旅愁
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著者名:横光利一 

 と槙三は矢代の方に向き変って来ると、曖昧さを赦さぬ青年らしい活き活きした眼もとで云った。
「僕の今、一番に困っていることは、数学の公理というものは、どこを信じていいかということなんですよ。例えば、平面上の三角形の内角の和は二直角なりという公理と、球面上の同じ三魚形の和はそうではないといった公理とか、また、二つの平行線は相交らぬという公理が、無限の向うでは相交る公理になるとか、そういう風な数学上の根本の公理が、一つが正しければ他は不正だという風に、公理ではなくなって来ている場合のことに関して来ると、非常にもう困るのです。そうすると、やはりどうしても、僕はもう信仰を持たなくちゃおれないのですよ。僕は一番単純な公理を信仰しようと決心しました。それは伊勢でですが。」
 単刀直入といいたい明快さで、槙三はそう真理の問題に関して云った。矢代は膝の上の骨箱のことも忘れた。まことに一つの公理が二つになるという単一性の分裂に際して、その一方を決意しなければおられぬ数学者の行動には、今まで矢代の聞かない新鮮なものがあった。思考というものを心情にまで高めなければ、生の意義はない、と悟ったパスカルに似ている。
 またそれは数学のみに関したことではない、万事精神の世界に共通した真理の分裂に関する、今日の日本人の決定的な問題にも迫っていた。
「虚無的になれば、どんなに深かろうと結局は、どこまで行っても虚無的だろうからな。しかし、それはあなただけのことじゃないですよ。」
「そうです。それは虚無的になれば、どんなに深かろうと、何もないということですよ。」槙三はわが意を得たと云いたげに眼を光らせた。
「それで僕も、あなたが幣帛の切り方に注意されたのがよく分りましたね。しかし、むつかしいなそれは。」
 矢代はこう云いながらも、この槙三という兄を持ったカソリックの千鶴子が、傍にいて、これで初めて何か得たにちがいないと思い、また異う一方の部分を喜ぶのだった。
「幣帛が集合論に似ているということは、僕にはただ偶然だっていいのですよ。それで先日もお訊きしたかったのですが、今の数学は集合論につきるといってもいいのです。それも、この集合論の公理は逆説が逆説を生んで、真理が何んともならなくなって来てるんです。またその逆説がどこで停止するかも分らない有様なんですからね。実際、数学もこうなっちゃ、僕らはどこに信頼すべきか分りませんから、僕は苦しくってたまらなかったんですが、もう僕も覚悟を定めました。それでなければ、僕には自由な零というものが分らない。」
 悲槍に静まって行く槙三の面にも、乗り出て行くものの微笑がおだやかに漂って澄んでいた。疑うならば、公理を信じることを誓う場所を、どこにしようとも同じである。しかし、それを信じるからには伊勢にしたいと願った槙三の意気には、数学よりも幣帛に思いを込める祈りの高まりが感じられ、パスカルのように以後この青年に対う困難な勉学の場所も、矢代には推察された。それはもっとも攻撃に満ちた困難な道のうちの、また特別に難事な場所であった。矢代は、そこでまた微笑をつづけて行くであろう槙三を想像することは、何より今日の心愉しい、みやびやかなことだと思った。その平和なみやびやかさが良いのだと思った。
 西大谷で矢代と千鶴子は車から降り槙三と別れた。蓮池に懸った石橋を渡って納骨堂の石段を登って行くときも、矢代は稀に見る槙三の端麗な精神について千鶴子に賞讃した。千鶴子も槙三を認められたことが嬉しいと見えて、一家中でも彼がもっとも義理人情に厚い人物だと云って、家庭内における槙三のおだやかなことや、孝行者で不平不満を少しも云わぬ性癖のことなどを話した。
「そういうのこそ、知性のある日本人というのだなア。」
 矢代は広広とした横幅の石段の磨滅した傾斜の部分を選びながら呟いた。敷石の隙間に幼い草の芽が見えていて、日光が二人の影を鮮やかに段ごとに倒し、石の肌まで暖かそうな景色だった。
 矢代は寺務所で父の戒名を書きつけ骨箱を渡してから、本殿の方へ廻された。本殿と一番奥の霊屋との間の庭は、一町四方の緩い傾斜を見せた正方形で、真白な砂を敷きつめた単調さの中央に、正しく帯のように霊屋の正面まで石畳が延びていた。仏具のない寝殿造りの神社に似た霊屋は、照り輝く砂の白さに調和した破風の反りを波うたせ麗しかった。まったくここだけは、平安朝の姿をひそかに残した閑寂な明るさに満ちていた。庭の背後の杜の中から鶯の声も聞えた。
「ここはこれから、ときどき来たくなる所だな。」
 平坦な砂の中に立って矢代は、邪魔するものの何もない空を仰いだ。空を真近く呼びよせた砂の白さの中では、千鶴子のぴったり詰まった黒い服色は、光を吸いこみ、ネットの紅の一点がなまめかしい匂いを放つようだった。
「お父さん、あそこへお入りになるのね。」
 千鶴子は霊屋の方に向いたまま、うらうらとした光に眼を細めて云った。「お父さん」と何げなく云った千鶴子のその呼び方に、矢代は一瞬、ま近に迫って囁くような新しい呼吸の温もりを感じた。それは何んとなく、運命というものの顔を不意に見たようで、もう一度見たいと希っても、再びは見られぬ初初しい温もりに似たものだった。
「あそこは霊屋だから、先ずあそこだろうが、地下室が素晴しく広いらしいんですよ。」
「でも、ここなら京都へ来るたびに、お詣り出来ていいわ。来ましようよね、ときどき。」
 本堂の方から誦経の声が聞えて来た。多分父の骨に上げていてくれる経にちがいなかった。二人は本堂へ引き返してみると、如来の立像図の周囲に烈しく後光の射した掛軸が垂れていて、その前の三宝の上に父の骨箱の白布が小さく見えた。矢代たちは僧侶の後に坐って誦経のすむのを待つのだったが、待つ間彼は掛軸を見ていると、金色の後光の放射がつよい線で出来ていて、軸からはみ出しあたりを突き射すような勢いこもった漲りを感じた。その中央の如来像も素足を踏み出すように宙に浮き霊屋の方へ人を誘う眼差しつよく、颯爽とした凄しさがあった。そして、もうこのあたりは悲しさは影もなく、見るもの一切が明るくのどかだった。誰もここでは、これで先ず安心と思うように出来ている空気に、矢代は感服し、自分も何に安心したのかきょろきょろ周囲の様子を見廻すのだった。
 誦経がすんでから、父の骨は三宝に載せられたまま、僧侶の手に運ばれてすぐ霊屋の石畳の方へ渡って行った。黄色な袈裟懸の袖の動くその方へ、矢代と千鶴子も急いで靴を履きついて行った。しかし、父の骨は、
「お前たちまだ来るな。」
 という風な、突きとばす迅い足もとで、素気なく石畳の上を渡り、霊屋の中へ消えて行くのだった。矢代はもう追っつけず唖然として遠くから三宝の上の白さを望みながらも、それでもまだ霊屋へ急いだ。
「迅い足だなア仏さんは。おどろいた。」
 人気のないひっそりとした霊屋の前で、矢代は賽銭箱に銀貨を落し、お辞儀の暇も急がしい気持ちにされるのが不服だった。父の骨は一番上段の扉を押し開いて見えなくなった。危く矢代はそれも見脱しかけ、やっと眼で父を追い送ってから、虚ろなまま立っていると、早くもそこへ空になった三宝を捧げた僧侶が戻って来た。そして二人の前を顔も見ず、すたすた行き捨てて石畳の上を渡っていった。
「なるほどなア。」
 と、矢代は思いあたる所があってこう呟いた。
 ここでは生きた人間のことなど憂うるのが愚かなことだ。見捨てられて行くのこそ逆に生への歓びと感じるべき筈の所だと思い、彼は爽爽しい思いを恢復してみて、もう一度賽銭を投げ直した。壁のない堂内の、透けた閑寂さの中に立った柱の細みも、背後の森の青さに射し洗われ板間に映るように美しかった。吹きぬけの向うで、杉の巨木の肌に流れた樹脂の艶が自然の潤いに見え、万事ここではこうして仏から放れた清潔さを保っているのが、自然に僧侶の心さえ変形させているのだろうか、神官に似たあんなに無表情な沈黙に僧を還らせるのも、ふとこぼれた人間の情かもしれない。
「これで僕も安心した。」
 と矢代は今度は、物足りた気持ちで、日の射す砂の方へ向き変った。霊屋の前から離れて行く二人の靴音が、石畳の上に響くのも、このときは生きているものの権威さえ覚えしめ自分の耳にはっきりと聞えた。渡殿の廊下をくぐり、また街の方へ向って勾配のある坂を下るときも、思わず胸を反りたくなる晴れやかな一望の眺めだった。
「あたし、お伊勢さんへお詣りして、良うござんしたわ。鶏もいるんですのね。あそこには。」
 石段を降るとき、ハンドバッグをかかえ込み、黒の手袋をはめながらそう云う千鶴子の自然さが、矢代には、もう諛いも含まぬ声に聞えて頷いた。前から彼は、階段を下るときの、千鶴子の膝の伸び降りて来る表情が、好きだったが、今もその膝が眼につくと、翌日また別れてひとり旅だつ自分の九州行きが怪しまれ、今夜東京から集って来る塩野たちの賑やかさを脱すのも、約束甲斐のない無聊なことと思われるのであった。
「京都を見るのは早くて三日はかかるだろうが、明日からはまた賑やかなことだな。」
「お発ちは明日ね。」
「朝発つと、次の日の今ごろは、お寺詣りをしているころでしょう。」
「もう一日お延ばしにはなれませんのね。」
 あらかじめ寺への通知もしてあることとて、それは出来ないと彼は答えた。そして、千鶴子と二人ぎり会っていられるときの間も、後一時間あまりの昼食までかと思うと、矢代は並んで降りて行く石段の美しい広さも、短かく惜しまれて急がなかった。巻藁の筒から滑らかな赤松の枝が延びていた。築地の間を下から拡りよって来る池の蓮の葉の群がりが、役目をすませた自分を待ち受けてくれているように、姿を崩さぬ慎しやかな丸みに見えて至極のどかな感興が湧いて来た。
「九州行きも、何んなら、あなたを誘惑して行くべきなんだが、まア、この度びは遠慮をした方が良さそうだな。」
 と彼は太鼓橋の欄干に膝をつけて笑った。
「あたしはお伴してもいいんですのよ。でも、何んだか皆さんいらっしゃるし、それに、あなたのお宅の方にいけないと思うの。どうかしら。」
 千鶴子のそう云いかねているのとは反対に、矢代の場合は、二人の結婚を許可してくれた千鶴子の兄たちへの礼儀も忘るべからざる今の心得だった。しかし、伴に行きたい気持ちの匂い出るのもまたやむを得ず、結局は一人で行くことに落ちつくのも瞭らかだのに、暫くは微妙に押しあい跳ねあうよじれも、無駄につづく今の沈黙の始末だった。
「どうなすって。あなたが良いと仰言れば、あたし、そうするんだけれど。」
 千鶴子も橋の反り上った石から動かず、笑顔の消えた迫り気味の表情で彼に訊ねた。
「いや、やはり一人にしましよう。」と彼は答えた。
「そうね。」
 千鶴子は短く安心したひと言で決したようだったが、まだ何か、思いの残る風情で水面に動く鯉の輪を見降ろした。矢代はともかく昼食に落ち合う一休庵のある方へ車を探した。二人は丸山下で降りてから公園の中へ入っていった。夜桜はもう葉桜となって無数の糸を垂らしていた。姿の良いその幹を右に眺めながら、また少し登って池を越え山手へかかってから、二人は自然に道の細まる方へと足が動くのだった。

 夜になって塩野と佐佐が東京から着いた。その後一時間を隔いて東野がまた来た。矢代は始めは皆から離れひとり出発するのをさみしく感じたが、落ちついて旧蹟を観るのは、やはり一人か二人の方が良いと思い、また父の骨を持った身で皆の歓びの中に混じるのは気もひけることとて、予定を変更して滞まる気にはならず、翌朝そのまま出かけることに決めた。
「とにかく、出来るだけ早く納骨をすませてから、また来るよ。僕のは葬式の延長だからね。」
 こう彼はひき留める塩野たちに苦しく云ってはその場を切りぬけた。夜も皆の行き先きの料亭から、塩野と槙三、千鶴子と彼の四人だけ先に早くホテルへ帰った。東京でもすでに海外版の写真で活動を始めていた塩野は、明日からの京都の旧蹟を撮ることに、今から愉しみぶかい興奮を示して絶えず活溌に話したが、矢代だけは明日の別れもあり、また皆のものを京都へひき出したこの度びの責任の回避も覚えて、とかく沈みがちに気重くなるのだった。ホテルの自室へ戻ってからも、翌朝の出発を今夜の夜行にすれば九州からの戻りも一日早くなり、それなら帰途京都へ着くときもまだ一行に会われそうな余裕もありそうだったので、ためしに一応駅へ寝台の問合せを頼んでみた。すると寝台も一人ならまだ工面が出来るとのことだった。時間を見ると、その列車は後二十分より間がなかった。二十分では躊躇もされたが、それはまだ遅すぎるわけでもない間に合う時間だった。
 彼は荷物をあわただしくまとめてみて、千鶴子の部屋へだけ行ってみた。
「僕ね、このすぐの夜行にしましたよ。皆さんに黙って行きますから、あなたから宜敷く――」
 帽子を手にした矢代を見ると千鶴子は、不審しそうに黙って立ち上った。
「これで行くと一日早く戻れますからね、それだとまたここで落ち合えますよ。じゃ。」
 矢代は答えも待たず部屋を出た。彼の後から廊下を随いて来た千鶴子にエレベーターの口で彼は手をさし出した。力も緊って来ない弛んだ千鶴子の手をまた彼は振った。
「僕もびっくりしてるんですが、とにかく、寝台があるというもんだから、逃せない。あなたはゆっくりしていて下さい。」
「じゃ、電報下さいね。」
 千鶴子も初めて納得したらしく彼と並んで階下へ降りて来た。駅から遅く一人で戻るものの気苦労も際し、見送るという千鶴子を無理に回転戸のガラスの前で止めたまま、ひとり矢代は駅の方へ車を走らせた。
 夜行にはまだ五分も間があった。躊躇することなくば急場の無理も調子よく行くものだと、ほッとした気持ちで、彼はすぐまた旅臭い寝台でひとり寝る準備にとりかかるのだった。このような急がしさも幾回もやったものだったが――彼はヨーロッパの見知らぬ山中での不意の乗り替えや、出発の際の危い佗びしさを思い出したりした。そして、落ちつくと初めてまた彼は旅への郷愁をつよく覚え、身にせまりよって来る空や水の、拡り流れてゆくさまを胸痛く惜しんで眠りがたかった。
 次の日の朝眼を醒すともう関門海峡にかかっていた。矢代は海峡を渡り門司から裏九州の方へ支線を廻って行って、父の郷里の駅へ着いたのは、正午を少し過ぎたころだった。そこから再び一時間もバスに乗り、終点で停ってから、また約半路ほども歩かねばならなかった。前に彼の来たのは少年のころであったから、行く路傍もうろ覚えの程度でときどき目的の村と寺の名を尋ねた。海から続いて来ている川添いの土手には、背の高い芒がのび茂っていて眼路を遮った。桑畑や麦畑の間から山が見えて来たとき、矢代は鋤を肩にして通りかかった四十年配の農夫に、
「城山というのはどの山ですか。」
 と訊ねてみた。低い幾つもの峯が平野の方へ延びて出ている中央の、一番高まった峰をさして農夫はあれだと答えた。寺へ着いてから村人たちの出て来てくれた後では、彼の想い描いていた場所をひとり静かに歩いてみることも出来そうになく、まだ知られぬ今の間に、彼は先祖の呼吸し、眺め暮して滅び散った館の跡を見て置きたいつもりであった。田の中の路の四つ辻の所に石地蔵があって、その傍に駄菓子屋が一軒見えた。矢代はそこで駄菓子とサイダーを買ってから、荷物のスーツを一時預かって貰うことにして、父の小さな骨箱だけを携げ山路を登っていった。
 城山は馬蹄形の山容で、部厚い肩から両腕を前に延ばしたその真ん中の、首の位置にあたる場所に、谷から突っ立った高い平面を支えている石垣が望まれた。そして、遥かに右の後方には、突けばぽきりと折れそうな鋭い山が薄紫の頭を出していて、右手に廻った一帯の山脈は、屏風に似た岩石の成層で、角を明るく日光の中に照り出していた。
 路はしだいに細まり険しくなった。矢代は汗をかきかき雑草を靴で踏み跨いで歩いた。屈曲して行く路の角角で下を見ると、青い実をつけた蔓草の中から海が見えたりした。柏や小松以外は灌木が多く山路は明るかった。矢代はいつか読んだある歌を思い出した。それは誰の歌だったかもう忘れたが、やはり父を亡くした人の歌で、いつか自分にもこのようなときが一度来るなと思い、そのときのことを想像して和歌の雑誌の中から、その一首だけを覚え込んだものである。多分作者は地方の無名の人だろう。
「葬路の山草茂み行きなづみ骨箱の軽さに哭かんとするも」
 彼はこれを繰返し手にした骨箱を一寸振ってみながら、今自分にもそれが来ているのだと思った。
「山草茂み行きなづみ――」
 実際それは丁度この歌の通りで、この文句をどこかに覚え込んでいたためばかりに、自然にこのようなことをしてみたかったのかもしれなかった。しかし、彼の父の墓場がまだどこだか分らず、それまで父と一緒に、先祖の憩う姿を彼は見て置きたかったまでにすぎなかった。
 草の中に石垣が多くなった。そして、山の上近くかかったとき、枯松葉にまみれた巨石があたりに散乱している平坦な場所に出た。彼は薄青い乾いた苔のへばっている石の面へ鼻をつけたり、爪で掻いてみたりした。羊歯や蔦蔓の間から風化した切石が頭を擡げていた。肩の部分にあたる山梁を廻ると、小高い頭の位置の所に黒松が群がり茂っていて、梢をかすかに松籟の渡るのが聞えた。谷から迫りのぼって来ている石垣も崩れ曲み、今も石垣とは見えずゆるみ拡った隙間に朽葉や土が詰っていた。
 矢代は頂きの石の上に腰を降ろして休んだ。黒松の幹の間から海の見えるのが、ここに棲ったものの今もなおする呼吸のように和いだ色だった。葛の葉や群る笹の起伏する上から遠ざかったむかしのころの面影を想像してみても、たしかにここには、父に繋がるもののかつて刻んだ労苦の痕跡が感じられた。彼は骨箱を松の枝にかけて暫く耳をすませてみた。しかし、今の矢代に通い匂って来るものは、峯から峯をわたって来る松風の音ばかりだった。それはもうむかしの響き轟いた矢筒の音でもなければ、叫び斃れるものの声でもなく、肋骨の間を音もなく吹きぬけて行くような、冴えとおったうす寒い、人里はなれた光年の啾啾とした私語であった。
 矢代は城砦にあたる外廓の一つ向うに見える翼形の峯を瞶めた。そこは、陣形として山容を眺めているうちにも、自然に彼の視線を牽きよせる高みの場所だったからであるが、何ぜともなく彼はそこを中心に、攻め襲って来たカソリックの大友の軍勢を想像するのだった。その軍勢は裾の薄氷のような白い塩田の方から進んで来て、黄褐色の大軍のざわめきとなり、泡だちあがって城を包囲し、外廓の一翼のあの峯を占め取ると、そこへ日本で初めて使う大砲の筒口を据えつけた。そして、新鮮な一弾の谺するたびに、崩れ落ちる白壁の舞い立った場所は、おそらく自分のいるこのあたりの平坦な一角だったにちがいないと思った。雪崩のごとく逃げ迷うもの、飛び散るもの、刺し違えて斃れるもの、それらの乱れ叫ぶひまひまにも、そのとき、この松風の音だけはここで続いていたことだろう。
「あたし恐いわ。何ぜかしら恐いわ。」
 矢代がこの城の終末の歴史を告げた直後、こう千鶴子の云った愁いげな松濤の木椅子の上での言葉を、今も彼は思い出したりした。しかし、千鶴子の恐れているものも、この松風の音にひそんだ年月の声のようなものだろう。そして、遠くあのヨーロッパから押しうつって来たカソリックの波路も、この城を滅ぼし落したその筒口も、すべては今そこに見える日の射した海の色の上に浮んで来たものであろう。
 枝に吊った骨箱の白布が、黒松に浸み入った山気をひとり吸いとって寂然と静かなのが、見ている矢代の眼に痛く刺さって来た。彼はまたそのあたりを歩いてみた。石垣の隙から蜥蝪が一疋逃げ出すと、それも意味ありげで彼は立ち停って眺めた。


 山路を下る矢代の足首に草の実が附着して来た。灌木の葉越しに見えた海も消え代りにまばらな人家の障子が浮き出て来た。はっきりした鮮かさで、山影の薄日を吸った純白なその障子の糊あとを芯に、平行して来る田畑の線は見事だった。垂直に立ち揃った森の幹が、磨き減った胴緊りに細まり、何事か祈りのこもったような谷間の中の路である。
 矢代は苗の鋭く伸びた明晰な山峡のその路を、父の骨箱をさげ辿って行くうち寺へ着いた。二十数年にもなろうか、この寺の門は彼の見覚えのあるものだった。甍もゆるんだ傾きで、風雨に洗われた柱の木理も枯れ渋った隙を見せ、山道の嫩葉に触れた門から中の方に、白藤の風に靡くのが一本、静に過ぎる晩春の呼吸をしていた。
「まア、ようお帰り下さいました。さアさアどうぞ。」
 見たこともない寺の主婦は、気軽く彼を方丈へ上げた。矢代は寺への挨拶というものをこれまでにまだ経験したことのない旅客だと自分を思った。
「もっとお早うにお着きになることと思うてましたが、――まア、こんなむさ苦しいところで。」
 帰るべきものが帰って来たという鄭重さの籠った寺の主婦に対い、まだ矢代は、携えて来た父の骨箱の背後に隠れるような、なじみの移らぬお辞儀で、日に灼けた畳の膨みや仏壇のある本堂への通路を見た。
「どうもながらく父もわたしも、御無沙汰いたしておりまして相すみません。」
 父子二代がかりの彼の挨拶も、寺の主婦の円い笑顔を通して、本堂の仏壇へ云い詫びる気持ちの方が強かった。またさらにその仏壇の奥ふかく連った今さき降りて来たばかりの背後の城山に対って、頭を下げたい思いも深まって来るのだった。寺は裏の城山がカソリックのフランシスコ宗麟に踏み滅ぼされたのと一緒に、焼き払われ、時を見て再び建った諸寺のうち、今も残っている唯一の古寺であった。
「和尚さん今日は御在宅でしようか。」
 矢代の問いかける間もなく、急に表情を沈めた主婦は、揃えた手もとへ視線を落した。
「それが今日は命日でございまして、――あの去年主人が亡くなったんでございますよ。それでお客が今、奥に来ていて下さいますので、ごたごたいたしておりまして。」
「御命日ですか、今日は。」
 ここの和尚も矢代は見たことがなかった。主のない寺へあらためて挨拶するのにも、日の射している座敷の隅隅から、彼は自然にまだ見ぬその人を感じたい注意になった。客を両手にひかえた多忙な主婦は、中腰に奥の間へ消えたその後から、まだ中学を出たばかりの青年が一人出て来た。黒い僧服の下からきりりと締った白衣の裾の見える姿で悧発な眼鼻立ちも美しかったが、矢代への挨拶も固苦しく、押し黙ったままひょこりとお辞儀をするだけだった。
「この子が今の代になりましたので、どうぞ宜敷くお願いいたします。」
 黙り通している子の傍から母親は紹介をかね、そう云い添えて、矢代をまた奥の間へ導かせた。
 先客は二人でいずれも僧服を纏っていた。躑躅の花の攻めよせ合った奥庭を背にして、一人は肥満し他の方は小柄の大小二人、僧属に共通の眼の鋭い客である。それも揃って禅行の姿勢を崩さず、黙然として暫く矢代を瞶め笑顔一つをするでもなかった。寺の主婦は二人の客を先代の友人だと紹介したが、それでも黙り通している窮屈さに、ひとり気をかねて砕けた主婦と対して、矢代は車中や東京の話をするのみだった。卓上には饂飩の小鍋を中に銚子が一二本乗っていて、彼の猪口が一つ加えられたところから察しても、今日のささやかな御馳走の後だと分った。
「皆さんときどきお参りに帰って下さるんですよ。去年も朝鮮から来て下さいました。」
 と主婦は、彼の親戚たちの帰郷のおりおりの様子を矢代に報らせた。故郷を散り出ていった矢代一族の帰る家は、今はこの見知らぬ人の棲む菩提寺だけになったのかと、矢代は一族の宿命にひそむ旅人の性格に、鞭うたれる痛みも感じ首垂れるものが加わった。連る僧たちの気詰りな沈黙も、遂に彼を打つ鞭の音に鳴り代って静静として来るうち、矢代はふと卓上の鍋の饂飩の底から、中に鋭く溌ね混った小鯛の骨を見つけた。すると、僧形に囲まれ沈んだ魚骨の白いその崩れが、しだいにそこからなごやかな命日の息を蘇らせて、不思議と一座が暖かな日ざしに変るのを彼は覚え、また仏壇の方へと心が向いてゆくのだった。
「ここのお寺は、たいへん古いお寺だとか父から聞かされていましたが、建ってからよほどになるのでしょうね。」
 と彼は右側の客僧の一人に訊ねた。
「三百五十年です。」
 座の端からこの寺の若い和尚が、中学生らしい声で初めて答えたが、それも亡父から聞き伝えたままの素直な響きで、同じく父を亡くしたばかりの矢代には悲しく聞えた。
「じゃ、相当に古いですね。」
 弛みの出た木組ながら、この下で棲んだ僧たちも幾代も変ったことだろうと彼は思った。旅をしつづけていたものらは、矢代一族のものだけではないのであった。この座に並んだ僧たちそれぞれも、家を出て、これで釈尊の故郷を胸に描き、寺から寺へと流れわたっていた旅人一属にちがいなかった。そう想えば、旅人の集りに似た宿所となった一間とはいえ、も早や互いに惻隠の情さえ通わぬのはただ想うふるさとの相違するものあるばかりかもしれなかった。
 矢代は自分の妻となるカソリックの千鶴子の念うふるさとはエルサレムだとふと思うと、一瞬胸ふさがる寂しさに襲われたが、そこを知らぬ彼には、前に並んだ僧たちの念い描くふるさとの、釈尊の歯を埋めたと云われるセイロン島の樹陰が不意に泛んだ。むらがり立った緑樹の驟雨にうたれて雫する下に、黄色な僧服の隠見した島で、霽れ間に空に立のぼった夕茜のひとときの麗しさ、紫金色のむら雲舞い立つその凄じい見事さにあッと愕き仰ぐ幻に似た荘厳幽麗な天上の色、今も彼には忘れがたかった。
「それでは、お詣りさせて貰います。」
 法要に来ている客への接待を、そのまま和尚につづけてもらい、折を見て矢代ひとり廊下をわたっていった。この寺の本堂も、山村でよく見る山寺と違わなかったが、ここに寺のあるからは、矢代の父祖たち滅亡のさい、城とともにいのちを捨てた者ら最後の場所かとも想像された。高縁の端に立って見渡す一塊の山野の眺めは、鏝で塗りあげたような水田の枠の連った山峡の風景とはいえ、嫩葉の伸びた草叢の襞に入り籠って来たものの品種は、セイロンからの仏の流れだけではなかった。南蛮と直接貿易をしたフランシスコ宗麟が、初めて日本に大砲を陸揚げして、彼の先祖の城を滅ぼした西の浦の入江も、すぐ真近の海べだった。この宗麟や千鶴子の信じたカソリックのふるさとの、フィエゾレ聳える西方の国国も、矢代は見て来た。
「およそ惟んみるに、生きとし生けるもの、尽くみな己れ己れの志を遂げんことを歎くなり。秋の鹿の笛によって猟人の為にその身を過ち、夏の虫の灯火に赴いて空しく命を失うも、この故ならずや。人倫もなお此のごとし。さればゼススのコンパニヤたち故郷を出でて茫茫たる海に浮かみ、雲の波、煙の浪を凌ぎ今この日域に来って貴き御法を弘め、迷える人を導きて直なる道に引入れんとする事も、心の願いを達せんがためなり。――」
 いつか読んだ信者に法を説いたキリシタンの僧たちの、ここに入り込んだ初めに語ったこんな言葉も、仏教より転じた仏僧の翻訳語から弘まっていたのだった。
「みなそれぞれ旅をしているのだ。すべてのものは旅のものだ。」
 凡庸な感傷も胸を透って、庭の中央に枝を拡げた一本の銀杏の樹を見上げ、矢代はそれも同様に支那から流れ来たものだと思った。隋の霊帝の弟がこの地へ渡って、さらに一派が三浦半島に移り棲んだという記録も彼は読んだことがある。しかし、渦巻き変り、入り変りしたこれらのものの残した苦しい愛海の呼吸は、みな今見るままのこれだろうか。しかし、何はともあれ、自分はこの風景の中から出たのだった。廻り巡って見て来た地表のすべての眺めの中、この一点を坤軸として選み落された自分だった。
「ああ、どうして俺は、このパリへ生れて来なかったんだろう。」
 と、そうモンパルナスで歎息した久慈の声を聞き、その背後から、矢代は突然に突きかかってゆきたい腹立たしさを覚えたことのあったのも今思えばこの眼前の景色のためかもしれなかった。それにしても、何んと念うことの多く、することの出来がたかった世界だったことだろう。矢代は絞りよせられる思い余った忽忽とほおけた放心の底から、父を埋める墓場を探しもとめた。

 寺からの報せが届いたと見え一人二人と村人たちが来てくれた。それぞれ木綿の匂う挨拶を矢代は受けている間も、見る人ごとに顔を知らぬもどかしい感じがつづいた。
「わたしは信常さんの友達でして、ここのお寺でな、よう相撲をとりました。」
 父の名を出してこういう老人や、父とともに来たころの矢代の幼少の姿を覚えているという老婆や、彼の父と同年で、二人で青年時代に稽古した浄瑠璃を、今夜矢代に聴かせたいという人もいた。みな彼の傍へ擦りよる風にして、鼻さきに顔を近づけ物いう癖があった。また僧侶たちとは違い、どの顔も潤みを含んだ微笑をたたえていて、懐中へそっと流しこむ囁くような温情に、旅では見られぬ膨れ実った果実を盛られたようで、矢代は暫く顔の入り変るごとに挨拶に困った。しかし、あの谷この谷から集り出てくれた見知らぬこれらの人人の眼に、自分の幼い姿が刻まれていたのだと、そう思うと、野山の色が指さきに迫りよる瑞瑞しさを覚え、さし覗く顔の皺を、田畑を支え保っていてくれた台座の勁い蓮弁を見るように、黙って彼は見るのだった。
「耕一郎さん、あんたさんはわたしを覚えておいでなさりますかな。わたしはな、それ、あんたさんのお祖母さんからお針を教わりました、おかねでございまして、それ、あそこの土手で、こうしてあんたさんを抱いて歩きましたぞ。おお、もうお忘でしたかいのう。」
 手真似までして、浄瑠璃口調の失せぬ老婆に出られたとき、まだ今ものり附いていそうな自分の体温に触れる思いで、彼はどきりとした。覚えのないその枯れた肩口を撫で擦ってみたくなった。あたりに彼の体の破片が、散り蠢いている風な一室になって来てからは寺の人は遠のいて来なくなったが、村人たちは彼の周囲でまた親戚たちの話をし始めるのだった。
 矢代はこの話をされると気が詰った。父の納骨に親戚たちを呼びよせることはさして苦労ではなかったのを、それもせず急に出て来たのは、仕事を措いて出て来るもの達への遠慮のみならず、彼の見知らぬ親戚の多数と顔を合せる気苦労もあり、また他に口にはしがたい理由も少しはあった。一つは帰途に千鶴子と京都で落ち合う予定もその中の重要なことだったが、これで、さて親戚たちを集めたとなると、自ら別に矢おもてに立つ親戚もあった。矢代の父の血族の中、もっともこの村から離れることの不都合な叔父一家が、叔父の死後家を他人に貸し、遠く他郷へ出ていることから疎遠になっているのも、表面立たぬそれだけに、各家の者からは自然非難の眼を向けられずにいない態だった。なお他にも特別思案にあまることが多多あって、このたび矢代の母の出渋った大きな理由も、彼女自ら語らぬながら、想像すれば彼にも出来ないことではなかった。それはこの郷里の叔父の家の所有権で、今は借家となっている家が、名儀は叔父の長男になっているとはいえ、前には矢代の父のものであった。永らく村長をこの村の役場で勤めていた叔父の体面上、父は名儀を叔父のものとして家を無代で貸してあったそのままの折、その当の叔父が死に、矢代の父も亡くなった。このような父の美徳の後、矢代の母が出て来て骨を据え、忘れた記憶を揺り動かせば、親戚間の紛糾は火の手をあげて来る惧れもあった。
 父の死の直後、矢代は新しく自分のものになりそうな郷里の家の処理について、考えないわけではなかったが、他のこととは異りこの一事に関しては母の黙している限り、彼から表情を閃かすことは仕にくいことだった。また、母が先だって彼を動かし、父の納骨を好機に家の所有を瞭らかにすることを命じても、あるいは彼から母に反対したかもしれなかった。勿論、自分の善人を意識にしたい矜りあってのためでもなく、むしろその反対の狡智にも似た、後ろめく覚えのする彼自身にも説明しがたい感情で、強いて云えば、無責任にただぼんやりとしていたいそれだけのことと云っても良かった。郷里も知らず父の代から不在の自分が、旅の半ばで引きかえし、故郷に無理を起すのは、却って所有の思いを失うにちかく、家そのものを失っても、思いを心にとどめて行く旅の途上は、振り返る家の景色も艶を失うことがない。人の家は、それぞれこうして心の奥底ふかく一つずつ持たれて来たのは、絶ゆることのない誰もの旅の姿だったと、矢代はそう思い、村びとたちの話を聞くのだった。
「お墓のあるのは、これで、どちらの方ですか。」
 矢代は墓地のないこの寺の境内が訝しく訊ねた。
「あんたさんところのお墓はな、そら、あそこに見える山ですが。」
 傍の浄瑠璃口調の老婆が門の前方、真直ぐに見える丘を指で差した。さきから矢代はその丘をときどき見ていた。小松林のおだやかな丘の麓に見える一軒の人家が、記憶の底に残っている彼の家らしい位置だったからである。
「そうすると、あの麓の家が、僕のいた家らしいですね。すっかり御無沙汰していたものだから、夢の中のような気がしましてね。」
「あれまア、ひどいこと云いなさるわ。御自分のいられた家もお忘れで、他愛もない。」
 老婆もおどろいたと見えて、ちょっと矢代の膝を打つ手真似をしてから優しく口に手をあてた。いったいこの地方は浄瑠璃の染み入った土地とは聞いていたが、それにしてもこんなに若やいだ身ぶりの老婆の肩から自然に出たのは、幼少に自分を抱いた記憶のためかと、矢代は何ぜともなく嬉しかった。
「あんたさんのいなさった家は、今は田になっておりますぞ。」
 と、父と相撲をとったという老人が不意に云った。
「いやいや、あれはな、この人の祖父さんの家じゃ、この人は知りなさるまいよ。」
 こう云い出したのは父と浄瑠璃を習ったという老人で、矢代はその祖父の家というのもかすかに覚えていた。祖父は矢代の生れた日に亡くなり、その家にいた祖母だけは彼はまだ記憶していたが、その二つの家の一つを売り父の家へ叔父一家の移り棲んだ顛末を瞭らかにすることは、若い矢代に不向きと気附いた様子も見え、浄瑠璃の老婆は怜悧にすぐ話を外に反らすのだった。
「あんたさん、これからたまには、お帰りなさるもんですぞ。なア、あんたさん、ここはな、あんたさんとは切っても切れぬところじゃによって、お墓もここへ建てなされや。これなア、もうし。覚えていなされや。」
 ふと他から何か云いよって来た老人も二人あって、一時にその方へも向きかからねばならぬ矢代の膝を老婆はまたしつこく打った。この故郷の九州の地よりも、母の実家の東北地方の人のいぶきをよく浴びて来た矢代は、見たところ、父の里と母の里とはひどくまた違ったものだと思った。家督をつぐ相談に母方の叔父の貞吉の所へ矢代が行ったとき、貞吉は彼に、
「とにかくあの九州という所は妙なところだ。僕らの東北地方はたった一度悪事をすると、後は山ほど良いことをしても、もう受けつけないが、そこへ行くと、九州は過去を問わぬ。あれだから大西郷なんて人物が出たのだね。」
 と、多少は矢代の肩身に幅を与えるつもりかこう云ったことなど、彼は今あらたに思い出された。過去を問わぬ。なるほど、ここは郷里も知らずに帰って来た自分に、今もこのように、手厚い呼吸を吹きかけて来てやまぬもののあるのを見ても、宗麟のむかしも同様ヨーロッパから「雲の波、煙の浪を凌ぎ、今この日域に来って貴き御法を弘む。」という風なカソリックの天国の福音を仏者の声音で吹き靡かせば、過去など論なく言葉のあやに随い、頭の芯も拍子をとって踊り出す情熱的な舞いごころも、どこより烈しかったことだろうと推測されて来るのだった。

 本堂で若い和尚の経があって、それから矢代は村びとたちにつれられ墓場のある山の方へ案内された。田の中の細い路を行く途中に、また一人中年の農家の者が一行の群れに混った。この人は矢代の方へ進み出ると、低い腰で遅参を詫びたが、矢代はこの人も知らなかった。浄瑠璃の老婆は傍から、
「この人は、そら、あそこに見えるあんたさんのいられたお家の人ですよ。」と、矢代に訓えた。
「ああ、あなたでしたか。みなが御厄介になっておりまして。」
 矢代は突然胸を衝かれて引き下る感じになり、あらためてその農夫の顔を瞶めた。身の緊った、天候の変化に敏感そうな細面の眼差の底に、技師のような綿密繊細な涼しげなものを含んでいた。矢代は農夫も変ったと思うよりも、この人ならいつまでも家を貸したい家主の気持ちの先ず起るのを覚え、前方の山麓に見える自分の家に眼を移した。
 山を断り崩した赧土を背に、屋根の瓦の縦に長い側面をこちらに見せた二階家である。それは立派な家とは云いかねるものだったが、まだ誰も、あれを自分の物だと知っていてくれるもののないのが心寒く、その隙間に通うひそやかな風の中から、そっと瞶める彼の視線にも力が籠った。周囲のものが急に消え散った思いのする、明るい空洞の中の自分の家は、矢代の視線に堪え得ぬような風情でじっとこちらを見ていた。矢代は胸の動悸が昂まり鳴った。足も自然に早くなり躓きかけようとしたが、それでもまだ彼は瞶めつづけた。傷んだ物小屋の羽目板には、新しく繃帯ですぐ手当をしてやりたかった。土質の酸に沁み込まれた皹(あかぎれ)やひびが眼についた。実際、彼の家も何かと絶えず闘っていた様子ながらも、蔵や母屋の膝から上は、まだ健康そうな色艶を失っていなかった。父より永く生き、子の矢代より長命しそうな巌乗な肩には、その後も引き受けてくれそうな緊った木理の眼さえ彼は感じた。
 坂を登りつめた上は、家の中庭になっていた。矢代は父の骨を胸の方に廻し替えて、竃の光った間口の方へ向け中庭を通っていった。近づいた家の間口が拡がるように見え、そして、中から我さきにと這い出て来る薄暗みの気配を彼は眼で制しながら、
「黙って、黙って。」
 と、何ぜだかそう云いたくなった。半ば閉った蚕室の雨戸に日が射していて、桐の花が高い梢の頂きで孤独な少い筒を立てていた。明るい空に沁み入りそうな淡い紫の弁をふと見上げたとき、思わず彼は悲しさが胸に溢れて涙が出て来た。
 中庭を脱けた裏から栗の木の多い山路にかかった。嫩葉色の顔にちらつく登り路を暫く行くと、右手に一部平坦な部分が見えて、そこに大小百基あまりより塊った墓があった。
「ここのお墓は、これ皆あなたさんところのばかりですよ。」
 と、先頭に停った老人が矢代に告げた。他家の墓の一つも混らぬ墓地というものを見るのは、初めてだったので、そう云われると彼もうろたえを覚え、先ずどの墓を主にして拝んだものか見当もつかず、
「祖父さんのはどれでしょうか。」
 と若い和尚に訊ねてみた。和尚は墓地の一番端にある一つを指した。今まで父以外に、一族の中では、祖父がもっとも親しく権威あるものと思われていたのも、亡くなった先祖たちの中では、末座にかしこまっていたのだと彼は知って、亡きものの特別な順列の厳しさだけは、生あるものいかんとも狂わしがたい自然の命令だと思った。彼は父の骨も石の出来るまで祖父の前の片端へ置いてもらいたいと頼んだが、こんなことは母からも聞かされず出て来て見て気づいたことの一つなのは、やはり母は争われず、自分と違う他郷のものだったと、今さら彼は思うのだった。
 納骨の場を掘ってくれている間に、矢代は墓石の間を廻り碑面を読んでみた。絡りこもった野茨の蔓が白い小花をつけて石を抱き、嫩葉の重なり茂ったその裏から、滴りを含んだ石の刻みがつぎつぎに露われた。みな古い時代のもので矢代の知らぬ先祖たちばかりだったが、いずれも氏名は矢代と同じで、また碑面の姓のどれにも藤原と経の三字が共通に使用されているのも、これも彼の初めて知ったことの一つだった。
 栗の木の多いのに松の花粉が流れて来た。谷間の窪みに満ち溜った花粉の一端が、黄色な霧のように墓地の上を越し、山の斜面に沿いなだれたまま動かなかった。
 老人の群がら燻り出した線香の煙が栗の幹のまわりで輪を解いていた。矢代は父の骨を箱ごと掘られた穴の底に入れた。白木の上へ振りかける初めの土の冷たさは、父の額へ落す宝のような重みで、暫く湿った斑点を彼は貴く見ていたが、傍から老人たちの手伝ってくれる迅さに、見る間に沈んでゆく箱に対いただ彼は土のままの手を合せた。それから順次に視線を墓地の各碑面の上に巡らせてゆくのにも、宜敷く新参の父を依頼する意をこめ礼拝していくのだった。
 やがて戒名の白木も建ったその前で誦経も終ると、一同は墓地を下った。
「あんたさん、お嫁さんはまだおもらいでないのですか。」
 浄瑠璃の老婆は突然後から矢代に訊ねた。
「まだ、独りですが――」
 彼はそう答えるにも、結納をすませて京都に待たせてある千鶴子のことをいま嫁と呼ぶべきかどうかあやふやな感じがした。それにしても、故郷に戻った刺戟のためか今まで千鶴子のことを忘れていた自分を思い出し、久しぶりに純粋な感動にひたれた一日を有りがたいと思った。一番人間臭の強いところだのに、それが却って人の姿を消し、こうして自然の風物が生き物に見えて来るのも、彼には不思議な故郷の気持ちだった。樹の芽草の葉も人の骨片から総立ち上った無数の指先のように見えるのだった。
「わたしはまたあんたさんが、もう繁子さんと結婚なされて、お子供衆もあることと思うとりましたが。」
 と老婆は意外なことを云い出した。繁子というのは彼の親戚の娘で、両家の親の間にそんな話も交えられたことなど、幼少のころのかすかな記憶の泡となって泛んで来たりした。しかし、この老人たちは矢代一家に関して、彼自身のまだ知らぬ数数のことを嗅ぎ知っている人人ばかりであろうと思われると、彼の帰郷は、見渡すこの谷間に絡りついた宿縁の根へ相当の風を吹き立てているのだとも想像されたりした。
 日の傾き始めた西の空を背に、城山の頂きが鮮明に黝づく色を泛べていた。一行の降りる坂路は入日に射られ、眼の縮む明るさだった。
 矢代は千鶴子に帰る時間の電報を打つ約束を思い出し時計を見ると、少し急がなければ汽車には間に合いかねる心配も生じて来た。先頭の鋤の柄に巻いた奉書紙が蜜柑の葉の下を沈んで行くのが見え、そして、一行が矢代の家の前まで来たとき、家人は彼に茶を飲みによるようと奨めた。矢代は休息の間から忍びこむ不要な胸騒ぎを惧れて、葬帰りを口実に辞退した。家人は彼のためらいを察したものか強いてとは云わず、矢代の去り行くままに委せて彼に別れの挨拶をした。矢代は中庭をよぎり、蔵の戸にかかった鍵の歪みを最後の一瞥に残したまま、家の前から去ろうとしたときである。何か一瞬悲しい声のざわめきをあげて、後に姿を消した家から、
「薄情者ッ。」
 と、一声浴びた思いがした。彼ひとりの心情の寒さとはいえ、耳を蔽い胸を抑える気持ちで石垣の裾の坂路を下ると、彼はもう一度後ろを振り返って見直した。勿論、家は見たままの静かな姿で、入日を受けた明るい壁際に高高と桐の花を咲かせていた。それでも、まだ矢代の荷物ある寺の方へと足が早まろうとするのだった。
 母と別れて東京を発つときも、京都で先に待たせてあった千鶴子のことで、とかくに騒ぐ思いをし、今また郷里のわが家との別れにも、同じく京都で待つ彼女のために不義理を残して行くわが身を省み、矢代は、羞入る肩の竦みますます寒かった。寺の門を潜ってから洗う手も、自然に千鶴子を浄め落す丹念な水使いになろうとした。座敷へ上って居残った老人たちと茶を喫むときも、彼は頼んであった車の来るのを脱し、この夜はここで泊って行こうかとも考えたが、この日を一日遅らすことは、京都で落ち合う筈の千鶴子たち一行との約束も脱すことだった。それを脱し遅らせたとてどんなことともなる慣れはないとしても、約束は約束で、先方の行動に計画のつかぬことも多数起るかと思われた。
 這入って来た車夫が戸口から矢代を呼んだのは、それから二十分もたっていなかった。今夜は寺で彼が泊ることとのみ思っていたらしい老人たちは、矢代の立ち去る礼をしたとき、予想のごとく暫く意外な表情で物いいかねた様子が見えた。
「もう早やお帰りですか。お泊りもなさらずに。」
 浄瑠璃の老婆の矢代を瞶め問い質す強い口調には、まことに少し身勝手な覚えも、まだ消えぬ折とて、彼には火の刺さる厳しさだった。
「御親切はありがたいのですが、京都で友人が待っていてくれるものですから、遅らすと少し工合の悪いこともございますので。」
「それでも、たまたまお帰りなされたのに、そんなみずくさいこと申されて――」
「お蔭で都合よく用事もすませてもらいましたし、それに時間もどうやら間に合いますので。」
 車夫を待たせた気忙しさに寺への謝礼と、村人たちへの礼心を白紙に包む多忙なためもあって、矢代は調子の合わぬまごまごした挨拶をなおするのだった。
「御先祖さんのおられるところで、一晩もお泊りなさらんのですかのう。」
 黙っている老人連の中からまだ老婆だけは心外の意を露わに向けたてかけて来たが、好意を毒舌にして見せる手際も温く、矢代は、答えかねた窮地の底から、ひそかに門の前の車夫に援助を需む有様だった。そして、ようやく、老人たちに背を向けスーツを引きよせると、まだ何か云いかける老婆の方へ向き返って、
「今度はまア、お赦しを願います、この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりお礼に上ります。」
 と云って笑った。門前まで皆に送られた所で、車に乗ってから、矢代は梶棒の上るまで焔の中から救い上げてくれる手を見るように車夫の動作が待ち遠しく思われた。間もなく車が走り出した。そして、一同を後にひとり山を見上げたとき、彼は初めて、やはりここでも自分は終始旅の客だったと思った。自分にとって故郷はもう東京以外にはなく、そこへ向ってこれで刻刻近づき得られている自分だと思った。日暮の冷たさを含んだ風が山蔭から頬をかすめて来た。苗代の整った峡間の障子が、土臭を吸いとった高雅な風貌に見え、彼はこのときほど障子の白さに心牽かれたことはまだなかった。
「秋十年却つて江戸をさす故郷」
 江戸をたって、故郷の伊賀へ帰ろうとしたときに深川で作ったと云われる芭蕉のこんな句を、ふと矢代は思い出したりした。十年も江戸にいると、芭蕉の眼にも逆に江戸が故郷に見えて来たのであろう。と、そう思うと、矢代は異国にいたときに、これでこの地に棲みつけば、そこを故郷と思う人もさぞ多くなることだろうと考えたことも、今また不意に泛んで来たりした。しかし、家を一歩外に出たもので、胸奥に絶えず描きもとめているふるさと、今身を置く郷との間に心を漂わせぬものは、恐らく誰一人もいなかったことだろう。してみれば、その者にとって衣食住は仮の世界、さまよう自分の旅ごころこそ実の世界、と念うもの佗びた心情もあの草の中の障子の白さの中には棲んでしまっていると思った。そのほの白さは、胸奥ふかく沈めた旅の愁いの灯火の色だった。
 山の裾が平野の中へ消えて来て、葉さきを曲げた芒の向うに、入日をうけた海が大きく空に残照をあげていた。暮れかたむいて来る芒の中の野路には人影もなかった。
 矢代は細い村道の集りよった辻まで出たとき、そこから後を振り返って見た。通って来た自分の家のある村は、はるか後方に退って見えなかったが、城山の峯だけ一つ疎らな人家の屋根の上からまだこちらを向いて立っていた。脇息のように二軒の屋根を両肱の下に置き、やや身を傾けさし覗いている様子であった。偶然の好位置から振り向いたといえ、沢山並んだ他の峯峯のどこも姿を消している中から、ただ一つ覗いていてくれたその様子に、彼ははッとして襟を正し、「おい、一寸」と車夫を呼びとめた。上り気味な片肩の表情には、永い退屈さもやっと通りぬけたと云いたげな寛ぎがあり、文句なく、遠い先祖が起き上り黙って彼を見送っていてくれた姿に感じた。
「どうも、すみません。今日だけは赦して下さい。」
 矢代は帽子をとって軽く頭を下げてから、また車を降り、山の方へ向き変って鄭重に礼をし直した。
 夕焼の拡りを半面に受け、老人らしく眩しそうに身をひねってはいるが、立てば背丈も相当に高そうな頭の部分に、黒松が繁っていた。見れば見るほど、それは狩衣を着た姿だった。両脇から頂上の砦へのぼっている山襞は袖付の裂け目に似ていた。何の邪魔物もない空の中で、おだやかな、物分りの良い、やさしい微笑さえ矢代は、その狩衣から感じた。じっと動かずいながらも、首だけゆるく廻すように感じるのも、すべてこちらがそう思うからにちがいないに拘らず、それでも、なお彼はその顔と、活き活き話も出来るように思った。
「さア、もうお前は行きなさい。」
 とそういう風にも顎が動く。
「そこにそうしていて下されば、僕たちも安心です。」と矢代は云った。
「うむ。」
「もう皆、お分りでしょうから、お話もいたしません。どうぞお大事に。」
「うむ。」
 矢代はこみ上って来る感動に堪えかねて、とうとう泣いた。涙が出て来てとまらなかった。若い車夫は前掛けの毛布を肩にかけたまま、極まり悪げに彼から顔を背けて待っていたが、矢代は介意(かま)わずなおいろいろ山の話をつづけたくなり、そのまま去って行く気持ちもなくなるのを感じた。そして、どうして今の今までこの姿を忘れていた自分だったのかと、急に過ぎた日のすべてが空虚な日日のように思われて来るのだった。それは実に間のぬけた、迂濶な生活のように思われて残念だった。
「ともかく、まア、行きなさい。どこにいようと同じだよ。」
 と狩衣姿が云う。
「それはそうだとしても、他に面白いことといって、ありません。」
「そういうたものでもないさ。」
 山は黙ってそのときちょっと京都の空の方を見たように思った。矢代は、その山のいつも見て暮していたのは、やはり先祖の故郷のあるその視線の方向だったのかと思い、つい自分も見た。
「俺はここで死んだが、なに、これは一寸、休ませてもらっただけだったよ。」
 こういうようにも見える山は、少し多弁になりかかろうとして、にこにこッとすると、またどういうものか口を閉じ、
「さア、もう行きなさい。」
 と顎で彼を押す風だった。
 矢代はまだ去りがたく足も鈍ったまま車に乗った。日はもう没していて、揺れ変って来た芒の葉の向うから生温い夜風が吹いていた。そして、蛙の鳴く声が次第に高く路の両側から起って来て、そこをすたすた急いで走る車夫の足音も冴えて来たが、まだ彼は帽子をとり車の上から振り返っては幾度もお辞儀をしつづけた。

 その夜、京都へ向う夜行にやっと矢代は間に合った。来るときもそうだったが、帰るときも危いところを狂いなかったそれだけにまた、彼は充実したものを持ち過ぎて来たようで、寝台のない車中では容易に眠られそうにもなかった。そして、京都で千鶴子と会ったとき、郷里の模様を多少は変形させて話さねばならぬ面倒さについても考えたりするのだった。もし千鶴子に、心中去来した郷里の思いをそのまま話す場合、結納まですませたときとしても、この結婚は愉快さを失うものを含んでいたからだった。実際、まだ二人の間には、踏み心地に形のつかぬもどかしいもののつき纏う感じがあった。二人の周囲の誰も結婚を赦しているときに、このたびは矢代自身の裡から膨脹する不安を覚えて、それを今ごろ揉み消すことに気を使う夜汽車だった。
 こんな不安の原因は、矢代の見て来た先祖の城を滅ぼしたものが宗麟で、彼の信じたカソリックを、千鶴子もともに信仰しているという、ただ単なるそのような遠い過去の敵意の仕業では、無論なかった。先祖のそんな悲劇に関しては、怖るべきはその偶然だけであって、それも二人の間で整理をつけてしまっている筈だった。
 しかし、それでも、二人の間にはまだそれから迯れきれぬものが残っていた。何か漠然とした、明瞭でない不安が新しい芽をふき彼の中で伸びていた。それも、いよいよ結婚する二人だと思うと、そのため一層強まって来る不安な芽だった。
 矢代はそういう邪魔な感情を剔り捨てたくとも、手もとに用を達する刀のない気持ちがつづいた。強いて需めると、それはただもう結婚するより仕様がなく、今まで二人の目的としていたものを早く使ってしまいたい。そんな朧ろな、流れの末の分らぬそれは不安心だった。
「あたし、何んだかしら怖いわ。何ぜだか分らないの。」
 結納の品定めの日、松濤の木椅子の上でふと洩らしたこのような千鶴子の吐息を思い出し、今も耳近く聞えるように彼が思うのも、千鶴子がどんな意味か分らず洩らした歎息であっただけに、今の自分を考え合せるとはっきりして彼も怖くなった。
「この次は家内をつれて来ますから、そのときはゆっくりとお礼に上りますよ。」
 と、彼は昼間そう老婆に云って、ようやく脱け出て来た自分の別れの挨拶を思っても、この次千鶴子をつれて行き、二人であの山を眺めて立ったとき、車夫に扶けられたきょうの脱出の程度で、果して二人の苦しさは済むことだろうか。あの山を眺めて涙の出て来たときも、もうここから動きたくはないと思った気持ちの中には、たしかに、京都にいる千鶴子のことを、一つは頭に泛べたそのためもあったようだった。
「しかし、過去は問わぬ、それが伝統じゃないか。自分も過去を問われず戻って来られた今じゃないか。」
 とまた彼は溌ね起るように思ってみた。しかし、そう思う後から、彼はまた自分の家の紋章が二つ巴で、顔をよせ合せた睦じそうな形に拘らず、尾だけ撥ね合っているのが、不思議と何事かを予見している風にも見えて寝苦しかった。考えつめて行けば行くほど、も早や考えとは思えぬ妄想の中で呻くような、こんな夜となって来ると、ひたすら彼はもう眠ることだけに意力を使いたくなり、周囲で眠っている人人の顔を見廻した。どの顔もそれぞれ過去を持ち、そして、それを問わず明日を信じて旅をしている顔ばかりだった。
 翌朝、三日も寝不足のつづいた頭で起きたとき、昨夜の不安定は奥へひそみ、代りに、疲れが髄から染み出て来て、走り去る窓の景色もただ眠けを誘うばかりだった。すると、瓦の波の光を噴いた沿線の街の中から、遠霞んだ城の頭が美しい姿を顕して来た。この城は来るとき、夜中の寝台のため矢代の見忘れたもので、田辺侯爵家の城だった。
 いま遠望する白壁の層層と高い天主閣の品位ある姿は、郷里で彼の見て来た狩衣姿の自分の家の荒城とは、およそ違った栄え極めた眺めだった。田辺侯爵夫妻と船を伴にして帰った関係上、千鶴子は自分との結婚に反対する母の意を翻えしめる援助を、侯爵夫妻に頼んだことも思い出されて、矢代には懐しかった。
 混雑した人中に羞しく身を没するようにして、彼は感謝をこめ、窓から美しい天守を眺めている間にも、自然に彼は自分の凭りかかっている窓の悲劇と、眼に映じたこの城の今もなお華麗な活動をつづけている姿とを合せ考え、かげろう立つ空の青みの中に交る興亡二つの運命の描いた線の擦れ違う哀愁を身に感じた。そして、侯爵の家に招待されたこの冬、集った客たちと一緒に一夜を過したそのとき、図らずも彼が好遇された久木男爵との一件を父が知り、翌日、父の急死したことをもまた同時に彼は思い出したりした。
「そうだ、あの次の日だった。父の死んだのは。」
 彼はおどろいてまた振り仰ぎ、その父の骨を納めに来たこのたびの自分の旅も、やはりこの城とは離せぬものだと思った。自分の知らぬ結ばれたもの、それは必ずこの地上にはあると彼は思い、盛衰興亡とは廻された番の勤めのことだと感じて、彼は、栄え実った田辺家の盛んな姿に恵まれた幸運の徳を賞めたたえたくなるのだった。


 午後の三時ごろ矢代は京都ホテルへ着いた。彼はすぐ千鶴子の部屋を尋ねようかと思い、一ぷく煙草を喫い終るまで椅子から動かなかった。まだ耳底から汽車の動の鳴りやまぬ体をそうしてみていて、すぐ千鶴子に会わねばいられぬものかどうか、彼はしばらく自分を沈めていたかった。
 屋根瓦ばかり並んだ窓の外で、本能寺の樹木の方へ乱れ飛ぶ雀の羽が光って見える。乾いた空の色だった。彼はいつ結婚しても良い自分ら二人の身の上になっているこの際、今夜ここで泊ればそれも早や定ることだと思った。結婚を延ばすか否かは、まったく自分の一存で決定出来る今の場合、まだ車中の妄想に動かされているのは、愚かなこと以上実は無責任も甚だしい行為というべきだった。
 矢代はしかし、心のおもむくからには行くまで自然に行かしめよとも思った。今のような不安定な気持ちは、も早や愛情のあるや否やなどといった感傷事ではなかった。自分か千鶴子のどちらか一人死に生きする、その一つを選ばねばならぬときに似た、張りつめた先端にいるようだった。彼は他人の誰にとってもそうではないことが、自分ひとりにとって、なおざりにしがたい傷創になろうとしているこの旅行の行程に、喜ばれぬ無意味ささえ覚えたが、とにかく、いまは何より先ず湯に入ってから夕食まで眠ることにして、隣室の千鶴子たち誰にも到着を報せずに寝た。疲れが烈しく眠れそうにないのも、やはり幾らかは眠っていたと見えて、一時間あまりしてから彼はドアの開く音に眼を醒した。暗くなっている部屋の中にうす白く動く姿を認めたとき、朧ろながらも千鶴子だと彼はすぐ思った。眠けのとれない眼が、寝台の傍に立っている胴のあたりを見たまま、早くもひび割れてゆくように和らぎ通うものを感じて来るのだった。
「もう幾時ごろですか。」と出しぬけに矢代は訊ねた。
「お帰りなさい。」
 びっくりしたらしく、急にスイッチを入れる音がして、つづいて壁際から振り返った千鶴子の笑顔が泛き上った。
「お食事ですの。皆さん下でお待ちでしてよ。いかが。」
 しばらく見なかったのが不思議なように思われる、間近い笑顔で、薄化粧の匂うあたりに沁み崩れてくるふくらぎを感じ、矢代は、眠る前まで考えていたこととはおよそ違う親しさに、忽ち取り抑えられた自分が腹立たしいほどだった。起き上り、千鶴子に背を向けて洗面をする間も、彼はひとり思い屈して来た車中の様子を、不問に揉み消したくなり気づかせたくはなかった。
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