旅愁
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著者名:横光利一 

 訝しげな頬笑みを戸外にあげまた久慈を見上げる真紀子の迅い表情が、過去の谷間をくぐる風のように複雑な美しい閃めきを見せていた。
「とりとめのない話だったが、東野さんと一緒にあなたが帰ったことを云ったら、安心したらしくってね、それや良かったって、ひと言だ。――僕はドームでお茶を飲んで別れたが。――」
「あの人、あなたの所へ伺っただけでも、大出来だわ。丈夫でした。」
 久慈は頷いて、そして、真紀子に報告すべき早坂のことについて、まだ何か残っていないかと一応考えた。早坂から冷淡な憂き目にあい、それに同情した自分の腕の中へ、ウィーンから漂って来た真紀子を、また東野へ送り届けた過ぎた日の、さざめくような迅速な時の割れ目から、久慈は乱れ崩れて来るマロニエの花の色彩もともに噴きのぼって来るのだった。
 しかし、自分は真紀子を果して愛していたのだろうか。――愛していたのは、むしろ千鶴子の方だったと彼は思った。それも、そんなことに初めは気附かずに、次第に真紀子が彼に近づいて来れば来るほど、鮮明に矢代の方へ傾いて行く千鶴子を眺め、彼は失ってゆくもののさみしさを味った。そして、間もなく彼は、真紀子も千鶴子も忘れてしまったのである。しかし、日本へ帰って、最初に思い出したのは、やはり千鶴子のことだった。何ごとのためにか、すべてを欺いていたのも、日を経るにつれ剥ぎ落ちて、その下から顕れて来るのは、白いレースの襟に泛ぶ千鶴子の眼だった。自分の愛していることを自分で気づかぬなんて――
 パリにいるときも、じッとそうして一点をよく彼は瞶めたが、またいつもの癖が出て、それはそれとして慰められる他の多くのことを知りもし、工夫もした。
「君のは愛ではない。大愛でもない拷問だ。」
 いまだに千鶴子との結婚を延ばしている矢代にあて、そう書いた久慈も、実は、自分の気持ちをついに顕わすことをさしひかえた自身の、偽りつづけた工夫かもしれなかった。しかし、さて帰ってから母の奨めに随い、結婚しなければならぬとなると思い泛んで来たのは、千鶴子のことであった。特に烈しい愛情もなく誰かと生活することは、もう久慈は馴れていた。おそらく、また見も知らぬものと結婚してしまいそうだったが、それにしても、この真紀子はまだ自分と生活する意志があるのだろうか。
 カットグラスの大鉢に盛りあがった見事な葡萄の房の対うで、千鶴子は傍にいる田辺侯爵夫人と話していた。久慈は時を刻むように隠顕する千鶴子の靨を見ながら、矢代をまだ知らぬころの千鶴子と、ペナンの沖に灯を連ねて碇泊していた自分の船へ、飛沫を浴びて帰ったときの彼女の靨を思い出した。また、アデンの崩れた城壁の下の、焦げ石の間で、ジャスミンの花を見つけて香を嗅いだときの靨、沈んで行く太陽にむかって、スエズから真一文字に引かれた沙漠の中の道を、疾走する風に吹かれて振り向いた靨、渦巻く迅い海流の水面に初めて顕われて来たシシリイの古都を、二人で展望したときの靨など、――それら数数の千鶴子の靨は、みな久慈のみ知っており矢代の知らぬものだった。
「さア、南京まで攻め込むつもりかな。それとも上海に百哩半径の円を描いて休戦するか。」
 と、大石とそんな話をしている矢代の周囲では、塩野と速水とが、中国へ送り込む各国の武器会社の模様を語っていた。田辺侯爵は最近手に入れた陶器が得意な品と見えて、平尾男爵ににこにこした笑顔で、
「実は今夜は、君にそれを一つと思ってね。」
 田辺侯爵のそう云い終らぬうちに、平尾男爵はそれには返事をせず、いきなりぐっと後ろの遊部の肩をこちらに廻した。
「おい、買い込んだらしいんだよ。二階だろう。」
 煙草を灰皿の上へにじり消した男爵は、もう階段を遊部と一緒に登って行った。何事かと話をやめた皆のものも、その後から蹤いていったが、塩野だけは一寸引き返してラジオのスウィッチを切り替えた、東野の放送の時間が近づいて来ていたのだった。
 緑青をふいた殷の鋳銅器を置いた階段を登った所に、唐代の黄土の人形が並んでいた。龍門の石仏の首が二箇、正面の棚に白く泛き上った傍で、白磁の大壺の胴が室内を和らげ、分担した光沢の度合で、鉢や皿類が、昇って来た人の脚音をそれぞれじっと聞くようだった。高麗の水差、鶏龍の蓋物、万暦の皿、粉挽の鉢、と、ここのはすべて、人が器物を観賞するという配列ではなく、器物がその前に立った人物の価値を見届けるという風だった。
「どれだ、買われたの。」
 と、遊部はあちこちの棚を覗き廻ってから訊ねた。平尾男爵は、笑いつづけて黙っている侯爵の傍から、大明嘉靖の冷たい抜きあがった白さ鮮やかな鉢の傍へ寄っていくと、
「これだろう。え。」と云って振り返った。
 侯爵はやはり黙って答えなかった。殿様芸らしい穏やかな微笑だった。この微笑は近づく多くの人を選択し、洗煉して、一羽ずつ空へ放っていく鳥飼いの役目をしている錬磨機のようなものであった。
「初めて観るの多いね。」
 そういう塩野の周囲で、揺れうごく婦人たちの香料の匂いがした。久慈は、眼前の古代が急に断ち切れたり、継がったりするのを覚えた。その匂いにまぎれ入り、彼は自然に千鶴子の後を逐うのだった。豊満な姿で、ふっくりと胴を張った赤絵の壺や鉢が、婚期に逼った娘の色艶に見えて、それを見立てる自分の眼も、母から出される娘の写真を、あれこれ眺める今日このごろの感興に似たものを感じた。柿渋、李朝の秋草、越州、黒高麗、天龍の青磁、など、殊に一際目立って華手な、女王の品位を放つ万暦の鉢があった。金魚に似た魚の乱舞している図柄で、見ていても胸のわくわくして来る美しさであった。すると、その横にまた一層秀韻を湛えたたけ高い、すっきりとした宋の梅瓶が一つあった。久慈はその前に立った。卵色の肌に黒褐色の優雅な線で描かれた牡丹の葉が、唐草模様に似たしなやかな軽快さで、高風あたりの塵を払うと云いたいその姿をひと目見たとき、久慈は、これは千鶴子に似ているなと思った。
「これはどうだ。百済観音だね。」
 と、久慈は矢代の耳に口を近よせて云った。
「ふむ。」矢代もひと言頷いたまま、肩を彼と並べて眺めた。
 女のことを考える暇があるなら、神さまのことを考えろと、そう書いて来た矢代の手紙に対する、密かな反撃のひと突きで、久慈は多少小気味良い皮肉を洩したつもりだったが、まだ矢代に通じさすには少し唐突だった。
「え、似てるだろう?」
「うむ。」矢代はおぼろな声を出した。
「雲が棚曳き降りて来るようだね。」
「何んだい、それや?」
「平行線の交るところさ。」
 幾らかぼっと赧らみのぼった矢代の顔を見て、久慈は、手応えとは反対に、一種ひやりと薄冷たい悲しみのさし通るのを感じた。彼は先へ歩を移し、後は馳け降りる勢いで室内を見てから、一隅に露出された南京染付の水鉢に片肱をかけて休んだ。
「新秩序と題しまして、東野速雄氏の講演でございます。」
 とラジオが階下から聞えて来た。

「いよいよ世の中はめまぐるしくなって来ました。日日の生活が、ある一つの目的に向って締め上って来ているようであります。しかし、生活というものには、いつの時でも幾らか適度の憂いがなければ、その国民を健全に導くことが出来ません。これから私のいたします講演は、その皆さんの、憂いについてであります。」
 階段の折目に並んだ殷の鋳銅の間で、東野の声がぴんぴんと響いた。
「人はそれぞれ憂いを持って生きております。善人なおもて往生すとか、貧しきものは幸なりとか、色即是空とか、あるいはまた、われ徳を好むこと、色を好むがごときものを見ざるなりとか、これらの有名な言葉は、人間の中のもっとも優れた天才たちが叫んだ、憂いであります。勿論、皆さんにも、必ず憂いがあるにちがいありません。」
 久慈はその東野の講演がうるさかった。身にひえ込んで来る鉢の孤独な感触が、ざわざわと掻き立てられるようで、鉢から肱を放し、また宋の梅瓶の傍へ近よった。一同のものも、それぞれ自分の好む陶器の前に立ち停ったまま、静にしていた。久慈は講演をなるたけ聞くまいと努めた。しかし、東野の話の魅力は、断線を厭わぬ独断の危さにあるので、思わずひやひやさせられているうちに、いつの間にか前の独断を破壊する抜文が入れ替り、新しい力で人を乗せて動いて行くのである。聞くまいとしても、ちくちく刺されて人は聞かざるを得なかった。ときにはパスカルが出たかと思うと、天心が顔を出した。ロッシュフコウの格言が顕われたかと思うと、尊徳の歌が引っ張り出されたりした。その間を自在に縫いつづけて、秩序を形造る共通の確率をたぐってゆく労苦は、たしかに東野の憂いにちがいなかったが、料亭で空の美しさを語った彼の真の憂悶は、一向に顔を出しそうな気配もなかった。
 久慈は講演に少少退屈した。そして、真紀子の態度にいつか注視しているのだった。万暦の大鉢の前で真紀子は伏眼のまま、長い瞼毛に心配そうな陰影を湛えて東野の講演を聴いていた。やや俯向き加減のなだらかな上体が、腹部のふくらみに集まり、うっすらと腰部の窪みを描いて両脚に下っていく真紀子の線を見ながら、久慈は、ふと自分を愛撫してくれた真紀子の情愛のふかさを思い出した。あの線、この色と、泛んで来るなやましい姿態の数数の閃めき、飛びうつる表情の流れが、今、ぴったりと金魚の乱れる大鉢の胴の前に静止している慎ましやかさ、――それも、みな東野への愛情に変っているのだ、自分のものだったそれらのもの皆が、いつの間にか東野にささげる供物になり変ろうとしている刹那だった。
「このように憂いの種類には、大小さまざまなものがあります。しかし、どのように云いましょうとも、最も小さな、それ故に最も重要な憂いは、何んと云いましても、現在では原子核の作用に関する憂いであります。」
 何を云い出すのかな、と久慈はまた東野の講演の方に耳をひかれた。
「御承知のように、物の本質をなすこの微粒子の中心には、刎ねつけあう電気の争いと、磁力の牽きあう愛情とがあります。しかし、何ゆえにその二つのものが、一つのものの中にあるかという憂いの根幹の詮索に、地球上の全物理学者の関心が高まりました際になって、突如として、このたびの戦争が起って参りました。そして、その憂いの根本も分らなくなったのであります。再び空空漠漠――この漠漠たる空の中に、私らは立って、何を念じ、何を呼び起そうとすべきでありましょうか。秩序であります。この秩序を求めてやまない私らの心は、ただ坐して得られるものではありません。忽然念起――忽然として念じ起たねばなりません。文学も、哲学も、宗教も、新しい愛情さへも、発足点をここに念じて、出発すべきであります。」
 日比谷からは拍手があがった。真紀子も愁眉を開いた。
「何やらうまいこと云ったね。」
 と平尾男爵は傍の矢代を見返って云った。室内のものらはみな笑った。下の部屋の方へ降りていくものらの中からも、階段を踏み下りながら、「忽然念起」と呟く声が聞えた。それは冷かしのようでもあれば、真面目なようでもあった。久慈は、公衆に対って云っている東野の声の中心が、意識の底でこの部屋を対象に放っている声だと思った。そう思うと、同時にそれは妻を失った東野の真紀子に送っている艶文のようにも聞えて来るのだった。それも過たず矢は的に命中していた。




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