たく背に応えて来た。久慈は真紀子の寝台の上で見た夢にもし母が顕れて来なかったら、あのとき限り自分は危なかったに相違ないと思った。
 しかし、駄目だ。明日も明後日もあるのだ。危険はとうてい母の夢だけでは防ぎ切れぬ。それならひと思いに真紀子の傍へ戻ろうかとまた久慈は考えた。彼はベンチから立ち上ると千鶴子のホテルの入口へ行き肩で戸を押してみた。戸は無造作に開いた。すると、中へ這入ろうとも思わぬのにもう玄関へ這入り、階段を昇っていった。今ごろは寝入っている最中にちがいないと思ったが、ふともし今ひと眼でも千鶴子に会えれば、どんなことで身に迫っている危機を脱せぬとも限らないと思うある希望に曳かれ、足は気遅れなく戸の前まで進んだ。暫く彼はドアを叩いてみたが千鶴子の起きて来る様子はなかった。久慈は灯のまったく消えた廊下に立ったまま意想外な大冒険をしている自分に気がつき、それではまだ宵に飲んだ酒気から醒めてはいないのだろうかと怪しむのだった。しかし、ドアをまた叩きつづけているうちに千鶴子の起きて来たらしい声がした。久慈は鍵穴へ口をつけ、「僕、久慈だ。久慈。」と呼んでみた。鍵の廻る音がしてから問もなく千鶴子は眠そうな顔でドアを開けた。
「遅くから失礼、一寸、急用が出来たのでね。」
 と云って久慈は、千鶴子の顔を見ず中に這入り椅子に腰かけた。海老色のガウンを着た千鶴子は寝台の裾の方に坐って、
「もう夜が明けるころよ。よく寝入っていたのに失礼ね。」
 と両頬を撫でながら不平そうな笑顔だった。
「今夜きりでもう起さないから一寸つき合ってもらいたいんだ。どうも弱ったんだよ。」
 久慈は椅子の背へ頭を倚らせるいつもの癖を出し、幾らか馬鹿らしそうな微笑で何から話せば良かろうかと考えた。
「どうしたの。お酒まだ醒めないんじゃない。そんならいやよ。」
「いや、酒は醒めてるから大丈夫だ。矢代にも僕の来たこと黙ってるから、君もそれだけは云っちゃいけないよ。」
 こう云い終ってから、しまったと久慈が思った瞬間、もう千鶴子の顔色は変っていて今までの眠そうな色はなくなった。
「君、心配しなくたっていいよ。僕の来たこと知れたってどこが悪い。そんなことが悪いようなら今ごろ来るものか。」
 久慈は強く畳みかけるように千鶴子を制して一寸黙ると、俄かに腹立たしさが込み上げて来た。二人の仲人役をしたのは自分だのにそれを恐れるからには、そんなら一層恐れさせるぐらいなことは知っているのだと、暫く彼も無言のまま緊張するのだった。しかし、いかにも深夜でなくては思いもよらぬ二人の争いだと気がつくと同時に、久慈はマリアを訪うつもりで戸を叩いた今までの決心も、変りはてた気持ちに転じたものだと苦笑した。
「今夜は真紀子さんと僕、お話にならぬことが起って飛び出て来たんだよ。君たち帰ってから酔っぱらってしまって、そのまま今まであそこに寝てたのさ。ところが、お母さんの夢を見て眼を醒したら、だんだん怖くなって実はこっそり逃げて来たんだ。千鶴子さん君どう思うかね。もし僕がうっかり今日のようなことを明日も続けたら、どうしたって真紀子さんと結婚しなくちゃならんと思うんだが、あの人と結婚して女の人から見た場合どう思えるかね、それが訊きたくてやって来たんだ。僕はどうもそれが面白い結果になろうとは思えないんだがね。」
 足さきを見詰めながらときどき慄えるように肩をつぼめていた千鶴子は、初めて納得のいった様子だった。
「でも、真紀子さんの御主人まだウィーンにいらっしゃるっていうお話よ。そんならやはり遠慮なさる方がいいと思うわ。」
「別れて来たというんだよ。」
「でも、そうかしら、ほんとうに。」
「そこは分らないが、しかし、一人こんな所に細君をほったらかしておくというのは別れた以上だからね。ついそれで柄になく同情したのが始まりさ。だって、あんな危い日本人がパリでひとりふらふらしているのを見てられるものか。どこへ転げ込むか分ったものじゃないよ。それでつい、倒れ込むなら一緒の船で来た縁故もあるから、当分はと思って油断してたんだけれども、お袋の夢まで見ちゃ帰って叱られるに定っているし、さてと考え直したところなんだ。実際、僕の身になってみてくれ給え。むずかしいぞ。譬えばまア失礼な話だが、君のような人なら僕は威張ってお袋の前へつれて帰れるけれども、他人の細君じゃね、だいいちお金もうお母さんくれやしないや。」
 千鶴子の顔さえ見れば良いと思って上って来たためか、何んとなく久慈は嘘ばかり自分が云っているように思えてならなかったが、しかし、まだ嘘はどこ一つも云ってなかった。
「あたし、真紀子さんはウィーンから御主人お迎いにいらっしゃるの、お待ちになってるんじゃないかと思うの。きっとそうよ。」
 さきから羞しそうに顔を染めていた千鶴子は、赧らむ自分の顔に急に元気をつける苦心で背を延ばした。
「とにかく、僕は矢代より君の方がさきから知り合いだから、こんなときになると、どっと君にもたれかかってしまいたくなるんだね。まだ僕らは旅の途中なんだよ。何が起るかしれたもんじゃないのだ。まったく今日はしみじみとそう思った。もう自分がさっぱり分らん。いったい、自分とは何んだこれや。」
 ふとこう呟くように云ってから久慈は壁を見詰めたが、何を云おうともう知れている答えばかりだと気がつくと、云いようもない退屈さを感じてまた俯向いた。膝から延びた千鶴子の透明な足首に泛き出た毛細管の鮮やかさが、鋪道で飛びついた犬の蹠のひやりとした冷たさを思い出させ、あれからこれへと渡って来た自分のこうしているさまに、また久慈は溜らなく不快になって来た。
「ああ、もう眠い。帰ろう。」
 と云って久慈は立ち上った。そうして、二三歩部屋の中を歩き廻ってからまた千鶴子の横へ並んで一寸腰を降ろし、
「ね、どっかへ明日から逃げてってればいいね。スイスへでも暫く行って来ようかな。」
「そうね。その方があたしはいいと思うわ。」
「ひとりじゃしかし淋しいなア。」
「でも、あなた真紀子さんを愛してらっしたんじゃないの。あんなに。」
「君にまでそう見えたかね。」
 と久慈は歎息するように云って後へ長くなった。片手を寝台の上へつき顔だけ久慈を見降ろすようにしている千鶴子の顎が柔く二重にくびれて見える。久慈はもうここから帰りたくないと思えば思うほど、いつの間にか越し難い二人となっている遠慮を感じ、延び出そうとする意志をひき締めひき締め、さも何事でもなさそうに下から千鶴子を仰ぎつづけるのだった。
「まったく考えれば馬鹿馬鹿しいと思うんだが、しかし、君、明日の朝になればきっとまた真紀子さん、僕の部屋へやって来るに定ってるんだからね。そしたらもう逃げられないや。逃げるなら今のうちだ。」
「じゃ、危機一髪ね。」
「そうなんだよ。後数時間の運命だ。」
 こう云って久慈は笑いながらも、危機一髪は実はこちらの方かもしれぬとじろりと千鶴子の眼を見上げた。
「でも、そんなこと、そんなに難しいことなのかしら。あたしなら何んでもないことだと思うけれど。」
「そんなに簡単に思えるかね。別に愛してるわけでもないのに、愛してるのと同じような顔ばかりして見せなくちゃならんというんだからな。」
「そんならあなたがいけないんだわ。そんな顔をどうしてなすったの?」
 もう同情はやめだと云いたげに千鶴子は久慈から眼を放した。
「だって、そうだよ。そんなに嫌いじゃなくちゃ、お前を嫌いだなんて顔は僕には出来んよ。まア少し好きなら、その程度の親切はしたくなるのが男というものなんだからな――僕は君みたいに、そんなにはっきり出来る勇士じゃないんだ。明日の朝真紀子さんに来られれば、何んとか嘘をついてまた一日親切な顔をしてしまう。だから、君に相談に来たのさ。君の顔でも見れば逃げられるかとふと思ってしまったんだ。」
 これだけは云うまいと思っていたことをうっかり口にした久慈は、そんなにすらりと自然な告白が出来ると、急に気持ちの落ちつくのを感じたが、しかし、千鶴子には気附かれていないにちがいないと思うとそれもまた安心になり起き上った。
「むかしのよしみですからね。だって、僕はこんなとき、どこへも行けやしないじゃないか。どこへ行くのだ。」
「どういうことかしら。真紀子さんにあたしからあなたの気持ちお話すればいいの。そんなら明日でもお話してみてよ、真紀子さん何んと仰言るか分んないけど。あんな人だから、あなたのようにそんなに、心配なんかしてらっしゃらないんじゃないかしら。」
 強いて聞えないふりをしているかと思える千鶴子の伏せた瞼毛の隈が、久慈と視線を合せることを避け静かにじっと沈んでいた。
「そんなことを話して貰っても困るね。事は大げさになるからな。こんな隠微なことは何んとかすらりと暗黙のうちに解決をつけなくちゃ、お互の恥だよ。譬えばもし真紀子さんと僕が結婚するような羽目になって、どっちも倖せになるような日が来たら、君に云われたことがまたどんな不幸な記憶にならんとも限らないさ。だから、今夜のことだって、君ひとりの胸の中に仕舞っといてくれ給え。濫りに口外されちゃわざわざお話した甲斐がないや。」
 千鶴子は初めて明るく笑顔を久慈に向け、出かかろうとする欠伸を手で停めた。
「難しいのね、あなたたちのこと。」
「難しいんだよ。しかし、まア、あなたに会ってどうやら少し落ちついて来た。これで明日一日ぐらいは保つだろうな。」
 久慈は今は何んの気もなくそう云ったのだが、見ると、千鶴子の様子が突然前とは変って身を引くように肩を縮め、かすかな胴慄いをガウンの襞に伝えていた。真紀子の方へ片寄りすぎた舟底を、これではならぬと千鶴子の方へ傾け変えた自分だったのに、それも思わずまた傾けすぎている中心の取れぬ不安さに、このようなときこそ母が傍にいてくれたら支柱もぴんと真直ぐに立つことだろうと、久慈は母に代る何物かを想い描こうとするのだった。
「何んだかどうも僕の云い方がへんなんだね。そんなんじゃないのだよ。君の邪魔なんかしてやしないんだ。僕だってあなたのような清潔な人を、こんなときでも頭に泛べなければ困るんだからな。そうでしょう。こういうときこそ君のような人が藁になってくれるんですよ。ただいててさえくれればいいんだもの。矢代だって何も有り難がってくれりゃ良いのだ。そんなことぐらいしてくれなくちゃ何んの友達だ。僕は矢代にそのうち云うつもりですよ。」
 復縁を迫られた妻のように、千鶴子は何か云いかけてはまた黙って両手を寝台の上へついたままだった。
「何も僕がこんなことを云ったからって、そう君を苦しめることじゃないでしょう。何んでもないことだもの。どうして僕の云うこと無理があるかな。そんなら取り消しだが、ただ困ったときには困った工夫が僕にあったって、そんなことまで悪い筈があるものか。じゃ帰ろう。また会いますよ。」
 久慈は立ち上って千鶴子に手をさし出した。千鶴子は軽く久慈の手に触れ快活な声で、
「明日お昼ごろお邪魔しましてよ。」
 と云うと彼の後からドアを閉めた。早く明けるパリの夜がそろそろ白みかかって来た。久慈は自分のホテルの方へ歩きながら、さっぱり洗われたように気持ちが穏やかになって来るのを感じた。
「何んだか俺は云って来たが、しかし、俺の悩んでいるのは女のことじゃない。お袋に代るものがほしいのだ。ただそれだけだ。俺の云ったことはみなどうだって、あれはもういい。」
 久慈はそう思うと真紀子も千鶴子も暫くは想いの中から飛び去って、頭の振動を算えるように響く靴の音だけ耳に聞えて来た。


 久慈は正午近く眼を醒した。顔を洗いながら昨夜の出来事を思い出してみても、昨日と今日とは日が違うごとく何んの怖れの実感も感じなかった。歯磨楊子を啣え窓から通りを見降ろす眼に日光が強く射した。こんな天気の良い日にもし悩んでいるものがあるならそれは全く気の毒だと思い、昨夜はそれが自分だったのかと思うと、数時間の睡眠で人生はこんなに変るものかと驚くのだった。隣室のルーマニアの娘が小声で唄を歌っているのも恐らく何か歓びがあるからにちがいない。
「われ三十路半ばにして道に踏み迷う。」
 久慈はときどきダンテの悩んだそんな言葉も口にのぼって来た。しかし、自分にもし今日の悩みがあるとすると、真紀子にほんの少し事実を狂わせて嘘をつけば良いことだけだと思った。それも名医のように嘘を上手くつけばつくほどどちらも幸福になるのである。もし千鶴子に話したように本当のことをうち明ければ、真紀子に打撃を与えることは、あるいは計り知れぬかもしれない。それなら何ぜ嘘が悪いのだ。――
 久慈はそう思いながらも、しかし、自分は今日は本当ばかりを一つ真紀子に云ってみよう、そして、嘘を云うのと同じ程度に二人が前より一層気楽になってみようと思うと、それがまた今日一日の楽しみになって来るのだった。
 服を着替えコーヒーを□咐けたときドアの下に一枚差してある紙片を彼は見つけた。取り上げて読むとそれは真紀子でもう眠っているときに来たらしく、正午すぎ一時間ばかりルクサンブールのベルレーヌの前のベンチにいるから来てほしいと書いてあった。
 朝昼を兼ねたコーヒーを飲んでいると千鶴子が約束の通りに来た。いつもより瞼の脹れぼったく見えるのが新鮮な感じだった。長い廻り階段を昇って来たばかりで呼吸を大きく肩に波打たせながら、黙ってずっと窓の欄干の傍へよって来ると、何ぜかやはり黙って千鶴子は久慈を見なかった。
「昨夜は飛んだ眼に会せて失礼、君、お昼は?」
 千鶴子はもうすませて来たと云って前の建築学校の屋根の上を眺めていた。昼間だと男の部屋へ来るのも何んの怖れもないくせに、夜中だと一室に男といるのがあんなに不安になるものかと久慈は思い、昨日のような出来事の総てもあれは夜のせいだったからだと、何かそんなことが今さら結論めいて来るのだった。
「真紀子さんいらしって?」
「来たらしいんだが、眠ってたもんだから紙きれ置いて帰っていった。ベルレーヌの前のベンチにお昼からいるって書いてあるから、これから行って来なくちゃ。」
「そして、あなたどうなさるおつもりなの?」
 浮唐草の水色の欄干を背に千鶴子は唇の跳ねた皮肉な笑顔だった。
「しようがない。不善を改むこと能わざるは、是れわが憂いなりだ。論語をこれから講義しに行こうてんだ。」
「でも、あなた嬉しそうね何んだか。」
「今日起きてみたら、心境に少し変化が起ったんだね。昨夜は君を見なくちゃどうにもやりきれなくなったんだが――たしかに昨夜は君に僕は恋愛をしたんだ。君んとこの階段を上る前に、広場のベンチに腰かけて窓を暫く眺めてただけなんだよ。ところが、そのうちに胸がそわそわして来てね、これはいかんと思っているうちに、もう階段を上っていったんだ。ところが今朝になってみると、何アに、そうでもないんだよ。けろりとしてこの通りだ。危機だなアこれや。」
 パンをち切りながら暢気そうに云う久慈を、千鶴子は心細そうな眼で眺めていてから、
「じゃ、あたしも危機だったのね。」
 と云ってくるりとまた欄干に肱をつき窓から下を覗き変えた。
「いや、いろいろ理解に苦しむことが多いよ。これをいちいち説明して歩かなくちゃならんというのは、たしかに健全じゃない。君だって今日は僕を慰めに来てくれたんでしょう。」
「そうよ。だって夜中にひとりでいらっしゃるなんて、理解に苦しむわ。ドアなんか開けちゃいけないと思ったんだけど、何んか急用でも出来たんだと思ったのよ。ほんとにびっくりさせる方ね。もういやよあんなこと。」
「いや、事実急用だったんだよ。ゆうべ君の所へ行ってなかったら僕は今日は、こんなに暢気にしてられなかったかもしれないんだ。あのときはあのときでたしかに君が有り難かったんだが、どうも一つはあれも夜のせいらしい。」
 夜と昼とで人の心がこんなに違うならいつも違わぬものとはそんなら何んだ。と、彼はパンの上皮が唇を刺すのをへし折りながら、ふとまたいつもの念いに触れかかろうとしたとき、千鶴子は欄干から降りて来た。
「あなたみたいな人どうなるんかしら。あたしそれが心配だわ。」
 特に心配そうな様子でもなく訝しげな眼で千鶴子は久慈を見てから、洗面器の前の鏡に自分の顔を映してみた。ネビイブリュウの服色のよく似合うのもいつもと変らぬ千鶴子だったが、久慈は後ろから鏡に映った彼女の顔を眺めながら、今はこの人も突き放してしまった人だと思うと、何んとなく淋しい影を見る思いで冷えて来たコーヒーを飲み下した。
「君、今日はこれから矢代と会うの。」
「ええ、お約束よ。」
「そんな約束があるのに何ぜ僕のところへ来てくれたんです? 何も僕から頼んだわけじゃないんだもの。」
「あら、だって、久慈さんあんなに淋しそうなこと仰言ったじゃないの。よしみだなんて――。」
 頬を染めて少し早口で云う千鶴子の振り返った眼に、久慈はまだ揺らぐ心の閃めきを覗きとった歓びを感じたが、それも過ぎゆく人の視線の美しさかもしれぬと、また追いゆく心を沈めるのだった。
「千鶴子さんは、僕をこんなにしたのは自分の責任だと思ってるんじゃないかな。しかし、それならそれは間違いだよ。それや、君と僕とがマルセーユで別れてから君にとった僕の態度は、船の中とはお話にならぬ不親切さで、一度お詫びをしなくちゃならんと思っているんだけれども、僕のような青年が田舎の日本からぽッとパリへ出て来ちゃ、当分は頭がいやにくるくるするんだよ。実際、僕はしばらく日本のことなんか考える暇がなかったのさ。そこへ君がまた顕れたのだから、逆さになってる僕の足ばかりが君の顔に衝ったんだ。何も僕は弁解の要を感じるわけではないが、しかし、あれほど君と親密だったのにこんなになっちゃ、たしかに僕の方が君をそんなにしたんだからな。君が僕をこんなにしたんじゃないんだよ。」
「ほんとにあのころは、あなた親切にして下すったわ。」
 頼りのない声で千鶴子はそう云うとテーブルの上の新しいネクタイを手にとって眺め、
「いいわね。これ。」と久慈を見て笑った。
 過ぎた日のことを思い出す愁いは旅にはつき物とはいえ、特に二人の場合は息苦しい思いを増すばかりだったが、しかし、久慈は一度は話しておかねばならぬ機会が今よりないと気づいて来るのだった。
「もう少し聞いといて下さいよ。口説きにならんじゃないか。」
「お聞きしているのよ。」
 逆流して来る久慈の気持ちの泡立ちが突然胸を刺す眼新しい世界に感じたらしく、千鶴子ははッと立ち停ったように大きな眼で彼を見た。瞬間久慈も眼を見張った。
「何もそう改ったことじゃないよ。勿論、何んでもないことだけれども、とにかく僕にも云わなくちゃならぬ理由が一つはあるのだ。一度はあんなに心をひかれた人なんだから、云うことが何もないとは云えないからね。正直なところがそうですよ。君だってそうでしょう。」
 日ごろの親しさの雑談がいつともなしに捻じ固まり、真面目な相を帯びて来ると、思いもよらぬ火花の散り砕けた後の静けさを見る思いで二人の言葉は詰るのだった。久慈は静かに置いたつもりのコーヒー茶碗が銀盆の上で意外に大きな音を立てるのを聞くと、また置き直したくなるほど云うことが何もなかった。
「真紀子さん、待ってらっしゃるでしょうから、行きましょうか。」
 どんなことがあろうとも久慈にはそれ以上の何事も出来ぬと知り尽したような、落ちついた表情で軽く千鶴子は彼を誘った。それでは、事実は二人の間でどんなことでもなかったのだと久慈は知って、味気ない安堵の佗びしさのまま笑い出した。
「じゃ、真紀子さんのところへ行こうかな。」
 久慈は上着を着て部屋の暖まらぬように鎧戸を閉め降ろした。あたりが薄暗くなったとき、ふと急に千鶴子の身体が新しく膨れたように思われ、互に気づかなかった近接した羞しさにぎょッとしたまま、視線をどちらも脱すのだった。今まで話していたときよりもはるかに危い一瞬が、まったく意志とは関係なく不意にうろうろと身の周囲に澱むのを感じると、久慈は、昨夜はこれに一晩やられていたのだなと、また感慨が新たに蘇って来るのだった。
「さア、早く出なさいよ。」
 と久慈は千鶴子を部屋から追い立てるように云って、彼女の後からドアへ鍵を降ろした。
 矢代のホテルへ行く千鶴子は後からルクサンブールへ行くからと云い残して久慈と別れた。久慈はひとり公園へ這入っていった。樹の幹の間で毬を奪い合っている子供の群れの中を通り、編物をしている老婆たちの間をぬけ、左方のベルレーヌの立像のある方へ繁みを廻っていった時、背を見せた真紀子はベンチにかけて手帳に何かを書きつけていた。
「お待ちどお。」
 久慈は何んとなく争いの支度をすませた気持ちで、どさりと身体を投げ出すように真紀子の横へ腰かけた。
「俳句よ、こんなのどうかしら。」
 真紀子はにっこり笑いながらも久慈を見ず、眼を手帳に落したまま彼の方へ肩をよせて来て俳句を見せた。昨夜のことを一口も訊ねずいきなりこんなにして来る真紀子に、久慈は何ぜともなくたじろぎながら手帳を覗いた。
「とつくにの子ら眠りおり青き踏む――いいね。これは。」
 久慈はこう云って後方にある廻転木馬や遊動円木の傍の乳母車の中で眠っている幼児を見たり、前方に拡がった美しい芝生を見たりした。このあたりだけ繁みが枝を空にさし交して下に青い空洞を造り、少し窪み加減のその芝生の中央にベルレーヌの像が立っていた。
「円木の揺れやむを見て青き踏む――」

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