旅愁
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著者名:横光利一 

 まだ始ってあまり間もなく、黒い天鵞絨の衣裳を着たマルグリットを中心に、十九世紀風のパリの紳士淑女が華やかなメロディの合唱をつづけている。
 矢代は事実をそのまま小説化したと云われる原作の椿姫では、アルマンが最初にマルグリットの椿姫と話した時は今自分が千鶴子を探しているように、オペラへ来ていながらも、絶えず桟敷から桟敷へと眼を走らせて舞台を少しも見ないマルグリットの描写だったと思った。しかも、椿姫の棲んでいた所もこことはそんなに遠くないアンタン街でそこから彼女はこのオペラへもよく来たのだと思うと、いま現にここにいる自分を思い合せ、瞬間あッと胸中叫びを上げたいようなくるめく動揺を感じるのだった。
 しかし、すぐ次ぎに、アルマンの熱情こめた少し野暮ったいほどの純情な眼で、マルグリットをじっと見詰めている燕尾服の姿が現れた。その姿をひと眼見たとき矢代は、あの獲物を狙う鷹のような露骨な眼つきはとうてい日本人の自分には出来そうもないと思い、外人のピエールなら或いはそれが難なく出来るのかしれぬと想像され、時間の進行につれだんだん千鶴子の身辺が危かしく気遣われて来るのだった。それにこの美しい透明な旋律である。ピエールだってそのままの筈がない。――矢代は次第に迫って来る暗鬱な恐怖に意外な芝居になって来たぞと後悔さえし始めた。
 舞台ではアルマンを中心に手管の巧妙な遊蕩児の伯爵や男爵の酒の飲み振りの場がつづいた。そのとき突然ばったりマルグリットが倒れた。人人が追って来る。それを片手の手巾で追い散らし、ただ一人になったマルグリットの苦しげな傍へ、アルマンが来た。そして、真心こめた日ごろの想いを打ち明け出した。
 矢代はふとそのとき、千鶴子が自分を今夜ここへ呼び出したのは、実はここを自分に見せたく思ったのかもしれぬとそのように思った。すると、ただそれだけのことで場面はまた俄に自分の味方のように明るく見え始めて来るのだった。しかし、もしピエールがそのまま今のアルマンを気取ったら、何事か今ごろはそのような態度に出ていないとも限らないと思った。
「棄て給え、その恋、ああ忘れ給え……」とマルグリットは切なげに歌っている。
 舞台を見ていても何も眼につかぬ自分の空虚さを傍の真紀子が感じているであろうと矢代は思った。そして、今夜のこの意外な苦心は一層増していくばかりだと思うにつれ、これを避ける方法はやはり自分がこうしてここに出て来る他にはなく、また千鶴子もピエールの誘惑を避ける方法は、同様に自分にこの劇を見せる以外、考えつかなかったにちがいないと感じて来るのだった。
「やはりヴェルディの音楽がいいのね。あたし、ナジモヴの椿姫をむかし見たことあるけど、あれも良かったわ。」
 真紀子は幕が降りたときこう云って矢代と桟敷を出た。顔を直したばかりの真紀子の匂いが柱廊の光りの中でよく匂った。矢代は露台の欄干の傍に立って下の広いホールにゆらめく人人を見降ろした。薄汗が首のあたりににじんでいるのを拭きつつ、彼は千鶴子を探してみたが分らなかった。
「椿姫まだ見えないわね。」
 と真紀子も云って下を見降ろした。矢代は真紀子の助太刀に出て来てくれたその気持ちが有り難く、笑いながらもこの調子だと自分も本物のアルマンに今になるのではないかと思って脊を延ばした。
「どうも僕にはあんな歌劇は苦手だな、この方がいいや。」
「でも、いいわ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのに、どうしてるんでしょうね。」
 ふとそういう憂いげな真紀子に矢代は頷きながら、それではやはり真紀子も舞台を見つつ、久慈を想い泛べていたマルグリットの一人だったのかもしれぬと気が附いて云った。
「今度は久慈とまた来ましょう。久慈はハイカラだからこういうのは好きだ。何をしてるのかなア。」
 汗がひいたためか柱廊の大理石の冷たさがひやりと両脇から流れて来た。遊歩廊から下のホールへかけてだんだん集って来たタキシイドやソアレの組が、傘灯の下で囁きかわしながらゆるく旋回をつづけていた。燦爛たるその景観を見ているうちに、泡立つような白い扇のゆらめきや耳飾が、突然一撃して去った東野の今日の言葉を矢代に思い出させた。
「君は過去を見すぎるぞ。」
 しかし、矢代は露台の真紅の絨毯の上に突き立ったままその東野にひとり抗弁している自分を感じた。
「いや、万有流転だ。流転が歴史の原型の相なら、この下が刻刻過去になりつつあるその具体だ。過去を見ずにどうして未来が見られるか。」
 漂い湿っているかすかな嫉妬心の中で、ひょっこりとそんなことを考えている自分に、おや妙なアルマンさまもあるものだなアと、彼は一巡あたりを見廻した。そのとき、二階の遊歩廊から反対の階段をホールの方へ降りて行く人人に混って千鶴子らしい姿がちらりと見えた。
「いるいる。あれだ。」
 と矢代は口まで出かかったが、今はいるところさえ見届ければそれで良いのである。見ればこのまま帰ってしまっても義務だけは果したのだと思うと、そのまま黙ってなお一層視線を千鶴子の方へ強めてみた。水色のソアレに銀色の沓で千鶴子はピエールに腕をよせ、巻き辷るような欄干の軽快な唐草の中を静かに笑みを泛べながら降りていった。矢代はなお真紀子に黙って急がず、千鶴子の降りてゆく反対の階段の方へ真紀子の腕をとって廻った。何んとも云えず豪華な一瞬が豊かな呼吸をし始めたようで、一歩一歩踏み降りる靴の下から煌めく火のような宝石の光りが飛沫を面に打ち上げて来た。
「ここのホールの方が見物席より広いようね。いつ建ったのかしら。」
 真紀子は階段を降りたときあたりを見廻して訊ねた。
「十七世紀。」と矢代は答えると、廻遊している人の流れの中を緊迫した思いで千鶴子の方へ歩いた。千鶴子はまだ彼に気附かぬらしい様子だったが、ときどきピエールと話しながらも二階の歩廊の方を眺めたりしていた。額の広いピエールは身についたタキシイドの上であまり笑顔を見せず、よく光る眼でゆっくりと歩いて来た。肩幅のある中背のがっちりとした姿で、顎を引きつけて人を見る様子はどことなく写真の若いナポレオンの姿に似て見えた。矢代は組み合せた型の廻ってゆくようなこの劇場に少し反感を覚え、また照れ気味にもなって来たが、しかし、もうどちらも出る所へは出てしまっている、今はそのひとときだと思い勇気も出るのだった。
「来たわ。一寸。」
 と真紀子は矢代の腕を引いた。そのとき千鶴子も矢代たちを見つけたらしく軽く笑いながら黙礼した。矢代は憂鬱な気持ちだった。その間も、縮まっていく二人の視線の間を人の流れがちらちらと断ち切ったが、また顕れる千鶴子の顔は見る度びに笑顔を変えた。擦れ違うとき、
「これまアお儀式みたいなものよ。黙って暫く待って下さらない。」
 とこのように千鶴子の視線は物を云いながら、真紀子にだけ彼女は一寸お辞儀をして行きすぎた。ピエールの眼は急に光って二人をじっと見詰めていたが、何事か千鶴子の囁きに頷きつつホールの外の遊歩廊の方へ廻っていった。
「後からついて行きましょうか。」
 真紀子は急にぴったりと矢代に胸をよせかけて訊ねた。
「いや、よしましょう。おかしい。」
「どうして?」
 矢代は千鶴子を見たときからもう安心を感じ、足もゆっくりとなり黙ったままくるりと廻ろうとする真紀子を手もとに引きめぐらせて歩いた。――「ああそは彼の人かうたげの中に一人ありしは。」という第一幕のマルグリットの歌も、ある魅力を帯びて矢代の胸中で水脈を拡げるのだった。行きちがう人の中から、さまざまな香りが漂い移り、耳飾や曳き摺るような銀狐や、垂れ下った真珠、白や黄色、水色などとりどりなソアレの顕れるに随って、矢代は、絢爛無双な時間が今自分の周囲で渦巻きを起しているのだと思った。それは自分と非常にそぐわぬ時の流れのように思われたが、しかしいままさしくグランド・オペラに自分のいることだけは間違いはなさそうだった。
「これが代代の日本の若者の心をそそのかせていって熄まなかったものか。これが人生を波立たす何ものかの一つだったのか。」
 とこう矢代は思うと、今さき出会った千鶴子の視線にもし少しの危機の信号でもあったなら、この絢爛たるオペラも自分にとっては憂悶の種だったにちがいないと思った。銀鼠色の大理石の壁面の傍まで来て二人は再び引き返した。幕間にもう一度千鶴子と会うには遊歩廊は広すぎて駈け足でもするより法はなかった。矢代は千鶴子の後を追おうとする真紀子を一度は前に引きとめてみたものの、今またこうしてその後を追い求めている自分の傍で、とかく真紀子を除け者同様に扱っている自分の心にふと嫌悪を感じた。水に浸ろうとするような立像の美しい彫刻の下まで来たとき、また千鶴子を追うのを思い停り、矢代は真紀子を労わりながら云った。
「ヴェルディはイタリアからパリへ出て来て、ここで椿姫の芝居を見てから、早速このトラビアタを作曲したんだそうですよ。歌劇のことはよく僕は分らないんだが、何んでもベニスで最初やってみて、大失敗をしたって云いますね。」
「ベニスでね。あそこあたし行ったのよ。主人と二人で行ったのだと思っていたら、そうじゃなくってハンガリアの女もちゃんと来ていたの、それもベニスだけじゃないのよ。どこへ行くにも番人みたいに後の汽車か先の汽車で来てるんですもの。あたしだって腹が立つでしょうね。」
 人の流れがそれぞれの桟敷へと動き出した。二人はまた階段を登っていった。矢代は吊り上げるように真紀子を支えねばならぬので、ふと擦れ合う胴の触感から醒める暗黙の危機を感じた。実際こんなに千鶴子にも同様この危機が刻刻襲っているものなら、必ずピエールの鋭い眼が生ま生ましい慾情に変っていることなど自然なことだと、うるさくまた悩みが追って来るのだった。しかも、発火点が擦れ合いつつ再び密房のような桟敷へ這入っていくのである。桟敷には頼めば係りの老婆が鍵までかけてくれるばかりではない。窓には重いカーテンの用意まで出来ていた。
 桟敷へ這入ると室内の真紅の色や鏡が暗怪な色調のまま矢代の皮膚を撫でて来た。彼は真紀子から視線をそらせているものの、ただ二人きりの密房の中の沈黙は重苦しい刺戟を増すばかりだった。これで何事か起らぬ方が不自然だと云いたげな部屋の長いソファも同色の紅いである。真紀子は黙りつづけて窓から舞台の幕を見ていたが、一刻の魔の通過を感じ合う呼吸は、触れば今すぐにも首を落す危い植物のような刹那を二人で持ち合いますます重さを加えていくのだった。それはころりと人の運命の変っていくあのものの弾みの恐るべきひとときだった。そのとき幕がパリの郊外のブウジバルの美しい風景を泛べて上っていった。
 矢代はほッと起き上ったような気楽な気持ちになって舞台を眺めた。
「あそこはブウジバルですよ。僕は行きましたよ。ここから一時間ばかり自動車でかかるところです。」
「あら、そう、行きたいわ。一度つれてって下さらない。」
「行きましよう。こんな美しい村はパリの郊外にはないって、デュウマが椿姫の中で書いてますよ。僕の行ったときには、あのあたりいちめん林檎の花ばかりでしたね。」
 杜から帰って来たらしい猟服のアルマンが一人這入って来た。マルグリットとの完全な愛の生活に彼は嬉しそうで身も軽やかに悦びの唄を歌う。そこへ女中が現れ、アルマンの悦びを打ち砕く第一撃を与え、興奮しながら出て行った彼の後へマルグリットが登場する。まことに隙なく燃焼しつつある二人が全力で美しく愛情を支え合っているときにも、過去が現在の幸福を冷酷無情に顛覆して進んでゆくのである。アルマンの老父が現れて別れをすすめ、哀願に変ると、ついに二人の未来は悲劇へと移っていった。
 別れを頼む老父へ、最初はマルグリットも、「愛してるから駄目。」と強い拒絶の言葉を云う。しかし、真に愛しているなら、「愛してるから駄目。」と、何ぜそのまま押し通して未来を造っていかなかったか。矢代はどこかの桟敷の奥から今もこの光景を見ているにちがいない千鶴子の姿を想像した。
「愛してるから駄目。」
 世の中の不徳の数数を撃ち殺していった椿姫の美しい心が、今みなの心の中に生きているに相違ない。それでもなお心をけがして見ているなら、早くけがしてしまえ。――矢代は今まで嫉妬に苦しめられていた自分に腹立たしくなり、もう後を見ずに帰ろうかとも思った。
「いいわね。」
 真紀子は幕が降りると立って鏡に顔を映し、ひとり桟敷の外へ足早やに出ていった。矢代も後からついて出たが、どういうものか真紀子は露台の端に立って下を見降ろしながらも、さも矢代のいるのが邪魔物のように憎憎しげに黙っていた。少し青ざめた顳□(こめかみ)のあたりに薄く浮き上っている真紀子の静脈の波打つのを矢代はちらりと眺め、思いがけなく不意に足もとから狂って来たこの真紀子の感情の収拾は、これは容易じゃないと思った。しかし、慰めようにも元来がこんな夜に真紀子を誘ったことがすでに失敗だったのであるから、一度は来るに定っている不機嫌だった。下手をするよりこのままそっとしておくに限ると矢代は言葉もなく黙っていた。
「少少疲れましたね。」
 事実矢代は疲れを感じて云ってみたのだが、「そうね。」と真紀子は低く答えただけだった。彼は太い磨きのかかった淡紅色の大理石の円柱に片手をつき、千鶴子の現れるのを探しながらも、傍の真紀子の不機嫌さにホールの美しさも今は溷濁(こんだく)して感じられた。
「あら、あれは高さんだわ。」
 と突然そのとき真紀子は下の遊歩廊の左の方を覗いて云った。酒場の方へ通じる入口の所に、カフェーでよく会う画家の李成栄と、来る船中ダンスの会で真紀子がデッキでよく踊った高有明の二人が立っていた。高は上海の有名な支那銀行の頭取の息子で、東京帝大の経済を出た日本語の巧みな上品な青年だったが、どういうものか船中は一等に乗らず二等にいた。
「一寸行って来ましてよ。」
 真紀子は矢代を一人露台に残して階段を降りていった。李と高は婦人を連れていないためであろう、ホールの中へは出ずいつまでも入口の壁の前に立っていたが、横から真紀子に肩を打たれて驚く高の眼鏡が忽ち笑顔となり、懐しげに握手をした。笑うと顔を赧らめ眼を大きく開いてきらきらと光らせる高の上品な癖を、矢代は露台の上から眺めながら、真紀子の大胆な変化に今さらある恐怖を感じて来るのだった。暫らくして高は真紀子に教えられたものと見え、露台の方の矢代を見上げると一寸手を上げて会釈をした。矢代も一別以来の挨拶を笑顔で返してから、ふと横を見たとき、今まで突いていた自分の片手の汗を中心にぼッと曇った円柱の肌の向うから突然千鶴子の顔が現れた。
「お一人なの。」
「いや、あそこに真紀子さんいるんだけど、どうも不機嫌でね。困った。」
「そうお。失礼したわね。」
 千鶴子は真紀子を見降ろすようにしてから、笑顔も見せずまた矢代の顔をいつもより強い視線でじっと見詰めた。矢代は急に上下の変動の起った多忙さにハンカチを出して額を拭きながら、
「お終いまでいるの?」
 と訊ねた。千鶴子は早速に答えかねた様子で首をかしげた。
「ホテルへお帰りになったら、すぐお電話下さらない。あたし、先だったらいいんだけど。」
「じゃ、君も下さい。」
 と矢代は云った。千鶴子は後ろを振り向いてみてから、
「あのう、ピエールさんに帰る時間お訊きしてみるわ。この次桟敷へ一寸お伺いしてよ。お宜敷くって?」
「どうぞ。」
「どちらかしら?」
「そこです。」
 と矢代はすぐ後の桟敷を指差した。千鶴子は矢代の指差した桟敷のドアの方をよく見届けると、
「あそこね、じゃ、また。」
 と云ってお辞儀をしたが、しかし、そのまま少しくためらう風にまだ立っていてから、もう一度お辞儀をして円柱の向うへ離れていった。もう幕の上る時間に近づいたらしく人人はそれぞれ桟敷の方へ流れていった。矢代はいつもより青ざめた大きな眼のあわただしげな千鶴子の様子を思うと、故もなく動悸が激しくなり、桟敷へ真直ぐに戻る気持ちがしなかった。
 場内では幕が上ったらしい気配だったが、真紀子はまだ戻って来なかった。久し振りで高と会ったのだから彼の桟敷へ一緒に行ったにちがいないが、今は矢代はそれどころではなかった。千鶴子の張りつめたような眼の大きさが一大事の前触れのように頭に泛んで来てとれなかった。もう自分も完全に顛覆してしまっている。――矢代は人の全くいなくなった柱廊のひっそりとした真紅の絨毯の上を歩きながら、何事か深まっていく決意の中に身を沈めようとするような憂鬱な表情に変っていった。桟敷の鍵を持った黒い服の老婆が静かに柱の影から歩いて来た。すると、彼に近づいて来た老婆は鍵を出して、
「これ。要るんですか。」と訊ねた。
「いや。」
 と矢代は云ったが、ふと老婆は千鶴子とピエールの部屋に鍵をかけにいったのではなかろうかと思った。全く迂濶に二人の桟敷の番号を訊き忘れたのを彼は後悔しながら歩廊を歩いているうち、多分このあたりだろうと見当をつけて立ち停った。しかし、勿論、たといそこだと分ったところで中へ侵入するわけにはいかないのである。矢代はまた引き返して来た。森閑としたホールの大理石の間を、金色の欄干が身を翻すようななまめかしさで、自由に嬉嬉としてひとり戯れている。彼はふとチロルで氷河の牙の上から振り向いた千鶴子の奔放な美しさを思い出した。暫くして矢代は自分の桟敷へ這入ってみたが、真紀子はまだ戻っていなかった。彼はソファに凭れて舞台を睨めていてももう何の興味も起らなかった。自分のタキシイドの胸板の白さが広い部屋の中でいやに生き生きと嵩ばって見え、早く終幕も一度にしてしまってほしいと思いながら、彼は欠伸が一つ出るとまたすぐ次ぎに続けて出た。
 舞台は恋愛に破れたアルマンが出て来て賭けをし始めるころから少し面白くなって来た。今にあの賭けで勝った金をマルグリットに投げつけるのだと思う予想が矢代のいら立たしさを慰めてくれるのだった。そこへマルグリットが這入って来た。彼女は別れたアルマンのいるのを見てひどく驚く様子をじっと圧え、一緒に来た男爵の傍に立ったままアルマンの自棄な姿をときどき見た。そのとき急に矢代は後頭部に生ま暖い触りを感じた。何気なく仰ぐと千鶴子が黙ってソファの後ろに立っていた。
「真紀子さんまだ?」
 前に廻った千鶴子はソアレの膝を一寸摘んで矢代の傍に坐った。真紀子と違う香水の匂いが鮮やかな水流を矢代の頭の中に流し込んだ。
「ピエールさん抛っといてもいいの?」
「ええ、そう云って来たの。お友達がいるからって。」
 千鶴子はほッと吐息をもらして部屋の中を眺めていたが、
「真紀子さんどうなすったの?」とまた訊ねた。
「高さんて船の中にいた中国人あったでしょう。ダンスの上手な。――あの人と下で会ったまま戻って来ないんですよ。」
「そう。あたしに怒ってらしって?」
「いや、僕にだ。」
「あたしも怒られるかしらと思ったんだけれど、でもね。」
「まア、少し間違えた。」
 矢代はそう云うと、滅多に出来そうもないと思っていた千鶴子の片腕を歩く時のように自分の腕の中へ巻き込んだ。千鶴子は後ろのドアの方を向いてから顔を矢代の肩へ靠らせたが、また身を起すと足を組み替え一層重くもたれ直したので、首飾の青石がかすかに鳴った。二人は暫くそうしたまま舞台を見ていた。悩むマルグリットの衣裳のうねりにつれて、無数の宝石が全身の上で光りを絶えずきらきらと変えていた。
 矢代はフリーゼをかけた千鶴子の髪を首筋で受けとめながら、自分にも分らぬ深部から鳴り揺れて来る楽しさを感じた。舞台の進行は分っているが、自分らの進行だけは全く未だ分らぬこれからの楽しさばかりだと矢代は思い、ますます後へは退けない責任を感じて千鶴子の重みを支えつづけているのだった。音楽がまたしきりに『貴重な愛』を失ったアルマンの歎きをつづけていった。
「あら、汚れたわ。」
 千鶴子は急に首を上げて矢代の肩に附いた粉白粉を払った。そして、笑いながら、
「御免なさいね。」
 と云うと矢代の手を自分の膝の上に置き両手で揉むように撫でた。矢代は千鶴子が身動きすると一層高まる酔いに似たものを感じた。一つは悲劇に落ちていく切切たる歎きの情緒を湛えた音楽が、二人の中へ嫉妬のように割り込んで来るためもあったが、それにしても今のこの愛情をもし誰かがひき裂いてゆくとしたら、自分もあのアルマンのように乱れ悲しむにちがいないと思い、矢代は支えている千鶴子の耳飾の冷たく首に触れるのもひやりとする切なさだった。
「もういかなくちゃいけないわ。幕よもう。」
 千鶴子は立って鏡の傍へより顔を直しながら矢代に、
「あなた、ほんとにホテルへ帰ったら、お電話して下さいね。」と云った。
 そして、また矢代の横へ来て坐ると、彼の手をもう一度自分の膝へ乗せ、
「いい、行って来ても?」と訊ねた。
「まあ、困るがやむを得ん。」
 矢代はいっかピエールが千鶴子の手に接吻したのはどちらの手だったかしらと、ふとそんなことを考えぴしりと手の甲を一つ打った。
「じゃさようなら。」
 千鶴子が立って出て行こうとしかけたとき矢代は急に呼びとめた。
「悲劇にしないでくれ給え。大丈夫ですか。」
 千鶴子はドアの間へ半ば入れた身体をひねって黙って笑いながら頷いた。矢代は千鶴子がいなくなってから自分も立って鏡に姿を映してみた。なるほど少し肩が崩れているなと思い、ネクタイの歪みを直したり、白い胸板を正したりしながら、とうとう自分も日ごろ軽蔑していた旅愁にやられてしまったと思った。事実、自分に攻めよせて来たのは千鶴子にちがいなかったが、千鶴子も自分もパリに総がかりで攻めよられたことにもまた間違いはなかった。これが日本へ近よって行く度びに一皮ずつ剥げ落ちていくとしたら、実際は、自分たち二人は今は夢を見ているのと同じだと思うのであった。それは考えれば全く恐るべき結果になる。しかし、それも今は考えたって始まらぬ。なるようになって来て、誰がこんなにしたのかも分らなかった。もう自分はこの喜びを喜ぶまでだと、彼はタキシイドを整えた元気な姿でまたソファへ腰を降ろしひとり舞台の悲劇を見つづけた。


 終幕前の休みにはもうホールの観衆は全く興奮していた。遊歩廊を歩く男女の組は身体をぴったりとよせ合い、も早や通る他人の顔どころでなく、それぞれの愛情を誓い合うかのような切なげな眼差しで廻っていた。矢代はこのような光景を露台から見降ろしていると、自分も人人の興奮の中を歩きたくなって来て階段を降りていった。綺羅びやかな紳士淑女の揉みぬかれたソアレの匂いも、自分の匂いのように感じられた。男たちの肩や胸に散っている白い粉の痕跡が眼につく度びに、自然に矢代の手は自分の肩へ廻るのであった。
 しかし、このホールに満ちている人人の中で、恐らく自分ほど喜びを得たものはあるまいと矢代は思った。そう思うと廻遊している満座の陶酔のさまも、ともどもに打ち上げていてくれる華火のように明るく頭上へ降りかかって来る。ソアレの襞襞から煌めく宝石の火も、すべてこれ自分への祝典と思えばたしかにそれもそうだった。
「何んという壮麗さだろう。一生に一度の瞬間だ。」
 矢代は黙って静静とひとり歩いているにも拘らず、両腕はもう花でいっぱいの悸めきに似た感動に満たされ、逆にときどき立ち停っては考え込んだほどだった。
 しかし、ともかく、あの真紀子はいったいどうしたもんだろう。――矢代はあたりを見廻しながら歩いた。前から自分を見詰めていたらしい千鶴子の笑顔が遠い立像の傍からかすかにこちらを見て歯を顕した。一瞬視界がさっと展いたような光線の中で、ピエールが自分に代って千鶴子の腕を支えていてくれた。矢代は今はピエールにも感謝したかった。もし彼がいてくれなかったら、この夜の愉しさも、いつもと変らずただ無事な一夜にすぎなかったろうと思った。
 矢代が桟敷へ戻ってから暫くして、もう幕の上りそうな気配のところへ真紀子が戻って来た。
「御免なさい。ひとり抛っといて。高さんに面白いお話沢山伺ったわ。」
 真紀子は前とは変った上機嫌でにこにこしながら椅子に腰を降ろしたその途端、急にあたりの空気に首を廻ぐらせる風で、
「ウォルトの匂いがするわね。千鶴子さんいらしたんじゃない。」と訊ねた。
「来ました。」と矢代は云った。
「そう。それは良かったわ。」
 真紀子は一寸黙って舞台の方を行儀よく見ていてから、突然矢代の方を向き返った。
「あのね、あたし、終りまでいなくちゃいけないかしら。でも、もういいでしょう。お役目果したんですもの。」
「じゃ、帰りますか。いつでも僕は帰りますよ。」
「あなたはいいでしょう。あたしね、高さんと今夜これから踊りに行くお約束したのよ。丁度時間もこれからだといいんですもの。」
 自分に真紀子の行動を止める権利はないと矢代は思ったが、それでも一緒に来たからは離れて帰るのは気持ちが悪かった。殊に良人から離別して来た養子娘の気ままな真紀子を、高と一緒に踊場へ突き放す危さは、千鶴子とピエールとの危さの程度ではなかった。九分が九分まで先ず中国人の巧みな術中に陥ち入る危険があると見なければならぬ。
「駄目だな、行っちゃ。」
「どうして駄目なの。」
「どうしてって、何んとなく駄目だ。」
「でも、もうお約束したんですもの。」
「じゃ、僕も行こう。」と矢代は云って時計を見た。もう十二時近かった。丁度その時舞台では幕が上り、胃病のマルグリットが明け方の白白した部屋の寝台で眠っていた。真紀子は黙って舞台を見ていたが、
「こんなのもう分ってるわ。あたし、じゃ、行って来てよ。」
 と云って立ち上った。みすみす危いと分っている享楽の中へ、自分のために真紀子を突き落すことは矢代は耐え難かった。彼は真紀子の手首を持って引き据えるように椅子へ腰を降ろさせると、
「やめなさいよ。」と力を込めてまた云ってみた。
「あなた、そんなにあたしが心配なの。自由なんですもの、あたし。」
「それや君の自由かもしれないが、女の自由じゃないな。」
「じゃ、千鶴子さんはどうですの。人格が違うんですか。」
 真紀子は捨科白のように鼻をふくらませてまた立ち上り、矢代の手をぐいと振り放した。
「じゃ僕もお伴しようかな。」
 矢代は真紀子の後からついて出ようとしてドアの傍まで行きがけたとき、突然真紀子は振り返ると、「駄目よ、あなたは。」と云って矢代の肩を突き飛ばした。
 入口は桟敷の方へやや傾斜していたので矢代は後ろへ倒れかかったが、それでもまだしつこく廊下へ出ていった。彼は後を追いながらも、たとい真紀子は危くとも高や李に人格の立派なところのあるのが充分泛んだ容貌から感じられた。むしろ踊りに誘ったのは真紀子の方からに相違ないとも思われ、それなら自分の心配も或は真紀子の楽しみを不自由にしているにすぎぬのかもしれぬと、矢代は後悔さえするのだった。彼は露台の欄干を掴んだまま、足早やにいそいそと階段を降りてゆく真紀子を見降ろしながら、それでも彼女も自分のようにひと夜を楽しく安全に暮してくれるようにと願ってやまなかった。
 真紀子の姿が見えなくなったとき矢代は桟敷へまた戻った。人気のない密房の中でタキシイドの肩からウォルトがひとり生き物のように匂って来た。舞台のトラビアタは今は高潮に達していた。しかし、矢代は胸から吹きのぼって来る楽しみに奏楽の美しささえももうまどろこしかった。殊に肩口の匂いの思い出も真紀子一人を犠牲にした貴い喜びだと思うにつけ、何んとか工夫に工夫をこらせてこの喜びをつづけてゆきたいものだと、子供のように浮き浮きするのだった。
 ついに舞台では椿姫が、「ほら、こんなに脈が打って来た。もう一度これから生き返るのよ。」と云って喜び勇んで死んでいった。そうして、生き残ったものらの悲しみの奏楽の中に美しく長かった幕が降りた。
 矢代はもうこの記念すべき房へは二度と来ることはあるまいと思い、よく桟敷を眺めそれから外へ出た。人人はオペラ座の出口から右角のカフェー・ド・ラ・ぺへ、夜食を食べにぞろりとした姿で雪崩れ込んだ。みなそれぞれ椿姫の生の感動が乗り憑いたまま、蜜を含めた弁のように盛装の中であだっぽく崩れ、次にめいめいの劇に移り代ってゆく放縦な姿態で白い卓布に並ぶのであった。
 矢代はピエールも間もなく千鶴子とここへ現れるであろうと思ったが、約束の電話を思い出すとすぐ自分のホテルへ帰っていった。自分もこれから始る自分の劇を誰より美しくしてみせるぞというように、彼は待ち自動車の中でタキシイドの胸をぴんと映して蝶の歪みを整えた。


 眠静まった通りには灯火がなく岩間の底を渡るような思いで矢代は帰って来た。一軒のカフェーだけから表へ光りが射していた。その柔いだ光りに照し出された売春婦たちは円くテラスに塊って遅い夜食のスープをすすっていた。矢代も空腹を感じたが千鶴子からの電話を待つため、その角を折れ曲ってホテルへ戻った。もうホテルの中も眠静まっていてときどきシャワの水の音がするばかりである。彼はまだ着ていたタキシイドを脱ぎガウンに着替えた。しかし、いつまで待っても電話はかかって来なかった。こんなに電話のないところを見ると、もしかしたら、千鶴子はピエールに誘われて一緒にどこかへ行ってしまったのかもしれぬと、オペラの興奮のまだ醒めぬほとぼりのままだんだん心配が増して来た。まさかあの千鶴子にそのようなことはあるまいと充分信頼はしていても、自分でさえ桟敷で真紀子と向き合っていたときは安全とは云い難かった。葉が茎から落ちるように離点がふと身体のどこかに生じれば、意志では何んともしかねるある断ち切れた刹那が心に起るのである。すると、そこへ電話がかかって来た。
「君いたね。土産を持ってこれから行くから、寝るのは待てよ。良いか。」
 電話は意外にも行方不明を心配していた久慈からだった。幾らか酔いの廻っているらしい久慈に、
「どこにいるのだ。来るのならサンドウィッチを頼むよ。」
 と矢代の云ううちにもう電話は切れてしまった。
 久慈が来るならもう今夜は千鶴子と話も出来ないと思い矢代はバスに湯を入れた。しばらく会わなかった久慈であるのに、何んとなく邪魔な思いのされるほど自分も変ったのであろうかと、矢代は湯をかき廻しつつまだ千鶴子の電話がしきりに待たれるのだった。しかし、湯に浸り、足を延ばして眼を瞑っているうちに、あるあきらめに似た心が頭にのぼって来た。まったく今まで友人の来るのを厭うほど理性に弱りがあったとは思えなかったが、それが今夜のこの変化である。恋愛というものはこういうものなら長つづきする筈はない。矢代はぱちゃぱちゃと湯を浴び頭をシャワの水で冷やして、おもむろに来るべきものを待つ気持ちに立ち還った。
 間もなく久慈が包を小脇にかかえて這入って来た。太い眉の下の眼が怒ったように鋭くなって少しやつれの見える顔に変っている。彼は部屋に這入るとすぐ寝台にどさりと仰向きに寝て大きく両手を拡げた。
「やっぱりここが一番いいや。のんびりとする。」
「どこへ行ってたんだ。」
 矢代が訊ねても久慈は答えようとせず、眼を光らせたまま天井を仰いでいた。ひどく疲れているような彼に矢代は、
「風呂へ這入らないか。」とすすめた。
「うむ、面倒臭いや。」
「這入れよ。」
 矢代はバスを一寸洗い湯を入れ換えてから、また久慈の傍へもどって来て彼のバンドをゆるめた。久慈は矢代に身の世話をさせるのが嬉しいらしく、
「おい、靴。」
 と云ってついでに足も矢代の方へ突出した。
「こ奴、いやに威張ってやがる。土産はいいんだな。」
「ははははは。」
 大声で笑って久慈は起き返ると急に元気よく、上衣を投げ捨て、ズボンを踏み蹴るようにまくし降ろして裸体になった。そのとき丁度電話がかかって来たので、久慈は裸体のままふと手近の受話器を秉(と)った。矢代は久慈に代ろうとしたが、久慈はもう、「ええ、そうです、僕矢代。」と返事をしていた。
「誰からだ。」
 久慈は矢代が訊ねても黙って千鶴子と受け答えしながら、「僕、矢代だよ。」と意地悪く云い張って電話口から放れようとしなかった。矢代はねじれた久慈の脊骨に添って細かく汗の浮き流れているのを眺めながら、ホテルへ安全に帰りついた千鶴子のその報らせに一層久慈の戯れものどかに感じられ暫く受話器を彼に任せておいた。
「君の恋人何んだかしきりに云いわけしとるぞ。さア、代るよ。」
 矢代は久慈に代った。
「僕、矢代。」
「さきほどは――あのね、あたしピエールさんに夜食を御馳走になってたものだから、遅くなってしまったの。久慈さんいけないわ。せかせかしてたもんだから、あなただと思って。」
「久慈がね、今ごろ帰って来たんですよ。どこへ行ってたかまだ白状しないんだが、これから一つ、虐めようというところなんです。」
「真紀子さんは?」
「あの人、とうとう高さんと踊りに行っちまった。帰りは僕一人でね。」
「じゃ、まだなの。」
「まだです。きっと遅くなるでしょう。」
「心配ね。あたし、お礼に行かなくちゃと思うんですけど、どうしたらいいかしら。」
「いや、その御心配はいらないと思いますね。」
「何の御心配だ。」と久慈はバスの中から矢代に云った。
 電話で話をするにも背後の久慈に気がねするだけの落ち着きを、今は矢代も取り返していた。
「久慈が何だか呶鳴ってますから、今夜はもう御ゆっくりお眠みなさいよ。」
「じゃ、お眠みなさい。また明日ね。」
「さようなら。」
 矢代は話が切れても何んとなく千鶴子がまだそのままいそうに思われたので、
「良ろしいか、切りますよ。」と云ってみたがもう電話は切れていた。
 矢代は拍子脱けのしたような気持ちで久慈がバスの中で湯の音をさせている間、椅子によりかかっていた。丁度腰から上が鏡に映るような配置の椅子のために動かずとも顔がよく見えた。彼はその夜のオペラでの出来事を久慈に云ってしまおうかと考えたが、しかし、前から恋愛というものをそんなに高く価値づけることの出来ない性質の自分だと思った。その自分があのような情緒に浸った結果を臆面もなく報告することは、まだ当分の間ひかえた方が良いとも思うのだった。
 矢代は鏡に映った自分の顔を眺めながら、さも安心しきったようなほくほくとしているその顔のどこに価いがあるのか分らなかった。しかし、とにかく、理性で讃美しかねる事柄に屈服してしまった女女しい顔の喜び勇んだ有様は、ある勇敢な野獣の美しささえ頬に湛えているので、われながらあっばれ討死したものだと一層後悔もなくのんびりとして来て、ある憎憎しさもまた同時に自分の顔から感じるのだった。
 それにしてもどうしてまたこんな風になったものだろう。事件というのは、ただ自分が千鶴子の腕を自分の腕の中にほんの暫く巻き込んだだけではないか。
 矢代は自分のこれまで習得した幾分の科学も歴史も哲学も、いったい何んだったのだと、突然このとき疑い出した。まったく、頭のどこかに昨日までなかったある一種の生理的な変動が生じたというだけのことで、こんなに一切の学問らしいものが無力に見えてしまうということは、これはただごとの筈はない。もしもこれが失恋に変ったならばなおさらだった。しかも、この危く脆い心をそれぞれ持ち廻って動いてやまぬのが人の世界だと思うと、ここに火を噴き上げている恐るべき火口があるぞと、今さら迫っている噴煙の景観を望む思いで矢代はまた倦かず鏡の顔を注視した。彼は今夜は一晩ゆっくり考えたいと思った。しかし、もうすぐ久慈は湯から上って来るだろう。そうしたらまた議論だ。人間の過去、現在、未来。――もう沢山だと思っても他人は揺り動かしてゆくだろう。


 久慈は湯から上って来ると矢代の洋服棚をあけ、勝手に寝衣をひっかけて寝台の上へ坐り込み、土産の包の中からジョニウォーカーとサンドウィッチ、それからパンを沢山取り出した。
「ウィスキーは幾ら飲んでもいいが、パンだけはあんまり食っちゃ困るぞ。明日からパリの食い物屋みな一斉にストライキだから、買い込んで来たんだ。」
 久慈は自分が先ず一杯ウィスキーを飲んでから矢代についだ。寝台の上にさし向いで吸取紙を茶餉台代りにしているので、誰か身体を動かす度びにコップが揺れるから、手からコップを放すことが出来ない。それでも二人は久し振りのさし向いで楽しかった。
「明日からは飯も食えなくなるのかね。花のパリもいよいよ餓鬼のパリか。」
 矢代はそう云いつついよいよ自分も地獄か天国か分らぬ恋愛の世界へ入り浸っていくのだと思った。それもも早や避けられぬ、もし千鶴子が何んの理由もなく久慈を殺せと云えば、極端に考えれば、自分はこの親しい久慈さえ殺しかねない陶酔した無茶苦茶な世界である。
「今日は面白いところを見たよ。クリニヤンで老人の新聞売子が右翼の新聞を売ってたのだ。そうすると、左翼の委員が三四人馳けて来て、右翼の新聞を労働者のくせに売るとはけしからんと云うので、ひったくって皆破いちゃったのだ。そうしたところが、老人は両手を拡げて、自分は毎日こうしてこれを売って飯を食ってるんだが、品物を破られちゃもう今日は飯が食えん。どうしてくれるんだと云って、わなわな慄えて泣くんだよ。左翼の委員ら困っちゃってね。ああ、そうか、それは悪かった。じゃ、これを売れってんで、今度は左翼の新しい新聞を沢山買い込んで老人に持たしてやると、老人は何んだってかまやしない品物さえあれやいいんだから、またほくほくして街へ出て行ったよ。しかし、僕は見ていて、破いただけの新聞をまた自分の金を出して買い直してやったところが、フランスだと思って感服したね。思想の裏にも人間がちゃんと立派にいるんだからな。」
 久慈の云うのに矢代は、「うむ。うむ。」と云って一寸また考え込んだ。彼は思想の裏にも人間がいるという久慈の成長した解釈に対し特に気をとめて頷いたのだった。自分も今は固い不実な思想と同様に人間を殺す恋愛に落ち込んでしまっている。しかし、思想も恋愛も人間を殺すものなら、殺さぬものはいったい何んだ。
「科学主義者もしばらく見えぬ間に、人間派に戻って来たな。まア無事を祝おう。」
 矢代は久慈にウィスキーを瀝(つ)ぎながらまだ自分の変化を胸底深く包み隠そうとするのだった。
「とにかく工場がもう今日で四百も閉塞してしまったからな、これで全世界に拡がっちゃストライキだけで済まないや。世界中の知識階級、真ッ二つに割れてしまう。それならどこもかしこも戦争だ。」と久慈は云った。
「真理、真理とお題目ばかりとなえたものだから、とうとう何もかも真理になって来たのだ。」
 久慈は寝台から降りると服のポケットからラ・フレーシュという新聞を取り出して来て拡げてみせた。その一面には大きくフランスの地図が書いてあって、赤化した県とまだそのままの県とを朱と白とで色別けがしてあった。丁度豹の皮の敷物のような形のフランスの地図のうち、白い部分は両手のあたりと尾の少し上の方に小さな斑点とが残っているだけで、後は全部頭から胴を貫き朱の色に染って燃えていた。その下に議席の図もあったが、左方の人民戦線の議席五十六に対して右翼と中間併せて四十四よりなかった。
「これで一日に二千万円近くの金が、外国銀行へ電話一本で逃げ出し始めたそうだからね。儲ける国は棚からぼた餅でほくほくものだろう。為替(かわせ)管理がどうのこうのと云ったところで、何んともならぬらしい。」
 経済に明るい久慈の云うことであるから矢代もあまり疑問を挟まなかったが、一日に二千万円近くの金の流出なら戦争以上の経済の惨苦だと思った。日本とは違い、さア事だとなってこんなに容易く自分の国の金銭を外国銀行へ移せるものなら、国内の赤化の勢いは一層銀行をより固めしめ、ついには逆に銀行から民衆を焼く火を噴き出す結果になる懼れさえ感じられた。矢代は外国へ来て以来金銭の運行には前よりはるかに敏感になったが、まだこちらの街頭で煙草を売っている無知な老婆より、はるかに日日の金の差額には鈍感な自分を識った。それも自分ばかりではない。日本内地の多くの人間はその点ほとんど自分よりも無関心だった。殊に東洋のことをふと思うにつけ、通貨の支配力を握っているイギリスの金力が、地球の表面にどのような姿で投資され、その余力をかってどんなにわれわれが動かされているかということさえも、むしろ知らぬことを高貴な態度と思い信じているがごとき知識人の多い原因には、一つは金銭には我関せずと思う伝統の所作もあるにちがいないと矢代は思った。
「中国との戦争の噂はばったり二、三日で熄まったじゃないか。やはりあれは嘘だったんかね。」
 と矢代は訊ねた。
「何んでもあれは、陳済棠と李宗仁が広東で戦争をしたのを、日本と中国との戦争だと早合点したらしいんだが、戦争のニュースの出た夜、サン・ミシェルの支那飯店で日本人が一人ひどい目にあってるね。」
「そう云えば、僕らの行った夜も沖さんは危かったよ。あの人は演説が好きなんだ。あれは社長の癖が我知らず出てしまって、何か事あるときは日本人を代表しなくちゃならん、と思い込むのが趣味なんだね。船の中でもあの人さかんにやったからな。」
 こういう話をしながらも、矢代は今夜真紀子と踊りに行った中国人の高有明の表情は、船中のいつもと変らずなごやかな信頼の情を顕していたのを思うと、時が時であるだけに、まだ通じ合う何ものかも失われず残っているのを感じ、思いがけない灯火を見たように真紀子の帰りの話を待ち受けるのだった。
「云うのを忘れたが、今夜オペラへ真紀子さんと行ったのだよ。そうしたところが下のホールに高さんという中国人ね、ほら、船の中で二等にいたダンスの上手い中国人がいたじゃないか。あの人と会ったんだよ。真紀子さん、ダンスの味を思い出したと見えて、高さんと踊りに行っちゃってまだ帰って来ないんだ。」
 怒り出すかと思っていた久慈は、大きな欠伸をしかかっていたのも急にやめて笑い出した 
「それじゃ、理窟に合わんじゃないか。」
「どういう理窟だ。」
「僕たちとまだ一度も踊りに行かんじゃないか。そうだ。あの人と踊りに行くの忘れてた。」
 真紀子に久慈は関心があるのかないのか矢代には分り難かったが、これで室に這入るなり真紀子のことを訊ねそうだとも思われたのを、そのまま久慈から云い出すのを今まで矢代は黙ってひかえていたのだった。見ていると、久慈は真紀子を高につれ出されたことをさも残念無念と云いたげな顔にも拘らず、内心それも表情でおどけて見せ矢代の観察を眩まそうとの謀みと受けとれぬこともなかった。
「真紀子さんを僕はひき留めたのは留めたんだが、留める僕の肩を突き飛ばして行っちゃったんだ。久慈さんもいらっしゃれば良かったのにって、残念そうにオペラで云ってたから、行方不明の君にも責任はあるね。」
「あの人は飛び出す名人だったからな。気骨の折れるお方だよ。」
 三日の間どこへ行ってたものか一向口を割らぬ久慈に、矢代も強いて訊ねる気も起らなかったが、そのうちに久慈は寝台の毛布を払って横になると、つづいた睡眠の不足と見えてすぐ瞼をとろりと落して起きて来なかった。


 朝になって矢代は久慈よりも先に眼を醒した。横でよく眠っている久慈を起さず顔を洗ってから真紀子が前夜帰っているかどうかを見たくなって部屋へ行ってみたが、まだ鍵が降りていた。帰っているらしいことは確かだった。矢代はホテルを出ると近くのルクサンブールの方へ歩き、公園の入口の自働電話で千鶴子に居所を報らせてからひとり鉄柵の中へ這入っていった。
 夜半に雨でもあったと見え幹の濡れた樹樹から滴りが重く落ちて来た。一人も人のまだいない園内の路の上に白く点点と羽毛が散っていて、踏む砂からじっとりと水が滲み出た。
 爽爽しい空気だった。矢代はベンチの鉄に溜っている露を拭いて腰を降ろした。朝の日光が斑点を泛べている芝生の上を鳩が葉先を胸で割りつつ歩いて来る。いつも見馴れた風景であるが矢代はここの平凡さが好きだった。特に心を奪うような樹を排してあるのも一服の煙草の味を美味にした。彼は千鶴子の来る東門の方の楡の繁みをときどき見た。
 折り畳まれた細い鉄製の椅子が繁みの影に束ねてある。柴のように見えるその椅子の束の間から千鶴子が黒い服で近よって来た。下枝を払った樹樹の梢の張りわたった葉の色に染り、薄化粧をした千鶴子の顔も少し青ざめていたが、一株の薔薇の見える小径をおもはゆげに笑い、横を向きつつも千鶴子の足はだんだん早くなって来た。
「昨夜はよくお眠みになれて?」
「少し早く眼が醒めすぎた。久慈はまだ寝てるんです。」
 千鶴子は矢代の横へ腰かけ、よたよた身を振る鳩の歩みを眺めながら、
「ゆうべピエールさんよく御覧になって。何んだかお年寄に見える方でしよう。」
「そうでもないな。美しい良い感じの人でしたね。なかなか似合ってた。」
 千鶴子は矢代の膝を打とうとしたが、ふとその手を止めて彼の方を向き返ると、
「あなただってなかなかお似合いだったわ。憎らしいほど、あれよ。」
 顔を染める千鶴子を見るのは矢代にはまったく珍しいことだった。ドイツへ自分の逃げる前ここの公園のベンチで幾度こんなにして千鶴子と話したか分らない。もう彼女と会うことはあるまいと思い、またこの上会ってはならぬと思って逃げていったも同様な自分だったのに、それに今は人目のない朝のこの場所を選ぶようになってしまったことは、変れば変る状態だと矢代は思った。彼は千鶴子とこうしてただ並んでいるだけですでに身体が溶け合い、皮膚の隅から隅、内臓までも一つの連係をもって自由に伸縮している貝のように感じられた。
「もう君の考えることも僕の考えることも同じだ。どうしてくれる。」
 口へは出さず矢代は芝生に落ちている日光の斑点を眺めながら、さも楽しみ深そうに煙草を吹かした。昨夜見た椿姫では第二幕目のブウジバルでアルマンは丁度今の自分のように幸福そうであったが、すぐ悲劇が十分後に起って来ていた。矢代は日本にいる千鶴子の家の人人のことをまだ少しも知らぬ自分だと思い、悲劇が起るならそこからだとふと思ったが、しかし、それも起ったところでもっと今より後のことだった。
「ホテルへはもう一度お帰りになるの。」
「あ、そうだ。」矢代は身を起して云った。
「今日はどこもパンを売らないそうですよ。ほんとうかどうか、これから見て来てやろうじゃないですか。お腹が空いたし。」
「もうそんなになったのかしら。」
「なってるらしいんだが、案外見たところは静かですね。」
 近よって来た見馴れた鳩の指が芝生の露に洗われうす紅い菠薐草(ほうれんそう)の茎の色だった。雀も濡れたまま千鶴子の沓先で毬のように弾み上っていた。
 二人はベンチを立ってまた園内を廻った。山査子の花の咲いていたころ矢代は無我夢中にこの森の中を歩き、息切れを感じるほど強く千鶴子に牽かれたある瞬間を、ふと今も踏み応える砂から感じとった。よくもあのとき千鶴子を振り切ってパリをひとり旅立つことが出来たものだと、矢代はある疲れに似た思いで追想しながら、あのころよりも一層濃くなった緑の色のむらむらと打ち重なった樹幹を眼で選り分け、日光の射し込んだ花壇の方へ千鶴子を誘っていくのだった。
「旅行をしていると、流れてゆくままにも自然に心に巣が出来てくるものですが、僕はこのルクサンブールがいつの間にか巣になってしまった。僕はここで暮したようなものだな。」
 葵の花を廻りながら矢代は自分の得たものは結局何一つなかったと思い、これから日本へ帰っても依然として旅の心はつづいてやまぬにちがいないと思った。
「あたし、あなたにここでいろいろな事を教えていただいたわ。でも、もうじきお別れしなきゃならないんですのね。」
 千鶴子は矢代も当然二人の別れる日の迫っていることを感じているらしい風情で、葵の真直ぐな茎に手をあてながら云った。そうだ、やっぱり千鶴子とは別れなければならぬのだと、矢代は胸に一条の刃を入れられたように慄然として黙った。もう悲劇が自分にも来たのであろうか。彼は朝の日光が白みわたるほどぼんやり心の弛むのを感じる。その後から後から追い襲って来る激しい胸の疼きを食い殺すように俯向いて歩いた。何か千鶴子は自分に分らぬ事情で結婚の意志を退けているのに相違ないと矢代は思い、自分から思い切って千鶴子にそれを云ったならと、そのようにも考えたが、しかし、昨日まで自分は結婚のことだけは云い出しもせず忍耐することが出来ていたのに、今この忍耐を破るとは何としても情けない気持ちだった。
「ロンドンのお兄さんから、何かお便りあったんですか。」
 矢代はようやく思いあたるところを感じて訊ねた。
 千鶴子は、「ええ。」と低く答えたまま、暫く重く黙っていてからまた云い澱む風に云った。
「兄さんもう日本へ帰るんですの。あたしの来るときもう帰るんだったんですのよ。でも、少し延びたと云って来たものですから、急いであたし来てしまいましたの。まだお話しなかったかしら、あたし。」
「ロンドンにいらっしゃる事だけは聞いていましたが。帰られれば千鶴子さん、どなたかと結婚なさるんでしょうね。」
 もう一番の訊きたいことを訊くことが、何んの不思議もない日常の会話のように見える様子で矢代は訊ねた。
「それもあるんですの。困るの。ほんとに。」
 葵の花が薔薇に移り変る切れ目の所で、弁の縮れた模様を検べるような首垂れた千鶴子の細い眉が、花明りに照り映えたあきらめの静かな線を描いていた。矢代は予想が一つずつ的中してゆく恐れと同時に、千鶴子のその静かなあきらめが物足らなくなり、抑え難い暴力に似た力の湧きのぼるのを感じた。
「あなたはどうしてもその人と結婚しなきゃいけないんですか。」
 矢代はふとこう問いつめたくなったが、そう云えばもう二人はお終いの頂きに出ることだと気がついた。彼は出かかった呼吸もひきとめまた暫く花壇の中を無言で歩いていたが、しかし、自分は自分の愛情だけは疑えない、これが嘘だといえる筈がないと思い直すのであった。
「さあ、御飯を食べに行きましょう。」
 矢代は千鶴子を東門の方へ誘って公園を出てゆくと、今さきまでの狂い立つような気持ちを捨てリラの方へ歩いていった。しかし、歩くにつれて、もう別れねばならぬと思ううす冷い覚悟が視野の全面に漲って来て、立ち並んだマロニエの並木の黒い幹も、これも心に爪を立てられた思い出の一つになるのだと矢代は思い沈むのであった。


 リラまで矢代たちの来たとき、リラは戸を閉めて全部の椅子が片附けてしまってあった。二人はそこから行きつけの食事場へ行ってみたが、その店も入口はみな閉っていて、テラスの椅子もテーブルの上に足を仰向けて並んでいた。矢代はまだ店が始らぬのかと初めは思ったが、見ていると通りから見える所の入口の向うで、いつも矢代の卓へサーヴィスに出て来たボーイ頭が支配人に立ち向い、何事かいどみかかるような興奮した姿で話していた。ぴったり閉じられたガラスの中なので話は聞えなかったが、電気の消えた店内の暗さを背景にしているため、漸く通りの明るみを受けた支配人とボーイ三四人の顔が、水族館の中の鮫のように物物しく映って見えた。ときどき穏やかな顔に弛んだり、また抗弁したりするボーイの後ろに、詰めよっている他の三人の服も海底の動かぬ昆布に似て見えた。頭の鉢の開いた支配人は矢代の傍へいつもよく来て、どうですこの料理の味は? と優しく訊ねたりしたことがあったが、今は両手を拡げたり縮めたりして、ボーイを鎮めることにひたすらこれ努めている最中だった。
「これや、この様子だと今日一日の辛抱じゃ駄目だな。」
 矢代はこう云いつつ通りに立って両側に続いているレストランやカフェーを見廻したが、どこもかしこもガラス戸を閉め降ろし、一人の客も入れていなかった。食事にあちこちとうろつき廻る度びに、どこでも拒絶されて来たらしい旅客たちは、ただ街を流れ歩いているだけだった。新しく食事に来たものらも事の真相を知るに及ぶと、通りで寄り塊ったまま、誰もひそかに薄笑いをもらして去ろうとはしなかった。そこへ罷業を奨励している政府の委員たちが、命令のまま確実に罷業が行われているかどうかを検べるために、巡視の自動車で街街を馳けて来ては、威勢よく、
「フロン・ポピュレール。」(人民戦線)
 と叫ぶと固めた拳を人人の前で高く上げるのだった。それはガラス戸の中の罷業側に声援を与えるらしい声だったが、食事に困ってうろついていたものたちも、退屈まぎれにそれに和し拳を上げるものも多かった。
 矢代は千鶴子と一緒にまた街を歩いていくに随い、食事場だけとは限らず、少し大きな商店はどこも店を閉めていて、どの入口のところにも店員の通いを喰いとめる罷業委員が張番をしていた。
「いよいよ波をかぶって来ましたな。」と矢代は云って千鶴子を見て笑った。
 通りの店店が網目になった鉄柵の大戸を閉め降ろしているので、街は牢に入れられた囚人のように見え、灯を消されたショウウィンドウのハンドバッグや化粧品などの商品類も、手錠を嵌められて俯向いている女に似ていた。矢代は変れば変るものだと思い鉄柵の格子の外からそれらを覗いていると、
「どうなるんでしょう。あたしたち。」と彼を見上げておどおどした視線で相談する風情に見えた。
「とにかく、コーヒー一杯も飲めないとなると、考えなくちゃならんね。」
 もう間もなく千鶴子と別れなければならぬと考えることで、さきからかなり気力の疲れている矢代は、金銭は先ず持っていても餓えを満すに足りないというこの大都会の変動のさまも、亦多少は考えねばならなかった。
「こんなことが長くつづけばどうなるんでしょう。どこもかしこもこんなになるのかしら。」
 千鶴子の問いに矢代は、「さア。」と云ったまま黙った。そして彼は、自分と君とも今はこれに似たような分らぬ淋しさに襲われているときだと思った。たとい日本へ帰ればまた会うことも出来るとはいえ、帰れば恐らく誰でも放れ散ってゆくようにどちらも会う気持はなくなってしまうにちがいない。――
 矢代はせめてどこかで腰を降ろして休みたいと思い、通りをどこまでも真直ぐに歩いていってみたが、カフェーというカフェーは皆戸を降ろしていた。もうこんなにコーヒーさえ飲めないのかと思うと、彼は飲ます家のあるまで探したくなり、また、もうそれではこの千鶴子とも別れてしまい、二度と会うこともないのかと思うと、それならそのように覚悟を定めねばならぬと考えたが、しかし、それにしてもこの調子だと自分はもう何をするか分らない。もうこれだけはと思いつつ、あがき進む馬のように彼は自分の轡(くつわ)を噛み破ろうとするのだった。


 セーヌ河を渡ったところにチュイレリイの宮殿の跡があった。矢代は篠懸の樹を下にめぐらせた城壁の上にのぼり、千鶴子と並んで河を見降ろした。この観台から真下のセーヌの両岸を眺めたとき、河そのものの石の側壁がすでに壮麗な一つの建築物だった。それはちょうど科学の粋を尽した白い戦艦が一望のもとに並び下ったかと見える堂堂たる景観だった。
「この眺めはどうです。ナポレオンの皇妃のジョセフィヌはここの宮殿にいたのですが、河がいかにも武装を整えた大兵団の守備兵のように見えますね。ナポレオンはベルサイユの近くのサンクルウの宮殿から、政務に疲れるとここまで馬車で会いに来たのだそうですよ。」
 英雄の情事にしたって凡人のと別に変りはあるまいと思い、矢代はそんなに云ったのだったが、悲しみあるとはいえ、ふと今自分はそれと劣らぬ愉楽の頂きへかけ昇ろうとしている真っ只中にいるのだと思った。
「でも、サンクルウからだと随分遠いのね。どうして奥さんと放れて生活していたのかしら。」
「さア、そこはどういうものかな。どちらも放れて生活していると、会うということが休息になるんでしょう。」
 あながちナポレオンのことでなくとも、まもなく千鶴子とも別れねばならぬとすれば、想いを殺してこのままに別れるのも、あるいは今のこの歓びをともに生き永らえる生活の美しさとなるのかもしれぬと、矢代はまたそのように思い直し、ひと時の旅路をふり返る余裕も出来て来るのだった。
「ここはパリじゃ一番美しいところだったんだけれど、もうナポレオンもジョセフィヌもいやしない。今ここにいるのはたった二人きりなんだから、まアとにかく、不思議なこれは一つの事実みたいなものだ。」
 こう云って矢代は千鶴子の顔に流れた光線の綾に微笑を投げかけ、過ぎゆくあたりの風景の何んと静かな眺めであろうと、緑の樹の間に煌めいている噴水の輪に視線を移した。
「ジョセフィヌさん、こんなにして毎日ここから眺めていらしたのかしら。でも、そのときもこうだったんでしょうねきっと。あの河の胴の長長としているところ、象牙で出来た河みたいだわ。美しいのね。」
 千鶴子は左方に真近く見えるノートル・ダムを眺め、また下流にうねる河水の緊密した容積のどっしりとした明るい水面を見降ろした。すぐ観台の真下にコンコルドの広場がある。矢代は自分の好きなその広場を今まで忘れていたのを思うと、いつもより千鶴子に心を奪われていた自分の失念のさまもまた思われるのであった。
「あなたはベルサイユの宮殿で、アントワネットの寝室御覧になったでしょう。あの部屋からここのこの広場まで引き摺って来られて、ここでアントワネットが断頭台に乗せられたんですから、すぐその後の皇妃のジョセフィヌにしたって、こんなに暢気な気持ちじゃこの河を見てられなかったんですよ。それに今日みたいにコーヒーも飲めないなんて日だったら、昔ならここでもう今ごろは、断頭台が押すな押すなの賑いだ。」
 日光をはね返している壮大な広場の中では、数十本の噴水がソーダ水の漂い溢れるような清らかさだった。矢代は観台から降りて下の絵画館へ休みに這入った。そこは百畳敷ほどの楕円形の部屋でモネー館と云われている。周囲の壁には全面を余さず円形に沼に浮かんだ睡蓮の絵が満ちていた。一人の人もいない森閑としたその部屋の中央に、ただ一つ褐色の革張りの小さなベンチが置いてある。
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