旅愁
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著者名:横光利一 

 人と花とがこんなに一つに見えるということは、今までの彼にはまだ一度も経験のないことだった。胸は溺れるように危い心を湛えているのを覆すまいとしながらも、また危さに近づくように山査子のその巧緻な花を、身を傾け眼をすがめ飽かず矢代は眺めずにはいられなかった。二人は公園の中を廻り池の傍へ出たときに、
「今夜はアルサスの羊が食べたいわ。ね、アルサス料理になさらない?」
 と千鶴子はいつもとは違い感覚の行きわたった軽快な微笑で矢代を誘った。
 樹間をぬけ日のよくあたる広場へ出ると、またそこには一面の山査子(さんざし)だった。初めは人に気附かせぬ花である。しかし、一度びはっと人を打つと、心をずるずる崩してしまわねばやまぬ花だった。
 矢代は千鶴子に近づく思いでまた酔うように山査子の花の下へ歩みよったが、これではいつドイツへ一人旅立つことが出来るのだろうかと、だんだん怪しくなって来るのだった。


 二週間毎にマルセーユへ著く郵船の船と、シベリアを廻って来た汽車から新しい日本人がパリへ現れた。ドームにいても矢代は日日古参になって行く自分を感じた。妻を日本に残して来ている日本人たちは、シベリアから来る妻の手紙のない週は誰も憂鬱そうにしていたが、手紙の来た日は暢暢と元気が良く一眼でそれと見当がついた。中には恋人から来る手紙に不安な箇所が現れたというので、一寸一ヵ月日本まで走って帰ってまた来るという青年もいた。そうかと思うと、日本にいる細君に宛て、愛人が出来たが心配をするななどと、わざわざ書いて出す剽軽なものもあった。
 しかし、総じて二、三年パリにいる人という者は、新参の日本人に一番冷淡でうるさがったし、またこれらの人人は最も激しいヨーロッパ主義者であることには一致していた。しかし、こんな人人が日本を軽蔑する理由は、すべて日本人がヨーロッパを真似し切れぬという一事に帰していた。なるほど、彼らの云うように日本には悪い所が多かった。第一に貧民が多い。肺病が満ちている。農民が娘を売るほど野蛮である。公娼が都市発展の先頭に立って活躍する。知識ある者が他人の欠点を鵜の目鷹の目で探し廻る。文化といえばヨーロッパとアメリカの混合である。悪点を数え上げれば、およそ良い所がどこにあるのかと云いたいほど数限りもなく沢山にあった。しかし、も少し考えると、それらの欠点は日本人の美点から生れて来た、他国には見られぬ花の名残りとも見られる球根につづいていた。またよし譬えそれらが汚点としたところで、矢代は、それらのいかなる悪点よりも、自然を喜ぶ日本の文明の中には悪人が少いと云う美点を何より喜ぶのであった。彼はこのような自分の考えの中に野蛮人が棲んでいることを感じないではなかった。しかし、それはヨーロッパの知識の中に潜んでいる野蛮さとはおよそ違った感情の美を愛する蛮人だと思った。矢代は自分の仕事の歴史の著述を進める上にも、一度この違いを突きつめてみてから根拠をそこに置き、人間の生活の発展に連絡をつけねばならぬと考えるのであった。このような考えが日に深まるにつれ、彼はいよいよパリをひとり放れてゆく決心もついて来たが、千鶴子という一個人にふと想いが捉われると、頭の中に描かれてゆく人間の歴史も停頓する微妙さに、これはただの冗談ではすまされぬ人間の基本の苦しさだと苦笑し、あきらめ、また味いつつ、さらにこの思い切り難い心の切なさから、欲深く思想の本体さえ掴みしめたいとも思うのだった。
 ある日、ドームで千鶴子と矢代がショコラを飲んでいると、丁度二人の前で、黒人の女と白人の男がしきりに何事か睦まじそうに話し込んでいたことがあった。
 矢代は見ているうちに、どうしても一致することの出来ない人種の見本を眼のあたり見ている思いに突き落され、その二人の間の明白な隙間に、絶望に似た空しい断層を感じて涙がにじみ上って来た。こんなことにどうして涙が出るのだろう。これは自分もよほど神経衰弱が嵩じているのだなと思い、なおもじっと二人を見ていると、見れば見るほど涙がとめどなく流れ出て来た。
「いやね、どうなすったの。」
 と千鶴子も矢代の涙を見たものと見え、そう訊ねた。
「何んでもないですよ、ここはもう、人を愛するなどということは出来ないとこだと、分って来ましたね。」
「どうして?」
 千鶴子は一瞬眼を光らせて矢代を見た。
「愛じゃもうここは運転しない。技術ばかりなんだ。それももう技術まで終りになって来たのだなア。」
「じゃ、何があるの。」
「何もない。」
 千鶴子にはもう矢代の気持ちが全く分らなくなったらしい驚きの表情で黙った。
「しかし、僕はパリがこのごろだんだん好きになって来たのは、ここには僕らの求めるものが、何もないからだということが、分って来たからですよ。力の延びてしまった横綱の負けてばかりいる角力を見ているみたいなもので、化粧廻だけ見ている分には、のどかな気分で、気骨が折れないからな。」
 ぶつりぶつりと切りまくってゆくような矢代の云い方は、ただ乱暴なというより、捨身のような快感に自分を晒し出したい切なさがあったが、事実矢代はこういうと同時に、自分の言葉の強さに随って幾らか安らかになるのだった。
「ここは人の休みに来るところね。休もうと思えば幾らでも休める所ですものね。」
 と千鶴子も、今は当らず触らぬことを云って矢代のいら立たしさを慰めようとするのだった。
「そうそう。人が休むときには、どんな顔をして休むものか、僕らは見に来たようなものですよ。僕はここでいろいろなことを考えたけれども、結局、人は働かねばいられぬということだけが明瞭になりましたね。心の故郷というのは、働くということより何もないのですよ。」
 千鶴子は、はっきり手の指の影まで映る道路の面から、照り返っている真鍮の鋲の光りに眼を細め、
「でも、それは皮肉よ。あたしなんか何も働けないんですもの。これ、こんな手。」
 と矢代の前へ一寸両手を出して見て笑った。
「あなたなんかは物の批評眼を養いに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きている時代に、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだって安心して批評が出来ましょう。だから、ここにいるからには遊ばなきア損ですよ。日本の農村の売られる娘のことなんか考えていちゃ、ここでは力は養えない。」
「じゃ、あたし、サロンへまた行ってもいいんですのね、それをこの間から伺いたかったの。」
「あなたなんかしっかりと遊べるだけ遊んで帰りなさいよ。それがあなたの務めだ。人に気がねなんか今しちゃ駄目だな。」
 矢代にしては思いがけない答えを引き出した喜びに千鶴子は肩を縮めて見せ、
「それであたしも安心したわ。実は明日の夜も六時から、一つ出るところがあるの。プレデイリ・オネーの頭取さんのサロンよ。」
「とにかく、僕もあなたと楽しく遊ばせてもらいましたが、もうそろそろお別れしましょう。僕はミュンヘンからウィーンの方へ行かなくちゃならんのですよ。」
 云い難かったことも矢代は意外に躊躇なくそんなに云うことが出来ると、いよいよそれではもう実行にかかるべきときが来たと、心をひき緊めて行くべき遠くの空を胸に思い描くのだった。千鶴子は矢代の突然の話も、さきからの彼のいつものと違う変化を知っているためか、さして驚いた風はなかった。
「じゃ、景色のいい所があったら、電報を打ってちょうだい。そしたらあたしすぐ行きましてよ。行く先のホテルの日を験べておいていただけないかしら。」
「そうしましよう。」
 と矢代は云った。しかし、彼は心中、もうこのあたりで千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
 矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。


 パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
 オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときにはこれほども気楽で楽しいものかと思ったほど、矢代は真に孤独の味いを飲み尽した。ああ、こんな楽しいことが世の中にあったのか。と、彼は汽車の窓から外を見る度びに、心が笛を吹くように澄み透るのを感じた。身体も絶えず真水で洗われているようであった。ときどき湖水が森の中から現れたり消えたりしたが、地図など拡げてみようともしなかった。
 矢代は千鶴子のことを思い出すこともあったが、今は彼女と別れて来たことを良いことをしたと思った。一人になってから車中や街中でふと肉感の強い女性を見ると、泥手で肌を撫で上げられたような不快さに襲われた。
 南ドイツの国境近くになって来ると、牧場の花の中に直立している岩石の上から氷河の流れ下っている山脈が増して来た。全山貝殻の裏のような淡い七色の光りを放った絶壁が浮雲に中断され澄み渡った空の中に聳えている間を曲り曲って行くのだった。そして、オーストリアの国境あたりまで辿りついたときに初めて矢代は汽車から降ろされた。
 乗り換えのない汽車だと聞かされてあったので、その村里の寒駅へ放り出されては、何事がひき起されたのか全く矢代には分らなかった。むかし習って忘れてしまったドイツ語で、ようやく次の列車を二時間半も待たねばならぬと知ったときには、むしろ、矢代はこれ幸いと思い、駅前の花野の中のベンチに腰を降ろした。
 高原を通って眼にして来た山山の中、今矢代の仰いでいる寸前の山ほど彼を驚かしたものはまたとなかった。巨大なミルクの塊のようで一条の草もない。空よりも高く突き抜けているかと見える頂から、氷河を垂らしたその姿は、見れば見るほどこの世の物とは思えなかった。あまり見惚れていたものか首の後ろが疲れて来たが、彼は花を摘みつつ歩いては山をまたぼんやりと眺めてみた。
 そのうちに疲れが全身に廻っていると見えて、眠くもないのに瞼がだんだん塞がって来た。彼は眼をこすりこすり幾度も山を仰いでいると、あたりがぼうと霞んで来た。これはいよいよやられたなと矢代は思った。日本を出発するとき衰弱の激しかった彼は、多分旅中死ぬかもしれぬと自分で思い、友人の二三の者から注意をされたのも思い起すと、やはりこの一人旅行は無事ではすむまいと覚悟した。しかし、今は矢代は楽しさに胸のふくるる思いであった。花野の中に一軒見えた茶店へ這入り、屋外の椅子にかけて牛乳を註文した。ビールを飲む大きなコップに搾りたての冷たい牛乳を、足をはだかり山を仰いで傾けていると、山も雲も氷河もともに冷たく咽喉へ辷り流れて来るのであった。
 足のぎしぎし鳴る椅子に反り返り矢代は、周囲の高原を見廻してはまた牛乳を飲んだ。青青とした牧草が一面に花筒を揃え氷河の下まで這い連って消えている。後方の樹木の多い山の中腹にはホテルや別荘が建っていたが、人通りは花摘みに行った別荘の娘たちの日に焦げた姿が多かった。
「絵葉書が欲しいんだが。」
 と矢代は茶店の主婦に云ってみた。主婦はしばらく顔色を見ていてから絵葉書を出して来たが、高山植物の葉書に混った中に二枚、角の生えた鹿の傍に卵の殻から生れて来る鹿の子の写真があった。ここの鹿は卵から生れるのであろうかと矢代はまたもびっくりした。景色までここは現世のものではないだけに、流石に生物も自から違うのであろうと思い、これで何よりの土産になったと、疲労も忘れて元気になったが、店を出て駅の方へ歩いて行くと、また眼がくらみそうに疲れを覚えた。眼前に突っ立っているミルクの巨塊のような山を見るまでは、疲れもさして覚えなかった筈だのに、この不思議な山を見て以来、のしかかられるような疲労に襲われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
 矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
 と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章(あわ)ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
 時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
 こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
 パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
 矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
 彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
 深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
 クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
 疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
 と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
 矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
 心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
 と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
 云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」
 と千鶴子もこう訊き返したものの深く訊きたい様子はさらになかった。矢代は痛んで来た肩を操みつつ、
「さア、絵葉書にはミッテンワルドと書いてあるんだが、口の中で繰り返して云ってると、見ると悪いぞという意味になって来て、驚いて逃げて来たところなんです。」
 二人は笑いながら長椅子にかけて向い合った。
「でも、この街もあたし、不思議なところだと思いましたわ。」
「そうだ、ここも恐ろしいところだな。何しろ、見ると悪いぞのつづきだから。」
 窓から見える所だけでも、犀の肌のような樹のない石の高山の頂から、街の上まで氷河が流れ降りていた。三方から垂れ流れたその氷河の狭い底辺に、森閑として建っている大都会がこの街であった。一条の塵も落さぬ清潔さでサフランの花の満ちた牧場に包まれたこの街は、最上の彫刻を見ているような深く冷たい襞を貯えて静まっていた。
「もう夕暮だからいいけれども、お昼にあの山を見ていると恐くなって慄えて来るようよ。あたし、こんな所に一人でなら一日もいられないわ。」
 矢代は山を見ていると、永久に腐らぬ悲しみというようなものが満ちて来て、久し振り千鶴子に逢った感動も岩の冷たさに吸いとられていくのを感じた。それは冷厳無比な智力に肌をひっ附けているような、抵抗し難い命数に刻刻迫られる思いに似ていた。
「これはミッテンワルドより一層たまらないな。しかし、明日は一つ、あの山の上へ登ってやろう。」
 矢代はこう云って山に背を向けてから久慈や東野のその後の動静を訊ねるのだった。
 入浴して後二人は夕食をとり、旅の話をしているときから雨が降って来た。夜の散歩も雨のやむのを待ってからにしようと云って、二人は矢代の部屋でまた話をしていると、雨は夕立となり篠つくばかりの激しさになって来た。
 矢代は疲れて千鶴子と別れその夜は早く眠ることにしたが、雨の音の激しさに灯を消しても寝つかれなかった。彼はまた起きると、カーテンを上げ、窓に肱をついて山の方を仰いでみた。氷河を貫くように斜に降る強い雨足が、建物に衝り爆け、石の壁を伝って流れ落ちると、道路の上で音立てて崩れていった。
 昼間の日光に温まった山山の岩も冷えて来たのであろう。急に冷くなった空気に矢代の身体は縮まったが、人一人も見えぬ彫りの深い夜の街に雨の降り込む美しさは、鬼気身に沁み込む凄絶な趣きだった。
 矢代は、暫くしてノックの音が聞えたのでドアの鍵を廻すと、千鶴子が真白な服で立っていた。
「あたし、恐くって眠れないのよ。もう少しお話してちょうだい。」
 寒さに慄えるように千鶴子は肩を縮めて這入って来た。
「ひどい雨ですね。僕も眠れないもんだから雨を見てたところです。閉めましょうか。」
「いえ、いいわ。」
 こう云っているとき、強い稲妻が真近の空で閃いた。氷河が青く浮き上ったと見る間にびりびりと震え、梭(ひ)のように山から山へ閃光が飛び移った。
 千鶴子は耳を蔽って椅子の背に小さくなっていたが、稲妻はひきつづき山を喰い破らんばかりの音立てて閃いた。矢代は窓を閉めた。
「あの山は鉄ばかりだから雷が集って来る。戦争みたいなものだ。」
 千鶴子はまだ耳を塞いでいるので矢代の言葉は聞えぬらしかった。
「こんな恐しいところ、あたしいやだわ、早くパリへ帰りましょうよ。」
「凄いなア。」
 長椅子の上へもたれかかって矢代は煙草に火を点け、まだどこまで続くか分らぬ空の光りを眺めていた。雨脚が白い林となって吹き襲った。
「あら、また。」
 と千鶴子は青くなった。爆烈して来る音響の中で明滅する氷河は、夜の世界を守護している重厚な神に似ていた。矢代は身を切り落されるような切実な快感に疲れも忘れさらに続く閃光を待つのだった。稲妻に照し出される度に表情を失い、白い衣の中でい竦んだ雌蕋に見える千鶴子が、矢代には美しかった。
「あたし今夜は眠れないわ。雷が一番恐ろしいの。」
「じゃ、この部屋でやすんでらっしゃい。良い時刻が来たら起して上げますから。」
 千鶴子は聞えたのか聞えぬのか黙ってやはりそのまま動かなかった。間もなくだんだん雷は鎮まって雨も小降りになって来ると空気が一層冷えて来た。千鶴子の顔は再び生気を取り戻して動き出した。雨が全くやまったとき二人は久慈にあてて、チロルの山の恐ろしさ美しさを寄せ書きしてまた遅くまで話し込んだ。


 少しの雲もない朝である。ロココ風な等身大の肖像画のかかった食堂で矢代は千鶴子と食事をした。朝の日光がもう白い食卓の薔薇の上まで拡っている部屋の、旅客の誰もいない遅い朝食も、二人には却ってのびのびとした気楽さだった。食事をすませてから二人は街へ出た。澄みわたった空に浮き上ったまま、触れんばかりに街を取り包んでいる氷河は、海浜に連り立った爽やかな白い建物を見る思いであった。しかし、それも長く見つづけているうちに、山山の肌は深海を覗くような暈(めまい)を感じさせる。千鶴子は装飾窓にかかっている土地製のチロル帽を欲しがって店店を廻った。
「これどう。あたしに」
 おから型の縁を縄のように縒ったリボンのチロル帽は、都会の婦人に喜ばれる風だったが、それも旅の愁いの現れに似ていた。この街には土地の者はあまり見えず、滞在客にイギリスやドイツから来る旅人が多いらしい。装飾窓の品品も写真機とか山岳地の木彫の玩具とか、民芸風のリボン、帽子などが多かった。絵葉書の絵にも氷河を後ろに旅人と別れを惜しむ土地の娘の悲しさがあり、遠い異国の方へ流れる雨の行方を見つづける人の姿絵なども、矢代には旅の感傷となって生きて来た。
「ほんとに、ここはあんまり静かで、耳が痛くなるようね。」
 靴の音の響き返る鋪道を歩きながらも、建物の間からふと見える氷河の根を見て千鶴子は立ち停った。
「東野さんもいらっしゃれば、きっとまたここで俳句をお作りになることよ。ブロウニュの湖水では、面白うござんしたわね。」
 矢代はいちいち軽く頷きつつ公園の方へ歩いた。街の端れにある公園は矢代の見て来たどこの公園よりも美しかった。地の上まで枝を垂らしている大樹の間から、鉛色の山肌に下った氷河が鋭く、手も届きそうであった。
「今日は暑くなりそうね。きっとあの山が焼けて来たからだわ。」
 ハーフレカールの山頂の迫った下にテラスがあった。樹陰いちめん白布を敷いたテーブルが並んでいて、一人の客もない白い広さの中に二人は休み、ミルクを註文した。鶯の老けた声が小鳥の囀りを圧して梢から絶えず聞えて来た。昨夜の雨でまだ濡れている日蔭の道を、ウィーン風の立派な白い髯の老紳士が、杖をつきつき衰えた歩みを運んで来る。千鶴子は口についたミルクを手巾で拭きながら、
「あなたも俳句お作りになるといいわ。」
 と矢代にすすめて笑った。
「もうそれどころじゃない。こんなところにいると、何をしていいか分らなくなりますね。まるで馬鹿みたいだ。」
 足もとへ擦りよって来る栗鼠の敏捷に動く尾を見降ろしていた矢代は、全く張りのなくなったように、清澄な空気の中で今にも欠伸の出そうな顔であった。
「こんな美しいところで人間が一生棲んでいたら、非常に勉強したくなるか、博奕ばかりやりたくなるかもしれないな。」
「でも、ここはオーストリアじゃ、一番お金持の多いところだそうでしてよ。」
「それや、人の胆をこんなに抜けば、お金は儲かりましょう。氷河で儲けようってんですからね。」
 大樹の繁った園内では真空のように一本の木の葉も動かなかった。小鳥の声のよく響く樹幹をめぐり、薄紅色の紫陽花の群れが蜂を集めている。矢代は片頬を肱で支えテーブルに凭れているうちに、卓布の上を這う山蟻がだんだん大きく見えて来た。身体が浮き上っていくのか沈み込んでゆくのか分り難い。日光のあたっている胸が気だるく大儀になると、「さア」と矢代は云いつつゆるりと立った。木蔭の所どころに塊っているベンチの人も、物云う者は誰もなかった。どの樹も小鳥の声の泉かと見える。幹を降り辷って来る栗鼠だけが、氷河の襞に湧く虫のように自由にぱちぱち這い競って動いていた。
「お昼から山へ登りましょうね。あたし、写真機を買おうかしら。」
 千鶴子ももう云うことがないのだと思うと、一口の無意味な彼女の言葉も、両手で受けたく清らかに矢代には見えるのだった。
「あなた写真お上手ですか。」
「それが駄目なの。でも、撮れればいいわ、きっと後で失敗ったと思うんですものね。」
 と身の廻りでほッと開く連翹のような鮮やかさで笑む千鶴子を、樹陰からこぼれ落ちる日光の斑点の中で、矢代はただ今は頷くばかりである。
 写真機を千鶴子一人に買わせるよりも、二人で買う方が旅の記念にもなると思い、矢代は等分に金を出し合うことを主張して、ある店で手ごろなシュウパアシックスを買った。
「あたし、この写真機いただくわ。でも、それはあなたとお別れするときでいいんですのよ。大切にしまっときたいと思うの。」
 こう云う千鶴子に勿論矢代は異議がなかった。間もなく必ず別れねばならぬ二人である。そして、そのように思っても別に悲しみを感じない。異国の旅にふと出会ったかりそめの友情であってみれば、日本にいたときの互の過去さえすでに白紙であり、またそれをどちらも探り合う要もない、共通の淋しさ儚なさを守り合う身に沁む歎きはあるとはいえ、それはただ甘美な旅の情緒にすぎない。
「まア、自転車のチェーン、こんなによく聞える街って、珍らしいわ。」
 教会堂の高い十字の下で、千鶴子は塵一つない通りを辷って行く自転車を振り返って云った。どの街にも人はあまりいなかった。彫り深い彫刻のようなその静かな通りに、生き生きと影だけ明瞭に呼吸しているこの都会の奇怪さも、氷河を見馴れてしまった矢代には自然だった。ふと覗く店店からも時計の音が際立って高く聞えた。


 昼食の後矢代と千鶴子は登山バスに乗って山の中腹まで行った。バスの中の人人はそこのホテルへ帰るものや、山頂へ行くものたちであったが、詰っている周囲の顔も、もう矢代たちにはどれも外人の顔のようには見えなかった。いつの間にか違う種族の人間も、東京の街角でバスの来るのを待ち合う顔と同じに見えている二人だった。
 山の中腹でケーブルに乗り換え、さらに山頂まで二度ほどのレールを変えた。ケーブルの下は花の野の斜面であった。街が次第に低く沈むに随い、横を流れる河が渓間に添いウィーンの平野の方へ徐徐に開けて行くのが見えた。終点の駅は旅宿をもかねていた。人人はそこのホールで皆足をとどめて眺望を楽しみ、そこからまた下へ降りるのであったが、矢代たちは駅から放れてまた頂の方へ登っていった。もう後からは誰も来なかった。
 樹の一本もない山路である。路の両側には氷のように塊った残雪が傾いて流れていた。雪のない所は地を這ったねじれた灌木が満ち、一面に馬酔木(あしび)の花のような小粒な花の袋をつけていた。
「あらあら、牛がいるわ。」
 と千鶴子は云って谷の方を覗いた。
 一面のサフランの花を麓から押し上げている牧場を登って来た牛である。牛は首の鈴を鳴らせつつひとり雪の中を歩いていた。氷河の溶けて流れる水音がときどき雨かと矢代の耳を引いた。靴底に痛みを覚える石ころ路にかかると、スイスの山の方に流れる雲もだんだんと低くなって来た。
「あたしのいるこのあたり、もうこれでスイスかしら。まだだわね。」
 山山の連りをぐるりと見廻す千鶴子の胴の黄色なベルトが、今はただ一本の人里の匂いであった。
 山の頂を横にそれ曲った所に山小屋があった。矢代はピッケルを二本と、靴下とサンドウィッチをそこで買い、千鶴子と頒け持ってまた山路を歩いた。小舎の番人から、間もなく見える氷河を渡らねば向うの山頂へ出る路は断たれていると聞き、思い出にそこを一度渡ってみようと云うので、買物の準備を一応してみたものの、その氷河の幅を見なければまだ二人には決心がつきかねた。
「塩野さんも去年そこの氷河を渡ったとか、仰言ってましてよ。そこを渡ると、向うの谷間に、羊の群が沢山いるんですって。」
 千鶴子は子供っぽく眼を輝かせて矢代を見ながら、
「ね、それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」
「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」
「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
 他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。
「じゃ、行きましょうか。しかし、僕よりあなた辛抱出来ますかね。」
 と矢代は千鶴子の服装を見て云った。
「あたしはホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。チロルへ来たからには、チロルらしい方がずっと面白いんですもの。」
 相談が定ると二人は一層元気が増して来た。蜜蜂の群れが山路の両側で唸りをたてて飛び廻っていた。ドイツの国境の山山は藍紫色の断崖となって立ち連り、中腹を断ち切った白雲の棚曳く糸が、その下の渓谷の鋭さを示しながら、尾根から尾根の胴を巻き包んで流れている。もうまったく人里は見えなかった。路を曲ると急に冷気が真新しく顔を打って来た。スイスの山山が天と戯れつつ媚態をくねらせ、日光に浸った全面の賑やかさの中から白い氷の海が見えて来た。
「ああ、あれがそうだわ。あそこを渡るのね。」
 千鶴子は云いながら足早やに路を急いだ。鋸の歯のようにぎざぎざの氷の峰を連ねた半透明の氷河は、かすかに傾いた趣きでいよいよ全幅を二人の前へ現した。矢代は道の尽きたところに立って氷河を見降ろしながら、
「どうもしかし、こ奴はなかなか危険だぞ。」と呟いた。
「じゃ、矢代さんはあたしの後について渡っていらっしゃいよ。あたし、こういうところは案外お上手なの。」
 千鶴子にそう云われてはもう矢代も後へは退けなかった。氷の傍まで降りて行って見ると、氷河は高さ五米ほどの鋭い歯形の起伏を、二町の幅の中にぎっしりと無数に詰め谷間を下へ流れていた。二人は用意の靴下を靴の辷らぬ用心に靴の上から履き込み、手袋をはめて氷河の斜面を登り始めた。
 一つ二つの尾根は矢代が先に立って、靴の踵で氷を傷つけつつ、後の千鶴子の登る足場を造る役目になった。しかし、三つ四つと渡り越すうちに、氷の峰と峰の間の断層が底知れぬ深さを潜めて増して来た。一つ辷って足を踏み脱せばどこまで落ちるか分らぬ断層が、ガラスの断面のようなびいどろ色の口を開け、降りて来る二人の足を待っていた。もう草もなく、いつの間にか二人の周囲はまったく氷ばかりの歯となって来ると、矢代は斜面の急な部分を迂廻する心掛けで、現れて来る不規則な氷の群峰を選び進まねばならなかったが、間断なく同じ動作をつづけるこの氷の歯渡りは、石工のような忍耐が必要だと悟って急がぬ用心をするのだった。
「上から見たときは狭かったようだけど、這入って見ると、ほんとに氷河って大きいものね。」
 千鶴子はピッケルを打ちつけつつ、上から垂らす矢代のバンドを握って云った。
「冷いかと思ったが、そうでもないなア。これ、こんなに汗ですよ。」
「あたしもよ。写真をそのうちどっかで撮りましようね。」
 引き上げられながら登って来る千鶴子を見ながらも、矢代はもう少し自分に力があればと、今は隠せぬ努力の不足に羞恥を感じて歎いた。それも労力だけではなく、智力も同様に貧しい自分について、彼女を引き上げる度びに感じるその操作は、二重の心苦しい瞬間となってときどき矢代の胸を打って来た。これでもし千鶴子と結婚するような機会を持てば――と、ふとそう思う聯想につれても、氷河は自分には天罰を与えた苦手だと彼は苦笑するのだった。
 千鶴子の顔は赤味を帯んで熱して来た。額の生え際に細かい汗をにじませ、股のふくらみを折り曲げつつ、氷の面へせり登って来る千鶴子と見合う視線の閃めきも、冴え返っている白光の中ではただ一点の光りに見えるばかりである。
 鈍い氷の斜面が現れると、二人は腰を氷に附けたままずるずる辷り降りた。鋭い氷山はときどき中央に空洞を開けていて、その穴から向うを辷る千鶴子の姿がよく見えた。尾根の描く氷の歯の先端は、日光のために鈍く溶け崩れていたが、それでも半透明のまま、それぞれの姿態の鋭さで天に向って立っていた。
「一寸矢代さん動かないで。」
 千鶴子は峰に跨がるような姿で矢代にカメラを向けた。断層を飛び渡った矢代は瑠璃色の割れ目の底を覗き込みながらじっとしていた。
「はい有難う。この次、洞があったら、そこからこちらを覗いて下さらない。そこも一つ撮りたいの。」
 細かい砂を少し含んでうす汚れている氷の面は、足場を造る度びに、新しい輝きを壊れた断面から現した。臙脂(えんじ)色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
「お疲れになったら、あたしが先に行きましてよ。そう仰言って。」
 と千鶴子は矢代の疲労の色を見てとって云った。
「少少疲れましたね。あなたは山登りはお上手ですか。」
「幾らかだけど、でも矢代さんよりはお上手らしいわ。」
「何んでも僕の方が少しずつ負けなんですね。これや日本人の特性かな。」
 と矢代は云って腰を叩きながら笑った。千鶴子はちらりと微笑をもらしたかと思うと両肱を後ろにつき、曲げた膝にカメラを受けとめ、同じ微笑を崩さずさっと氷の斜面を辷り下った。下にいた矢代は受けたそうな手つきであったが、ねっとり汗ばんだ掌をズボンで拭き拭きまた断層を飛び越えた。
「ここのことかしら、あたし、何んかで読んだ覚えがあるんだけれど、この氷河の断層へ新婚のお婿さんが落ち込んだんだそうですのよ。そうしたところが、死体がいつまでたっても分らないから、花嫁さんは山の麓へ降りていって、氷河の溶けるまで永久に待っていて死んじまったって、あのお話御存知でしよう。」
「そう云えば思い出しましたね。多分その話はここのことかもしれないな。」
「あたしここだと思うの。ここはそういう人の来るところですものね。」
 千鶴子はそう云いながら、ピッケルで欠いた氷の破片を、断層の底へ投げ込んで覗いてみた。破片はすぐ見えなくなったが、屈曲する断面にあたる氷の音が、「ころん、ころん、」と軽やかなわびしい音をたてつづけ、だんだん小さくなりつつ消えていった。
「まアいい音だわ。一寸お聞きになって御覧なさいよ。」
 と千鶴子は矢代を呼んだ。二人は擦りよるように身を蹲め、破片を投げ込んでは断層に耳を近づけた。まったくそれは果てしれぬ氷河の底へ落ち込む虚無の音であった。音が消えてもまだ鳴りつづける幻聴となって、半音を響かせる絃の音に似ていた。矢代は空を仰いだ。日が照り輝いているのに、松柏を渡る風のような虚しさがじっと浮雲を支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
 延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
 手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
 軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
 と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
 氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
 千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
 冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
 これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
 矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
 と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
 矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
 そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
 と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
 二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
 小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
 と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
 手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
 もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
 千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触れて来るサフランの花の匂いを嗅いでいると、温度が急に下り始めたらしく首筋がぞくぞくとして来た。
「まだかな、羊。」
 こう云って彼は花をむしり取っては弁を唇で一つずつ放していった。
「もうすぐでしょう。きっと来てよ。」
 千鶴子も待ちくたびれたものか矢代に添って一寸仰向きになりかかったが、直ぐまた起き直った。
「ここから見ると、やはり日本は世界の果てだな。」
 と矢代はふと歎息をもらして云った。
「そうね、一番果てのようだわ。」
「あの果ての小さな所で音無しくじっと坐らせられて、西を向いてよと云われれば、いつまでも西を向いてるのだ。もし一寸でも東は東と考えようものなら、理想という小姑から鞭で突つき廻されるんだからなア。へんなものだ。」
 千鶴子はどうして矢代が突然そのようなことを云い出したか分らないらしく黙っていた。矢代は起き上って来て暫く峡間の向うの方を眺めていたが、手に潰したサフランの弁をぱっと下へ投げ捨てた。
 夕日が前から雲間に光線を投げていた。およそ羊のことをもう二人が忘れてしまっているころ、遠くの方から蛙の鳴くような声が聞えて来た。それがだんだん続くと蛙ではなく、牧場のどこかで羊を呼ぶチロルの唄だと分って来た。
「ああ、あれだわ。」
 と千鶴子は云って矢代の腕を引いた。チロルの唄は咽喉の擦り枯れたような哀音を湛え、「ころころころ、」と同じリズムで聞えていたが、そのうちに、「るくるくるく、」と次第に高く明瞭になって来た。牧人らしく雲と氷に磨かれた声である。
 唄につれてあちこちから鈴の大群の移動し始める音が起って来た。すると、四方から蝟集して来る羊の群れが谷間に徐徐に現れた。初めは入り交る白雲のように見えた羊の群れも、幾千疋となくどよめき合して来るに随って、堤を断った大河のように見る見るうち峡間いっぱいに押し詰り、下へ下へと流れて来た。
 矢代は胸の下が冷えて空虚になるのを感じた。日没の光りに山山の頂きはほの明るく照りわたっていた。その下を羊の鈴の音が交響しながら、それが谷谷に木魂して戻って来る倍の響きとなり、総立ち上る蚊の大群のように空中に渦巻いた。チロルの唄はその中を貫く一本の主旋律となって、羊の群れを高く低く呼び集めて近づくのだった。
「るくるくるくるく、るるるるるる――るくるくるくるく、るるるるるる――」
「まるで神さまを見ているようだわ。」
 と千鶴子は小声で云うとまたぼんやり放心して下を見降ろした。まだ末の方で拡がり散っている羊の群れは、犬の声に緊めつけられつつ、新たな団塊となりさらに速度を早めて前の群団の中へ流れ込んだ。空の光は刻一刻薄らいで紫色に変っていった。羊の流れは地を這う霧のようにかすみながらも鈴の響だけますます大きく膨んで来ると、むっと熱気に似た獣類の臭いが舞い襲って来た。
「凄いなア。」
 と思わず云った矢代の声も、もう真下に追った犬の吠え声に聞えなかった。ひたひたと漣のよせるような速度で下る羊の河は、氷河とは反対に峡間を流れ曲り、羊飼の唄を山の斜面の彼方へ押し流して進んだ。その度びに、「ぐらん、くらん、」と響き合う鈴の木魂が余韻を空に氾濫させつつ、深まる夕闇の谷底をだんだん遠くへ渡っていく。
 太陽はまったく落ちてしまった。羊の群れも峡間から消えて見えなくなったとき、矢代と千鶴子は初めて顔を見合せたが、どちらも何も云わなかった。下の空虚になった牧場には闇が羊に代って流れていた。はるか遠くの谷の方から、まだ夢のようにつづいている鈴の音を暫く聞いていてから、
「さア、だいぶ冷えて来ましたな。」
 と矢代は云って立ち上った。二人は山小舎へ帰って行った。
 夕食のときも二人は何ぜともなく黙っていた。食事を終ると矢代は窓いっぱいに散っている星を眺めながら身体を拭いた。疲れが一時に出て来て、ランプの下で煙草に火を点けるともう彼は動くことも出来なかった。隣室では早くも眠る準備の椅子を動かすらしい音がかたこととしていた。千鶴子も流石に疲れたと見え、椅子にもたれかかったまま峡間を見下していたが、それでも顔はつやつやとしていて少し窪んだ眼が一層大きく美しかった。
「あたし、今日ほど楽しい思いをしたことはありませんでしたわ。もうこんな楽しいことって、一生にないんだと思うと、何んだか恐ろしくなって来ましたわ。」
 と、千鶴子は指輪の銀の彫刻を撫でつつ小声で云った。
「大丈夫ですよ。」
 と矢代は云ったものの、千鶴子のそう思うのもあながち無理なことではないと思った。
「でも、そうだわ。こんなことって、一人にいつまでも赦されると思えないんですもの。」
 矢代は笑いにまぎらせてまた星を見詰めた。冷たい空気に混り乾草の匂いがどこからか漂って来た。千鶴子はっと立ち上ると矢代には黙って外へ出ていった。
 星は見る間に落ちて来そうな輝きを一つずつ放っていた。矢代は煙草を吸い終ると、戻りの遅い千鶴子の後から部屋を出て探してみた。しかし、彼女はどこにもいなかった。暫く左右の丘の上を探しているうちに、氷河の見える暗い丘の端で、じっとお祈りをしている膝ついた彼女の姿が眼についた。カソリックの千鶴子だとは前から矢代は知っていたが、いま眼の前で祈っている静かなその姿を見ていると、夜空に連なった山山の姿の中に打ち重なり、神厳な寒気に矢代もひき緊められて煙草を捨てた。
 千鶴子の祈っている間矢代は空の星を仰いでいた。心は古代に遡ぼる憂愁に満ちて来て、山上に立っている自分の位置もだんだん彼は忘れて来るのであった。
「あら、そんなところにいらしったのね。」
 と千鶴子は笑いながら立って矢代の傍へよって来た。昼間わたって来た氷河の星の光りが白く牙を逆立てて流れていた。


 次の日、矢代たちがホテルへ戻って来たとき、パリの久慈から矢代あてに手紙が来ていた。


 君がいなくなってから、もう幾日になるか忘れるほどである。とにかく、少し先き廻りをしたかもしれないが、もうインスブルックへ君は出たころであろう。あれ以来、パリには罷業が頻発して来た。これは有史以来の出来事のこととて、われわれには最も興味深い千載一遇の好機に会ったわけだ。これを観察する機会を逃すことは、大きく云えば、歴史の一頂点を見脱す結果になることである。君も出来るなら直ぐこちらへ引き返して来てはどうであろうか。君とはパリ以来論争ばかりで日を費したような羽目になったが、お蔭でこのごろ君との争いもだんだん僕の役に立って来たのを感じる。君と会えばまた前のように争いつづけることと思うけれども、それも今はやむを得ない。それから千鶴子さんが君の後からそちらへ行くような話であったから、もう今ごろは会ったかもしれないが、塩野君その他の人人は何か急用の出来たような話もあり、あまりそちらに長く落ちつかぬよう千鶴子さんに伝えてくれ給え。
 僕の方はこのごろ困ったことが起って来た。君も知っているだろうが、ウィーンへ行った真紀子さんが突然僕を頼ってひとりパリへ現われたのだ。僕は真紀子さんの置き所に苦しんだ揚句、同じここのホテルにいるより君のホテルの方が良いと思い、留守中を幸い君の部屋を失礼させて貰っている。真紀子さんは御主人にハンガリヤ人の夫人のあったことが分ったとかで、夫婦分れをして飛び出て来たとのことである。考えれば僕は今年は厄年だ。それからバンテオン座に、『われらの若かりしころ』というロシア映画が現れた。これは素晴らしい。われわれはまだ若いのだ。僕も君もこの若さを充分意義あらしめよう。
 僕にもいろいろの困難はあるが、何と云ってもパリは良いところだとつくづく思う。僕は実際どこへも旅行する気持ちはあまりなくなって来た。それから終りに、突然で失礼だが、君はどうして千鶴子さんと結婚する気持ちがないのか。君との約束のように僕もチロルへ行くつもりでいたのだが、千鶴子さんと君との間を疎遠にしては悪いと思い遠慮することにした。多分君のことだから、千鶴子さんが君の後を追ってそちらへ行っても、依然として前と同じことだろうと思う。しかし、人間は表現をするときには決断力が必要だ。君は外国へ来て日本という国にすっかり恋愛を感じてしまっているので、人間なんか、殊に婦人なんか問題ではなくなってしまっているらしいが、それは非常な錯覚だと僕は思う。君の云うように僕も今は錯覚の連続で外国というものを見ているのかもしれない。しかし、君も僕とはまるで正反対な錯覚ばかりで物を見ているにちがいない。いったい、君と僕との見方のこの正反対も、どちらが正当かということについては、恐らく今までの日本人の中では、誰一人として解答を与えられることの出来たものはいないのではあるまいか。またこの重大な問題がわれわれ若者の上に、永久にこれから続くと見なければならぬ以上、何らかの方法で君と僕との意見の対立に統一を与えたいと思う。君がいないと矢張り僕は片翼が奪われたようで淋しい。なるだけ早く帰ってもらいたい。
久慈 矢代耕一郎様

 矢代は手紙を読み終ったとき、何となくこうしてはいられないという気になってすぐ夜行でパリへ帰ろうかとも思った。彼はその手紙を千鶴子に見せずポケットへ捻じ込むと、千鶴子を誘って噴水の昇っている街角の方へ歩いていった。


 雨あがりの空は暮れ方になってから晴れて来た。モンパルナスの連なった家家の上層は夕日を受けた山脈のように仄明るく輝いた。人の顔も光り輝き眩しげに微笑しているその下の、石畳に溜った水に映っている空の茜色――久慈は先から喫茶店で母に出す手紙の文句を考えながら、じっとその水溜を見詰めていた。まだ水滴を落している樹樹の緑の下に濡れた椅子が、そのままになっていて、桃色の淡雲の徐行していく下の通りのあちこちから、人の声が妙に明るく響いて来る。
「お身体いかがですか。僕は達者で日日を楽しみ深く勉強しております。」
 久慈はこう母に一行書いたものの、むかしの学生時代同様その後がまだ何も出て来ない。通行人の吐き流した煙草の煙が流れもせず、はっきりした形で流れず、油色のままに停っている。水中のような夕闇の樹の葉の中で時計台に灯が入った。
「お母さんの神経痛のことを思いますと、こちらにいても憂鬱になりますが、温泉へでも行かれれば安心です。私の行きたく思う所も、日本では今は温泉ばかりです。」
 久慈はふと母の今いる所はこの足の下だと思うと、丁度今ごろ母は夜中に眼が醒めて明日の方角のことを考えている最中だろうと思った。久慈の母は年中お茶を立てては方角のことばかりを気にし少しの旅行でも方位が悪いと一度親戚へ行って泊り、そこで悪い方位を狂わせてから目的地へ出発するという風だった。久慈が神戸を発つ日も暗剣殺が西にあるから、船中用心をせよとくれぐれも教えた。一度親戚の家の巽の方角に便所がある家があって、そこに丁度四緑の年にあたる娘があったが、久慈の母はそれを心配しつづけ家を変るようとしきりに奨めたことがあった。そのまま居つづけては、娘が二十三の年になったとき死ぬというのである。親戚の者は笑って相手にしなかったところが、何の病気もない健康なその娘が二十三になると、突然肺壊疽(えそ)か何かで二三日で死んでしまった。それ以来一層久慈の母は方位に憑かれるようになって、他人の年齢を一度訊くと、直ちにその者の月番の方位の善悪を宙で云えるまでになってしまっている昨今だった。一つは嵩じていく母の迷信への反感も手伝い、また一つは元来科学主義の信奉者である久慈には、東洋のこの運命学は全く不愉快でたまらなかった。
「お母さん、いったい、そんなことを一一真に受けて動いていちゃ、出来ることでも出来なくなるじゃないですか。困ったものだな。」
 と久慈はよく母を叱ったことがあった。
「いえいえ、わたしらはずっとこの通り先代から伝って来たことを守って来て、一度も間違ったことはないのだから、良い方位の通りに動いておれば安心です。人間は安心さえ出来れば倖せじゃないの。」
 と母は母で伝来の素朴な考えを守りつづけ、鼠や牛を初めとする十二支と九つの星との抽象物を自分の科学の基本として、あたかもそれが久慈の信じる西洋の抽象性と等しい力を持つものと思い込み、誰が何んと云おうとも動こうとしなかった。
「この足の下の半球は、方角ばかりで動いているのだ。それが三千年も続いて来てまだ倦きようともしないのだ。」
 こう思うと久慈は母へ出す手紙も健康のこと以外には、あまり書く気が起らなかった。しかし、何んと云ってもそれが東洋の自分の母であってみれば仕方もない。ときどき思い出したように、出す手紙の端にこちらでは物が六万倍に拡大されて見える顕微鏡のあることや、宇宙の方位の端まで見える望遠鏡のあることなどを書き、母の信じる運命学をぶち壊そうと試みたこともあった。しかし、今からでは暗い母の頭の中へ光線を射し入れることは不可能だと気附くと、唯一無二の信条としている自分の科学的精神の威力も、まだまだ説得力に於て考えねばならぬところがあると悟った。またそれはただ単に母だけではない、現にこちらに自分と一緒に来ている知識人の矢代までが、日を経るまま漸次東洋的になりつつある現状を考えても、ああ、あの矢代まで十二支になって来たのかと舌打ちするのだった。


 薄明の迫るにつれてマロニエの葉の中の時計の灯が蛍のように黄色くなった。久慈が手紙を書き終っても通りの自動車は一台も通らなかった。
 そうだ今日は罷業があったのだと、久慈は初めて気附いてテーブルを立った。ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろの街街は、左翼人民戦線の優勢になるにつれ罷業がつづき、街は閑散になる一方だった。欧洲文明の中心地をもって永く誇っていたパリに社会党の内閣の現れたことは、フランス革命以来なかったことであるだけに、この思想政治の左傾は人人の頭をも急流のように左右に動かしてやまなかった。随ってヨーロッパのこの空気の中を渡る旅人も、歩く以上はそれぞれどちらかの道を選んで歩かなければ、どっちへも突き衝ってばかりで進むことが出来ぬのである。郷に入れば郷に従えと主張する久慈も、道を歩きながら自分はいったいどちらの思想を支持しているのかと考えつつ歩くことほど、心苦しいことはなかった。おれは日本人だから自ら別だと思う工夫は、日本人だけ知識が世界から置き去りにされるという継子になる懼れもあった。
「いや、俺は科学主義者だ。科学主義者は何んと云おうと世界の知識の統一に向って進まねばならぬ。それがヒューマニズムの意志というものだ。日本人だって、それに参加出来ぬ筈はない。」
 と久慈は快活に思う。ヒューマニズムという言葉の浮ぶ度びに、久慈は青年らしく言葉の美しさに我を忘れる癖があったが、またこの癖のために彼は一応自分の立場に安心して散歩することの出来る、便利なエレベーターにも乗っているのだった。歩くにつれ、幾何学的な稜線が胸を狙って放射して来るように感じられる。街区の均衡の中に闇が降りて来た。昼間目立たなかった花屋の薔薇が豪華な光りを咲かせて来ると、散っていた外人が行きつけのカフェーへ食事に続続戻って来た。久慈も空腹にいつもの店へ這入ろうとしたとき、これも食事に来たらしい東野に会った。
「よく降りましたね。」と久慈は空を仰いで云った。
「ここは傘もささず歩けるから、日本よりその点だけは有りがたい。」
「その点だけではないでしょう。」
 快活な癖に妙に絡みつく正直さを持っている久慈を知っている作家の東野は、また始まったぞと思ったらしくにやりとして、
「あなたも夕食ですか。」
 と身をかわした。いつか久慈は矢代の東洋主義に自分の科学主義でうち向ったとき、黙って傍で聞いていた東野に賛成を求めたところが、「君のは科学主義じゃない簡便主義だ。」とやられた口惜しさが降り籠められた鬱陶しさにあったが、久慈は長らく忘れていたその仇を突然このとき思い出した。
「どうです、御一緒に願いましょうか。」
「どうぞ。」と東野は薄笑いのまま答えた。
 ヨーロッパへ来てから人と会えば何かの意味合いで、外国流の礼儀と呼吸をもって対応しなければならぬ息苦しさが、一種の武者修業のようになりかかっている時期の二人だった。殊にパリの政治が左翼に変ってからは、他人を見ればこの男は左か右かと先ず探り合う眼の色が刃を合わす。東野は何んとなく今夜は絡みそうな気配を久慈から感じたと見え、
「ふん、どこからでも来い。」と云う風な八方破れの構えで先に立ち、奥まった空席を見つけてどさりと坐った。
「罷業がだんだんひどくなりますね。これや、もしかすると革命が起るかもしれないな。もう分らん。われわれには。」

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