旅愁
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著者名:横光利一 

 と千鶴子は額に手を翳し、飛び散る泡にも滅(め)げず云った。
「そうですね。しかし、まア、幸いにこれほどで何よりでしたよ。ナポリへ船の寄らないのが残念ですが。――」
 吹きつける風が千鶴子のドレスをぴたりと身体につけたままはたはたと裾を前方に靡(なび)かせる。
「コロンボまで来たとき、一番日本へ帰りたいと思いましたが、ここまで来ると、もうただわくわくするだけで、何んだかちっとも分らなくなりましたわ。」
 矢代は軽く頷いた。彼は今の自分を考えると何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似ているように思った。長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。
 地中海へ這入って以来、憧れの底から無性に襲うこのようないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。

 船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
 船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
 このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
 二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
 矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り見物の一角が賑やかな騒ぎになった。いつも物云うこともない静かな三島と云う機械技師が酒の酔いが出たものと見え、いきなり隣りの外人の婦人の肩を親しそうに叩きながら靴を脱げと云い出した。日ごろの音無しい三島を知っているものらは転げるように笑い出すと、また誰彼かまわず肩を叩き廻って靴を脱がそうとしたが、やがてそれも余興の一つとなると踊りは一層甲板で賑った。
「じゃ、わしも一つ、踊ろうか。」
 と、老人の沖氏は立ち上って、高と踊り終えたばかりの真紀子にまた申し込んだ。この船会社の重役は船客たちの中で一番年長者であり、自分で自ら、「私は不良老年で、」と人人に高言するほど濶達自由で豊かな知識を持った紳士であった。船中でのティパーティのときもよくこの老人は外人たちに巧みな英語で演説した。頭の鉢が大きく開き強い近眼の上に鼻がまた素晴らしく大きくて赤かったが、その奇怪な容貌のようにこのときの沖氏の踊りもひどく下手いというよりも初めから巧みに踊ろうとは考えてもいない踊りである。「あは、あは、」とただ笑いながら足踏みしているだけだ。真紀子も自然に笑い崩れてときどき立ち停り、あたりの踊りへ突きあたる。見ているものもその度にどっと笑う。
「いや、これはワルツでね。」と沖氏は云って、「どうです、皆さん。今夜が最後ですよ。いっそのことおけさでもやるか。無礼講じゃ。」
「よし、やろう。」
 沖氏の元気に若者たちも火を点けられると、もう甲板の上の踊りなど皆には面白くなかった。外人や中国人をそのままそこへほうり出して踊りに任せ、一同サロンへどやどやと這入っていって日本人ばかりで酋長の娘から初め出した。それがさくら音頭から東京音頭となり、野崎小唄となり、だんだん進んでいくに随って、とうとうあなたと呼べばというのになった。若者たちはも早や胸を絞られ遠い日本の空の思いに足もひっくり返って来るのだった。中には非文化的なことをここまで来てもやるとはけしからぬと怒って自室へ引っ込むものも一二あったが、むらむらと舞い立った一団の妖気のような粘りっこい強さには爆かれた水のように力がなかった。
 船客たちの唄が尽きたころになると、そのまま解散するのも互に惜しまれて次ぎにはそれぞれ隠し芸をすることになった。進行係は皆の意見で沖氏となった。長唄を謡うものや詩吟をやるもの、踊るものなどが現れた後、今度は真紀子に何かやれやれと皆がすすめた。真紀子は初めの間は躊躇していたが、沖氏に立って来られると、
「じゃ、やりますわ。」
 と逃げるようにピアノの傍へよっていった。船客たちは長い航海中、誰も真紀子のピアノを聴いたものがなかったからこの意外な余興に拍手をあげて喜んだ。
「何をやるんです。」
傍へよって訊ねる沖氏に真紀子は小声で短く何ごとか囁いた。
「ははア。」と沖氏は云って満足そうに一同の方に向き、「え―皆さん、これからわれらの真紀子夫人はドナウの流れという曲を弾かれますから御清聴を願います。これはウィーンにいられる御主人のことを忍ばれた曲でありまして、いささか皆さまにとりましてはお聞き苦しいかと存ぜられますが。――」
 ここまで沖氏が云うと床の緋の絨毯を靴で打つものや奇声を発するものがあったが、すぐピアノは鳴り出した。背中の少し開いた真紀子のソアレの割れ目から緩急に随い、人より白い皮膚が自由な波のように揺れ動くと、三島は「ほおう。」と剽軽(ひょうきん)な歎息をもらしたのでまたどっと皆は笑いを立てるのだった。余興のこととて曲は手軽に辷って終ったとき、拍手の中を沖氏がまた立ち上った。
「皆さん、今の御演奏はまことに御立派なものだと、感服いたしました。これは一重に明日マルセーユへ現れる御主人のことを、毎日毎日思いつづけられた淑徳の結果かと存ぜられます。次に一つ、千鶴子さんにお願いします。」
 千鶴子は真紀子の弾奏中にすでに次ぎに廻って来るものと覚悟をしていたものと見えて、すぐ臆せず立ち上った。
「あたくしはピアノが下手でございますから、唄にさせて貰います。」
「何んです、何んです。」と云うものがあった。
「伴奏、伴奏。」と誰かが云うと、真紀子が再度ピアノの傍へ沖氏に引っ立てられたが、三島は突然真紀子の傍へよっていって、「靴、靴。」と云いながら裾の方へ跼(かが)み込んだ。沖氏は一寸不愉快そうな顔になると三島の肩を掴んで自分の席へ連れ戻った。
「ここはまだ船の中でございますが、明日は皆さま、パリへお立ちになる方が多うございますから。」
 千鶴子がここまで云ったとき三島がまた、
「パリの屋根の下。」
 と叫んだ。もう子供と同じようになっている皆の者は手を打って喜んだ。千鶴子は真紀子に一寸会釈をしてからパリの屋根の下を唄い出した。
かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたん
どるまん
だんのうとるろっじゅまん
じぇべいねすうばぁん
ぷうるてるべいるふぁれどら
るじゃん
 唄がすすむままに一同はもう上機嫌になって、間もなく眼の前に現れて来るパリの実物に接した思いで、それぞれ首を振り振り唄うのであった。この唄は一度終るともう一度もう一度と、皆は千鶴子をせきたててやめなかった。


 今日はいよいよマルセーユへ著くというので船客たちは朝から誰も落ちつきがなかった。食卓のボーイや酒房や部屋つきのボーイにチップをやらねばならぬ。客たちはあちらこちらに塊って幾らやるべきかという相談をしていた。誰か一人の者が巨額のチップを与えれば他の者が不愉快になる。長らく共同の生活をしたのであるから、均衡を乱しては船中の愉快さも最後の一日で消えてしまう。このことは礼儀として一応船客たちの誰も考えねばならぬ最も重要なことであった。勿論、印度洋あたりの無聊(ぶりょう)なときに、チップの金額を一定にしょうと云い出すものがあって、すでに金額は定まっていたのだが、さて支払日となると規定のことも破れてしまう。別れてしまうのも後数時間のことである。あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
 船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
 こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである。
「さア、これで良ろしと。」
 いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子(ふり)で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
 と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
 甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
 久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
 と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
 と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
 と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が、当時の偉人を幽閉するに恰好な島だとは、矢代も、それ一つでこの国の優雅さがすでに頭に這入って来るのだった。
 船が島を廻ると長方形のマルセーユの内港が、波も静かに明るい日光の中に見えて来た。船は速力をゆるめ徐徐に鴎の群れている港の中に這入っていった。鍵形に曲った突堤と埠頭の両側から、吊り橋のように起重機が連り下っている。その向うの各国の汽船のぎっしり身をせばめて並んでいる中に今やこれから日本へ帰ろうとする香取丸が、慓悍(ひょうかん)な黒い小さな船尾だけ覗かせ煙を吐いて泊っていた。あの科学の塊りのように見えていた汽船が、今は無科学の生物のように見えて来る。
「香取がもう立ちますよ。日本へ帰るんですよ。」
 と船員が、もうすっかり日本を忘れてしまっている皆の船客たちに歯痒ゆそうな声で報らせた。しかし、今著いたばかりの一同には、もう知りぬいて倦き倦きしている日本の船のことなど考えている暇はなかった。まったくの所、まだ見たこともないヨーロッパが足の下に実物となって横たわっているのである。早くこの怪物を一つ足でぎゅうっと踏んでみたい。しんと息を飲み込んだ鋭い無気味な静けさが船客たちの間に浸み渡った。物憂くなるほどの明るい光線を浴びて、人人はただ船足の停るのを今か今かと見守っているばかりである。
 矢代は、いつの間にやらゴールへ来てしまった自分を感じた。船はマルセーユの埠頭へ胴を横たえようとしている。静かな静かなそのひと時だった。――
 矢代は、今まで自分を動かして来た総ての力もここでぷつりと断ち切れ、全く新しい、まだ知らぬ力がこれから先の自分を動かして行くのだと思った。やがて、船から梯子が埠頭へ降ろされた。どやどやと梯子を登って来るヨーロッパの人間の声が聞える。
「では、皆さんどうも、長長お世話になりました。」
 一人の船客が別れの挨拶をした。
「ではお身体お大切に。」
「さようなら。」
 こういう会話の後で、急に、
「ああ、香取丸が出て行くよ。」
 というものがあった。矢代は見ると、小さな香取が船尾を動かし、静かに体を曲げ、何の未練気もなくさっぱりとした態度でさっさとマルセーユの陸から離れていった。
「僕も帰りたいなア。」
 と船客の一人が溜息をついた。矢代も甲板に立って香取の姿が煙を流し見るまに港の外へ消えて行くのを眺めていたが、間もなく始まる上陸である。これから上陸許可証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
 真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
 肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
 どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
 一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
 と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
 ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
 荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰色の鎧戸に新しい黄色な日覆をつけた窓窓も、文化の古さに縫いつけた新しい鰓のように感じられた。
 一行の自動車は坂を登ったり降りたりした。午後の四時ごろである。マルセーユの街は散歩の時間と見えて、どの通りも人がいっぱいに満ちていた。太陽の射している街と日蔭の街とが、屈曲するごとにぐるぐる廻って矢代の前に現れた。ある坂の四辻まで来かかったとき、「ここは去年、ユーゴスラビヤの皇帝がピストルで暗殺されたところです。丁度ここですよ。」
 と永くこの地にいる日本人の案内人が自動車を停めさせて説明した。
「軍艦を降りてから儀杖兵づきで、ここまで自動車で来られたところが、丁度ここでしたが、路がクロッスしてるものだから自動車が一寸停ったんですな。そこへつかつかと一人の乞食のようなロシア人が来ましてね、いきなり窓ガラスを拳銃の柄でぽかッと叩き壊して、続けざまに乱射したものですから、同乗していたフランスの外務大臣も一緒にやられました。」
 この案内人はこのため近来の大衝撃を受けたらしい自慢顔でそう云ったが、一行のものには何の響きもないらしい様子に失望して、馬鹿馬鹿しそうにまた自動車を走らせた。暫く行ったとき、
「ここは男の跛足の多いところだね。」
 と久慈は窓にしがみ付くようにして矢代に云った。
「大戦があったということが一目で分るもんだな。」
「そう云えば、笑ってるものが一人もいないや。」
「笑ってるどころじゃないよ。これだけ人がうようよしているくせに、話してる者もいない。何をいったいしてるんだろ。」
 巨大な街路樹の葉蔭で流れている人々の顔も青白く、疲れているように口をつぐんだまま、誰も彼も眼だけを異様に鋭く光らせているだけだった。
「これや、もうヨーロッパ人は、考えることは皆思想より無いのだね。豪いもんだ。」
 と久慈は云った。分らぬ答案ばかり陸続と出て来るうちに車は旧港の桟橋にかかって来た。すると千鶴子たちを乗せた一団の車と一緒になった。二つの車を乗せた桟橋はぷつりとその部分だけ切り放されると、海の上をそのまま対岸の方へ辷っていった。
「ノートル・ダムですよ。向うに見えるのは。」
 と案内の者が云った。
「おや、あそこに、僕らの船が見えるぞ。」
 と沖氏が云った。陸へ自動車が上ってから、しばらく坂を登ったところに数百尺の高い断崖が立っていた。その上にノートル・ダムがある。一行はエレベーターに乗り換え、ケーブルに乗り換えた。見る間に街は下へ沈んで行くと、半島が現れ、丘が見え、島が水平線の上から浮んで来た。
 山上に立つと明るい南仏の風景は一望のもとに見渡された。灰白色の陶土のように滑かな地の襞に、ところどころに塊り生えた樹の色は苔かと見える。海は藍碧を湛えてかすかに傾き微風にも動かぬ一抹の雲の軽やかさ。――
 何と明るい空だろう、と矢代は思った。廻廊のような石灰岩の広い階段を廻り登って行くうちに寺院へ著いた。中は暗く鞭のような細長い蝋燭の立ち連んだ間を通り、花に埋った一室へ足を踏み入れた。
 その途端、矢代はどきりと胸を打たれた。全身蒼白に痩せ衰えた裸体の男が口から血を吐き流したまま足もとに横たわっていた。
 外の明るさから急に踏み這入った暗さに、矢代の眼は狼狽していたとは云うものの、いきなり度胆を抜くこの仕掛けには矢代も不快にならざるをえなかった。それもよく注意して見るとその死体はキリストの彫像である。皮膚の色から形の大きさ、筋に溜った血の垂れ流れているどろりとした色まで実物そのままの感覚で、人人を驚かさねば承知をしない、この国の文化にも矢張り一度はこんな野蛮なときもあったのかと矢代は思った。しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかったという人間の気持ちである。このリアリズムの心理からこの文明が生れ育って来たのにちがいない。それなら瞞されたのはこっちなんだ。――矢代はひとりキリストの血の彫像の周囲を幾度も廻ってこう思った。そうしているうちにその瞑目しているキリストの姿から、なぜこんな痩せ衰えた姿となってキリストが殺されねばならなかったかという事情が、ははアと朧ろに分ったような気持ちがするのだった。
「ここじゃ、リアリズムがキリストを殺したのだなア、つまり。」と矢代は、一つヨーロッパの秘密の端っぽを覗いてやったぞという思いで建物から外へ出た。千鶴子と久慈は早くも外の観台に立って、風に吹かれながら明るい光線の降りそそぐ遠方の半島を眺めていた。すると、それもまた幾度も日本で見たセザンヌの絵の風景そのものの実物であった。あの絵の具という色で追求に追求を重ねた実物の半島――それ以来絵画を観念化せしめたその実物がそこにあった。
 数十日の波と船と蛮地ばかりの熱帯とを通って来た矢代の足はこのときから少しずつ硬直し始めた。彼は太股を撫でながら日本人が文化が分るのどうのと云ったところで、それは全くわれわれ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始めて来るのだった。


 夕食のころになって矢代たちの一行は街へ降りレストランへ這入った。前には道路をへだて、夕日に輝いた海が淡紅色の水面をひたひたと道路の傍まで湛えていた。海へ下って来ているあたりの街には海草の匂いが立ち流れ、家の中の人人の顔まで照り返った夕日に染り、花明りによろめく蝶のような眩しさだった。店の客たちは海の方を向いたまま、牡蠣の貝にナイフをあて静かに舌をつけて楽しんだ。
「さアさア、フランスのパンが初めて食べられるぞ。」
 と沖氏は揉み手をして笑った。この元気の良い老人もようやく疲れが出て来たらしく、椅子に背をぐったりよせかけて食事の支度の出来るまで動かなかった。
「いや、それより何より、先ずマルセーユの葡萄酒を飲もう。おい、葡萄酒。葡萄酒。」
「うい。」
 軽くあっさりした女の返事があって、赤と白とが並べられた。今は一同、互に恙なくここまで来られた健康を祝すために無言のうちにコップを上げた。一瞬、かつて船中では見られなかった厳粛な表情が皆の面にさっと走った。
「ぼうとるさんて。」
 と一人が云うと、皆それぞれに葡萄酒を飲んだ。沖氏は傍の給仕の女に、前に習った汝を愛するという即製のフランス語で、
「つれしゃるまん、つれしゃるまん。」
 と云いつつコップを上げた。
「めるしい。」
 女はにこりとして忙しそうにパンや皿や、フォークを卓の上に並べ始めた。
 初めてフランス語の通じた喜ばしさに、沖氏は、
「どうだ皆さん、僕が一番槍だろう。」
 と大見栄切ってわアわア一同を笑わせた。間もなく、オードオブルに混って茄だった小海老が笊に盛られて現れた。海に向った方のテーブルの上では、水から出されたばかりの牡蠣の貝や海胆(うに)の毬が積まれていった。レモンが溶け流れた薄紅色の海気のなかを匂って来る。あたりの薄明のうつろいのうちに港には灯が這入った。鴎のゆるく飛び交う水面を拡がる水脈のような甘美な愁いがいっぱいに流れわたった。
「あたしもここで降りてしまいたい。」
 と千鶴子はミルクを紅茶に入れながら云った。矢代は千鶴子の声を聞くと、そうだ、千鶴子もここにいたのだと初めて気がついた。船の金具がきらきら水上から光って来る。夕栄の映った水明の上を帆船が爽かな白さで辷ってゆく。
「千鶴子さんは、わたしと一緒にロンドンまで行きましょう。若い人たちをここで降ろして、老人とよたよた行くのも、これも良ろしよ。」
 マルセーユへ降りてからは、若者たちが千鶴子のことなど忘れてしまったのを早くも沖氏は見てとって云ったのだった。
 しかし、一行のものの忘れたのは千鶴子だけではない、船中でのごたごたや人事のもつれなど今は吹き散ってしまい、大きな窓いっぱいに灯を拡げて来たこの異国の海港への望みに、もう足など地から放れて飛び流れている一行の有様だった。

 食事がすんだころにはマルセーユの港は全く夜になっていた。一行は婦人の千鶴子を除いてこれから特異な街の情調を味いに行くのであった。これは船の中から一番つれづれの慰安となっていたものだけに、一同の期待は大きかった。
 しかし、夜になって波止場の船へ一人千鶴子を帰すということは危険なことであり、殊にマルセーユの埠頭の恐ろしさは誰も前から聞き知った有名なことである。そこで案内人が先ず千鶴子を船へ送って行くことにして一行は外へ出た。
 街の煌めく灯を映した海面は豊かに脹れ上って建物の裾を濡らしている。紅霧を流したような光りが大路小路にいろどり迷って満ちている。すると、丁度昼間案内されたユーゴスラビヤの皇帝が暗殺された坂の下まで来かかったとき、急に矢代の片足が硬直したまま動かなくなった。長く船旅をしたものに来る病気である。矢代は船中でこの病気の話を聞かされていたからいよいよ来たなと思ったが、足を動かそうにも痛さに痙攣(けいれん)がともなった。初めは矢代も足を揉み揉み歩いていたが、そのうちにもう一歩も歩くことが出来なくなった。そのまま辛抱していたのでは一行の快楽を妨げること夥しかった。そこで矢代は皆に理由を話して、一人先きに船まで帰ることにした。
「じゃ千鶴子さんも一緒で丁度いいでしょう。お大事に帰って下さい。」
 と沖氏が云った。千鶴子も帰る道連れが出来たので案内人を煩わさず、すぐ矢代と自動車を拾って波止場へ命じた。
「お痛みになりまして?」
 しばらく無言のままだった千鶴子は訊ねた。
「いや、じっとしてるとなんでもないですよ。そのくせ、少し動かすといけないんです。船の振動で神経がやられていますから、筋肉がきかなくなったんでしょう。」
 明るい街から暗い港区へ這入ると埠頭はすぐだったが、車は門から中へは這入れなかったから、船まで矢代は歩かねばならなかった。
 鉄の門をくぐったとき、千鶴子はそろそろ足を引き摺って来る矢代の腕を吊るようにして、
「あたしの肩へお掴まりなさいよ。大丈夫?」
 人一人もいない暗い倉庫の間で千鶴子にこんな親切を受けようとは矢代も思いがけない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、大丈夫です。」
 と云いながらも彼は強く匂う千鶴子に腕をとられた。まったく偶然にしてもこんなに傍近く千鶴子といることは一度も船中ではなかったから、早く船が見えなければ気の毒だと割石の凸凹した倉庫の間を、身を引く思いで矢代は跛足を引くのだった。船の灯が前方から明るく射して来ても、千鶴子は臆せず矢代を助けていった。
「僕だけが沈没したみたいで、これや残念だな。」
 一行の無事な中で自分ひとり落伍した淋しさを云うつもりであったのに、しかし、このときの千鶴子には、あながち矢代の云った意味ばかりには響かなかった。たしかに今ごろは胸をときめかせるような歓楽の街に皆がいるのに、一人古い船の巣へ戻る佗しさに耐え難くて発した嘆きと思われたに違いない。
「でも、今夜はお休みになる方が良うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
 と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。

 客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢代も今は手持無沙汰をさえ感じて来るのだった。しばらくすると、眠れそうにもないと見えて千鶴子もサロンへ上って来て矢代の傍へ来た。
「いかが?」
「ありがとう。ここへ戻ると不思議に足が癒って来たんですよ。これじゃ、ヨーロッパで病気になったら、日本船へ入院するに限ると思いますね。」
「でも、結構でしたわ。あたしが送っていただいたようなものですもの。」
「どうも、さきほどは御迷惑をかけました。」と矢代は千鶴子に受けた看護の礼をのべ、
「しかし、こんな所であなたに御厄介かけようとは思いませんでしたね。今度パリへいらしったら、僕が御案内役いっさい引き受けますから、いらっしゃるときはぜひ報らせて下さい。」
「どうぞ。」と千鶴子は美しい歯を見せて軽く笑った。
 いつもの日本にいるときの矢代なら、婦人にこのような軽口はきけない性質であったが、今日一日ヨーロッパの風に吹き廻された矢代は興奮のまま浮言を云うように軽くなり、見馴れた日本の婦人も何となく婦人のようには見えなくなって来たのであった。
「あたし、なるだけ早くパリへ行きますわ。日本へは今年の秋の終りごろまでに帰ればいいんですの。」
「なるだけ早くいらっしゃいよ。もっとも、あまり早いとあなたに案内させるようなものだけれど。」
「でも、ロンドンへもいらっしゃるんじゃありません。」
「行きます。」
「そしたら、またお逢い出来ますわね。」
「ええ、そのときはどうぞ宜敷く。」
 と矢代はこう云って、紅茶を命じるベルを押した。窓から風が流れて来て軽く二人の顔の前を抜けて通るのも、肉親といる窓べの気易い風のように柔かだった。二人はどちらも黙っていた。硬直はとれたものの疲れがそれだけ身体全体に加わったように、矢代はぐったりとして背を動かすにも骨が折れた。
「まア、静かですこと。」
 はるばるとよくここまで来たものだと云うように千鶴子は吐息をふっと洩らし、印度洋の暑さにいつの間にか延びていた卓上の桃の芽を見て云った。
「明日はあたし、ジブラルタルよ。あなた、スペイン御覧になりたくありません。」
「あそこは一つ、ぜひ見たいもんですね。」
「じゃ、いらっしゃらない。」
「そうね。」と矢代は云って窓を見ながら考えた。
 人の降りてしまった空虚(から)の船で、千鶴子とジブラルタルを廻る旅の楽しさを思わぬでもなかったが、しかしそれより今千鶴子と別れ彼女がパリへ来る日を待っている方が、それまでに変っているにちがいない千鶴子と出会う一刻に、はるかに楽しみも深かろうと思われるのだった。
「やはり、僕はパリに行きますよ。その方があなたの変って来られるところが見られますからね。楽しみですよ。」
「お人が悪いわ。」
 千鶴子はそういうと、どういうものかふと笑みを泛べ甲板の方へ立ちかけようとしてまた坐ると、
「でも、それはあたしだってそうよ。あなたがたのお変りになってらっしゃるお顔、拝見したいわ。じゃ、またこの次ぎね。」
「男は変りませんよ。ただうろうろするだけだと思うが、女の方はすぐその土地のままになれますからね、僕らが変るよりももっと影響が大きいでしょう。」
「あなたがたうろうろなすってらっしゃるの、さぞ面白いことでしょうね。あたしの兄が云ってましたけど、二三ヵ月はいやでいやでたまらないんですって。」
「僕は今日でもう少しやられましたよ。僕なんか考えていたのと、やはりヨーロッパは少し違うな。これはこちらの方が日本より文化が高いからだというんじゃありませんよ。つまり頭の呼吸の仕方が違うんですね。僕なんかどちらかと云うと、来るまではヨーロッパ式の呼吸の仕方だったんですが、しかし、心はやはり、日本人の呼吸だったということが、少しばかり分りかけて来ましたね。」
 千鶴子は黙って伏眼になった。矢代はいつの間にか日本にいるときより、婦人と話す自分の会話の内容まで、知らず識らずに質も違って来るのを感じた。これでもしこの話をヨーロッパ人にこのまま話しても通じるものではなく、そうかと云って、まだヨーロッパを見ない日本人に話しても、同様に話の内容は通じないであろうと残念だった。
「千鶴子さんは、日本人がどんなに見えましたか。今日は?」
 千鶴子は云い難そうに一寸考える風であったが、唇にかすかに皮肉な影を泛べると、
「西洋人が綺麗に見えて困りましたわ。」と低く答えた。
「男が?」
「ええ。」
「ははははは。」と矢代は思わず笑った。
「僕もそうですよ。こちらの婦人が美しく見えて困りましたね。」
 とこう云いかけたが、ふとそれは黙ったまま、一日動き廻って見知らぬ面と向き合った今日の怪事の表現も、今こんなに悲しむべき姿をこの洞穴の中でとるより法はないのだと矢代は思い淋しくなった。
 日本人としては千鶴子は先ず誰が見ても一流の美しい婦人と云うべきであった。けれども、それが一度ヨーロッパへ現れると取り包む周囲の景色のために、うつりの悪い儚ない色として、あるか無きかのごとく憐れに淋しく見えたのを思うにつけ、自分の姿もそれより以上に蕭条と曇って憐れに見えたのにちがいあるまい。
「夫婦でヨーロッパへ来ると、主人が自分の細君が嫌いになり、細君が良人を嫌になるとよく云いますが、僕なんか結婚してなくって良かったと思いますね。」
 千鶴子は笑いながらもだんだん頭を低く垂れ黙ってしまった。互に感じた胸中の真相に触れた手頼りなさに二人はますます重苦しくなり、矢代は今は千鶴子以外に船中に誰か人でもいて欲しいと思った。ああ、これが旅であったのか。この二人が日本人であったのか。こう思うと、突然矢代は千鶴子を抱きかかえ何事か慰め合わねばいられぬ、いらいらとした激しい感情の燃え上って来るのを感じた。
 矢代はつと立ち上るとサロンの中央まで歩いて行った。しかし、何をしようとして立ち上って来たのか彼には分らなかった。水底へ足の届いた人間があらん限りの力で底を蹴って浮き上りたいように、矢代は張り詰めた青い顔のまま暫らくそこに立っていた。もう日本がいとおしくていとおしくて溜らない気持ちだった。
 すると、彼の眼にマルセーユの街の灯が映った。日本からはるばるこの地へ来た自分の先輩たちは、皆ここで今の自分と同様な感情を抱かせられて来たのにちがいない。それは何とも云いかねる憤激であったが、しかし、間もなく、これもおのれの身のためだと思いあきらめ、身につけるべきものは出来る限り着つづけ、捨てるべき古着は惜しげなくこれを限りにふり捨てようと決心すると、漸く平静を取り戻して甲板へ出ていった。彼は欄干に身をよせかけながら怒りの消えていく静かな疲れで暗い埠頭の敷石を見降ろしていたとき、背広に着替えた船長がプープ甲板から一人ごそごそ降りて来た。
「おや、お早くお帰りですね。」と船長は矢代に云った。
「ええ、足が硬直して動かなくなったもんですから、残念しました。」
「それや、惜しい。僕はこれから一つ、見物に行くところですよ。いつも見てるところで別に面白くもないんだけど、お客さんに頼まれたもんですからね、じゃ。」
 船長は会釈して甲板を降り埠頭の方へ消えていった。いつも来馴れたものはヨーロッパも早や何の刺戟にもならず、あのように悠然と出来るものかと矢代は思いながら、身についた船長の紳士姿を羨しく眺めて放さなかった。
「どなた。」
 しばらくして、千鶴子は矢代の後ろへ来ると訊ねた。
「船長ですよ。これから見物に行くんだそうです。あの船長はなかなか自信があっていいですね。外国人は、こちらがちやほやするほど、嬉しそうにして見せて、肚では相手を軽蔑するというけれども、日本人がヨーロッパ、ヨーロッパと何んでも騒ぎ立てるのは、これや、貧乏臭い馬鹿面を見せる練習をしてるようなものかもしれないな。どうも、僕は今日はそう感じた。」
「それや、そうだとあたしも思いましたわ。今日街を歩いていたとき、あたしの前を西洋人の親子が一緒に歩いていたんですのよ。そしたら、お父さんの方が子供にね、お前も少しぴんと胸を張って歩け、こうしてっと云って、自分が反り返って歩いてみせるんですの。そしたら、十六七の子供の方も猫背をやめてぴんと反って歩くんですの。」
「ははア、じゃ、やっぱりヨーロッパの人間は、それだけはしょっちゅう考えているんですね。羞しがったり照れたりしちゃ、もうお終いのところなんだ。」
 矢代は日本人のいろいろな美徳について考えた。洋服を着ても謙遜する風姿を見せない限りは出世の望みのなくなる教育法が、次第に洋服姿の猫背を多く造っていく日本の社会について。――
 しかし、矢代はこのとき、どうして自分がこれほども日本のことを考えつづけるようになったのか、全くそれが不思議であった。何も今さら考えついたことではないにも拘らず、一つ一つ浮き上って来る考えが新たに息を吹き返して胸をゆり動かして来るのだった。マルセーユが見え出したときから、絶えず考えているのは、日本のことばかりと云っても良かった。まるでそれはヨーロッパが近づくに随って、反対に日本が頭の中へ全力を上げて攻めよせて来たかのようであったが、こんなことがこれからもずっと続いてやまないものなら。――
 ああ、今のうちに、身の安全な今のうちに日本の婦人と結婚してしまいたいと矢代は呻くように思った。
 矢代が黙りつづけている間千鶴子も同じような恰好で欄干に胸をつけたまま黙っていた。それが暫くつづくと何かひと言いえば、今にも自分の胸中を打ちあけてしまいそうな言葉が、するりと流れ出るかと思われる危険さを矢代はだんだん感じて来るのだった。
 何も千鶴子を愛しているのではない。日本がいとおしくてならぬだけなのである。――
 このような感情は、結婚から遠くかけ放れた不純なものだとは矢代にもよく分った。けれども、これから行くさきざきの異国で、女人という無数の敵を前にしては、結婚の相手とすべき日本の婦人は今はただ千鶴子一人より矢代にはなかった。全くこれは他人にとっては笑い事にちがいなかったが、血液の純潔を願う矢代にしては、異国の婦人に貞操を奪われる痛ましさに比べて、まだしも千鶴子を選ぶ自分の正当さを認めたかった。
「あのね、あたしの知り合いのお医者さんで、ここの波止場で夜遅く船へ一人で帰って来たら、倉庫の所から出て来た男が、ピストルを突きつけて、お金を出せって云ったことがあるんですって。きっとあのあたりでしょうね。」
 と千鶴子は真下に延びている黒い倉庫の方を指差した。千鶴子の考えていたことは、そんなことであったのかと矢代はがっかりとしたが、しかし、今にも危い言葉の出ようかとじっと自分の胸を見詰めていた矢代にとっては、これは何よりの救いだった。
「じゃ、僕があなたにお世話されて来たあのへんですね。どうしましたその人?」
「お金を少しやって、大きな金は船にあるから船へ来いと云ったら、梯子もついて昇って来たとか云ってましたわ。ここじゃ、撃たれればそれまでですものね。」
 矢代は笑いにまぎらせながらも、軽いこのような話に聞き入る自分をまだ結婚の資格はないものと考えた。
「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」
「あたしもそうなの。」
 千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。
「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。元気のいいのはあの老人の沖さんだけだ。僕は足まで動かなくなってしまったし。ははははは。」
 と矢代は笑うと千鶴子から遠ざかって甲板の上を歩いた。
 いや、良かった。危いところを擦り抜けた。もしあのとき、うっかり口を辷らせてでもいたら――とそう思うと軽い戦慄を感じて来るのだった。


 朝靄のかかった埠頭ではやがて船の荷積も終ろうとしていた。パリへ出発する一団のものは、眠そうな顔でそれぞれ船室からサロンへ集って来た。
「さア揃いましたか、それじゃ、行きましょう。」
 と案内人が簡単に云った。
 船客と友人になってしまった船員たちは、甲板や梯子の中段に鳥のように集りたかって別れの言葉を云ったが、どの人人も真心のこもった表情で欄干の傍からいつまでも姿を消そうとしなかった。海の人の心の美しさを今さらのように感じた船客たちも、悲しそうに幾度も幾度も振り返って、さようならさようならを繰り返しつつ関門の前に待っている自動車の傍までゆっくりと歩いた。
 千鶴子と沖氏は船客と一緒に自動車の傍までついて来た。
「さようなら、御機嫌良う。」
「またパリでお逢いしましょう。」
 三台の自動車がいっぱいになったとき、矢代は千鶴子を一寸見た。千鶴子は別れればまた逢う日の方が楽しみだという風に、にこにこしながら皆に挨拶をしていた。
 自動車はそのまま無造作に駅へ向って走っていった。マルセーユの駅は美しい篠懸(すずかけ)の樹の並んだ小高い街の上にあった。車から降りたときは、一同の顔は朝靄の冷たさと出発の緊張とで青味を帯んで小さく見えた。さて、これからいよいよヨーロッパの国際列車に乗り込むところであるから、スタートに並ばせられた選手みたいに、それぞれ切符を渡されても誰も黙って眼を光らせたまま案内人の後からついていくだけだった。
 ホームの上は煙に曇った高いガラスがドームのように円形に張っていて、褐色をした列車が生温い空気の籠ったその下に、幾列となく並んでいた。矢代が久慈と一つのコンパートメントに席をとると、若い者はどやどやとその一室に集った。
「もうこれでいいんでしょう。」
 と初めて一人が言葉を云った。まだ何かしなければならぬことが、沢山残っているような気のしているときとて、
「ええ、もうこれで、ただ乗ってらっしゃれば、パリまで行きます。」
 と案内人は笑って答えた。
「じゃ、昨夕のことをそろそろ話し合おうじゃないか。」
 と一人が云うと、皆は漸く安心した気楽さに返って、見て来たマルセーユの夜街の面白さを話し始めた。しかし、それらの話は誰も面白かった。それだけどこか面白くなかったという表現をするのであった。
「あなたはどうだった。」
 と久慈は矢代に笑って訊ねた。千鶴子と二人ぎりでいた船内のことをひやかしたのだとは一同すぐ感じたらしく、皆矢代の方を向いた途端に汽車はパリへ向って出発した。
「僕もなかなか面白かったな。」
 と矢代は久慈の先手を打ったつもりであったが、駅を出た野の美しさに、もう人人は耳を傾けようともしなかった。昨日ノートル・ダムの上から見た半島が現れ、丘が見え、海が開けて来るに随って、だんだんマルセーユは遠ざかっていった。
 杏の花の咲き乱れている野、若芽の萌え出した柔かな田園、牧場、川と入れ代り立ち変り過ぎ去る沿線の、どこにもここにも白い杏の花が咲き溢れて来て、やがてローヌ河が汽車と共にうねり流れ、円転自在に体を翻しつつもどこまでも汽車から放れようとしなかった。
 矢代はしだいに旅の楽しさを感じて来た。たしかにフランスの田園は日本のそれとは全く違った柔かな、撫でたいような美しさだと感歎した。一木一草にさえも配慮が籠っているかと見える築庭のような野であった。
 その野の中をローヌの流れが広くなり狭くなるにつれ、芝生の連りのような柔軟な牧場ばかりがつづいて来た。一本の雑草もないようなゆるやかなカーブの他は山一つも見えなかった。
「フランスの田園の美しさは、世界一だと威張っているが、なるほど、これじゃ威張られたって、仕様がないなア。」
 と三島が云った。
「こんなに綺麗だと、見る気もしないや。これじゃ、パリはどんなに美しいのかね。」
 と商務官が云う。
「さきから見てるんだけれど、鉄道の両側に広告が一つもないな。バタの広告がたった一つあるきりだ。村も日本の十分の一もないが、これで都会文化が発達したのだね。」
「フランスは自国民の食うだけのものは、自国内にあるんだから、植民地の蔵から軍備費だけは、充分出ようさ。」
 こう云う医者に商務官はまた云った。
「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあったね。いったい自分の国を善くしたいと思うのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのがそれが恐いよ。」
「それやね、国というものを考え出すと、われわれ医者も生理的に苦労をするよ。しかし、まア、君のように、人情を出しちゃ、病人が死んでしまう。」
 と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
 皆この医者の云い方にどっと笑った。
 しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
 何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
 話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形(あぶみがた)の引手を引いてみた。
 すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
 とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
 と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
 ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫って来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」
 と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」
 しぼしぼ村に雨が降って来る。皆の者は饒舌りすぎて、時間を見るのも忘れていたので時計をそれぞれ取り出すと、たしかに誰の時計も時間はパリ著のころあいだった。それじゃもう荷物をそろそろ降ろしておこうと云うので棚から一つずつ降ろし出し、まだ半分も降ろさぬ間に汽車が停車場に停ってしまった。
「ほんとにこれがパリかなア。」
 と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」
 とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。マルセーユを発つとき、案内人から一行の一先ず落ちつく宿へ電報を打って貰っておいたので、誰か迎いの者が見えるであろうと荷物の傍に皆は並んで立っていたが、さて誰が宿の者だか分らなかった。
 間もなく汽車から降りた外人たちは、それぞれプラットから消えてしまい汽車のどの室も空虚になったが、しかし、一行だけは塊ったままいつまでもしょんぼりとして動かなかった。
「どうするんかね。こんなことしていて。」と久慈は云った。
「迎いに来るというから、待っているんだよ。」と医者が答えた。
「しかし、迎いに来るかどうか、返事が来てないんだから、分らないじゃないか。日本じゃないよ。ここはパリだよ。」
 とまた他の一人が云った。
 なるほどここは日本じゃないと、はッと眼が醒めたようにまた一同の顔色が変ったが、しかし、宿の在所がどこだかそれが誰にも分らなかった。そうかと云って、このままいつまでもプラットに突っ立っているわけにもいかなかった。そこで、赤帽に荷物だけ持たせて先ず待合室の方へ出ていった。しかし、待合室でもまた一同は誰がどこから来るのか分らぬままに、雲を掴むような気持でぼんやり待つのであった。気附かぬ間に夜になっているばかりでない。耳が聾者のようにびいんと鳴って聞えなくなっているうえに空腹が迫って来た。
「いったい、その宿屋は外国人の宿屋かね。日本人の宿屋かね。」と久慈が訊ねた。
「日本人のぼたんやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
 と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
 一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
 と一言運転手は答えただけだった。
 じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。


 まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。
「どうも俺の感覚はこりゃ蛙に似てるぞ。」
 と矢代は思って苦笑した。歩く度びに靴の踵から頭へびいんと響く痛さにいつも泣き顔を漂わせ、椅子にかけると何より矢代は靴を脱いだ。
「東京の友人たち、今ごろは定めし笑っとるだろうな。」
 とこう思うと、ヨーロッパ主義に邁進している誰も彼もの友人の顔が腹立たしくさえなって来た。
 彼は久慈ともよく会ったが、初めは話すことが何もなく黙っていた。ときどき久慈が、
「いいね、パリは。」
 とうっとりした顔で云うことがあったが、それにも矢代はそのままに頷きかねいらいらとした。
「東京とパリのこの深い断層が眼に見えぬのか。この断層を伝ってそのまま一度でも下へ降りて見ろ。向うの岸へいつ出られるか一度でも考えたか。」
 とこう肚の中で矢代は云う。しかし、見渡したところ、足場の一つもないこの大断層にどうして人人が橋をかけるかと思うと、他人ごとではなく自分の問題となって響き返って来るのである。それもやむなくいつの間にかそこを飛び越して、先ずパリに自分がいるのを知り、鼻の頭の乾いた犬のような自分の状態を見るにつけ、先ず考えることより何より今は運動だと気がついて、矢代は終日あてどもなく街街を歩き廻るのだった。ここは全く矢代には乾燥した無人の高い山岳地帯を登るのと同じだった。それもふとこの山は人がみな造ったのだと思ったその瞬間、がらがらッと念いは頂上から真逆さまに下まで転がり落ちた。一日に一度はこうしてどこかへ落ちつづけているうちに、だんだん転がり落ちているのは自分だけじゃないと思い始めて来るのだった。見渡したところ、どの外人の旅行者たちも辷り転がっているものばかりか、多くのものは尻もちついたまま動けぬものばかりに見えて来た。
「ほう、これは面白いぞ。」
 こんなに思い始めたころは、矢代も転がり辷っている自分の方がまだ高きに登っているようで次第に元気も増して来た。
 矢代の部屋は四階にある光線のあまり射し込まない十畳ばかりの部屋で、電話もあり隣りにバスもあった。久慈はよくここへ来たが、彼はあまり元気を失わぬので、著いた夜からもうホテルにいなかった。彼を思うと元気を無くさぬ何か理由を見つけたのにちがいないと矢代は思った。
「君、あの著いた夜はどこへ行ったんだ。僕らは随分探したんだよ。」
 とあるとき久慈に訊ねたとき、
「友人に電話をかけたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
 と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
 と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
 二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
 冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。
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