旅愁
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著者名:横光利一 

「中国との戦争の噂はばったり二、三日で熄まったじゃないか。やはりあれは嘘だったんかね。」
 と矢代は訊ねた。
「何んでもあれは、陳済棠と李宗仁が広東で戦争をしたのを、日本と中国との戦争だと早合点したらしいんだが、戦争のニュースの出た夜、サン・ミシェルの支那飯店で日本人が一人ひどい目にあってるね。」
「そう云えば、僕らの行った夜も沖さんは危かったよ。あの人は演説が好きなんだ。あれは社長の癖が我知らず出てしまって、何か事あるときは日本人を代表しなくちゃならん、と思い込むのが趣味なんだね。船の中でもあの人さかんにやったからな。」
 こういう話をしながらも、矢代は今夜真紀子と踊りに行った中国人の高有明の表情は、船中のいつもと変らずなごやかな信頼の情を顕していたのを思うと、時が時であるだけに、まだ通じ合う何ものかも失われず残っているのを感じ、思いがけない灯火を見たように真紀子の帰りの話を待ち受けるのだった。
「云うのを忘れたが、今夜オペラへ真紀子さんと行ったのだよ。そうしたところが下のホールに高さんという中国人ね、ほら、船の中で二等にいたダンスの上手い中国人がいたじゃないか。あの人と会ったんだよ。真紀子さん、ダンスの味を思い出したと見えて、高さんと踊りに行っちゃってまだ帰って来ないんだ。」
 怒り出すかと思っていた久慈は、大きな欠伸をしかかっていたのも急にやめて笑い出した 
「それじゃ、理窟に合わんじゃないか。」
「どういう理窟だ。」
「僕たちとまだ一度も踊りに行かんじゃないか。そうだ。あの人と踊りに行くの忘れてた。」
 真紀子に久慈は関心があるのかないのか矢代には分り難かったが、これで室に這入るなり真紀子のことを訊ねそうだとも思われたのを、そのまま久慈から云い出すのを今まで矢代は黙ってひかえていたのだった。見ていると、久慈は真紀子を高につれ出されたことをさも残念無念と云いたげな顔にも拘らず、内心それも表情でおどけて見せ矢代の観察を眩まそうとの謀みと受けとれぬこともなかった。
「真紀子さんを僕はひき留めたのは留めたんだが、留める僕の肩を突き飛ばして行っちゃったんだ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのにって、残念そうにオペラで云ってたから、行方不明の君にも責任はあるね。」
「あの人は飛び出す名人だったからな。気骨の折れるお方だよ。」
 三日の間どこへ行ってたものか一向口を割らぬ久慈に、矢代も強いて訊ねる気も起らなかったが、そのうちに久慈は寝台の毛布を払って横になると、つづいた睡眠の不足と見えてすぐ瞼をとろりと落して起きて来なかった。


 朝になって矢代は久慈よりも先に眼を醒した。横でよく眠っている久慈を起さず顔を洗ってから真紀子が前夜帰っているかどうかを見たくなって部屋へ行ってみたが、まだ鍵が降りていた。帰っているらしいことは確かだった。矢代はホテルを出ると近くのルクサンブールの方へ歩き、公園の入口の自働電話で千鶴子に居所を報らせてからひとり鉄柵の中へ這入っていった。
 夜半に雨でもあったと見え幹の濡れた樹樹から滴りが重く落ちて来た。一人も人のまだいない園内の路の上に白く点点と羽毛が散っていて、踏む砂からじっとりと水が滲み出た。
 爽爽しい空気だった。矢代はベンチの鉄に溜っている露を拭いて腰を降ろした。朝の日光が斑点を泛べている芝生の上を鳩が葉先を胸で割りつつ歩いて来る。いつも見馴れた風景であるが矢代はここの平凡さが好きだった。特に心を奪うような樹を排してあるのも一服の煙草の味を美味にした。彼は千鶴子の来る東門の方の楡の繁みをときどき見た。
 折り畳まれた細い鉄製の椅子が繁みの影に束ねてある。柴のように見えるその椅子の束の間から千鶴子が黒い服で近よって来た。下枝を払った樹樹の梢の張りわたった葉の色に染り、薄化粧をした千鶴子の顔も少し青ざめていたが、一株の薔薇の見える小径をおもはゆげに笑い、横を向きつつも千鶴子の足はだんだん早くなって来た。
「昨夜はよくお眠みになれて?」
「少し早く眼が醒めすぎた。久慈はまだ寝てるんです。」
 千鶴子は矢代の横へ腰かけ、よたよた身を振る鳩の歩みを眺めながら、
「ゆうべピエールさんよく御覧になって。何んだかお年寄に見える方でしよう。」
「そうでもないな。美しい良い感じの人でしたね。なかなか似合ってた。」
 千鶴子は矢代の膝を打とうとしたが、ふとその手を止めて彼の方を向き返ると、
「あなただってなかなかお似合いだったわ。憎らしいほど、あれよ。」
 顔を染める千鶴子を見るのは矢代にはまったく珍しいことだった。ドイツへ自分の逃げる前ここの公園のベンチで幾度こんなにして千鶴子と話したか分らない。もう彼女と会うことはあるまいと思い、またこの上会ってはならぬと思って逃げていったも同様な自分だったのに、それに今は人目のない朝のこの場所を選ぶようになってしまったことは、変れば変る状態だと矢代は思った。彼は千鶴子とこうしてただ並んでいるだけですでに身体が溶け合い、皮膚の隅から隅、内臓までも一つの連係をもって自由に伸縮している貝のように感じられた。
「もう君の考えることも僕の考えることも同じだ。どうしてくれる。」
 口へは出さず矢代は芝生に落ちている日光の斑点を眺めながら、さも楽しみ深そうに煙草を吹かした。昨夜見た椿姫では第二幕目のブウジバルでアルマンは丁度今の自分のように幸福そうであったが、すぐ悲劇が十分後に起って来ていた。矢代は日本にいる千鶴子の家の人人のことをまだ少しも知らぬ自分だと思い、悲劇が起るならそこからだとふと思ったが、しかし、それも起ったところでもっと今より後のことだった。
「ホテルへはもう一度お帰りになるの。」
「あ、そうだ。」矢代は身を起して云った。
「今日はどこもパンを売らないそうですよ。ほんとうかどうか、これから見て来てやろうじゃないですか。お腹が空いたし。」
「もうそんなになったのかしら。」
「なってるらしいんだが、案外見たところは静かですね。」
 近よって来た見馴れた鳩の指が芝生の露に洗われうす紅い菠薐草(ほうれんそう)の茎の色だった。雀も濡れたまま千鶴子の沓先で毬のように弾み上っていた。
 二人はベンチを立ってまた園内を廻った。山査子の花の咲いていたころ矢代は無我夢中にこの森の中を歩き、息切れを感じるほど強く千鶴子に牽かれたある瞬間を、ふと今も踏み応える砂から感じとった。よくもあのとき千鶴子を振り切ってパリをひとり旅立つことが出来たものだと、矢代はある疲れに似た思いで追想しながら、あのころよりも一層濃くなった緑の色のむらむらと打ち重なった樹幹を眼で選り分け、日光の射し込んだ花壇の方へ千鶴子を誘っていくのだった。
「旅行をしていると、流れてゆくままにも自然に心に巣が出来てくるものですが、僕はこのルクサンブールがいつの間にか巣になってしまった。僕はここで暮したようなものだな。」
 葵の花を廻りながら矢代は自分の得たものは結局何一つなかったと思い、これから日本へ帰っても依然として旅の心はつづいてやまぬにちがいないと思った。
「あたし、あなたにここでいろいろな事を教えていただいたわ。でも、もうじきお別れしなきゃならないんですのね。」
 千鶴子は矢代も当然二人の別れる日の迫っていることを感じているらしい風情で、葵の真直ぐな茎に手をあてながら云った。そうだ、やっぱり千鶴子とは別れなければならぬのだと、矢代は胸に一条の刃を入れられたように慄然として黙った。もう悲劇が自分にも来たのであろうか。彼は朝の日光が白みわたるほどぼんやり心の弛むのを感じる。その後から後から追い襲って来る激しい胸の疼きを食い殺すように俯向いて歩いた。何か千鶴子は自分に分らぬ事情で結婚の意志を退けているのに相違ないと矢代は思い、自分から思い切って千鶴子にそれを云ったならと、そのようにも考えたが、しかし、昨日まで自分は結婚のことだけは云い出しもせず忍耐することが出来ていたのに、今この忍耐を破るとは何としても情けない気持ちだった。
「ロンドンのお兄さんから、何かお便りあったんですか。」
 矢代はようやく思いあたるところを感じて訊ねた。
 千鶴子は、「ええ。」と低く答えたまま、暫く重く黙っていてからまた云い澱む風に云った。
「兄さんもう日本へ帰るんですの。あたしの来るときもう帰るんだったんですのよ。でも、少し延びたと云って来たものですから、急いであたし来てしまいましたの。まだお話しなかったかしら、あたし。」
「ロンドンにいらっしゃる事だけは聞いていましたが。帰られれば千鶴子さん、どなたかと結婚なさるんでしょうね。」
 もう一番の訊きたいことを訊くことが、何んの不思議もない日常の会話のように見える様子で矢代は訊ねた。
「それもあるんですの。困るの。ほんとに。」
 葵の花が薔薇に移り変る切れ目の所で、弁の縮れた模様を検べるような首垂れた千鶴子の細い眉が、花明りに照り映えたあきらめの静かな線を描いていた。矢代は予想が一つずつ的中してゆく恐れと同時に、千鶴子のその静かなあきらめが物足らなくなり、抑え難い暴力に似た力の湧きのぼるのを感じた。
「あなたはどうしてもその人と結婚しなきゃいけないんですか。」
 矢代はふとこう問いつめたくなったが、そう云えばもう二人はお終いの頂きに出ることだと気がついた。彼は出かかった呼吸もひきとめまた暫く花壇の中を無言で歩いていたが、しかし、自分は自分の愛情だけは疑えない、これが嘘だといえる筈がないと思い直すのであった。
「さあ、御飯を食べに行きましょう。」
 矢代は千鶴子を東門の方へ誘って公園を出てゆくと、今さきまでの狂い立つような気持ちを捨てリラの方へ歩いていった。しかし、歩くにつれて、もう別れねばならぬと思ううす冷い覚悟が視野の全面に漲って来て、立ち並んだマロニエの並木の黒い幹も、これも心に爪を立てられた思い出の一つになるのだと矢代は思い沈むのであった。


 リラまで矢代たちの来たとき、リラは戸を閉めて全部の椅子が片附けてしまってあった。二人はそこから行きつけの食事場へ行ってみたが、その店も入口はみな閉っていて、テラスの椅子もテーブルの上に足を仰向けて並んでいた。矢代はまだ店が始らぬのかと初めは思ったが、見ていると通りから見える所の入口の向うで、いつも矢代の卓へサーヴィスに出て来たボーイ頭が支配人に立ち向い、何事かいどみかかるような興奮した姿で話していた。ぴったり閉じられたガラスの中なので話は聞えなかったが、電気の消えた店内の暗さを背景にしているため、漸く通りの明るみを受けた支配人とボーイ三四人の顔が、水族館の中の鮫のように物物しく映って見えた。ときどき穏やかな顔に弛んだり、また抗弁したりするボーイの後ろに、詰めよっている他の三人の服も海底の動かぬ昆布に似て見えた。頭の鉢の開いた支配人は矢代の傍へいつもよく来て、どうですこの料理の味は? と優しく訊ねたりしたことがあったが、今は両手を拡げたり縮めたりして、ボーイを鎮めることにひたすらこれ努めている最中だった。
「これや、この様子だと今日一日の辛抱じゃ駄目だな。」
 矢代はこう云いつつ通りに立って両側に続いているレストランやカフェーを見廻したが、どこもかしこもガラス戸を閉め降ろし、一人の客も入れていなかった。食事にあちこちとうろつき廻る度びに、どこでも拒絶されて来たらしい旅客たちは、ただ街を流れ歩いているだけだった。新しく食事に来たものらも事の真相を知るに及ぶと、通りで寄り塊ったまま、誰もひそかに薄笑いをもらして去ろうとはしなかった。そこへ罷業を奨励している政府の委員たちが、命令のまま確実に罷業が行われているかどうかを検べるために、巡視の自動車で街街を馳けて来ては、威勢よく、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
 と叫ぶと固めた拳を人人の前で高く上げるのだった。それはガラス戸の中の罷業側に声援を与えるらしい声だったが、食事に困ってうろついていたものたちも、退屈まぎれにそれに和し拳を上げるものも多かった。
 矢代は千鶴子と一緒にまた街を歩いていくに随い、食事場だけとは限らず、少し大きな商店はどこも店を閉めていて、どの入口のところにも店員の通いを喰いとめる罷業委員が張番をしていた。
「いよいよ波をかぶって来ましたな。」と矢代は云って千鶴子を見て笑った。
 通りの店店が網目になった鉄柵の大戸を閉め降ろしているので、街は牢に入れられた囚人のように見え、灯を消されたショウウィンドウのハンドバッグや化粧品などの商品類も、手錠を嵌められて俯向いている女に似ていた。矢代は変れば変るものだと思い鉄柵の格子の外からそれらを覗いていると、
「どうなるんでしょう。あたしたち。」と彼を見上げておどおどした視線で相談する風情に見えた。
「とにかく、コーヒー一杯も飲めないとなると、考えなくちゃならんね。」
 もう間もなく千鶴子と別れなければならぬと考えることで、さきからかなり気力の疲れている矢代は、金銭は先ず持っていても餓えを満すに足りないというこの大都会の変動のさまも、亦多少は考えねばならなかった。
「こんなことが長くつづけばどうなるんでしょう。どこもかしこもこんなになるのかしら。」
 千鶴子の問いに矢代は、「さア。」と云ったまま黙った。そして彼は、自分と君とも今はこれに似たような分らぬ淋しさに襲われているときだと思った。たとい日本へ帰ればまた会うことも出来るとはいえ、帰れば恐らく誰でも放れ散ってゆくようにどちらも会う気持はなくなってしまうにちがいない。――
 矢代はせめてどこかで腰を降ろして休みたいと思い、通りをどこまでも真直ぐに歩いていってみたが、カフェーというカフェーは皆戸を降ろしていた。もうこんなにコーヒーさえ飲めないのかと思うと、彼は飲ます家のあるまで探したくなり、また、もうそれではこの千鶴子とも別れてしまい、二度と会うこともないのかと思うと、それならそのように覚悟を定めねばならぬと考えたが、しかし、それにしてもこの調子だと自分はもう何をするか分らない。もうこれだけはと思いつつ、あがき進む馬のように彼は自分の轡(くつわ)を噛み破ろうとするのだった。


 セーヌ河を渡ったところにチュイレリイの宮殿の跡があった。矢代は篠懸の樹を下にめぐらせた城壁の上にのぼり、千鶴子と並んで河を見降ろした。この観台から真下のセーヌの両岸を眺めたとき、河そのものの石の側壁がすでに壮麗な一つの建築物だった。それはちょうど科学の粋を尽した白い戦艦が一望のもとに並び下ったかと見える堂堂たる景観だった。
「この眺めはどうです。ナポレオンの皇妃のジョセフィヌはここの宮殿にいたのですが、河がいかにも武装を整えた大兵団の守備兵のように見えますね。ナポレオンはベルサイユの近くのサンクルウの宮殿から、政務に疲れるとここまで馬車で会いに来たのだそうですよ。」
 英雄の情事にしたって凡人のと別に変りはあるまいと思い、矢代はそんなに云ったのだったが、悲しみあるとはいえ、ふと今自分はそれと劣らぬ愉楽の頂きへかけ昇ろうとしている真っ只中にいるのだと思った。
「でも、サンクルウからだと随分遠いのね。どうして奥さんと放れて生活していたのかしら。」
「さア、そこはどういうものかな。どちらも放れて生活していると、会うということが休息になるんでしょう。」
 あながちナポレオンのことでなくとも、まもなく千鶴子とも別れねばならぬとすれば、想いを殺してこのままに別れるのも、あるいは今のこの歓びをともに生き永らえる生活の美しさとなるのかもしれぬと、矢代はまたそのように思い直し、ひと時の旅路をふり返る余裕も出来て来るのだった。
「ここはパリじゃ一番美しいところだったんだけれど、もうナポレオンもジョセフィヌもいやしない。今ここにいるのはたった二人きりなんだから、まアとにかく、不思議なこれは一つの事実みたいなものだ。」
 こう云って矢代は千鶴子の顔に流れた光線の綾に微笑を投げかけ、過ぎゆくあたりの風景の何んと静かな眺めであろうと、緑の樹の間に煌めいている噴水の輪に視線を移した。
「ジョセフィヌさん、こんなにして毎日ここから眺めていらしたのかしら。でも、そのときもこうだったんでしょうねきっと。あの河の胴の長長としているところ、象牙で出来た河みたいだわ。美しいのね。」
 千鶴子は左方に真近く見えるノートル・ダムを眺め、また下流にうねる河水の緊密した容積のどっしりとした明るい水面を見降ろした。すぐ観台の真下にコンコルドの広場がある。矢代は自分の好きなその広場を今まで忘れていたのを思うと、いつもより千鶴子に心を奪われていた自分の失念のさまもまた思われるのであった。
「あなたはベルサイユの宮殿で、アントワネットの寝室御覧になったでしょう。あの部屋からここのこの広場まで引き摺って来られて、ここでアントワネットが断頭台に乗せられたんですから、すぐその後の皇妃のジョセフィヌにしたって、こんなに暢気な気持ちじゃこの河を見てられなかったんですよ。それに今日みたいにコーヒーも飲めないなんて日だったら、昔ならここでもう今ごろは、断頭台が押すな押すなの賑いだ。」
 日光をはね返している壮大な広場の中では、数十本の噴水がソーダ水の漂い溢れるような清らかさだった。矢代は観台から降りて下の絵画館へ休みに這入った。そこは百畳敷ほどの楕円形の部屋でモネー館と云われている。周囲の壁には全面を余さず円形に沼に浮かんだ睡蓮の絵が満ちていた。一人の人もいない森閑としたその部屋の中央に、ただ一つ褐色の革張りの小さなベンチが置いてある。そこに二人は並んで腰を降ろすと、丁度沼の中の留木にとまった二匹の蛙のように自分が見え、どちらを向いても眼のゆくところ人影の一つも見えぬ連った睡蓮の沼だった。
「ここは疲れたときにはいいのね。どうしてこんなところ御存知?」
 千鶴子はより添うように矢代に近づいたまま、周囲の沼と青青とした静けさを楽しみ眺めつづけて訊ねた。
「僕は街を歩いて疲れるとここへ来て、このベンチへ一人ひっくり返って寝てるんですよ。いつも人のいたことはないんだ。この絵はパリの黄金期にいたモネーが描いたんですが、実に写実的な緻密なものですね。いかにも池の中に自分がいると思うからな。」
「そうね。何んだか日本の山の中にいるような気がするわ。よくこんなところ、奈良にあるじゃありませんか。」
「そうだ。奈良だここは。」
 矢代は半身を横にしながら肱をついた。眼前の継ぎ目のない沼はすべて絵だと思っても、天井の適度の光線の加減に応じた遠近法で、絵もこんなに事実の自然に近づくものかと矢代はいつもここで驚いた。
「やはりこんなところをパリの人も欲しいのね。」
「それや、欲しくてたまらないんでしょう。それにこのベンチの置き方も上手いですよ。こうしていると自分が人間だと思わないんだもの。」
「あら、そうね、蛙ね、まア面白いこと。ほんとにあたしたち蛙だわ。」
 千鶴子は再び背のないベンチを矢代と反対の方へ向き変って足を組んだ。睡蓮の花の間に渦紋の漂い密集した浮葉の群青のその配置は、見れば見るほど一つとして同じ形のもののない厳密なリアリズムの沼だった。
「東洋人が自然にうんざりしてしまって、科学がほしくてたまらないときに、こちらじゃもう科学にはうんざりして、自然がほしくてたまらないんだな、もう精神が科学に疲れきってしまっても、まだ科学的な厳密さより信用しないという絵だ。人間は、いったい、どうなるんだという、これは地獄絵だ。そうだ、久慈をひとつここへつれてくるんだった。」
 こう云って矢代は起き上ると頭は自ら空を仰ぎたくなるのだった。
「そんなら人間はどんなになるんですの。」
 千鶴子はくるりと矢代の方を振り向いて訊ねたその拍子に、あまり真近に矢代の顔があったので思わずまた後ろへ身を退いたが、千鶴子のその眼の大きさに矢代は質問が何んだったのかふと忘れた。昨夜オペラの桟敷の中で千鶴子の腕を巻き込んだときには、ソファに同じ方向を向いて坐っていたときだったので、そんな軽はずみなことも自然に出来たのであったが、今は互に背を合せるように坐っている一つのベンチだった。身体のねじれと一緒に心もねじれたように胴で曲るのを感じつつ、矢代は動かぬ千鶴子の眼の中のしんと静まった一点を今は何より美しいと思って見た。
「あなたがそっちを向いてると、話が途切れて面白くないな、僕たち蛙になってるんだから、パンも食わさぬ人間を一つ今日はやっつけよう。何んだこんなもの。」
 と矢代は云ってまた睡蓮の絵を眺めた。
「ほんとにコーヒー飲みたいわね。出ましょうか。ロンパンへ行ったらきっとあってよ。」
 千鶴子が立ち上ったので矢代も立って外へ出た。もうかなり空腹だったが、二人はサンゼリゼの下のロンパンまで歩くことにして広場の噴水の傍をわたって行った。


 ロンパンまで行ってみてもそこも今日は休みだった。この右翼の巣窟のようなサンゼリゼいったいの食事場が休みだとすると、もう二人はどこへ行って良いのかいよいよ途方にくれて来た。やむなく二人はそこの辻のベンチにまた腰かけて休んだ。坂の上の凱旋門の群像の彫刻が方形の胴にうす白く泛んで見えた。その門の中に欧洲大戦に戦死した無名戦士たちの墓があるので、丁度ここは東京で云えば、靖国神社をいただいた九段にあたるゆるやかな坂の下だったが、何事か街に問題が起る度びに、この無名戦士の墓を中心にして起って来るのが例である。
「もうすぐ巴里祭ですが、あそこの無名戦士の墓の奪い合いで、左翼と右翼の衝突がもう今のうちから起っているんですよ。その日になったら、ここでそれが爆発すると人人はいうのですがね。ここは王さまの無いところだから、喧嘩をすればきりがない。」
「今からそれが分っていて、どうして防げないのかしら。」
 千鶴子はまだ訝しそうな声だった。
「それはここのは、戦死した無名戦士が王さまみたいなもんでしよう。だから墓が物を云わないのを良いことにして、右翼はわれわれ伝統の勇士の墓というので、これを自分のものとしようとするのでしょう。そこを左翼は、いやこれこそわれわれ民衆の勇士の墓だ。これこそわれわれのものだと主張する。ところが、今度だけは政府が左翼だからいつものようにはゆかんので、左翼を守らなくちゃならない。そうなると、右翼の伝統派はいつもより結束するだけじゃなくって、こうなればもう伝統のために死ねというので、必死の反抗になって来るから、爆発が一層大きくなるというわけです。」
「じゃ、どちらの云うこともそんなに本当に見えちゃ、みな迷うのももっともね。そんなに大切なことに迷っちゃ、この国の人たちどうするつもりかしら。」
「そこがどうするわけにもいかんのだな。何んといっても、生活する頭の原点が墓なんだから、それならこれは死んだ動かぬ点でしよう。つまり完全な無だ。ところが、王さまのある国はその原点が生きた有の一点だから、つまり生命です。生活の原点が無と有とじゃ、そこを中心にして動いている人間の頭がまるで違っていくわけですよ。たとい同じように見えたにしたって、有るものと無いものとじゃ、やはり違う。」
「じゃ、日本とこちらは皆ちがうのかしら。」
 千鶴子の眼は凱旋門を見詰めたまま放れなかった。
「それや同じ所もありますよ。だけども、中心を墓という無にしたものなら、それは人間というものは、みな墓だと思い込んだ人の無の頭の中だけで、幾何学をやっているようなものですよ。つまりそれは科学でしょう、そのような科学の中でなら、これなら同じだ。しかし、僕らは何んと云っても生きているんだから、生きてる意義というものは、人をみな墓だとみて幾何学をやることか、あるいは生きているからは、むくむくと動いてやまぬ愛情が必要に定っているんだから、それを互に何とか清純なものにしたいと希う努力にあるのか、という風な問題が、いろいろ形を変えて顕れているんだと僕は思うんです。そこが分らんものだから、左翼と右翼も人の分らぬそこのところにつけ込んで、まことしやかな理窟で世の中の生きてる頭の引っ張り合いをするんだな。日本の知識階級のものにしても、自分を死んだ墓だと思い込む方法を西洋から教え込まれて来たものだから、人間のいない世界でだけ完全に立派なもの以外に信用しない癖を、だんだん植えつけられて来てるんですね。つまり科学より信用しない。それとはまた別に、その死んだ世界でこそ美しいものを、生きてる世界にまで全部あて嵌めねば承知をしないのが、これがなかなかたいへんな勢いなんです。」
「それ久慈さんのことなんでしょう。」
 と千鶴子は先廻りをして笑って訊ねた。
「そうそう、久慈もそれです。それで僕はあの男と絶えず喧嘩だ。久慈の云うような、誰から見たって立派に見える言葉ばかり人に押しつけて云っていちゃ、人は興奮して立派にみな死んでしまう。殺したけれや殺せと、このごろは面倒臭くなったから、あまり喧嘩もしませんが、しかし、そうも云っておられんからな、まだまだ喧嘩だ。」
 千鶴子は分ったところだけ頷きつつもまた視線を凱旋門の方形の肩に上げ、
「あれお墓なのね、あたし、ちっとも知らなかったわ。」
 と小声で羞しそうに云った。
「あれはここの生活の墓ですよ。無だ。あの無というお墓から、放射状に大通りが八方へ通っているでしょう。僕らはその一つのここにいるんですが、しかし、ここにこうして生きて話してる。ところが、生きていながら朝からコーヒー一杯も飲まされないというのは、これや無茶だ。」
 真面目に聞いていた千鶴子も思わず矢代の皮肉に、「くッ。」と笑ったが、意外におお真面目な矢代の表情にまた自然と黙って聞くのだった。
「この通りがお墓の無から出てるから、お茶なしでもないだろうが、しかし、日本の通りはお墓の無と有とが重なった一点から出てるから、どんなになったって、飯が食べられぬということは絶対にない。御飯が食べられないより食べられる方が有り難いに定ってるんだけれども、それを馬鹿にするものが日増しに多くなって来てるんです。そんなら、つまりお墓へ吸いよせられて行ってるのだ。おまけに、さア急げと号令かける男まで出て来てるから、お墓詣りに、血を流す。」
「ちょっと、それはここのお墓のことなの、日本の? どちらですの。」
「ここのお墓だ。」
 と矢代は云って笑った。
「日本にはお墓詣りに血を流したものなんかいやしない。流さぬためにお墓詣りに行くんだが、ここのは血を流すためのお墓詣りみたいなものだ。」
 矢代はふとこう乱暴に云ってから、突然、
「どうして僕はここへ来ると、こんなにお国自慢がしたくなるんだろ。少し慎しまなきアいけないかな。」
 と苦笑してあたりの美しい街路樹の森を眺めた。厚いガラスの筒口から吹き昇っている巨大な噴水が、広場いったいに霧のように吹き乱れて散り、マロニエの葉の間から滴りを顔に辷り落した。風船の塊りが樹の幹の間で揺れているその向うから乳母車が動いて来る。千鶴子は盛り上った薔薇の丸い花壇の中を絶えず辷ってゆく自動車を眺めて云った。
「これみんな前には馬車だったのね。そのころあたし一度来てみたかったわ。どんなに良かったでしょうそのころは。」
「あ、そうだ。このあたりのベンチでアルマンが椿姫を待ったんですよ。ロンパンの大きな樹のある前のベンチと書いてあったようだから、たしかにこのあたりに違いないのだ。あるいはこのベンチかもしれないぞ。」
 矢代はおどけた風にそう云いつつ頭上の二かかえもあろうマロニエの大木の葉を仰いだ。
「ここだったら面白いわね。でも、これは鉄のベンチだから、そのころと変っちゃいないわけよ。」
 千鶴子も好奇心に満ちた笑顔でベンチの背を撫でてみたり組み合った八ツ手のようなマロニエの厚い繁みを仰いだりした。
「何んでも馬車で椿姫がブロウニュの森の方へ、ここを通って毎日行くんですよ。それが日課だったんですね。それを聞きつけたアルマンが、友人とここで待ち伏せしてるんです。椿姫はイタリアの麦藁帽子に、レースの飾りのついた黒い服を着ていて、乾葡萄を入れた手下げ袋を持ってたというんですがね。」
 椿姫の細い優雅な姿を想い描いている二人の顔へ、風の方向に揺れ靡いていた噴水の霧がゆるやかに廻って来た。姿を揃えた樹の幹の間へ落ちている日光の縞の中でひそかに虹が立っていた。「美しいところだなここは。こんな美しいところでももうパリの人間は、ここに美しさを感じなくなってるんだから、感覚の変化というものは恐ろしいものだ。」
 ふと矢代はそう云ってしまってから、思わず千鶴子の頭に響かせた別の恐ろしさをはっと考え、我知らずに出た言葉を呪い押し込めたくなるのだった。全くまアいわば幸福のある状態に達している二人の間へ、やがて麻痺していく男女の感覚の行方を、今から予想させるとは不届至極だと矢代は思った。しかし、自分はもうこれ以上のことを二人の間で望むべきでないと思い、またそのようなことを望むなら、今はそれさえ達せられるだろう幾らかの己惚れさえあったが、恐らくこんなときには、誰でもそのような男女の頂上の望みを持つに定っているからには、その胸のどきどきとするあの羞らいだけは、せめて千鶴子にだけさらけ出したくはないのだった。そんなことは、下劣なことだと別に矢代は思わなかったが、どんなに巧妙な理窟があろうとも、相手の婦人に窮地に飛び込むことを要求しているのに間違いはないのであってみれば、せめてやむなくなるまでは、一層彼はその行為を心中認めたくはないある心が抜けきれなかった。
「裸身になれ、裸身に。」
 東京にいるときでも友人たちは矢代によくこう云って迫り、叱り、忠告し、果ては嘲笑さえしたものであったが、今も矢代はその声声が聞えて来て、広場の樹樹もみなにたにたとした嘲笑の顔にも見えて来る。しかし、もし本当に裸身になって見よ。そんなことが出来るわけのものじゃあるまいと矢代は思う。
「みんなの奴、嘘をついてるから、裸身になって見せてるだけさ。あのえへえへ喜び勇んだ醜行のどこが裸身だ。人の眼をくらますために醜行を演じるなら、そんなことは俺だって。――」
 とまた思う。
 顔からそれていった噴水が反対の森のうえに砕け散って霧を立てていた。その霧を自動車の車輪が巻き込んで逃げてゆく。矢代は樹の間を遠ざかって消える車を眼で追いつつ、
「とにかく、俺という男は自分というものがやはり一番好きでまた嫌いなのだ。あの自分の馬鹿さ加減一つ知らずに、ここにこうして坐っていたアルマンが羨ましい。――」と矢代は思って、
「ボアへ行きましょうか。あそこなら、何か手ごろな食べるものがあるでしょう。」
 矢代はベンチから立って凱旋門の向うにあるブロウニュの森の方へ歩いた。そこの森は二人にとっては思い出のある所だった。まだそのころは春だったが、二人の気持ちの初めて通じ合ったのは夜のその森の中のことで、それまでは矢代は千鶴子に物いうにも久慈に気兼ねを要したのに、真暗な森の中の道に迷ったのが二人の縁の初めとなり、一寸先も見えぬ闇の中を二人は手を引き合いつつ、湖のボートの傍まで出たのである。今は特にその思い出の巡礼をしようというのではなく、この度は食に困っての巡礼だった。


 森の中のパピヨン・ロワイヤルだけは常の日と変らなかった。黄色と朱の縞目になったビーチパラソルが樹の幹の間に立ち並び、鉢台の上で淡紅色の紫陽花が花壇を造っていたのも、今日は大輪の薔薇一色に変っていた。矢代たちはようやく食事にありつけた明るさで空腹を満たすことが出来たので、食後のコーヒーも普段よりは楽しめた。鉢台の薔薇の間で輝いている湖上の白鳥を見ながら、矢代は、
「やはり額に汗してパンを食べるに限りますね。いつもよりずっと美味しい。」
 とほくほくして云った。
「でも、いつもここまで来るのは大変だわ。」
 葉の色よりやや薄い竹色の椅子の背には、ショールの銀狐が巻きついていた。樹影の色で青白んで見える客の中には居眠っている顔も見えた。遠方の樹の間で閃めくコンパクトの面に眼を刺されつつ、矢代は湖の中の島を眺めて云った。
「いつかの夜、あの島の中で道に迷ったときは弱りましたね。」
「そうそ、でも、あのときあなた嚇かすからあたし、恐くなったんですのよ。ここは一名魔の森っていうんだって仰言ったでしょう。覚えてらして?」
「そんなこと云ったかしら。しかし、このあたりの夜の森じゃ、何をされたって罪は向うにないのですからね。夜になると自動車が八方からこの森へ這入って来るのだって、何も罪はこっち持ちだ、という権幕なんだから、あれはまア、自然を失った人間というものは、一切から解放されればどんな様子をするものか、試しに周囲五里の森を与えてあるようなものだな。実際この森がなかったら、パリの人間、呼吸困難になるかもしれないですよ。」
「恐ろしいところね。そんなところ日本になくて結構だったわ。」
 ボーイの持ち運ぶ皿がまた光って眼を刺した。オーケストラが樹の下から起った。湖面に漣が立ってゆらめく度びに、照り返しを受けたあたりの芝生の面もともに影を細かく揺らめかせた。
「マロニエの咲いていたころは、ここでこうしてコーヒーを飲んでいても、花が上から落っこちて来て手で払うのに急がしかったもんだが、もうお別れか。早いものだなア。」
 悲痛な思いも冗談のように笑いにまぎらせて話すことが出来るのを、一つはこれもここのこの景色の美しさのためかと矢代は思った。
「でも、日本へ帰ったらお会いしましょうね。あたしね、日本へ帰ってからあなたにお会いするの、今から楽しみなの。ここでこんなに苦心をしてコーヒー飲んだのも、きっと面白いお話になってよ。あなたの方が早く帰るんですから、あなたよりは待つだけ楽しみが多いわけね。おお、楽しい。」千鶴子は喜んだ。
 自分はもう会うまいと思っているのに、何んという千鶴子の気軽さだろうかと、彼女の喜びつつ手を胸に上げる仕種を矢代は眺め、ふと恨めしく思うのだった。しかし、それもすぐ彼は追い払うことが出来た。外国での約束などただ楽しみにすぎぬとはいえ、今はそのような儚い夢も満足のしるしとして受けるべきこそ旅だった。
 矢代は久慈に食事場を見つけたから来るならここよりないと電話で教えたかったが、電話をかけてみたときには久慈はホテルにはいなかった。定めし真紀子と一緒に今ごろは、こんなにコーヒーを探し求めて歩いていることだろうと云って、千鶴子と彼は笑い合った。
 ロワイヤルを出てからすぐ裏の森の中へ二人は這入っていった。鶯や小鳥の声がだんだん増して来た。栗や櫟の樹の密生した中を道からそれて、枝を撓めたり蔓草を踏み跨いだりしながら、なるだけ人声の聞えぬ方へ歩いた。この森の木の葉は初毛のように細かく柔いので、どこまで行っても森の中は明るかった。雑草も芝生の延びたのが多く、それも踏み馴らされた人擦れのした草ばかりだった。
「まったくここは森まで人工だから、僕らこれでどこまで胡魔化されてるか、もう分らないな。こんなになると日本へ帰ってから、日本がつまらなく見えて困るぞこれや。」
 ぼそぼそ独言をいうように呟きつつ歩く矢代の前へ、鳥の糞が落ちて来た。しかし、千鶴子は、森の人工であろうが自然であろうが少しも意に介しない様子で、ときどき男女の一組が草の中に横わっていても、その傍を快活に除けて歩いた。森の中には自動車道が縦横についていた。千鶴子は樹の間から道が少しでも見え始めると、すぐまた自動車の音のしない反対の奥の方へ自分から進んだ。
「こんなにお昼だと道なんか迷うほど面白いわ。もっと奥へ行きましょうね。道はうるさくって。」
 こう云いながら行く千鶴子の後から、これでは案内されるようだと矢代は思って苦笑するのだった。そのうちあたり一帯背丈を没するほどな蕨の密集している原の中に這入ってしまった。そこを千鶴子はひるまず、両手で葉を頒けつつ突き抜けようとした。
「一寸待ちなさいよ。これやみな蕨(わらび)ですよ、素晴らしい蕨だな。」
「これ蕨? 羊歯じゃありませんか。」
「いや、蕨が延びるとこうなるんです。籠を編む、ほら裏白とか何んとか云いましたね。」
「ああ、あれね。」
 一群の羊歯に似た原が蕨の藪だと思うと、一層元気が出たらしい風で千鶴子はまた進んだ。このあたりは人も這入らぬと見え、原始林をそのままの形に残した物物しさにも、やはりどことなく人工が感じられた。矢代は千鶴子に手伝い裏白を頒け頒けしているものの、この無駄な努力に勢いを出すのも、もう永く遊んだ退屈さに耐えられなくなった二人だからだと思った。
「まるでこれや稲刈りだな。」
 と矢代は云って笑った。千鶴子も笑いながら並んで同じ動作を繰り返していくのだったが、少し疲れて手から力を抜くと、たちまち密集して来る海老殻色の茎の弾力に跳ね返されて二人は打ちよせられた。足で踏みつけた茎も二人の過ぎた後方で戻り合う音を立てていた。
「君、これは後へも帰れなければ、前へも行けなくなるぞ。向うが見えないんだもの。たいへんなことをし出かしたものだ。」
「だって、かまやしないわ。」
「無茶だね君は。ここが行けると思えますか。」
 こう云っているときでも、もう強い茎の群団は二人の周囲を隙間なく押し締めて来た。二人は身動きも出来ないばかりか、両足の間へも跳ね返って来る茎から足を抜くのも困難だった。
「もう少し行きましょう。折角ここまで来たんですもの。抜けられるわよきっと。」
 また千鶴子は動き出した。矢代は汗が出て来たが仕方もなく暴暴しく裏白の絡りついた茎を踏みつけて云った。
「氷河をわたるのよりこっちの方がよっぽど骨だ。」
「でも、これは死ぬ危険はないわ。」
「しかし、無駄だこんなことは。」
 夫婦喧嘩のような云い合いをしているときでも、よろめき倒れそうな千鶴子を彼は手で掴んでひき上げねばならなかった。服のどこかが絶えず茎の歯にひっかかってぶりぶりと鳴った。ときどき立ち停っては森の梢が見えて来るかと空を仰いだが、行けども行けども羊歯の葉のようなぎざぎざの頭ばかりで、千鶴子もだんだん心細くなったらしかった。
「ほんとに失敗ね、御免なさい、こんな所へおつれして。」
「今さら謝ったって、何もならん。」
「だって、こんなに深いと思わなかったんですもの。どうしましょう。」
 棘にやられた手首の傷から血が出て来た。矢代はそれを毛物のように舌で舐め舐め云った。
「こうなれば日が暮れたってやるまでだ。さア、行きましよう。」
 今度は矢代が先になって片足で円を描くように一群の裏白を割るのと一緒に、片手でぐいとその次の頭をかき頒けるようにして、これを左右交互に繰り返して進むのだが、原始の人間は毎日こんなことばかりを繰り返しながら、後から妻をつれ子をつれて道をつけたのだと矢代は思った。それがパリの真ん中に人間の原動力の泉のように一点ここだけ残されているのだった。行くうちに裏白の叢は黝(くろ)ずんでねっとり湿りを含み、臭いもアルカリ性の強い朽葉の悪臭に変って来た。
「これや、冗談じゃない。とても駄目だ。」
 矢代は投げ出すように千鶴子を見て云った。
「駄目かしら、森さえ見えればいいんだけど。」
「見えたって、服が蕨の悪汁(あく)で真黒になりますよ。」
 矢代は茎の中へ片手をさし入れてみて顔を顰めた。
「風が通らぬから蒸せるんですね、これ、むッと熱い。」
 千鶴子も手を入れかけたが、
「あら、ほんと、暖いわ。」と云ってねばねばする手さきを葉で拭いた。一面の蕨の叢の中は互の温度に醗酵してヨード・チンキになっているのだった。矢代はもうくたびれて後へも引き返せないので、人の声のする森の方へ耳を傾けているとどこからかかすかにテニスのボールの音が聞えて来た。
「テニスの音ね。どっちかしら。」
「どっちか分らないな。君、ひとつどっちへ出れば一番近いか一寸見てくれ給え。こうなればもう斥候が要る。」
 こう云って矢代は千鶴子の両足をかかえようとすると、千鶴子も気遅れを見せずすぐ矢代の肩に手をかけた。
「よろしいか。そらッ。」
 矢代は膝をくの字に曲げた千鶴子を上に高くさし上げて云った。
「重いぞ。」
 恐わそうに初めは片手を矢代の後頭に巻きつけていた千鶴子も、ぴんと延び上ると片手を自分の額にあて、面白そうにあたりの蕨の原を見廻した。
「まア、広いこと広いこと。」
「どっちです。」
 重さに腕をぶるぶる慄わせて訊く矢代の身体の中で骨が鳴った。
「あちらよ。右へ真直ぐに行けば一番近いわ。おお、いい眺め。」
 千鶴子はなお真直ぐに延び上ろうとした拍子に矢代の脇腹へ強く沓が食い込んだ。
「抛り落すぞ。痛いや。」
「もう暫くよ。広いったらないわ。」
 千鶴子はからかうように上から矢代の頭を撫でながら悠長にあちこちを眺めつづけた。困った果てにやむなくしたこととはいえ、何んの躊躇もせず自分の肩車に乗っている千鶴子を、可憐に思いまた支えた。
 下に降りたとき千鶴子は裾を直し顔を赧らめて、「ああ面白かった。」と云うと、今度は急に黙って右の方の蕨の中を自分が先に割り進んだ。
 全くこの蕨の原はひと目初めに見たときよりもはるかに広い地帯だった。二人は湿った部分を除けながらまた一と苦心をつづけていったが、もうどちらも汗にまみれてくたくたに疲れ、ようやく森の芝生の上に出たときには、真先に矢代は栗の樹の根もとに倒れてしまった。
「驚いた。あんなところにヨード・チンキの塊りがあろうとは思わなかった。あそこだけは誰も知るまいな。」
 千鶴子も矢代の傍の草の上へ長くなった。
「ほんとにこの森、魔の森だわ。馬鹿に出来ないのね。」
「ストライキのお蔭で今日は飛んだ目に会わされてばかりだ。この調子だとまだ何か今日はあるかもしれないぞ。」
 煙草を出して矢代は千鶴子に一本すすめ、梢の上を流れる雲に見入った。風に揺れている梢からもれた日光が倒れた草にあたっていた。鶯がまだここでもしきりに鳴きつづけたが、もうあたりに花は一つも見えなかった。どこか向うの草の底から低い欠伸が聞えた。あたりに少しも人の気がないように見えていながら、実はここはそうではなく、到るところにいるらしい。まもなく低く音読するフランス語が欠伸とは違う方向の草の中から聞えて来た。大きな声で話していた矢代も急に客間へ出されたように声をひそめた。
「これや、蕨の原っぱどころじゃないぞ。あちこちにいるんだ。」
「そうらしいわね。」
 下手な手つきで煙草を吸っていた千鶴子は、突然そのとき俯向いたまま苦しげに咳き込んだ。驚いて矢代は見ると、千鶴子の吐きつけた煙が地肌にこもって、あたりの草の複雑さに応じつつ下からゆるやかに跳ねのぼって来た。
「横着をするもんじゃないわ。おお、苦しい。」
 涙を泛べてまだ咳きつづけている千鶴子の耳の縁に、赤い斑点のある丸い小虫が這っていた。矢代は虫を払い落して軽く千鶴子の背を叩いた。咳き熄んだ千鶴子と矢代はもう黙った。微風が吹くと森の木の香が新しく蘇った。胸が草で冷めたい。千鶴子は延ばした腕に頬をつけ、草の根をむしりながら低い声でパリの屋根の下を口誦んだ。
かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたんどるまん
だんのうとるろっじゅまん
 矢代は自分の吐いた煙の輪が灌木の間を廻っているのを眺めていると、どこかで樹を折る音がした。ひと節唄ってから千鶴子はまた黙り込んでいたが、
「ピエールさんね、日本へいらっしゃるんですって、日本が好きなのよあの方。」
 と云って矢代の手の甲へ草の茎を真直ぐに刺した。
「君の後を追って行くんですか。」
「そんなんじゃないわ。」
「しかし、それや、怪しい。」
 矢代は笑いながら千鶴子の手の上へいまいましそうに土をかけた。
「日本の婦人は優しくって、理窟を云わないのがいいんですってよ。あたし、やさしくも何もしないのに、そんなに仰言るの。」
「分らないぞ日本の婦人は。やさしそうに見せかけて凄いのがいるからな。」
 あらひどいひどいと云いつつ、千鶴子は半身を起して矢代の腕を揺り動した。矢代は横に草の上を転げた瞬間ふと強い土の匂いを嗅いだ。思わず転げ停るとそのまま彼は、胸を締めつけられたようにじっとしていて云った。
「これや懐しい匂いだ。久しぶりだな。一寸この土の匂いを嗅いでごらんなさいよ。」
 矢代は無理に千鶴子をひき据えるようにして土の上へ頭をつけさせた。千鶴子も俯伏せになっていたが黙って何も云わなかった。
「ああ日本へ帰りたい。この匂いだけを忘れちゃ駄目だ。」
 こう矢代はひとり呟きながら膝を揃えてまた匂いを嗅いだ。頭の心が急に突きぬかれていくような酸素の匂いで粛然とした気持ちが暫く二人を捕えて放さなかった。


 着替える真紀子を待って久慈がホテルを出たころは、もう正午近かった。道路に開いたマンホールからむっと生温い炭酸瓦斯が顔にあたった。歩く足もとの壁の空気抜きからも、地下室の冷たい風が不意に吹き上って来たりした。
 食事場へ行くのに久慈は裏路を選んだので、日光のあまり射さぬ傾いた石壁の間の通りは、駄馬の蹄の音がかたかたと強く響いた。売れ残った青物の萎びたのが荷車の上で崩れている。
 久慈も真紀子も、昨夜はどこへ行ったかなどと訊く詮索癖など、いつの間にかなくなってしまっていた。互に心に想うことは、まるで別のことだという一点だけ知り合っている二人のように、何か足もせかせかと早まって動いてゆくのだった。
 剥げ落ちた壁の向うから羽根まで黒い雀が飛び立った。その後に、火の消えた瓦斯灯と枝を刈り落した坊主の樹が立っている。久慈は鋪石の上へゴム管から水の流れ出ているのを飛び越え、ずるりと靴の辷るのを危く踏みこたえたとき、初めて真紀子を見て笑った。
「辷るよ、そこ。」
「そう。」
 二人は機嫌が悪いのでもない。どちらか物いう方が負けだと思う気ぐらいが、理由もなくただ神経に映り合っているだけだったが、なぜまた御機嫌を取り合わねばならぬのか考えればいまいましく思う今日の二人だった。
「昨夜、高さんに会ったんだってね。」
 と久慈は真紀子を振り向いて訊ねた。
「ええ、オペラで会ったの。」
「踊りに行ったんだって?」
「ええ、モンマルトルへ行ったの。」
 隠すかと思いのほか意外に真紀子ははきはきと答えるので、少し閊えていた久慈も急にほぐれ始めて元気になって来るのだった。
「高さん、遊びに来ないかな。いろいろ、中国のこと、訊いてみたいことも、あるんだが。呼びなさいよ。」
「いつでも来るわ。あの人、お呼びしてもいいなら、電話をかけてよ。」
「じゃ、頼もう。」
 真紀子と高との間で、昨夜どのような事があったのかもう久慈は考えるのはうとましかった。壁に蔦の巻き絡んだ家の角を曲ったとき涼しい風が吹いて来た。すると、その風の中から出て来たようにカメラを下げた塩野が向うから歩いて来た。いつも日本人の行く所は定っているので、会い始めると日に二度三度と会うことはここでは珍しいことではなかった。
「しばらく。」
 久慈はとかく紳士を気取りがちな十六区の日本人とは放れていたが、この塩野には特に十六区の臭いがなく、礼儀だけは正しいので彼は好んでよく遊んだ。
「写真を撮ろうと思ってぶらぶらしてるんだが、どこもお茶を飲ましてくれない。このへんにどっかないかな。」
「じゃ、いよいよやったな。ドミニックへ行こう。あそこなら大丈夫だ。」
 久慈は近くの白系露人の経営しているドミニックの方へ歩いた。そこは帝政時代の伯爵一家の店だったが、スープが美味くて安いので、金が無くなると久慈たちのよく行く家である。
「通りはどこもみな休んでるの。」
「すっかり閉店だ。これからノートル・ダムへ行って、あそこを今日は一日がかりで撮ろうと思ってるんだ。」
 写真専門の塩野は、ノートル・ダムに全精力を打ちあげていることを前から久慈は聞いていた。ドミニックへ行くと食事場に困ったものと見えて、もう東野の退屈そうな後姿が腰かけていた。久しぶりの敵の姿を見つけたように久慈は後ろから東野の肩を打った。東野は振り仰ぐと、「やア。」とも云わず、にたりと笑ったまま黙っていた。塩野は久慈よりも東野との方が前からの交際であったから、真紀子だけ久慈は東野に紹介しかけたとき、ふと塩野も真紀子と初めてのことに気づいて彼にも紹介した。
 四人は細長い食台に一列に並んでそれぞれ食べたいものを註文した。見渡したところ、いつもとこの料理店は違わず働いていたが、窓の外いちめんの左翼の大海嘯のまっ只中に突き立っているさまは、ただのありふれた日常の生活ではなかった。いつも黙黙とした品位のある老齢の伯爵夫人は、カウンタアの所に坐ったまま笑顔を人に見せず、また誰とも話をしなかった。頭の上に帝政復興の寄附金を集める箱が傾いてかかっている下で、ボーイの立ち働く姿を見ながら、少しでも使用人の袖口から襯衣が出すぎているのを見附けると、夫人は黙って指差して直させた。使用人の中のロシア革命を見て来たものたちは忠実に働いたが、パリの風に馴染んだまだ若いものたちは、一家の裾を濡らすように下から上へと色を変えた。
 あるとき、ここに使われていた二十二三のボーイで、反抗して家を飛び出て他家へ入ったのが、突然この店へお客となって現れ、
「おい、スープをくれ。」
 と昂然とした元気で命じたことがあった。命じられた方は初めはにやにやしながらスープを出さなかった。
「おい、スープ出せ。」とまた青年は命じた。
 前には自分の下だった男ながらも今はお客だから仕方なく店の者はスープを出したが、沢山の使用人らは動きを停めて一斉にその青年を見詰めていた。ある者は怒ったような眼をし、ある者は羨望の表情をしていたのを久慈は記憶している。
 一列に並んでいる久慈や塩野は店が店であるだけに、外で暴れ廻っている左翼の風波については話さなかったが、次第に傾きかかろうとしているこの一家の静けさが、使用人たちの云うに云われぬとぼけた顔色に顕れているのを誰も見逃しはしなかった。
「それはそうと、日本と中国の問題、大使館の方はどんな観測かね。」
 と久慈は塩野に訊ねた。
「それが油断がならぬらしいんだ。もっとも僕はただ手伝いだけだから、委しいことは知らないんだが、だんだん険悪になるばかりらしいんだ。とにかく、遠からず始まることだけは確かだろうな。」
「しかし、こっちだって相当に危いね。この模様じゃ。」
「そうだ。どっちが先きかというところをお互に知ってるから、これで案外自重はするだろうが、しかし、戦争が起ったら、僕は写真師だから、誰より真っ先に飛行機に乗せられて戦場へやられる。そのときは、諸君より一足お先に僕は失礼するよ。」
 こう云って塩野は敬礼の真似をしながら快活に笑った。久慈は塩野のその覚悟の美しさに瞬間はッとなったが、事態はそこまで自分にも迫って来ているのかと思い吐息をつくと、しばらく黙って赤蕪を噛っていた。
「吾人は須らく現代を超越すべし、というわけにはいかんのかね。ここの家みたいに。」
 久慈のこう云うのに突然横から東野は頓狂に笑い出した。
「それや真面目だよ。久慈君、寄附金の箱があそこに下ってるじゃないか。」
「いや、あれは空だ。」
「しかし、横になってるぞ。」
 またどっと四人は笑ったとき、その笑い声の中で久慈だけ誰よりさきに暗い表情に変っていった。
「東野さん、あなたはこの間から、僕ばかりやっつけるが、どうしてそんなに僕が気に食わぬのです。」
 と久慈は東野の方へ向き変って詰問の調子だった。
「それや、君があんまり現代を超越しないからさ。」
「いや、もっと大真面目な話でですよ。」
 なるだけ争いを避けるつもりで云ったにも拘らず、久慈の言葉は強かった。
「冗談じゃない。日本人は誰だって、一度は現代を超越してしまったのが伝統なんだから、僕の云うのが冗談に見えるんだ。」
「それやそうだ。超越してから後の問題が、僕ら日本人の問題だ。」
 と塩野はもう笑わず、心にかかっていた疑点を晴らしたらしい口振りでスープを飲んだ。
「しかし、現実じゃ、僕らはそう無暗と超越するわけにはゆかんですよ。そこが苦しみという奴じゃないか。」
 塩野の方へ向き返った久慈は、一層強い調子になってスプーンを振り振り、
「そうでしょう。日本人の伝統が、かりに現実を超越したものだとしたって、西洋から這入って来たものが超越したものじゃないなら、僕らは知らぬ顔の半兵衛出来ますかね。出来なけれや。どっちもの最小公約数というものは、大切にしなきゃならん。これを大切にせずに、僕ら近代人に何んの誇りがあるというのだ。何んの意義があるというのだ。」
「しかし、最小公約数の単位は一だ。一の質がどこだって違ったらどうする。」
 東野は塩野へ詰めよった久慈の質問を横取りして云った。すると、久慈はもう何もかも忘れたように前のめりになって上気しながら、また東野の方へ向き返った。
「一の違う筈がない。一が違えばここから出て来る抽象性というものは皆違う。それなら世界は成り立たん。一とは自我だ。自我を信用せずに、何をいったい僕ら信用するのだ。」
「君は自我より一の方を信用してるのだよ。もし自我を真に君が信用するなら、日本人という自分を信用するに定っているのだ。ところが君は、日本人を信用したことがない。公約数ばかしを信用して、それが自我だと思っている。そんなら、君の自我はどうしたんだ。君の中の日本人はどうしたのだ。」
「僕は日本人ならこそ一を信用するのだ。一に信頼を置かぬ日本人なんか、日本人じゃない。」
「そんなら、一と一とよせるとなぜ二になるのだ。」
 いつもの東野の癖の突然飛び越した質問に、久慈は彼の顔を見たまま暫く答えることが出来なかったが、にやりと笑うと、
「何んだそれや。」と呟いた。
「何んでもないさ。尋常一年生だって出来ることだ。一と一とよせるとどうして二になるのかというんだよ。二にするものが君の中にあるだろう。その、するものが自我じゃないか。これは一でもなければ二でもない。子供だけは欲しいというものだ。」
「そんなもんいらんよ。」
 馬鹿馬鹿しさに久慈は大きな声を出して笑いながら椅子の後へ反り返った。東野は久慈の大口開いて笑っている顔を見ると、
「何んだ。朝帰りが戸袋蹴ってるみたいな声出すな。」と云って笑った。
「ふん、猫がいくらガラス箱へ爪立てたって、駄目だよ。」
「おい、勘定。」
 塩野はもうその場に耐えかねたらしく財布を出して立ち上った。そして、自分の金だけ払って外へ出ていこうとする後から、
「おい、塩野君、塩野君、一寸待ちなさいよ。」

 と久慈に呼びとめられた。しかし、塩野は、
「ノートル・ダムだよ。後からでも来なさい。」
 と云って戸口から遠ざかった。久慈は自分も勘定を払って真紀子に、
「ノートル・ダムへ行こう。あそこの方が白系よりやいいや。」と云って東野を一人残し塩野の後から出ていった。
「よし、僕も行くぞ。」
 東野も身を起して財布を出した。ロシア人のボーイたちは習い覚えた片言の日本語で、
「サヨウナラ。」
「コンニチハ。」
 と一同の出て行く後姿に向って挨拶した。丁度このとき、通りを来かかった政府の罷業委員が二三の部下をつれて店の前で立ち停った。そして手帳をくっては、命令に従わぬただ一軒のこの家の窓ガラスを見ていてから組合加入の証の張りついているのを認めると、渋りきった顔のまま仕方なく店の前から立ち去った。


 ルクサンブールの公園の中を突きぬけて行くうちにしきりに樹の葉が散って来た。大輪の薔薇を揺っている雀の群れのうえ高く鳶が円を描いていた。並んだ黄色い乳母車から放れた赤ん坊がよちよちした足で雀の後を追っている。久慈は東野との争いもいつの間にか忘れ肩を並べて歩いていた。ゆるやかな芝生のカーブを背にしたベンチで、まだ少年の名残りをとめた青年が美しい女学生の肩を抱き、何事かしきりに弁明をしていた。女学生は不機嫌な顔で足もとの鳩をじっと見詰めたまま返事さえしないのを、しつこく青年は繰り返して娘の心を牽きつけるのに余念がなかった。一見して久慈は、嘘を真事らしく告白している男の表情を見てとった。青年はさもくたびれたという様子でふと横を見て一服してから、また急に思い出した風にとぼけた顔でかき口説き始めた。暫くすると、まんまと娘は男の言葉に乗って身をよせかけ、どちらからともなく二人は一つにより塊った。
「ああ、不幸が一つ増したぞ。」
 久慈は日本語でそう云いながらその前を通りすぎた。
「あれか。」
 塩野は振り返ってベンチを見た。
「なぜあの嘘が分らんのかね。それともあれでいいのかな。」
「分ったら台なしだろ。」と東野は云った。
「そうだ。記念に一つ、写真を撮っといてやりなさいよ。」
 と久慈は塩野の肩をつついて笑った。
「溜らんね、そう勘が早くちゃ。日本人は芝居が下手い筈だよ。」
 塩野は笑いながら繁みの中を、ジョルジュ・サンドの彫像の方へ先に立って近よった。お下げに髪振り分けて肩に垂らしたサンドの前に、小径をへだて、猪首のスタンダアルの横顔の浮彫があった。その二人の像の間で東野は、
「これや、どっちも十九世紀初頭の猛者だったんだが、そんなら僕は一つ俳句を作ろう。」
 と云って真面目に俯向きながら考え込む様子だった。久慈も東野に俳句の手ほどきを習ったこととて、ふと思わず釣り込まれて自分も句作する気が動き、そこに立ち停るのだった。
「俳句なの?」
 真紀子も面白そうにサンドの彫像をあらためて眺めてから、
「この方、別れの曲でショパンとどっかへいらしたあの方でしょう。」
 と東野に訊ねた。
「そうです。そのとき、こっちのスタンダアルはイタリアで領事をやっていたんですよ。」
 東野はスタンダアルの彫像の丁度後ろの方に立っているフロオベルの立像の方へ近よっていくと、科学者のように威めしく跳ねた大きな髯を仰ぎつづけた。

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