旅愁
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著者名:横光利一 

 矢代はその日の夜、千鶴子にあてて手紙を書いたが、前夜の芽出度い個人的な喜びに関しては少しも触れなかった。そして、昨日の失礼した謝罪を述べて、カソリックについて意見がましく自分の云ったことなど、別に気にせずそのままつづけて貰いたいと書きながらも、ともすると、抜け殻になっているものに云うような慰めの優しい文面にもなるのだった。
 千鶴子に手紙を書いて二三日してからも、矢代はまだ結婚の夜の興奮がつづいて去らなかった。また実際彼は、夢でもなくうつつでもない、あのように不可思議なことがこの世の中にあることを知った以上は、いわゆる人人の眺め信じている実在というものは、何を意味するものだろうと考えるようになった。人はそれぞれ肉体を具えているのに、まったくあの没我のひとときの感覚の方がはるかに喜びを失わぬという奇妙な現象について――まったくそれにぶつかってみて初めて夢を夢とは信ぜられぬ理知について、――このようなことを矢代はいろいろ考えてみているうちに、人の生命というものの持ち得る感覚は、肉体の死滅の後もなお一層生き生きとしてゆくものかもしれないと思い始めて来るのだった。そして、
「いまはむかし。」
 と矢代はこういう日本の云い伝えて来た原理をくり返しくり返し呟いてみて、ふと、それなら人は生きていても楽しく、死んでもなお楽し、という結論に突きあたり勇気が一層増すのを覚えた。
 千鶴子からはどうしたことか返事が少し遅れて着いた。
 手紙の中に、返事の遅くなったのは幾度も手紙を書いては破ったからだとあって、今の自分は形のなさぬ苦しみに襲われていることがあるので、日毎に楽しさが無くなるばかりだということや、その原因となる主要な二三について書き並べてある中にも、やはり矢代が自分の信じているカソリックを虐める苦しさが一つあり、次ぎには結婚問題の再燃していることが挙げられてあった。
 こちらがこんなに喜んでいるときに、向うはそんなに苦しんでいたのかと、矢代は妙にそれがまた楽しく、情の移らぬ顔つきで手紙を読んだ。それも、丁度文面に、
「あたくしがこんな自分の苦しみなどを書きましても、残酷なあなたのことですから、きっとまたあなたはお笑いになることと思います。」
 とそんなことのあるあたりを読んで来たとき、矢代はその通りだと思ってまた笑った。
「それでもあたしが外国へ行きます前に、母と約束をしたことがあるのです。母はお前が帰って来てから自分の薦める人と結婚をするなら、お前の外国行きを許可しても良いと云われ、それは必ず実行すると返事をして出て行ったあたくしでした。母は今もそれを忘れず、時を見てはあたくしにその人を薦めてやみません。あたくしは別にその人と結婚する意志など、今のところ少しもありませんが、しかし、母との約束を思いますと、それもやむを得ないことかもしれないと思い、つまらぬことも悩みのたねになるこのごろです。でも、外国にいたときあの幸福だっだ日のこと思い出しますと、こんな苦痛もやはり忍耐すべきかも知れないとも思ったりして、今さら、自分の我がままが身に還って来た辛さに沈みます。それに帰ってからのあなたのことなど考えたりいたしますと、あなたのお考えやお苦しみの御様子なども御無理もないことに見えまして、一層どうして良いのか分らなくなってしまい、ときどきあたくしもやはりあなたの仰言いましたように、天罰を受けた人間になったのかもしれないと、本当に考え込んだりして、お祈りも苦しく切なくなるばかりです。それでも、あたくしはキリストさまをお忘れすることなど出来ません。どうぞこんなことを書きましてもお赦し下さいますように、――」
 矢代はここまで読んで来たとき、先夜のあの喜びに充ち溢れた千鶴子とは違い、この千鶴子は何んと悲しい声ばかり出す人だろうかと、矢代はそこで気疲れを感じて一寸空を見上げ、また暫くしてから読みつづけてみた。が、それはも早や、誰かにいのちを奪われてしまっているような千鶴子の歎きのみ綿綿とつづいているばかりだった。矢代は読み終ってからも、彼女を悲しませているものは、かき消えぬ西洋の幻影だろうか、それともキリストか、あるいは先夜のあの自分の結婚のためであろうかと考え込み、細川忠興の勇しくキリストと戦いつづけて踏み停っていた凛然たる苦しさが、今さら強くしのばれて来るのだった。


 まだ菊のあるのに木枯の日がつづいた。停留所でバスを待つ間、よく矢代の仰いだ欅の大樹も葉を吹き落され裸身になった。ところどころに残った枯葉も余命のつきた危いそよぎを見せ、彼の仰いでいるまも、一葉ずつ風に□ぎ浚われてかき消えた。しかし、この樹は雨の日のときにはまた別に見事な景観を表した。末端の小枝からそれぞれ大枝を伝い流れる雫が、数千疋の小蛇の集り下るように幹に対って一斉に這い降りて来る。滑かな肌は応接のいとまない忙がしさで、ぎらぎら廻り輝く硝子の管のようにも見え、空に突き立った早瀬ともなって、もの凄い速さで雨水を根元へ吸い込んだ。
 ある霽れた日矢代はまたこの欅の下まで来ると、葉を落し尽した梢の枝に鴉が一羽とまっていた。均斉のとれたその樹のさし交された枝枝の中で、鴉をとめた一枝だけが揺れ動くのを眺めているうち、何ぜだかふと彼は、火薬が初めて西洋から日本へ入って来た日のころを思い出した。そのときは丁度この鴉のように、ある一枝の城に火薬が留まり、そこを焼き滅ぼしては次ぎ次ぎへとまた移っていった。当時の日本の城のうち、撰りに撰って、一番初めにその鳥に留られた城が自分の先祖の城だったのだと矢代は思うと、暫くは不吉な黒い姿から視線が反れなかった。しかし、どんなことでも何んの犠牲もなく、安全に生き残ったものの丈夫になった例はない。それを思うと、彼は真っさきに火薬のために滅んでいった先祖の城の運命にも、やはり勲を認めたかった。それも誰からの償いも受けず最初の敵弾に斃れたということは、矢代だけでも、せめてそれを先祖の陰徳として尊びたかった。それでなければあまりに先祖が寂しかった。
 見ていると、鴉は一向に枝から飛び立ちそうな様子もなかった。そして、欠伸をする恰好で口を大きく開けたり閉めたりしては、翅をときどき拡げ、また同じ欠伸を繰り返していた。翅を拡げるたびにその一本の枝だけ、雲行きの早い空の中で揺れつづけて騒いだ。
 襟もとの薄寒く冷え込むまま、人通りのない初冬の往来に立っていても、矢代は、枯枝に留った鴉の黒い色がもう不吉な色には見えなかった。むしろ今は、その鴉から黙黙として滅んだ先祖の運命を徳とする理由を素直に発見出来たことに欣びを感じた。それはまた矢代のみとは限らず日本人の平民なら、各自探せばそれぞれ共通して発見し得られる同じ欣びでもあり、また誇りともなるにちがいないことだった。矢代はそれが何より嬉しかった。
 彼は鴉の留っている枝から眼を転じてまた他の枝枝を眺めてみた。どの先端の細かい小枝もみな大枝に連がり、一本の幹となって立っているのも争われず日本の姿と斉しかった。ただ鴉に留られた枝は少し他の枝と違っており、その枝の不幸なだけ、他の枝枝が強い弾力を貯え得られたことは、それ以来引きつづいて逞しく育って来た今の姿を見ても分った。
 街へ出るたびにこの欅の下へ自然に立たねばならなかった矢代は、こうしているまも、双方の意志までいつか通じるように思われ愉しみだった。また彼はこの樹を見上げたときが自ら正しい考えを得るように感じてからは、その日の吉凶なども判断したくなったりして、知らず識らずそれも習慣となると、いつの間にか千鶴子のことなど、自然とつい欅と相談するという風な癖にもなるのだった。
 千鶴子が母から他の男と縁談を奨められている苦しさを洩して来た手紙を見て以来、特にこの相談めいたことの去来する親しさも増すようになった。
「ね、君、今日もまただが、千鶴子さんのことは、僕から何も特別に云わなくったって善いとも思うんだがね。抛ったらかしといたってさ。」
 と彼は、こんな自問自答風な調子で訊ねる。
「しかしまア、気にはかけておらないといけないよ。」
 と欅が答えるように思う。
「それもそうだが、千鶴子さんの母親が他の男に意志を向けているというなら、これは持久戦になりそうだよ。もっとも、僕の母親も千鶴子さんがカソリックだと知れば、僕の所へ来ることを喜ばないから、千鶴子さんにしても同様だと思うんだ。」
「しかし、君も一度夢の中で本当の結婚式を挙げてあるんだから、そう急いだもんでもないだろう。何しろ相手は現世のことなんだから、人間めいた臭いもするさ。まア宜しくやりなさい。君も夢を見たついでだ。」
 と欅は笑う。矢代はこの欅とこんな問答を始めるときは、相手の端正な姿に心がのびやかになり、情熱のさめ冷えて来る危険も感じたが、こちらの頭を正すには何よりこの樹は役立った。しかし、「君も夢を見たついでだ。」とそう云い放つような欅の立姿には、矢代もふと心中つかえるものを感じて考えた。すべて夢というものは、現実よりも高雅な美しさに充ちていると思っていたときであるだけに。去年から道路を拡げ始めている工事が欅の下で着着と進んでいた。やがてここの停留所も除かれてしまい、そのときになれば、欅もともに截り斃されてしまうのは定っていた。彼はその後の明るく拡った空間を想像して、この欅と別れるのも間もないことだと思った。
「もう暫くすれば君ともお別れだね。」
「どうもそうらしい。毎日足もとを見ているがね。そこまで来とる。」
「寂しいか。」
「いや、へんなものだ。」
「誰が君を截りたおすのか、分ってるんだろうね君には。」
「うむ。毎日見てると、浅右衛門の手つきなかなか上手いよ。」
「云い残しておくことはないかね僕に。」
「ない。」と欅は一言いって暫く黙っていたようだったが、また空を見上げていてからぼそぼそと云った。
「じっとここにこうしていたようだが、これでも長い旅をして来たね。」
 矢代は欅から眼を反らせてもう黙った。日焦けした土工たちの腕の汗が石の間で光っていた。砂利を混ぜ返す音がじりじり髄にこたえる向うの坂路を、バスが傾きながら流れて来た。
「ね、君、僕がここにいちゃ、人間の夢を邪魔するよ。そうだろう。」
 とまた欅は云いかけて来たが、矢代はこのときはもう聞えない振りをした。
「まア、君と話の出来ただけでも嬉しいよ。僕なんかいなくなったって、――」
「さようなら。」
 矢代は自分の見ていないとき截り斃されるか知れぬ欅の様子を感じたので、今からそっと別れをのべておいてバスに乗った。


 塩野が二週間ほど入院していてからまたある日矢代のところへ訪ねて来た。
「とうとう病因分らずじまいさ。」
 塩野は矢代を見るとそう云って幾らか顔色も優れず元気もなかった。言葉は事実を喚び起すという譬えを矢代は思った。そして、冗談の当りすぎた気味悪さもまだ引かず、深くは塩野に病状を訊ねる気もないまま、無事退院の慶びも一言いったにすぎなかった。
「しかし、今度は千鶴子さん、どうやらへんらしいんだ。昨日電話で宇佐美と話しただけでよくは分らないんだが、どうもそうらしいね、熱も相当ある様子だなア、――」
 塩野は声を低め気味悪そうに、笑顔もなく窓の外を眺めたままだった。それでは千鶴子にも来たかと矢代は急に身が緊った。庭がぼっと暗く見えて来る中で、白い山茶花の弁だけ明るく、地虫のかすかに鳴く声が耳に入った。パリで会った人物のうち、帰って来たものも今は塩野と千鶴子ただ二人だけだのに、その二人が日をあまり違えず同じ病いに襲われたのだと思うと、矢代は、もう自分の考え以外のところで事実が厳しく動いているのを感じ、云うべき言葉もなく黙っていた。森森とした寂しさが襟もとに迫って来た。
「しかし、君、黴菌の巣窟へ帰って来たから、病気になるなんて科学説、そんな馬鹿なことはないよ。科学的に云うと、何んだって日本が悪くなるのかね。」
 矢代は急にそんなことを云いたくなり、つい科学の悪口を云ってしまった。敏感な塩野は「うむ」と云うと、耳を動かす馬のようにぴりっと眼鏡を光らせた。そして、病中眠っている間は夢ばかり見ていたので、何んの事だかいまだに分らないと話した。矢代は千鶴子の容態をもっと知りたいと思ったが、彼女の母親のことを考えると直接見舞いに行くことも出来ぬ不便も、二人の間からはまだ解けぬのだと思った。
「今日はチロルの氷河の写真と、巴里祭の写真を持って来たんですよ。」
 矢代はそう云って出した塩野の包みをだるく受け取って開いてみた。葉書大に引延ばされた数十枚の写真も、そんなに見たくもない様子で彼はくりながら、自分の見て来たところの美しさも写真ではやはり駄目だと失望したが、それでもだんだん引き込まれて丁寧に見始めた。
「これこれ、このときだ僕の殴られたのは。」
 塩野は横から、巴里祭の日に左翼とカソリックの右翼の波の間に挟まれ、ひどく殴られつつシャッタを切った一枚を差して云った。しかし、その写真はサンゼリゼの激動の最中に撮ったものとは思えぬほど、映っている部分は静かだった。矢代は人人の押し狂っているさまよりも、背後の篠懸の街路樹が意外に沢山葉を落している姿に寂しさを感じ、あの七月十四日に早やパリは秋立っていたのかと、首をかしげて写真に見入った。
「パリ文明もこの写真一枚に出ているね。美しいところだが惜しいものだ。僕の傍にいた紳士は、何アに、これはただフランスの病気だ、こんなものはすぐ癒るとそのとき云ったがどうだかねこの病気。」
 と矢代は云って写真をはねた。次にチロルの氷河の写真が入り乱れて顕れた。氷の斜面に打ちつけたピッケルの痕から、光りの飛び散るように、日の射し返った氷河の面面が繰り出て来るその背後に、一連の山脈の写真が顕れると、やはり彼は愉しくなって興奮した。ハーフレカールの峯を仰ぎ、千鶴子と二人でミルクを飲んだ白い卓布に、物憂いまで強く射したあのときの日光。足もとの紫陽花に群れた蜜蜂。氷の斜面を這い降りて来ては二人で覗いたびいどろ色の深い断層。スイスの山の方向に流れるゆるやかな雲、牧場、サフラン、――矢代は追憶の愉しさのままにも、もう写真を放したくなり、
「ああ、もうよした。」
 と云って皆テーブルの上へ伏せてしまった。すると、どういうものか写真に顕れた風景とは反対に、欅の下で石を動かしている土工の日焦した腕や、東北の海沿いの白い路に熟れ連っていた無花果や、上越の茂みの下を流れ潜る水の色などがしきりに泛んだ。初めは何気なく彼はそんな景色を思い泛べていたのだったが、いつの間にか、西洋の風景に対抗させたい日本の中の美しい風景を漸次に撰び出し、組み整えているのだった。そして、まだまだ自分は日本の中に深く分け入って美しい光景を見届けて来なければ、心中やみがたく納りがたいと思い、あれこれと過ぎた日に見た、山川の美しさを引き出そうと努めた。が、ふとその緊張がゆるむ後からまた強くチロルの峯峯、南仏の海の色、イタリアの湖と、繰り代り色めき立って割り込んで来る。始末は頭の中のことだけに、矢代の意志のままには片付かなかった。
「僕はそのうちノートル・ダムばかり撮ったのを纏めて、個展をやろうと思ってるんだが、ひとつあなたも撰んでもらいたいな。」と塩野は云った。
「あなたのあれは美しい。」
 矢代はそう云って塩野に賛成した。そして、人間が生活をするのは食い生きるためにちがいないとしても、意識するしないに係らず、人類共通の念願として、所詮は誰も一挙手、一投足のするところ美を造り出すために生活しているのだと思うが、君はどう思うかと訊ねてまた云った。
「それは何もただ芸術の美ばかりとは限らないさ、政治の美、経済の美、宗教の美、そのほか都市、農村、科学や学問や、法律、編輯などの美にしてもだが、つまりそれが文明なんだから、――誰も汚なさを造り出そうとして破壊もしなければ政治もしないよ。間違いかね。」
「それはそうだ。武器にしたって美のない武器を持ってる国は負けるからな。日本刀の美しさなんか、美しさとして見るだけなら、ノートル・ダムの中にあっても、断然光るね。」
 塩野も自分の写しとって来た異国のものから、頭を日本の内部へねじ曲げて来ているらしかった。こういうときに起る難かしさも暫くは繰り返し、邪魔する頭の中の他のものも突き伏せて行かねばならぬのが、怠ることの出来ない、このごろの二人の苦労だと矢代は思った。実際、日本の中から汚なさが沢山に眼につき出すと、何んとかして反対に美しさを探し出したくなって、たまらなくなるときだった。
「城だって茶室だって着物だってそうだよ。もっとも、城はポルトガル人が這入って来てから、少し前とは変った傾きがあるが、それでも、あれだけの美しさにした所は、そうそう、先日僕は、信長時代に京都へ耶蘇寺を建てたポルトガル人のフロイスという宣教師が、こっそり本国へ送った書翰集を読んでみたら、日本という国は大変な文明国だ、むしろ自分の本国よりも文明が高いと思うと、そんなに書いてあるんだ。それも本国の法王へ出した報告文の中にあるのだから、誰もそこだけは見せたくなかったと見えて、リスボンの博物館からつい近年出て来たばかりの原稿なんだよ。僕はそれを読んで、非常に嬉しくなってね。さっそく久慈に報らせてやろうと思ってるんだが。」
 こういうことを云うときでも、矢代は、塩野の視線を日本の内部へ今より深く潜り込ませてみたい気持ちを、どこかに感じていることは、千鶴子に対った場合とあまり変りのない自分だと思うのだった。また事実塩野や千鶴子に会うたびに必ず想い起す西洋の幻影の盛り上って来る勢力からすり脱けるだけでも、矢代は日ごとに工夫を変えねばならぬ、人知れぬ苦労を要した。もしこれがいつもつづけば、西洋で会った人のうち、忘れることの出来ないこれらの人とも別れて行くかもしれぬ危ささえ感じるのだった。そのくせ、塩野も矢代も黙ってしまうと、彼は前から気になっていた千鶴子の病いのことが重く頭に拡がり、窓の外で赤赤と群れている南天の実に日の射し込んだ艶も、高熱に病むものの閉じた瞼の静けさに似て見えた。
「しかし、千鶴子さんの熱は、あなたのと同じ質のものならもう少し早く来ている筈だと思うんだ、がそれともこんなことは、人によって遅速があるだろうから、やはりそうかな。」
 矢代は考え込むと見舞いに行けない事情に今さらいら立たしさを感じて、突然塩野の返事をうながすように訊ねた。
「さア、そこがね。」
「遅くても来るものなら、そのうち僕にも来るかもしれないんだ。」
「じゃ、君はまだだったの?」と塩野は意外そうな表情で訊き返した。
「僕は東北の温泉へすぐ逃げたのさ。いやらしいからね、そんなのにやられちゃ。」
「それや、卑怯だ。」
 塩野は急に鋭い声でそう云って笑い、矢代から顔を背けた。
「ところが僕のはまた一寸違うので、母が東北なものだから一つは先祖に敬意を表したくなっていったのさ。これが卑怯なら、自分を知らぬもののいうことだよ。どうも僕は、先祖のしたことが急にこのごろ気になって来てるんだ。」
「しかし、先祖というものは、力試しに少しは子孫に反抗させてもみたいものじゃないのかな。僕はどういうものか、死んだ父が漢学者なものだから、せめてお前だけは俺の知らぬものをやってみよと、そんなに云ってるように思えてね、それで僕はこんなカメラとフランス語とをやってるんだと思ってるんだが。」
「そこまで知っていてやる人なら、まア僕らのすること少しは赦されるんだと思うんだ。しかしたいていはそうじゃないよ。僕はやはりそれが心配だ。巴里祭の日に君が殴られたのなんて、あれは君、それを知ったものと、知らぬものとの間に君は挟まれて、両方から殴られたのさ。そして、シャッタを切ったのが、つまりこれだ。」
 と矢代はそう云いつつ写真の中からサンゼリゼの激動の場をめくりあて、塩野に差し出した。
「君は知らないだろうが、このときの君の顔を、ちゃんと僕は君の親父さんに代って見てるんだよ。無我夢中で君は飛び上っていたよ。真ッ青になって、横っちょになって、――あ奴、やりよるなアと思って僕は見てたものだ。おやじだよ僕は。」
 塩野は「ふふッ」と笑みを洩してまた暫く写真を眺め直した。
「思い出すなア。このとき中田教授は僕の傍で、日本がこうなられちゃ、これやたまらんと呻いたが、どうしているかなアあの人。」
 中田という政治学の大学教授はよくパリで矢代にも、論理の大切さを何より主張してやまなかった合理主義者だった。塩野はこの教授の説の正否などはどうでも良く、自分の扱い馴れた愛機のカメラの眼といつか心も近くなっているのであろう、ただ教授の人格に感服していた。矢代も中田の云うことよりも人間の方が好きだったが、いまもし会って、自分がひそかに先日以来感じている不合理な千鶴子との夢の結婚を中田に話したら、必ず自分を蛮人だと思ってしまうにちがいあるまいと矢代は思った。またそれは中田のみとは限らず、おそらく誰でも愚の骨頂として矢代を笑い捨てることだった。今も彼はそれを思うと、塩野にそっと自分のその結婚の愉しさを洩らしたところを想像してみて、彼の愕きあきれる顔が泛び突然おかしくなって笑った。
「ほんとに中田さん、今ごろは苦しんでいるよ。真面目な人だったからなア。」
 不意に笑った矢代の声を中田の狼狽した呻きの追想のためだと、そう都合よく解してくれて云う塩野に、また矢代は合槌を打ってゆかねばならなかった。しかし、一方、彼はこの夢の真相だけは絶対に人に云ってはならぬと、なお笑いつづけながらも、深く思っていくのだった。
「政治学という学問は、みな誰もプラトンへ還るべきものだと思っている風な様子らしいが、僕はあの論理主義みたいな神秘主義を間違えると、きっと今に大変なことになってゆくと思っているね。世界中が美意識の大乱闘をおっ始めるよ。僕はパリにいたときから、中田教授の説には必ずしも賛成しなかったんだが、いまにあの人、帰って来れば必ず変ると思う。君子は必ず豹変するからね。つまり、変るということがなかなか味のある深い論理というものの美しさだということを、君子なら知っているよ。」
 こういうときにも、矢代はどこかに自分の笑いを狂わそうとする狡さを感じて苦しかった。
「しかし、ああ真面目な人だとね。」
 と塩野はあくまで友人の苦痛を念う心配げな表情で考え込んだ。
「けれども君、僕らはギリシアへ還る運命を持っちゃいないよ。みな世界の学者たちが、そういうギリシアへ還る夢を抱いて勉強をつづけているのも結構だが、もっと他に持ちたい深い夢が、いくらでもありそうなものだと思うがね。」
 矢代は自分の笑顔に射し込んで来た狂いを幾らかでも戻したく、そんなに云った。
 話したって無駄なことだとは瞭かに分りながらも、やはり彼は、自分の感じた放射能のような千鶴子との結婚の夢の素質を信じたかった。
「しかし、カメラには夢はないからな。そこが僕らの一番困るところかもしれん。これから一つ夢を持ったり撮ったりする工夫をやるかな。」
 ひやかすつもりはなく塩野は塩野で、何か専門のカメラに関する特殊な技術をまた別に思うらしい様子で暫く黙った。少しも二人の話が触れ合うところがなくとも、互に知らぬ部分でそれぞれ触れ動いているもののあったのを矢代は感じ、事実とはこのような恐るべきものかもしれないと思ったり、さらにまた過ぎた夜のあの夢の実相を、これがこの世の美の極りの消えるところかとも思ったりするのだった。
「あなたはカメラが専門だから、夢なんか捨てて、もっとこちらの美しいところを写真に撮ってほしいな。夢なら、僕が代りに幾らでも見とくですよ。」
 と矢代は云って笑った。このときはもう、偽りもなく塩野を見て笑うことが出来たので彼も愉しかった。
 二人は塩野の全快祝いをかねた夕食を摂りに外に出た。千鶴子を見舞いに行こうかという話も出たが、入院しているならとにかく、まだ自宅にいるからは却って邪魔するだけだと相談して、それもとり熄めた。
 停留所まで下って来たときに、このときは塩野から欅を見上げ先日のバスの女車掌のことを云い出して笑った。人と一緒のときは矢代は、欅に物云いかけたい気持ちはいつもなく冷淡になった代りに、石工の腕の動きだけ特に激しく眼についた。そして、自分もそろそろもう仕事につくことにしようと思ったが、仕事といっても矢代のは整理部だったから、ただ書籍や雑誌の整理をする傍ら雑書を読めばよかったので、いわば彼のは書籍の中の旅をつづけて行くのが仕事というべきようなものだった。矢代はそれを愧じてもいたがまた幸いとも思った。
「どういうものだか君、日本にいなかった間だけ、僕らは日本を知らないのだから、何んとなく考え方に、一般とピントの合わない空洞が出来てそこが困るね。そこをどういうもので埋め合せて良いのか、一寸見当がつかないよ。君もそうだろう。」
 矢代は停留所の白い立札に手をかけ塩野を覗いた。
「どうも僕らはそれが今さら弱点になって来た。」
「僕はこのごろ、皆が何を考えているのか分らなくなったのだよ。何かこちらが云いかけても、これや云いぞこなうだけだと思って、ついやめるんだが、そういうせいか、僕は物が云いたくなると、何ぜだかこの欅に云うようになってね。僕にはこの樹は今は実に大切な樹なんだよ。」
 塩野はちょっと眼の色を変え欅を仰いでいてから、
「なるほどね。天罰があたったと君がここで云ったの、分るよ。――そうだなア。」
 と云いつつなお仰ぎつづけた。矢代もともに眺めていたが、冬枯れた梢の上を流れる断雲に眼を転じたとき、あの結婚した方の妻の千鶴子はいまごろどのあたりを旅していることだろうと、ふとそんなことを思って雲の流れが懐しまれた。唐竹のステッキを握った手首の冷えて来るのに矢代は、まだ自分も目的の遠い旅をつづけている姿だと感じ、バスの来るのを待つのだった。
 二人はその夜両国のある鳥屋へ上った。鳥肌の煮え始めて来たころ、急に思い出したらしく、塩野は今朝の新聞を見たか面白いねと云った。
「いやまだだが何んだ。」
 と訊き返すと、蒋介石が西安で誘拐されたまま生死不明になったということだった。事件は中国のこととはいえ、矢代は身に直接吹きつけて来た突風を覚え、これはいつかは自分の運命に影響して来る何事かだと思ってひやりとした。


 矢代が千鶴子へ病気見舞いの手紙を出してから一週間ほどたって返事が来た。病気は塩野と似ていてやはり原因が分らず、ただ高熱と眠けに襲われつづけただけで、無事恢復したということや睡眠中に矢代の名を口走ったこともあったらしく、後で兄の由吉から揶揄われて困ったことなど書いてあった。
 矢代はそれで先ずひと安心だった。そして、すぐ自分の調べ物もかね、知人の小屋のある上越の山へひとり出かけた。彼の知りたかったのは、一番彼の不案内な宗教と科学の歴史に関する方のことだったので、荷物はその準備の書物で重くなった。
 山にはもう雪が深かった。駅に着いたのは夜で風が谷の底で鳴っていた。宿まで行くのに橇に乗らねばならず、前後に一人ずつ従いた狭い橇箱の中で、幌の破れ目から吹き込む風にときどき矢代は顔を背けた。崖から雪崩れ落ちる雪の音の聞える路が長く、揺れ動く敷板の固さに腰骨が痛んだ。途中で馬橇に出会うと、路を除けあうのにこれがまた時間がかかった。矢代は押しつけて来る山の高い雪層を仰ぎ、調べ物に来るには少し物好きすぎたかと思った。それも滞在中は小屋で自炊するつもりだったので、洋灯に照し出された馬橇の足を食い込んでいる雪の深さに不安も感じた。
 もともと一度前に、矢代はここへ来て友人と自炊をした楽しい経験があってのことで、初めてではなかったが、そのときは五月で、冬の山の自炊はこの度びが初めだった。山小屋の附近に温泉もあり、そこの宿も馴染みの家だったから、困れば宿に泊りつづけても良かったのだが、帰ってから日ごとに都会がいやになって来るばかりのこのごろの矢代は、一つは馴れぬ冬の山の自炊生活もしてみたくて出て来たのである。それもチロルの山小屋を思いきれない苦肉の策も手伝っているとはいえ、今はそれもやむを得ないことだった。
 その夜彼は宿へ泊った。数年前にいた番頭がまた戻っていて矢代には都合が良かった。前に来たときより建増して倍ほども大きくなっている宿の中では、階下にあった浴槽が二階の中央に変っていて、高く突出した展望のよく利く広広とした位置を取り、どことなく外国のテラスに似た明るい美しさが好ましかった。
「ここの浴場は見事だなア。こんなに家全体で浴場を持ち上げているような風呂場は、僕は見初めだ。」
 と矢代は番頭に褒めて云った。
「そうですが。皆さん風呂場だけは、まア褒めて下さいます。」
 塩辛声の番頭を前にして、矢代は、ハンガリアのダニュウブ河の岸にあった温泉を思い出し、そこがここに一番似ていたと思った。彼は番頭に山小屋での自炊用の薪や、調味料などの世話を頼み、暫くの浴場もこの宿のを借りることにして、明日からの小屋の生活を楽しみにした。
 矢代は寝る前に音信を忘れていた知人たちへ手紙を書いた。彼は外国へ行ったことの利益のうち、省みて生活に直接役立ったと思うことは、何より自分が無慾になったことだと思っていたので、千鶴子へ出す手紙の中にも忘れずそのことを書き加えた。また結婚のことも考えると、まだ一度も自分が千鶴子にそんな意志を表示したことのないのに気が付き、千鶴子の待ち受けているのは或いはそれかもしれないと思ったが、しかし、特に結婚の申し込みをしなければならぬほど疎遠な間柄でもないと思い、やはり筆にまですることは差しひかえるのだった。自分に自信があるからだと云えばそのようなものだった。そう云えば千鶴子にしても、たしかに自信があるにちがいない素振りであった。たとい向うの母親に異議があり、自分の方の母親にも同様なことが起るとしてみても、それなら、双方の異議の消え去るまで待つだけの準備は、またどちらにも出来ている筈だった。ただ彼は、今さらそれを云い出して事を荒立てる気持ちがなかっただけで、他から云われずとも、自分の方は自分で互に邪魔ものとなる事がらを秘かに処理してみてこそ、それが二人の場合に限った一番自然な愛情のように思われた。もしそれも出来なければ、出来ないような何事かがまだ二人の間にあるのにちがいない。――とにかく、矢代は結婚という言葉を今は強硬に手紙の中で使いたくはないのだった。一つはそれも、千鶴子と自分の間に西洋の幻影が燃え尽きず、まだ焔を上げているのが感じられたからでもある。
「どういうものですか、僕はこのごろ、無茶苦茶に勉強がしたくなって来ています。かつて今まで、これほど勉強をしたいと思ったことはまだありません。あなたのこともよく頭に泛んで来て困りますが、実際、これは困るほどです。なるだけその方のことは倹約することにして、荒行を山でやりたく出て来ました。非常な決心で明日から山小屋の雪の中で、自炊もするのです。我ながら勇ましい覚悟に愕いておりますが、チロルのときのように邪魔しないで下さい。あのときのことを思うだけでも、今の僕にはあなたが少からず邪魔になるのです。」
 こう矢代は千鶴子に書いて、嘘はどこにもないと思った。


 山小屋は宿からあまり離れていなかった。二十畳敷ほどの両側に寝台が四つ、窓際にベンチ代りのが二つと、都合六台あって、椅子、テーブルを中に炉代りのストーブもあり、内側の丸木はすべて白ペンキ塗りのため室内は明るかった。自炊用の道具箱も戸棚の中に揃っていた。やがてスキー客の出揃うころになると、この小屋も満員になりそうなので、矢代の勉強もするなら雪の浅い今のうちだった。
 ここは特に朝の景色が美しかった。山際の雪に接した空の色の鮮かさは、醒めたばかりの眼を射抜き、貼りつけられたように暫く視線がそこから動かなかった。そこへさし昇って来る朝日に照り耀いた雪を冠ったまま、朧に静まる薄紫の枝枝の繊細さ、――矢代は顔を洗ってから一寸雪片を口に含んで菜を截り、火をストーブに焚きつけてそこで湯を沸かすのである。自炊はさして面倒なものではなくむしろ楽しかったが、後の洗い物が苦手だったから、これは附近の老婆に御飯と一緒に頼むことにした。
 二三日は矢代は小屋からあまり外へ出ず書物ばかり読みつづけた。宿から初め小屋に移って来たときに感じた辛さは、宿で女中に見張られた気苦労よりも暮し良く、この生活は自分の理想の一つだと思えたほど退屈もしなかった。ただこの生活にもし書物がなかったら、恐らくこうして二日とはいられぬだろうと思うと、窓の外いちめんの白さが、ふと恐るべき退屈の塊りのように見えた。シベリヤを通ったとき矢代と同室の南が、十年前に一度雪のそこを通った景色も忘れたことを話し、
「あのときは雪が降りてたから、外なんか見なかった。いや、しかし、今度は驚きましたね。」
 と、シベリヤの広さに驚歎したのを矢代は思い、十日余りも続くあの地の真白な世界を想像してみて、その途方もなく巨大な白い塊の中に生活して来たロシア人の表情も、所詮は、我れ識らずに退屈と戦って来た長い苦しさかも知れぬと思ったりした。退屈しのぎにせっせと人殺しをすることを書いた帝政ロシアの小説を、矢代はいつか読んだこともあった。それも雪のせいだったようにも記憶しておれば、また、昨日までの親友が明日自分のその友達を殺して平然としていることがよくあるのも、それも、突如として大平原に襲って来る気候の激変のためだと、モスコーを通ったときそこにいた日本人から聞かされて、なるほどここなら、それも別に不思議はないと頷いたこともあった。およそわが国のみならず、どの国の自然、風土からこの国を考えても、誤差の甚だしく生じるロシアだと彼は思ったが、ひところこの国に栄えた思想を範とせよと各国の知識階級に呼びかけた者の勢い旺んだった年のあったことも、すべては当時栄えた唯物史観という、ある種の科学説の力だった。
「いったい、ギリシアは何ぜ滅んだのだろう。」
 と、こういうときには矢代はいつも思うのが癖だった。今も彼が雪の山小屋へ勉強に出て来たのも、科学を世界に伝え残したこのギリシアの滅んだ理由を調べたかったからである。そして、矢代の先祖の城を滅ぼしたのも、つまりはすでに滅んでいるこのギリシアの残した科学のためであり、それもカソリックという宗教の仮面を冠って不意に襲って来た科学であったのに、今もなお彼までそれを調べねばならぬとは、身を省みて怪しまれることだった。
「とにかく、あれはおかしな代物だ。」
 と矢代は、こんなときには薄笑いを洩してギリシアの文明について考えるのだった。
 また彼のその薄笑いは彼ひとりのみならず、東洋共通の表情にも通じたもののようでもあり、恐らくそれも東洋だけの愁いでもなく科学の仮面とされて遠く波路を渡り、東洋に押し出されて来たカソリック自身の歎きにもちがいないことだった。
 こんな意味から選んで持ち込んで来た矢代の書物の類も、宗教は宗教のことの歴史だけより書いてなく、科学は科学だけの歴史より書いてなかった。今の矢代にとって目下何より知っておきたいことは、この二つの歴史の争いもつれたその接点の歴史だった。


 矢代は朝起きると朝食の前に小屋を出、宿まで行って浴槽に浸った。朝の空に突出した高い浴槽は、他には見られぬ稀な場景を泛べ、ここの温泉は毎朝の彼の一つの愉しみだった。
 さし渡し三間もある白いタイルの円形の中に、透明な湯が漲り溢れていて、部屋から入りこんで来る客も朝は賑わった。浴槽内の温度が外気を遮る大きなガラスの壁面の冷たさに触れ、物凄い濃霧の湯気となって場内に巻き返るので、肌の触れ合うほど間近に顔を並べている隣りの客の顔さえ朧だった。その他の客の姿など少しも見えず、ただ男女の声だけ聞える茫茫とした霧の中に、朝日に映えた薄紅色の山の雪の明るさが射し透った。
 矢代はいつも山に向いた位置を撰び背をタイルの縁に寄せ、舞い立つ霧の底でがぼがぼ鳴る湯の音を聞いた。広い山の湯の男女の混浴は隔離した湯よりも、むしろ清浄な山川の匂いが強く肌に染み入り、互に羞らいのない心の爽かさが、また一層朝の人の眼醒めを美しくした。
「冬は暖いとこの温泉へ行きたいが、来てみると、やはり冬は冬景色を見るのも良いものだな。」
 とある客の声もした。猪の出たことや、この地の葱の特別の美味さや、馬橇の値の高さなど、湯の中の話を聞くともなく聞きながら、矢代は、朝の雪中の男女の混浴を俗情と見ず、こうしている人人も、健康な日のギリシアにどこか似ているなと思った。そして、また彼は今調べつづけているその文明の滅んだ理由を、湯の中で自然に考えるのだった。
 矢代の読んで来たギリシアの滅んだ理由はさまざまであった。小党の分立だとか、社会主義の跋扈(ばっこ)だとか、科学の発達から当然に起った農村人の都会化だとか、神神の紛失だとか、歴史家の見方は、それぞれ違った理由を述べたてていたが、彼はそれらを尽くそのまま真実のこととは思えなかった。まだ人人の誰も知らぬことがらが必ず隠れているにちがいないと思い、裸身の人人の湯の中の姿を濃霧の中から見つづけた、ときどき朝日に透けた霧の中から、二つの乳房がおぼろに水面に対って重く垂れている均衡のある美しさを彼は見て、あるいはギリシアは、ここに何か欠陥が生じて滅んだのではあるまいかと思ったりした。
「つまり乳が不足したのさ。代りに山羊の乳を人間に飲ませすぎたのだ。」
 何んとなく彼は勝手にこんなことを思いある日も湯から上って来た。小屋へ戻ると、帰途の寒さに凍りついたタオルをへし折り炉の傍へかけてから、彼は味噌汁に入れる葱をナイフできざんだ。雪を冠った鉾杉の幹の下でぷつぷつ切れてゆく葉脈の匂いが強く発ち、あたりの雪の白さが急に眼に滲みついて痛んだ。
 矢代が小屋へ来てから十日ほどたった日、遅い新聞と一緒に宿の女中が電報を届けに来た。千鶴子が兄をつれてその夜の六時の汽車で着くという電報だった。
「来るなというのにとうとう来るのか。」
 と矢代はひとり呟いて笑った。
 電文の最後に宿たのむとあるので捨てても置けず、彼はさっそく部屋を見に宿屋へ行ってみることにした。女中と並んで坂を降りて行きながら、まさか宿たのむとは自分の小屋を宿に借せという意味ではなかろうと思った。六台もある寝台だから小屋で泊めても良かったが、それには毛布が足りなかった。また今は宿だけは別にする方が良かろうと思い、やはり彼は宿屋まで下っていった。
 東向きの適当な八畳を撰んで置いてから、後は廊下の欄干に手をついて雪景を眺め、暫くまた千鶴子に時間を奪われる覚悟を決めるのだった。まだ彼は自分の探している部分の研究に手がかりのつかぬときだったので、実はもう二三日来るのを延ばしてほしかった。彼女の病後せっかく会う機会も、仕残した調べものの片付かぬ気がかりがあっては、襟首を掴まれた形で落ちつきが悪かった。いつかも一度彼は書き物に夢中になっているとき、茶を飲もうとして傍のインキ壺を湯呑と間違えたことがあったが、今日の場合も千鶴子にいま来られては、浮かぬ顔が続き、さぞ冷淡に見えることも多かろうと案じられた。しかし、もう千鶴子は出発してしまっているころだった。女人という母乳に来られれば、やはり自分にはギリシアや科学の研究は不似合だ、と矢代は苦笑しつつ、
「いま幾時。」と女中に訊ねた。
「一時二十分。」女中は床の水仙から放した手の腕時計を眺めて答え、
「でも、この時計はときどき狂うんですのよ。」と注意して振子を捲いた。
「しかし、三十分も狂っていないだろう。」
「それは、――まア、五分か十分ですわ。」
 それではちょうど千鶴子は大宮あたりで、鰻の駅弁の美しい鉢を眺め食慾を覚えているころだと彼は思った。


 その夜時間を計り駅まで矢代は出かけた。吹雪になりそうな怪しい空模様だった。ホームのすぐ裏まで押し迫っている岩肌へ吹きつける風が、また巻き返って構内の柱を鳴らせていた。足駄で汚れた雪の残った待合室のベンチに汽車を待つ間、矢代は間もなく着く千鶴子のことを考え、どこか浮き浮きしている自分だなと思った、すると、夢に見た例の千鶴子のことを思い出した。そして、妙にその彼女の顔が気の毒な表情に見えると、あたりに飛んでいる愁い気な様子さえ覚えて耳を澄ますのだった。実際それは我ながらおかしい空想にちがいなかったが、不思議とその千鶴子に実感が籠っていて、
「まア、待ちなさいよ。何んでもないよ。」
 と、山に籠ってからの独言のくせも出て、つい夢の彼女をなだめて云うのだった。やがて駅前の乱れた雪の中に客引きの提灯が並んだ。軽く吹き始めて来た粉雪の中を汽車が明るい灯の連りとなって入って来た。停った汽車の中から出て来た客に混り、千鶴子も黄鼬鼠(いたち)の外套で、後に矢代の見知らぬ青年をつれて降りて来た。
「あら、わざわざすみません、ひどい雪ね。」
 改札口の所の矢代を見付け、千鶴子はまだ車内の蒸気の熱に浮かされた頬で笑った。それはまた夢の中の彼女とはまったく違った顔だった。宿の番頭に荷物を渡してから千鶴子は由吉の弟の槙三という青年を矢代に紹介した。一見彼女の弟かと見える槙三は、帝大の学帽のまま最初から稀に見る穏やかな笑顔をつづけて黙礼したきり、始終黙りつづけていた。由吉とはおよそ違った性格らしかったが、矢代はすぐ好きになった。五人兄弟のうち千鶴子が末っ子だということを彼は記憶していた。しかし、一つ違いの兄のあることは迂濶に今まで忘れていたのを思い出し、まだ自分の頭も常態ではないのかもしれぬと、馬橇の箱の前で矢代はふと思った。汽車の明りは闇を残してまた駅から離れていった。
 寂しくなった雪明りの駅前で、汽車の吐き降ろした千鶴子を中心にまだ華やかな匂いが舞い残っていた。
「宿へ着くまではちょっと驚かされるんだが、明日になるとこれで捨てたもんじゃないですよ。」
 橇が動き出したとき、窮屈な座席の後で、矢代は槙三を連れ出して来るまでの千鶴子の苦心を想像して云った。彼女の病気のことや、冬の休暇になった槙三の保養のことなど話が出ているときも、橇の片側がひどく雪路で傾いた。
「でも、あんなへんな病気は、一度してしまえば安心なものね。」
 と千鶴子は振り向いて云った。町並みもなくなり馬の足音の調子がようやく出揃ったころだった。橇の脇板へ肱をついている矢代の指先だけ、千鶴子の肩の外套の毛に触れ温(ぬ)くかった。マルセーユへ上陸した夜、足の強直病にかかり腕を支えてくれたのも、この同じ黄鼬鼠の外套の温(ぬ)くさだったと彼は思った。あの夜の税関の狭い割石路を、船まで扶けられて歩いたのが千鶴子との始まりだったが、今はこの雪の中だった。洋灯の鈍い光圏の底で舞う雪片が大きくなり下からも吹き上った。
「自炊してらっしゃるようでしたけど、お続きになって。」
 千鶴子は笑って訊ねた。
「どうしまして、宿屋よりよっぽどいい。」
「缶詰のお土産だけは持って来て上げましたのよ。だけどもう御不用のころかと思ったわ。」
 天井に頭の閊える橇の中で、槙三は縮んだままいつも黙って笑っていた。矢代が何科かと訊ねると、
「理科です。」とひと言槙三は答えた。
「御専門は。」とまた矢代は訊ねた。
「数学です。」
「ほう、それは。」矢代は何ぜともなくそう云ってから、これは本ものの科学派だと思い暗い幌蔭で自然と微笑が洩れて来た。
 ときどき脇板から肱が脱れ落ち、矢代の下顎が千鶴子の肩に突きあたるほど橇が揺れた。路傍の崖の下は川だったから踏み転がる危険もあった。
「恐ろしいわね、大丈夫かしら。」
 千鶴子も槙三の肩により掴まって云った。灯のまったく見えなくなった狭間の底を、橇の小さな洋灯だけぐらぐら覚束なげな足取りで踉けた。
「僕も初めて来たときは、このあたりで地獄の底へ行くように思ったんだが、着いてみると、この方が来た気持ちがするんですよ。まだまだ揺れる。」
 矢代のこう云っているときでも橇は左右に揺れつづけ、風が幌を鳴らせてはためき、その隙から鋭く雪が舞い込んだ。矢代はふとまた橇箱の上で、例の千鶴子が風とともに飛び狂っていそうな気持ちに襲われると、外が闇であるだけ鳴る風に一層敏感になり、それがまたさも狂わしげにばたばた翅を屋根に打ちつけるように思われた。
「しかし、仕方がないじゃないか。今はこっちさ。」
 と矢代は外の千鶴子に云いきかせるように胸中でたしなめ、
「実際そうだよ。」
 と、思わずそんな叱る言葉もつづいて出た。が、それだけはうっかりして口から洩れたらしく、箱の中の千鶴子は聞き咎める眼でふり向いた。
「何に?」
「いや。妙なところだ、ここ。」
 軽く彼は反らしたがひやりとして、自分のひそかな喜びを人に感じられては一大事だと、咄嗟に彼は現前の橇の中の自分に立ち戻るのだった。
「この山を廻ると、向うの高台に火が見えますよ。それが宿だ。僕の小屋はそれから少し上の方になるんだが。」
 矢代はそう云いながらも、傍でさきから黙っている槙三が何んとなく気味悪かった。しかし、矢代は自分がひとり不正な快感に耽っているのでは少しもないと思った。人に知られては困ることにちがいなかったが、自分の丹精こめて愛したものが、愛しただけ自ら別の姿となって自分に現れ分るだけのことであり、そのどこに不思議なことがあるものかと、向き直る度胸も出るのだった。もしそれが人に分れば千鶴子にだって、僕の想っている千鶴子は君じゃないよ、もっと君から抽象した人だと、云うだけの準備も胸中で出来ていた。
 橇箱の三人は何んとなく黙りつづけて雪の中を揺れていった。


 宿の女中たちの玄関に出揃った廊下を、三人は所定の部屋へ渡った。部屋には炬燵も出来ていた。宿着に着換えてから千鶴子と槙三がすぐ湯に行った。矢代はひとり部屋に残って熱い茶を飲み、炬燵に膝も温まって来ると、これからひとり冷えた山小屋へ戻るのも億劫に感じ、どこか別に部屋の空いたのを頼んでみたくも思った。しかし、一緒のものがさばけた由吉ならともかく、汚れの見えない槙三が千鶴子の連れだと思うと、千鶴子と自分の外国流の親しさなど見せるのも気がねだった。やはり夕食だけ宿で摂りそれから山小屋へ帰ることに定め、彼はまた傍の脇息を抱き込んで二人の戻るのを待つのだった。
 それにしても千鶴子がここまで出て来ることの出来たのは少しは彼女の母も娘の意志を認めて来たのかもしれず、その相談もあってのことかとも解されたが、二人の間がのっぴきならなくなっているというよりも、も早や結婚する以外にどちらのコースもなくなっているのを矢代は感じた。それも男女の慎しみの限りを守りつづけ、その果てに実となった、われ知らぬ夢中での結婚だったとはいえ、すでに矢代は千鶴子の結婚も終えての今、初めて見るこの夜の親しさは、また格別前とは違って近親の情を覚えた。今となっては、たとい二人の間を妨げるものがあるとしても、やむにやまれず押し切って後悔せぬ張力に変るかも知れぬものだった。
 しかし、自分はまたそれをも喰いとめてしまうことだろう、と矢代は思った。もうそれは彼の慎しみでもなければ、羞しさでもなかった。それはどういうものか別に理由のないことで、強いて云えば、それは人にただ守られるだけの努力でやっと伝わってゆく儚ない礼儀のようなものかと思われた。矢代はこんなに自分の心を自由に用いることも、見ることもともに封じているのも、やはり何んとなく、昔から人人の担いで来た分らぬ重い御輿を自分も担いで見たかったからである。
 千鶴子は珍しく宿着を抜き襟ぎみに湯から上って来て、タオルをかけ、
「いいお湯でしたわ。お入りになりません。」
 と矢代に奨め鏡台の傍で化粧をした。
 艶のある爪が軽く頬の上で揺れるのを眺めながら、彼は千鶴子の和服姿を見るのも初めてだと思った。
「早く入ると僕は湯ざめのするたちでね。しかし、ここの湯は良いでしょう。殊に朝がいいんだが。」
「でも、お豪いわ。自炊をつづけてらっしゃるの、お風呂の中でさきも、槙さんとお話してましたのよ。」
「じゃ、明日のお昼はひとつ、お二人を御招待しますよ。山の御馳走召し上ってもらいましようか。」
「お昼?」千鶴子は鏡の中から振り返って、「まア嬉しいわ。お待ちしてましてよ。どんな御馳走かしら。」
 駅へ迎いに行くときから明日の昼の招待について考えていたこととて、今になって突然思いついた冗談ではなかったから、材料もある程度明日の午前中に揃う手筈もあった。
「何しろ雪の中の手料理ですからね。東京で作ったのとは違うが、チロルの山小屋のときよりは少しはましかもしれないな。」
「あのときは何んだったかしら。スープとお馬鈴薯と、ソセージ、ね、たしかそうだったわ。」
 二人が顔を見合せて笑っている所へ、夕食の仕度が整い料理が出て来た。まだ湯から上って来ない槙三のことを矢代が訊ねると、きっと湯気でも見て何か考え事をしているのだろうと千鶴子は笑った。そこへのっそり入って来た槙三は窓よりの廊下の椅子にかけ山を眺めた。彼は常住坐臥あまり人間のことなど考えていそうでもなく、自然の動きと数の組み合せだけ考えつづけているためか、惑いのない動かぬ独特な微笑を湛えていた。純潔な赤い下唇が少し突き出ていて、大きく澄んだ眼は美しく、自分の気持ちの困惑など少しも人に見せそうもない、おっとり物云わぬ態度をいつも崩さなかった。何かそこに必ず誇りもありそうなことは矢代にも分ったが、それがまた彼の感じを一層よくしていた。
「明日のお昼に矢代さん、あたしたちに御馳走して下さるんですって。お山のお手料理よ。」
 炬燵の上へ厚板を敷いた冬の宿の食卓に対ったとき、千鶴子は槙三にそう云ったが、槙三はただにっこり笑っただけだった。
「料理されるのお好きですか。」
 と槙三は暫くして矢代に突然訊ねた。千鶴子は下手な槙三の質問に顔を一寸赧らめると、矢代の答え難くげな隙を埋める風に横から云った。
「この方そんなこと一番お嫌いな方なの。ですからあたし、明日の御馳走楽しみなのよ。」
「しかし、山にいますとね、里にいるときとは違って、料理を作ることはたしかに面白くなるものですよ。御馳走という字も坊さんから出て来たというの、よく分るなア。日本の船がむかし椎茸を積んで支那の寧波(ニンポー)へ行ったとき、あそこの坊さんの大将の、その日の務めの最大行事は、美味いものを弟子たちに食わせることだったものだから、山へ降りてあちらへ走り、こちらへ走りして材料を調えに走り廻った結果が、日本の椎茸が一番美味かったというところから、馳走という字になったという説があるでしょう。まア明日はひとつ、僕も坊さんになりますから。」
「じゃ、あたしたち、明日はお弟子さんなのね。」
 と千鶴子は揚物の鮭に箸をつけて笑った。
「いや、それはお好きなように。とにかく、東洋人は理窟を食うよりも、美味いものを食う方が人生倖せだと悟ったのだから、その点西洋人よりは賢いですよ。」
 食事の愉しさに矢代も傍の槙三が数学者だということをつい忘れて云った。
「しかし、人間が数というものを発見してしまったからは、もう倖せも倖せではなくなったでしょう。」と槙三は急に学生らしくはっきりした声で矢代を見て笑った。これは失敗ったと矢代は思った。
「つまり、それは抽象の発見だから、そのときから人間不幸の初まりですよ。ギリシアの悲劇の発生だ。」
「じゃ、零を発見したのは印度人ですが、これは何んですかね。抽象ですか。」
 数のことに関しては、槙三は云うだけ云わずにいられぬ数学者らしい鋭い口振りになって来た。
「そうそう、零を発見したのは印度が初めだそうですね。数学のことはよく僕は分らないんだが、しかし、不思議なことには、まア話は少し違うが、日本人も大昔には零を発見しているですね。ワという字があるが、あれはアイウエオ五十音字の中じゃ、最後の十番を表す行の頭字でしょう。日本の古代文字のワという字は零ですよ。つまり、輪の丸がワの字で、むすびの十番にこの丸を置いたということには、日本数学の何かがあるとこのごろ思っているのですがね。ところが、ギリシアの数には零という字がない。あれが僕には分らない。零というのは輪で、これはむすびの和なんだが。和がないなんて。」
「僕は日本の古代文字のことは知らないんですが、数学では零というものの観念は、まだ誰にも分らないのですよ。ところが、その零という分らぬ丸の上に、すべての近代文化が乗って花開いていると云うんです。」
 と槙三はふとさし俯向いて云ったまま黙ったが、やはり穏かな微笑を泛べていた。
「零がね。不思議だこと。」
 千鶴子も少し考えたらしく黙って箸を動かした。
 食事を終ったころは風も消え、雪明りの谷に馬の嘶きが厳しく響き透って来た。矢代は欄干から明日の料理の鳥を頼んである家の明りを探した。一軒家の茶店の窓から、通りの雪に射すランプの色が温い平安な感じだった。千鶴子も食事をすましてから矢代の傍へ来た。
「あら、雪がやんだわ。あなたの山小屋ここから近いんですの。行ってみたいわ。」
「このすぐ上です。しかし、明日のお昼までは駄目ですよ。これから帰って御馳走の用意をしなくちや、――」
「今ごろからなら、あたしもお手伝い出来るわ。」
「まア、明日だけは黙って僕のお弟子になりなさい。」
 こういうことを云っているときでも、料理のことを考えると矢代はいつも覚えぬ心の弾みを感じて来た。


 翌朝矢代は野菜を受け取りかたがた、宿屋まで朝湯に行った。千鶴子たちの部屋へは立ちよらぬことにしてすぐ彼は湯殿に廻った。昨夜あれから遅い夜汽車で着いた客が、もう今朝早く発つらしく湯の中は賑やかだった。浴場内は朝ごとのようにいちめんの濃霧で人の身体が隠れ、誰が誰だか分らなかったから、もしかすると千鶴子か槙三かどちらか一人、この中にいるのかもしれなかった。
 どこの湯と変らずよく饒舌る客は、いつでもその者だけ饒舌りつづけ、黙っているものはいつも黙っているので、耳に響いている声より人数が多いにちがいなかった。たがいに身体の立てる波紋が絶えず不規則に打ち合い、きらきら光って矢代の顎を洗った。出て行く客もあれば、新しく入って来る客もあって、戸の辷る音も続いてするのに、入の姿のまったく見えぬ朝の湯は、いつもながら矢代を愉しくのどかな気持ちにした。
 そのうちよく饒舌る客連れが出ていった。ひっそりした後の水面で鳴る波紋の音だけ、ちゃぶちゃぶ聞えた。
「あ――あ。」
 と、湯の縁のどこかで、思いがけなく大きな欠伸をするものもあった。たがいに顔を見合せぬように、なるたけ人人は離れる工夫でそれぞれ湯の中の位置を撰んでいても、新しく入り込んで来る客があると、自然にそれもまた少しずつずれ違って廻った。
 矢代は槙三や千鶴子たちとどういうものか、湯の中で出会わぬことを希ったので、傍に人が近づいて来る度びに顔を背けて移動し、濃霧の中の自分ひとりの世界を愉しむのだった。しかし、近くの水面から人の立ち上る音や、蛇口から垂れる水音など聞えて来る中に混って、二つ小さくつづいて聞えた咳き声が、何んとなく千鶴子らしい聞き覚えのある咳だった。昨夜の急な寒さで風邪でもひいたのだろうかと、矢代は気にかかった。湯の縁をひと廻りしてみればすぐ確かめられることだったが、それが彼にはやはり出来なかった。槙三をまだ寝かせ一人で先に湯に来たものとすると、間違いなくもう今ごろは千鶴子の入浴の時間だった。矢代は顔を水面につけるようにして、湯気の足の立つ比較的曇らぬ部分から透してみても、忽ち濃霧が上から舞い下って来て人の姿をかき消した。霧は絶えず湯の波に突き上げられてはまた水面にまき返り、早い速度でぐるぐる室内を廻っているようだった。雪の山が上方の稀薄な霧の部分に、射し出た朝日を受けて高く薄紅色に染っていた。
 山際の深い藍色の空は厳しいほど鮮かだった。矢代は湯の縁で足を抱き、空を仰いでいると、ふと千鶴子が自分と別れてパリを去っていったときの、あの飛行機の消えた空の色を思い出した。あのときは、もう二人は再び会うこともなかろうと思ったほど虚しく、深い空の色だったが、――霧は絶えず噴きあがり舞い降りた。嗽いをするような秘かな水音に包まれその中に今も千鶴子がいるのだった。矢代は昼の食事を今から愉しみに入浴しているにちがいない二人のことを思うと、間もなく湯から出た。
 宿の女中から貰った杉菜や、生椎茸を擁(かか)えて彼は山小屋の方へ登った。谷底の川の表面は氷の解けた流れだけ薄黒く沈んだ色を残し、他は真白の起伏が全面朝日に映え、微粒子の飛び散るように眼映ゆかった。


 自然薯のとろろ、こんにゃくの白和、生椎茸の揚物など、こんな手数のかかるものは茶店の老婆に届けて貰うことにして、矢代は小屋の燠火で鶏の丸焼をするつもりだったが、料理にかかるには時間が少し早すぎた。小屋の床下と地面に積った雪との隙間が昨夜の雪ではまだ埋らず、下から吹く風に小屋も寒かった。
 矢代は時間のある間、また朝の日課の調べ物にかかった。一日の読書の時間中、何かまだ知らなかったあることを一つ見つけた日は、先ずその日を空費しなかったと忍耐するこのごろだったが、彼はこの日の部分では意外に大きな拾い物を一つした。それは十三世紀の宗教史の中から遅まきながらも聖トマスという人物の思想と働きとを見つけたことだった。この人物はそれまでのキリスト教からその含んでいた東洋の神秘思想を抜き去り、代りに十三世紀のカソリックに初めてギリシアの主知主義を導き入れた。彼は、人間というものは霊的世界と物質世界をつなぐ紐帯物だと眺め、神の世界に入るためには、人人の感覚の受け取る物質の秩序を科学的に極めて後に、次第に高きに登ることを主張して、ルネッサンスの科学の勃興に決定的な力を与えた主要な人物だった。彼が出て以来それまで相分れて争いをつづけていた宗教と科学とに調和をとらしめ、人間を自然の秩序の中に置き直して、西洋にルネッサンスの花を開かしめたこのことは、これは矢代にとっては、長らく疑問のままに捨てていた中世紀の暗さの中から見出した手応えある光った鍵ともいうべきものだった。
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