旅愁
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著者名:横光利一 

 矢代は自分らの苦心の勉強もすべては西洋に答うべき東洋の美質の再建のときであって、ルネッサンスの取り入れた科学をギリシアのように頭として使わず、自分の手足として使う能力を養う工夫に、今は全力を尽すべきだと思うのだった。
 矢代は書物を伏せて時計を見ると、もう十一時近かった。彼はあわててストーブに薪を投げ入れ、鶏の腹にバタを詰め込んで丸焼にとりかかった。金串に刺した鳥肌が火の上でじじッと脂肪を垂らす音を聞きながら、彼は千鶴子と槙三に御馳走をするその前に、ルネッサンスの中核を嗅ぎあてることの出来た午前を、山小屋に来た甲斐があったと喜んだ。それはまことにほのぼのとした白光の世界を望む思いのする、午前のひとときの喜びだった。
 人間の知力というものを人の持ちものの最低のものと観破した聖トマスの謙虚さが、つまり、あの見事なルネッサンスの花を咲かせたのだなア、しかし、今の東洋にはそれ以上の謙虚さが根柢に残っている。それが良いのだ。とまた彼は胸中でひとりこんなに呟いて感服し反省した。
 そう云えば、聖トマスという英語はフランス読みに換えるとサン・トーマとなる。サン・トーマ寺院はルクサンブール公園から数町とへだたらぬ所にあった。一度千鶴子と二人でこの寺院を矢代も訪れたことがあったが、内陣の壁画に野蛮人のひれ伏している頭上高く、誇りやかに十字架を輝かせた図の多いのに不快を感じ、よく調べもせずすぐ外へ出て来た記憶のあるのがそこだった。蛮人という生命の資本のごとき活力に知性の槍を突き刺してこれを殺したギリシアのかつての滅亡の因が、その寺院の中にも生い繁っていたのである。むすび(産霊)の零のない数学の藪のように――。
 昼近くなって千鶴子と槙三が、まだ幹の湿った杉の坂路を明るい声で登って来た。よく霽れた空の下に拡がった雪の谷を見降ろし、矢代は小屋の窓から手を上げて二人を呼んだ。下からも答える声がした。矢代の調べ物もまだ知らずに雪路を登って来る空腹な二人の兄弟の弟子が、一人はカソリックで、一人は科学者であるのがまた今の矢代には面白かった。
「汗をかいちゃったわ。今日は暖くって、いいお天気ですこと。」
 小屋の前まで来たとき、千鶴子は宿から借りた足駄の雪を踏段の角で払い落して云った。


 雪が日に解け始めたと見え屋根から崩れ落ちた。部屋に兄弟の客を上げると矢代は茶を淹れた。千鶴子はまだ外套も脱がず珍らしそうに、暫くは裏口の窓へ行ったり、炊事場へ廻ったりしつづけた。矢代は嫁に自分の栖家を初めて見せるような、初初しい気持ちに満たされて彼女の後姿を眺めるのだった。
「どうです、この小屋お気に入りましたか。」
「簡単でいいわ。あなた、無慾になったなんてお手紙で御自慢仰言ったけど、ここならあたしだって、無慾になれましてよ。」
 裏口の窓から筧の落す水を眺めていた千鶴子は、ただ二人の間に通じるある意味を含めた微笑で振り向いた。矢代はそういう千鶴子の微笑を初めて見たと思い、何か確実な彼女の心を掴んだ安心を得た思いで、椅子に対っている槙三の顔をまた眺めるのだった。しかし、槙三は、そんな事柄には一向興味の動かぬらしい穏やかな顔つきで、赧い下唇を突き出したまま、卓子の上に散っている矢代の書類を見ていた。矢代は千鶴子がよく気のつく上の兄の由吉を連れて来ずに、槙三を選んだ理由もよく分った。
「あなた風邪はひきませんでしたか。昨夜は少し冷えましたからね。」
 朝の浴槽の中で小さく咳いた千鶴子の咳声を思い出し、矢代は槙三にそう訊ねた。
「いえ別に。」と槙三は云ってから、「宗教を研究してらっしゃるんですか。」と訊ね返して笑った。
「宗教というほどのことはないので。」
 矢代は笑いながら答えてから、むしろ、宗教よりあなたの専門の科学の方で、とそう云いたくも思った。が、昨夜食事のさい危く二人のもつれかかった話題のことも考えられたので、またこのときも黙るのだった。何か一口いえば、火の発するものを無数に抱いている今の青年の間だと思うと、口口に云いたいことを圧え黙りつづける工夫も、これで並みたいていのことではないと矢代は思った。
「千鶴子さん、まアここへおかけなさい。御馳走は下のお婆さんに頼んだのが来れば、さしあげられますから。」
 千鶴子は外套の袖から腕を抜いてストーブの傍へ来た。まだ部屋に籠っているバタ焼の鶏の臭いが千鶴子の動く身につれ掠め立った。
「由吉兄さん、そろそろまた外国行きの準備なんですけれど先日あなたに云われたの利いたものか、今度は奈良や京都をよく一度見直して行くんだと云ってますのよ。そのときあたしも一緒に行きたいと思うの。あなたもいかが?」
「それならいつでもお供します。」と矢代は云った。「しかし、由吉さん、疲れの休まる暇もありませんね。僕なんか、まだ疲れが癒ったとは思えないんだが、馴れてる人はそうでもないものかな。」
「何んですか、このごろは早く外国へ行きたいような素振りもあるんですのよ。あたしにも、一緒にまた行かないかなんて、云うんですの。」
 由吉の冗談だとばかり、気軽く千鶴子も思って云ったつもりらしかったが、矢代にはそれがかなり強く響いて応えた。たとい由吉の冗談とはいえ、そんな空気も宇佐美一家の中に漂っていることは見逃しがたいことだった。それも他の男と結婚を迫られている現在の千鶴子の唯一の逃げ場も、再度の外国行き以外にないことを見抜いている、由吉の同情した誘いかとも、矢代には考えられた。また切羽つまれば、由吉の誘いも馬鹿にはならぬ、事実となりそうなものをも含んでいた。
「僕の知人で一人、日本へ帰ると一ヵ月東京にいたきり、すぐまたパリへ来てしまったのがいますがね。ところが、またそれとは反対のもいて、日本からパリへ着くと、次の日にもうパリがいやになって、半月目に日本へ戻ってしまったのもいますよ。人というものは、いろいろなものだなアこれで。」
 矢代は千鶴子に、あなたは今はどちらの方かと訊ねるつもりだったのに、そういうことを云っては秘かな狼狽の色を蔽うのだった。
「どうしてですかね。そんなに違うの。」
 と槙三は訝しそうな真顔で訊ねた。
「さア、それは僕も分りませんが――やはり、地球という球体を日本という中から外へ出ることと、外から中へ入ることと、違うようなものじゃありませんか。」
 数学専門の槙三には、そんな説明の仕方も、却って直接的な云い方だと矢代は思って云ったのだったが、槙三は黙っていた。
「つまり、たとえば千鶴子さんが外国へ行かれるのと、僕が行くのとでは、これで思いも余程違っていると思うんです。千鶴子さんのは、小さいときからのカソリックの躾けで行くので、そういう人のは、外国へ行くと言っても実は中から外へ出ることで、僕のような日本人の躾けのままだと、外から中へ入ることになるのですから、同じ行くにも感覚からして違って来ますからね。物理学にもたしか、球面を外から中へ入るのと、中から外へ出る違いと、二つの相違があったと記憶してますが、どうですか。」
「それはあります。」と槙三ははっきり云ったまま、このときはいつもと違い急に微笑が顔から消えて緊って来た。
 矢代はこの槙三という兄――それはあるいは、いつか自分の兄となるかもしれぬ青年の中心の考えを、実は少し世間という実社会の中心へ引っ張り出して、触れさせてもみたく云ったことだったが、微笑の消えた槙三の微妙な表情を感じると、この人物は兄の由吉とはまた幾らか違うと、彼を頼母しく思うのだった。
「やはり地球というものは球面をしていますよ。だから、ギリシアの平面の三角幾何学ばかしじゃ、実社会という、つまり球面上の三角形を計るには誤りを犯すことも多いのですね。それはそうと、日本の昔からの幾何学は球面の三角形ですよ。リーマンだ。どうしたって、平面と球面とは違うなア。」
 こう云ったそのとき、矢代は、自分の一番云いたかったことはそんなことではなく、千鶴子が外国へ由吉と一緒に再び行ってしまうかもしれぬ、その危険を引き留めることだったと思った。もし千鶴子がいま外国へ逃げて行くようなことになったら、いったい自分にとって、ギリシアや幾何学や、宗教などというものは何事かと矢代は思った。しかし、その危険は自分に迫っていると見ても良かった。
「日本に昔、幾何学はあったのですか。」
 と槙三はまた子供らしい真顔で訊ねた。
 矢代は要らざることを云ったものだと自分を後悔するのだった。彼はストーブに赤松の薪を投げ込みながら、それでも、今は料理の来る間の手持無沙汰を、話で何んとか揉み消していなければならなかった。
「ありましたとも、日本の古い祠の本体は幣帛ですからね。幣帛という一枚の白紙は、幾ら切っていっても無限に切れて下へ下へと降りてゆく幾何学ですよ。同時にまたあれは日本人の平和な祈りですね。つまり、僕らの国の中心の思想は、そういう宇宙の美しさを信じ示しているんだと思うのです。今の僕らが何も知らずに国家国家と云っていたのは、先祖の考えた宇宙を国家などと小さく翻訳語で云っているので、おかしなものだ。」
「ふむ。」
 と云ったまま槙三はまた黙ってしまった。脇道を振り返ることの出来ない純情な槙三に、一層火力をたてて薪を投げ込むような結果になって来た、このひとときが、何んとなく重くるしく矢代には苦痛だった。
「しかし、それは何も僕らにも無理はないので、日本についてはちっとも知らぬという、無邪気なところがあったのですね。われわれみたいなものに日本なんかそう矢鱈に知られちゃ、実際たまらんというときが、日本のいまというものかもしれないんだから、何も知られない方がむしろ結果が良いので、こっそり隠しているのだ。もう暫くすればきっと分るときが来るんじゃありませんかな。もう暫く、そのもう暫く日本人を眠らせて置くということが、それが日本の先祖の愛情のある工夫なんじゃないかと、僕はこのごろになって思うんです。きっとそうですよ。」
 こう矢代の云っているとき雪の坂路を、両手に手櫃を下げた茶店の老婆が腰を曲げて登って来た。
「御馳走が来ましたよ。」
 矢代は槙三の質問を喰いとめたくて戸口の傍へ立って行った。小屋まで来た老婆はよく磨きのかかった手櫃を二つ矢代に渡した。
「さア、どれから始めるかな。」
 矢代は手櫃の蓋を取って見て、山の料理は出す順序が難しいものだなと思った。こんにゃくの白和、自然薯のとろろ、揚物の生椎茸、それに彼の手料理の鶏の丸焼と杉菜の煮物、こうずらりとテーブルの上へ、皿と一緒に並べてからまた彼は云った。
「まア、それぞれ、お好きなものからめし上ってもらいましょうか。」
「こんなに沢山いただくんですの。珍らしいものばかりね。」
 千鶴子は鉢から各自の皿へ料理の品を取り別けたり、御飯をみなの茶碗に盛ったりした。
「このあたりで、僕の方がお客にさせて貰いますかな。」
 と矢代は云って笑った。
「どうぞ、これだけいただけば、後はたくさんですわ。」
 食事中に吸物の出来るようストーブにかけて三人は御飯を初めにかかった。こんにゃくの白和はとくに良い出来だった。千鶴子は自然薯のとろろの味を褒めたが、これは少し味が濃すぎたようだし、生椎茸の揚物は油が悪く期待を裏切った。その代りに御飯がいつもより上手に炊けているので、塩気の利いた物が美味に感じられる食事となった。食い物の味など槙三には分らないらしく、出るものをみな黙って食べていたが、鶏だけは特別気に入ったと見えて、爪附きの片足をひっ掴んだまま、口もとをバタの油で濡らしては必死に筋を食い破っていた。
「あなたのプウレオウリ、思い出すわ。この方ね、パリで若鶏ばかし上ってらしたの。一度鶏供養なさらなきゃ、罰があたりましてよ。」
 千鶴子のそう云うのに矢代は、たしかにそれもそうだと思うのだった。
「ほんとに僕はパリで何百羽食べただろう。一度鶏供養をしよう。その供養でまた食べるか。」
「どこの料理が一番お好きでした。」
 と槙三は訊ねた。この同じ質問はこれまでに度び度びされるため、矢代は答えるのに、いつか本当のことが云えなくなってしまっていた。
「僕は鶏のことを思うときだけ、一度外国へ行きたいなアと思うんですよ。由吉さんのまた行かれることを聞いても、第一に鶏が浮んで来てね。こういうのが、やはり、供養というんでしょうね。だから、今日のもつまり、これも鶏供養です。」
「それはそういうものでしょうね。兄さんと行くようなことにでもなったら、あたしあなたの代りに沢山鶏を食べといて上げてよ。」
 千鶴子は鶏の肩の部分にナイフを入れながら、ちらっと矢代の顔を伺って云った。
「じゃ、あなた、また行かれるおつもりもあるんですね。どうも、いまいましいなア。」
 と矢代は、槙三のいる手前もあって軽く、眉を上げて笑った。
「でも、兄さんから行こう行こうって云うんですの。帰ってから半年目と一年目に、一番また行きたくなるって云うけれど、どうもそのようね。何んだかしら、あたしもそのせいか、ときどきふらふらっと、眼暈いするみたいに行きたくなることがあるの。あなたは?」
「僕は今日のように、鶏の出るときだけだ、行きたいのは。」
「外国の鶏はこれよりもっと美味しいんですか。」
 とまた槙三は質問した。
「たしかに美味かったと思いますね。」
 矢代はそう答えながらも、さきから、これが鶏の罰かとひそかに思ったほど、千鶴子の外国行きのことが重く心にかかって来て、暫くは何んとなく空虚な箸の動きがつづくのだった。それにまた、千鶴子たちが東京へ戻ってから、いちいち自分のことを、母親に報告するにちがいない正直な槙三の現在の立場のことを思うと、彼が普通の客とは見えず、何か権威を具えた斥候のように見えて多少矢代は肩もこった。ただ幾らか矢代にとって都合のよいことは、自分が槙三を好きなことだった。
「しかし、あなたもう一度行くのそれだけはおやめなさいよ。」
 矢代は向き直るように千鶴子に云った。
「ええ。」と千鶴子も何か考え込む風に小声で云ってから、
「でも、今度行くのでしたら、あたしみっちり研究してみたいことがあるの。この前のときはすぐ帰るんだと思っていたでしょう。ですから、ほんの真似事みたいに外から調べただけだったけど、帰ってから何んだか惜しくって、あなたじゃありませんが、急に勉強したくてたまらなくなるんですのよ。」
「じゃ、あのとき、あれで何かあなたも研究してらっしたんですか。」矢代は千鶴子との交際の日のことを省みて自分の迂濶さに、今さら驚くように訊ねた。
「あのときは、あなたがいけないんですよ、あなたはただ遊べ、それが何より勉強だって仰言ったわ。」
「いや、あのときは一番それがほんとうだったのですよ。僕だって、あのとき遊んだことだけは後悔したことありませんからね。」
「そのせいね、こんなに帰ってから勉強したくなるの、――あたしね、洋裁の断ち方をもっと勉強して来て、自分で生活をしてゆきたいと思うの。そんなことこのごろいろいろ考えると、愉しいんだか寂しいんだか、よく分らなくなって困るんだけど――」
 どういうことを云いたくて千鶴子はそんなことを云い出したりしたのかと、矢代は暫く考えるのだった。槙三のいるため眼に見えぬ家庭内の気苦労を、露(あらわ)には云い得ず、暗に匂わす彼女の苦しさの歪みかと解することも出来れば、また一方どこかで、自分に衝って来ている角の鋭さも感じられ、矢代は返答に窮して黙っていた。
「こんなこと、もうやめましょうね。せっかくの御飯もったいないわ。」
 千鶴子はふと軽く翻るように云って、吸物をニュームの鍋から椀に注ぎ、それぞれの前に並べた。小食の矢代は皆より先に食事をすませてから、吸物の代りにコーヒーを懸け換えた。
「これで鶏の供養をすませたことになれば、有り難いんだがなア。」
 と彼は呟きながら自分の使った食器の汚れ物を、バケツの中へ入れ、そして、煙草に火を点けた。千鶴子にだけ矢代の呟きが聞えたらしくちらッと彼を見た。
「でも、お美味しゅうござんしたわ。今日のお料理。」
 笑って云う千鶴子の後から槙三も下手な礼をのべた。食卓の上が片づいてから気怠い満腹のままコーヒーになった。暫く誰も黙っている静かな窓の外で、ときどき屋根から崩れ落ちる雪の音がした。矢代は耳の欹つその音を聞いていると、コーヒーの湯気のゆらめきかかる千鶴子の臙脂のマフラから伸びた頸の白さが、なまめいた色に見えた。そして、昨日と違う艶のある部屋になったと思い、片肱で身を卓に支えるのも重く感じた。


 その日は一日、矢代は今までに感じたことのない胸苦しさを感じた。なるだけ快活にしていることに努めてみても、ともすると、黙り込むことが多くなり、疲労のような気怠い重味を胸に覚えてときどき雪の中へ立った。夕食は宿で摂ることにしたので、彼は客を帰してから、ひとり千鶴子たちの宿屋へ出かけた。途中の坂路の曲り角の所で、宿の褞袍(どてら)を着た三人の女と出会った。その話し声の賑やかさが千鶴子の部屋と二つへだてた部屋の、潰れた汚い声の主だちだった。東京のどこか色街から来たと見える一行だったが、女将らしい六十近い肥った女が、二人の抱え妓をつれた夕食前の散歩らしく、
「おいおい、お前だよ今度は。」
 女将は男のような声で若い方の妓の肩を突つくと、一人は云われたまま坂の土手の雪の中へ顔を捺しつけた。前に同じようにして作られた女のマスク二つ並んだ横へ、今度は女将が最後に自分の顔を捺しつけてみて、
「ほう、おれのが一番おかめだよ。」と云いながら、三人声を合せてげらげら笑い崩れた。夕暮前のほの明るい山の頂を連ねたその下で、暫くまた三人は同じことを繰り返して笑いころげていた。
 矢代は邪気を無くした女らの戯れを見ていると、自分もともに顔を洗ったような爽やかな感じがした。彼は坂路に立ち停り、暮れ染ってゆく峰の雪を仰いで煙草を出した。そしてふと今夜自分は千鶴子に結婚のことを切り出してみようかと思い、俄に更った気持ちの動いて来るのを覚え元気になるのだった。
 矢代は宿の方へ歩きながらも、いよいよ結婚を定めるとすると、一度その前に、千鶴子の朝夕の祈りの際用いるカソリックの誓詞を聞いて置きたいと思った。それも知らずに結婚をしてしまっては、法華を信じる自分の母との衝突のあることなど先ず予想していても、その間に挟まる自分の態度に、以後困ることが生じる惧れがありそうだった。しかし、彼は結婚するとしても、何かそこにもまだ冒険を好む心のあるのを感じ暫く胸中の声を聞く慎しみで立っていた。が、ふと急に彼は煙草を捨てて呼吸を殺し、土手の雪の中へ顔を捺しつけた。灼けつくような冷たさの頬に刺し込んで来る中から、明るい玉が幾つも入り乱れ、弧を描いては浮き流れて消えていった。すると、それが暫くつづいていてから最後の乱れた玉の中を、夢で見た千鶴子が幽かに赧らんだ顔で斜めに態を崩して、振り返りざま飛び去って行くのを感じた。矢代はそこで呼吸が切れて来たので顔を上げた。
「何んだったのだろうあれは。」
 彼はまだ灼けている頬をオーバーの片袖で拭いて空を見上げた。彼は暫くしてまた雪の中を歩いていったが、古事記の中で夢を見て行動を起された尊たちのことが思い出されて来ると、玉の緒に巻かれて飛び去った千鶴子の夢の姿の美しさは、何か結婚の慶びをともに祝ってくれた諦めかと思われて矢代は嬉しかった。
 宿へ着いてから欄干よりのテーブルに彼は千鶴子と対い合った。槙三の姿の見えないのを訊ねると、娯楽室へ行ったということだった。昨日から初めて二人きりになった今、理由もなく矢代は胸騒ぎを覚えて山を見つづけた。千鶴子も同じように黙っていた。
 宿の後の山が谷を越し向うの山の頂近くまで影を投げていて、雪を冠った雑木が睫のように刺さった裾の方に鉄橋が見えていた。
「あたしたち、明日の朝帰ろうと思いますの。」
 と千鶴子はまだ山を見たまま低く云った。
「じゃ、そろそろ僕も帰るかな。」
「あなたお帰りになったら、田辺侯爵に一度お会いになって下さらないかしら。」
 千鶴子はどういうものか、云い難くげに顔を赧らめて矢代を見た。
「会いますが、それはまたどうしてです。」
「どうってこともないの。ただね――」
 千鶴子は一寸言葉を切った。
「あたしのお母さん、あなたとお会いしたことないものだから、やはり、どなたか中に立っていただいといた方がと思って、侯爵にお頼みしたらと、そんなこと、あたしひとりで考えたの。でも、あなたもしお嫌いなら、いいんですのよ。」
「そういうことならいつでもお会いします。」
 と矢代は簡単に云った。
「じゃ、ありがたいわ。」
 千鶴子は山の頂の方をほッと開いた軽い笑顔で見上げた。頂の雪だけ明るくオレンジ色に染め残した峡間に、ますます濃い薄暗が迫って来た。
 矢代はこちらから云い出そうかと思っていたことを、そんな自然な表現で千鶴子から切り出して来てくれたのは、何か母との間にいよいよ話せぬ溝の深まりが生じて来たためかと思った。それを彼に覗かせたくもない彼女の苦心の一方に、またいくらか、彼に知らせねば自分の躊躇の理由も伝わらぬ思案の末の工夫かと思うと、矢代も感動を覚えて千鶴子の見上げている同じ山頂を仰ぐのだった。
「しかし、あなたのお母さんの方は、そんなことで納得されるんですか。僕は暫く無理はされない方が良いかと思うんですがね。」
「ですからあたしもそれを考えてるんですの。お母さんは少しむずかしいものだから、何んだか分ってくれないところもあるんですのよ。」
 千鶴子は山の頂からすぐ真下の路上に眼を降ろして伏し眼になった。炭俵と蜜柑を積んだ手橇が一台人もなく雪路に停っていた。そこへ餡パンを啣えた宿の小さな子供が出て来て、手橇の柄を掴み、それを動かしてみようとしてうんうんと力み出した。
「お父さんの方はどうですか。」
 と矢代は下の子供を見降ろしながら千鶴子に訊ねた。
「父はいいんですの。だけど、こんなことは、お母さんの云うとおりになる人なの。」
「僕の方はいつまでだって待ちますよ。あなたのお母さんにお会いしてもかまわないんだが、もっとはっきり嫌われるだけだと分ってからの方が、勇気が出るかとも思うので、まアそれまでは、このままの方が無事でしようからね。」
「あなたのお母さんは。」
 千鶴子はそれが何より気がかりだという風に、急に欄干から頭を上げ眼を耀かせて訊ねた。
「僕んところの母は、僕が頼めば承諾は必ずしてくれると思うんです。しかし、あなたがカソリックだと分れば、それからが厄介なところがありそうですね。何しろ僕の母は法華なものだから、これは曲げようにも曲らない。しかし、ただ一つ見どころがあるので、そこを何んとかうまく僕はしてみるつもりです。」
 矢代はこの宗教の違いのことだけは口には出すまいと思っていたのだったが、云うべきときには云って置くのも、後の邪魔を取り去る何事かになりそうに感じ、つい母の法華のことも云ったのだった。すると、籐椅子のきしむ音を立て急にまた千鶴子は悲しげに欄干の方へよりかかって下を見た。
「しかし、僕は失望はしていないのですよ。一度こういうことがあったので、――一寸お聞きなさいよ。あなたにだってこれは重要なことだから。」
「何んだかあたし、悲しいわ。あなたのお母さんに叱られた夢を見たこと思い出すの。――」
 千鶴子は手巾を出し眼をそっと拭いた。
「しかし、そんなことなど、一度や二度は必ずあると思うべきでしょう。あなたがカソリックで母が法華なら、反りを合そうたって、合すことの出来た人がありましたかね。だから、やってみるのも面白いでしょう。」
「やれないわ、あたしに――」千鶴子は手巾の中で呟いた。
「勇気がないんだなア、カソリックのくせに、僕のことを考えてみてくれたまえ。僕はカソリックと法華に挟まれて、君どころの騒ぎじゃないんだから。」
 二人はまた黙り込むと下を見た。下の路で橇の柄を握り力んでいた子供は、執拗くそれを動かすことをやめようとしなかった。餡パンを啣え口を空に向け、ふんぞり返った顔を充血させていたが、橇は微動もしなかった。すると、子供は手を放して後ろへ廻り今度は後から橇をうんうん云って押してみた。明らかに荷の勝ちすぎているのが、上から見るとすぐ分ることだったが、下からでは動きそうに見えるのかもしれぬと矢代は思い、自然に自分の今のことも思い合せてなお下を見つづけるのだった。
 そのうち子供は餡パンを一口食べてからまた思い切れずに前に廻った。そして、橇の柄にぶら下ると今度は自棄になって足を柄にひっかけ、逆さにぶらぶらしながら唱歌を唄いだした。千鶴子も矢代も思わず一緒に上から笑った。
「ああでなくちゃ駄目だ。あの子はきっと出世をするな。」
 と矢代は云った。
「ほんとにね。あんなになればいいわ。」
 千鶴子も幾らか機嫌が直ったらしかった。
「僕らのも動かす方法をさえ考えれば良いのだが。」
「じゃ、あたしどうすればいいとお思いになって。」
 千鶴子は欄干から身を起し生真面目に訊ねた。
「まア、餡パンを食ってみたり、押してみたり、唱歌を唄ってみたりしているうちに、時間が来ればあの橇の主が出て来て曳いて行きますよ。人の運命と云うものは、そんなものじゃないのかな。」
「じゃ、あたしたちの橇の主は誰かしら。」
 千鶴子は一寸あどけない表情になりあたりを探す風に見廻していたが、それも困惑した思いに衝きあたったらしく、また苦しげな元の顔に戻って来た。
「僕は一度あなたにお訊ねしたいと思っていたのですが、毎日お祈りをされるときに、あなたらの使われる誓詞があるでしょう。それを一つ僕に教えていただきたいのですよ。どう仰言るのです。」
 千鶴子としては答えがたいことかもしれぬと矢代は思い、穏やかな気持ちでそう訊ねても、こんなこととなると争われず密偵のようなさぐりを入れる感じで心が曇った。
「あたしのは学校で教わったころのままですわ。」
 と千鶴子もすぐ、矢代の質問の意味を感じて他所行きの顔になるのだった。
「どうもいけないな。こんなことは知って置く方が良いのか悪いのか、僕にはまだ判断が出来ないんだが、しかし、誰にしたところで、心の中でそっと唄う唱歌はあるんですからね。さっきのあの子供だって、最後はくたびれて歌を唄ったですよ。あれは、橇の主を知らずに呼んでいる声なんだもの。そんなものがあなたにだってあるでしょう。」
「でも、そんなこと、御存知でしよう。」
 千鶴子はますます不愉快そうだった。宗教の違いとなるとこんなにも争いがつづくものかと、今さら矢代は事の難しさに、安心の出来ぬいら立たしさを感じて下を見た。間もなく宿の廂の下から藁沓を穿いた橇の主が出て来ると、坂下の方へ炭俵をひいて下っていった。しかし、このときは、もう矢代は動き出した橇を眺めても興味が起らず沈むばかりだった。
「僕たちは人より一つ、余計なことで苦しまねばならぬとはいいことじゃないですよ。こんなことは始末につかないことだと分れば、その分ったことの範囲で何んとかしなくちゃ、僕はつまらぬと思うんだが。――何もあなたを嫌いで僕が虐めているわけじゃなし、――」
「あなたはあたしのそんな悲しみ、御存知ないんですもの。あなたのお母さんのことを思うと、きっと、あたし、叱られてばかりだと思えて、それが悲しいんですわ。あなたはお母さんの味方ばかりなさるの、定っているんだし――」
 千鶴子は矢代を正面からじっと見詰めて眼を放さなかった。彼の母に対する嫉妬のようにも見える強い千鶴子の眼差に、矢代は何か俄に返答を迫られているような怯みを覚えて身が緊った。
「しかし、どういうものか、女の人というものは、良い宗教でも邪宗にするくせがあるんじゃないかな。僕の母を見ていても、子供の僕でさえ困ることがあるんですよ。僕の父は家代代の真宗なんですがね。母ひとりは法華なんです。それというのは、母の実家が法華なものだから、小さいときから南無妙法蓮華経で育ったでしょう。ですから、僕の父の所へ来てからでも、南無阿弥陀仏ではどうしても有難さを呼び醒すことが出来ないらしいので、そこでひとりいつも苦しんだらしいのですよ。実際それは、真面目になればなるほど苦しいにちがいないんだし、そうかといって、良い加減に捨てても置けないことでもあるしして、やはり今でもそこに、何か、父との間でごたごたしているものがありますね。」
「じゃ、あなたはどちらですの。」
 と千鶴子はすかさず訊ねた。
「僕は古神道です。」と彼はここだけ小さな声で云ってから、
「しかし、これは宗教じゃないですよ。神道とも違います。」と云い直した。
「古神道って、何なのかしら、あたし初めて聞いたわ。」
 千鶴子は羞しそうにこれも小声で云うと、微笑を浮べたまま、遠い夕空を見上げていたが、それでもまだ容易に訝しさの去らぬ表情だった。山頂に漂っている明るさはもう空からかき消え、峡間には刻刻暗さが増して来た。そこへ槙三がのそり娯楽室から戻って来ると、氷柱の下った廊下が急に遽ただしくなった。そして、女中たちの火を運ぶ音や、膳を置く音がつづいてして、矢代たちのいる部屋にもその忙しさが廻って来た。
 食事がそれからすぐ始まった。千鶴子は女中代りに男たちの茶碗の世話をしながらも、まだ矢代に云われたことが頭に閊えているらしく、あまり話さなかった。矢代は槙三に多く話を向けるようにして、物理学に関する新しい話題を聞き出すように努めるのだった。
 槙三が物理学の一番困っている新しい仮説の創造ということについて述べ終ったときに、
「ね、槙さん、お話別だけど、あなた古神道って御存知。」
 と千鶴子は横から訊ねた。
「さっきもこの方ね、自分は古神道を信じているんだと仰言るのよ、そのくせ何んのことか仰言らないわ。あなただって知らないでしょう古神道って。」
 槙三はただ黙ってにやにや笑っているきりだった。
「いや、それや、これはむずかしくって、僕だってよく分りませんがね。まア、一切のものの対立ということを認めない、日本人本来の非常に平和な希いだと僕は思うんです。ですから、たとえばキリスト教や仏教のように、他の宗教を排斥するという風な偏見は少しもないのですよ。千鶴子さんなんかの中にもこの古神道は、無論流れているものです。つまり、あまり高級すぎて人には分らない点が、どうもいつも損ばかりして来たのですね。また一つはそこが良いのだけれども。」
 矢代はそう云いながらも、ふと来る途中雪の中で見た、玉の緒をつらねて飛び去った夢の千鶴子の姿を思い描いた。そして、あの千鶴子とこの千鶴子、と思い較べ、なおよく眼の前にいる彼女を更めて見直すのだった。
「じゃ、古神道って、カソリックも赦して下さるものなのね。」
 千鶴子はそれで初めて安心したと云いたげに眉を開いた。
「それは明治六年の三月十四日以来ですよ。僕はちょっと調べてみたんだが、その年には内閣の大臣が、家族の葬式をカソリックの式にして、外人の導師に随って公然と行っていますね。その日までは、カソリックのことを邪宗門といっていたのが、それからは逆に古神道が邪宗といわれる風が生じて来ているのです。それも日本の法律が神道ではなく、あくまで古神道を中心に創られているのにですよ。いつの間にやら万事すべてがあべこべなんだ。」
 槙三はやはりにやにや薄笑いを洩しながら御飯を食べていた。
「僕はそういう風なことに気がついたもんだから、せめて千鶴子さんのお祈りのときに云われる言葉だけでも、知って置きたいと思って、それで実は、さっきも、ああいう失礼なことをお訊ねしたんですよ。訊ねざるを得ないじゃないですか、僕とすれば。」
 矢代は食い物のこともうっかり忘れて云ったので、声も幾らか高かった。
「でも、あのときは無理だわ。あなたの仰言り方があんまり突然で、何んだかあたし、踏絵を命ぜられたみたいに思えたんですもの。」
「踏絵か、なるほどね。」と矢代は云った。
「あなたの身代りに、僕が踏絵をしようというときだったのに。――実際もし日本が徳川時代に、実権が幕府になかったなら、キリシタンの大虐殺はなかったですよ。もしあのとき明治のように、古神道が法律を動かす中心だったら、踏絵などという残酷なものはなかったと僕は思いますね。」
「じゃ、あなたのなさる古神道のお祈りっていうのは、どんなに仰言るの。」
「人のは知らないが、僕のはただイウエと発音するだけなんですがね、これを早くいうと、いわゆる気合みたいになって、エッと聞えるけれども、まアそれでも良いのです。あなたなんかのは長長と、他宗に聞かれちゃ困るようなことを、云わなくちゃならぬのでしょう。」
「イウエっていうのは、それはどういうことを意味するんですか。」と槙三は訊ねた。
「言霊ではイは過去の大神で、ウは現神でエは未来の神のことです。ですからこの三つを早く縮めて一口に、エッと声に出してお祈りするのですが、そうすると、日本人なら誰だって元気が満ちて来るでしょう。このイという字とウという字とを大昔は石にして、勿論古代文字ですが、どこの国へも一つずつ神社の御本体として祭らせたのですね。ところが、淫らな形をしているという理由で、淫祠だなどと云って、引っこ抜いてしまったのです。『イウ』という、この二つの言霊の根本を引っこ抜いたものだから、さあそれからは日本が大変だ。しかし、日本人は困り出すと、何んのことだか分らずとも、エッといって、元気になって何んだってやっちまう。これが生という愛情ですよ。僕のお祈りも、まア簡単に云えばそんなものですが、今度は一つあなたのお祈りを聞かして下さい。」
 と矢代は千鶴子を見て云った。千鶴子は何か云いかけようとして、やはり言葉を反らせた。
「あたしのは紙へ書いて、明日帰るときお渡ししましてよ。長いんですもの。でも、あなたの仰言ることだと、あたしにも古神道はあるんだと思って安心出来ましたわ。今夜はほんとに良いお話承って良かった。」
 千鶴子は気晴れのした手つきでお茶を淹れ、矢代の前に出した。しかし、槙三だけは食事が終ってからまだひとりにやにや笑ってばかりいた。
「しかし、さっき仰言ったようなことで、近代人が満足出来るものですかね。」
 暫くして、壁に靠れた槙三は茶を飲みつつ云った。
 矢代を揶揄する風ではなくとも、明かにどこか彼に失望を感じた正直な声だった。
「満足なんて幸福は近代人にはないのですよ。」と矢代は云った。「ギリシアの幾何学だって、イウエ、みたいな三つの辺からなる三角形が根本でしょう。言葉だって同じで、五十音のどんな音にしても、イウエの三つの母音にすべてが還って来るということを、日本の古代人は知っていたのですよ。それから数というものが考えられたことですね。ですから僕は、ギリシアの文明は三角形から発展したに反して、日本の文明は三音からだと思うようにも単純になってるんです。あなたも一つ、新しい物理学の仮説を創ろうと苦心されるなら、この音と形との原理を一つにして、時間というものの素質をもう一度、エッと云ってみて、考え直されることですね。そうすると近代人の満足というものが得られるかもしれませんよ。」
 矢代はもう半ば冗談のつもりで云って笑った。すると槙三は急にぴたりと微笑をとめて黙ってしまった。
「外国にも逆まんじがありますが、あの形は日本の言霊の原型図と似ていますよ。あれは日本では生命力というものの拡がりを幾何学化したものだということを、外国人は知っているのか知らぬのか、そこはまだ僕には分りませんが、恐らくは何かもっと違った理由があることでしょう。」
 槙三はこのときだけ「うむ」と低くひとり頷いた。しかし自分の護っている学問の世界だけは微動もさせまいとする薄笑いが、再び彼の唇から洩れて来た。


 次の朝矢代は小屋から温泉へ行った。千鶴子の部屋を覗いて見ると、槙三だけがまだよく眠っていたので起さず、彼は湯へ引き返した。濃霧がいつもの朝のように浴場に立ち籠めていて、昨日雪の中へマスクを捺しつけていた三人の婦人の声だけ、特別喧しく耳に聞えた。
 矢代は湯の中に千鶴子のいることを感じていた。昨日の朝はどういうものか浴場で顔を合したくはなかったのに、今朝は間もなく別れて千鶴子が帰るためもあって、その前に二人きりで話したく思い、絶えず彼は霧の底からあたりを見廻した。槙三から離れてただ二人きりになるためには、実際この朝の浴場のひとときより矢代には時間がなかった。それも昨夕計らず千鶴子から云い出した婚約のこともあるのに、まだこんな場所を撰ばねばならぬ二人だと思うと、矢代は外国の旅というものの、二人が会うためにはいかに広く特殊な世界だったかを思い、今さらに驚き振りかえってみるのだった。
 彼は浴場を一廻りしてみてから、隅の方で身体を流している婦人らしい人影の傍へ近よってみたが、身体の輪郭だけ朧ろに曇って見えるだけで、やはり誰が誰だかよく分らなかった。そのうち寒けを感じて来たのでまた湯に入ろうとしかけたとき、
「あら。」
 と千鶴子が不意に水面から顔を上げた。
「やあ、お早う。」矢代は全身鏡を受けたように感じて云った。
「いついらしたの。」
「今さきです。」
 二人は湯に浸ったまま朝日の射し込んで来る窓を見上げて暫く黙った。体で膨れた豊かな湯の連りに、乳色に染った眼界が雲間の朝の浴みかと見えた。少し離れた位置をとると、もう顔も見別けのつかないほど霧が舞い込み、ぶつかる湯の波紋が二人の顎の間できらきら光った。
「あれからよく眠れましたか。」と矢代は訊ねた。
「あれからお手紙書いたの。後でお渡ししますわ。」
「それはどうも――」
「なるだけあなたも早くお帰りになってね。」
 浴槽の縁へ溢れる湯の波が、朝の眼醒めのようにぴちゃぴちゃ元気よく鳴りつづけた。窓の上の長い氷柱の垂れ間に聳えた雪の山山を眺めていると、矢代は二人の結婚の前に邪魔している多くの事柄も、もう考えるのはいやだった。湯の温まりが全身に廻って来たとき、彼は窓の傍へ行って身体を冷やした。そのあたりだけは霧が届かず、見るまにガラスが体の温気を吸いとって曇っていった。どの樹も雪にしな垂れた峡間の冷たさが膝もとから刺し上って来た。
「東京へ着くのは幾時ごろです。」
 矢代はうっすらとぼけ霞んで見える千鶴子の方を向いて訊ねた。
「三時過ぎになりますかしら。」
 日の光りが霧を切り、縞になって湯の一角へ透っていた。その光りの筒を仰ぎながら体を捻じて、千鶴子は湯を肩からかけ流す昔を立てていた。乾いた蛇口の雫を待ちかねた水仙の花が、湯気に煙った千鶴子の肌の後から見えるのも、別れの前の矢代には忘れがたい一瞬の光りのようなものだった。


 東京へ帰る千鶴子らの汽車を送り出してから、矢代はひとり駅前の広場に立っていた。踏みつけられた固い雪に朝の日が射しているので、足もとの寒さにも拘らず肩は温かった。彼はすぐ山小屋へ引き返す気も起らず、何んとなく愉しいままに駅前の汁粉屋へ這入って火鉢に手を焙った。狭い家の中は日光に照り輝いた前後いちめんの雪で明るかった。彼は千鶴子のいるときよりも、むしろ今のひとりの方が延びやかに感じられ、汁粉を待つ間が、思いがけない幸福な時間になるのだった。
 千鶴子の渡していった手紙が、ときどき外套のポケットの中で重く手に触れたが、彼はその手紙のために紊される今の愉しみの方が惜しまれ開封しなかった。今としては、ただ双方に結婚の意志が失われずあると分っているだけでも、彼は充分に恵まれたこととしなければならず、その他のことではたとい不満なことが多かろうとも、結婚を急ぐことさえしなければやがて消えるべき不満だった。
 雪の中に蜜柑の皮の落ちているのを眺めながら、矢代は自分の母へ千鶴子のことを打ち明けることも考えた。しかし、それも彼女の母の気持ちの定らぬ限りまだ云い出すときでもなかった。もしそれを云い出したときの渋る自分の母の顔も想像出来た。殊に両家の財産や宗教や、血統などの違いを知った場合に起る母の足踏みを思うとき、
「さて、困ったね。」
 と思わず火鉢の上へ胸をのり傾けて呟いたが、それもさほど弱ったことでもなく、そんなに呟いてみただけのようなものである。
 雪に包まれた中で舌にのせる汁粉は美味だった。満目の白さが甘い液汁を包んだ塊のように見えて、日に解けとろりと崩れた部分の湿り工合まで、味わい深かった。
 駅からの帰りは橇にせず彼は歩いていった。靴の下で根雪の鳴るのもこの朝のは踏み応えのある音だった。辷らぬように彼は両手を大きく拡げ、鰐足になって、ゆっくり歩くうち妙におおらかな気持ちを覚え、枯松葉を焚く匂いがどこからか掠みとおって来ると、それがまた奥山の匂いとなり一層胸が緊った。
 街端れをすぎて影の消えた所へさしかかってからは、邪魔物もなく降り注ぐ光りでますます矢代は幸福を感じた。それは千鶴子とはも早や何んの関係もない、自然の法悦のようなものだった。
 谷を見降ろし山を見上げる眼に、波うつ雪の白さがうす紫に霞んで見え、足もとのあたりからぼっと金色の光彩の打ちあがって来る中に、自分の影だけ長く後に倒れかかっていた。足に気をつけて歩いているためか、間もなく脇下から汗が流れて来た。彼は休んで空を見上げると、実にふかぶかとして澄んだ空だった。またそのあたりが千鶴子を橇に乗せて来たとき、風の荒れ狂った場所でもあった。あの風に乗って狂いはためく羽音を立てて橇を襲った、例の夢中の千鶴子の飛び廻ったところもこのあたりだ。それに今は、澄み返った空にくらげの浮き漂うような安らかさで、また何ものか透明な流れるものの姿を感じ、矢代は、その諦めたようなひっそりした静けさにふと悲しみを覚えた。
 彼はあの夢の千鶴子が忘れられずいとおしかった。もし千鶴子と結婚が定まれば、もうあの夢とも最後かもしれぬ。そう思うと、見上げる空の色がいつもより遠ざかって深かった。
「いや、あれだけは幻影とは思えない。たしかにあれは本当だ。それだから別れがこんなに寂しいのだ。」
 矢代はそうひとりぼそぼそと呟きながら、光りに射し返った金色の波の上を鰐足でまた渡っていった。


 小屋へ帰ってから、矢代は千鶴子の手紙の封を切った。手紙には、彼の予想したこととはそんなに違わぬことが多かったが、その中に、彼女の母の奨める青年が早く返事をくれとしきりに迫って来ていることと、今一人別の青年と二方から押して来ている縁談に挟まれ、日夜苦しくなっている立場のことなど、精しく矢代に談そうと思って果せなかった残念さなど書いてあった。そして、終りの方に、
「でも、今夜はあたくし愉しゅうございましたわ。これで帰りましても、暫くは元気でいられることと思いますの。あなたのお気持ちお変りにならないこと存じました上は、どんな我慢もする決心でおります。ただ母のことだけは、あたくしの決心が固まれば固まるほど、暫くは母も意を和げてくれなさそうに思われますので、さぞあなたに御不快をお与えすることと存じまして、それだけは心配でございます。外国へまいりましたときは、帰れば母との約束のまま、母の奨める人とと、そんなに軽軽しく考えておりましたのに、こんなに自分も変ってしまいましたのは、どういう神さまのお気持ちでございましょうか。私の喜びも早すぎることだと思わせるようなことなどもう二度となさらないでいただきたいと念じます。」
 千鶴子の文面に表われた歎きや歓びは、まともに矢代にも響いて来てひと息に読み終えた。しかし、最後に約束のカソリックの誓詞が出て来たとき、急に矢代は胸を突き跳ねられたように感じて読み下すのが恐ろしくなって来た。やはり、こういうことは訊くものでもなく、読むものでもなかったと彼は初めて後悔した。
「ああ天地(あめつち)のもと、われら敬愛の心もて、御身の御座所(みくら)の前にかく平れ伏し、讃美の誠を捧げまつる。われら身をきよめ御身を敬いまつることを人に弘め、歓びに心とどろき、僕(しもべ)たる身を貴しと思い、御身を讃めたたえまつりて、その大いさを説き示し、み保護のもと歓び行いて、御宿りのいかばかり美しきかを人に教えまつらんことを希う。かくわれらあらん限り、御身のみ心をおのれとし、み栄を高くかかげて、異端者の悪しき思いやあまたの人の心なき業、また、そそっかしき心もて受けさせ給う侮辱(あなどり)をも、そそぎまつらんことを希う。」
 ここまで読んで来たとき、矢代はもう普段の気持ちではおれなかった。その中の非人間的な浄らかな呼び声の流れる中の、特に、異端者の悪しき思いをそそぎまつらんことを希うというところまで来ると、自分を突き伏せて来るように感じ思わず矢代も身構えた。今まで文面から受けた歓びも素直な歓びとはならず、むしろそこから歪みを帯びただけではなかった。固く重い鉄筋がずしりと落ち込んで来たような手のつけようもない異様な気味悪さで乗しかかって来るのだった。
 勿論、手紙の終りには、そういうことを勇気を出して正直に書いた自分に対して、気持ちを悪くしてくれぬようにとあったが、それでも矢代は身の沈む思いで寂しかった。これほど希いをかけて自分の愛して来たものが、こんな祈りを毎日していたのであろうか、またそのために身の慎しみを今まで千鶴子が支えつづけて来られたのだと思ってみても、矢代は苦しくなり、そぞろに怖れを感じた。しかし、もう彼はどうしようもなかった。
 その日は一日矢代は本が読めなくなった。夕暮になってから彼はランプのホヤを磨きにがかった。油煙で黒く煤けている部分に布を通し、呼吸をガラスにふきかけては拭くのだがその間も、曇りの消えて透明になってゆくホヤに窓際の雪が映って来ると、また彼は千鶴子の誓詞の言葉を思い出した。
「異端者。」
 何んとなく矢代はこう呟いて自分を省るのだった。それは「不徳漢」という一種の刻印を、誰からか無理に額に打ち込められたことと同じだった。今までにもこんな言葉はたびたび見た。しかし、今のように直接自分に向けて云われたことはまだなかった。彼は初めて異端者と呼ばれた無気味さが、胸に擬せられた刃となって消えなかった。彼はその光った尖を見詰めて脱さず、絶えず何ものかに立ち対う気持ちがつづいて夜になった。が、もし千鶴子と結婚すれば、いつもこんな刃と対う日日になるのだろうか。しかも、それが自分の先祖の城を滅ぼしたものだとは――。
 夜が深まって来ても矢代には笑うに笑えぬ重苦しさがつづいた。月の鋭く冴えた谷底の方で雪の崩れ落ちる音がしていた。矢代はストーブに薪を投げ込み、部屋をいつもより暖くして湯気を立て、陽気に気持ちを引立ててみることに努めてもみた。しかし、安土、桃山から五十年の間日本の多くの優れた頭を悩ませたその刃であった。また、明治から今まで七十年の間、同様に優れた人人の胸に突きつけられ、今もなおどちらを向こうとも面前に立ち顕れ、「不徳漢」と狙って来る精神の白刃であった。
 それも日本人のみならず、世界のどこの国の人間も、一度はそのような目に会わされ、また以後生れて来るどんなものも、おそらくこれからは避け得られそうにもない刃だった。
「異端者か。なるほど――」と矢代はまた呟いた。
 実際、この一ことの言葉を云われたために、どれだけ多くの人人がこれと闘い、自分の生命を奪われていったことだろうと矢代は思った。しかも、今やそれが矢代の意識(こころ)にも迫って来たのである。たとい千鶴子が直接彼に云わなくとも、何ものかが千鶴子を通し、指で彼をさし示して云ったのと同じだった。
 しかし、矢代はそういう場合に、その異端者である自分がいよいよ千鶴子と結婚するのだと思うと、差し向けられた刃より、むしろ、それに滅ぼされた自分の先祖たちが、自分の背後から立ち襲って来る呻きの方を強く感じた。腹背から受けたその差迫った険しいものの間で、矢代は、辛うじて呼吸をしている白白しい時間をつづけるばかりだった。
 丁度そうしている胸苦しい時だった。谷を下って行く貨物列車の音がして、それが消え去った夜空の静けさの中を、宿の方から鈍く重い鼓の音が弾んで来た。鼓は暫くは何気なくただ、「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん」とつづいていただけだったが、そのうちに腹に溜った悪液を押し出す作用をして、一音ごとに首が延び上り、軽くなる腹部とともに鼓の音も冴えて来た。
 前から矢代は楽器の中で鼓が特に好きだった。そのせいもあってこの音をきいている間、彼はどんなことも忘れて聴き惚れる癖があったが、折よく丁度こんなに聞えて来たその偶然が、何ものの仕業か矢代には嬉しかった。
 暫く鼓は打ちつづいて絶えなかった。遠い闇を貫いて腹を響かして来るその音はおそらく古代の遠くから伝わり流れて来て、まだそのまま途絶えぬ唯一の楽器の音にちがいないものだと思った。
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
 矢代は奇妙に気持ちが明るくなるのを感じた。たしかに今の矢代にとってそれは救いの音のような啓示のある打音だった。彼は戸を開けて外へ出てみたくなって靴を穿いた。
 雪の峰峰に抉られた空の底で月が鳴り出しそうに光っていた。矢代はふとチロルの山の上で、氷河に対い祈りを上げていた千鶴子のことを思い出した。あのときの千鶴子の祈りはああ、そうか、――矢代は白装束で跪いていたあのときの千鶴子の覚悟を今初めて感じたように思った。あのゲッセマネのキリストの祈りも知らず、自分は西洋を旅していたのだろうか。
 しかし、なお鼓の音は雪の中を響いて来て止まなかった。雪よりも氷の中の祈りを見よ、というように、――
「ぽん、ぽん、――ぽぽぽんぽん。」
 とつづく打音は、矢代にある勇気を起させて澄み透って来た。それは積み重った無数の死の中を透って来て蘇らせる音であった。キリストさえも蘇らせる音に聞えた。彼は坂路を頂きの方へ越して行ったがまだ踏まれぬ雪がますます深くなって来た。人家の灯はどこからも見えなかった。
 川は凍りつき氷の裂け目から流れ出ている水面だけ、僅に月に射し返って明るかった。水鳥が一羽ゆるい羽音をたてて飛んでいった。矢代は水面に明るく渦巻いている月の光りを眺めていると、どういうものか一度みそぎをしてから日本の中を歩きたい気持ちを強く感じた。もし千鶴子と結婚するなら自分はそれを済ませてからにしたいと思い、越後の国境いの高原の方へ出ていった。
 平坦になった路と並んで続いている瀬が、川床の石に捻じ曲り、綾を描いて潜り合う細流に月がますます冴え耀いた。


 矢代が東京へ戻ったときは、塵埃のかかる垣根から覗いた紅梅の蕾に粉雪が降っていた。樹の梢も薄紫の色を含み、早春の静かな歩みを知らせた照り翳りの日が多くなった。こういう日、塩野の写真展が資生堂の画廊で展かれることになった。矢代はバスの停留所まで出かけたとき、いつも見上げた欅は空から姿を亡くしていた。根元の太い切口が鮮やかな白さを残したまま、その周囲に広い空地が出来ていた。矢代は日光に満たされたあたりのさっぱりした表情を、移り変って来た新しい隣人を見る思いで覗いていたが、暫くはなじめぬながらも、最早や過ぎた日の歎きは彼には起って来なかった。
 資生堂へ行ったとき、ホールの受け付けの椅子の傍で矢代は塩野と会った。塩野はいつものときより少し興奮の面で近よって来て、
「長かったんだね、雪の中。――そうそう、さっきここに千鶴子さんいたんだが、お茶飲に隣りへ行ってるよ。行こうか。」
 と塩野の癖の無造作さで矢代を誘った。
「まあ、写真を見せて貰ってからにしよう。壮観だね。」
 矢代は壁面に並んだ数十枚のノートル・ダムの写真をひと渡り眺めた。見覚えの怪獣や尖塔、廻廊やステンドグラス、側壁やキリストの彫像など、大きく引き伸ばされた鮮明な姿で、一瞬カソリックの大本山の実物が矢代の頭の中に氾濫した。
 彼はベンチで混雑した気持ちを鎮めて順次に左の方から眺めていった。初めの間は気づかぬことだったが、間もなく額縁の中の尖塔の鋭い美しさから、再び危く胸を刺して来る刃を感じるのだった。彼はすぐ千鶴子と会うのだと思うと、今はそういう危い目も振り払って進んでいる自分だと思った。しかし、さまざまな思想の流れの中を突き抜けて来た強靭無類なもののその美しさも、こうして胸に受ける白刃の冷たさ鋭さと映るのが――この自然に対決を迫って来て熄まぬものは何んだろう。――
 明らかにただ美術として眺めていられぬものが、この科学寺のどの一枚の写真の陰影の中からも射していた。またそれは、幾度となく世界を覆していってまだ熄みそうにもない不思議なものだのに、それを思わぬ限りは、誰も彼もこの写真の前をただ過ぎぬけて通って行くだけだった。その無邪気さの中には、なお一層ぴちぴちと跳ね返った、哄笑するものの不思議な力が潜んでいるのだと、矢代は思った。それらの群衆の誰もは、皆ほとんど異端者ばかりだった。
「どうも写真というものは実物を考えさせて困るね。」
 矢代は狂人のようにノートル・ダムを撮りつづけた塩野の熱心な姿が泛んで来て、傍の塩野にまた云った。
「少しぼかしになってるが、やはり君は考えたなア。」
「うむ、少しぼかしてみたんだ。この程度にぼかしたいと思うそこんところが、どうも難しくってね。」
「そこのところか。なるほどね。」
 塩野というこの写真の達人の苦労が、カメラという科学の眼をぼかす苦しさに変ったこれが個展かと思うと、矢代には、また更まった意義深いものが生じて来て壁面を見直した。
 ホールに観覧人が増して来たがみな静かだった。何かしかし矢代には見ているうちに、考えきれないものばかりを見事な統一をもって緊めているのを感じ、優れた塩野の腕前も次第によく分って来るのだった。
「やはり君は東洋の名人だね。カソリックを少しぼかして見せなければやりきれないんだから、なかなか親切な人だ。どうも有り難う。」
 と矢代は礼をのべて笑った。
 窓から外を見ると、日を浴びた群衆の帯が建物の切れ目いっぱいに流れつづけていた。これも異端者ばかりだった。
 塩野は入って来る知人の応接に暇もなくあちらへ往ったり戻ったり絶えずした。
 寺院の写真のせいかみな誰も脱帽で、外套まで脱いだ観覧人の姿がホールを美しく浄めていた。
 そのとき矢代の肩に軽く手が触り、千鶴子が後から彼を呼びとめた。
「山ではありがとう。」
「やア、あのときはどうも――急に街の中へ出て来たので眩暈いがしましてね。由吉さん、どうしていられます。」
 矢代がこう云っているところへ、塩野はまた寄って来て、千鶴子の傍に立っている黒い洋装の美しい婦人を彼に紹介した。
「このかた田辺侯爵夫人です。」
 あまり不意のことで矢代は黙って会釈をした。夫人も同様に静かな会釈だったが、服装の趣味の良さはたしかにあまり見かけない人だった。襟飾のレースも小さく、細い優雅な長靴の斜めに切れ下った切り口との調和が、端正な姿をきっちりと纏めて狂いはなかった。どこか笏を持った推古朝の宮廷人を思わせる服装だった。
 矢代はこの夫人が自分たち二人の結婚を整えてくれる人の一人かと思うと、自然に謙遜になるのだった。
「あれからあなた、御病気はなさらなくって?」
 棕櫚竹の葉のなだれかかった窓際で、千鶴子は矢代に訊ねた。
「まだ一向にしそうもないですね。もう逃げてくれたのでしょう。槙三さん、また学校ですか。」
 と矢代は訊ね返した。東京へ戻ってから母に伝えた槙三の報告は恐らく芳しくないにちがいないのを、前から矢代は覚悟していたからだった。
「ええ、ありがとう、元気でいっておりますわ。」
 日の射しかかっている方へ踉めき出る煙草の煙りを眺めながら、千鶴子の顔は幾らか沈みかかったが、また支え直す笑顔も消えなかった。矢代は、槙三に山の湯の中で話したようなことを友人たちに云った結果は、丁度パリでの久慈とのようにいつの場合も悪かった。それを承知で槙三にも話したのは、一つはその避けられる悪結果を延ばすより、一時も早く通り過ごさせてしまいたかったからだったが、友人たちでさえ顔を顰めて攻撃する事柄を、撰りに撰って結婚の相手の兄に話さねばいられぬ苦痛も、しかし、まだまだこれで鎮まってはいないのだと思った。もしこの自分という日本人の本心をのべる心をさらけ出し、熄むに熄まれずうち明けて言葉を云えば、そして、もしそれを貫き通してゆきたい思いをこれ以上続けてゆけば、どの友人たちからも見捨てられるだけではなかった。千鶴子との結婚も砕いてしまう作用を強くして行くばかりの不幸の来ることも分っていた。何か自分の行く所すべて人人は飛び散っていなくなる火を、もう自分は抱き擁えてしまったのだろうか。――
 矢代は壁面のノートル・ダムの写真をまた眺めた。このカソリックの本山の写真の前では、これで千鶴子も、今の彼の姿を眺める気持ちも、常とは違うであろうと矢代は思った。しかし、それも秘かにそっと隠し、彼の苦しみを分け持とうと努めていてくれる千鶴子の優しさが、さきから矢代には分っていた。互いに慄える手を探り合って握りつつも、どこかに身の近づけぬもののある画廊ながら、矢代は、もしこれで千鶴子にいのちを失う踏絵のような場合が来れば、あの、細川ガラシヤの死の苦痛を軽めで死んだ小笠原少斎のように、自分もともに千鶴子と死ぬかもしれないと思った。
「このかた、田辺侯爵。」
 とまた暫くしてから塩野は矢代の傍へ来て云った。一度は会うことを約束されていた人が、いよいよ初めて顕れた緊張の仕方で矢代は礼をした。西洋での侯爵の日常をおよそ聞き知っている矢代だったが、想像とは違い侯爵は無表情なのどかな丸顔で、ポケットから手を出し黙って無造作な会釈をしただけだった。
 田辺侯爵にはどこといって目立った所はなかった。しかしやはりその無表情な、一見平凡に見えるところに、油断の出来ぬ人を素直に眺め感じる静物のような品と、城主の位とを具えていた。こういう垢脱けのした人物は一番恐るべき人で、また気兼ねのない伸びやかさを人に与えるものだった。
「どうも疲れた。いっぱいお茶を飲みたいが、一寸行くかな。」
 塩野は主人側の遠慮のある表情で、脱け出す機会を覗いながら、それでもまだ続いて顕れる知人の方へ忙しく歩を移すのだった。
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