旅愁
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著者名:横光利一 

「幼稚だよ君のは、そんなものなんか、ここで威張ってみたって、いったいこのパリで誰が真似してる。」
「真似の出来る奴が、誰がいるのだ。」
「こ奴。」と云うと、久慈は矢代の首を揺り動かした。
「真似の出来ん品物を売り出して、成功したためしがあったか、真似さしてこそ豪いんじゃないか。」
「じゃ、君は何んの真似してるんだ。」矢代はまた詰めよって云った。
「僕は世界の真似をしてみせてやってるだけだ。真似一つ出来ずに威張ったところで、それや、真似が出来んということだよ。」
「いつまでの猿真似だ。」
 と矢代は云うと久慈から身体を放そうとした。
「真似出来んものなら出来るまで一度してみろ。それが修業というものだ。僕らがここのこの坂をせっせとこうして登っているのは、何んのためだ。君は真似も一つして見ずに、この急な坂が登れると思うのか。ふん、ここは胸突き坂だぞ。それも世界の胸突き坂だ。もっと胸を突かれて修業しろ、しろ。チロルでいったい何を君はしてたのだ。」
 と久慈は云うと今度は矢代の身体をぐんと突いた。矢代は石壁によろけかかった身体を片手で跳ね返しながら、
「君は歴史という人間の苦しみを知らんのだ。日本人が日本人の苦しさから逃げられるか。逃げるなら逃げてみろ。」
 抜刀するような勢いで放れて行こうとする久慈の身体に矢代が再びぶつかって行こうとしたとき、後から登って来た東野は二人を引いた。
「おい、一寸、やってるよ。」
 久慈と矢代は振り返って東野の顔を見た。その間にも、大掃除のときの畳を叩くような機関銃らしい連音が少し籠り気味に、遠くの方から鮮やかに聞えて来た。まさかと思っていたこととて暫くぼんやりしながら耳を立てていた久慈は、その音からふと東京の郊外の書斎で深夜よく聞き馴れた練兵の機関銃の音を思い起した。すると、一瞬奇妙な生ま生ましさで自分の部屋や机が眼に浮んだ。
「やっとるなア。」と矢代は瓦斯灯の光りの中を貫いて来る音の方を見詰めて云った。
 三人はまた並んで坂を登っていったが、もう誰も物いうものはなかった。空気を弾く明快な単音は暫くつづいてからぴたりと停った。森閑となった坂を入り交った三人の影が長く打ち合いつつ、前後に剣のような鋭さで折れ変っていった。石畳の上を水の流れ下って来ているあの小路を曲った瓦斯灯の下まで来たとき、真黒な服装の女が誰かを待つ様子で一人じっと立っていた。その傍を通り抜けてから間もなく久慈は後ろを振り返って見た。鳥打の黒いジャケツを着た男が膝で女の腰を一蹴り蹴って上りの額を受けとると、また疲れたように黙黙と二人並んで坂を下っていった。


 剃刀をあて終え眠りたりた気持ちで久慈はカラアを取り替えた。通りをへだてた前の、建築学校の石の屋根の上に一面生えている草の中で、垂直に立ち連った菖蒲の花が真盛りである。久慈は沼の岸べを見る思いで菖蒲の上の水色の空を眺めていると、教師の眼を逃がれて来た生徒たちらしい、散兵のように一人ずつその雑草の中を這い登って来て、日当りの良い位置をそれぞれ選んでひっくり返った。遊ぶ閑の少しもない厳格さで有名な学校であるだけに、屋根の上で生徒たちの忍ぶ散兵も見ていると滑稽な景色だった。あるものは早朝から夜中の二時三時まで学校から帰らず、机に獅噛みついて製図や計算に勉めている姿を久慈は毎夜眺めていた。
 そのとき、ノックがしたので久慈は戸を開けると珍しく千鶴子が憂いげな顔で立っていた。久慈はネクタイを締めつつ千鶴子に椅子をすすめた。
「お珍らしいな。旅行は案外早かったようですね。」
 自分が早く帰れと矢代に手紙を出したのを久慈は思い出したが、まさか手紙のままそんなに早くなろうとは思わなかっただけに、久慈とて千鶴子と矢代の早い帰りが先日からの疑問だった。
「でも面白かったわ。チロルはあたし忘れられない。ほんとにいい所よ。」
 千鶴子は前の建築学校の屋根をうっとりとした眼で見ているうちに、
「あら、あんなとこで日向ぼっこしてるわ。」
 と急に面白そうに笑った。
「フランスは田舎のどこへ行っても雑草というのがないからな。屋根の上へ雑草を植えてそこを野原にしょうという趣向なんだ。これだけ日本と違うんだから、どうも僕らは追っつけたものじゃない。」
 久慈は洋服を着替えてしまうと寝台に腰かけ、さて今日はこれからどこへ行こうかと考えた。
「へんな国ね、フランスって。」
「へんなことはないさ。終いにはどこだってこうなるんだから、まア登り詰めた超現実主義はこういうものだと思えば、何もかも面白い。矢代はあれは、面白さを理解しようとしないんだからな。あれもまたどうしてあんなに、殺風景な男になっちまったものだろう。」
「そうかしら。」
 千鶴子は不平げに低く云ってまたぼんやりと屋根の上の花菖蒲を見つづけた。
「そうかしらでもなかろう。悪ければまアお赦しを願うが、――どうしてまた君は矢代を動かさないんです。チロルまで後を追っていって、結婚の準備一つもして来なかったなんて、何んだ、他愛もない。」
 ずけずけと久慈の云うのに千鶴子はもう心を動かされることもなく眼を細めたきり黙っていた。
「僕は君さえ介意(かま)わないならいくらだって骨折るけれども、どっちも何も云わないのだから、押してみようがない。一人でああかな、こうかなと思ってみているだけで、一番馬鹿を見るのはどうも僕のような気がするんですよ。え、どうなんです、いったい?」
「あたしも分んないわ。そんなこと。」
 と千鶴子は張りのない小さな声で云うとかすかに笑った。心の底に低迷している愛情のほッと洩れこぼれたようなその千鶴子の微笑を、久慈はなかなか美しい表情だと思った。
「しかし君、どっちも好意をそんなに持ち合っているくせに、どっちも隠しているというのは無意味だと思うね。それともまだそんな風に物静かにしている方が楽しみが多いというのならこれや別だが、そういう風流なお二人とも見えないや。」
 千鶴子は椅子の背に腕を廻し振り返ると、
「何んだかお一人で騒いでいらっしゃるのね、面白い方だわ、あなた。」と久慈を薄眼で見上げて笑った。
「とにかく君たちは、僕とは恐ろしく趣味の反対な人たちだよ、古典派というのかね。お行儀はいいよ。」
 窓の外へ乗り出すように欄干の鉄の蔓を掴んで久慈は下の通りを覗いた。太い足の爪の附け根に毛の生えた白い馬が車を曳いて通る。竿のような長いパンを数本小脇にかかえた女が、片側に二列ずつ並んだ街路樹の青葉の間を縫って歩いてゆく。からりと晴れている空にも街にも微風さえないのどかさだった。
「あたしね、ロンドンへ一寸帰ろうかと思うのよ。またすぐ来てもいいんだけれど、それとも、もうそのまま日本へ帰ろうかとも考えてるの。」
「もう少しいなさいよ。巴里祭までいなきゃつまらないな。また出て来るにしたってなかなか億劫だし、それに君こんないい所はもうないよ。実際ここは素敵だ。僕は自分がパリにいるんだと思うと、もうそのことだけで幸福だ。石の屋根の上にこんな菖蒲の花が咲いてるんだからな。楽しんで見なさいよ。罰があたるぞ。」
 久慈は微笑しながら菖蒲を眺め建物の上に流れている浮雲を見ているうちに、ふと紅海を渡って来る船中での千鶴子との親しかった日日を思い出した。それは恋愛というべきものではない、心やすさのままな自由な交際であったが、そのころはまだ千鶴子は矢代ともあまり言葉も云わない間だった。それがいつの間にかうかうかとパリに夢中になっている隙に、久慈は二人の結婚の斡旋を喜ぶ位置に変っているのである。一つは矢代が千鶴子との接近をある一定のところがら動かそうとしないのも、船中での自分と千鶴子との親しさを見知っている遠慮も、まだとりきれないのであろうと久慈は思った。
「真紀子さんはまだずっとこちらにいらっしゃるのかしら。」
 千鶴子は久慈の傍へよって来て同じように欄干から下を覗きながら訊ねた。ドイツを廻っていた矢代の留守中、ウィーンから突然出て来た真紀子の部屋を、矢代のホテルの部屋にしておいたまま彼が帰って来ても移さずじまいで、ただ矢代を真紀子の下の部屋へ移したきりであったから、千鶴子には同じホテルにいる二人の動静も気がかりの種になっているのかもしれぬと久慈は想像した。
「真紀子さんも日本へ帰るような口振りでしたよ。ホテルを変えたっていいんだけれど、すぐ矢代が帰って来たから変えるというのも、無作法だからな。しかし、そう心配したもんでもないでしょう。」
「まア、いやな方。」
 千鶴子の顔の染まるのをいくらか嫉妬めく心で久慈は見ていた。彼には誰が誰とどんなになろうと、そうなればなっただけパリ生活の深まりを見る思いに染まっていたときとて、千鶴子のとやこうと気遣う気持ちも、渦中に吸い込まれる花弁を見るようにまたそれも楽しみの一つだと思った。しかし、今日は千鶴子はどういうものかいつもより久慈には美しく見えてならなかった。
「久慈さんはほんとにお変りになったのね。何んだかあなたは、いけない変り方をなすったように思うわ。」
「矢代だってそうだよ。あんなに変えたのは君の責任も大いにあるね。このパリに来ていながらわざわざファッショになるというのは、だんだん日本人の君ばかりが眼について来たからだよ。世界が千鶴子さんばかりに見えて来てるんだね。早くもう矢代をつれて、あなた帰ってしまいなさいよ。あの男は堕落した。」
 千鶴子の喜びそうな一点を見つけてそこへ捻じ込むような無理な久慈の攻撃も、千鶴子にはもう戯れのように見えるらしかった。
「ファッショだなんて、そんな――立派な方が真面目に考えてらっしゃることを、そんな不真面目な言葉で片附けておしまいになるもんじゃないわ。もし間違いにしたって、それや苦しんでらっしゃるにちがいないんですもの。あなたの方があたし、よほどファッショに見えてよ。」
「何んだ。君はもうそんなに溺れてるのか。」
 と久慈は云うと突然空を仰いで笑った。
「何んでもあなたはそういう風儀に、物を解釈なさるのね。ほんとに意地悪よ。」
 しかし、久慈は千鶴子が矢代をファッショと云うことに同意せず、却って自分の方をファッショに見たということには、無下に彼女を無知として排斥するわけにはいかなかった。たとい自分が冗談に云ったとしても、千鶴子にたしなめられたことは、考えれば久慈も痛さを感じるのだった。
「僕の方がファッショか。まア、それは一応よく僕も考えよう。」
 久慈は窓から引っ込み寝台の上へ仰向きに手枕のまま天井を眺めた。
「だってそうじゃありませんか。矢代さんのような知識のある方が、ファッショになんかなれば、日本へ帰れば誰も相手にしなくなること定ってるんですもの。そんな損なことだとはっきり分っていることでも、どうしてもその方が正しいと思われたのなら、あたしそれで美しいと思うわ。誰だって真似の出来ることじゃないと思うわ。」
 久慈は寝ながら窓の方を見ると、まだ矢代を弁護したそうな緊張した千鶴子の額に光線が流れ、髪が青空の中に明るく透いてますます美しく見えるのだった。一昨夜矢代や東野からさかんに痛めつけられた久慈だったが、今の千鶴子の柔い言葉が一番胸に強く応えているのは、ただ婦人だからだとばかり言いきれぬものがあった。
「もう少し云いなさいよ。千鶴子さんはなかなか云い方が上手いや。聞くよ今日は。」
 こう久慈の云っているとき、刺繍学校へ通っている隣室のルーマニアの娘が小声で歌う唄が聞えて来た。いつも階段で擦れ違うだけで話をしたことがなかったが、近ごろ愛人の出来たらしい様子は日曜日のいそいそとした明るい素振りなどでもよく分った。久慈は隣室の娘の晴やかな歌を暫く黙って聞いていてから云った。
「いい気持ちだな。映画のパリの屋根の下じゃ、こういうときにどっかから手風琴が聞えて来たが、今日のはファッショのお説教か。」
「じゃ、外へ出ましょうよ。あたし、今夜は塩野さんのお約束があるんですのよ。また夜会なの。いっかも日本の鮭の缶詰をこちらへ輸入する下工作の夜会があったのよ。その鮭まだなんですって。ほんとに夜会は疲れていやだわ。」
「鮭のお使いだな。竜宮みたいでいい話だな。」
 と久慈は云って起き上って来ると鎧戸を閉め、千鶴子の後から部屋を出た。階段を降りて行った下の手紙箱に日本の妹からと、旅行に出た会話の教師のアンリエットからと、二通手紙が久慈に来ていた。アンリエットは千鶴子がロンドンへ廻っている間に久慈と親密になった間だったから、特に理窟をつけて云えば、久慈と千鶴子との船中での親しさを裂く役目に効果のあった人物だった。しかし、久慈にしてみれば、パリでの婦人との恋愛に似た感情の動きのごときは一種の装飾のごときものであったので、彼こそどちらかと云えばパリに恋愛を感じているものと云える。随ってまったくこういう久慈とは反対に、故国の日本にいとおしさを感じている矢代と千鶴子との日に増す親密の度も、彼には自然に見えて淋しさも感じなかった。浮き流れる心――こういうものは故郷にいるときとは別して旅は早く移り変って抵抗し難いものがある。


 久慈はホテルを出るとカフェー・リラのある方へ歩いた。行き違う人の靴がひどくきらきらと眩く光った。道路も日光の反射でときどき面を打つ強い光線に久慈は眼を閉じた。鼻さきの小窓の中に組合わされた刃物の巧緻な花の静まっているのを、わけもなくじっと眺めている千鶴子に近づき、久慈はもう何んの感動もしない自分の若い心の老い込みを、これはどうしたものだろうとふと思った。
「もう君は日本へ帰ったって君の考えは通用しない。」
 と先夜東野に云われたことを急にまた久慈は思い出した。そうだ、これはもう通用しないぞと久慈は突然冷水を打たれたような寒さであたりの街を眺めた。停っているトラックのタイヤの凹んだ部分にめり傾いている車体が、均衡ある風景の中から意味ありげに久慈の視線を牽きつけて放さなかった。
「こんなに静かな街の中でも、人の頭の中には暴風が吹きまくっているんだから、おかしなものだなア。」
 と久慈は呟きながらリラの方へまた歩いた。
「もう戦争さえ起らなければどんなことにでも賛成するって、ホテルのお婆さんあたしに云ってたわ。そのお婆さんは面白いのよ。あたし何も訊きもしないのに、あなたはここをパリだと思っちゃ間違いだ。こんなパリはない。もうパリは無くなったっていうのよ。よほど前は良かったらしいのね。何んでもヨーロッパ大戦のとき、アメリカの軍隊がここへ駐屯してから、すっかりもうパリは駄目になったっていうの。どうしてでしょう。」
「それや、老人は思い出だけで生きているからだ。これはこれでまた充分に意義はあると思うな。」
 突然一本の煙突から吹きあがって来た雀の群れを眺めて久慈は云った。リラの前の広場へ来たとき、彼はそこで買った二枚の新聞を丸め、ある建物を指差した。
「去年だか、あそこの建物の会館へゴルキイが来て講演をしたことがあるんだが、群衆がこの広場いっぱいに集ったら、突然警官隊が騎馬で殺到して来て群衆を蹴散らして、一人も講演を聴かせなかったというね。そのときは恐かったそうだ。今年の巴里祭はもう一層凄いということだが、あなたもそれまでいなさいよ。何事が起るかこの様子じゃもう分んない。昨日は罷業の会社がもう三百になっているんだもの。重要な会社が三百も閉鎖したなら、それやもう革命も同じだからな、右翼の火の十字団はもう決死だ。何んでもドイツの右翼と手を握り出したというから、もう僕らには訳が分らない。」
「じゃ、もうここは国と国との戦争は起らないのね。」
 何ぜそんなになるのだと問いたげな千鶴子の視線に、久慈は黙ってリラのテラスの椅子に腰かけると買った新聞を開けてみた。すると、「あッ。」とかすかに云って、彼は紙面に首を突っ込んだまま一心に新聞のトップを読み始めた。そこには大きく、「日華の戦争起る。」と題して一面に書かれていた。「蒙古と広東で日華戦争が起ってるんだが、大げさに書いてあるにしても、こんなに新聞のトップ一面ということは今までになかった。」
 久慈はまた別のを見ると、その新聞にも日華戦争と題してトップを大きく占めていた。二人は頒けた新聞を黙って読んだ。今までとて日本と中国の危機を報じた見出しが毎日のようにあっても、いつも片隅の事件として小さな取扱いを受けていた。虚報や臆測の多い記事に馴れているとはいえ、二つの新聞の主調色をなして片隅から競りのぼって来ているこの紙上の事件は、事実の誇張としても誇張せられるだけの何事かあるに相違ない。
「しかし、これはこっちのストライキを鎮める手段か、それとも本当かまだ怪しいね。明日あたり分るだろう。」
 と久慈は云った。戦争が起ればすぐ帰らねばならぬ。帰って何をするか分らぬながらも、帰らねばならぬことだけは確かなことだった。ルクサンブールの公園から続いて来ているマロニエの並木が、広場の左方の建物の間に青葉を揃えて自然の色を見せている。岩石の峡谷の底に湛えられた水を見る思いで、久慈はその樹の流れを見ていると、ふと前に見たトラックの車体の重力が凹んだ一輪のタイヤに向って傾いた風景を思い出した。張力の一番薄弱な部分に戦争が起るという戦争の原理が事実なら、あるいは中国で遠からず戦争が起るだろう。
「あたし、今夜塩野さんに訊ねとくわ。あの方外務省のお仕事してらっしゃるから、一番そんなことよく御存知だと思うの。去年だったかしら、ユーゴスラビアの皇帝がマルセーユで暗殺なされた事があったでしょう。あのときも大使館で書記官が調べ物をしてたんですって、そうしたところが、そこへ電話がかかって来たものだから、いきなり調べ物の大きな書類を床の上へ叩きつけて、いよいよヨーロッパ大戦だ。もうこんな物なんかいらんッ、と呶鳴(どな)ったんですって。何んかそれで皆さん大笑いしてらしたことあってよ。」
「今日もこれでだいぶ書類を叩きつけた者がいるだろうな。」
 と久慈は云って、自分も確に周章者のその一人だったとひそかに苦笑をもらすのだった。すると、戦争が起ったということなど全く嘘のようにまた彼は落ちつけた。
 ボーイがテラスへ来たので千鶴子はショコラを註文した。二十年前に藤村が毎日ここへ来ていたというので千鶴子はこのリラが好きだった。ここのカフェーはどこよりもボーイの廻りがのろくさとして遅かったが、それが一つはむかしの全盛をしのぶよすがとなり旅人にのどかな気持ちを与えた。海老茶色の革で室内をめぐらせてあるソファーもすでに弾力がゆるんでいたが、それでもまだ質の良い革やバネは、べこべこの日本のカフェーのものとは比較にならなかった。来ている客も老人が多くコーヒーに入れた砂糖の溶ける音までよく聞えた。しかし、何んと云ってもここはもう衰えるばかりだった。
「文明は西へ西へと行くという学説があるけれども、もう文明は大西洋を渡ったのかもしれないね。あるいは今ごろはアメリカを通り越して、太平洋の真ん中でうろついている最中かもしれないぞ。幽霊は海の中だ。」
 罷業がつづいてからというもの、外国銀行へ流れ出す急激な金の速度にうろたえたフランス政府の顔色を憶い、久慈はそう云ったのだが、千鶴子も丁度『幽霊西へ行く』という映画で、ヨーロッパの精神が幽霊となり、物質文明とともに大西洋の海を渡ってゆく諷刺劇をサンゼリゼで観た後だった。
「じゃ、幽霊が空虚になっていなくなったからストライキ起って来たのかしら。何んでもお砂糖も明日から買えないってことよ。水道と発電所とを軍隊が守っているので、それだけはどうやら無事なんですって。」
 ボーイがショコラを持って傍へ来たとき、砂糖はまだ買うことが出来るのかと久慈が訊ねてみると、自分の家は買溜がしてあるから当分は大丈夫だと答えた。
 久慈はここでの先ず何よりの自分の勉強は、この完璧な伝統の美を持つ都会に働きかける左翼の思想が、どれほど日本と違う作用と結果を齎すものか、フラスコの中へ滴り落ちる酸液を舐めるように見詰めることだと思った。すると、そのボーイの無愛相なのろさまで、今に自分たちもここの家の火を消すのだと云っている顔に見えて来た。組合の発達しているフランスであるから、労働者はみなそれぞれどこかの組合に這入っている。その組合のあらゆる層が漸次に連繋をとって動き出し、賃金の値上げと休日の増加と、労働時間の短縮の三つをかかげて要求を迫り始めた罷業である。農民を除いたこの全面的な生産部門の活動の結果が、街にあらわれた休業状態の姿であるから、僅かな利子のやりくりでその日をつないでいる多くの会社はばたばたと潰れていく。その会社に属している労働者は失業していく。生産品が無くなりつつあるから物価があがる一方である。労働者が賃金を増加してもらっても物価がそれを追い越して高まるうえに、莫大な金銭を落していく外国からの旅行者はみな逃げていく。危険と見てとった自国の資本家も外国銀行へ預金を変えるに随い、フランの値段が均衡を失って下落していく。
 しかし、そのような悪結果は総て初めから分っていたのだと久慈は思った。その分っていたことをやり出さねばいられぬもの、その正体はいったい何んだろう。自分の行為の結果の予想を一つ間違えば、すべてが悪結果の連続になってゆくという現実の将棊で、今やフランスという文明の盤面上の駒はその悪結果を知りつつ、駒自身が盤面もろとも自滅してゆく目的に向って急ごうとしている、ある意志に似た傾斜を久慈は感じるのだった。
 しかし、それもいったい何んのためだ。


 久慈は千鶴子と別れた後でいつも行きつけのカフェーへ行った。そこへは矢代と真紀子とが来ている筈だったがまだ二人は見えなかった。顔馴染の外人らは久慈にみな日華の戦争の起っていることを報らせ、どうだ少し日本が負けているようだが大丈夫かと心配そうに訊ねた。
「いや、あれはみな嘘だ。」
 と久慈は答えた。しかし日華の日ごろの関係も知らぬ外人の心にさえ、そんなにこの日のニュースは大きく響いているのかと思うと、事実の当否以外に、響きの方が事実となって、何事か次の芝居の人心を動かしていく瞬間の偽りを久慈は感じた。そして、それがつまりは歴史となって世の中の表面に氾濫しつつ進んでいくということも。――
 外人たちの中に混りいつもテラスに来ている李成栄という中国の画家は、特別にこの日は誰よりも大きく久慈の視線の中で幅を占めて見えた。李も久慈と視線を合す度びに視界に一点邪魔者がいるという顔つきで、煙そうに横を見て、先夜柳田国男の日本伝説集を読んでいたドイツの青年と話した。久慈と李はどちらも悪意を持つ理由がなくとも、ただ単に視線を合したことで、悪意に似た抵抗が頭の中に生じるある微妙な事実は争われず二人の間で起っていた。すると、そのとき二台連って疾走して来た無蓋自動車から、罷業の委員たちであろう、皆それぞれ熱した顔で固めた拳を空に上げ、「フロンポピュレール」(人民戦線)とこんなにテラスの前で叫びながら過ぎ去った。日日変らずに起っているこのようなことも、今日は云い合したような眼まぐるしい渦巻きを久慈の胸中に呼び醒した。
「今夜は支那飯店へ乗り込んで見よう。どういう気持ちでいるものか一つ見よう。」
 とこう久慈は考えると、出来るなら李とも話して彼らの意見を訊いてみたいと思った。しかし、それにしても、何んと考えることの多過ぎる時代になって来たものだろう。それにも拘らず自分はまだ何も知らぬ。このパリ一つでさえが、眼に触れるもののすべての面に底知れぬ伝統の深さが連なりわたって静まっている。それも必死に苦しんだ人間の脳の襞が、法則を積み重ねた頁岩のように層層として視線のゆく所にあった。過去を知ることが現在を知ることにちがいないなら、およそ自分は現在さえも知らぬのだ。それなら、ここの未来はどんなにして知ることが出来るだろう。――
 しかし、このように一歩たじたじと謙遜になりかかると、久慈はいちいちこのヨーロッパに反抗するような矢代の興奮の仕方もよく分った。それにつれて、所詮、日本人の生える土地はここにはないと、だんだん東野に教えられたままに自分の考えも流れ落ちていく不安に襲われ出すのだった。
 問題は土だ。それも農村問題や政治問題じゃない。もっとその奥の奥にあるのだ――。
 と久慈はこのように遅まきながらひとりいる自由さに、頭が故郷の土に戻ってあちこち日本の上を馳け廻って停らなかった。見るとテラスにいる外人たちのどの顔も、ある共通の淋しさを泛べている。それも皆それぞれの自分の故郷を思い泛べている顔に見えて来る。
「しかしだ。何ぜまだおれは日本へ帰りたくないのだろう。何ぜここがこんなに面白く見えるのだろう。」とこう思う。
 研究すべき宝の山へ這入っていながら、故郷の土を研究したって始まらぬ。いやそれより自分は故郷の日本の土の質さえまだよく知っているとは云えないのだ。西洋も知らなければ、東洋も知らぬ心というものは、これはいったい何んというものだ。
 そうだ。これはもう自分は飽くまで世界共通の宝を探すことだ。これこそどの国でも狂わぬというものをただ一つ探すことだ。と久慈はそんなに思うと再び活気を取り戻すのであったが、しかし、それも東野に云われたように、考えれば、共通のものというものはあるものやら無いものやら分らなかった。あると思うのは、なるほどこれも東野の云ったように他人があると教えたからかもしれぬ。
「畜生。」
 頭がばらばらになっていく先き先きに、東野の頭がも早や先廻りをして立っている。もう今夜は眠れない。
 矢代と真紀子が二人並んでテラスへ来ても久慈は黙って挨拶もしなかった。
「東野のおやじ。来んかな。やっつけてやるんだが。」
「何アに、それ御挨拶?」
 と真紀子は云って久慈の横へ腰を降ろした。
「どうも腹が立ってむしゃくしゃしてるんだ。」
「どうしてそんなに腹が立つの。」
 ふと久慈は真紀子を見ると、ウィーンばかりにいたせいかまだ外国擦れのしない真紀子の馴馴しさが、日本のインテリ夫人を見るようなある懐しい古さを匂わせて来るのだった。千鶴子を見ても感じぬ危い溶け崩れるような温暖な情緒が、この良人を離縁して来た夫人の周囲に纏りついていて、一重瞼の一種独特な落ちついた自然さでテラスに異彩を放っている。
「久しぶりだなア。」
 と久慈は誰にも分らぬことを口走ると、パリへ来て以来初めて自然に還った瞼の閉じるような思いがするのだった。註文のコーヒーが来たとき久慈は真紀子の茶碗に砂糖を摘んで二つ落した。
「君の亭主は悪い奴だな。」
 いきなりそんなに云う久慈を真紀子は一寸恐わそうな表情で眺めてからコーヒーを掻き廻した。
「久慈さん、へんよ。どうしたの今日。」
「だって、こんな外国で自分の女房を一人ほったらかす奴があるもんか。女が出来たって、迎いに来るぐらい骨折ったって良かろうじゃないか。」
「でも、仕様がないわ。あたしがいれば困るんですもの。」
「困るのは向うだけじゃないや。」
 別に真紀子に特別な好意をよせずとも、気の毒で溜らぬという久慈の表情は真紀子も感じたらしい。飲みかけたコーヒーも一口唇をつけただけでまたすぐ降ろすと、突然俯向いてしまったまま暫く顔を上げなかった。
「大丈夫だよ。」
 久慈は泣きかかっている真紀子の肩を強く打った。真紀子は顔を上げてハンカチで眼を拭いたが、すぐ快活に笑い出した。
「ウィーンって所は、ああいうところなんだわ。あたし、宅がいるもんだから、日本にいるときシュニツラのものをよく読んだの。あそこはユダヤ人問題と恋愛があるだけのようなところだと思ったんだけれど、行ってみてあたし、あそこにいれば恋愛三昧になる筈だと思ったわ。海のない国の寂しさっていうものが、浸み込んでいるのよ。」
「そう云えば思い出した。チェコの青年だったが、マルセーユで海を見て、生れて初めて自分は海を見たんだが、海ってこんなに大きなものかねえって、首をひねって、さも感慨に耐えぬという顔をしてたっけ。」
 矢代はあたりの外人たちの顔の中から、海のない国の人間を探し出そうとする風で、
「ここにいる外人たち、みなパリへみいらを採りに来て、みいら採り皆みいらになって本国へ帰っていくのだからな。気の毒なものだ。」
 黙っている久慈の顔にさっと紅がさすと、毒毒しい皮肉な微笑が一瞬唇を慄わせたが、それもすぐ沈んで彼は黙りつづけた。まだ矢代に怒るものが自分にはあるのだと思う気持ちを久慈は考えてみたのである。たしかに自分はパリのみいらにいつの間にかなりかかっている。しかし、矢代は何んだ。日本のみいらになってるじゃないか。――
 久慈は足の下から眼に見えぬ煙のようなものが立ち昇って来るのを感じた。自分を今まで支えていたと思っていた知識の一切が、形をなさぬ不安な色どりのまま、腰の浮き浮きする不快さが加わっていくばかりだった。
 すると、そこへ李と話していたドイツの青年が立って来て矢代に紙片をさし出し、
「これは何んと日本語で読みますか。」
 と訊ねた。それは李の書いたものと見え、唐朝人、雀、と作者の最後の名が分らぬらしい風で、画家の好きそうな美しい詩が書きつけてあった。
去年今日此門中
人面桃花相映紅
人面不知何所処
桃花依旧笑春風
 唐詩を日本読みに返って読んでいる矢代の傍から、久慈も何気なく窺いてみると、人の臭いのもう無くなってしまった門の中で、桃の花だけにたりと笑っている虚無的な風景が泛んで来た。日華の戦争が始まったという最中に、李はこんなことを考えていたのだろうかと、久慈は今自分の考えていたこととの遠さを思いくらべてみるのだった。
「中国人というのはこのパリを見ていても、みな人間の死んでしまった跡の空虚(から)ばかりが眼につくんだね。また後へどこの馬の骨かしら這入って来るだろうぐらいに思ってるんじゃないか。」
 ドイツの青年が李の傍へ戻った後で久慈は矢代に云った。
「そうも思わないだろう。そんなことを思っては楽しんでいるだけだよ。人間が空虚になってるところばかり美しく見えるのなら、ここから日本を想像してみなさい。人が一人もいないように見えるじゃないか。実際僕に不思議でならぬのは、ここから日本のことを思うと、いつでも人が日本に一人もいなくて、はっきり、伊勢神宮だけが見えてくることだね。これやどういうもんだろう。」
 矢代はブリュウバールの方に日本があると思うらしく、傾いたその道路の方を見ながら暫く黙っていてから、また云った。
「僕はこのごろ本当のことを正直に云うと、日本の知識階級の中に世の中なんか滅ぼうとどうしようと、どうだってかまやしないと思っている人間がいそうに思えて仕様がないのだ。何んだかそんな気がするね。しかし、僕はどんなに世の中がひねくれたってかまわないが、たった一つの心だけ失っちゃ困ると思うものがあるんだよ。それさえあれば善いというものが――ね、そうだろう、なければならぬじゃないか。あるけれども忘れているというような、平和な宝のような精神さ。どこの国民だって、一つはそんな美しいものを持っているのに、忘れているという精神だよ。僕らの国だってそれはあるのに、探すのが厄介なだけなんだ。しかし、僕は見つけたよ。見せよと云われれば困るがね、何んというか、それは云いがたい謙虚極る純粋な愛情だが。」
「それや何んだい?」と久慈は不明瞭な矢代の云い方に腹立たしげに云った。
「こういう歌が日本の昭和の時代にある、父母と語る長夜の炉の傍に牛の飼麦はよく煮えておりというのだ。こんな素朴な美しさというか、和かさというか、とにかく平和な愛情が何の不平もなく民衆の中にひそまって黙っているよ。桃の花さえ笑ってくれてれば良いというのと、牛の飼麦の煮えるのまで喜んでいる心というのとは、だいぶこれで違いがあるよ。ところが、日本と中国の知識階級は、こういう両国の底の心というものをみな知らなくなってしまってる。僕だって君だってだ。殊に君なんかひどすぎるぞ。このまま行けば、僕らは東洋乞食というか、西洋乞食というか、まア君なんか西洋の方だなア。」
「今さらお前は乞食だと云ったって、三日すれや熄(や)められるか。」
 どちらか皮肉を云い出せば、髄まで刺し通して共倒れになるまでやり合う習慣がまたしても出かかったが、もう久慈には刺される痛さも感じない、午後の気重い退屈さがのしかかっていた。それは街の石の重さのようにどっしりと胸の底に坐り込み、突いても吹いても動き出す気配のない重さだった。貸家になっている前の家の石壁に打ち込まれた鉄鋲から垂れ流れている錆あとが、血のように眼に滲みつく。それが顔を上げる度びうるさく前に立ちはだかって来て放れなくなると、久慈は椅子ごと真紀子の方へ向き変った。真紀子の黒い服の襟から覗いている臙脂のマフラが救いのように柔い。
「これからセーヌ河へ行こう。君は用事があるなら夕飯を八時として、サン・ミシェルの支那飯店で待つことにしょうじゃないか。まさか毒も入れまいだろう。」
 こう云う約束で久慈と矢代は別れてから、久慈は真紀子と二人でセーヌ河の方へ行くバスに乗った。


 八時になって久慈は疲れた身体で矢代と約束の支那飯店へ行った。二階は二間に別れていて大きな窓をへだて、どちらからもよく見えた。小さな八畳ほどの部屋には日本人が主だったが、大きな二十畳ほどの部屋の方には中国人の客が多かった。日華の戦争の始まったニュースの大きく出た日のこととて、中国の客の視線は一様に薄青い光で反撥し、眉間による皺が漣のようにホールの中を走った。ボーイも中国人だから大部屋への遠慮もあると見え、卓を叩いて呼んでもなかなか日本人の部屋へ這入って来なかった。本国が戦争だという日に、敵国の人間が乗り込んで来たということは、自分の城に侵入されたと同じ嫌悪を感じるのであろう。遠くから一二怒声に似た声も聞えて来た。
「大丈夫なの?」
 と真紀子は小声で恐わそうに久慈に訊ねた。
「大丈夫さ。殺されるようなことはない。こんなことで殺されればもう中国は人間じゃない。動物だ。」
「だって、それや分らないわ。」
「しかし、支那料理のような美味い料理を造る国だから、中にはなかなか優れた人間もあるにちがいないでしょう。喧嘩は誰にも分らぬ方法で始末してゆくだろうと思うな。」
 日本人のテーブルはどれも料理がまだ来なかったが、皆は黙って待っていた。すると、そこへ船で一緒の客だった沖老人が三島と二人でひょっこりと顔を出した。沖は船会社の社長を辞めて漫遊に来ただけでもうパリにいない筈だったし、三島も同様にベルリンへ機械の視察に行っただけだったから、この二度目の会合はむしろ奇遇で同級生と会ったように懐しかった。
「しばらく。あなたはイタリアへ行らしったという話でしたが。」
 と久慈は立って白髪の見える沖と三島に挨拶した。
「イタリアから昨夕帰りました。明日の船でアメリカ廻りでまた日本へ帰りますよ。」
 沖はベルリンから戻った三島ともホテルで偶然一緒になり、明日の船のノルマンディもまた二人は同じだということだった。見たところ暫くの間に三島は一層前より憂鬱な顔に変っていた。沖は反対に老人にも拘らず眠っていた闘志が燃え上って来たらしく、若者のようないら立たしさが額のあたりにてらてらと光っていた。
「はア、もうイタリアではボラれたボラれた。ネープルスを見んと死ぬなというから、ベスビヤスまで登りましたが、自動車賃をあなた、たった二時間半で二百五十円とりよった。それにネープルスは汚いとこじゃ。あんなとこ見て死んでられるかい。わしは日本へ帰ったらもう一ぺん会社を起してやろうと思うてます。何アに。」
 こう沖は云ったと思うと声の調節がつかぬと見え馬鹿に大きな声で、「何んですなア、西洋という所は、男ひとりで歩くと馬鹿にしよる。もう酷い目に会うた。こんどは一つ、うんと美人をつれて歩いてやらにゃ、もう腹の虫が納まらん。」
 部屋の中の日本人は皆くすくすと笑い出した。沖は一同を見廻すと演説をする時のように腹を突き出し、「ははア。」と愛想笑いを一つして云った。
「わたしは昨日まで日本語を一つも云わなかったもので、もう今日は皆さんを見ると、饒舌りとうて仕様がない。」
 聾者が急に聞え出したように噴出して出る想念の統制がつかぬのであろうか。沖の云うことには全く連絡がもうなかった。
「三島さん、何かお土産ありました。」と久慈は黙って沈み込んでいる三島に訊ねた。
「いえ、何もありません。帰ったら叱られそうで考えてるところです。」
 多額の金銭の支給を受けて視察を命ぜられ、何一つ新しい発見もせず明日帰ろうという機械技師の苦衷は、自分の想像外の気重さだろうと久慈は思った。
「一つもないって、じゃ、やはり日本はそれだけ進んでしまったのですか。」
「そうですね。」と三島は、日本がそれだけ進んだのか或いは自分の鈍感さの結果だったかはまだ疑問の風で笑顔一つもしなかったが、「一度ある国でこんなことがありました。僕が工場を視察していましたら、面白い形の機械を一つ見附けましたので、珍しそうに眺めていますと、向うから写真を撮るなら撮って下さいと云うのです。どこでも視察は許しても写真だけは許しませんから、親切なところもあるものだと感激して、それではどうぞと幾度もお礼を云って撮らせてもらいましたが、宿へ帰って現像をして見ましたら一枚も写っておりませんでした。」
「どうしたのです。それはあなたの失敗なんですか。」と久慈は重ねて訊ねた。
「いや、工場へ這入る前に庭で二三分待たされましたから、多分そのときどっかから光線をあてて透してしまったのだと思います。」
 聞いていた者らの顔色はさッと変って黙った。久慈も一瞬無気味な寒さに襲われた。しかし、考えればそんなことは当然のことで別に怪しむに足りぬことだと思った。眼に見えぬ光線を透されたのは写真の種紙ばかりではない。この部屋に集っている東洋人の頭の中の種紙も、誰も一様にある光線にあてられすでに変質してしまった頭になっていた。表面の顔は変らぬながらも、一言もの云えば無数の手傷を負った頭を直ちに暴露するのである。またそれらの頭の変化の仕方は久慈型か矢代型かのどちらかであり、もう一層激しいのは隣室の中国人同様全く西洋の模倣そのままの頭だった。
 隣室の中国人の集りはわけてもこの変化が極端であった。場所の不潔さは面を蔽いたくなるほどだったが、ホールではテーブルを囲んだ男たちの中へ誰か一人中国の女が来ると、同時にさッと皆が立ち不動の姿勢で女の腰を降ろすまで直立して待っていた。女は椅子の背に露わな腕を廻した不行儀な横着さで、煙草を吹かせひとりべらべら饒舌りまくっている間も、男らは神妙な恰好で女の云うことを傾聴していた。数組のテーブルの中にはこれとは別な中国人もあって、それぞれフランス人の美人を一人ずつ連れていた。これらの者はもう東洋人は卒業だという顔つきで、一種特別なみいらに似た物静かな構えだった。
 久慈はこのようなみいらが団結した模倣力で、それぞれ本国の東洋に渦巻き起す風波の結果を考えると、抗日意識の高まりが戦争を惹き起してゆくことなど当然だと思った。これは行くところまで行かなければ恐らくやむまい。ここに日華の共通した精神の連結作用が、どちらも西洋の模倣という一点に頼る以外方法はないものであろうか。何か東洋独自の精神の結合に似た一線はないのであろうか。
 久慈は中国人のいる大部屋の方を眺めながら、いつの間にかまた矢代の日ごろの考えの中に入り込んでいる自分を発見して、いや、おれのはまた矢代とは別だ、共同の一線を発見することだと強いて心中思おうとするのだった。
 約束の時間がすぎて間もなく矢代は二階へ上って来た。彼は久慈の傍に思いがけない沖や三島のいるのを見つけると、故郷の見えたようにひどく喜んで云った。
「やア、これはこれは、御無事で何よりでした。」
「今さきも云ってたところですが、老人で西洋へなんか来るもんじゃありませんよ。もうわたしゃ、馬鹿にされて、馬鹿にされて。ひとつ帰ったら、うんとやってやろうと思うてます。何んじゃこんなもの。土産一つ買おう思うても、うっかり珍らし思うて手を出すと、日本品や。いやはや、なっとらんですな。」
 と沖はまたしても大声で誰はばからず云った。他の客はいつまで待っても来ない料理に腹立てボーイを呼ぶと、僅か一本のビールを持って来ただけだったが、それも隣室の人目を忍ぶ風に布の下に隠して持って来た。日本の客たちは怒って出て行くものもあった。ボーイが漸く皿を少しずつ運び始めたとき、隣室の中国人の中から呶鳴るものがあった。
「もうこのごろの世界は、どこでも女に焚きつけられとる。うアはッはッは。」
 と今まであまり隣室の方へは注意しなそうに見えていた沖も、癇に触れたらしくそう云って笑ってから、突然ボーイを睨めつけ日ごろの社長の権幕で、「おい、ボーイ、来んか。」と、去りかけたボーイを呼んだ。しかしボーイは振り向きもしなかった。「ボーイ。ボーイ。こらッ。」
 と沖は呶鳴った。すると、向うの部屋の中国人たちは一斉にこちらを見て何事か激しい罵声を沖に浴せた。沖は立ち上ったかと思うとナフキンを投げ出した。そして、船の中の茶会でよく外人に演説したように実に見事な英語で隣室の方に向って云った。
「料理屋で料理を食うのは国民間の親愛のもとであります。すべて平和というものは食事から来るとは、中国の大哲の教えだと思います。それに諸君は外国に来てまで、われわれの空腹に反対をせられるか。ここはフランスでありますぞ。君らの尊敬する外国で毎日勉強したことが、空腹の者にも自国の食事を与えるなということでありましょうか。これ甚だ東洋人たるわれわれの遺憾とするところであります。われわれの東洋には、戦うときでも敵に塩をやって決戦した、礼儀や仁徳をモットオとした英雄の日月があったのであります。」
 ひどい近眼の大きな顔をいつもにこにこ笑わせている沖が、こういうことを云うときも絶えず笑っていたので、鋭い内容の演説も柔ぎがあったが、運悪くここは英国語ではなかったから、船中のようには聴手にうまく響かなかった。隣室は急に騒がしくなるばかりで、沖に殴りかかろうとする頑な二三の顔が窓からこちらへ顔を突き出し、歯をむき出した。
「これや、何云うても仕様がないわい。料理をくれん方が勝ちじゃ。出ましょうや阿呆らしい。」
 と沖は急につまらなそうに云うと立ってもう帽子を冠った。久慈や矢代らだけではなく皆も沖の後からついて階段を降りていったが、罵声が一層強く後の方でするだけでボーイは挨拶一つしなかった。
 出たところの往来はパンテオンの方から下っているサン・ミシェルの坂だった。坂道の繁しい人通りの中を左翼の新聞売子が叫びながら通る。その険しい声の後から右翼の新聞売子が、またそれを揉み消すような声を張り上げて迫ってゆく。その後からまた左翼、右翼と、続続とつづいて通るあわただしい夜のカルチェ・ラタンである。学生街であるからここは王党という学生の理想が一番勢力を占めているので、新聞は左翼も右翼もあまり売れない。目的はただ王党の中に左右の喰い込む術にあるらしかった。
「明日の船で帰られるのなら、ひとつ今夜は遊びましょう。私もパリ祭を見ればロシアを廻って帰りますよ。」
 矢代のこう云う案内で四人は附近のアルザス料理を食べに坂を下った。セーヌ河近くのこのあたりは久慈は今日のうちにもう二度も来た。ノートル・ダムの尖塔の見える薔薇垣の傍のテラスで、羊や鱒を註文してから五人は空腹を柔げると、まだ西洋を見なかったころの印度洋や紅海あたりの船中の食卓を思い、話は楽しくいつまでも尽きそうになかった。
「しかし、何んですよ。これでわたしらは運悪う大風の中へ来たようなものでしたが、さんざんこちらで揺り廻されてほッとして帰ると、今度は日本にここどころじゃない、大風が吹いてるんじゃありませんかな。二・二六というのはわたしらは見なかったけれども、あの話の模様じゃ、ひと通りの風模様じゃありませんぜ。外国人もみな驚いてますね。日本というところはドラゴンが政治を動かしているそうだが、今度は竜が跳ねたのかといいよる。」
 沖の云うのに三島はドイツで聞いたのだと云って、まるで戦場のような空気の漲っている東京市中の話をした。嘘か真事か一同には分り難かったが、話半分にしても市民の狼狽した話などを聞かされると、日本に吹きつけている不連続線はヨーロッパどころの風ではなさそうに久慈には思われた。
「僕らはまだ若いから分らないのかもしれないが、どうですか沖さん、青年がこんなに沢山考え事をしなくちゃならぬ時代なんて、今までにありましたかね。」
「いや、こんなことは明治以来初めてですな。今までにも大事件は幾つもあったけれど、考えの範囲が狭かったから物事をするのにも熱情がありましたよ。しかし、このごろのは何が何んだか分らない。どうして良いのか見当がつかぬのですよ。明治以来駈け足をしすぎて、心臓が飛び出たのだ。」
 沖の云い方に一同どっと笑ったものの、それぞれ胸倉をひっ掴まれたように急に黙ると沈み込んで羊を切った。
「そうすると、僕たち外国にいるものは、いよいよこれは捨小舟というところかな。」
 と久慈は先夜東野に云われたことをまた思い出すのだった。
「いや、もうどこの国の考え方も世界に分ってしまったのさ。意志を隠そうたって隠せなくなって、外からまる見えになって来たのだよ。どこの国からも左翼が出て、自分の国の秘密をさらけ出してしまったものだから、よしッそんならというので、いちかばちかでどこの国も暴れ出して来たのだ。」
 と矢代は云った。
「そうそう、その通り、どこの国も中に隠れていた心臓が飛び出てしもうて、押し込みようがないのだ。そんならもうこれ、心臓の強さで押すより法がない。そっと隠しておけば良いものを洗い立ててしもうたから、もう穏便に隠しておく必要がなくなって、大っぴらで一層やり良うなって来た。わたしもこれで資本家ですから、その点良う分る。わたしは不良ですが、不良でもこ奴不良だと知って貰う方が、もう暢気で、ええ。」
 来るときの船中でも沖はしきりに、「わたしは不良で、」としばしば謙遜に説明したことがあった。不良を笠に仕事をする心の計画は不快だったが、隠していられるよりまだしも沖の態度に久慈は好意を感じ、食事の味も邪魔にはならなかった。殊に同船で来た客は悪者であろうと何んであろうと兄弟のように見え、内地の批判など役には立たぬ旅愁に誰も襲われていた。いや、むしろ、悪者ほど偉大に見える何ものか間違ったものさえ人は心の中に育て始めていると云って良い。
 久慈はそのような心の自分の変化を今も感じたが、自分も沖のように六十を過ぎてこんな所へ来れば、洒洒として臆面なくあんなに振舞うようになるかも知れぬと、他人事とは思えず、傍の真紀子の身体の危さを度を増し感じるのだった。
「不良は伝染るなア。」
 久慈は意外な発見をしたように矢代の顔を見た。そして、彼はどのような方法で自分を制御しているものかしらと、瞬間矢代と千鶴子のチロルの夜夜のことを考え、あるいはこの矢代は嘘をついているのかもしれぬと疑いさえ起って来た。
「沖さん、矢代はね、なかなかこ奴不良にならんのですよ。あなた意見をしてやって下さいよ。嘘つきだこ奴。」
 久慈はナイフで矢代の胸を指しながら云った。
「あなた、外国へ来て不良にならんのですか。そ奴も少し不衛生だなア。」
 沖はナフキンで口を拭きながら珍しげに矢代を見て笑った。矢代はいつもの癖で男女のことを云われると一言も云わず、顔を赧らめたままただ黙っているだけだった。
「しかし、何んです。こっちへ来ると思うたよりも興味はなくなりますな。殺風景で面白うない。そうそう私は昨夕面白い青年に会いましたよ。どっか踊場へ連れて行けと云うたら、切符制度の踊場へ引っぱって行って踊っているうち、ああ驚いたと云って席へ戻って来て、こう云うんですよ。今自分と踊っていたあの踊子は、あれは自分が二年前に同棲していた女だと云うのです。ところが、その女とその晩三度も踊っていて、まだ昔の女だとは気が附かなかったんですね。二度目に女がにっこり笑うもんだから、妙な笑い方をする女だと思っていると、三度目に、あなた忘れたのと云うたというのです。もうみんな、頭が妙な風になっとりますよ。不良のどうのと云ったところで、不良ならまだ良い方じゃ。この青年は二十五六で、まア日本人の五十か六十の男の経験をしてしまっとるですな。あのまま人間が五十か六十になったら、そら恐ろしいことになりますぜ。」
 度の強い眼鏡の底から光る沖の話に聞き手たちは笑ったり黙ったりしているうちに、次第に身動き出来ぬ世界の中へ頭を落し込んでいって暫く何も云わなかった。
「そうすると、僕らは強味だ。まだ若いぞ。」
 と久慈は思いの底を蹴りつけて吠え上るように云った。
「そうそう。あなた方はまだ若い。わたしはもうそれが何より羨ましい。」
 印度洋の中ごろで夜毎に若者たちを悩ました沖の青春時代の思い出談の落ちが、今ごろパリのここで、こんなに淋しく終りを告げたのかと思うと、久慈は沖に代り腕を撫す気持ちで自分の中に鳴る若さを頼母しく感じた。
「じゃ沖さん。御遠慮なく明日はノルマンデイで帰って下さい。後は僕たち青年が引受けますよ。」
「君たちが二世になってくれるか、じゃ乾杯、健康を祝します。」
 コップを上げると沖に皆はまた楽しく笑った。しかし、この前後から今まで音無しかった三島の顔は、何んとなく生き生きとして来て笑う声も一段と高かった。船中でも猫のように静かで誰よりも遠慮深く謙遜だった三島であるが、一と度びアルコールに触れると船中一番勇敢に溌剌となって、外人の婦人の誰彼なく肩を叩き廻り、靴まで脱がせて喜ばせたことがあった。
「自分の青春をパリで送ったものは、極楽へいった男だ。わたしは遅すぎてパリへ来た。いまいましいな。」
 こういう沖に、子供を一人残したまま妻を死なした独身の三島は、
「そうだそうだ。」と相槌打って身体を始終もぞもぞと動かした。
「これで日本の青年たちは、どんなにパリをあこがれているかも知れませんぜ。それを皆さんここまで来て、何をくよくよしてるのですか。僕は君らを見てると、まるで坊主を見てるように思えますな。僕がもし諸君だったら、あるだけの金をここで使うてしまう。ここでケチをする奴は、そ奴は一番阿呆な人間じゃ。」
 割れかかった石榴(ざくろ)に石を加えたように沖の言葉は久慈の心中へどしりと重みのある実を落した。すると、突然、矢代は遮るように、
「それは沖さんの感傷だな。ここは全く監獄だ。僕らはみな金を家から送って貰ってる俊寛ですよ。こんなところでうつつをぬかしたら、もう最後だ。」
 と云った。
「あなたは船の中でもお坊さんだったからなア。まア、坊さんは世界のどこへいったって坊さんだ。」
 と沖はひとり首を動かして頷いた。
「いや、かまわん。パリで坊さんしてやろう。」
 と矢代は後ろへ反ってナフキンを唇にあてがった。三島は矢代の肩をしきりに叩きながら、
「あんたは坊さんなんかになりなさんなよ。え? 何が坊さん面白いのだ。」
 にこにこと眼尻に下った好人物らしい皺を笑わせて云う三島を見ると、今まで全く忘れていた船中の三島の癖を皆は思い出したらしい。ぎょッとした顔のまま同時に黙ってしまった中で、
「お元気になったわ三島さん。またあたしに靴を脱げと仰言るんじゃありません?」と真紀子ひとりは三島から身を引くように反らしてからかった。
「はははは、靴か。靴脱ぎなさいよ。どうもあ奴を覚えてられると、僕は羞しゅうて。」と云いながらもう三島はしきりと真紀子の靴の方へ身を跼めて眺めた。若者たちを煽動して鬱を晴らしていた沖も、「これや、今夜は無事にはすまぬ。」と思う様子で少し不機嫌になって来た。
 アルザス料理から一同は外へ出ると、河風にあたろうと云うので少し下ったケエドルセイの通りをセーヌ河に添って歩いた。ここは人通りは誰もなく瓦斯灯だけ鬱蒼とした樹の間から光っていた。真紀子は河岸に並んだ古本屋の閉った緑の箱の間から欄壁に飛び上ろうとする三島を絶えず心配して、「危いわね。落ちついてらっしゃいよ。」と袖を曳くように彼の腕を掴んで歩いた。三島は鳥を追うような恰好で、「ほう、ほう。」と夜空に黒黒と続いたプラターンの大樹を仰いで叫んだと思うと、真紀子の腕から脱け出そうとしてまた引き据えられた。それでも三島は片足を高く上げつつずんずん一人先の方へ進むので、いつの間にか真紀子も一行から放れて先になった。三人は幾らかの酔いも醒めてしまって三島達の後姿を見送っているとき、
「ほう、ほう。」とまた三島は三人の方を振り返って遠くから叫んだ。そのうちに停っていた自動車のドアを開けて中へ消えると、真紀子も後から皆に手招きして乗り込んだ。その途端、自動車は待ちもせずそのまま簡単にずるずる辷り出して橋を渡っていってしまった。
「あッ、これやいかん。」
 と久慈は云うと周章てて停っている別の自動車へ飛び乗った。そして、皆も待たず三島の自動車の後を追わしていったが、もう三島たちの車は、真青な瓦斯灯の光りの張った鏡のようなコンコルドの広場の中を突き辷っていた。別に何んの驚くべきことでもないと思っても、それでも久慈は不安だった。矢代や沖も当然後から追って来るものと思って前の二人の車ばかり見ているうちに、車はオペラの方へ消えて見えなくなった。あの二人をそのままにしておけば何事か今夜は起るにちがいないと、久慈はだんだん不安が増して来た。しかし、起ったところで今は独身の二人であった。それならむしろ出来事は二人にとって何かの幸福の原因になるかもしれぬと思った。彼は急に車の速力を停めさせた。そこで暫くぼんやり後ろを向いて待っていたが、一向に矢代たちの追って来そうな気配はなかった。いつの間にか来ている皎皎として青い広場の中で、老いた古い女神の彫像だけ周囲の噴水の飛沫を浴びて立っていた。
 久慈はゆるく車をもと来た方へ女神を廻らせていった。解き放されたような気怠い疲労の眼で女神の顔を見ているうち沈み加減なその横顔の美しさに彼は胸が不思議に波立つのを感じた。すると、突然、あれはお母さんの心配している顔だと思った。彼は駄駄をこねる度びにあのような憂いげな眼差しをよくした母を思い浮べながら、ケエドルセイまで引き返した。しかし、そこにも矢代たちはもういなかった。久慈はもう一度あたりを探してから車を真直ぐにモンパルナスの方へ走らせていって、いつものキャバレの前で車を降りた。踊場とは別室の酒場の椅子には人人の姿がまばらだった。久慈は雀のように台に連って饒舌っている踊子たちの中からなるべく母に似ていそうな顔を自然に探し、その傍へよって行った。
「君、なんて云うの。」
「ルル。」と女は答えた。
「ルルか。ルル、ルル。」
 と久慈は呟きながら傍のダイスをとって物憂げに賽を振った。ルルは片手を久慈の肩に廻し自分も振り出した賽の目を見て、
「あら、明日は雨だわ。」
 と云うと佗びしい小声で唄を歌った。その間も久慈はまだダイスを振り振り、真紀子の帰って来る時間を胸のうちで計っているのだった。このお客は誰か他の女を愛しているともう嗅ぎつけたらしいルルは、久慈の肩に手をかけたまま這入って来る新しい客の顔を眺めていた。


 篠突く雨で道路は水を跳ね返しぼうと地上一尺ほどの白さで煙っている。その中を自動車が水を切って馳けてゆく。急に襲って来た夕立のこととてもう熄むだろうと思い、矢代はカフェーの入口の所で待っていた。二三日前から行方の分らぬ久慈に度び度び電話をかけてみても要を得ず、真紀子に訊ねても久慈とはケエドルセイで別れたままだとの答えである。無論、千鶴子も誰も知らなかった。この二三日、久慈に突きあたりすぎた自分を矢代は跳ね上る雨脚を眺めながら後悔した。ひっ附いていると突き合うくせに放れると心配になる久慈の善良な明るさが、だんだん自分のために湿ってゆく懼れも矢代は考え、どこへ流れてゆくか計られぬ彼の身を再び手もと近くに呼び戻したくなるのだった。
 あまり客のいない室で静かに自分の国の新聞を読んでいる外人たちの中で、二人の日本人だけがしきりにベルリンとパリについて激論していた。一人はベルリン党と見え、ドイツの団結力と綜合力とが、パリの自由性と分析力よりはるかに勝って次の時代を進めてゆくという主張に対し、パリ党の方は、
「このパリの自由さ、このパリ人の平和への人間愛。」
 という風な感激した言葉で反抗しているのも、矢代は日本ではなかなか見られぬ風景だと思った。しかし、日本でもこの二つの思想派は絶えず捻じ合い殴り合いして来て今にまでつづいているのを思うにつけ、いつも久慈と二人で論争して来たそのテーブルで、今も二人の青年が泡を飛ばしている姿が、やはり何ものかに燃え上っていって果て知れぬそれぞれの苦悩と楽しみの現れのように見えた。
「やっとるぞ。」
 矢代は微笑しながら聞いているうちに、自分も懐中深く持っている秘めたマッチを取り出し、思わず二人の議論に火を点けたくなるのだった。
「いったい、めいめい何に火を点けたいのだろう。実はおれも火を点けたい。」
 ふとこう思った彼は眼を上げたとき、濡れ鼠になった石の古い建物が全身から汗のような雨滴を垂れ流している姿が映った。瞬間それは突然の天候のこの変化に歓声をあげて雀躍しているパリの石の心のように感じられた。今までとてときどき矢代は、パリの街に一度根柢から吹き上げる大地震を与えたい衝動にかられたことがあったが、今もこの街に巻き襲って来ている左翼の大海嘯は、沈澱して固まりついた物体のように化け替っている精神の秩序に刃向い、襲わずにはいられぬあの暴力のように思われるのであった。しかも、まだそれでも夕立の雨のように石の表面を垂れ流れるばかりで、何の手応えもない不動の秩序の古古として潜んでいるのが感じられると、たちまち彼は取り出したマッチも仕舞い込み、その強い秩序を支えている原型の部分を分析研究してみたくもなって来るのである。
 しかし、何んといろいろな精神の破片(かけら)を自分は袋へ入れて来たものだろう。これから日本へ帰ってゆっくり一つ一つずつ検べるのだ。――

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