旅愁
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著者名:横光利一 

 と、矢代はこんなに自分の不得手な語学に、少しは手柄を与えてやりたくなって云った。それは弁解に等しいものだったが。
「へえ、そんなものですかね。」
「それや、外国語を使うに越したことはないですが、そこは何んというか、僕だって少しは自尊心も出ますからね。妙なもので、外国にいると自分の国の言葉が、非常に有難くなるんですよ。ですから、日本語を使うと日本人には笑われるけれども、まア、一度はそんな真似も、やってみたくなるんですね。」
 事実を云えば、異国にいる日本人の多くの者の争う点は、能ある鷹は別として、その滞在国の言葉が出来るか否かということか、出来ても発音とか読書力とかでまた争い、練達しているものはまた、不思議とどちらが出来るかということで争うのが常だった。
 矢代は初めこれらのことも当然だと思い、気にもかからず尊敬さえしたのだが、それがどこでもここでも、同族のものを軽蔑する主要な原因のごとき観を呈している醜さを発見してからは、勉強とは云え、あまりにその修練の人格の無さに腹立たしさを感じ、多少は知っている異国の言葉もそのものの眼の前では、つい彼は使いたくはなくなった。そして、以来頑固にひとり日本語を押し通して用を足す反抗をつづけてみたが、まったく通じない日本語も、行くところどこでも不便少く目的を達したのを思うにつけ、知っている日本語さえ話さぬ西洋人の思惑や工夫もまた感じられて、一層彼は日本人の争いに眉がひそんで来るのだった。
「もう遅いですからお土産は明日にして、今夜はお母さん、休みましょうよ。」
 スーツの中には買い蒐めた品もあり、その後に遅れて船で着く珍らしい土産のあるのも、まだつきぬ旅の名残りとなって矢代に明日を待たせるのであった。


 二三日家にいて、矢代は母の郷里の温泉へ休養に行くことにした。外国から帰ったものでそのまま家に滞っているものは、どういうものか、原因不明の高熱がつづき、入院する危なさを通るのが例である。矢代も溜った疲れを揉みほぐしてしまいたいだけではなく、母の東北の郷里もこの際よく見直して置きたかった。
「幸子の病院も見舞ってやりたいですが、良くなっているのなら、まア温泉から帰ってからにしよう。どうも旅の気持ちを抜いて、すっかり身体を洗いたいのですよ。」
 矢代はこう云って妹の方の見舞いを後にするのを母に納得させた。母も自分の郷里の温泉を、この際子供が選んでくれたことを喜ぶ風だった。
「あんな所より箱根の方が良さそうなものだけれどね。何が面白いの。あんなところ。」
「それや面白いですよ。西洋らしい所を見るのはもう倦き倦きして、疲れるばかしだからなア。」
 矢代は云いながらも、一度前に、母の実家に女中奉公をしていたことのある婦人に、用を頼んだある日のことを思い出した。その婦人の嫁ぎ先の主人が東京に出て大工をしていた関係から、矢代の家の破損の部分を直して貰いたいと頼んでやった手紙の返事が、すぐ来た中に、
「今日子供が自動車に跳ねられて死にましたものですから、悲しくてごたごたいたしております。主人もすぐお伺い出来ますかどうか分りませんが、遅れましても不悪(あしからず)おゆるし下さいませ。」
 と下手な字で鄭重に書いてあった。
 自分の子供の不慮の死のあったその日、すぐ手紙の返事を書けるという律儀な恐るべき婦人の精神に、返事を書くことの嫌いな矢代は水を打たれたように覚えたことがあった。彼がその婦人と同じ母の郷里へ行きたく思うのも、一つは、自分の怠惰な心を正したいためもある。
 彼の母の郷里は、東京から十時間もかかる東北地方の日本海よりに面していた。矢代の行った温泉場はその地方でも特に質朴で、古風なことでは日本でも有名な湯治場であったが、避暑客のまったく去ってしまった一帯の淋しい山峡では、野分の後に早くも秋雨を降らせていた。見たところ、このあたりの風習や気質には珍らしく西洋の影響を受けたものは殆どなかった。矢代は真黒な太い木組の浴槽に浸ったり、暇にまかせてその地の歴史を検べたりしながら身を休めた。
 百軒あまり人家の密集している町は、湯に包まれた一つの木造の家のようなものだった。町の南端に流れている河鹿の多い川の水中から湯の煙が立ち昇り、百日紅の花の下を、泡立つ早い流れが日光に耀いていた。その周囲を包んだ変化に富んだ山波の姿は、巧緻な樹木の繁りを見せて矢代は倦きなかった。
「われ山民の心を失わず。」
 このように山を見て云った芭蕉の言葉も、矢代は思い出しつつ山にも登った。山懐ろの秋の静かな日溜りの底で、膨れ始めた嬌奢な栗の毬がまだ青く見降ろされた。遠く向うの海岸のトンネルの中から、貨物列車のぞろぞろ出て来る姿を見ると、彼は田舎芝居を見ているような、道化た煙草好きの男を何んとなく思い出した。そして、あれが日本に顕われ出て来た初めての西洋の姿かと思い、膝に肱つき、下を見降ろしながら、彼は見て来た西洋を想い浮べては感慨に耽けるのだった。
 煙を噴き出す貨物列車は蛇に見え、稲の穂の実っている田の中を通り脱けてまた煙を苦しげに、ぽッぽッと吐いて眼界から消えて行く。
 このような素朴な景色を遠望しているとき、矢代は、自然にまた自分の父の若い時代を思い出した。彼の父は青年時代に福沢諭吉の教えを受け、欧州主義を通して来た人物だった。ただひたすらに欧米に負けたくない諭吉の訓育のままに、西洋も知らず、山間にトンネルを穿つことに従事し、山岳を貫くトンネルから文化が生じて来るものだと確信した、若若しい父の青年時代を思うと、矢代は父とは違う自分の今の思いも考えざるを得なかった。
「洋行というのは、あれは明治時代に云ったことですよ。お父さん。」
 父にそう云った子供の自分らの時代では、いつともなく洋行を渡行という言葉に変えて西洋に立ち対っていたのだが、立ち対う態度を洋式にしているうち、いつとは知れず心魂さえ洋式に変り、落ちつく土もない、漂う人の旅の愁いの増すばかりが若者の時代となって来たのである。
「わしはトンネルに初めて汽車を通すときは夜も眠れなかった。自分の作ったトンネルだからね。どういう間違いで崩れてしまわないとも限らないから、そっと夜起きて、草はらの中に隠れて、トンネルから出て来る汽車の顔を見てたものだ。無事に出て来てくれると、やれやれと思って家へ帰って、また眠ったよ。」
 視界にただ一点幾何学を顕した半円のトンネルの口を見降ろしながら、矢代は、父の話した明治の初期の苦心がその弧形かと思った。今は父は庶民金庫に勤めているとはいえ、自分を育て西洋へまで渡らせてくれたのも、つまりは今見降ろしているその弧形のためだった。また自分のみならず、どれほど多くのものが父の作ったトンネルを潜り、便益を得て来たことだろうと思うと矢代も、実益を多く残して老いの皺の深まってゆく父の顔を、自分に較べて見るのだった。しかし、自分は――彼はトンネルの口を見降ろしつつ、降りるべき土もない旅の愁いを深めるばかりの自分かと思った。
「われ山民の心を失わず。」
 このような芭蕉の村里びとの自覚も、矢代にはもう遠ざかった音のようなものに見え、半弧を描いた父の苦心のトンネルが、なおも彼に、お前は旅をせよと云わぬばかりの表情で、海岸にレールを長く吐き流して曲っている。


 稲の重く垂れ靡いている穂に、裾の擦れ流れる音が爽やかだった。これを耕し刈り採る苦労を少しも知らぬ自分だと矢代は思ったが、見る限り、いちめんに実った穂の波うつ中に浸っていると、まだ誰かが、年中怠らず労務をつづけていてくれる辛苦が歓ばしく思われ、せめてこれを感じることだけは忘れぬようにと戒めた。彼は宿の子供と一緒に、竹を細く切り接いで作った蛇の玩具の青い尾を握って、戯れに稲の穂の中を泳がせつつ海の方へ出て行くこともあった。無花果の実の熟れ連った海沿いの白い道を、水平線に随って歩いたり、波の洗う芒の中に一群の寂しい墓標を尋ねてみたりして、山村の心にも馴れしたしんだ。そのまに北の海は秋雨の降り込む照り曇りの変りが激しくなった。
 矢代は母の実家の滝川家へときどき行ってみた。その地方ではただ二軒よりはないと云われ、建物の粋を凝らして作られた自慢の家だと聞かされていたのも、彼はこのごろになって漸くその美しさが分るようになった。使用された家中の材木のどの一つにも節がなく、八十年をへた年月の風雪にかかわらず、狂いや罅が一つも見られなかった。それらの良材のすべても目立たぬように渋を塗りこめ、生地の放つ尊厳さを薄め匿した心遣いの顕れも、都の風とは違っていた。その代りに、長押や柱のところどころに打ち込められた蔦の金具の紋章が、起居の間も先祖の心を失わしめぬ訓戒を伝えているのも、自分の家とは違った武士の血統だと矢代は思った。
 いつかも母が矢代に滝川家の自分の父のことを、こんなに話したことがあった。
「あたしのお父さんはそれは厳しい方でしたよ。矢代の家へあたしがお嫁に来るとき、平民の矢代には娘をやれないと云って、赦してくれなかったんだけれど、だんだん調べてみたら、矢代の家は平民でも前の戦国時代にはお大名だったことが分って、初めて許してくれました。」
 この母の呟きも幼少のころ聞かされたので、意味はよく彼には分らなかったが、長じるに随い、睦じかった中に母と父とのときどきの不和に似た、混じりのあったのも、このあたりの両家の家風の違いに原因していることが感じられた。滝川家と遠く離れている九州を郷里としている父が、どうしてこの保守を何より貴ぶ地方の滝川家の娘と結婚したかは疑問だったが、恐らく母の長兄の東京に遊学中、二人の間を結んだかと想像せられるのみで、両親からこの事に関して彼は一言の話もまだ聞かなかった。しかし、戦国時代の話が出るときに限って、矢代の父が意気込んで自分の家系のことを妻に云う言葉の陰には、それ相当の復讐に似た淡い憂いもあるのだった。
「そんならどうしてここの家、士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が父に、訊ね返した不服そうな言葉を、何か二人の気ばだった表情の間から、矢代は思い出すこともある。表面静に見えながら気象の強い母は、家系のことでは負け目を感じるのが不快らしく、何より武士道を重んじる心の姿勢は、年とともに母の中から強く感じ、そのために矢代は、父と母との間に立って苦しんだ日も、母の実家へ来る度びに思い起す記憶である。
 矢代が歴史に興味を感じ始めたのは、つまりはこの父母の家系の相違がもとだったが、平民の父が妻の実家の士族の遺風を尊びつつ、秘かに自分の平民をも誇るところは、他にまた特別の理由のあるのが後に分った。
 母の実家の滝川家の先祖は、士族とはいえ徳川系の譜代大名の士族ではなく、その以前の最上義光の家臣であった。最上家が上杉謙信の枝城の村上に滅ぼされて、その家臣の滝川家も野に隠れているとき、徳川時代となった。そして、土地を鎮める手段として、滝川家は新しい城主に召し抱えの身となって再び立った関係上、それ以来この地には徳川譜代の士族と最上時代の旧士族との土に対する伝統の古さを誇りあう意識が、いまだに他のどの土地よりも濃厚に顕れているのが現状だった。徳川時代を通じて、つねに譜代の士族に圧迫されていた旧士族の最上家の臣たちは、明治になると再び勢力を盛り返し、進んで文明進化の急先鋒に立った。そのため、この地の市会は二士族の勢力の渦巻きを絶えず描いて、大正、昭和となってもなおそれを続けている、保守限りもない遺風となっている。
 日本でもっとも保守主義と謳われているこの地の人心の底を、こうして流れ続けていた意識の中に滝川家があったということは、矢代家にとっては一つの幸福な事であった。何ぜかというと矢代の家も最上義光と同時代に、彼の九州の先祖の城はカソリックの大友宗麟によって、日本で最初に用いられた国崩しと呼ばれた大砲のために滅ぼされたのである。しかし、矢代家は城主の守る運命として、滅んで後に野に隠れたといえ、滝川家のごとく新しい城主の臣となる決意の出る筈はなかった。しかし、最上家同様に永く徳川時代を野人として隠忍して来たこの矢代家の悲しみは、どういう偶然か明治となって、ともかく最上家の永い悲しみの末の家臣である滝川家の娘と結びついたのだった。
 このことは、滝川家が士族であり矢代家が平民であるという、階級的な観点から見た場合に起る、ある無益有害な観念を無くさせる上に都合が良かった。それのみか、他の地と違い何より保守を尊ぶ気風を持った土地の滝川家としては旧士族を誇りとしている以上、当然に仰がねばならぬ旧主最上家の位置に、矢代家もまた同様位置する理由により、自家の士族も矢代家の平民に対しては、ある観念が逆に起り得べき立場にもあった。
「それじゃ矢代家、どうして士族じゃありませんの。」
 と矢代の母が良人に不平を洩した失敗のときも、父としては、妻の家が旧主最上家と共に滅ぶべき所を、浮き上った一時期の明るさに対して、それを暗さとして指摘し得られる場合だったが、恐らく子の矢代の身の上を思い、それも父は差しひかえたのにちがいない。
 すべてこれらの事は、この二家にとっては偶然とはいえ、偶然には神秘という契機をもった必然性が常にある。――このように感じたのは、恐らく子の矢代よりも、黙黙としてトンネルを穿つことに専心した彼の父の労苦の中から見出すことが出来るかもしれない。


 東京へ矢代の帰ったのはもう十月を越していた。彼はその翌朝眼を醒してからすぐ庭へ出てみた。朝日の射した庭にはもうよく爆けた石榴(ざくろ)の実が下っていた。彼は一番近くに垂れている石榴を摘まみ下げ、実の裂け口に舌をつけて汁を吸いながら、今日は一つ妹の幸子の所へ見舞に出かけようと思った。自分の勤めていた建築会社の整理部の仕事は、彼の小父の会社であり、当分休暇の届けをそのままにしていてもよかったので、すぐ社の方へ出る用もなかったが、病気もよほど良くなったという妹にだけはすぐ彼は会いたかった。矢代がパリで幸子から受けとった手紙の中に、
「お兄さんは東京を故郷だと発見されて羨ましいと思いますが、あたしは自分の故郷がどこにあるのか分りません。それが悲しいと思います。」
 そういう意味のことが書いてあったのを思い出し、彼は幸子のため凋れた気持ちを何より先ず慰めてやりたかったが、生れて以来東京で育って離れたことのない妹に、お前の故郷はここの東京だと教えたとて、東京を故郷だと思えない心に向って何んと説くべきか、彼にはそれもパリ以来の気がかりなことの一つだった。分りよく妹には両親の家系の違いを話し、先祖の苦しみや歎きがどんな希いで自分たちの肉体に伝わっているかも話さねばならぬ。
 矢代は引き下げている石榴の枝が少し高すぎたため、背伸びをしながらときどきふらついた。が、また枝をぐいと下げて石榴の皮の裂け目を手で拡げた。爆けこぼれた粒粒の二三が襟もとから胸の間へ忍び込むと、そこからまた腹まで沁み転げてゆく冷たさに、思わず彼は前に背を曲げて笑った。それでも、実を枝から□ぎ放して彼は食べようとしなかった。樹から繋がりのまま直接噛み破る酸味に口の周りの濡れるのが、これこそ故郷の味の一つだと思われて愉しかった。
 粒の一つ一つの薄紅が朝日に射し映え複眼の玉となって犇めき詰っていた。その実の重さを受けると、貴重な陶器の握覚を感じ、矢代は一つで足らずすぐ次ぎの枝をまた引きよせた。華やかに群りよった実の重量で枝は房のように垂れ流れていた。鰯雲の尾を曳いた鮮明な空だった。石榴の隙間から見えるその空を仰向きに、実を食い破っている矢代に、燦爛たる朝の充実した光りが降り濺(そそ)いでいた。
「ああ美味い。」
 矢代は今は完全に素肌の感覚に戻り身を震わせて云った。彼はふとパリのノートル・ダムで繊細巧緻な稜線の複合した塔の姿を見たときに、胸のときめきを覚えた自分を思い出した。しかし、今のこの野人の爽かな身震いは、ソロモンの栄華の極みだに野の百合にも及ばざらんと歎じた、聖書の文句の意味となり、彼にはある特別な感動を伴って激しく貫き透って来るのだった。
「パンがもう焼けてますよ。」
 と母は庭から戻って来た矢代に云った。朝食を急激に和食に変える辛さを母は想ったものか、彼女から矢代にそう訊ねたとき、朝だけはパンにしたかったいつもの癖が出て、うっかりパンと答えてしまったが、今の彼にはこういうことも自己批判めいた種となって、一途に烈しく和色に偏してゆこうとする自分の保守さ加減も、まだ徹底出来ぬのだと思った。
「パンか。」
 テーブルに向い、トーストを裂いて食べながらも、矢代は妙に自分の中で争うのだった。それは丁度、争いの種子を噛み摧き、嚥み下すような調子だったが、しかし、これからいちいち食い物までこんなに気になって来ては、これは堪らないとまた自分に抵抗もした。殊にカソリックの千鶴子にこの次ぎ会ったときの自分を想像すると、異国で見たときとは異り、思いがけない二人の違いを発見しては、互に遠ざかるばかりかもしれぬと、さらに苦しみも増すのだった。なおその上、カソリックの大友宗麟のために滅ぼされた先祖の城のことを思う場合には――。


 手紙ではときどき矢代は妹を慰めていたが、見舞いに行き遅れていたことは、汽車に乗ってからもやはり後悔めいた気持ちがした。また婚期の遅れゆく幸子のことを考えるときは、今まで殆ど気もとめなかったことだのに、それが突如ただならぬ寒けとなって襲ったりした。自分が結婚する場合妹を先にしてからでなくては納りの悪さのあることなど、たとい考えることを避けていても、不思議と妹の婚期のことだけは心から脱けなかった。
「いや、自分は嫁など貰わぬ。」
 こういう気持ちも矢代にはあった。殊に千鶴子と会ってからは、他の誰かと結婚する意志など一層感じなかったとはいえ、それも家のことを考えるときは、徒労なことになりそうな薄弱な部分も無くもなかった。それに今日妹と会えば、母の意を伝えて矢代の結婚の相手をそれとなく奨める幸子の苦心も、想像していて先ず間違いのないことだった。
 海に面した丘の上の病棟で矢代は初めて幸子と会った。見たところ妹は病人らしい様子が少しもなかった。円顔で頭の廻りの早そうなくるくるした眼は、いつも兄の考えを通り脱け、勝手なところへ出てまた廻る癖があるので、自然矢代も妹にだけは言葉を濁す癖があった。
「帰りたいと思ってるんだけど、急いでまた悪くなるの恐いから、当分は動かないつもりなの。」
 幸子はそう云ってから、毎日ここから海を見ては矢代のことを想像して愉しんだと話した。ミラノで買った革製のハンドバッグや、パリの財布、ベニスのショールなど、矢代の出した土産物を手にとって妹は面にも嬉しさを顕した。矢代は東北の湯治場のことや滝川家のことなどをあれこれと話したが、外国のことについてはあまり云い出そうとしなかった。
「日本海を見てここへ来ると、太平洋の明るさは特によく分るものだね。北の方はもう秋雨がひどいよ。」
「どこが一番良かった?」
 知りきった東北のことより外国のことを何より訊きたいらしい。幸子の眼つきは、何かに飛びつきそうな光りだった。矢代はそれが不愉快で幾らかいやらしく感じたが、それもやむを得ない病人の歓びかもしれぬと思い、
「そうだなア。」と云いながら、窓から麓の漁村を見降ろして一瞬ヨーロッパの風景を頭に泛べた。
「そこにいるとき良い所と、後で思い出してから良くなる所とあってね。一口では云えないものだ。」
「でもまア、あたしたちの面白そうなところよ、パリはいいでしょう?」
「うむ。」と矢代は低く口の中で呟くように云って苦笑した。
 幸子は眼ざとく兄の表情の濁りを見てとると不審そうに一寸黙った。
「まア、あんなものだなア。」とまた矢代は云って顔を赧らめながら幸子から顔を背けた。
「おかしな人。」
「何が?」
「じゃ、つまらなかったの、行って?」
 執拗に表情の後を追って来そうな幸子の視線を、今は矢代は手で払い除けたかった。
「そういうことは、そのうちおいおい話すとして、それより早く身体を善くすることだ。幸スケのような病気をする奴は、やはり心がけが善くないからだよ。」
「そう云われれば、それまでだけれど。――でも、お母さん心配してらっしてよ。お兄さんひどく元気がないようだが、どうしたのかしらなんて。別に心配するほどのことも無いんでしょう。パリまで行って――」
「無いさ。」矢代は簡単にそう云ってまた笑った。しかし、これで自分のどこかにやはり元気の無さそうな部分が見えるかもしれぬと思うと、その原因が千鶴子のことだとは分らぬながらも幸子だけは、外国での男の間に生じる出来事など想像出来るにちがいないことであれば、さきから執拗く表情を追って来るのも、そのあたりの不審が元であろうと矢代には思われた。
「もっとも、興奮が醒めると多少は元気も無くなるがね。」
 矢代は妹の気持ちを早く他の事に反らしたくてそんなに云った後から、都合好く、平壌で不時着したときに会った妓生(キーサン)の話を思い出したのでそれを聞かせた。またその妓生が彼に洩した話は疲れて平壌へ降りたときの矢代には何より興味を覚えたことだった。
 福岡まで大連から一飛びに飛ぶ筈だった飛行機が前方の風雨のため平壌で停ってしまった夜、矢代はここが妓生の産地だと聞かされていたのを思い出し、こういうときこそ朝鮮の歌を聴きたいと思って料理屋へ出かけた。そこは一流の料理屋で窓の下に大同江が流れていた。部屋には渋色の紙が敷いてあるだけだったが、同様に暗い隣室では彼には分らぬ二三の話声だけ高く聞えた。川水に灯火のない夜のためか、その声は洞の中に沈んだざわめきの酒声に聞え、ヨーロッパから帰って来て着いたばかりの矢代には、一帯の光景が荒涼とした暗の中に慰めに見えてひどく彼は寂しくなった。そこへ妓生が純白の衣服で入って来ると、矢代の傍へ片膝を立てて坐った。歌の上手な人という註文を出してあったので、その妓生の歌は隣室の酒声を抑え、際立った美しい調子で暫く響いた。妓生の名は忘れたが東京へレコードの吹込みを頼まれて行ってから、帰ってまだ三日にもならぬと話しながら、彼女は何んとなく元気のない、悄然とした様子でチマの皺を摘んでいた。
「東京は初めて行ったの?」
 矢代は自分も初めて外国から帰った当夜に、これも初めて東京から帰って来たばかりらしい妓生との巡り合せに興味を感じて訊ねてみた。
「初めてよ、あたしね、東京から京都、大阪と、今度は随分いろいろな所を見て来たわ。でも、神戸があたし一番好きだった。こんな美しい所が世の中にあったのかしらと思って、うっとりしてしまったわ。」
「神戸が?」
 矢代は一寸意外な気持ちで訊き返した。
「ええ、神戸にはあたしすっかり感心したわ。ですからあたし、平壌へ帰っても、ここで一生自分が過さなくちゃならないんだと思ったら、もう元気も何も出なくなってしまったの。もう、早くお金を溜めて、田舎へ引き籠って一生暮そうと決心したの。」
 妓生の年を訊ねると二十歳だという。高麗(こうらい)文化を伝える二十歳の歌の名手に絶望を与えた神戸に、何がいったいあったのだろうと、矢代はそのとき考えた。ヨーロッパから帰って来た青年の多くの者が、船中から神戸を見て、その貧しさに悲しさがこみ上げ、思わず泣き出すというその港、そして、そこからいま帰って来てひそかに洩らし悲しんだ妓生のこの歎きであった。
「つまり、それぞれみんな自分の故郷の美しさを忘れたのさ。心ないことだよ。」
 皆話し終えてから、矢代は幸子を戒めるつもりで言葉も、さして苦しまず自然に出て来たのを一層好都合に感じて云った。
「君も身体が善くなったら、こんな所であぷあぷしてずに一度奈良や京都でも廻って来るんだね。僕もそのうち行くつもりだ。まだ僕の旅行はいよいよこれからが、始まりというところさ。」
 さして馬鹿とも思えない幸子には、今の場合の兄の気遣いなど、およそこれほどのところで察しもつくだろうと矢代は思った。それまで海の上を黙って見ていた幸子は、急に立ち上ると彼に背を見せながら、ベニスのショールをかけてみた肩を鏡に映して眺め入った。
「いいわね。これ。早くよくなって、あたしもさっさとどっかへ行ってみたいわ。」
 白くギリシア模様を浮き出したショールの向うから、思い余ったように吐息をついて云う妹の声に、矢代は、なるほど幸子はまだ病人だったのだと気がついた。そして、ふとこれで妹は自分を心配させないために健康を装っているのかもしれないと思うと、自分と一緒に自由に異国を渡って歩いていた千鶴子の健康な様子と思い合せ、突然妹が気の毒になるのだった。殊にチロルの山の上で泊った夜、
「こんなにあたし幸福でいいのかしら、こんなこと、いつまでも続くものかしら。」
 と、蒼ざめた眼に恐怖を泛べて呟いたときの、あの千鶴子の吐息を矢代は思い出した。しかしそれは、今の幸子の息に籠った深い歎息に較べ何んという違いであろうと、今さら妹に同情した。寝台の傍の白薔薇に射している秋の日が、長く忘れていたものの幽かな息づきに見え一層矢代の胸を締めて来た。
「そのうち、どこへでも行けるようになるさ。ものというものは、心得さえ良ければ良いようになるものだよ。」
「それがあたしには出来ないのよ。」
 鏡から離れて幸子はショールのまま、土産物のハンドバッグを持ち財布の厚い金具をぴちりと立てて、兄の前を様子振りつつしなしなと壁の傍まで歩いてみた。そして、
「どう、いいでしょう。」と振り返って笑った、矢代もつい一緒になって笑ってしまった。


 矢代の手もとへ久慈から手紙が来たのは、東北から帰って間もなくであった。矢代は、やはり彼から来る手紙を待っていたので喜んだ。手紙によると、久慈はスペイン行きの途中、反乱勃発のため引き返してスイスからイタリアへ行き、再びパリへ戻って来たばかりらしかった。またその手紙では、塩野がもう日本へ出発し、東野がイギリスへ渡った後で、パリには早や彼の知人少く、マロニエの枯葉日毎に音立てて散る秋を迎え、淋しさ静けさ加わるばかりと書いてあって、その最後のところに、
「噂に聞くと、君もどうやら生還したようだが、僕はいよいよ怪しくなった。羨望すべき君子よ。」
 と、そんな皮肉なことまで忘れずあった。この皮肉な短文には、久慈の苦心の意味が籠っていたので矢代は苦笑しつつも、すぐ返事を彼に書き、パリで絶えず論争しつづけた二人の争いを、また東京の自宅から彼に向けたくなるのだった。実際、矢代は、久慈にだけは他人には云いかねることまで書けるので、その点だけでも彼の人徳に感謝して争った。
「ミイラ捕りミイラとなりし談もあり、――君がそんなになって帰るのを待つ自分の悲しみも察して貰いたい。」
 矢代はこういう意味のことを書いているときにも、強く西日の射しつけたモンパルナスの街の中で、
「ああ、もう頭の中は弾丸雨飛だ。僕はただ絶望するばかりだ。」
 とそう呟きつつ日光を避け避け細めた久慈の眼差しを思い出した。
「どっちも生還おぼつかないか。」
 矢代はそれに答えてそう云ったと思ったが、久慈も、二人のそのときの様子を思い出したらしく、相当に彼の手紙の皮肉は利いていた。
 しかし、矢代は、久慈のミイラとなった死骸を迎えに出る日のことを考えながらも、彼を乗せて入港して来る船の中には、恐らく久慈同様な生きた死骸を沢山積んでいるにちがいないと思った。そして、それらのミイラとなったさまざまな幽霊が、日本の内部へぞろぞろ散って行く図を想像すると、やがて何かの肥料にはなるだろうそれら死骸の土の中から、やがて芽を出し、花を咲かせる草木の色艶も考えられた。またそれは、何らかの意味で光沢も増すにちがいない。
 彼は久慈にも、応酬したくなった皮肉にそんなに書いているうち、日本に初めて襲って来た、激しい西洋の波の有様を次第に強く思い泛べるのだった。それは戦国のころから、安土桃山の時代に波うち上げて来たカソリックの激しさである。この精神の波は、僅か十数年の間に、日本の知識階級ほとんど全部の頭に浸入した。千五百八十二年、信長が殺された天正十年の正月に、九州のキリシタン大名の使節がローマに初めて出発して、八年後に持って帰った印刷機から吐き出された信心録のその拡がりの早さ、――それからまた、四十年後の寛永九年、全国に襲ったキリシタン迫害の暴風と、それに抵抗した大殉教の壮烈さ、――
 矢代はローマ帝国がキリスト教に示した大迫害と匹敵する、当時の日本の大弾圧の様を考え、そのとき殺されていった無数のそれらの生命力の行方を想い泛べるに随い、下ってそれから三百年後の今の世に栄えている、カソリックの姿もまた自然に頭に泛べざるを得なかった。それも、矢代の先祖の城の滅ぼされたのが、カソリックの大友宗麟のためであり、その子孫の矢代がヨーロッパで知り合って、現に彼を悩まし、ともすると一切の判断を失わしめる婦人が、同様にカソリックの千鶴子だった。
「栄えるためには、人は何ものかに殺されねばならぬのかもしれない。君のように。」
 と、矢代は久慈への手紙の中にそう書きながらも、このカソリックの再度の繁栄の理由を、むかし殺戮された殉教者たちの、断ち切りがたい意志の招きかもしれぬと思うのだった。
「歴史は繰り返すのか、進むのか僕には分らないが、恐らく君の亡き骸の悲しみも、何かの役目を果す日の来ることを僕は希い、またそれを祈っている。日本へ帰ってからの僕の念いは、今のところ、歴史は繰り返さない、ただ進むばかりだと信じたいことだけだ。しかし、人間の腸のうねりのような歴史は、恐らく僕らの祈りなど、聞き届けてくれないことと思う。だが、何んにも僕は心配などもうしていない。僕も君も、どちらも野蛮人というような高級な感性的なものにもなれず、知性人というような、これまた同様に透明な抽象的なものでもない。それなら僕らはお互に最も底辺にいるべき人物同志であり、この底辺という富み籤を引き当てた健康なものこそ、それなればこそここに最も真理が豊かにあることを自覚すべきである。何ぜなら所詮この底辺の僕らが人の世を運ぶのだからだ。そして、僕はこの自覚から楽しく出発するつもりだ。茲(ここ)に僕らの道徳がある筈だと思う。」

 矢代は久慈にそういう手紙を出してから、三日目に、突然塩野が訪ねて来た。取りつぎに出た母から名刺を手わたされたとき、「あっ」と矢代は云ってすぐ立ち上った。人が来たのではなく、パリが人の姿で不意に訪ねて来たような胸騒ぎを彼は感じ、弛んでいた帯を絞め直して玄関へ出ていった。
「やア、暫くでした。一昨日着いたんですよ。御無事でしたか。」
 塩野は勢い込んだ元気な顔を上に向け、両足を揃えた正しい姿勢で矢代に云った。
 矢代は塩野を応接室に上げてから、そこでまた一別以来の挨拶をした。どちらもパリにいるときは敬語を使わなかったのに、このときは妙に固くなり、互に初めて会うような鄭重な言葉が自然に出た。矢代はそれを崩すのも却ってぎこちなくなりそうで、溢れて来る感動も礼儀のために絞めくくられ、ともすると無感動な静かな表情になるのだった。
「しかしとにかくまたお会い出来て、良かったなア。」
 と何んとなく嬉しさに疲れ、二人が黙ってしまったとき、矢代はふとそう呟くように云った。窓からぼんやり庭の石榴を見ていた塩野は、云いたいのは自分もそれだと云いたいらしく、「うむ。」と頷いた。まったくどちらもここにこうして再び対き合っているという事実が、今は不思議な気のする一刻だった。またたしかに二人はこうしているのだった。彼は塩野を抱きかかえたいような衝動をときどき感じたが、さも手持無沙汰のように煙草を喫いつづけてばかりいた。
「東野さんその後どうしてました。あの人も、そろそろもう日本へ着くころだと思うが、二三日前に来た久慈の手紙では、イギリスへ行ったということだが、あれから会われましたか。」
「会いました。あれから一度、東野さんの講演がありましてね。僕は聴きに行ったんだが、あんまり面白くもなかった。妙なことを云い出すものだからひやひやしてね。それでも、フランス人に講演するんだから、まアああいうより仕様がないんでしょうね。」
「それや、ひやひやするだろう。」
 と矢代は、東洋的な東野の一風変った、独断的な話の癖を思い出して笑った。
「しかし、万国知的協力委員会の幹事をしている佐藤という人が、今日は成功だ、と僕にそのとき云いましたよ。それでやっと僕も安心したが。」
「東野さん、どんな講演をしたんです。」
 と矢代はまた訊ねた。
「何んだかもう忘れたけれども、世界の人間が、世の中を愛するためには、先ず各国の人間が、今までの歴史と地理とを、それぞれ、もう一度あらためて認識し直すことだ、というようなことを云いましてね。何んでも、そうすることから、人間の愛情というものが、一層高尚に変ってゆくというのですよ。」
「それはまた東野さん、大きく出たものだなア。」
 と矢代は云いながら、塩野と一緒に笑った。が、日本人がヨーロッパ人の前で無理に話をさせられれば、今のところ、東野のようなことを云う以外に適当した穏かな話はないと矢代は思った。実際、矢代は西洋にいたとき、随分いろいろな事に人後に落ちず感心したが、一方どういうものか、いつも理由の分らない腹立たしさを感じた。しかし、塩野はそうではなく、一心不乱に一挺のカメラの眼に意識を蒐め、対象を研究しつづけていたのである。それもキリストの精神を中心にして、物理がどこよりも一番美しく結晶したノートル・ダムに対い、特にカメラの焦点を向けつづけていたようだった。
「君がヨーロッパにいるときは、なかなか豪かった。久慈や東野さんより、僕は君に一番感服したな。とにかく、君は立派だった。」
 と矢代は塩野から視線を反らせて低く云った。
「豪いも豪くないもないや。他の人とは違って、僕は貧乏だったんだから仕様がない。」
 塩野は後頭部へ両手を廻して笑った。
「いや、そこがさ。」
 こう云いながらも矢代は、巴里祭の日に、サンゼリゼの坂で中央の伝統派の一団と、そこへ襲って来た左翼の打ち合う波の間に挟まれ、殴られつつも、まだカメラのシャッタを切っていた塩野の勇敢さを思い出した。
「あの巴里祭のとき、君が殴られながら撮った写真、あれどうしました。」
「そうそう、あれはうまく撮れてた。引き伸して送りますよ。あの時は、まったく偶然なチャンスにぶつかったが、その代りに頭が割れそうだった。痛い痛い。」
 いつも巴里祭の話になると、顔中ぽっと紅をさす塩野の癖がまた出かかったと思うと、突然彼は話を換え急に馴れ馴れしい、一種頓狂な薄笑いを泛べた眼つきをして、
「あなた、氷河の写真入用ならありますよ。僕あなたと別れてから、またチロルへ行ったんですよ。あなたの渡ったあの氷河が忘れられないものだから、日本へ帰る前に何んとかしてもう一度と思って、とうとうまた行って来た。いいなアあそこは。」
「行ったんですか。」
 矢代は不意に虚を突かれた形で妙に胸が高鳴りをつづけた。暫く赧らみの面に噴きのぼって来そうな予感のまま、彼は氷河の厚い量層を眼に泛べるのだった。
「あそこの羊飼の唄ね、あのレコードも手に入れたから、この次ぎ持って来ましょう。大石と二人で行ったんだが、大石はあれからスイスの公使付に替って、まだあそこにいますよ。千鶴子さんの兄貴も、あそこの唄のレコード欲しがってるんで、持って行ってやらなくちゃ。――あなた会いましたか、あれから?」
「いや、まだです。無事帰られましたか。」
 と矢代は力のない小声で訊ねた。
「帰ってますよ。僕昨日ちょっと電話で話してみただけだが、行ってみましょうこれから。」
「うむ。」矢代は生返事をした。行きたいことは山山だった。それはもう氷河の話が出たころから、千鶴子の名前がいっぱいに膨れ襲いかかって来ていたのだが、それが塩野から無造作にそう云いかけられると、急に返事に詰り、云いようのない苦渋な気持ちで即答が出来かねるのだった。塩野は矢代の表情を伺いながら、瞬間これも理解に苦しむ風な、うつろな眼のまま黙り込んだ。
「それより、夕御飯どっかでどうです。久しぶりですからね。」
 ようやく矢代はこう云って自分の苦しさを掻き除けた。
「ほんとに久しぶりだなア、千鶴子さん、夕御飯に呼んでやろうじゃないですか。喜びますよ。」
 再会の喜びに夢中の塩野からまたそう云われては、矢代も今は抗しがたかった。それも、千鶴子を呼び出すほどなら、むしろ出かけて行っても良かったところを、彼女の家へ直接行き渋る矢代を遠慮とのみ思い込んだ、塩野の勘違いだった。矢代は、この喜びをそのまま素直に受取ろうとしない自分に気枯れのした暗さを二重に感じ、彼にそれも云えない焦燥のまま、不思議と彼は沈みこんだ。
「千鶴子さんに会うのも良いが、どうもね。」
 と矢代は笑いに紛らしながら、争われず塩野を見る眼も、さきからパリを懐しむ思いの方が遥かに強かった。そして、ともすると彼をただその背景の上に泛べているだけの自分を感じては、塩野もまた、こちらを同様に見ているにちがいないと思い出され、ふと差し覗いてくるような寂しさが、冷え冷えと薄気味悪い影を流して通りすぎた。それも、もしこのまま千鶴子に会えば、一層拡がるばかりのパリの影が、今はその前兆のような不吉な尾を、ちらりと跳ね上げ冷笑しつつ流れているかと思われる。
「どうもしかし、旅というものは不思議なものだなア。行くときにはただ夢中で行くが――君、もう暫くすると辛いですよ。こんなに辛いものだと思わなかった。これであなたや千鶴子さんと会うのも嬉しいが、惜しいことに、外国へ行く前に一度会っておいたんだと、もっと良かった。」
「そうそう、それや分る。」
 と塩野も眼を空に上げて云った。彼のその見上げている空中に映っている異国の幻影が、楼閣に楼閣を重ねた絢爛たる光の綾を鏤め、また自然と矢代の頭にも映り返り、塩野を見るのだった。暫くこうした幻影が幻影を見ている間を、窓の外では、晩秋の光線が徐徐に日暮れに傾きつつ、樹樹の末枯(うらが)れた葉の影を深めてゆく。庭の柿の木の下で、落ち潰れて久しくたった熟柿の皮から、白い毛に似た黴が長く突っ立って生えている。
「とにかく、僕らは足を奪(と)られるよりも、頭を奪られているんだからなア。始末にいかん。――元気を出そう。」
 矢代は庭の中の一点の賑やかさを誇っている、狂い咲きの躑躅の花に視線を移して云ったが、晩秋の冴えた日暮がますます腹の底から沁んで来た。


 家を出てから二人は坂路を下っていった。坂の降り口の所で、塩野は自動電話のボックスを見付けると矢代を外に残して中へ入った。どこかの料亭へ電話をかけるのか、それとも千鶴子にか、ただ「一寸待って」と声をかけたままだったが、外から見える彼の顔は、何んとなく千鶴子の兄にかけているらしい、打ち解けた笑顔をしていた。
 矢代は一度ちらりと中の塩野を見ただけで、出て来る電話の主が気がかりなだけに、今は話の内容に気をつけるのがいやだった。彼はそこに手ごろに見付かった近くの煙草屋へ入り、余分の煙草を買った。パリで千鶴子と別れる際、帰ればすぐ会おうとあれほど約束しておいたに拘らず、一ヵ月以上にもなり、それも塩野に間に立たれて初めて会おうとする虫の好さを思うと、向うにしても、彼の電話のままにはやすやす出かけて来ることもあるまいとも思われた。それに、千鶴子もこちらの考えたほどのことは考えた上に、なお婦人として心得るべき特別の事情も、種種考え直して苦しんでいることなど、およそ定っていることであった。
「つまり、そこだ。自分の会いそびれていたのは。」
 と、矢代は煙草屋を出て来るとき口から思わず出かかった。しかし、また向うにしても、こちらの考えを潜って、思いを巡らせていてくれたものなら、悪気があって強いて会わぬわけではない事情など、虫好くして考えれば、分ってくれそうなものだとも思われる。しかし、それにしても、矢代に不思議なことは、会いたいとか見たいとか、一途に思っていたことに変りのなかった自分を、それをせき留めているものの事実あるのは、たしかに自分一人の胸には分らぬ何事かだと思った。そんな自分の所存ではない、二人の間にのみ潜んでいる何事かは、恐らく二人が会ってもまだ分らないものにちがいない。そして、それもみな、異国で出会った男女の間にばかり起り得ることであってみれば、今は運を天に任せて出て行く以外に法もない。
 そうは思いながらも、矢代はなおボックスに恐れを感じ遠く離れたまま立っていた。枯草の中にぽつりと尖がっている、無愛想な灯台形の白い小箱が、運命を判じるアンテナのように底気味悪く見え、その声を運んで来るものまでが、ただの科学的なことではすまされぬ、神秘な光りのように見えるのだった。そこへ箱の中から出て来た塩野の、パリで作ったらしい身についたダブルの洋服が、周囲の風物とかけ離れひどく頓狂に見えるにこにこした姿で矢代の方へ歩いて来た。
「千鶴子さん、来るそうですよ。どうもしかし、初めは妙なことを云いましてね。あたしが行っちゃ矢代さんに御迷惑じゃないかしらって、そんなことを云うんですよ。あれも一寸どうかしてるなア。」
 と塩野は云いながら、ズボンのポケットから煙草を探した。しかし、いよいよ千鶴子が来ると分ると、矢代は急に元気が出て思わず饒舌になりかけた。
「それや、君、帰ったばかりだから、どうかしてるのは誰でもですよ。そのうち君だって、どうかなりますからな、用心しないと入院しますよ。」
「ふむ、入院するかな。」
 と塩野は一寸考える風に眼鏡をせり上げた。
「とにかく、入院するしないは別として、必ず妙なものがやって来る。訳の分らぬものが、無茶苦茶に自分を押し倒して、馬乗りになって来る。」
「ふむ、来ますか。」
 塩野は小首をかしげたかと思うと、「はっ」とかすかに声を立てて笑った。二人はバスの停留所の手前まで来てから立ち停った。
 矢代は今までにもここの停留所へ来るごとに、幾度となく仰いだ眼の前の欅の大樹をこのときも自然に仰ぎ、幹が巧みな別れ方で、それぞれ枝となってゆく見事な様子にいつもながら感服した。別れる所へ来て別れるという単純な美しさが、それぞれ別れたまま空を支えつづけている姿が、彼を捉えて放さなかった。
「僕らは天罰を受けてしまった。どう仕様もない。潔く罰を受けて仕舞いましょうよ。」
 何んとなく欅に云いたくて、塩野にそんなに矢代の云っている前へ、方向の違うバスが一台来て停った。欅に風があたり枯葉がどっと一斉に吹きこぼれて来た。バスの女車掌は下へ降りて踏台に片足をかけ、落ちて来る枯葉を仰ぎ見ながら、
「落葉する日か。いやに感傷的だわね、オーライ。」
 と運転手に手を拡げでひらりと舞うような様子でまた中に入った。塩野は去って行くバスを見送りつつくすくす笑い出した。枯葉は笑っている二人の肩口へなお音立てて舞い落ちて来た。


 千鶴子の家から近い場所をというので、矢代たちは、目黒のある料亭を選び、そこからまた塩野が千鶴子に電話で報らせた。このときは千鶴子の他に彼女の兄も来るとのことだった。ここの料亭は大樹に囲まれた暗さの割に、高台にあるため繁みの深さに陰鬱な気がなかった。ある旗本屋敷を改造したということだったが、そのためもあって廊下や間取りも槍を使うに適した広さの半面、書院の清潔さも失わず、苦心の払われた木口や壁など、天井の高すぎる欠点を補って居ごこちも良かった。
「僕は社の用でときどきここへ来たんだが、前にここは僕の知人だったんですよ。」
 矢代は塩野にそう云ってから、庭の隅にある四間ばかりの高さの築山を指差した。
「これは目黒富士といってね、これでも広重が絵に描いてるんだ。近藤勇もよくここへ来たらしいんだが、どうも日本へ帰って来て、少しうろうろしているとき気がつくと、すぐこんな風に、歴史の上でうろついてるということになってね。広重もいなけりゃ、勇もいやしない脱け跡で、これから僕ら、御飯を食べようというんだからなア。」
「そう思うとあり難いね。御飯も。」
 塩野は庭下駄を穿いて飛石の上を渡り、目黒富士の傍へ近よっていった。薄闇の忍んでいる三角形の築山全体に杉が生えていて、山よりも杉の繁みの方が量面が大きく、そのため目黒富士の苦心の形もありふれた平凡な森に見えた。しかし矢代は廊下に立って塩野の背を見ながらも、やがて来そうな千鶴子のことをふと思うと、争われず庭など落ちついて眺めていられなかった。パリで別れてから、大西洋へ出て、アメリカを廻って来た千鶴子の持ち込んで来るものが、まだ見ぬ潮風の吹き靡いて来るような新鮮な幻影を立て、広重の描いた目黒富士の直立した杉の静けさも、自分の持つ歴史に一閃光を当てられるような身構えに見えるのだった。
 間もなく、庭の石灯籠の袋に火が入り部屋の火影が竹林の足を染め出すころになって、女中に伴われ千鶴子たち二人が廊下を渡って来た。
 鷹揚に肥満した背の高い兄と並び、クリーム色に山査子の花を泛べた千鶴子の服が、鳥の子の襖いちめんにぼうッと光圏を投げ拡げ、灯を映したその華やいだ色の中から、千鶴子は首を縮めてちょっと矢代を見ると眼を落した。それはパリで見たときよりも見違えるほどの美しさだった。そこへ塩野は気軽に二人の傍へ近より板についた賑やかな握手をした。矢代も塩野の後から千鶴子の傍へよって行ったが、握手をひかえ、どちらからともなく畳の上へ膝をついて、
「暫くでした。」
 と彼が云うと、千鶴子も「御無事で」とただ幽かに云ったまま、赧らみの加わった眼もとをすぐ自分の兄に向けた。
「兄ですの、どうぞ宜敷(よろし)く。」
 千鶴子に云われた兄の方は、坐り難げに円い膝を折って坐ったが、すぐお辞儀をするでもなく抜いた懐中から名刺を出して、ゆっくりと落ちつき払った初対面の挨拶をした。矢代は妙に間の合わぬ気持ちで二度もお辞儀をした。宇佐美由吉と書かれた文字もよく眼に入らぬまま、彼も自分の名刺を出したが、固くなりかかった気持ちが、どういうものか急に中途でなくなるのを感じた。後から来た順序で自然に由吉が床の前に坐らされ、その横へ千鶴子が坐った。
「塩野とも暫くだね。」
 由吉は大徳寺の一行物の床軸を見上げてから、またあたりを尊大そうな身振りで眺め廻して塩野に云った。彼のその大仰な身振りは傲慢には見えず、一種の剽軽な微笑を絶えず泛べているので、却って磊落な風格を対う人に与えてくつろがせる妙があった。
「どうだったアメリカは?」
 と塩野は由吉に訊ねた。
「そうだね、へんに大きいけれども、どうも隙間も大きくってね。」
 由吉はそう答えたまま、後は二人に待たせたきりで何んとも云い出そうとしなかった。
「何んだ、それだけか。」
 塩野の笑っているところへ酒が出て来たので活気づいた座の外へ、自然とアメリカの談が押し出された形となって、猪口が動いた。
「大石はどうしてる。」
 こう云う由吉の問いから塩野と彼との間で、暫く大石の噂が出た後、それにつづいて由吉と塩野たちの、パリ、ロンドン間の交遊仲間の話ばかり懐しげに出揃った。それらの仲間はみな、パリの「十六区」に棲んでいる日本の上流階級の者たちばかりの名前で、あまり「十六区」を知らぬ矢代は、暫くは二人の話を聞かされる番だった。
「僕はもう少し早く帰る筈だったんだが、侯爵がね、どうしても一緒に帰ろうというので、つい船も延びちゃったのだよ。ところが、ニューヨークへ着いたら枕木が来てるんだよ。どうして来たものやら分らないんだが、婿も一緒さ。」
 美しい松脂色のゴム絹の袋から、きざみ煙草をダンヒルのパイプに詰め詰め云う由吉の話を矢代は、自分と別れてからの、千鶴子の生活の匂いを嗅ぎつける思いで聞くのだった。由吉の話の中に、侯爵とか男爵とかと、名を云わずただ爵位だけで呼ぶ習慣のあるのも、塩野には当然のことらしく、彼も由吉に応じて笑ったり皮肉を入れたりした。
 それにしても、この塩野や由吉らの、日本人放れのした交友たちの間に浸って来た千鶴子が、矢代に近づいていた不似合なパリでの一時期の交遊期を、今さら彼は訝しく奇特なことだと思わざるを得なかった。しかし、もう今は、どこが違っているのか分らぬながら、どことなく総てが前とは違っていた。
「いつお帰りになりました。」
 ほとんど先から千鶴子と視線の合うのを恐れていたのも、矢代は、このことだけ千鶴子に訊きにくい事だったからであるが、それもいくらか酒にほぐされ、初めて千鶴子の顔を見て訊ねた。
「八月の二十一日に着きましたの。」
 千鶴子は答えただけでまたすぐ食卓の上へ眼を伏せた。頭から飛び散ってゆく何ものかを必死に防ごうと努めている、びくびくした彼女の表情を矢代は見てとり、
「じゃ、僕の想像はあたったな。僕は九月二日ですから、あなたと十日違いですよ。東北の田舎へそれから一寸引っ籠っていました。いかがです。一つ。」
 矢代に銚子を向けられた千鶴子は、軽く猪口の端を唇につけただけですぐ下に置くと、今度は急に正面からじっと眼叩きもせず矢代を見詰めて黙っていた。
「この人だったのかしら、あの人は?」
 と自問自答をし始めているような、苦しさに光りの滲み上げて来る眼差だった。それで良いのだそれで、悲しむことはない、と矢代は千鶴子に胸中で云いきかせながらも、無意味な幻影の退散を祝う寂しい気持ちも一刻ごとに強まるのだった。彼は話の緒口のほぐれたままに勢いづき、当り触りのないシベリヤの平原のことや、新聞社の競争に巻き込まれた滑稽さなどと、ただ饒舌っているという実感だけで話し始めた。その間、千鶴子はあまり彼の話など聞いてはいない恨めしげな様子で箸を動かしていたが、塩野と由吉は急に饒舌り出した矢代の話に面白がって、「ふむ、ふむ。」と乗り出しては声を立てて笑った。矢代はそれも遠くで聞えるように思われる笑いの底で、やっと気力を掻き集めてはまた饒舌った。
「しかし、とにかく、地球というものは、妙な顔をしてますね。世界は幻影というものが起るように出来ていますよ。どうも僕らは善悪は別として、人間が悩まされている幻影を、拭き落してゆく運命を持たされたような気がしますがね。やはり、平和を愛するのだ。」
 と矢代は自分の話の最後を結んで、新しく出た椎茸の揚物に箸をつけた。
 由吉も塩野も矢代の洩した意味が、何んのことだかよく分らぬらしく黙っていた。しかし、矢代にしては、そのことだけは特に千鶴子に云いたくて云ったことだった。実際、彼は千鶴子をこの夜見たときから、全く別の舞台で昨日と違った劇を見始めているような、乗り移らぬ気持ちを感じて沈んだ。
 そして、その愉しめぬものの一切も、千鶴子の預り知らぬことばかりで、この夜の解せぬ悲しみや寂しさのすべても、ヨーロッパで自分の見ていた幻影のさせる仕業だと思うほど、西洋から帰って来た多くの青年が、船上から神戸を見て悲しみのあまり泣き出すという、弱まり崩れた心根もやはり同様に自分の中にも潜んでいたのだろうかと、矢代は不快になり、一層悲しく沈むばかりだった。
 しかし、それも千鶴子一人がどうやら嗅ぎつけたらしい以外には、塩野も由吉もまだ知らず、席は料理の数が増えるにつれ賑やかになっていった。
「それはそうと、男爵は日本へ帰るつもりがあるのかね。」
 と由吉は話を換えて塩野に訊ねた。男爵というのは、サンゼリゼのトリオンフで、初めて矢代が東野から塩野を紹介されたとき、一緒に紹介された同席の平尾男爵のことだろうと矢代は思った。
「さア、どうも男爵は、帰ろうにも帰れないんじゃないかな。よく分らないが。」
 と塩野は言葉を濁し、明答を避ける風だった。
「そうかね、しかし、早くひき戻す工作を僕らでやろうじゃないか。枕木にも僕は頼んでおいたんだが。あれだけの人物を、いつまでもパリで腐らしとく手はないと思うんだ。」
「しかし、駄目だなア。」
 塩野はそう云ってからまた由吉に対い、意味ありそうに笑いながら、
「それより、君の方が心配だが枕木の方は大丈夫か。」
「いや、あれはもう済んだ。」
 由吉の薄笑いを洩して俯向いた顔色といい、枕木という奇怪な名といい、矢代は、さきからその名が出るごとに意味の深さを感じさせられていたときだったので、塩野もそれを感じたのであろう彼から、
「宇佐美はね、フランスの枕木王のお嬢さんにひどく好意を持たれたんですよ。ところが、そのお嬢さんには許婚の伯爵がいて、それが嫉妬やきなもんだから、見ていて面白いんだ。」
 由吉が片手で「こらこら」と云って止めるのも介意(かま)わず、塩野は矢代に枕木の説明をそんなにして聞かせた。
「しかし、フランス人というものは、危窮に臨むとなかなか見上げたところがあると思ったね。僕はニューヨークで枕木がパリへ帰るというから、船まで送っていったんだよ。ところが、いよいよ船が出るというときに、甲板で最後の別れの接吻をしろって、傍の枕木の女友達が僕に奨めてきかないんだ。礼儀ならやむを得なくなって、命ぜられた通りに僕はしたのさ。そしたら傍で伯爵は、それを見ている間静粛に拍手をしているんだ。」
「それや、あすこにはまだ、騎士道の名残りがあるからな。」
 と塩野は自分の出入していたパリの上流階級の風習や、また過ぎたそこでの自分のことも思い泛べたらしい眼鏡の光りだった。
 しかし、矢代だけは一寸心が詰るように由吉の話を聞いていた。というより、千鶴子と自分のいる前で、そのような情景を話すつもりになった由吉の気持ちが、彼には呑み込めかねた。
 由吉の暗示するところと多少の違いはあるにしろ、矢代は千鶴子に対っていた自分の態度を、由吉や伯爵に較べて考えずにいられなかった。たしかに自分の装いには、野暮なところなきにしも非ずというよりも、正当な愛情ある人物の取るべき態度ではなかったかもしれないと思った。しかし、そこが旅というものだとまた彼は思うのだった。旅の喜びを貫いて絶えず流れていた憂愁は、それ自身すでに恋愛以上の清めのような物思いであった。もし千鶴子と自分とが男女の陥ち入るような事がらに会っていたなら、定めし想いの残る旅の印象はよほどこれで違っていたことだろうと思った。しかもまだ今になっても彼は自分の旅情を汚す気は起って来ないのであった。むしろ、このまま今の態度を守り通してゆくことに幽かな喜びをさえ感じるのはどういうものだろう。――あるいはも早や愛情を示す時期が二人の間から遠ざかってしまっているのかもしれなかったが、それなら、それもまた善しと思われる何ものかが、新しく生じて来ていることも事実だった。実際、彼と千鶴子の事件はまったく新しく、初めてこの夜出来て来ているような、異国のことではない、沈みながらもある生き生きとしたものが生れ始めているようにも思われる。矢代はときどき千鶴子の顔を眺めてみた。それはたしかに前の千鶴子ではない、何か悩みを含んだ慎しみの深さを加えて来ている、前よりはるかに現実的な千鶴子の顔だった。
「僕はこのごろ、日本の中を旅してみたくて、仕様がなくなっているんですよ。塩野君なんかとそのうちまたいかがですか。」
 と矢代は千鶴子に云ってみた。
「ええ、そのときはまた――。」
 千鶴子が眉を少し開いて云いかけようとしたとき、塩野はすぐ横から「いいなア、行こう行こう。」と勢い込んで千鶴子に云った。
「そのうちみんな、どっと帰って来るから、そしたら皆で一緒に行こうや。僕は自分のこれからの仕事としても、日本の良い所を写真にとって、どしどし外国へ向けてやらなくちゃならんのだから、何よりだ。もうそろそろ明日からでもかからなくちゃ。」
 塩野のそう云うのに由吉だけは一寸頭を撫で、つまらなそうに声を落して云った。
「君らはいいね。僕はそのころは、またヨーロッパだ。僕のは命ぜられるんだから仕様がない。」
 なるほどまだこれから行く人もあるのかと矢代は思うと、由吉の落した声を気の毒に聞くのだった。
「帰って来たばかりだのに、行く奴の話を聞くのは面白くないなア。」
 と塩野は急にがっかりしたように笑った。
「しかし、僕はさっきの矢代氏の、あのお話は面白いと思ったね。僕らは人間の幻影を拭き落してゆくのが運命だというね、僕もどうも、そんな気がするんだが。」
 パイプを啣(くわ)えた大きな顔を天井に向け、眼だけで塩野を見降すようにして云う由吉の様子を見て、矢代は、突然話を切り換えたその由吉の頭の鋭さを、風貌とは似合わぬ繊細な能力をひそめた商務員だと思った。
「幻影か――」と塩野は云ったまま黙っていたが、
「さっき来るとき矢代君、妙なことを云いましたね、枯葉の散って来たときさ、僕らは天罰を受けたと、君は云ったよ。あのとき何んだか僕ぞっとしたね。」
 笑い話のつもりらしかった塩野の意図に反して、何んとなく座は一瞬しんと静まり返った。千鶴子は座を立ってひとり外へ出て行った。別に眼ざわりな立ち方ではなかったが、前から話の途中に席を脱す癖のあるのが千鶴子の欠点だと矢代は思っていたので、また始ったと思い気にかかるのだった。
 チロルの山の上での夜も、急に見えなくなった彼女を探しに行くと、氷河を向いてひとりお祈りをしていたことなど思い出し、千鶴子の心の中でカソリックはどうなっているのかと、暫く彼は憂鬱に食卓の上に肱をつき彼女の戻るのを待っていた。
 由吉は陶器に趣味があるのか出て来る食器を取り上げ裏を返した。そんなことなどいつもは矢代の気にならぬことだったが、それが千鶴子の兄の癖かと思うと自然に彼も注意した。
 千鶴子は化粧を直してまた部屋へ戻って来ると、出て行ったときとは違い、特長のある靨も明るく笑顔をひき立て、何か今度はしきりと矢代に話しかけたそうな視線だった。
「真紀子さんからその後お便りありましたか。」と矢代は訊ねた。
「ええ、ミラノからいただきましたわ。何んだかひどく寂しそうなお手紙よ。あなたには?」
「僕には二三日前に久慈から来ましたが、また喧嘩を吹きかけて来た。どうも久慈とは、とうとう碁敵みたいになりましたよ。」
「久慈さんからあたしもいただいたの。真紀子さんとも駄目のようだって書いてあるんだけど、どんなかしら。」

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