旅愁
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著者名:横光利一 

 家を取り壊した庭の中に、白い花をつけた杏の樹がただ一本立っている。復活祭の近づいた春寒い風が河岸から吹く度びに枝枝が慄えつつ弁を落していく。パッシイからセーヌ河を登って来た蒸気船が、芽を吹き立てたプラターンの幹の間から物憂げな汽缶の音を響かせて来る。城砦のような厚い石の欄壁に肘をついて、さきから河の水面を見降ろしていた久慈は石の冷たさに手首に鳥肌が立って来た。
 下の水際の敷石の間から草が萌え出し、流れに揺れている細い杭の周囲にはコルクの栓が密集して浮いている。
「どうも、お待たせして失礼。」
 日本にいる叔父から手紙の命令でユダヤ人の貿易商を訪問して戻って来た矢代は、久慈の姿を見て近よって来ると云った。二人は河岸に添ってエッフェル塔の方へ歩いていった。
「日本の陶器会社がテエランの陶器会社から模造品を造ってくれと頼まれたので、造ってみたところが、本物より良く出来たのでテエランの陶器会社が潰れてしまったそうだ。それで造った日本もそれは気の毒なことをしたというので、今になって周章(あわ)て出したというんだが、しかし、やるんだねなかなか。一番ヨーロッパを引っ掻き廻しているのは、陶器会社かもしれないぜ。」
 久慈は矢代の云うことなど聞いていなかった。彼は明日ロンドンから来る千鶴子の処置について考えているのである。二人は橋の上まで来るとどちらからともなくまた立ち停った。
 眼も痛くなる夕日を照り返した水面には船のような家が鎖で繋がれたまま浮いている。錆びた鉄材の積み上っている河岸は大博覧会の準備工事のために掘り返されているが、どことなく働く人も悠長で、休んでばかりいるようなのどかな風情が一層春のおもかげを漂わせていた。
 エッフェル塔の裾が裳のように拡がり張っている下まで来ると、対岸のトロカデロの公園内に打ち込む鉄筋の音が、間延びのした調子を伝えて来る。渦を巻かした水が、橋の足に彫刻された今にも脱け落ちそうな裸女の美しい腰の下を流れて行く。
「明日千鶴子さんがロンドンから来るんだよ。君、知ってるのか。」
 矢代は久慈にそのように云われると瞬間心に灯の点くのを感じた。
「ふむ、それは知らなかったな。何んで来るんだろ。」
「飛行機だ。来たら宿をどこにしたもんだろう。君に良い考えはないかね。」
「さア。」
 こう矢代は云ったものの、しかし、千鶴子がどうして久慈にばかり手紙を寄こしたものか怪しめば怪しまれた。
 エッフェル塔が次第に後になって行くに随って河岸に連るマロニエの幹も太さを増した。およそ二抱えもあろうか。磨かぬ石炭のように黒黒と堅そうな幹は盛り繁った若葉を垂れ、その葉叢の一群ごとに、やがて花になろうとする穂のうす白い蕾も頭を擡げようとしていた。
 晩餐にはまだ間があった。矢代と久慈はセーヌ河に添ってナポレオンの墓場のあるアンバリイドの傍まで来た。燻んだ黒い建物や彫像の襞の雨と風に打たれる凸線の部分は、雪を冠ったように白く浮き上って見えている。
 その前にかかった橋は世界第一と称せられるものであるが、見たところ白い象牙の宝冠のようである。欄柱に群り立った鈴のような白球灯と豊麗な女神の立像は、対岸の緑色濃やかなサンゼリゼの森の上に浮き上り、樹間を流れる自動車も橋の女神の使者かと見えるほど、この橋は壮麗を極めていた。
 矢代は間もなく見る千鶴子の様子を考えてみた。彼の頭に浮んだものは、日本から来るまでの船中の千鶴子の姿であったが、定めし彼女も別れてからはさまざまな苦労を自分同様に続けたことであろうと思われた。
「千鶴子さん、長くパリにいるのかね。」
 と矢代は久慈に訊ねてみた。
「長くはいないだろう。フロウレンスへ行きたいんだそうだが、君に宜敷(よろし)くって終りに書いてあったよ。」
「終りにか。」
 と矢代は云って笑った。矢代は久慈とも同船で来たのであった。久慈は社会学の勉強という名目のかたわら美術の研究が主であり、矢代は歴史の実習かたがた近代文化の様相の視察に来たのだが、船の中では久慈だけ千鶴子と親しくなった。矢代は今も彼らとともにマルセーユまで来た日の港港の風景を思い浮べた。
「もう一度僕はピナンへ行きたいね。あそこは幻灯を見てるような気がするが、君はあのあたりから千鶴子さんの後ばかり追っかけ廻していたじゃないか。あれも幻灯だったのかい?」
 と矢代は云ってからかった。
「いや、あのときは夢を見ているようなものさ。何をしたのかもう忘れたよ。マルセーユへ上った途端に眼が醒めたみたいで、どうしても自分があんなに千鶴子さんの後ばかり追い廻したのか分らないんだ。いまだにあのときのことを思うと不思議な気がするね。」
「とにかく、あのマラッカ海峡というのは地上の魔宮だよ。あそこの味だけは阿片みたいで、思い出しても頭がぼっとして来るね。あんな所に文化なんかあっちゃ溜らないぜ。あ奴が一番われわれには恐ろしい。」
 アンバリイドからケエドルセイにかかって来ると、河岸の欄壁に添って古本屋がつづいて来た。一間ほどのうす緑の箱が蓋を屋根のように開いている中に、ぎっしり本や絵を詰めた露店であるが、上からは樹の芽が垂れ下り魚釣る人の姿も真下のセーヌ河の水際に蹲(しゃが)んでいる。矢代は前方の島の中から霞んで来たノートル・ダムの尖塔を望みながら云った。
「僕はカイロの回回教(フイフイきょう)のお寺も忘れられないね。あれはここのヨーロッパに自然科学を吹き込んだサラセン文化の頂上のものだが、ナポレオンがあの寺を見て、癪に触って、大砲をぶつ放したのもよく分るね。ナポレオンが日本へ来ていたら、第一番に本願寺へ大砲をぶち込んでいたぜ。」
 そう云えば矢代はエジプトのカイロのことを思い出す。あのピラミッドの真暗な穴の中を優しく千鶴子を助けて登った久慈の姿を思い出す。

 エジプトまでは矢代と久慈はまだ親しい仲だとは云えなかった。それと云うのは、同船の客が港港の上陸の際にもサロンでの交遊にも、二派に別れてそれぞれ行動を共にしていたからであった。これらの二組の中には若い婦人も混っていた。久慈の方にはロンドンの兄の所へ行くという千鶴子がいた。今一方の組の中には、ウィーンの良人の傍へ行くという、早坂真紀子が中心になっていた。矢代は上海に半ヵ月ばかり滞在してから、スマトラその他の南洋の港港を一ヵ月ほど廻り、シンガポールから初めて久慈たちの船に乗船したため、これらの二組のどちらでもなく中立派の態度をとって自由にしていたが、一度び船がスエズに入港してカイロ行の団体を募集したときから、この二派の関係は乱れて来た。
 船がスエズからポートサイドまで出る一昼夜の間に、カイロ行の団体は陸路沙漠を横切りカイロへ出て、ピラミッドを見物してからポートサイドに廻っている船まで、汽車で追っつかねばならぬのである。随ってこの急がしい旅には二派の反目など誰も考えていられる閑はなかった。いよいよカイロ行の一団は、千鶴子の組も真紀子の組も呉越同舟で三台の自動車に分乗した。
 そのとき矢代は最後に遅れて自動車に乗ろうとするとどの自動車にも席がなかった。矢代はうろうろしながら席を覗いているうちに一台の自動車から急に久慈が飛び降り、「こちらへいらっしゃい。ここが空いていますから。」と矢代にすすめた。
 久慈は矢代を自分の席へ入れると自分が運転手台に廻ろうとした。
「いやいや、それはいけませんよ。」
 こう矢代は云ったがそのときはもう久慈は運転手の横に乗っていた。矢代がそのまま久慈の席へ納ると同時に自動車は辷り出した。車内では矢代の横に真紀子がいて、その横にある船会社の重役の沖がいた。沖と矢代は船中から親しかったが、この四人が一緒になることはそれまでにはなかったことであった。矢代はこのときから久慈や真紀子とも親しさが増して来たのである。
 ポートサイドから船が地中海へ進んで行くと、船客たちはすでに上陸の準備をそろそろし始めたが、矢代はまだそれまで千鶴子とは言葉を云ったことが一度もなかった。
 ある夜、イタリアへ船がかかり渦巻の多いシシリイ島を越えた次の夜であった。一団の船客たちは突然左舷の欄干へ馳け集った。矢代も人人と一緒に甲板へ出て沖の方を見ると、真暗な沖の波の上でストロンボリの噴火が三角の島の頂上から、山の斜面へ熔岩の火の塊りをずるずる辷り流しているところだった。
「まア、綺麗ですこと。」
 と千鶴子が感嘆の声を放った。彼女としては傍にいるものが矢代だと気附かずに云ったのだが、しかし、矢代も思わず、
「綺麗ですね。」
 と口に出した。千鶴子は傍のものが矢代だと識ると、どういうものかっと身を退けて甲板からサロンの中へ這入ってしまった。慎しみ深い大きな眼の底にどこか不似合な大胆さも潜めていて、上唇の小さな黒子(ほくろ)が片頬の靨(えくぼ)とよく調和をとって動くのが心に残る表情だった。

 次の日、地中海は荒れて船の動揺が激しくなった。矢代は夕日の落ちかかろうとするコルシカ島の断崖を眺めながら、甲板の上に立っていた。ときどき波が甲板に打ち上った。あたりは人一人も見えず冷たい風が波の飛沫とともに矢代の顔に吹きかかった。彼は欄干に肘をついたまま立ちつづけていると、後ろのドアが開いて近づいて来た靴音がぴたりと停った。矢代は煙草に火を点けたがマッチは幾本擦っても潮湿りの風に吹き消された。彼はマッチを取りにサロンへ戻ろうとして後ろを向くと、そこに食堂へ這入る前らしい千鶴子が花模様のイブニングで一人立っていた。
「あのう、失礼ですが、パリのほうへいらっしゃるんでございますか。」
 と千鶴子は寒さで幾分青ざめた顔を真直ぐに矢代に向けて訊ねた。
「そうです。」
「じゃ、もう明日お別れですわね。皆さん、そわそわしてらっしゃいましてよ。」
「そうでしょうな。」
 矢代は火の点かぬ煙草を口に咥えて笑った。
「あたしも皆さんと御一緒に、マルセーユで降りたいんですけれども、やはり、このままロンドンまで行くことに決めましたの、あら、まアあんなにお日さま大きくなりましたわ。」
 と、突然千鶴子は嬉しそうに云って夕日を受けた靨のままコルシカ島の上を指差した。
「左のこのサルジニアでガリバルジイが生れたというんですが、ナポレオンと向き合っているところは面白いですね。」
「何となくそんな人の出そうな気がしますのね。」
 船は首を上げたり下げたりしつつ夕日に向って苦しげに進んでいった。見ていてもその様子は気息奄奄という感じで、思わずこちらの肩にも力が入った。ぱッと甲板に打ち上った波は背光を受けたコルシカの岩より高く裂け散って、人家も見えず、左方に長く連った峨峨とした灰藍色のサルジニアが見る間に夕日の色とともに変っていった。
「ここは静かなところだと思っていましたけど、地中海が一番荒れますのね。」
 と千鶴子は額に手を翳し、飛び散る泡にも滅(め)げず云った。
「そうですね。しかし、まア、幸いにこれほどで何よりでしたよ。ナポリへ船の寄らないのが残念ですが。――」
 吹きつける風が千鶴子のドレスをぴたりと身体につけたままはたはたと裾を前方に靡(なび)かせる。
「コロンボまで来たとき、一番日本へ帰りたいと思いましたが、ここまで来ると、もうただわくわくするだけで、何んだかちっとも分らなくなりましたわ。」
 矢代は軽く頷いた。彼は今の自分を考えると何となく、戦場に出て行く兵士の気持ちに似ているように思った。長い間日本がさまざまなことを学んだヨーロッパである。そして同時に日本がその感謝に絶えず自分を捧げて来たヨーロッパであった。
 地中海へ這入って以来、憧れの底から無性に襲うこのようないら立たしさは、船が進めば進むほど矢代の胸中に起って来たのも、やはり来て見なければ分らぬことの一つだと矢代には思われた。全くこっそりと起る人知れぬこんな心は、悪用すれば際限のないものにちがいない。先ず静かに寝かしつけておこうと思っても、何ものか寝てる子供を揺り醒ますものが絶えず波の中から霊魂のようにさ迷うて来るのだった。間もなく、夕食の合図のオルゴールが船室の方から鳴って来ると、矢代はタキシイドを着替えに自分の部屋へ這入っていった。

 船の中の食堂は最後の晩餐だというので常にも増した装飾であった。船客たちもこの夜はタキシイドに姿を変えずらりと卓に並んでいた。女は女同士のテーブルに並ぶ習慣もいつのころからか破れたのも、この夜だけは千鶴子と真紀子が神妙に前の習慣に戻って面白そうに話すのが、矢代の方から眺められた。食事がだんだん進んでいって空腹が満たされて来たころ、突然一隅から紙爆弾の音がした。一同はッとしたと思うと同時にあちこちのテーブルからも爆発し始めた。外人を狙ってテープを投げつける。外人たちから返って来る。婦人を狙って投げつける。それぞれに紙の帽子を冠り、わあわあ騒ぎ立って来るに随って、咲き連っている造花の桜の枝枝にテープが滝のように垂れ下る。
 船客たちは今宵が最後の船だと思うばかりではない。地中海へ這入ってからは七色の虹に包まれたような幻に憑かれているうえに、ここまで来れば後へは帰れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢のようになっている。明日はいよいよ敵陣へ乗り込むのである。日本の国土といってはこの船だけである。
 このように思う気持ちは各人に共通であるから、桜も今は当分の見納めと、うす濁った造花の桜の花曇りも上野の花のように見えて来る。すると、食堂での騒ぎは間もなく甲板の上へ崩れて行ってそこで踊りとなって来た。
 二等の甲板の方からも踊りの出来るものはやって来て一緒に踊った。真紀子はフランス人と初めは踊り、次ぎにはいつものパーティでよく顔を会す踊りの巧い、美貌の中国人の高有明という青年と踊った。久慈は千鶴子と組んだ。彼は快活な性質であったから外人たちより踊りが自由で上手かった。
 矢代は踊っている久慈の姿を見ていると、パリへ行ってもこの人と友人になっていれば、定めし日日が愉快に過せるであろうと思うのだった。ところがそのとき急に踊り見物の一角が賑やかな騒ぎになった。いつも物云うこともない静かな三島と云う機械技師が酒の酔いが出たものと見え、いきなり隣りの外人の婦人の肩を親しそうに叩きながら靴を脱げと云い出した。日ごろの音無しい三島を知っているものらは転げるように笑い出すと、また誰彼かまわず肩を叩き廻って靴を脱がそうとしたが、やがてそれも余興の一つとなると踊りは一層甲板で賑った。
「じゃ、わしも一つ、踊ろうか。」
 と、老人の沖氏は立ち上って、高と踊り終えたばかりの真紀子にまた申し込んだ。この船会社の重役は船客たちの中で一番年長者であり、自分で自ら、「私は不良老年で、」と人人に高言するほど濶達自由で豊かな知識を持った紳士であった。船中でのティパーティのときもよくこの老人は外人たちに巧みな英語で演説した。頭の鉢が大きく開き強い近眼の上に鼻がまた素晴らしく大きくて赤かったが、その奇怪な容貌のようにこのときの沖氏の踊りもひどく下手いというよりも初めから巧みに踊ろうとは考えてもいない踊りである。「あは、あは、」とただ笑いながら足踏みしているだけだ。真紀子も自然に笑い崩れてときどき立ち停り、あたりの踊りへ突きあたる。見ているものもその度にどっと笑う。
「いや、これはワルツでね。」と沖氏は云って、「どうです、皆さん。今夜が最後ですよ。いっそのことおけさでもやるか。無礼講じゃ。」
「よし、やろう。」
 沖氏の元気に若者たちも火を点けられると、もう甲板の上の踊りなど皆には面白くなかった。外人や中国人をそのままそこへほうり出して踊りに任せ、一同サロンへどやどやと這入っていって日本人ばかりで酋長の娘から初め出した。それがさくら音頭から東京音頭となり、野崎小唄となり、だんだん進んでいくに随って、とうとうあなたと呼べばというのになった。若者たちはも早や胸を絞られ遠い日本の空の思いに足もひっくり返って来るのだった。中には非文化的なことをここまで来てもやるとはけしからぬと怒って自室へ引っ込むものも一二あったが、むらむらと舞い立った一団の妖気のような粘りっこい強さには爆かれた水のように力がなかった。
 船客たちの唄が尽きたころになると、そのまま解散するのも互に惜しまれて次ぎにはそれぞれ隠し芸をすることになった。進行係は皆の意見で沖氏となった。長唄を謡うものや詩吟をやるもの、踊るものなどが現れた後、今度は真紀子に何かやれやれと皆がすすめた。真紀子は初めの間は躊躇していたが、沖氏に立って来られると、
「じゃ、やりますわ。」
 と逃げるようにピアノの傍へよっていった。船客たちは長い航海中、誰も真紀子のピアノを聴いたものがなかったからこの意外な余興に拍手をあげて喜んだ。
「何をやるんです。」
傍へよって訊ねる沖氏に真紀子は小声で短く何ごとか囁いた。
「ははア。」と沖氏は云って満足そうに一同の方に向き、「え―皆さん、これからわれらの真紀子夫人はドナウの流れという曲を弾かれますから御清聴を願います。これはウィーンにいられる御主人のことを忍ばれた曲でありまして、いささか皆さまにとりましてはお聞き苦しいかと存ぜられますが。――」
 ここまで沖氏が云うと床の緋の絨毯を靴で打つものや奇声を発するものがあったが、すぐピアノは鳴り出した。背中の少し開いた真紀子のソアレの割れ目から緩急に随い、人より白い皮膚が自由な波のように揺れ動くと、三島は「ほおう。」と剽軽(ひょうきん)な歎息をもらしたのでまたどっと皆は笑いを立てるのだった。余興のこととて曲は手軽に辷って終ったとき、拍手の中を沖氏がまた立ち上った。
「皆さん、今の御演奏はまことに御立派なものだと、感服いたしました。これは一重に明日マルセーユへ現れる御主人のことを、毎日毎日思いつづけられた淑徳の結果かと存ぜられます。次に一つ、千鶴子さんにお願いします。」
 千鶴子は真紀子の弾奏中にすでに次ぎに廻って来るものと覚悟をしていたものと見えて、すぐ臆せず立ち上った。
「あたくしはピアノが下手でございますから、唄にさせて貰います。」
「何んです、何んです。」と云うものがあった。
「伴奏、伴奏。」と誰かが云うと、真紀子が再度ピアノの傍へ沖氏に引っ立てられたが、三島は突然真紀子の傍へよっていって、「靴、靴。」と云いながら裾の方へ跼(かが)み込んだ。沖氏は一寸不愉快そうな顔になると三島の肩を掴んで自分の席へ連れ戻った。
「ここはまだ船の中でございますが、明日は皆さま、パリへお立ちになる方が多うございますから。」
 千鶴子がここまで云ったとき三島がまた、
「パリの屋根の下。」
 と叫んだ。もう子供と同じようになっている皆の者は手を打って喜んだ。千鶴子は真紀子に一寸会釈をしてからパリの屋根の下を唄い出した。
かんてぃるゆうぶぁんたん
さびぃえいゆままん
るぃでぃったんじゅうるたん
どるまん
だんのうとるろっじゅまん
じぇべいねすうばぁん
ぷうるてるべいるふぁれどら
るじゃん
 唄がすすむままに一同はもう上機嫌になって、間もなく眼の前に現れて来るパリの実物に接した思いで、それぞれ首を振り振り唄うのであった。この唄は一度終るともう一度もう一度と、皆は千鶴子をせきたててやめなかった。


 今日はいよいよマルセーユへ著くというので船客たちは朝から誰も落ちつきがなかった。食卓のボーイや酒房や部屋つきのボーイにチップをやらねばならぬ。客たちはあちらこちらに塊って幾らやるべきかという相談をしていた。誰か一人の者が巨額のチップを与えれば他の者が不愉快になる。長らく共同の生活をしたのであるから、均衡を乱しては船中の愉快さも最後の一日で消えてしまう。このことは礼儀として一応船客たちの誰も考えねばならぬ最も重要なことであった。勿論、印度洋あたりの無聊(ぶりょう)なときに、チップの金額を一定にしょうと云い出すものがあって、すでに金額は定まっていたのだが、さて支払日となると規定のことも破れてしまう。別れてしまうのも後数時間のことである。あれほど親しかったものたちも、「別れてしまえば、」と思うと、誰もうとましくなるものであった。船中は楽しかったとはいえ団体生活であるから、思えば誰にも自由がなかった。不快なことがあっても忍耐をしていなければならぬ。殊に同じ一等の船客ばかりであってみれば、日ごろ日本にいるときの地位や名誉や財産などは、何の権威にもならなかった。階級差別の何もなくなってしまっているこのような所では、ただ人の性格と年齢だけが他人に働きかけるだけである。
 船客たちが団体で港港に上陸したときの金銭の貸借も、今日は整理をするのだが、誰が誰に貸しがあり誰が誰に借りがあるかは、も早や混雑して分らなくなっている上に、僅の金を返せ返せと云って廻る面倒も若者たちはしたくなかった。それを知った沖氏は自分からその面倒な整理を申し出た。
「僕は日ごろ他人を使ってばかりいて、使われたことがないから、こんなときでも一つ使われてみましよう。」
 こう云って沖氏は人人の間を皿を持って廻り、他人の複雑な貸借をいちいち整理して歩いた。船の中では老人は威張れないが、この沖氏は諧謔と滑稽さとでやすやす若者たちを統御して最後の務めもし終えたのである。
「さア、これで良ろしと。」
 いつ船が著いてもかまわない。中にはまだ陸も見えぬのにもう早く帽子まで冠っているのもある。甲板に出てみたりサロンに引っこんだり、船中を隈なく歩いてみたり、不安そうな顔つきで話さえあまり誰もし合わない。すると、突然、矢代に、長いそれまでの船中の生活で日本語を知っている様子を一度も見せたことのないフランス人が、驚くような流暢な日本語で、
「どうです、いよいよですな。」と話かけた。船中の外人は一度び船へ這入れば誰も日本語を使わない、全く知らぬ様子(ふり)で人の話を聞いているのが例だから用心をするようとの訓戒も、初めて、なるほどと今になって矢代は気が附くのだった。
「円をフランに今しとく方が、都合が良いですか。」
「そうそう、少しばかりしときなさい。」
と、フランス人は答えた。しばらくして、
「そら、見えたぞ。」
 と云うものがあった。矢代は甲板に立つと、お菓子の石のような灰白色の島が波に噛み砕かれているのが眼についた。
 甲板に立つ船客たちはだんだん多くなって来た。誰も笑うものはない。海上に連った銀鼠色の低い岩が後へ後へと過ぎてゆく。瑠璃色の鋭い波の上には風が強い。
 久慈と矢代はまだ見ぬヨーロッパの土の匂いを嗅ぐように、サロンデッキの欄干に身をよせかけ黙ってさっきから眺めていたが、突然、久慈は、
「何んだ、これや、クリスマス・ケーキみたいな所だな。」
 と呟いた。一同どっと笑い出して、
「そうだそうだ。」
 と云う。しかし、すぐまた黙ると、これは日本で習った礼儀作法や習慣は、何一つ通用しそうもないと、そろそろ身の処置にまごまごする不安が一同の顔に現れた。息の仕方もここでは頭でしなければならぬ。群れよる鮪の大群の中へ僅かな鮒がひらひらさ迷い出るように、押し潰されそうな幻覚を感じ、岩を噛む波の色までお伽噺の中の人魚を洗う波かと見える。
「向うに見えます島は、デュウマの小説に出て来る巌窟王の幽閉された岩屋です。」と一人の船員が説明した。
「マルセーユはどこですか。」と一人が訊ねた。
「もうすぐです。この島はマルセーユの外郭です。」
「セメントでも出そうなところですね。」と矢代は云うと、
「そうです。マルセーユはセメントの産地ですから。たしかにそう見えましょうな。」
 と船員が答えた。大きな波が一うねりどっと来ればたちまち姿を没しそうな小さな島が、当時の偉人を幽閉するに恰好な島だとは、矢代も、それ一つでこの国の優雅さがすでに頭に這入って来るのだった。
 船が島を廻ると長方形のマルセーユの内港が、波も静かに明るい日光の中に見えて来た。船は速力をゆるめ徐徐に鴎の群れている港の中に這入っていった。鍵形に曲った突堤と埠頭の両側から、吊り橋のように起重機が連り下っている。その向うの各国の汽船のぎっしり身をせばめて並んでいる中に今やこれから日本へ帰ろうとする香取丸が、慓悍(ひょうかん)な黒い小さな船尾だけ覗かせ煙を吐いて泊っていた。あの科学の塊りのように見えていた汽船が、今は無科学の生物のように見えて来る。
「香取がもう立ちますよ。日本へ帰るんですよ。」
 と船員が、もうすっかり日本を忘れてしまっている皆の船客たちに歯痒ゆそうな声で報らせた。しかし、今著いたばかりの一同には、もう知りぬいて倦き倦きしている日本の船のことなど考えている暇はなかった。まったくの所、まだ見たこともないヨーロッパが足の下に実物となって横たわっているのである。早くこの怪物を一つ足でぎゅうっと踏んでみたい。しんと息を飲み込んだ鋭い無気味な静けさが船客たちの間に浸み渡った。物憂くなるほどの明るい光線を浴びて、人人はただ船足の停るのを今か今かと見守っているばかりである。
 矢代は、いつの間にやらゴールへ来てしまった自分を感じた。船はマルセーユの埠頭へ胴を横たえようとしている。静かな静かなそのひと時だった。――
 矢代は、今まで自分を動かして来た総ての力もここでぷつりと断ち切れ、全く新しい、まだ知らぬ力がこれから先の自分を動かして行くのだと思った。やがて、船から梯子が埠頭へ降ろされた。どやどやと梯子を登って来るヨーロッパの人間の声が聞える。
「では、皆さんどうも、長長お世話になりました。」
 一人の船客が別れの挨拶をした。
「ではお身体お大切に。」
「さようなら。」
 こういう会話の後で、急に、
「ああ、香取丸が出て行くよ。」
 というものがあった。矢代は見ると、小さな香取が船尾を動かし、静かに体を曲げ、何の未練気もなくさっぱりとした態度でさっさとマルセーユの陸から離れていった。
「僕も帰りたいなア。」
 と船客の一人が溜息をついた。矢代も甲板に立って香取の姿が煙を流し見るまに港の外へ消えて行くのを眺めていたが、間もなく始まる上陸である。これから上陸許可証を貰い荷物の検査もすまさねばならぬ。矢代は出て行った香取の行方を見送りつつ、「じゃ、さようなら。」と胸の中で云っているときだった。
 真紀子が良人らしい中年の紳士を連れて来て矢代に云った。
「これ宅でございますの。」
「そうですが、いろいろ船中ではお世話になりました。」
「いや私の方こそ御迷惑をおかけしまして有り難うございました。」
 肩幅のある早坂氏が微笑を含み、鄭重な挨拶の横からまた真紀子が嬉しそうに云った。
「もしウィーンの方へでもいらっしゃることがございましたら、どうぞ、是非いらして下さいましな。」
「ありがとうございます。そのうちに、一度あちらへも廻りたいと思いますから、そのときにはお願いします。」
 どことなく一抹の冷たい表情で早坂氏は礼をすると、妻の荷物の方へ去っていった。後のサロンではパリへ行く船客たちが一団となって、今夜もう一度船へ帰って泊めて貰い、明朝早く揃ってパリへ行こうという相談が一致しかけていた。このような時でも沖氏はいつもの剽軽な調子で、
「そうそう、そうしなさい。今夜はゆっくりマルセーユで遊びましよう。久慈さん、私はあなたを愛しますというのは、フランス語じゃ、どういうんですか。これさえ覚えとけば、もう大丈夫だ。」
 一同が声を揃えて笑うとすでに一団の行動はそれで定められたと同じであった。
「つれしゃるまん。というんです。」とある商務官が洒落て云った。
「つれしゃるまん。つれしゃるまん。」
 と幾度も沖氏は呟いてみていてから、
「マルセーユつれしゃるまん覚えけり、と、これや、どうです。」
 ときどき船中で試みた俳句の手腕を沖氏は早速使ってまた皆を笑わせた。
 荷物も税関もすませてから、何となく遽しいごたごたとした気持ちのまま船客たちは自動車に分乗してマルセーユの街の中へ流れ込んだ。街は税関の門を一歩出ると、早くも敷石の上に積み上っている樽の色から芸術の匂いが立ちこめて襲って来た。車が辷って行くと、立ち並ぶ街路樹が日本の神社仏閣にある巨木と同様に鬱蒼として太かった。まるで街路が公園のようで、両側の石の建物を突き跳ねそうに路いっぱいに枝を拡げた大樹の下を、惜しげもなく車は駆けていく。どこの街か分らなかったが、これが馬車だったら一層良かっただろうと矢代は思った。街路樹の大きさと年を競うように周囲の建物もまた古かった。触ればぼろぼろ崩れそうな灰色の鎧戸に新しい黄色な日覆をつけた窓窓も、文化の古さに縫いつけた新しい鰓のように感じられた。
 一行の自動車は坂を登ったり降りたりした。午後の四時ごろである。マルセーユの街は散歩の時間と見えて、どの通りも人がいっぱいに満ちていた。太陽の射している街と日蔭の街とが、屈曲するごとにぐるぐる廻って矢代の前に現れた。ある坂の四辻まで来かかったとき、「ここは去年、ユーゴスラビヤの皇帝がピストルで暗殺されたところです。丁度ここですよ。」
 と永くこの地にいる日本人の案内人が自動車を停めさせて説明した。
「軍艦を降りてから儀杖兵づきで、ここまで自動車で来られたところが、丁度ここでしたが、路がクロッスしてるものだから自動車が一寸停ったんですな。そこへつかつかと一人の乞食のようなロシア人が来ましてね、いきなり窓ガラスを拳銃の柄でぽかッと叩き壊して、続けざまに乱射したものですから、同乗していたフランスの外務大臣も一緒にやられました。」
 この案内人はこのため近来の大衝撃を受けたらしい自慢顔でそう云ったが、一行のものには何の響きもないらしい様子に失望して、馬鹿馬鹿しそうにまた自動車を走らせた。暫く行ったとき、
「ここは男の跛足の多いところだね。」
 と久慈は窓にしがみ付くようにして矢代に云った。
「大戦があったということが一目で分るもんだな。」
「そう云えば、笑ってるものが一人もいないや。」
「笑ってるどころじゃないよ。これだけ人がうようよしているくせに、話してる者もいない。何をいったいしてるんだろ。」
 巨大な街路樹の葉蔭で流れている人々の顔も青白く、疲れているように口をつぐんだまま、誰も彼も眼だけを異様に鋭く光らせているだけだった。
「これや、もうヨーロッパ人は、考えることは皆思想より無いのだね。豪いもんだ。」
 と久慈は云った。分らぬ答案ばかり陸続と出て来るうちに車は旧港の桟橋にかかって来た。すると千鶴子たちを乗せた一団の車と一緒になった。二つの車を乗せた桟橋はぷつりとその部分だけ切り放されると、海の上をそのまま対岸の方へ辷っていった。
「ノートル・ダムですよ。向うに見えるのは。」
 と案内の者が云った。
「おや、あそこに、僕らの船が見えるぞ。」
 と沖氏が云った。陸へ自動車が上ってから、しばらく坂を登ったところに数百尺の高い断崖が立っていた。その上にノートル・ダムがある。一行はエレベーターに乗り換え、ケーブルに乗り換えた。見る間に街は下へ沈んで行くと、半島が現れ、丘が見え、島が水平線の上から浮んで来た。
 山上に立つと明るい南仏の風景は一望のもとに見渡された。灰白色の陶土のように滑かな地の襞に、ところどころに塊り生えた樹の色は苔かと見える。海は藍碧を湛えてかすかに傾き微風にも動かぬ一抹の雲の軽やかさ。――
 何と明るい空だろう、と矢代は思った。廻廊のような石灰岩の広い階段を廻り登って行くうちに寺院へ著いた。中は暗く鞭のような細長い蝋燭の立ち連んだ間を通り、花に埋った一室へ足を踏み入れた。
 その途端、矢代はどきりと胸を打たれた。全身蒼白に痩せ衰えた裸体の男が口から血を吐き流したまま足もとに横たわっていた。
 外の明るさから急に踏み這入った暗さに、矢代の眼は狼狽していたとは云うものの、いきなり度胆を抜くこの仕掛けには矢代も不快にならざるをえなかった。それもよく注意して見るとその死体はキリストの彫像である。皮膚の色から形の大きさ、筋に溜った血の垂れ流れているどろりとした色まで実物そのままの感覚で、人人を驚かさねば承知をしない、この国の文化にも矢張り一度はこんな野蛮なときもあったのかと矢代は思った。しかも、この野蛮さが事物をここまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかったという人間の気持ちである。このリアリズムの心理からこの文明が生れ育って来たのにちがいない。それなら瞞されたのはこっちなんだ。――矢代はひとりキリストの血の彫像の周囲を幾度も廻ってこう思った。そうしているうちにその瞑目しているキリストの姿から、なぜこんな痩せ衰えた姿となってキリストが殺されねばならなかったかという事情が、ははアと朧ろに分ったような気持ちがするのだった。
「ここじゃ、リアリズムがキリストを殺したのだなア、つまり。」と矢代は、一つヨーロッパの秘密の端っぽを覗いてやったぞという思いで建物から外へ出た。千鶴子と久慈は早くも外の観台に立って、風に吹かれながら明るい光線の降りそそぐ遠方の半島を眺めていた。すると、それもまた幾度も日本で見たセザンヌの絵の風景そのものの実物であった。あの絵の具という色で追求に追求を重ねた実物の半島――それ以来絵画を観念化せしめたその実物がそこにあった。
 数十日の波と船と蛮地ばかりの熱帯とを通って来た矢代の足はこのときから少しずつ硬直し始めた。彼は太股を撫でながら日本人が文化が分るのどうのと云ったところで、それは全くわれわれ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始めて来るのだった。


 夕食のころになって矢代たちの一行は街へ降りレストランへ這入った。前には道路をへだて、夕日に輝いた海が淡紅色の水面をひたひたと道路の傍まで湛えていた。海へ下って来ているあたりの街には海草の匂いが立ち流れ、家の中の人人の顔まで照り返った夕日に染り、花明りによろめく蝶のような眩しさだった。店の客たちは海の方を向いたまま、牡蠣の貝にナイフをあて静かに舌をつけて楽しんだ。
「さアさア、フランスのパンが初めて食べられるぞ。」
 と沖氏は揉み手をして笑った。この元気の良い老人もようやく疲れが出て来たらしく、椅子に背をぐったりよせかけて食事の支度の出来るまで動かなかった。
「いや、それより何より、先ずマルセーユの葡萄酒を飲もう。おい、葡萄酒。葡萄酒。」
「うい。」
 軽くあっさりした女の返事があって、赤と白とが並べられた。今は一同、互に恙なくここまで来られた健康を祝すために無言のうちにコップを上げた。一瞬、かつて船中では見られなかった厳粛な表情が皆の面にさっと走った。
「ぼうとるさんて。」
 と一人が云うと、皆それぞれに葡萄酒を飲んだ。沖氏は傍の給仕の女に、前に習った汝を愛するという即製のフランス語で、
「つれしゃるまん、つれしゃるまん。」
 と云いつつコップを上げた。
「めるしい。」
 女はにこりとして忙しそうにパンや皿や、フォークを卓の上に並べ始めた。
 初めてフランス語の通じた喜ばしさに、沖氏は、
「どうだ皆さん、僕が一番槍だろう。」
 と大見栄切ってわアわア一同を笑わせた。間もなく、オードオブルに混って茄だった小海老が笊に盛られて現れた。海に向った方のテーブルの上では、水から出されたばかりの牡蠣の貝や海胆(うに)の毬が積まれていった。レモンが溶け流れた薄紅色の海気のなかを匂って来る。あたりの薄明のうつろいのうちに港には灯が這入った。鴎のゆるく飛び交う水面を拡がる水脈のような甘美な愁いがいっぱいに流れわたった。
「あたしもここで降りてしまいたい。」
 と千鶴子はミルクを紅茶に入れながら云った。矢代は千鶴子の声を聞くと、そうだ、千鶴子もここにいたのだと初めて気がついた。船の金具がきらきら水上から光って来る。夕栄の映った水明の上を帆船が爽かな白さで辷ってゆく。
「千鶴子さんは、わたしと一緒にロンドンまで行きましょう。若い人たちをここで降ろして、老人とよたよた行くのも、これも良ろしよ。」
 マルセーユへ降りてからは、若者たちが千鶴子のことなど忘れてしまったのを早くも沖氏は見てとって云ったのだった。
 しかし、一行のものの忘れたのは千鶴子だけではない、船中でのごたごたや人事のもつれなど今は吹き散ってしまい、大きな窓いっぱいに灯を拡げて来たこの異国の海港への望みに、もう足など地から放れて飛び流れている一行の有様だった。

 食事がすんだころにはマルセーユの港は全く夜になっていた。一行は婦人の千鶴子を除いてこれから特異な街の情調を味いに行くのであった。これは船の中から一番つれづれの慰安となっていたものだけに、一同の期待は大きかった。
 しかし、夜になって波止場の船へ一人千鶴子を帰すということは危険なことであり、殊にマルセーユの埠頭の恐ろしさは誰も前から聞き知った有名なことである。そこで案内人が先ず千鶴子を船へ送って行くことにして一行は外へ出た。
 街の煌めく灯を映した海面は豊かに脹れ上って建物の裾を濡らしている。紅霧を流したような光りが大路小路にいろどり迷って満ちている。すると、丁度昼間案内されたユーゴスラビヤの皇帝が暗殺された坂の下まで来かかったとき、急に矢代の片足が硬直したまま動かなくなった。長く船旅をしたものに来る病気である。矢代は船中でこの病気の話を聞かされていたからいよいよ来たなと思ったが、足を動かそうにも痛さに痙攣(けいれん)がともなった。初めは矢代も足を揉み揉み歩いていたが、そのうちにもう一歩も歩くことが出来なくなった。そのまま辛抱していたのでは一行の快楽を妨げること夥しかった。そこで矢代は皆に理由を話して、一人先きに船まで帰ることにした。
「じゃ千鶴子さんも一緒で丁度いいでしょう。お大事に帰って下さい。」
 と沖氏が云った。千鶴子も帰る道連れが出来たので案内人を煩わさず、すぐ矢代と自動車を拾って波止場へ命じた。
「お痛みになりまして?」
 しばらく無言のままだった千鶴子は訊ねた。
「いや、じっとしてるとなんでもないですよ。そのくせ、少し動かすといけないんです。船の振動で神経がやられていますから、筋肉がきかなくなったんでしょう。」
 明るい街から暗い港区へ這入ると埠頭はすぐだったが、車は門から中へは這入れなかったから、船まで矢代は歩かねばならなかった。
 鉄の門をくぐったとき、千鶴子はそろそろ足を引き摺って来る矢代の腕を吊るようにして、
「あたしの肩へお掴まりなさいよ。大丈夫?」
 人一人もいない暗い倉庫の間で千鶴子にこんな親切を受けようとは矢代も思いがけない喜びだった。
「ありがとう、ありがとう、大丈夫です。」
 と云いながらも彼は強く匂う千鶴子に腕をとられた。まったく偶然にしてもこんなに傍近く千鶴子といることは一度も船中ではなかったから、早く船が見えなければ気の毒だと割石の凸凹した倉庫の間を、身を引く思いで矢代は跛足を引くのだった。船の灯が前方から明るく射して来ても、千鶴子は臆せず矢代を助けていった。
「僕だけが沈没したみたいで、これや残念だな。」
 一行の無事な中で自分ひとり落伍した淋しさを云うつもりであったのに、しかし、このときの千鶴子には、あながち矢代の云った意味ばかりには響かなかった。たしかに今ごろは胸をときめかせるような歓楽の街に皆がいるのに、一人古い船の巣へ戻る佗しさに耐え難くて発した嘆きと思われたに違いない。
「でも、今夜はお休みになる方が良うござんしてよ。お顔の色もいけないわ。」
 と千鶴子は慰めた。矢代はやはりそうかと思ったが、黙って千鶴子の滑かな黄鼬の外套に支えられ潮に汚れた船の梯子を昇っていった。

 客のすっかり出きってしまった空虚の船の中は洞穴のようにがらんとしていた。たった一日だったがマルセーユの光りにあたって来た矢代には、明治時代の古い大時計の中へごそごそ這入る感じで、ここが昨日まで自分のいた船だったのかと物珍らしさが早や先き立つのが意外だった。矢代と千鶴子は自分の船室へそれぞれ這入った。矢代は寝台に横になって見馴れた天井を眺めていたが、人一人もいない淋しさにすぐまたサロンに出て来た。しかし、ここも灯があかあかと点いてはいるものの木魂がしそうに森閑としていた。矢代は足の痛さも忘れ、窓から見えるマルセーユの街の灯を眺めている間に、間もなく不思議に足の硬直が癒って来た。日本の空気の漂っているのは広い陸地に今はただこの船内だけだったから、もとの水槽へ流れ戻った魚のように急に神経が揉みほぐされたものであろう。いずれにしてもこんなに早く癒っては、船客の一人もいない船を狙って千鶴子を誘惑して来たのと同じ結果になって、矢代も今は手持無沙汰をさえ感じて来るのだった。しばらくすると、眠れそうにもないと見えて千鶴子もサロンへ上って来て矢代の傍へ来た。
「いかが?」
「ありがとう。ここへ戻ると不思議に足が癒って来たんですよ。これじゃ、ヨーロッパで病気になったら、日本船へ入院するに限ると思いますね。」
「でも、結構でしたわ。あたしが送っていただいたようなものですもの。」
「どうも、さきほどは御迷惑をかけました。」と矢代は千鶴子に受けた看護の礼をのべ、
「しかし、こんな所であなたに御厄介かけようとは思いませんでしたね。今度パリへいらしったら、僕が御案内役いっさい引き受けますから、いらっしゃるときはぜひ報らせて下さい。」
「どうぞ。」と千鶴子は美しい歯を見せて軽く笑った。
 いつもの日本にいるときの矢代なら、婦人にこのような軽口はきけない性質であったが、今日一日ヨーロッパの風に吹き廻された矢代は興奮のまま浮言を云うように軽くなり、見馴れた日本の婦人も何となく婦人のようには見えなくなって来たのであった。
「あたし、なるだけ早くパリへ行きますわ。日本へは今年の秋の終りごろまでに帰ればいいんですの。」
「なるだけ早くいらっしゃいよ。もっとも、あまり早いとあなたに案内させるようなものだけれど。」
「でも、ロンドンへもいらっしゃるんじゃありません。」
「行きます。」
「そしたら、またお逢い出来ますわね。」
「ええ、そのときはどうぞ宜敷く。」
 と矢代はこう云って、紅茶を命じるベルを押した。窓から風が流れて来て軽く二人の顔の前を抜けて通るのも、肉親といる窓べの気易い風のように柔かだった。二人はどちらも黙っていた。硬直はとれたものの疲れがそれだけ身体全体に加わったように、矢代はぐったりとして背を動かすにも骨が折れた。
「まア、静かですこと。」
 はるばるとよくここまで来たものだと云うように千鶴子は吐息をふっと洩らし、印度洋の暑さにいつの間にか延びていた卓上の桃の芽を見て云った。
「明日はあたし、ジブラルタルよ。あなた、スペイン御覧になりたくありません。」
「あそこは一つ、ぜひ見たいもんですね。」
「じゃ、いらっしゃらない。」
「そうね。」と矢代は云って窓を見ながら考えた。
 人の降りてしまった空虚(から)の船で、千鶴子とジブラルタルを廻る旅の楽しさを思わぬでもなかったが、しかしそれより今千鶴子と別れ彼女がパリへ来る日を待っている方が、それまでに変っているにちがいない千鶴子と出会う一刻に、はるかに楽しみも深かろうと思われるのだった。
「やはり、僕はパリに行きますよ。その方があなたの変って来られるところが見られますからね。楽しみですよ。」
「お人が悪いわ。」
 千鶴子はそういうと、どういうものかふと笑みを泛べ甲板の方へ立ちかけようとしてまた坐ると、
「でも、それはあたしだってそうよ。あなたがたのお変りになってらっしゃるお顔、拝見したいわ。じゃ、またこの次ぎね。」
「男は変りませんよ。ただうろうろするだけだと思うが、女の方はすぐその土地のままになれますからね、僕らが変るよりももっと影響が大きいでしょう。」
「あなたがたうろうろなすってらっしゃるの、さぞ面白いことでしょうね。あたしの兄が云ってましたけど、二三ヵ月はいやでいやでたまらないんですって。」
「僕は今日でもう少しやられましたよ。僕なんか考えていたのと、やはりヨーロッパは少し違うな。これはこちらの方が日本より文化が高いからだというんじゃありませんよ。つまり頭の呼吸の仕方が違うんですね。僕なんかどちらかと云うと、来るまではヨーロッパ式の呼吸の仕方だったんですが、しかし、心はやはり、日本人の呼吸だったということが、少しばかり分りかけて来ましたね。」
 千鶴子は黙って伏眼になった。矢代はいつの間にか日本にいるときより、婦人と話す自分の会話の内容まで、知らず識らずに質も違って来るのを感じた。これでもしこの話をヨーロッパ人にこのまま話しても通じるものではなく、そうかと云って、まだヨーロッパを見ない日本人に話しても、同様に話の内容は通じないであろうと残念だった。
「千鶴子さんは、日本人がどんなに見えましたか。今日は?」
 千鶴子は云い難そうに一寸考える風であったが、唇にかすかに皮肉な影を泛べると、
「西洋人が綺麗に見えて困りましたわ。」と低く答えた。
「男が?」
「ええ。」
「ははははは。」と矢代は思わず笑った。
「僕もそうですよ。こちらの婦人が美しく見えて困りましたね。」
 とこう云いかけたが、ふとそれは黙ったまま、一日動き廻って見知らぬ面と向き合った今日の怪事の表現も、今こんなに悲しむべき姿をこの洞穴の中でとるより法はないのだと矢代は思い淋しくなった。
 日本人としては千鶴子は先ず誰が見ても一流の美しい婦人と云うべきであった。けれども、それが一度ヨーロッパへ現れると取り包む周囲の景色のために、うつりの悪い儚ない色として、あるか無きかのごとく憐れに淋しく見えたのを思うにつけ、自分の姿もそれより以上に蕭条と曇って憐れに見えたのにちがいあるまい。
「夫婦でヨーロッパへ来ると、主人が自分の細君が嫌いになり、細君が良人を嫌になるとよく云いますが、僕なんか結婚してなくって良かったと思いますね。」
 千鶴子は笑いながらもだんだん頭を低く垂れ黙ってしまった。互に感じた胸中の真相に触れた手頼りなさに二人はますます重苦しくなり、矢代は今は千鶴子以外に船中に誰か人でもいて欲しいと思った。ああ、これが旅であったのか。この二人が日本人であったのか。こう思うと、突然矢代は千鶴子を抱きかかえ何事か慰め合わねばいられぬ、いらいらとした激しい感情の燃え上って来るのを感じた。
 矢代はつと立ち上るとサロンの中央まで歩いて行った。しかし、何をしようとして立ち上って来たのか彼には分らなかった。水底へ足の届いた人間があらん限りの力で底を蹴って浮き上りたいように、矢代は張り詰めた青い顔のまま暫らくそこに立っていた。もう日本がいとおしくていとおしくて溜らない気持ちだった。
 すると、彼の眼にマルセーユの街の灯が映った。日本からはるばるこの地へ来た自分の先輩たちは、皆ここで今の自分と同様な感情を抱かせられて来たのにちがいない。それは何とも云いかねる憤激であったが、しかし、間もなく、これもおのれの身のためだと思いあきらめ、身につけるべきものは出来る限り着つづけ、捨てるべき古着は惜しげなくこれを限りにふり捨てようと決心すると、漸く平静を取り戻して甲板へ出ていった。彼は欄干に身をよせかけながら怒りの消えていく静かな疲れで暗い埠頭の敷石を見降ろしていたとき、背広に着替えた船長がプープ甲板から一人ごそごそ降りて来た。
「おや、お早くお帰りですね。」と船長は矢代に云った。
「ええ、足が硬直して動かなくなったもんですから、残念しました。」
「それや、惜しい。僕はこれから一つ、見物に行くところですよ。いつも見てるところで別に面白くもないんだけど、お客さんに頼まれたもんですからね、じゃ。」
 船長は会釈して甲板を降り埠頭の方へ消えていった。いつも来馴れたものはヨーロッパも早や何の刺戟にもならず、あのように悠然と出来るものかと矢代は思いながら、身についた船長の紳士姿を羨しく眺めて放さなかった。
「どなた。」
 しばらくして、千鶴子は矢代の後ろへ来ると訊ねた。
「船長ですよ。これから見物に行くんだそうです。あの船長はなかなか自信があっていいですね。外国人は、こちらがちやほやするほど、嬉しそうにして見せて、肚では相手を軽蔑するというけれども、日本人がヨーロッパ、ヨーロッパと何んでも騒ぎ立てるのは、これや、貧乏臭い馬鹿面を見せる練習をしてるようなものかもしれないな。どうも、僕は今日はそう感じた。」
「それや、そうだとあたしも思いましたわ。今日街を歩いていたとき、あたしの前を西洋人の親子が一緒に歩いていたんですのよ。そしたら、お父さんの方が子供にね、お前も少しぴんと胸を張って歩け、こうしてっと云って、自分が反り返って歩いてみせるんですの。そしたら、十六七の子供の方も猫背をやめてぴんと反って歩くんですの。」
「ははア、じゃ、やっぱりヨーロッパの人間は、それだけはしょっちゅう考えているんですね。羞しがったり照れたりしちゃ、もうお終いのところなんだ。」
 矢代は日本人のいろいろな美徳について考えた。洋服を着ても謙遜する風姿を見せない限りは出世の望みのなくなる教育法が、次第に洋服姿の猫背を多く造っていく日本の社会について。――
 しかし、矢代はこのとき、どうして自分がこれほども日本のことを考えつづけるようになったのか、全くそれが不思議であった。何も今さら考えついたことではないにも拘らず、一つ一つ浮き上って来る考えが新たに息を吹き返して胸をゆり動かして来るのだった。マルセーユが見え出したときから、絶えず考えているのは、日本のことばかりと云っても良かった。まるでそれはヨーロッパが近づくに随って、反対に日本が頭の中へ全力を上げて攻めよせて来たかのようであったが、こんなことがこれからもずっと続いてやまないものなら。――
 ああ、今のうちに、身の安全な今のうちに日本の婦人と結婚してしまいたいと矢代は呻くように思った。
 矢代が黙りつづけている間千鶴子も同じような恰好で欄干に胸をつけたまま黙っていた。それが暫くつづくと何かひと言いえば、今にも自分の胸中を打ちあけてしまいそうな言葉が、するりと流れ出るかと思われる危険さを矢代はだんだん感じて来るのだった。
 何も千鶴子を愛しているのではない。日本がいとおしくてならぬだけなのである。――
 このような感情は、結婚から遠くかけ放れた不純なものだとは矢代にもよく分った。けれども、これから行くさきざきの異国で、女人という無数の敵を前にしては、結婚の相手とすべき日本の婦人は今はただ千鶴子一人より矢代にはなかった。全くこれは他人にとっては笑い事にちがいなかったが、血液の純潔を願う矢代にしては、異国の婦人に貞操を奪われる痛ましさに比べて、まだしも千鶴子を選ぶ自分の正当さを認めたかった。
「あのね、あたしの知り合いのお医者さんで、ここの波止場で夜遅く船へ一人で帰って来たら、倉庫の所から出て来た男が、ピストルを突きつけて、お金を出せって云ったことがあるんですって。きっとあのあたりでしょうね。」
 と千鶴子は真下に延びている黒い倉庫の方を指差した。千鶴子の考えていたことは、そんなことであったのかと矢代はがっかりとしたが、しかし、今にも危い言葉の出ようかとじっと自分の胸を見詰めていた矢代にとっては、これは何よりの救いだった。
「じゃ、僕があなたにお世話されて来たあのへんですね。どうしましたその人?」
「お金を少しやって、大きな金は船にあるから船へ来いと云ったら、梯子もついて昇って来たとか云ってましたわ。ここじゃ、撃たれればそれまでですものね。」
 矢代は笑いにまぎらせながらも、軽いこのような話に聞き入る自分をまだ結婚の資格はないものと考えた。
「しかし、ここにいると奇妙なことも起るでしょうが、たしかにまともに理解出来そうもないことばかり、ふいふいと考えるようになりますね。僕もさっきから、どうも奇怪なことばかり頭に浮んで来て困りましたよ。これでパリへ行ったらどんなに自分がなるのか、想像がつかなくなって来ましたね。」
「あたしもそうなの。」
 千鶴子は矢代の顔を見ながら、片頬の靨に快心の微笑を泛べて頷いた。
「これじゃ僕は外国の生活や景色を見に来たのじゃなくって、結局のところ、自分を見に来たのと同じだと思いましたよ。それや、景色も見ようし、博物館も見るでしょうが、何より変っていく自分を見るのが面白くて来たようなものですよ。今日一日で僕はずいぶん変ってしまいましたね。皆今夜帰って来て、どんな顔をして来るか、これや、見ものですよ。元気のいいのはあの老人の沖さんだけだ。僕は足まで動かなくなってしまったし。ははははは。」
 と矢代は笑うと千鶴子から遠ざかって甲板の上を歩いた。
 いや、良かった。危いところを擦り抜けた。もしあのとき、うっかり口を辷らせてでもいたら――とそう思うと軽い戦慄を感じて来るのだった。


 朝靄のかかった埠頭ではやがて船の荷積も終ろうとしていた。パリへ出発する一団のものは、眠そうな顔でそれぞれ船室からサロンへ集って来た。
「さア揃いましたか、それじゃ、行きましょう。」
 と案内人が簡単に云った。
 船客と友人になってしまった船員たちは、甲板や梯子の中段に鳥のように集りたかって別れの言葉を云ったが、どの人人も真心のこもった表情で欄干の傍からいつまでも姿を消そうとしなかった。海の人の心の美しさを今さらのように感じた船客たちも、悲しそうに幾度も幾度も振り返って、さようならさようならを繰り返しつつ関門の前に待っている自動車の傍までゆっくりと歩いた。
 千鶴子と沖氏は船客と一緒に自動車の傍までついて来た。
「さようなら、御機嫌良う。」
「またパリでお逢いしましょう。」
 三台の自動車がいっぱいになったとき、矢代は千鶴子を一寸見た。千鶴子は別れればまた逢う日の方が楽しみだという風に、にこにこしながら皆に挨拶をしていた。
 自動車はそのまま無造作に駅へ向って走っていった。マルセーユの駅は美しい篠懸(すずかけ)の樹の並んだ小高い街の上にあった。車から降りたときは、一同の顔は朝靄の冷たさと出発の緊張とで青味を帯んで小さく見えた。さて、これからいよいよヨーロッパの国際列車に乗り込むところであるから、スタートに並ばせられた選手みたいに、それぞれ切符を渡されても誰も黙って眼を光らせたまま案内人の後からついていくだけだった。
 ホームの上は煙に曇った高いガラスがドームのように円形に張っていて、褐色をした列車が生温い空気の籠ったその下に、幾列となく並んでいた。矢代が久慈と一つのコンパートメントに席をとると、若い者はどやどやとその一室に集った。
「もうこれでいいんでしょう。」
 と初めて一人が言葉を云った。まだ何かしなければならぬことが、沢山残っているような気のしているときとて、
「ええ、もうこれで、ただ乗ってらっしゃれば、パリまで行きます。」
 と案内人は笑って答えた。
「じゃ、昨夕のことをそろそろ話し合おうじゃないか。」
 と一人が云うと、皆は漸く安心した気楽さに返って、見て来たマルセーユの夜街の面白さを話し始めた。しかし、それらの話は誰も面白かった。それだけどこか面白くなかったという表現をするのであった。
「あなたはどうだった。」
 と久慈は矢代に笑って訊ねた。千鶴子と二人ぎりでいた船内のことをひやかしたのだとは一同すぐ感じたらしく、皆矢代の方を向いた途端に汽車はパリへ向って出発した。
「僕もなかなか面白かったな。」
 と矢代は久慈の先手を打ったつもりであったが、駅を出た野の美しさに、もう人人は耳を傾けようともしなかった。昨日ノートル・ダムの上から見た半島が現れ、丘が見え、海が開けて来るに随って、だんだんマルセーユは遠ざかっていった。
 杏の花の咲き乱れている野、若芽の萌え出した柔かな田園、牧場、川と入れ代り立ち変り過ぎ去る沿線の、どこにもここにも白い杏の花が咲き溢れて来て、やがてローヌ河が汽車と共にうねり流れ、円転自在に体を翻しつつもどこまでも汽車から放れようとしなかった。
 矢代はしだいに旅の楽しさを感じて来た。たしかにフランスの田園は日本のそれとは全く違った柔かな、撫でたいような美しさだと感歎した。一木一草にさえも配慮が籠っているかと見える築庭のような野であった。
 その野の中をローヌの流れが広くなり狭くなるにつれ、芝生の連りのような柔軟な牧場ばかりがつづいて来た。一本の雑草もないようなゆるやかなカーブの他は山一つも見えなかった。
「フランスの田園の美しさは、世界一だと威張っているが、なるほど、これじゃ威張られたって、仕様がないなア。」
 と三島が云った。
「こんなに綺麗だと、見る気もしないや。これじゃ、パリはどんなに美しいのかね。」
 と商務官が云う。
「さきから見てるんだけれど、鉄道の両側に広告が一つもないな。バタの広告がたった一つあるきりだ。村も日本の十分の一もないが、これで都会文化が発達したのだね。」
「フランスは自国民の食うだけのものは、自国内にあるんだから、植民地の蔵から軍備費だけは、充分出ようさ。」
 こう云う医者に商務官はまた云った。
「しかし、われわれがヨーロッパ、ヨーロッパと騒いで来たのは、騒いだ理由はたしかにあったね。いったい自分の国を善くしたいと思うのは人情の常として、誰にでもあるものだが、騒ぎすぎると、次ぎには要らざる人情まで出て来るのがそれが恐いよ。」
「それやね、国というものを考え出すと、われわれ医者も生理的に苦労をするよ。しかし、まア、君のように、人情を出しちゃ、病人が死んでしまう。」
 と医者が商務官を見て云った。
「しかし、医者だって仁術という人情があろうからなア。藪医者ならともかくも、非人情じゃ病人こそ災難だ。あなたがドイツへ行かれて勉強して来て、薬の分量をそのまま日本人に使うのですか、危いもんだねそれや。」
「いや、医者はね、死にたくて溜らぬ人間でも、生かさなくちゃならんのだよ。」
 皆この医者の云い方にどっと笑った。
 しかし、一度びこのような話が出ると、意見のあるものもはッと危い一線に辷って来た自分の頭に気がついて黙るのであった。
 何かの職業に従事している教養のある者たちは、自身の教養を示す必要のある機会毎に忘れず言葉を出すものだが、一旦話が自分の職業の危い部分に触れて来ると誰も話中から立って行く。それとはまた別に面白いのは、自分に知性のあることをひそかに誇っていたものたちの顔だった。これらのものは、昨夜で自分の思っていた知性も実は借り物の他人の習慣をほんの少し貸して貰っていただけだと分り始めた顔で、見合す視線も嘲笑のためにひどく楽天的な危い狂いがあった。
 話がぷつりと途絶えたころ、久慈は茶が飲みたくなりボーイを呼ぶために呼鈴を押そうとしたが、ボタンはどこにも見つからなかった。それだあれだと一同の騒いでいるとき、久慈は急に立ち上って、頭の上にぶら下っている鐙形(あぶみがた)の引手を引いてみた。
 すると、間もなく今まで走っていた列車は急に進行を停めてしまった。何ぜ停車したのか分らぬままに一同は窓から外をうろうろしながら覗いていると、車掌が部屋へ這入って来た。久慈は車掌の云うことを聞いていたが、見る間に顔色が変って来た。彼は吃り吃り片手をあげ、
「いやいや、呼鈴がないのでこれを引いてみただけだ。どうも失敬失敬。」
 とフランス語で平謝りに謝罪した。一同ようやく汽車を停めたのは久慈だと分ったらしく、今に一大事が持ち上るぞと云う風に愕然として車掌の顔を眺めて黙っていたが、ここではこんなことは日常のことと見え、久慈の弁明を聞いていた車掌も意外にあっさりとそのまま廊下へ出ていった。
「あなたも豪いもんだな、国際列車を停めたんだから、もうこれで日本へ帰ったって威張れたもんだよ。」
 と医者が云った。皆の青くなっているうちに、また汽車は無造作に走り出した。
 ローヌ河が細い流れとなり、牧場が森となってつづいて行って、だんだん夕暮が迫って来たそのとき、突然、
「あッ、これや、もうパリだ。」
 と誰かが時間表と時計を見比べて驚いた。
「こんなパリがあるものか。田舎じゃないか。」
「いやたしかにそうだ。」
 しぼしぼ村に雨が降って来る。皆の者は饒舌りすぎて、時間を見るのも忘れていたので時計をそれぞれ取り出すと、たしかに誰の時計も時間はパリ著のころあいだった。それじゃもう荷物をそろそろ降ろしておこうと云うので棚から一つずつ降ろし出し、まだ半分も降ろさぬ間に汽車が停車場に停ってしまった。
「ほんとにこれがパリかなア。」
 と一人が汚い淋しい駅をきょろきょろ眺め廻して云った。
「リヨンと書いてあるにはあるな。」
 とまだ半信半疑の態である。とにかく、一同はコンパートメントからプラットの方へ降りていくと、どの車からもどやどや外人が降りて来た。皆の疑いも無くなったというものの、実感の迫らぬ夢を見ているような表情がありあり一同の顔に流れていた。マルセーユを発つとき、案内人から一行の一先ず落ちつく宿へ電報を打って貰っておいたので、誰か迎いの者が見えるであろうと荷物の傍に皆は並んで立っていたが、さて誰が宿の者だか分らなかった。
 間もなく汽車から降りた外人たちは、それぞれプラットから消えてしまい汽車のどの室も空虚になったが、しかし、一行だけは塊ったままいつまでもしょんぼりとして動かなかった。
「どうするんかね。こんなことしていて。」と久慈は云った。
「迎いに来るというから、待っているんだよ。」と医者が答えた。
「しかし、迎いに来るかどうか、返事が来てないんだから、分らないじゃないか。日本じゃないよ。ここはパリだよ。」
 とまた他の一人が云った。
 なるほどここは日本じゃないと、はッと眼が醒めたようにまた一同の顔色が変ったが、しかし、宿の在所がどこだかそれが誰にも分らなかった。そうかと云って、このままいつまでもプラットに突っ立っているわけにもいかなかった。そこで、赤帽に荷物だけ持たせて先ず待合室の方へ出ていった。しかし、待合室でもまた一同は誰がどこから来るのか分らぬままに、雲を掴むような気持でぼんやり待つのであった。気附かぬ間に夜になっているばかりでない。耳が聾者のようにびいんと鳴って聞えなくなっているうえに空腹が迫って来た。
「いったい、その宿屋は外国人の宿屋かね。日本人の宿屋かね。」と久慈が訊ねた。
「日本人のぼたんやという宿屋が満員だったから、外国人の宿屋にしたとか云っていたようだ。」と機械技師が云った。
「じゃ、明日まで待ったって来るものか、第一来たってお客さんが僕らかどうだか、分りゃしないじゃないか。」
 と矢代は云った。それもそうだと云うので、それではもうこちらから自動車の運転手に話をして、一度満員の日本宿へ行ってみてから、それから外人の宿屋へ廻ろうという相談がようやく決ると、初めて自動車を呼びつけた。
 一行は暗い汚い街街をごとごと自動車に揺られていった。パリだというのにどこまで行っても一行の前にはパリらしいものは現れて来なかった。そのうちに隅田川を小さくしたような河を渡ったとき、
「この河、何というの。」と久慈は運転手に訊ねてみた。
「セーヌ。」
 と一言運転手は答えただけだった。
 じゃ、これがパリの真中だと一同は二の句も出ない有様だった。


 まだ日数も立っていないのに、パリへ著いたその夜のことを思うと、矢代はすでに遠いむかしの日のことのように思われた。夕暮の六時に駅へ著き、それからホテル・マス・ネへ著いたのは夜の十一時近かった。今なら僅か三十分で来られる所を自動車で廻いまいして四五時間もかかっていたのである。矢代は一人モンパルナスの今のホテルをとってからは、それぞれ各国へ散ってしまった船中の友だちからの便りもなく、ただパリに残った久慈と会うだけだった。著いたときは夜のためよく見えなく薄暗がりのままパリを予想に脱れた田舎だと思ったのも、夜があけて次の日になって見ると、ここは大都会と云うだけではなく、全く聞いたことも見たこともない古古とした数百年も前の仏閣のようなものだった。新しい野菜と水ばかりのような日本から来た矢代は、当座の間はからからに乾いたこの黒い石の街に、馴染むことが出来なかった。蛙は濡れた皮膚から体内の瓦斯を発散させて呼吸の調節を計るように、湿気の強い地帯に住んで来た日本人の矢代の皮膚も、パリの乾ききった空気にあうと、毛孔の塞がった思いで感覚が日に日に衰え風邪をひきつづけた。眼の醒めるばかりの彫刻や絵や建物を見て歩いても、人の騒ぐほどの美しさに見えず憂鬱に沈み込んだ。眼の前に出された美味な御馳走に咽喉が鳴っても、一口二口食べるともう吐き気をもよおして来てコーヒーと水ばかりを飲んだ。少し街を歩くと堪らなく水が見たくなってセーヌ河の岸の方へ自然に足が動いていくのだった。
「どうも俺の感覚はこりゃ蛙に似てるぞ。」
 と矢代は思って苦笑した。歩く度びに靴の踵から頭へびいんと響く痛さにいつも泣き顔を漂わせ、椅子にかけると何より矢代は靴を脱いだ。
「東京の友人たち、今ごろは定めし笑っとるだろうな。」
 とこう思うと、ヨーロッパ主義に邁進している誰も彼もの友人の顔が腹立たしくさえなって来た。
 彼は久慈ともよく会ったが、初めは話すことが何もなく黙っていた。ときどき久慈が、
「いいね、パリは。」
 とうっとりした顔で云うことがあったが、それにも矢代はそのままに頷きかねいらいらとした。
「東京とパリのこの深い断層が眼に見えぬのか。この断層を伝ってそのまま一度でも下へ降りて見ろ。向うの岸へいつ出られるか一度でも考えたか。」
 とこう肚の中で矢代は云う。しかし、見渡したところ、足場の一つもないこの大断層にどうして人人が橋をかけるかと思うと、他人ごとではなく自分の問題となって響き返って来るのである。それもやむなくいつの間にかそこを飛び越して、先ずパリに自分がいるのを知り、鼻の頭の乾いた犬のような自分の状態を見るにつけ、先ず考えることより何より今は運動だと気がついて、矢代は終日あてどもなく街街を歩き廻るのだった。ここは全く矢代には乾燥した無人の高い山岳地帯を登るのと同じだった。それもふとこの山は人がみな造ったのだと思ったその瞬間、がらがらッと念いは頂上から真逆さまに下まで転がり落ちた。一日に一度はこうしてどこかへ落ちつづけているうちに、だんだん転がり落ちているのは自分だけじゃないと思い始めて来るのだった。見渡したところ、どの外人の旅行者たちも辷り転がっているものばかりか、多くのものは尻もちついたまま動けぬものばかりに見えて来た。
「ほう、これは面白いぞ。」
 こんなに思い始めたころは、矢代も転がり辷っている自分の方がまだ高きに登っているようで次第に元気も増して来た。
 矢代の部屋は四階にある光線のあまり射し込まない十畳ばかりの部屋で、電話もあり隣りにバスもあった。久慈はよくここへ来たが、彼はあまり元気を失わぬので、著いた夜からもうホテルにいなかった。彼を思うと元気を無くさぬ何か理由を見つけたのにちがいないと矢代は思った。
「君、あの著いた夜はどこへ行ったんだ。僕らは随分探したんだよ。」
 とあるとき久慈に訊ねたとき、
「友人に電話をかけたらすぐやって来てね、モンパルナスへつれて来られたんだよ。何んでもこの近くだったな。語学教師を世話してくれと頼んでおいたもんだから、すぐ紹介してくれたのさ。」
 と久慈は事もなげに答えて笑ったことがあった。若い女の語学教師のアンリエットが久慈の所へ出入するのを矢代の見るようになったのは、それから間もなくのことだった。すべて矢代とは違って暢気で快活な久慈のことであったから、アンリエットに好意を持たれている久慈をひと眼で矢代は見抜くことが出来た。
「君はいつも元気がいいが、君の元気のいいのは油断がならぬぞ。今にがたがたッと来るから用心したまえ。僕はもう屋台骨が潰れてしまったからな。立ち上るのはこれからだ。」
 と矢代はある日腕を撫で撫で久慈にからかった。
「馬鹿いえ。がらがらッと来たのは僕の方が早いや。」
 二人は思わず笑い出したというものの、矢代は、これでいきなり外人の婦人に飛びついて、久慈のように電柱の蛙といった恰好で下からパリを見上げているものと、何んの飛びつく足場もなく喘ぎ悩みつつふらふらしている自分とでは、見るもの聞くものの感じの差の開きはよほど多いにちがいないと思った。それにしても、またとない東洋と西洋とのこの大きな違いを知る機会に、ただひと飛びにそこを飛び越してうろつく暇もないとは、久慈も勿体ない罪を犯したものだと、今さら恨めしく憤おろしく矢代は感じるのだった。
 冬はまだ全く去りかねたが、そのうち食事もようやく進むようになったある日、矢代と久慈とアンリエットと三人で、オートイユ競馬場にいったことがあった。この日は空もよく晴れていて、栗の林に囲まれた広い馬場の芝生の中で走る馬の姿は、それまで麻痺していた矢代の感覚を擦り落してくれた最初の生き物の美しさだった。日本でも見馴れた洋種の馬とここの馬の共通した栗毛の光った美しさは、捩子(ねじ)の利かない瓦斯にぼッと火の点くように、あたりの景色の美しさまで急に頭に手繰りよって来るのだった。競馬の終りの夕刻のころになって、急に春寒の野に霙が降って来たが、最後の障害物を飛び越した馬は騎手を振り落し、すんなりとした裸体で芽の噴きかかった栗の林の中を疾走してゆくその優美さ――矢代は霙に降り込められつつも立ち去ることが出来なかったその日の夕暮の感動を今も忘れない。
 この日あたりから、矢代はパリの静かな動かぬ美しさが少しずつ頭に沁み入って来たといって良い。彼は一人セーヌ河の一銭蒸気に乗って河を下って見た。またバンセンヌの森へも行き、サンジェルマンの城にも出かけた。モンモランシイやフォンテンブロウの森などとパリの郊外遠くまで出かけてもいった。一度パリからこのように外へ出かけ、そうしてパリへ戻って来る度びに、この古い仏閣のような街の隅隅から今までかすかに光りをあげていたものが次第に光度を増して来るのだった。
 こうして、矢代は今までぐらぐらと煮え返っていたような頭の中の動きが、街の形に応じて静まるのもまた感じた。さまざまな疑問は疑問として彼は解決を急ごうとはしなくなって来た。急いだところで分らぬものは分らぬのだった。彼の信じることの出来るものは、先ず今は自分の中の日本人よりないと思ったからである。しかし、もしこんなことを、うっかりと日本人に向って云えば、ここにいる日本人たちはどんなに怒るかとその嘲笑のさままでが眼に見えたが、眼に見えようとどうしようと、日本と外国の違いの甚だしさははっきりとこの眼で見たのだ。誰から何を云われようとも自分のことは失わぬぞと矢代は肚を決めてかかるのだった。
 こんな日のある午後、矢代は久慈と歩いているとき、千鶴子がいよいよロンドンから来ると告げられたのである。久慈と矢代は今までとて船中の客の話をどちらからもよくしかけて懐しがったが、千鶴子の話だけはどういうものかあまり触れ合わないように心掛けるのだった。沖や医者や真紀子などから来る便りは明らさまに話す久慈だのに、千鶴子のことだけ話さぬ久慈の気持ちを矢代は想像すると、アンリエットとの間にもうこれで何事か進行しているものがあるのではなかろうかと思ったりした。
「千鶴子さんが来たら、宿をどこにしたものだろう。」
 ロンドンから千鶴子がいよいよ来るというときに、こういう心配を久慈が矢代にもらすのも、勿論そこにアンリエットの影のあるのを矢代は感じた。彼はいつもに似合わず沈み込んでいる久慈を見て云ってみた。
「君が千鶴子さんの世話をするのが困るなら、僕がしたってかまわないよ。」
「そうか、迷惑じゃなかったら君に頼みたいね。僕は千鶴子さんと別にどうと云ったわけじゃないんだが、船の中であんなに親切にしておいて、今になってがらりと手を変えるようじゃ、あんまり失礼だからね。」
 久慈は急に気軽くなった調子で矢代を見た。
「君がいいんなら、僕が世話するよ。」
「それで安心だ。僕はね、千鶴子さんが嫌いじゃないんだが、今は日本人は君だけで結構なんだ。この上日本人と交際しちゃ、また言葉が日本語に舞い戻ってしまうからな。」
 矢代は久慈がパリへ著いて以来、性急に外人らしくなることに専念している様子を見るのは、今に始まったことではなかったが、何となくその心の持ち方が田舎者らしく感じられ、その度びに矢代は久慈に突っかかっていきたくなる自分だと思った。
「君、夕飯にアンリエットを呼んでも良いだろう。今夜は僕が御馳走するからね。」
 久慈の云うままに二人はサン・ミシェルまで来ると、左のノートル・ダムを背にしてパンテオンの方へ上っていった。


 サン・ミシェルの坂を左に曲った所にイタリア軒という料理屋がある。前から久慈はここの伊太利料理を好んでいたのでこの夜の晩餐もここにした。久慈が途中でアンリエットに電話を通じておいたから、矢代とアッペリティフを飲んでいる間にアンリエットは薄茶のスーツに狐の毛皮を巻いて這入って来た。久慈は彼女に椅子をすすめながら、
「今夜二人で踊りに行こうという約束があるんでね、君、御飯を食べたら、遠慮してくれ給え。」
 と矢代に云ってメニューを見た。
「矢代君、君は何にする。またプウレオウリか。アンリエットさん、あなたはよろしく頼みますよ。」
 羊の肉の薄焼に雛の肩肉と、フロマージュ付きのスパゲッティ、それにサラダを註文して三人は葡萄酒を飲んだ。ここの料理屋にはポール・フォールという詩人がよく来ているので、料理通には有名だったが、久慈も矢代もまだ一度もその詩人を見たことがなかった。
「君、僕も会話を勉強したいんだが、暇があったらアンリエットさんに、ときどき僕の方へも廻って貰ってくれないかね。」
 矢代は久慈とアンリエットとを眺めながら冗談らしく云ってみた。
「いや、それや、駄目だ。この人は今は僕の秘書見たいだからね。いろんなことを験べて貰ってるので、急がしいんだよ。」
「しかし、月謝を払って僕が生徒になりたいと頼むの、何が悪いんだ。」
「それや君のは日本の理窟だよ。ここじゃ、日本の理窟は通らないんだからね、郷に入れば郷に従えってこと、君、知ってるだろう。」
「それや、日本の理窟じゃないか。」と矢代は云って笑った。
「ところが、これだけは万国共通の論理だよ。郷に入れば郷に従うのは当然さ。」
「そんなら、日本へ来ている外人はどうなんだ。日本人だけが郷に入って郷に従わねばならんのなら、何も万国共通の論理の権威はなくなるじゃないか。」
 こういうことになれば、例え笑話といえども矢代と久慈との論争はいつも果しがなかった。
「今日は君、もう勘弁してくれ。今夜はパリの礼儀に従おうじゃないか。」
 久慈はアンリエットのコップに葡萄酒をついで云った。アンリエットはさきからにこにこしながら、美しい前歯で前菜の赤い小蕪を噛んでいたが、饂飩のようなスパゲッティが湯気を立てて出て来ると巧にフォークへ巻きつけた。
「じゃ今夜は僕がおごろう。」
 と矢代は云った。ここにいると、どういうものか理窟に落ちることばかりの生活がつづき、避け難くなる場合が多いので、理窟を吹きかけた方からその日の晩餐の支払いをするという約束が前から二人の間にあったので、久慈も口へ入れかけたスパゲッティをそのまま、しめたとばかりにはたと卓を打った。
「そうだ。忘れていた。今夜こそは君だよ、これで百フラン儲かった。」
 久慈は早速アンリエットにフランス語で、今夜の御馳走は矢代が払うから幾ら食べても良いと説明した。
 ありがとうとアンリエットは日本語で礼を云うと葡萄酒を矢代に上げて笑った。矢代はアンリエットから聞くのはいつもフランス語ばかりで日本語をほんの少しより耳にしなかったが、彼女の父がマッサアジュリーム船舶会社の横浜支店にいたときに三年も習ったということであったから、恐らく平易な日本語なら何事も分るのであろうと思った。
 薄明るい夕暮が窓の外へ迫って来た。アンリエットの折るセロリの匂いが白い卓の上に漂っている中で、矢代は若鶏の脇腹にたまった露を今は何物にも換え難い味だと思った。
「フランソア一世だか八世だか、世の中にこれほど美味いものがあろうかと云って、どんなにお附きの者がとめても台所へ走って行って、こ奴にかぶりついたということだが、全くこれだけはやめられないね。」
 と矢代は云いながらナイフを鶏の脇腹へぐっと刺した。
「しまった。僕もそ奴を食べるんだった。僕が払うんだと思って倹約したので損をしたぞ。」
 久慈はコールドビーフのような羊のなよなよした薄焼を切りながら、しきりに矢代の鶏に秋波を投げた。互に見せびらかしつつ食べる晩餐の敵意は、食物の味を一層なごやかなものにするのであった。
「横浜のへいちんろまだあって。」
 とアンリエットは訊ねた。
「ありますあります。」
「あそこのスフタ、忘れられないわ。ね、久慈。」
 とアンリエットは久慈の方を向くと、彼にだけはフランス語で、自分は支那料理が好きだが、パリではどこのが一番美味かと訊ねた。
 菓物棚からオレンジが出て来ると、また、アンリエットはパリの料理屋の質を知るためには、菓物棚に並んだ菓物を見るのが何よりだと矢代に教えた。オレンジからコーヒーに変ると久慈は口を拭き拭き延びをして、
「さアて、明日は千鶴子さんが来るんだが、弱ったなア。船の中と陸の上とは道徳が全く違うってことを、どうしたら女の人に説明出来るか、むつかしいぜ、これや。」
「そんなことは、君より向うの方が心得てるよ。こっちが変ってれば千鶴子さんだって変っているさ。」
「じゃ、その方は宜敷く君に任せるとしてだね。妙なことに、アンリエットさんのことを僕の手紙に書いたんだが、それにも拘らず、君に手紙をよこさずに僕にくれるというのは、第一これ君にはなはだ失礼じゃないか。」
「何も失礼なことあるもんか。それだけ君を使いたいんだから、僕を尊敬してるんだ。」
 足をとられたように久慈はしばらく矢代を睨んでいたが、急ににやにやすると、
「いったい、君はそれほど威張れることを、無断でしたのか。」
「僕は婦人に対してだけは、むかしから春風駘蕩派(しゅんぷうたいとうは)だからな。何をしたか君なんか知るものか。」
 いくらか葡萄酒の廻りもあってつい矢代も鼻息が荒くなった。
「さア、今夜は君らから放れてやらないぞ。どこまでもついて行ってやろう。ギャルソン。」
 ボーイが来ると矢代は勘定を云いつけた。
 支払いをすませて外へ出たときはもう全く夜になっていた。三人はゆるい坂をルクサンブールの方へ登っていった。たゆたう光の群れよる街角に洋傘のような日覆が赤と黄色の縞新しく、春の夜のそぞろな人の足をひいていた。
 カフェー・スフレのテラスは満員であったが、ようやく三人は椅子を見つけて腰を降ろした。
「あたし、横浜へ行ってみたいわ。」
 とアンリエットはショコラの出たときに矢代に云った。
 並んだ黄色な籐椅子にいっぱいに詰っている外人たちを久慈は煙草を吹かしながら眺めていたが、突然矢代の方を向き返ると真面目な顔で質問した。
「君、君はパリへ来て一番何に困ったかね。」
 矢代はしばらく黙って考えていてから答えた。
「そうだね、誰一人も日本の真似をしてくれぬということだよ。」
「ははははは。」
 久慈は思わず噴き出した。しかし、急に笑いとまると彼もだんだん沈鬱になっていった。ショコラの軽い舌触りも不用意な久慈の質問で味なく終ろうとしかかったときである。久慈は歎息をもらすと、
「あーあ、どうして僕はパリへ生れて来なかったんだろう。」
 と肘ついた掌の上へ頬をぐったりと落して呟いた。
 瞬間、矢代は胸底から揺れ動いて来る怒りを感じて青くなった。けれどもそのまま身動きもせず、街路樹の立ち並んだ黒黒とした幹をじっと眺めていた。
「僕はヨーロッパが日本を見習うようにしたら、どんなに幸福になるかとそればかりこのごろ思うね。どうもそうだ。」
「ふん。」
 久慈は鼻を鳴らしてボーイを呼んだ。勘定をすませてから三人はルクサンブールの外郭を黙って鉄柵に添って左の方へ廻っていった。意地に意地を張り合う二人の言葉だとどちらにも分っていながらも、しかし、この久慈という聡明で高級な日本人に、どうしてこのような馬鹿な心がひそんでいるのかこれが矢代にとって何より残念でたまらぬ日本だった。
「知識というものはたしかに人間を馬鹿にするところもあるんだね。へとへとにさせて阿呆以上だ。僕のパリへ来た土産はそれだけだ。こんな所へ来て嬉しがってる人間は、まア、嬉しがるような、お芽出度いところがあるんだな。」
 と矢代は一度は突き衝らねば承知の出来ない胸突くものが、体内でごとごと鳴るのを感じて云った。
「それじゃ、早く帰ればいいじゃないか。」
 久慈は嘲けるように笑った。
「帰ろうと帰るまいと、僕の勝手だよ。僕は人間というものが、どこまで馬鹿になるものか、も少し見てやろうと思ってるんだ。」
「何を君は怒ってるんだ。君は日本にもう一度、丁髷(ちょんまげ)と裃(かみしも)を著せたくてしょうがないんだよ。」
「そんなことは君の知ったことじゃないよ。君はパリの丁髷と裃とを著てれば、文句はないじゃないか。」
「日本の丁髷よりや、パリの丁髷の方がまだいいや。今ごろ二本さして歩けるかというのだ。」
「二本さして悪けれや裸体になれ、日本人がまる見えだぞ。」
「ははははは。」
 久慈は放れていたアンリエットの腕を小脇にかかえてヒステリックに笑うと、矢代に、
「君、もうここで別れよう。面白くなくなった。僕は今夜は一つ楽しみたいんだからね。」
「こうなって楽しめる奴は、楽しめよ。」
「じゃ、失敬、君のような阿呆にかかっちゃ、日本人も出世の見込みがなくなるだけだよ。」
「そんなに出世をしたいのか。」
 と矢代は云うと、放れて行こうとする久慈の方を見詰めて立っていた。すると、突然、アンリエツトが矢代の傍へよって来た。
 久慈は矢代の傍へ行こうとするアンリエットの腕を引きとめて、
「行こう行こう。」と引っぱった。
 しかし、アンリエットは矢代に近づいて、
「あなたもいらっしゃいよ。」
 と云いつつ矢代の腕をかかえると、右手に久慈の腕もかかえ、ルクサンブールの角を右に曲った。
「ドームへ行きましよう。まだ踊りには早いわ。」
「どうして君と僕とは、こんなに喧嘩ばかりするのかね。」
 と久慈は苦笑をもらして矢代に云った。
「そんなことはパリに聞け。俺に感心した奴は、もう死んでる奴だといってるじゃないか。見ればいい。ここを。」
 片側の鋪道に青い瓦斯灯が立っていて、人一人も通らぬその横には蘚の生えたような石の建物がみな窓を閉め道に添って曲っている。矢代はマロニエの太い幹と高い鉄柵との間を歩きながら、森閑とした夜のこの通りの美しさに今はもう云い争う元気もなくなった。
「矢代さんはどこにいらっしゃるの。」
 まだ一度も婦人と腕を組んで歩いたことのない矢代は、アンリエットから力を込めて腕を組まれても片身が吊り上っているように感じられ、ともすれば足が乱れようとしかかった。
「ラスパイユ、三〇三です。」
「三〇三。」
 同じ番地に一つより家のないパリでは、番地を云えばすぐ建物が浮んで来るらしく、アンリエットも、「ああ、あそこ。」と頷いて、
「じゃ、明日行ってよ。夕方の六時に行くわ。」と慰める風に云った。
「どうぞ。」
 と矢代は云ったものの久慈の顔色も少しは考えねばならなかった。
「君、いいのかい?」
「まア、いいや、僕はここでならどんな目に逢おうと満足だ。ここのこの美しさを見ろウ。」
 渋い鉱石の中に生えているかと見える幹と幹との間に瓦斯灯の光りが淡く流れ、こつこつ三人の靴音が響き返って聞えて来る。矢代はふとショパンのプレリュウドはここそのままの光景だと思った。しかも、その中を、腕を組まれて歩いている自分であった。
「日本にこれだけ美しい通りの出来るまでには、まだ二百年はかかるよ。僕らはここを見て日本の二百年を生きたんだよ。たしかにそうだよ。今さら何も、云うことないじゃないか。」
 涙を浮べて云うような久慈の切なげな言葉を聞いては矢代もも早や意見は出なかった。アンリエットの薔薇の匂いが夜の匂いのようにゆらめくのを感じながら、これが二百年後の日本にも匂う匂いであろうかと、心は黄泉(よみ)に漂うごとくうつらとするのだった。


 矢代と久慈がブールジエ飛行場まで来たときは、ロンドンから千鶴子の来る時間に間もなかった。晴れ渡った芝生の広場に建っているホールの待合室で、パリを中心に光線のように放射している無数の航空路の地図を眺め二人は立っていた。ときどき夕暮から夜へかけて、突然、日本へ帰りたい郷愁に襲われるこのごろの矢代は、一途にここからシンガポールまで飛びたいと思った。
「ロンドンへもそのうち、一度行こうじゃないか。ね、君。」
 と久慈は久慈で何かの夢想にかられているらしい。
「ロンドンも良いが、それよりそろそろ僕は日本へ帰りたくなったね。」
「君も困り出したのか。外国へ来て、初め困らぬ奴は、必ずそ奴は悪者だというから、も少し君も辛抱するさ。」
「そんなら君は悪者の傾向があるぞ。」
「いや、僕だって困っているが、ただ僕のは困らぬ方法を講じているだけだよ。もうこうなれば楽しむより法はないからね。」
 どんなに意識が確かだと思っていても、どこかに矢張り病的なところの生じてしまっているのは否めないこのごろの二人だったが、どこが病的になっているのかそれぞれ二人には分らなかった。ただ一方が下へ下れば、他の方がそれが下っただけ上へ上げねば心の均衡のとれぬもどかしさにいらいらとするのだった。しかもそんな状態がいつも二人につづくのである。今もまたそんなにふとなりかかったとき、西の空からもうプロペラの鳴る音が聞えて来た。久慈は窓から空を眺めてみた。
「あれだよ。空から下って来るのも良いものだな。天降りというやつだ。」
 銀灰色の一台の単葉がエア・フランスのマークを尾につけつつ見る間に大きく空中に現れた。
「イギリスの飛行機に乗って来ないところを見ると、よほどパリへ来たかったのだね。降りるぞ。」
 矢代は入口の方へ廻って斜めの構えで旋廻して来る機体を眺め、もう真上からこちらを見ているにちがいない千鶴子を想像するのだった。やがて、飛行機が草の上を辷りつつホールの正面へ来て停ると、胴の中から昆虫のようにぞろぞろ人人が降りて来た。千鶴子はまだ廻りやまぬプロペラの風に吹かれながら六七番目に現れた。
「いるいる。」
 と久慈は云って喜んだ。ぴたりと身についた黒い毛の外套も船中の千鶴子とは違って立派であった。歩調も異境に馴れたと見え、誇りを失わぬ自信をもって歩いて来る。彼女はまだ二人のいるのには気附かぬようであったが、何んと女は早く変るものだろうと矢代は思った。
「変ったようだね。千鶴子さん。」
「うむ。」
 千鶴子一人が外人の中に混っているために、出て来た一団の空気にある光彩を与えているようなこの光景を見ていると、矢代は何んとなく見ぬ間に美しく育った名馬を見ているような明るい興奮を感じた。
 千鶴子は二人を見ると、にっこりと笑い懐しそうに近よって来た。久慈はすぐ千鶴子に握手をして、
「揺れなかったですか。」と訊ねた。
「いいえ、でもまだ耳が何んか少しへんなの。」
 久慈に握手した手を千鶴子は矢代にも出そうとしかけたが、ふと手をひっこめ、
「よく来て下さいましたのね。矢代さんにもお報せしようと思ったんですけど、よしましたの。」
 何んの意味であろうか、軽く千鶴子の笑ううちにもう後ろで荷物の検査が始った。
 とにかく、これで先ず良かった、と矢代は思い、検査台で荷物を開けている千鶴子の後姿を見ながらほッと安堵の胸を撫でおろした。マルセーユへ著いたときには、あれほど儚なく色褪せて見えた千鶴子であったのに今はこんなに美しく見えるとは、こちらもこれで、日日夜夜異国の婦人を見馴れたからであるからか。粗い肌の造りの大きいヨーロッパの婦人に比べて、千鶴子は一見底深い光沢を湛えた瑪瑙のようにきりりと緊って見えるのであった。
 しかし、それにしても何んという奇妙なことだろう。マルセーユであんなに憐れに物悲しく千鶴子の見えた最中に、今にも千鶴子と結婚しようと覚悟を決めたこともあったのに、それが一度び水を換えられた魚のように美しさを取り戻した千鶴子に接すると、も早やマルセーユの切ない心は矢代から消えて来るのだった。
 これで良い。これで千鶴子を一人ヨーロッパへ抛り放しても、もう自分の心配はなくなったとそんなことまで矢代は思った。千鶴子と久慈と矢代は、飛行館のバスには乗らず別にタクシを呼んでパリまで走らせた。
「ホテルは取ってありますよ。あまり僕らと離れたところは不便かと思って、近くにしました。」
 と久慈は千鶴子に云った。千鶴子の思いがけない美しさに、久慈も前夜のことなど忘れたのであろうと矢代は思ったが、しかし、それとて船中で千鶴子に示した親切さを思うと、自然と矢代も身を引くあきらめを感じて落ちついて来るのであった。自動車の中でも千鶴子と久慈とはしきりに話をしたが、矢代は絶えず日本風の淋しい顔のまま黙っていた。パリがだんだん近よって来ると、千鶴子は窓から外を覗きながら、
「もうここパリなの。何んて優雅なところでしょう。あたし、これじゃもうロンドンへ帰れないわ。」
 浮き浮きして云う千鶴子を久慈は抱きかかえるようにして、
「こちらにいなさいよ。女の人はパリじゃなくちゃ駄目ですよ。フロウレンスへ行くって、いつ行くんです。行くなら僕も一緒に行こうかな。」
「半月ほどしたら行きたいと思うんだけど、でも、あなたは駄目じゃないの。アンリエットさんとかいらっしやるって、お手紙に書いてあったじゃありませんか、」
 千鶴子のくすぐるように云う微笑を久慈は臆せずにやにやして、
「手紙に書くほどだから、分ってるでしょう。ね、君?」
 と突然鋭く冠せかかって矢代を見た。
「うむ。」
 と矢代はもううるさそうに答え、自分が千鶴子に久慈のような手廻しの巧みなことが出来ないなら、せめて外人から千鶴子を護るだけでも久慈の思案に従いたいと思うのだった。
「アンリエットはあれは矢代君を好きなんですよ。昨夕も僕はひどく弱らされてね。君、知らないだろう。何んにも。」
 と久慈は笑いながらまた矢代の方を覗いて訊ねた。
「そう。」
 千鶴子もちらりと微笑をもらして矢代を見たが、そのまま黙って自動車に揺られていった。
 矢代は、アンリエットが昨夜自分に好意をよせた表現を特に一度もしたとは思わなかったが、強いて千鶴子に弁解する要もまたこのときの彼にはなかった。
「千鶴子さんがパリへ来て下すったので、僕もほっとしましたよ。もう毎日毎日久慈君と僕は喧嘩ばかりしてるんです。」
「まア、どうして?」と千鶴子は意外な様子で笑顔を消して訊ねた。
「それを云うと、忽ちここでも喧嘩になるから云いませんがね。ここにいると、どういうものだか、一度云い出したら後へは退けなくなるんですよ。どうも妙なところだ。僕は云い合いなんか日本じゃしたことはないんだが。」
「そうだ、たしかにそうだ。」
 と久慈も云った。
「じゃ、困ったところへあたし来たのね。どんなことで喧嘩なさるのかしら。これからもそんなじゃ、あたし困るわ。」
「それが一口じゃ云えないんですよ。なかなか、こ奴――つまりね。」
 と矢代は少し早口で云った。
「ここじゃ僕らの頭は、ヨーロッパというものと日本というものと、二本の材料で編んだ縄みたいになっていて、そのどちらかの一端へ頭を乗せなければ、前方へ進んでは行けないんですね。両方へ同時に乗せて進むと一歩も進めないどころか、結局、何物も得られなくなるのですよ。」
「それや、そうね、あたしも何んだかそんな気がしますわ。」
 と千鶴子は幾らか思いあたる風に頷くのだった。
「しかし、それは、実は日本にいる僕らのような青年なら、誰だって今の僕らと同じなんだろうけれども、日本にいると、黙っていても周囲の習慣や人情が、自然に毎日向うで解決していてくれるから、特にそんな不用な二本の縄など考えなくともまアすむんだなア。へんなものだ。」
「いや、それや君、考えなくてすむものか、それが近代人の認識じゃないか。」
 と久慈はまた横から遮った。
「それは一寸待ってくれ。それはまア君の云う通りとしてもさ、しかし、日本でなら人間の生活の一番重要な根柢の民族の問題を考えなくたってすませるよ。何ぜかと云うとだね、僕らはその上に乗ってるばかりじゃなく、自分の中には民族以外に何もないんだからな。自分の中にあるものが民族ばかりなら、これに関する人間の認識は成り立つ筈がないじゃないか。認識そのものがつまり民族そのものみたいなものだからだ。」
「そんな馬鹿なことがあるものか、認識と民族とはまた別だよ。」
 と久慈はもう千鶴子を迎えに自分らの来たことなど忘れてしまったようだった。
「しかし、君の誇っているヨーロッパ的な考えだって、それは日本人の考えるヨーロッパ的なものだよ。君がパリを熱愛することだってまア久慈という日本人が愛しているのだ。誰もまだ人間で、ヨーロッパ人になってみたり日本人になってみたり、同時にしたものなんか世界に誰一人もいやしないよ。みなそれぞれ自分の中の民族が見てるだけさ。」
「しかし、そんな事を云い出したら、万国通念の論理という奴がなくなるじゃないか。」
「なくなるんじゃない。造ろうというんだよ。君のは有ると思わせられてるものを守ろうとしているだけだ。」
「それや、詭弁だ。」と久慈は奮然として云った。少し乱暴なことを云い過ぎたと矢代は後悔したが、もう致し方もなくにやにやして答えるのだった。
「何が詭弁だ。万国共通の論理という風な、立派なものがあるなら、僕だって自分をひとつ、そ奴で縛ってみたいよ。しかし君、僕だって君だって、それとは別にこっそり物いいたい個人の心も持っているよ。それは自由じゃないか。」
 殊さら千鶴子が傍で聞いているからの議論ではもうなくなり、二人の青年の捻じ合うような頭の激しいもつれのまま、いつの間にか三人を乗せた自動車はパリの市中へ突き進んでいた。それでも久慈の興奮は静まらなかった。彼は矢代の膝を叩きながら、
「君の云うことはいつでも科学というものを無視している云い方だよ。君のように科学主義を無視すれば、どんな暴論だって平気に云えるよ。もしパリに科学を重んじる精神がなかったら、これほどパリは立派になっていなかったし、これほど自由の観念も発達していなかったよ。」
 議論の末に科学という言葉の出るほど面白味の欠けることはないと矢代は思い、久慈もいよいよ最後の飛道具を持ち出して来たなと思うと、自然に微笑が唇から洩れるのであった。
「科学か。科学というのは、誰も何も分らんということだよ。これが分れば、戦争など起るものか。」
「そんなら僕らは何に信頼出来るというのだ。僕たちの信頼出来る唯一の科学まで否定して、君はそれで人間をどうしょうと云うのだ。」
 傍に千鶴子がいるので今日の争いは手控えようと矢代は思っていたのだが、しかし、久慈は矢代に食いつかんばかりに詰めよった。矢代はそれを引き脱した。
「君はヨーロッパまで出かけて来て、そんな簡単なことより云えないのかね。科学などということは、日本にいたって考えつけることじゃないか。」
 久慈はさッと顔色が変ると顔の筋肉まで均衡がなくなった。
「君はそれほど知識を失ってしまって得意になれるというのは、それやもう、病気だ。病気でなければ、そんな馬鹿な、誰でも判断出来る認識にまで反対する筈がないじゃないか。」
「僕は君の云うことを、間違っていると云うんじゃないよ。そんな、誰にでも分っていることなど、何も君からまで聞きたくないと云うだけだよ。分りきったことを、間違いなく云えたって人間この上どうともなるものか。」
「そんなら、君みたいに間違いを云えと云うのか。」
「僕の云うことは、君のような、科学をまじないの道具に使うものには、間違いに見えるだけだと云うのだよ。僕は君より、もっと科学主義者だと思えばこそ、君のように安っぽく科学科学といいたくないだけだ。君は科学というものは、近代の神様だということを知らんのだよ。それが分れば人間は死んでしまう。」
「ふん、そんな、科学主義あるかね。」
 外っ方を向くと、そのまま何も云わなくなった久慈の顎から耳へかけて筋肉が絶えずびくびくと動いていた。
「随分お変りになったのね。毎日パリでそんなことばかり云い合いしてらしたの。」
 と千鶴子はおかしそうににこにこして矢代に訊ねた。
「まア、そうです。ここじゃ、こんな喧嘩は楽しみみたいなものですから、気にしないで下さい。いつでもです。」
「じゃ、これからあたし、毎日そんなことばかり伺わなくちゃならないのかしら。いやだわね。」
 と千鶴子は眉をひそめ窓の外の市中を眺めた。
「あなたがいらっしゃれば、云わないような工夫をしますよ。」
「いや云うとも。」
 と久慈はまだ腹立たしさの消えぬ口吻で何事か云いたげだった。


 千鶴子には日のよくあたる部屋をと思って、矢代はルクサンブールの公園の端にあるホテルを選んでおいたが、それが千鶴子にはひどく気に入った。
 千鶴子の部屋は壁一面に薔薇の模様のある六階の一室だった。窓を開けると、公園から続いて来ているマロニエの並木が、若葉の海のように眼下いっぱいに拡って見えた。その向うにパンテオンの塔と気象台の塔とが霞んでいる。
「この木の並木は藤村が毎日楽しんで来たという有名なあの並木ですよ。あれからもう二十年もたっていますから、そのときから見れば、随分この木は大きくなっている筈ですよ。」
 と矢代は説明して、
「このすぐ横にリラというカフェーがありますよ。ここへも藤村が毎日行ったということですから、ひょっとすると、このホテルは藤村のいたホテルかもしれませんよ。」
「じゃ、リラへ行ってみたいわ。」
 と千鶴子は嬉しそうに窓から右の方を覗いてみて云った。荷物の整理と云っても何もないので、三人はすぐホテルを出ると夕食までルクサンブールを散歩しようということになった。
「でも、あたし、さきにリラへ行きたいわ。」

「もうリラなんか昔語りでつまらんですよ。あそこは老人ばかりで、集ってるものが皆ぶつぶつ云ってるだけだ。」
 久慈はそう云うとひとりマロニエの並木の下へさっさと這入っていった。枝を刈り込んだ並木の姿は下から仰ぐと、若葉を連ねた長い廻廊のように見えた。その中央に、跳り上る逞しい八頭の馬を御した女神の彫像が噴水の中に立っていて、なだらかな美しい肩の上に夥しい鳩の糞が垂れていた。
「君、もう帰らないといけないじゃないか。アンリエットが六時に行くと云ったぞ。」
 と久慈は矢代に云って時計を出した。
「あ、そうだ。しかし、あれは僕をからかったんだよ、来るものか。」
 矢代は忘れていたアンリエットとの時間を思い出したが、もう暫くは千鶴子と一緒にいたいと思った。
「いや、それや駄目だ。フランス人は時間を間違うことは絶対にないよ。もしそのときこちらが一分でも間違ったら、もう交渉はぴたりと停ったことになるんだからね。日本とそこは心理的に違うんだよ。」
 この日に限って強いて、アンリエットを押しつけるようにしたがる久慈だったが、それも自分をからかうには手ごろな面白さなのだろうと矢代は思った。
「しかし、パリの女と二人きりになるのは不便だね。何も云うことないじゃないか。君は初め何んと云ったんだ?」
「日本のことでも話せばいいさ。君の得意なところを一席やれよ。」
 矢代は夕食の時間と場所とを打ち合せて二人と別れ自分のホテルへ戻っていった。

 アンリエットが矢代のところへ来たのは約束の六時であった。彼女は部屋へ這入って来るとすぐ握手をして、
「今日はブールジェへいらしったの。」とフランス語で訊ねた。
「行きました。」
 と矢代が日本語で答えると、いや今日からは日本語じゃいけない、この時間は勉強ですものとアンリエットは云って、矢代のフランス語の答えを待った。冗談のつもりで語学教師として彼女を廻して貰いたいとうっかり久慈に頼んだのに、それに早くも手元へ辷り込んで来たアンリエットであった。
「ブールジェへ行きましたよ。千鶴子さんは久慈とルクサンブールを歩いています。」
 と矢代は幾らかからかい気味になり、ぼつぼつした下手いフランス語で答えた。
「そう。あなたはわたしを待って下すったのね。有り難う。」
 アンリエットは見たところ目立った美人とは云えなかったが、ふとかすめ去る瞬間の笑顔に忘れ難ない美しさが揃った歯を中心にして現れた。
「久慈君はあなたに逢えば、日本のことを話せと云うんですが、日本のことをあなたはそんなに知りたいですか。」
「ええ、それや知りたいわ。あたし、日本の男の方それや好きなの。あたし、住むならパリか東京よ。」
「じゃ、あなたはパリ人の中でも日本人らしい人なんですね。」
「それはどうかしら、自分のことは分らないから。」
 このような会話を矢代は詰り詰り云いつつ婦人を機械と見ねばならぬ冷たさから、一種の明るいヨーロッパ式な気軽さも感じて話が楽になって来た。
「僕はどういうものか、パリへ来てから日本のことが気にかかるんですよ。あなたは日本のこと書いてある新聞を見たら、これから皆買って来てくれませんか。僕は三倍の値で買いますから。」
「駄目よ、日本語で云っちゃ。もう一度。」
 とアンリエットは笑いながら矢代の口を手で制した。
 矢代は会話が面倒になって来ると、純粋な発音を習うためにアンリエットに本の音読を頼んでみた。すると、一つの本を二人で見なければならぬ必要から、アンリエットは椅子を動かし頬も触れんばかりに近づけた。矢代は何んの計画もなく音読を頼んだのに、それがこんなにま近くよりかかられると、これは失敗したと後悔した。アンリエットにしては、語学を習う日本人なら、何れこの姿勢が面白くて習うのだと思い込んでいるらしい様子がまた矢代に落ちつきを与えなかった。
 矢代はサシャ・ギトリの戯曲の会話をアンリエットに随って、自分も読みすすんだ。やや鼻音を帯びたうるんだ肉声で流れるように読むアンリエットは、渦巻く髪をときどき後ろへ投げ上げた。どちらも片手で受けている頁の上へ曲げよせている窮屈な肩がその度びに放れたが、またいつの間にか両方から傾きよった。矢代は外国へ来た日本人の多くの者が、みなこのような勉強法をして来たのだとふと思った。沢山な金銭を費っての勉強であってみれば、楽しみながらの勉強も自然なことと思われたが、しかしたとえ毎日これから今のような険悪な姿勢がつづくのを思うと、ひとつ日本の礼儀の伝統だけは持ち堪えていたいものだと身を崩さず緊きしめてかかるのであった。この音読の練習は切迫した肩の支持のために、時間も意外に早くすぎていった。アンリエットは本をばたりと閉じると、
「今日はこれだけにしときましょう。」
 と云って椅子から立ち上った。矢代はアンリエットをあくまで教師として扱いたかったから、
「ありがとう。それから研究費は一時間幾らです。」とすぐ訊ねた。
「久慈さんのは二十法(フラン)ですが、あなたのは十法にしときますわ。」
 向うから出かけて来て一時間十法なら日本金にして二円五十銭であるから、破格に安い値であった。
「それはありがとう。」
 と矢代は礼を云ったものの、久慈の値より負けられたとあっては自然に食事の費用で補いたくなるのだった。アンリエットは若芽色の皮の手袋をはめ、
「あたしの発音法はこれでまだ完全じゃないのよ。パリの人の発音はたいていはまだ駄目。やはり、一度ギャストンバッチの女優学校へでも這入って、正規の発音を習わなきゃ、信用出来ないわ。」
 このパリの高い文化でさえがそうなのかと矢代は驚いた。
「そういうものですかね。しかし、日本にも日本語の完全な発音なんかどこにもないですよ。東京の者だって、つまりは東京の方言を使っているんですからね。」
 アンリエットは先に暗い螺線形(らせんけい)の階段を降りて行った。後から矢代は降りるのだが、自然に眼につくアンリエットの首の白さも人知れず眺める気持ちは、不意打ちを喰わせるように感じられ彼は幾度も眼を転じた。しかし、螺線形の狭い階段は降りても降りても変化がなかった。絶えず眼につくものは階上からつづいて来たアンリエットのなだらかな首ばかりでありた。しかも、巻き降りている階段は長いので撃たれたように前に下っている首筋は、見る度びに眼のない生ま生ましい顔のように見え、矢代はだんだん呼吸の困難を感じて来るのだった。
「ドームで、久慈と千鶴子さんが待ってる筈ですから、あなたもどうです。」
 千鶴子が傍にいればアンリエットは遠慮をするかもしれぬと思い、矢代はそんなに云ったのであるが、むしろ彼女は悦ばしげに、
「あたしが行ってもいいんですか。」
 と訊き返した。
「どうぞ。」
 二人は二列に並んだ篠懸の樹の下を真直ぐに歩いた。地下鉄の口からむっとする瓦斯が酸の匂いを放って顔を撫でた。矢代はこの気流に打たれると、いつも吐き気をもよおして横を向き急いでその前を横切るのである。
「あの地下鉄の入口の所の飾りね。あれは大戦前のものなんだけど、みなあのころはあんな幽霊のようなものばかり流行したのよ。人の頭もそうだったんですって。」
 そんなに云われるままに、矢代は見るとなるほど入口は蕨のような形の曲った柱が二本ぬっと立っているきりである。
「あんな幽霊のようなものが流行るようじゃ、戦争も起る筈だな。」
「そう。あのころは幽霊の流行よ。有名なことだわ。」とアンリエットは云った。
 しかし、今はどうであろうかと矢代は思った。街には日本の玩具が氾濫していた。カフェーや料理屋の器物はほとんどどこでも日本製のものばかりだった。一番物価の安い日本から一番高い物価のパリへ来た矢代は、街を歩いているだけで世界の二つのある極を見ているようなものだと思った。
 ドームへ来ると、人の詰ったテラスの一隅に、日本人が三四人塊って話をしていた。皆は矢代を見ると、どこか痛さに触れるようにさっと横を向いたが、その中に東京で講演を聞いたことのある東野という前に作家をしていて、今はある和紙会社の重役をしている中年の男だけ一人、矢代の方を見詰めたまま黙って煙草を吹かしているのと視線が会った。その作家は矢代より少し早く神戸を発ったのを新聞で見たことがあったから、矢代も行けば逢うこともあろうと思っていたので、これを機会に話してみようと思い東野の傍の椅子を選んだ。
「失礼ですが、僕は一年ほど前にあなたが講演なすったのを、東京で聞いたことがあるんですよ。私はこう云うものです。」
 と矢代は云って名刺を出した。
「そうですが。僕は先日来たばかりで何もまだこちらは知らないんですよ。」
「僕もそうです。あなたより二船ほど後なんですよ。」
「じゃ、僕の方が兄貴なわけですね。宜敷く。」
 淋しそうな東野は自分の名刺を出そうとして財布の中を探し始めた。そこへ久慈と千鶴子が放射状の道の一角から現れた。
 久慈は、「待ったかね。」と云って矢代の傍へよって来ると、
「この人、アンリエットさん。」
 といきなり彼から千鶴子に紹介した。アンリエットと千鶴子は自然に見合って握手をした。どちらにしても敵意など起りようもないのが今の情態だったが、それにしても微妙な白けた瞬間の気持ちの加わろうとするのを矢代は感じ、すぐ傍の東野に久慈を紹介した。
「東野さんはあなたでしたか。」
 紹介したりされたりで急に足もとからばたばた鳥の立つような眼まぐるしい表情の配りだった久慈も、矢代とは違い東野にだけは自分の気持ちも通じそうに思われたらしく、突然彼の方に傾きよると、
「どうですか、パリの御感想は。僕は毎日、この矢代と喧嘩ばかりしてるんですよ、この人はひどい日本主義者でしてね。僕はどうしてもヨーロッパ主義より仕方がないと思うんですが、あなたはどちらですか。」
 こんな質問をいきなり初めてのものにするなどということは、日本でなら何をきざなと思われるのが至当だが、それがここで云うとなると、不思議に自然なことに思われるのだった。東野もうるさそうにもせず、
「そうですね、日本にいれば僕らはどんなことを考えていようと、まア土から生えた根のある樹ですが、ここへ来てれば、僕らは根の土を水で洗われてしまったみたいですからね。まア、せいぜい、日本へ帰れば僕らの土があるんだと思うのが、今はいっぱいの悦びですよ。」と云った。
「しかし、何んでしょう、合理主義は何も日本だってヨーロッパだって、変る筈のもんじゃないと僕は思うんですがね、樹の種類は違ったって、樹は樹じゃないでしょうか。」
 と久慈は勢いに辷って、つい訊きたくもないことまで饒舌るのだった。
「それはそうだけれども、今まで合理主義で世の中が物を云って来て、どうにもならぬということを発見したのが、近代ヨーロッパの懐疑主義というもんじゃないかな。」
 と東野は、久慈の無遠慮な正直さに何か興味を感じたらしい眼つきで云った。
「しかし、それじゃ、僕らは何も出来ないじゃないですか。結局暴力でもそのまま認めなくちゃならなくなってしまうでしょう。」
「まア君のように云ってしまえば話は早分りで良いけれども、しかし、知識というものは合理主義から、もう放れたものの総称をいうのですからね。暴力なんてものを批判するには、手ごろな簡便主義でも結構でしょう。」
「つまり、それじゃ、ニヒリズムというわけなんですか。」
 と久慈は当の脱れた失望した顔つきに戻って顎を撫でた。
「あなたは御婦人づれじゃありませんか。今日はそんなところで良いでしょう。」
 久慈は大きな声で笑うと、
「どうも、失礼しました。じゃ行こうか。」
 と矢代に云って立ち上った。食事には丁度良い時間だったので矢代も一緒に立って皆と出たが、歩きながら彼は、
「今日は君も東野氏にやられたね。たしかに君の面丁割れてるぞ。」
 と愉快そうに久慈の顔を覗き込んだ。
「ふん、合理主義を認めん作家なんか、何を書こうと知れてら。」
「いや、十目の見るところ君の負けだ。愉快愉快。」
 と矢代はまた云って笑った。
「じゃ君は、人間が今まで支えて来た一番美しいものを、みな捨ててしまえと、まだ云うのか。」
「あら、雪だわ。」
 急に千鶴子は立ち停ると腕にかかった花弁のようなものに驚きの声を上げた。
 雪か。いや花だろう。と云い合って一同空を見詰めている間にも、久慈だけは一人わき眼もふらず先に立って歩いていった。
 矢代とアンリエットと、千鶴子とは、クーポールへ這入る久慈の後から遅れていったが、もうこの晩餐の面白くないことは誰にも分っているようであった。クーポールの中は歌舞伎座の中とよく似ていた。太い円柱、淡桃色の壁、階下から階上へ突き抜けた天井と、見れば見るほど歌舞伎座の大玄関である。
「パリにいる日本の方、みな半気違いに見えるわ。それであなたがた何ともありませんの。」千鶴子は料理の註文を終ったとき矢代に訊ねた。
「そうだな、たしかにそんなところありますよ。僕なんかそろそろ怪しい。」
「合理主義を疑い出しちゃ、気違いになるより仕方がないよ。」と久慈はまだ東野に打たれた前の傷が頭に響いてやまぬらしかった。
「君の合理主義なんか日本から持って来た物尺だよ。一度験べてみ給え。印度洋で延びてるから。」
 強いて久慈と争うつもりももう矢代にはなかったが、千鶴子とアンリエットとの次第に強まる無言の敵意を感じると、むしろ、今は男同士の争いをつづける方が愉快に食事の場だけも柔らぐだろうと矢代は思うのだった。しかし、事態は一層険悪になって来た。ぶつりとしたまま誰も話そうともしなければ、顔さえ見合すことも互に避け合って黙っていた。
「ここのお料理、綺麗ね。」
 千鶴子はふと一同の沈んだ様子に気附いたらしく、円柱の間を曳いて廻る料理台の新鮮な魚の列を見て云った。
「ええ、ここのお料理、相当でしてよ。」とアンリエットはフランス語で答えた。
 海老や鶏や鰈(かれい)が出ても四人は一口も饒舌らなかった。いっぱいに客の詰ったホールの中は豪華な花壇のように各国人の笑顔で満ちて来たが、四人の食卓の間だけは、名状すべからざる陰欝な鬼気が森森とつづいていった。
 久慈はふくれ切って、矢代に、何ぜお前はアンリエットなんか連れて来たのだと云わぬばかりに、パンばかりひきち切ってむしゃむしゃ食べた。矢代もいつ何が出てどうして食べたかも分らぬままにフォークを使い葡萄酒を飲んだ。すると、突然久慈は俯向いたまま、
「懐疑主義か、ふん。」と云ってひとりにやにや笑い出した。
「まだやってるのか。」矢代はじっと久慈の眼を見詰めた。
「いや、俺は東野に負けたんじゃないよ。断じてそうじゃない。」
 一同はどっと噴き出すように声を合せて笑った。
「何がおかしい。あれで僕が負けたんなら、腹を切るよ。」
 久慈一人はなお不機嫌であったが、それが却って周囲の三人に浮き浮きとした雑談を湧き上らせた。しかし、久慈は急にボーイを呼んで勘定を命じた。一同ぼんやりして黙っているとき、
「じゃ、今日はこれで失敬する。」と久慈は云って一人皆の勘定をすませて外へ出て行った。


 千鶴子が来てから矢代の生活も少しずつ変って来た。午前中それぞれ自分のホテルにいるのは前と同じであったが、正午はドームに落ち合って昼食を共にし、それから見るべき所を散歩かたがた一二ヵ所ずつ見て、夕食はその日の嗜好物に随い料亭を選び変え、各自のホテルへ帰る前には、また一度ドームへ立ちよってお茶を飲むという習慣になって来た。この習慣はどこから来ている外人の旅行者も同じことで、考えれば誰も極めて単調な生活をしていた。殊にパリという所は来てしまえば、どこを見物しようとか、誰それに逢いたいとか、勉強をしようとかとそのような気持ちは全く無くなって、ただ遊んで暮すことが何よりの勉強になると思いえられる所であった。また事実それに間違いはなかった。
 一番愉快なことと云うのは、他人と議論をすることか、あるいは誰とも話さずぼつりと一人路傍のベンチに腰かけていることか、先ず特種な遊楽場以外の楽しみはさておきそんなことより他にはない。随って一度び議論となるとそれは果しなくつづいていく。その日の議論は逢う度びに前の議論の延長であり、またどの立場を取ろうとも、終局の負けというものがどちらにもないという強味を発見し合って来るのであった。これが例えば日本で議論をするとなると、忽ち終局は必ず法網に触れて来るので、どちらも黙ってそれ以上の議論はうやむやの中に引っ込めてしまうか、さもなくば、ヨーロッパの論理へ樋をかけて水をその方へ引き流し、日本の歴史を外国のこととして戦い合う。間違いはすでにそのとき敢行されているにも拘らず、錯誤の連続であってみれば、自身の知性で間違いを一度び正すとなると、論理らしいものを一応は尽く根から噴き上げてしまいたくならざるを得ないのだった。それからもう一度考え直す。矢代も今はそういうことを絶えず頭の中で繰り返している時期であった。
 ある日、矢代は自分のこの得た確信を元として、千鶴子にヨーロッパに対して絶対に卑屈になるなと話してみた。
 道を歩いていても少し汗ばむほどの日であったが、矢代は千鶴子とサンジェルマンのお寺の壁画を見てから、ルクサンブールの公園の中へ入って来て休んだ。若葉に包まれた石像の肩に数羽の鳩がとまっていて、その向うに若い男女の一組がベンチにかけている他は、人のいない椅子ばかり並んでいた。矢代もその一組と芝生を対して向い合った。
「日本のお寺の壁画は、まア、地獄極楽の絵が多いですが、こちらのお寺の壁画は、ヨーロッパ人が野蛮人を征服して、十字架を捧げている絵ばかりですね。僕らはあんな絵を見せられると、聖壇もいやらしくなって、すぐ出て来たくなって困るが、あのころは、誰も東洋人にあんな絵が見られようとは思わなかったんだな。」何か話すと、見て来たものの批評ばかり自然会話となってしまう外遊者の癖が、また争われず矢代にも出るのだった。
「あたし、この間からパリを見物して、フランスのいい所や恐ろしい所は、やはりこの国の伝統だと思いましたわ。でも、それなら日本にだって有るんだと思うと、パリもそんなに恐くなくなって来たの、もしこれで日本に伝統がなくって、あたしこちらへ来たんだったら、どんなに惨めな思いをしなければならなかったかしらと思うわ。」
 千鶴子の感想は正しいと云うよりもむしろ矢代を喜ばした。
「そうですよ。ところが、久慈君はそれを云うといやがるんですよ。あの人は僕らを無言の中に勇気づけてくれている日本の伝統まで認めようとしないんだから、困ってしまう。」
 若葉の繁みの間から杏の花弁の柔く舞い散って来る中を貫き、重くすうッと真直ぐに青葉が一つ落ちて来る。風が吹く度びに揺れる繁みの中から時計の白い台盤が現れてはまた青葉に隠された。
「でも、久慈さんだって、口でだけあんなに仰言っていらっしゃるのよ、先日もあたしに、パリもいいけれども日本もいいなアって仰言ってから、こんなこと、矢代君にはうっかり云えないがってそう仰言ったわ。藤田嗣治さんの絵を見てるときでしたの。やっぱりそうよ。あの方だって。」
「藤田嗣治はパリへ来てみると初めて豪いもんだと思いますね。よくあれだけこの都をひっ掻き廻したものだと思う。」
「女の人の線が牡丹の花びらのように見える絵よ。それがね、それが面白いんですのよ。」
 千鶴子はこう云いかけてから急に顔を赤らめて俯向くと、
「あら、雀がこんな所まで来たわ。可愛いこと。御覧なさいよ。」
 と矢代の腕を軽く打った。矢代は雀を見ていてから鉄のベンチの冷たさにふと背を延ばした。すると、その向うのベンチでさきから男女の二人が静かにじっと顔を併せているのが見えた。このような情態は矢代はいつもここで眼にすることであったから別に特異な風景とも思わなかったが、しかし、こちらの眼を雀に向けようと努める千鶴子の気持ちを感じ、音響の停った窮屈な世界でぴょんぴょん跳ね廻るその雀が、次第に大きく見えて来るのだった。
「雀ってどうしてこんなに沢山いるんでしょう。どこにでもいるものね。」
 千鶴子はくるりと男女の方に背を向けたが、こちらには矢代がいるとまた真直ぐに向き直って雀の行方を眼で追った。
 何となくそうしているうちに、二人の気持ちは一層動き停って固苦しくなるのを矢代は覚えると、ベンチを立って去ろうかと思った。しかし、考えてみれば外国を歩いている以上、こんな所を千鶴子と二人で眼にすることはいつかあるにちがいないので、一度はここも通らなければと、向うの男女の顔の放れるのを待つようにまたじっと眺めつづけて坐っていた。
「あなた、あんなところをそんなに御覧にならないでよ、さア、行きましょう。」
 と千鶴子は顔を赤らめて立ち上った。しかし、矢代は動かなかった。彼は千鶴子を心の中で自分の顔を合せる対象だと一度はマルセーユで感じたのを思い起すと、あのとき騒いだ自分の心の自然の結末をここでゆっくり一度清めてしまいたいと思うのだった。
「まア、ここへ腰かけていなさいよ。美しいな。」
 と矢代は立っている千鶴子に云った。芝生の中に降りた一羽の鳩が胸毛で葉先きを擦り割りながらよちよち二人の方へよって来た。恍惚として動かない前方の男女の身体へ杏の花弁が絶えず舞い落ちた。
 見ているうちに矢代も馬鹿らしい光景だとは思えなくなって来て、これは驚くべきほど美しい情景だと羨ましささえ感じて来るのだった。骨を鳴らせて飛び交う鳩の身体からうす冷たい風が立ち耳の根をひやりとさせた。
「まだいらっしやるの。」
 千鶴子は渋渋矢代の横へ腰を降ろすと、
「あら、お坊さんだわ、今度は。」
 と云ってにっこり笑った。見ると、カソリックの若い僧侶が椅子にかけて聖書を一心に読み初めた。
 若い牧師が這入って来たのは右の繁みの間からであったから、多分サントーマの僧侶であろう。
 しかし、左の方のベンチで、男女の愛の高潮した姿態を見、右の方のベンチで聖書の頁をくっている僧侶を見たりする図は、これもここでは物珍らしい風景とは云い難いが、矢代にとっては、これは社会の層の種類ではなく、自分の心中に棲む両極の図会となって自身の心の軽重をじりじり計るのである。
 右を見、左を眺めているうちに、千鶴子も何事か胸を打たれるものがあるらしくふと顔を上げると矢代を見た。矢代も千鶴子を見たが、こんなときに視線の合うのは何の意味もなくともはッとなり、急いで避け合うと、そのために一層ない意味までが深まって来るのであった。
 こうしているうちにも矢代は、いつの間にか千鶴子の考えていることを夢中になって追い馳けている自分を感じた。彼は汚れた煙があたりを取り包んでいるようにだんだん息苦しくなって来た。
「もうほんとに行きましょう。久慈さん、待ってらしてよ。」
 千鶴子は冷たい表情になって立ち上った。矢代も腰を上げてベンチから放れていった。
 一団の繁みの胴をコルセットのように締めつけている円形に並んだ鉄のベンチに、人は一人もいなかった。さわさわと立つ風にどこからともなく舞い散って来る落花を仰いでいると、矢代は今は何も忘れ、ただ故郷の空の色を感じて胸は淋しく湿って来た。
「どうもここへ来ると、僕は帰りたくなるんですよ。」
「あたしもだわ。」
 矢代はポケットに手を突き込みながら、ここでは恋愛などは、自分の故郷へ帰りたい心に比べれば物の数ではないと思い、柔い砂を靴先で蹴り蹴り歩いた。樹間の黄色な天蓋の下でメリゴラウンドが空転しつつ光っていた。千鶴子は樹の間のほの白い蕾を見廻し、
「でも、もうすぐ、マロニエが咲くのね。」と云った。
「そう、マルセーユより一と月パリの方が遅れていますね。」
「もう一二ヵ月すればきっと矢代さん、日本へはもう帰らないって仰言ってよ。」
 多分アンリエットのことを云うのであろうと矢代も苦笑を洩したが、それも向きに弁明する気もなく砂の鳴るのを聞きながら歩いた。


 通りや森や河岸の樹のある所には、マロニエが白い花筒の先きを揃えて一斉に開き初めた。重厚な椎の樹に典雅な桐の花をつけたかと見えるこの樹は、昔を今に呼び戻すただ一縷の望みのように美しい。ある夜、矢代と千鶴子と久慈とそれにアンリエットの四人が食事をすませてからドームにいると、東野に逢った。晩餐の後にどこへ行くかという相談はいつも議論を呼んで定まらないのが常だったが、この夜はブロウニュの森の湖水へ行こうという久慈の提案が直ちに通った。一つはもうすぐ、新しく来た日本人の案内役となって地方へ旅に出るというアンリエットとの、皆の別れの意味もあった。
「どうです。これからボアへ行こうというのですが、いらっしゃいませんか。」
 久慈は例の人の良さそうな笑顔で傍にいる東野をも誘った。四人はすぐ自動車を森へ向って走らせた。自動車の中で千鶴子は、
「今夜だけはもう議論はなさらないでね。」
 と皆に頼んだ。皆は声を合せて笑った。
「フランス人は女の人が一人混っていると、絶対に議論はしないが、あれは女というものは馬鹿な者だと定めているからだそうですよ。僕らはあなたがいても議論をするのは、つまり尊敬しているからさ。」
 と久慈は振り返り千鶴子を見て笑った。
「でも、こんないい夜は、頭の痛くなるのいやよ。」
「しかし、こんなに毎日遊んでばかりいると、議論でもしなくちゃ仕事をしたという気がしなくなるんだからね。」
 久慈のそう云うのに矢代は、
「僕らはここにいると、誰も生活がないんだからね。血の出るような生活といえば、議論をする以外に求めようがないんだから、まあ千鶴子さんも議論でも聞いて、生活しているんだと思いなさいよ。」
「いやよ、もう議論は。あたし、そしたら、フロウレンスかチロルへ行っちまってよ。」
「そうだチロルへ行こうか。」
 と久慈は急に大きな声を出した。「さっき聞いていたら、僕らの傍にいた日本人の連中がギリシアへ行く相談をしていたようだから、僕らもどっかへ行こうじゃないか。チロルへ行ってヨーロッパ第一の景色を見ながら議論をするのも、また格別だぞ。」
「石川五右衛門ね。」
 千鶴子の笑っているうちに甘酸い花の匂いの満ちたフォッシュ通りを突き切り、一同はブロウニュの森の口まで来かかった。
「僕の友人は日本を出るとき面白いことを云いましたよ。君がパリへ行ったら何も勉強せずに、ただ遊べと云ったが、遊ぶというのも全く骨の折れるもんですね。」
 こういう東野に久慈は、
「それや、そうだ。仕事をする方がどんなに楽か知れないや。」と賛成した。
 森の直立した樹間から早くも湖面の一端が桃色に光った生物のように見えて来た。
 自動車を捨てた一同は湖の方へ歩くと、一見榧(かや)の樹かと見まがう松の間を通り、ボートに乗った。久慈と矢代はオールを持って東野が艫に坐り、千鶴子とアンリエットを中に挟んでボートは岸を放れた。湖面は人の顔もよく見えなかった。水藻の匂いが久しく忘れていた日本の匂いとなって矢代の鼻に流れて来た。なまめかしい紅色の西瓜のようなまん丸い提灯を艫につけたボートが、物も云わず幾つも舟端を辷っていった。
「ブロウニュの森の中でボートを漕いだら、もう日本へ帰ってもいいって誰か云ってたが、これなら矢代君も満足だろう。」と久慈は云った。
「まア、いいよ、ここならね。」
 矢代はこれで印度洋とアラビアとを廻って来て今パリでボートを漕いでいるのだと思うと、手にかかる一滴の水も、はるかに遠い故郷を眺める感傷となり窓の開いた思いだった。
「何ぜ黙っているのかね。これが青春じゃないか。」
 と久慈は云ってぐんぐん一人オールに力を入れた。
 闇の中でボートが擦れ違う度びに、脂粉の匂いがしばらく尾を曳いて水面を流れて来た。岸べの森の一角に見えるカフェー・パビヨンロワイヤルの天蓋の上には、一面の紅霧が棚曳き渡り、湖は森の地平から盛り上った張力を見せ灯火に光っている。
「あッ、危いわ。」
 と千鶴子が声を上げた。その途端、島から垂れ下った樹の枝が久慈の頭を撫でたので、そこだけ真白な花が際立ち騒いで揺れた。島の芝生の水に浸っている岸から、数羽の白鳥が水面へずぼりと端正な姿で降りて来ると、提灯の紅の円光の中をほのかな光りに染りつつ遊泳した。樹の下に停っているボートの中では、ときどき男女の一対が一つの影となって動かなかった。
「島へ上りましょうよ。もう暫くここへも来れないんだから。」
 とアンリエットは囁くように久慈に云った。ボートを島の渡場につけ一同は岸へ移って茶を飲みにカフェーの方へ歩いた。
 董とチューリップの放射状に開いている花壇を通り、明るいカフェーの庭に這入り、五人は向き合って卓を囲んだ。矢代はマロニエの太い幹を叩きながら上を仰ぐと、花がぽたぽた落ちて来て冷く鼻を打った。燭台に刺さった蝋燭のような無数の花序の集合した庭の中を光線の縞がはっきりと流れて見える。
「今夜は愉快だ。お蔭で手に豆が出来たよ。これ。」
 と久慈は両手を開いて皆に見せた。ボーイの手で裂かれたレモンが露を什器の上に満たしている間も、マロニエの花は絶えず卓の上へ落ちて来た。その度びにボーイは花を払い除けつつレモンを各自のコップに注ぎ込んだ。
 花冷えにうす冷たく汗のひいて来たころ、梢に縛りつけられたラジオから、ガボットが聞えて来た。
 久慈はさも感じ入ったという風に梢の繁みの中に輝いている電灯を仰いだ。しばらく、一同はオレンジを飲みつつラジオに聴き耽っているとき、
「あら、東野さんいなくなったわ。」
 と千鶴子は云ってあたりを見廻した。
 若葉の垂れ込めた二階の廻廊を通る靴音が淋しく響くだけで、樹の幹の間一面に並んでいる緑の椅子と卓とには一人の客もなく、ただ白い花ばかりがいたずらに散っていた。足もとの砂に混った花の中から捨てた煙草が鮮やかに煙を立てている。
「ああ、もう日本へは帰りたくない。」
 久慈は組んだ両手に頭を反らせてからかい気味に矢代を見た。
「今夜は、まア何を云ったっていいよ。」
 矢代は島の周囲を廻っている紅提灯を眺めながら、ふと日本へ帰れば自分は何をしたら良いだろうと考えた。人の一番望んでいるものを見てしまった空虚さに日日考える力も失われていく疲労を強く感じ、今はこの花の白さに溶け入ってなるままに身を任せてしまいたいと思うのであった。
「ボートが流れるといけないわ。もう行かない。」
 とアンリエットは久慈に注意した。
「あ、そうだ。」
 久慈は身を起しかけたが東野の姿が見えなかったので、また四人は椅子に腰を降ろして待っていた。
「この向うに、日本の滝と同じ滝があってよ、御覧になりたくない。」
 アンリエットの薦めに久慈は顔を横に振った。
「日本的なものは、ここへ来てまでも見たくないね。暫く忘れに来たんだからな。」
「あら、じゃあたしたちあなたにお逢いするのも考えなくちゃいけなくなるわ。」
 と千鶴子は皮肉そうに久慈を睨んだ。
「そう云うわけじゃないさ。外国にいるからには、なるたけ外国にいるんだと感じたいんだからな。」
 久慈の云い難そうな弁明も、それならやはり千鶴子よりもアンリエットと遊びたいと思わず洩らした意味ともなり、かすかにこぼれた千鶴子の笑顔も妙に久慈から遠ざかって消えるのだった。
 東野が花壇の中から現れて来ると一同はカフェーを出て、自分たちの乗り捨てたボートの方へ引き返した。木の下闇で道を手探りしなければ分らぬほど暗かった。足もとはなだらかな芝生とは云え、欄干もなくそのまま水中へ没しているので危険なばかりではない。いつどこに男女の影が潜んでいるか、このあたりはそのための配慮ある木の下の闇であってみれば、隠れた人影を乱すのもつまりはこちらが不注意なのであった。
 一同もそれを知っていると見えて言葉も云わず久慈についてぞろぞろ歩いた。すると、先頭に立った久慈は不意に途中で立ち停った。
「何んだ。」と矢代は訊ねた。
「道を間違えた。これや、たいへんな所へ来た。」
「しかし、あそこの提灯はたしかに僕らのボートだよ。」
「いや違う。」
 こう云いながらも久慈は水際の方へ降りて行こうとすると、
「あツ。」
 と云ってまた立ち停った。矢代は久慈の傍へよって行ってあたりを見た。一抱えもある丸い石のような塊が点点として散ったままじっとしていたが、よく見ていると、かすかにどれも少しずつ動くのが感じられた。
「ここ白鳥の巣だわ。」
 とアンリエットが上の方から云った。
「何アんだ。そうか。」
 と久慈も急に元気な声になった。今まで恐ろしそうにしていた千鶴子も降りて来ると、矢代の肩に掴まりながら白鳥の群れを覗いてみた。どこが水か芝生か分りかねる暗さの中で、矢代は千鶴子の重みを肩に受け何事か約束が果されつつあるように感じられ、そのまま立ち停っていつまでも白鳥の群れを眺めるのだった。
「白鳥の巣なんてあたし見始めよ。でも、真黒に見えるのね。」
 と、千鶴子はささやくように耳もとで云った。まだ気づかずに千鶴子はいるのだろうか、白鳥の巣とはそのままには解せぬ比喩とも矢代にはとれるのである。
「あら、よく辷るわ。あなた危くってよ。」
「なるほど。辷るな。」
 と矢代は云いつつ足もとの湿った芝生に力を入れた。しばらく、二人はそのまま闇の中に立っていると、傍にいた久慈はいつの間にか遠のいて、上の方でアンリエットと話しながら歩く靴音が聞えて来た。
「もう一度お昼に来ましょうね。こんなに暗くちゃ分らないんですもの。」
 白鳥を見るだけでは少し二人の時間の長すぎたのをどちらも感じ合うと、千鶴子は矢代から放れて芝生を登った。矢代も後からついて行ったが、いつ人影に突き衝(あた)るか分らぬ不安が歩く度びに足を遅らせた。間もなく、アンリエットと久慈の姿もどこにいるか分らなくなっただけではなかった。千鶴子の姿も全く闇に呑まれて見別け難くなった。
「これは困った。千鶴子さんどこです。」
 こう云ってももう千鶴子の声はしなかった。矢代は眼の見えなくなったのは自分だけなのであろうかと、靴さきを盲人のように擦らし擦らし歩いていった。
 矢代の足先きに花のようなものや、道と芝生の境いの籠目の金がひっかかったりした。少しわき道をしたために、これだけ道を迷うとはどういうものだろうと、矢代はいら立って来たが、しかし、それより、夜中ここで婦人を一人歩かすことは虎に餌を与えるのと同様な、恐るべき解禁のブロウニュの森の中である。千鶴子に闇中何者が飛びかかるか知れない危険を思うと、矢代も彼女の手を曳かずに歩いた自分の無謀を今さら恥かしく、もどかしく歎かれて来るのだった。
「千鶴子さん。」と矢代は呼んでみた。
「ここですのよ。」
 そう云う千鶴子の声は意外に遠くの方から聞えて来た。
「危いから待っていらっしゃい。」
 矢代は樹に突き当ってもいいと思って勢いよく声の方へ進んでいき、
「あなた、それで見えるんですか。」と訊ねてみた。
「暗いのね。」
 と千鶴子は矢代の声も聞えない風だった。ここの造園家は夜の人間の眼まで考えて樹を植えたのだと、急に矢代は幾重にも落し込む陥穽(おとしなな)を見る思いで腹立たしくさえなって来た。しかし、千鶴子に声を出させることは、今は、闇中に迷っている彼女の在所を潜んでいる虎に教えることと同様だった。
「じっと立ってらっしゃい。」
 と矢代は云いながらも、しかし、人間が猛獣より恐るべき動物になる森を市街の中に造ってあるパリの深い企てを考え、も早や云うべからざる近代の寒けを感じ、なるほどこれは闇だなと思い進むのだった。
「どこです。」
「ここ。」
 と今度は千鶴子はすぐ傍で答えた。拡げた手と手が触った瞬間、思わず二人は両手を握り合せた。
 提灯の火はここからはよく見えた。道も広く下り坂になって来たが、重なる樹の幹に隠されすぐまた提灯が見えなくなった。
「この森は魔の森と云って恐ろしい森ですから、気をつけていらっしゃい。」
「恐いわ、そんなこと仰言っちゃ。」
 千鶴子の擦りよって来た手を指環の上から握り矢代は曳くように歩いた。湿った樹の幹の間に前から漂っていた脂粉の匂いが歩く身体に纏りついて追って来た。坂道のせいか千鶴子はぐんぐん矢代を押して来ながら、
「多勢で来ると短いようだったけど、道を間違ったのね。」
 と云うと、どっと何かに躓いて倒れかかった。矢代は引き立てるようにして水際の方を覗きつつ歩いたが、ボートはどこにも見えなかった。ボートなど無くなっても千鶴子と二人でいる以上は、このまま見附からない方が良いとも矢代は思い、もうゆっくりと肚も坐って来るのだった。
「さア、しまった。いよいよ帰れなくなった。」
 と矢代は云って立ち停った。二人は黙って水辺を見降ろしていたが、
「いいわ、行きましょう。」
 と千鶴子ももう元気な声で云うと、自分から矢代の腕を持ってまた歩いた。
 闇に馴れて来ると森はさまざまな匂いを放って来た。パリに永く生活している人で、闇夜に森の中を婦人と二人で歩くことほどこの世に幸福なことはないと云った言葉を、ふと矢代は思い出した。
 なるほど、これが幸福なのであろうか、ただこれだけのことが、と矢代はひとりそんなに思いながらも、湖に浮んでいる紅のまん丸い提灯の色が、もう光明のまったく失せた悲しい最後のなやましげな紅さだなと頷くのだった。
「この森をパリの街の真ん中に是非残しておけと云ったのは、ナポレオン・ボナパルトだそうですが、豪い男だと思いますね。あの男はただの豪傑じゃなかったのだ。」
「広いのね。これでどれほどあるのかしら。」
「周囲五里というんですよ。」
「まアこれで。」
 と千鶴子は云っても別に驚いた風ではなかった。二人の歩く道の下に岸がつづき真白な花をつけた枝が水面に垂れていた。ボートがこんなに見えない筈がないと思うと、矢代は「おーい。」と呼んでみた。
「おーい。」と東野の声が樹の繁みの下から聞えた。
「あら、東野さん、ボートに一人いらっしゃるんだわ。」
 千鶴子は繁みを廻りスロープを降りていってみると、ボートの中にはやはり東野が一人しょんぼり坐っていた。
「久慈君まだですか。」
 矢代は訊ねながら千鶴子と二人で灯の消えたボートに乗った。
「お一人で何してらっしたの。」
 と千鶴子は気の毒そうに訊ねた。
「俳句を作ってたんですよ。」
「良い句出来ましたか。」
 矢代の訊ねるのに東野は、「いや。」と云っただけで提灯の新しい蝋燭に火を入れた。
「おーい。抛っとくぞオ。」
 と矢代はオールを持って森の中の久慈を呼びつつ少しあたりを漕いでみた。
「どこだア。」と久慈の声が遠くの闇の中からして来た。
 矢代はまた呼びながら声の方へボートを近づけてゆくと、しばらくして久慈は水際へアンリエットと二人で現れた。
「やア、弱った弱った。ボートがどれも違うんで、分らないんだよ。」
 互に顔がぽっと見えるだけの提灯の明るさの中へ、白鳥が水に浮んだ花の群れを胸で割りながら泳いで来た。皆が道の暗さを云い合っている所へ乗り込んで来て、オールを動かし出した久慈に、矢代は、
「東野さんは俳句を作ってたんだって。ひとりならそれもいいな。」と云って笑った。
「俳句か、ここで俳句なんてどんなの出来るんです。」
 と久慈もやや嘲笑の口調だった。
「白鳥の花振り別けし春の水。」
 真面目な顔で句だけを投げるように東野は云ったので、一同一寸黙って考えていたが、突然、
「いや、やられた。」
 と久慈は頓狂な声を上げた。
 矢代は思わぬ不意打を食ったような苦笑ながらも、今は東野の諧謔にボートの動揺も気持ち良かった。ボートが岸を放れていくにつれ岩を打つ滝の音が聞えて来た。
「あそこよ。滝」
 とアンリエットは垂れ下った樹の下を指差した。
「じゃ一つ、僕も俳句を作ろうかな。」と久慈は云ってオールを廻しながら、「えーと、ブロウニュの、滝も無言(しじま)を破りおり。どうです東野さん。」
「そんな句ないよ。」
 と矢代は云うと皆どっと笑った。久慈はまた、
「それじゃ、これやどうじゃ。」
 と小首を一寸かしげてから、「ブロウニュのオール少しく鳥追えり。」
 ふざけていた久慈の句も幾らか緊って来たその変化に、
「ふむ。」
 と、矢代はしばらく考え黙っていてから云った。
「そんなら、これはどうかね――白鳥の巣は花に満つ春の森」
「うまいね君は。いつ習ったんだ。」
 と久慈は感心して、「ようし、じゃ、も一つやるぞ。」とまた競い立って考えるのだった。千鶴子は舟ばたで一人腹をかかえて笑っていた。ときどき道路を疾走する自動車の光が森の樹木を貫いて消えていった。一行はオールを軽く動かしていたが、真面目に俳句を考え出したと見えて、誰も空を仰いだり森を見たりして黙っていた。そのうち久慈は、
「よし出来た。今度は傑作だぞ。」と前ぶれして思い出す風に、
「春の夜の月さまざまな水明り。」
 と調子よく読み下した。
「高等学校の歌じゃないか。」
 と矢代はひやかしたので、またボートの中は笑いに満ちた。しかし、久慈だけは一人、「馬鹿を云え。」と云いつつも得意そうにオールを勢い良く動かしていった。
 東野は煙草の灰を水に払い落しながら形の良い白鳥の姿をじっと眺めていた。
「さア、早く上って、サンゼリゼへ行こう。」
 久慈の声に応じて矢代もともにオールに力を入れて漕いだ。アンリエットは軽快な速力に合せるように今流行の小唄を歌い出した。
 ――夜のヴァイオリンがかすかに鳴っている。甘いやさしいメロディに、愛する楽しみと、生きている喜びを、わたしらにささやいていてくれる。――
 このような感傷的な唄もフランスの婦人が歌うと、水に浮んでいる白鳥も花も一しお矢代に旅の愁いを感じさせた。行き過ぎるボートの中からもアンリエットの歌に合せて低く唄うものがあった。千鶴子は指さきに水を浸しながら、遠ざかって行くボートの紅の提灯を振り返って眺め、オールが水を跳ねても水面に尾を曳く波紋から眼を放そうとしなかった。パビヨンロワイヤルの桃色の明りが見えて来ると、島に繁った花の樹が水の上から次第に白く朧ろに浮いて来た。


 ブロウニュの森からサンゼリゼまでは、自動車に乗る間もないほど近かったカフェー・トウリオンフは凱旋門から下って来た左手にある、大きなカフェーの一つである。パリの日本人で上流階級を意識に入れて活動しなければならぬ人人の多くは、下町のモンパルナス一帯には出没しないが、山の手のサンゼリゼのカフェーにはいつもよく姿を現した。モンパルナスの日本人らは、山の手組の日本人を小馬鹿にして、「十六区のお方。」と呼び、サンゼリゼ組は下町者を、近よれば斬らるるのみと軽蔑して相手にしない風があったが、久慈や矢代は来て間もない一団であったから、日本人の縄張りなど考えている暇もなかった。
 カフェー・トウリオンフのテラスには、数百の真紅な籐椅子がいつも道路に向って並んでいた。この日は夜であったから、久慈たちの一団は赤い皮張の屋内へ這入ってフィンを命じた。淡紅色の紫陽花(あじさい)の一面に並んでいる壁面には、豪華な幕が張り廻らされ、三方に映り合った花叢はむらむらと霞の湧き立つような花壇であった。丁度、紫陽花の中から楽士たちのタンゴが始まり出したときである。
「やア。」
 と云って這入って来た三人の日本人の一人が、東野の方を見て手を上げ近よって来ると、すぐ傍の椅子に並んだ。東野は新しい人人を久慈や矢代にそれぞれ紹介した。それらの人人は、日本の大使館に出入する若手の技師の塩野と、平尾男爵、書記官の大石であった。いずれもこれらの人人はパリの上流階級のサロンへ出入しなければならぬ関係から、山の手の人人の中でも代表的な紳士たちというべきであったが、永く帰らぬ東京の様子など懐しそうに訊ねられるまま、千鶴子や久慈が答えているうちに、突然大石は千鶴子を見て、
「じゃ、あなたはロンドンの宇佐美君の妹さんですか。」と驚いて訊ねた。
「ええ、兄を御存知でございますの。」と千鶴子も全く意外な様子であった。
「知ってるどころじゃありませんよ、あなたの小さい時を、僕は見たことがありますよ。」
「ああ、あの宇佐美君か。」と塩野も思い出したと云う風に、
「僕と大石とは暁星の同級でしてね、宇佐美君もそうでしょう。」
 このようなことから話はますます一致して進んでいくと、手ぐるように共通の知人が三人の間から続続と現れた。
「じゃ、一度御招待したいと思いますから、明日はどうですか。お暇でしたら六時にいらして下さい、僕らは皆一緒の所におりますから。」と塩野は云った。
「ええ、ありがとうございます。」
 千鶴子は礼を塩野に云ったものの、他の者が多くいるのに自分一人招待される苦しさにちらりと矢代の方を窺った。傍で前後の様子を聞き知っている矢代は、千鶴子一人を引き抜くような塩野の申し出にも、むしろ裏のない誠実さを感じた。彼はフィンに染った眼もとで、紫陽花の上で輝く楽士のトランペットを眺めながら、パリの上流のサロンに出入している人物は、人前でも塩野のような流儀の挨拶をするのが習慣であろうと思った。
「それでは、お待ちしてますから、夕暮の六時ですよ。」
 と塩野はまた念を押した。事実、この塩野は学界の名門の一人息子であったが、質の良い貴族の品位を想わせる目鼻立に、明朗率直で親切な性格がどこともなく噴き現れている青年だった。矢代は東野や大石などの話す言葉を聞いていると、塩野は写真学校の教授で、パリで開いた彼の個人展覧会も、パリの写真専門家の間では、なかなか好評だったらしい様子であった。間もなく一同の話は著いた当時のそれぞれの困った話に移っていった。
「僕は一度こんな所を見ましたよ。」今まで黙って一言も云わなかった東野は云った。
「それもここのカフェーですがね。丁度、僕は久慈さんの坐っているそこにいたのですよ。他に日本人も三人いましたが、隣のテーブルに、印度支那の安南人が四人ほど塊っていましてね。そこへ、ある外人が三人ほど這入って来て、坐ろうとすると椅子がいっぱいで、どこにも坐れないんです。そうしたところが、その男はボーイに、
『ここにいる東洋人を、皆追い出してくれ、その分の金は払う。』
 と反り返って云うのですよ。僕は腹が立ったが、先ずボーイが何とあしらうかと、それをじっと見ていたら、ボーイがね。――」
 と東野は云ってそのときのボーイがまだいるかと一寸屋内を見廻した。
「今日はあいにくいないけれども、そのボーイが、きっとなると、安南入を指差して、これは東洋人だが、われわれの同胞だ。君ら出て行ってくれッと、その大男に大見得切ったですよ。」
「その男どうしました。」
 と矢代は乗り出すようにして訊ねた。
「その男は黙って出て行きましたが、しかし、一時は日本人が皆殺気立ちましたね。」
「安南人はどうしました。」とまた矢代は興奮して訊ねた。
「安南人はおとなしく黙っていましたよ。」
 一同はしんと静まったまましばらく誰も物を云うものがなかった。
「馬鹿な奴がいると、戦争が起る筈だな。」
 矢代はいまいましそうに云った。そして、突然久慈に向って、
「君、まだ君は、ヨーロッパ主義か。」
「うむ。」
 と久慈は重重しく頷いた。矢代は青ざめたままどしんと背を皮につけて静まると涙が両眼からこぼれ落ちた。


 夜の十一時になると、塩野たちは、これから活動を見に行くのだからと云ってカフェーを出て行った。矢代たちもトウリオンフを出てサンゼリゼを下へ下った。
 硝子の鯉の塊った口から立ち昇っている噴水は、瓦斯灯の青い照明に煌き爆けた花火かと見える。その噴水から散る霧は一町四方に拡がり渡り、微風に方向を変えつつマロニエの花開いた白い森を濡らしていた。
 この森のマロニエの老樹の見事さはまた格別だった。均整のとれた鋼鉄に似た枝枝の繁みが魁麗な花むらの重さを受けとめかねてゆったりと撓み、もう人人の称讃には飽き飽きしたという風情で、後継ぎのない悲しさもあきらめきった高雅な容姿だった。それはもう樹というものではない、人の知らぬ年齢を生き永らえまだ薄紅色の花をほころばせてやまぬ箴言のようなものだった。
 矢代たちは砂道を歩いてコンコルドの広場へ出た。数町に渡った正方形の広場は、鏡の間のように光り輝き森閑として人一人通らなかった。その周囲を取り包んだ数千の瓦斯灯は、声を潜めた無数の眼光から成り立った平面のように寒寒とした森厳さを湛えている。
 そこの八方にある女神の巨像はそれぞれおのれの文化の荘重さに、今は満ち足りて静かに下を見降ろし、風雨に年老いた有様を月と星とにゆだね、おもむろな姿をとって動かなかった。女神に添えて噴水がまた八方から昇っていた。それはこの広場を鏤ばめた宝玉となり植物となって、夜のパリの絢爛たる技術を象徴してあまりあった。
「何んで凄い景色だろう。」と久慈は茫然と立ち尽して云った。「これから見れば、東京のあの醜態は何事だ。僕はもう舌を噛みたくなるばかりだ。」
 東野は黙って広場を眺めながらまた俳句を作っていた。突き立っている三人の暗黙のうちにひしめき合う頭を、千鶴子はもう感じたと見え一人放れて歩いた。
「さア、行きましょうよ。」
「君は何んでも、さア行きましようだ。」
 と久慈は腹立たしそうに云った。
「でもそうだわ。」
「何がそうです。」
「あたし、もう眠いんですもの。」
「眠る方がいいですよ。さア行きましょう。」
 と東野は云って歩き出した。一同は東野の後からぞろぞろついていった。しかし、久慈だけは手に引っ掴んだ帽子を自棄に振り振り駄駄っ子のような声で、
「もう、僕は日本へは帰らん。」と云った。
「二十年ここを見ていると、小便をここへしたくなるそうだよ。」と矢代は云った。
「ふん、そ奴は猫だろう。」
「僕が東京市長なら、東海道の松の大木を銀座の真中から、神田までぶっ通してずっと植えるね。あの通りに松葉が散ればどんなに綺麗か分らないよ。雄松だけは外国にはないからな。」
 矢代はそう云いながらも東にチュイレリーの宮殿を置き、西はサンゼリゼの大公園に接し、北にはマデレエヌの大寺院、南に河を対してナポレオンの墓場を置いたこのコンコルドの広場の美しさには、流石云うべき言葉も出なかった。
「ここが、世界の文化の中心の、そのまた中心なんだからなア。」
 と久慈は讃嘆しつつ倦かず周囲の壮麗さを眺めていた。
「何もそう早く音を上げなくたって良いだろう。こうなれや、周章てた奴は損だ。東野さん、句は出来ましたか。」
「出来た。」
 一同は車を拾い、疲れてぐったりとしてホテルの方へ帰っていった。


 矢代は千鶴子へ電話をかけてもときどきいないことが多くなった。女の本能でモンパルナスよりサンゼリゼを好むのは無理ならぬことだったが、しかし、逢う度びに千鶴子の話は今までの彼女とは変って来た。ある日、矢代は千鶴子とルクサンブールを歩いていたとき、千鶴子は楽しそうにパリの上流階級のサロンの話をした。千鶴子が自分たちより後から来たのに何人も出入困難とされているサロンへ、どうして出入するようになったのか矢代はそれを訊ねてみた。
「それはあたしも自分で知らなかったのよ。初め塩野さんが仕事をするのに人手が足りないから助けてくれと仰言るんでしょう。ですから、あたしはいつでも暇だからって云っておいたら、実はこうだと云って、フランスの大蔵大臣のサロンへ出るのに、一人婦人が足りないので困っているんだと仰言るの。」
「大蔵大臣って、どうしてあの人が大臣と交際しなくちゃならんのです。」
 と矢代は不思議に思ってまた訊ねた。
「あたしもそれが分らなかったんですの。ところが、こうなの。日本は今丁度、鮭の缶詰をフランスへ輸出してるんだそうですのよ。それがフランスの法律でもうこれ以上は輸出困難というところまで来てるもんだから、その法律をね、何んとか自由にする工夫をして、もっと輸出しなくちゃならないっていう算段なの。日本の大使館必死に活動してるのよ。そんな仕事に大使がいきなり出ては駄目でしょう。大使の出るまでにいろいろ下の者が、工作をしておかなくちゃならないから、その工作にサロンを利用するらしいの。でも、塩野さん、パートナーがないのでどうもやり難くって困ると仰言るの。」
 矢代はそこまで聞くと千鶴子のいうこともようやく頭に這入って来た。
「じゃ、あなたもいろいろ鮭のことを質問するんですか。」
「いやだわ。あたしはただ、サロンで踊りのお相手したり、向うの秘書官とお茶を飲んだりしてればいいのよ。その間に塩野さんたち、だいたいの向うの意向を探るんでしょう。」
 こう云う話を聞くと、矢代は手近に今までいた千鶴子も、遠く距離を放して生活している婦人のように見えて困るのであった。
「それじゃ、なかなか面白いことも多いでしょうね。」
「ええ、たまには、ありましてよ。この間も一度、ピエールっていうフランスの若い書記官があたしの手に接吻するんですの。あたしまごまごしちまったわ。」
 千鶴子は手の甲を一寸拭くように撫でてみてからまた云った。
「でも、パリの上流のお嬢さんにはあたし感心しましてよ。日本とはよほど違うと思ったわ。十八で難かしい哲学の本を読んでいて、男の人たちに質問して来るんですの。あのブロウニュへ行く道の、アベニュ・フォッシュにある家よ。下のホールが銀座の資生堂ほどもあって、別室にマキシムのコックが来ているんですの。あたしたちそこでお料理やお茶を飲んでから、ホールで踊るんだけど、でも、壁なんか綺麗なものね。タペストリも皆ゴブラン織で、ルネッサンス時代の大きな彫像が置いてあって、ほんとに素晴らしいクラシックよ。」
 書生には少し不似合なこんな話を矢代はふむふむと興味をもって聞きながら公園へ這入った。すると、千鶴子とよく坐るベンチの方へ足が自然に動いていった。鉄の卸問屋の次女である千鶴子は金銭に不自由がないとはいえ、パリの最高級のサロンへ出入すれば予期しない贅沢な心も植えつけられるであろうが、若い時代に人の見られぬものを見ておくのも、思い残さぬ後の慰めとなって、心も休まるであろうと矢代は羨しく思うのだった。
「あなたはサロンへなんか出這入りするようになられちゃ、僕たち話し難くなりますね。」
 と矢代は笑って空を仰いだ。
「そんなものかしら、でも、あんな所へ始終いってる男の方たちは、気骨が折れると思うわ。あたしたち女はただじっとしてればいいんだけど、男の方は家へ帰ると、もう骨なしみたいに、ぐったり疲れてらっしゃることよ。」
「塩野君なんか、あれでサロンの技術は上手いんですかね。」
「あの方は気軽な方だから、どこでもさっさとやってらっしゃいましてよ。向うのお嬢さんなんか、逢ったとき頬へ接吻するでしょう。あんなときでも上手にちゃんと顔を出してらっしゃるし、サロンのお嬢さん方をマドマアゼル何何なんて呼び方で、呼ばなくってもいいようなサロンも幾つも持ってらっしゃるの。マドマアゼルを除けて相手を呼ぶようになるのには、どうしても一年はかかるんですってよ、あの方たち、そんなサロンを一つ造ってくる度びに、さア今日は一つ落して来たって云って、はしゃいでらっしゃるのよ。おかしいってないの。」
 矢代は妙な生活の苦労もあるものだなアと眼新しい感じで千鶴子を見ながら、
「つまり、サロンを落すのが仕事なんですか。あの人たち。」
「そうなの。ですから、あの方たち、日本人に不平を云ってらっしゃるのはね、日本人が大使館員を冷淡だと怒ったってこっちはそれどころじゃない、一つサロンを落すのだって、城を落すようなもので、疲れて疲れて溜らないってこぼしてらっしゃるのよ。あたしも、無理がないと思いましたわ。」
「それや、そうだな、日本人の心配を引き受けるのは領事の方の仕事だから、日本人のサービスまでいちいちしておられないだろうからな。」
「それに言葉だって、モンパルナスあたりの言葉を一寸でもサロンで使おうものなら、もう相手にしてくれないんですって。ですから、言葉が自由になればなるほど、一層自分の言葉の欠点が分って不安になるので、それで神経衰弱になるんだと仰言ってたわ。」
「ふむふむ。」
 と矢代は一一もっともと頷いて聞いていた。これで眼にするパリのさまざまなものに感動するだけだって、相当激しい労働だと矢代には思われるのに、まして遊んで城を落さねばならぬとなると、その苦心は察するに難くはなかった。
「洋服なんかあなた困りませんか。」
「それは困るわ。あたし、お蔭でサロン用の、これで三つもサントノレで造りましたの。」
「一度僕にもたまには着て見せてくれないかなア。」
 と矢代はサロンに出ている千鶴子の様子を想像して笑った。
「ほんとに見ていただきたいわ。そのうち、一度オペラへ行きましょうよ。ね。」
 と千鶴子は明るい顔で矢代を見上げた。
「それや、賛成だな。」と矢代も愉快そうに空を見て云った。


 ルクサンブールの公園の、ある繁みの下にある鉄のベンチは、矢代と千鶴子の休息の場所になって来た。矢代は自分の仕事の歴史の著述を一つするためにも、もうそろそろ皆から別れて一人ドイツへ旅立たねばならぬと思っていた。またもう一度パリへ戻って来るとはいえ、そのときには千鶴子はここにいるかどうかも分らなかったが、まだ二人は別れ難ない友情にまでどちらも深まってはいなかった。ただ季節は五月で、一本の樹の花を眺めてさえ心に火の点くような美しさを感じるのに、それが街街の通りや公園に咲きあふれているマロニエの花の眺めである。矢代もこのうっとりとする旅の景色を一人で眺め暮すよりも、二人で眺め楽しみたいと思った。
 しかし、この五月の一番見事な季節になってから、パリの街街には左翼の波の色彩もだんだん色濃く揺れ始めて来た。殊に総選挙の結果、社会党の大勢が明瞭に勝ち始めてからは一層それが激しくなるのだった。
 こんな日のよく晴れたある午後また千鶴子と矢代は公園で会った。
 靴先のひどく立派に光った老夫婦がゆるやかに足を揃えて歩いて来る。その木の間のどこからか、弾んだゴム毬のだんだん力を失う音がした。
 二人は無言のまま青芝の上に散っている鳩の羽毛を眺めているとき、急に千鶴子は思い出し笑いをして口に手をあてた。
「先日塩野さんが、ノートル・ダムの写真を撮りにいらしったんですのよ。あの方、お写真の方が専門だから、いろいろな角度からお撮りになっているうちに、とうとう鳩の糞のいっぱいある地面へ仰向きに寝転がって、上へカメラを向けたの。そしたら、傍で見ていたアメリカの観光客の一人が、自分もその通りに仰向きに寝て撮ってみてるの。」
 矢代もおかしくなってつい笑いながら云った。
「塩野という人は、なかなか気持ちのいい方ですね。まだ長くこちらにいらっしゃるんですか。」
「何んですか、もうすぐ帰るようなこと仰言ってたわ、ノートル・ダムを撮ったのを全部集めて本にしたら、もうそれでいいんですって。」
 もう日本へ帰るのだという人のことを聞く度びに、矢代は羨ましい気持が失せなかった。
「千鶴子さんはいつごろ帰る予定ですか。」
「あたしはいつだっていいんですのよ。ただね、暇なうちに一度こちらを見ておかないと、女ですから、見る機会がなくなるでしょう。」
「じゃ、なるたけ今のうちに、いろんな所を廻られる方がいいな。でも、よく御両親があなた一人を放されたものですね。」
 と矢代はいつも訊き忘れていた疑問を自然に訊ねてみるのだった。特別に信用されている自分を説明するのに困るらしい千鶴子は、
「それや、兄がこちらにいるからでしょう。別に何も云いませんでしたわ。」
 と短く答えた。
「しかし、兄さんも御心配じゃありませんでしたか。パリへあなた一人でいらっしゃるの。」
「そんな事、兄なんか心配してくれるものですか。それに、お船の中のお友達のこと、あたし兄に話したんですもの。」
 矢代は黙って頷いたが、千鶴子の一人旅は良い結婚の相手の選択の機会を彼女に与えるために、兄も両親も赦したのにちがいないのであってみれば、自分が千鶴子へ馴馴しくすることは、それだけ彼女の良縁を払い落す結果になっているのかもしれぬと思った。
 しかし、ヨーロッパへ来る婦人たちは、男性と違って自分の研究目的を明らさまにするのを嫌う習癖の多いのを聞き知っていたので、千鶴子もこれでひそかに研究する何事かあるのだろうと矢代も思っていたのだった。
「千鶴子さんはわざわざパリまでいらしって、何か研究してらっしゃればいいでしょう。そんなおつもりなんですか。」
「あたしはただ見るだけにしたいと思ってますのよ。でも、あたしなんか、何も出来ないつまらない女なんですもの、ですから、まア普通に働かねばならない方に比べて幾らか仕合せな方だから、なるたけ与えられた仕合せだけでも、楽しく守っていなければ、罰があたると思いますの。ね、そうじやありません。」
 千鶴子の考え方には矢代もすぐ返事をすることが出来なかった。自分の幸福なときにその幸福を守りたいと願う婦人の苦心が、いかにも一見反省の足りない考えかのように思われがちな社会になりつつあるのだった。
「あなたのお考えにはなかなか大胆なところがあるんですね。」
 と矢代は当面の答えとして先ず安全と思えることを云った。
「だって、あたしたち、なかなか幸福は得られないんですもの。あたしには少し人より早く幸福らしいものが来たんですから、やはり大切にしたいわ。あたし、何んでもそう思いますの。いけないかしら。」
 千鶴子は優しい眼ざしで矢代の眼を窺った。
「それや、それより本当のことってないんですからね。誰も彼もみなあなたのような気持ちになりたければこそ、騒いでるんでしょう。今パリがそうだ。」
「そうかしら。」
 千鶴子は思いがけないことを云われたように微笑しながら、梢の間に動く早い断雲に眼を向けた。自転車に乗って来た子供の太股の白さに日光が射していて、微風に蔓草の揺れる間を、切れるようなズボンの折目の正しい紳士が一人静かに歩いて来た。
「でも、あたし、実は何も考えることがないんですのよ。何かしら、高いお山の上に立って遠い所を見てるようよ。」
「ふむふむ。」と矢代もただ軽く頷くだけだった。見るだけ見ておけば良いときに、他人の欠点や美点をあげつらう気力は今の彼にはもうなかった。
 後ろの方の小説の音読をしてやっている老婆の傍で、黙って聞いていた他の老婆が、小説の進むにつれときどき驚きの声を上げた。細い山査子(さんざし)の花が、畝の厚い縮緬皺の葉の中から、珊瑚に似た妖艶な色を浮べているのを矢代はじっと見ていると、傍の千鶴子もだんだん花そのもののように見えて来るのだった。
「何んて美しい花だろう。」
と矢代は思わず云った。
 人と花とがこんなに一つに見えるということは、今までの彼にはまだ一度も経験のないことだった。胸は溺れるように危い心を湛えているのを覆すまいとしながらも、また危さに近づくように山査子のその巧緻な花を、身を傾け眼をすがめ飽かず矢代は眺めずにはいられなかった。二人は公園の中を廻り池の傍へ出たときに、
「今夜はアルサスの羊が食べたいわ。ね、アルサス料理になさらない?」
 と千鶴子はいつもとは違い感覚の行きわたった軽快な微笑で矢代を誘った。
 樹間をぬけ日のよくあたる広場へ出ると、またそこには一面の山査子(さんざし)だった。初めは人に気附かせぬ花である。しかし、一度びはっと人を打つと、心をずるずる崩してしまわねばやまぬ花だった。
 矢代は千鶴子に近づく思いでまた酔うように山査子の花の下へ歩みよったが、これではいつドイツへ一人旅立つことが出来るのだろうかと、だんだん怪しくなって来るのだった。


 二週間毎にマルセーユへ著く郵船の船と、シベリアを廻って来た汽車から新しい日本人がパリへ現れた。ドームにいても矢代は日日古参になって行く自分を感じた。妻を日本に残して来ている日本人たちは、シベリアから来る妻の手紙のない週は誰も憂鬱そうにしていたが、手紙の来た日は暢暢と元気が良く一眼でそれと見当がついた。中には恋人から来る手紙に不安な箇所が現れたというので、一寸一ヵ月日本まで走って帰ってまた来るという青年もいた。そうかと思うと、日本にいる細君に宛て、愛人が出来たが心配をするななどと、わざわざ書いて出す剽軽なものもあった。
 しかし、総じて二、三年パリにいる人という者は、新参の日本人に一番冷淡でうるさがったし、またこれらの人人は最も激しいヨーロッパ主義者であることには一致していた。しかし、こんな人人が日本を軽蔑する理由は、すべて日本人がヨーロッパを真似し切れぬという一事に帰していた。なるほど、彼らの云うように日本には悪い所が多かった。第一に貧民が多い。肺病が満ちている。農民が娘を売るほど野蛮である。公娼が都市発展の先頭に立って活躍する。知識ある者が他人の欠点を鵜の目鷹の目で探し廻る。文化といえばヨーロッパとアメリカの混合である。悪点を数え上げれば、およそ良い所がどこにあるのかと云いたいほど数限りもなく沢山にあった。しかし、も少し考えると、それらの欠点は日本人の美点から生れて来た、他国には見られぬ花の名残りとも見られる球根につづいていた。またよし譬えそれらが汚点としたところで、矢代は、それらのいかなる悪点よりも、自然を喜ぶ日本の文明の中には悪人が少いと云う美点を何より喜ぶのであった。彼はこのような自分の考えの中に野蛮人が棲んでいることを感じないではなかった。しかし、それはヨーロッパの知識の中に潜んでいる野蛮さとはおよそ違った感情の美を愛する蛮人だと思った。矢代は自分の仕事の歴史の著述を進める上にも、一度この違いを突きつめてみてから根拠をそこに置き、人間の生活の発展に連絡をつけねばならぬと考えるのであった。このような考えが日に深まるにつれ、彼はいよいよパリをひとり放れてゆく決心もついて来たが、千鶴子という一個人にふと想いが捉われると、頭の中に描かれてゆく人間の歴史も停頓する微妙さに、これはただの冗談ではすまされぬ人間の基本の苦しさだと苦笑し、あきらめ、また味いつつ、さらにこの思い切り難い心の切なさから、欲深く思想の本体さえ掴みしめたいとも思うのだった。
 ある日、ドームで千鶴子と矢代がショコラを飲んでいると、丁度二人の前で、黒人の女と白人の男がしきりに何事か睦まじそうに話し込んでいたことがあった。
 矢代は見ているうちに、どうしても一致することの出来ない人種の見本を眼のあたり見ている思いに突き落され、その二人の間の明白な隙間に、絶望に似た空しい断層を感じて涙がにじみ上って来た。こんなことにどうして涙が出るのだろう。これは自分もよほど神経衰弱が嵩じているのだなと思い、なおもじっと二人を見ていると、見れば見るほど涙がとめどなく流れ出て来た。
「いやね、どうなすったの。」
 と千鶴子も矢代の涙を見たものと見え、そう訊ねた。
「何んでもないですよ、ここはもう、人を愛するなどということは出来ないとこだと、分って来ましたね。」
「どうして?」
 千鶴子は一瞬眼を光らせて矢代を見た。
「愛じゃもうここは運転しない。技術ばかりなんだ。それももう技術まで終りになって来たのだなア。」
「じゃ、何があるの。」
「何もない。」
 千鶴子にはもう矢代の気持ちが全く分らなくなったらしい驚きの表情で黙った。
「しかし、僕はパリがこのごろだんだん好きになって来たのは、ここには僕らの求めるものが、何もないからだということが、分って来たからですよ。力の延びてしまった横綱の負けてばかりいる角力を見ているみたいなもので、化粧廻だけ見ている分には、のどかな気分で、気骨が折れないからな。」
 ぶつりぶつりと切りまくってゆくような矢代の云い方は、ただ乱暴なというより、捨身のような快感に自分を晒し出したい切なさがあったが、事実矢代はこういうと同時に、自分の言葉の強さに随って幾らか安らかになるのだった。
「ここは人の休みに来るところね。休もうと思えば幾らでも休める所ですものね。」
 と千鶴子も、今は当らず触らぬことを云って矢代のいら立たしさを慰めようとするのだった。
「そうそう。人が休むときには、どんな顔をして休むものか、僕らは見に来たようなものですよ。僕はここでいろいろなことを考えたけれども、結局、人は働かねばいられぬということだけが明瞭になりましたね。心の故郷というのは、働くということより何もないのですよ。」
 千鶴子は、はっきり手の指の影まで映る道路の面から、照り返っている真鍮の鋲の光りに眼を細め、
「でも、それは皮肉よ。あたしなんか何も働けないんですもの。これ、こんな手。」
 と矢代の前へ一寸両手を出して見て笑った。
「あなたなんかは物の批評眼を養いに来たんですよ。パリなんてところは、僕らの生きている時代に、これ以上の文化が絶対に二つと出ることのない都会ですからね。見ただけでもう後は一生の間、何んだって安心して批評が出来ましょう。だから、ここにいるからには遊ばなきア損ですよ。日本の農村の売られる娘のことなんか考えていちゃ、ここでは力は養えない。」
「じゃ、あたし、サロンへまた行ってもいいんですのね、それをこの間から伺いたかったの。」
「あなたなんかしっかりと遊べるだけ遊んで帰りなさいよ。それがあなたの務めだ。人に気がねなんか今しちゃ駄目だな。」
 矢代にしては思いがけない答えを引き出した喜びに千鶴子は肩を縮めて見せ、
「それであたしも安心したわ。実は明日の夜も六時から、一つ出るところがあるの。プレデイリ・オネーの頭取さんのサロンよ。」
「とにかく、僕もあなたと楽しく遊ばせてもらいましたが、もうそろそろお別れしましょう。僕はミュンヘンからウィーンの方へ行かなくちゃならんのですよ。」
 云い難かったことも矢代は意外に躊躇なくそんなに云うことが出来ると、いよいよそれではもう実行にかかるべきときが来たと、心をひき緊めて行くべき遠くの空を胸に思い描くのだった。千鶴子は矢代の突然の話も、さきからの彼のいつものと違う変化を知っているためか、さして驚いた風はなかった。
「じゃ、景色のいい所があったら、電報を打ってちょうだい。そしたらあたしすぐ行きましてよ。行く先のホテルの日を験べておいていただけないかしら。」
「そうしましよう。」
 と矢代は云った。しかし、彼は心中、もうこのあたりで千鶴子とは別れてしまい一生再び彼女とは逢わない決心だった。もしこれ以上逢うようなら、心の均衡はなくなって、日本へ帰ってまでも彼女に狂奔して行く見苦しさを続ける上に、金銭の不足な自分の勉学が千鶴子を養いつづける労苦に打ち負かされてしまうのは、火を見るよりも明らかなことであった。
 矢代は千鶴子のホテルの方へ彼女を送って行きながら、こうして愛する証左の言葉を一口も云わずにすませたのも、これも異国の旅の賜物だと思った。建物の上層ほのかに射している日光を仰ぐと穏かな浮雲が流れていた。雨に流され鋪道の石の間に溜りつつ乾いた綿のような軽い花の群れが、自動車の通る度びに舞い上り、車輪に吸い込まれて渦巻きながら追っていった。


 パリを出発してから矢代は南ドイツに入り小都会や地方を廻ってチロルの方へ出て来た。
 オーストリアと、ドイツ、イタリア、スイスに跨った山岳地方一帯の地名をチロルと呼ぶが、矢代は東京を出て以来、日本人から全く放れて一人になったのはこの旅行が初めであった。このあたりは矢代の知っている言葉はほとんど通用しなかった。日本人の顔とては一人もなく、言葉も全く通じないということは、ときにはこれほども気楽で楽しいものかと思ったほど、矢代は真に孤独の味いを飲み尽した。ああ、こんな楽しいことが世の中にあったのか。と、彼は汽車の窓から外を見る度びに、心が笛を吹くように澄み透るのを感じた。身体も絶えず真水で洗われているようであった。ときどき湖水が森の中から現れたり消えたりしたが、地図など拡げてみようともしなかった。
 矢代は千鶴子のことを思い出すこともあったが、今は彼女と別れて来たことを良いことをしたと思った。一人になってから車中や街中でふと肉感の強い女性を見ると、泥手で肌を撫で上げられたような不快さに襲われた。
 南ドイツの国境近くになって来ると、牧場の花の中に直立している岩石の上から氷河の流れ下っている山脈が増して来た。全山貝殻の裏のような淡い七色の光りを放った絶壁が浮雲に中断され澄み渡った空の中に聳えている間を曲り曲って行くのだった。そして、オーストリアの国境あたりまで辿りついたときに初めて矢代は汽車から降ろされた。
 乗り換えのない汽車だと聞かされてあったので、その村里の寒駅へ放り出されては、何事がひき起されたのか全く矢代には分らなかった。むかし習って忘れてしまったドイツ語で、ようやく次の列車を二時間半も待たねばならぬと知ったときには、むしろ、矢代はこれ幸いと思い、駅前の花野の中のベンチに腰を降ろした。
 高原を通って眼にして来た山山の中、今矢代の仰いでいる寸前の山ほど彼を驚かしたものはまたとなかった。巨大なミルクの塊のようで一条の草もない。空よりも高く突き抜けているかと見える頂から、氷河を垂らしたその姿は、見れば見るほどこの世の物とは思えなかった。あまり見惚れていたものか首の後ろが疲れて来たが、彼は花を摘みつつ歩いては山をまたぼんやりと眺めてみた。
 そのうちに疲れが全身に廻っていると見えて、眠くもないのに瞼がだんだん塞がって来た。彼は眼をこすりこすり幾度も山を仰いでいると、あたりがぼうと霞んで来た。これはいよいよやられたなと矢代は思った。日本を出発するとき衰弱の激しかった彼は、多分旅中死ぬかもしれぬと自分で思い、友人の二三の者から注意をされたのも思い起すと、やはりこの一人旅行は無事ではすむまいと覚悟した。しかし、今は矢代は楽しさに胸のふくるる思いであった。花野の中に一軒見えた茶店へ這入り、屋外の椅子にかけて牛乳を註文した。ビールを飲む大きなコップに搾りたての冷たい牛乳を、足をはだかり山を仰いで傾けていると、山も雲も氷河もともに冷たく咽喉へ辷り流れて来るのであった。
 足のぎしぎし鳴る椅子に反り返り矢代は、周囲の高原を見廻してはまた牛乳を飲んだ。青青とした牧草が一面に花筒を揃え氷河の下まで這い連って消えている。後方の樹木の多い山の中腹にはホテルや別荘が建っていたが、人通りは花摘みに行った別荘の娘たちの日に焦げた姿が多かった。
「絵葉書が欲しいんだが。」
 と矢代は茶店の主婦に云ってみた。主婦はしばらく顔色を見ていてから絵葉書を出して来たが、高山植物の葉書に混った中に二枚、角の生えた鹿の傍に卵の殻から生れて来る鹿の子の写真があった。ここの鹿は卵から生れるのであろうかと矢代はまたもびっくりした。景色までここは現世のものではないだけに、流石に生物も自から違うのであろうと思い、これで何よりの土産になったと、疲労も忘れて元気になったが、店を出て駅の方へ歩いて行くと、また眼がくらみそうに疲れを覚えた。眼前に突っ立っているミルクの巨塊のような山を見るまでは、疲れもさして覚えなかった筈だのに、この不思議な山を見て以来、のしかかられるような疲労に襲われるのは、これはいったいどうしたというのだろう。――
 矢代は小首をかしげ道の中央に立ちはだかったまま、なお山を眺めつづけてやめなかった。すると、雲つくばかりのそのミルクの巨塊は静かに潜んだ雷電の巣のように見えて来て、見れば見るほど力が胸から吸いとられていくのだった。
「この山は見ると悪いのだな。」
 と矢代は思った。彼は汽車の来るまで山の見えない待合室に隠れ、自分の荷物の傍へよりそっていたが、どうにもその不思議な山が気にかかり、ときどき屋根の下から出てみてこっそり山を仰いだ。すると、その度びに脊骨の中が暗鬱な痛みを覚え、周章(あわ)ててまた屋根の下へもぐり込んだ。
 時間になって軽便のような汽車が著いた。矢代は汽車に乗るとまた幾らか気持ちを取り戻した。窓から石炭の粉がひどく這入って来たが、レールの周囲の高原は眼を奪うばかりの花で満ちて来た。彼は窓から首を出し、花の中を割るようにして曲ってゆく汽車を見ていると、ぼこぼこ煙を吐き出している苦しげな機関車が道化た老人じみて面白かった。牧草の花の向うに氷河を流したスイスの山山が連って現れた。羊の群れが山峡の草の中を地を這う煙のようにぼッと霞んで見えたと思うまに、また花に満ちた高原が両側につづいた。
 こんな綺麗なところなら今夜ホテルへ著いてから千鶴子へ約束の電報を打っても良いと矢代は思った。パリを出発するときチロルへ著く日と宿とを報らせておいたから、あるいは久慈だけでも今ごろ先に宿に著いているかも知れぬと思われたが、それでもまだ当分彼は久慈に逢いたいと思わなかった。
 パリにいるときさまざまな議論をしたことなど考えると、久慈への懐しさは日に倍して来て、彼はもう永らく一言も饒舌らぬ日本語をぶつぶつと久慈に向ってひとり呟くほどだったが、まだ言葉の分らぬこの一人旅行の楽しさは、今も何物にも換え難かった。
「こんな所へ来ないなんて、馬鹿だな君は、何んて馬鹿だ。」
 矢代は声に出してこんなに云ったりした。そして、窓枠に顎をつけ、山脈を蔽った氷河を見ていると、世界の空気が自分一人に尽く与えられたように感じられ、涙が溢れて来て幾度も眼を拭いた。何というか、それは生れて以来の時間の重みが一時に解き放され、羽搏き上った放楽のような夢に似ていた。
 彼は窓から乗り出すようにして繰り現れる景色の一点も見逃すまいとした。色とりどりの花の波が高く低くうねりながら古城を巻き包んでいる。少女がその高原の中を真直ぐに自転車のペダルを踏んでいく。霧が谷間から湧き上って来る。
「いや、来て良かった。もう何ものも要らん。」
 深く頷く矢代の眼の前で機関車は、高原の風景はまだまだこれからだと云わぬばかりに無限に頁を繰り拡げていくのだった。こうして、日の暮れかかる前にようやくチロルのインスブルックへ著いたときは、矢代はがっかりと疲れてしまった。
 クックであらかじめとって貰って置いたホテル・カイザは駅からすぐだった。彼は久慈から手紙でも来ていないかと思い訊ねてみるとそれはまだだったが、出された宿帳へ名を書き入れてふと自分の名の上の署名を見ると、千鶴子の名が見覚えの筆跡で書いてあった。
 疲れとともにようやく人恋しさの加わっているときだったので、矢代はあたりの室内が急に体温に温められた明るさで満ちて来た。案内されて登る未知の階段ももう自分のもののような手触りを感じ、せかせかと馳け登りたい親しさだった。定められた部屋で旅装を解いてから、矢代はすぐ千鶴子の部屋を訊ねてドアを叩いてみた。
「あんとれ。」
 と中から声があり矢代はドアを開けた。
「あら。」手紙を書いていた千鶴子は、振り向くと同時に急に安心したようにペンを投げ出して立って来た。
「あたし、ひやひやしてましたのよ、今朝著いたんだけど、もしかして矢代さん、いらっしゃらなければどうしょうかと思ってたところなの。」
 矢代は一瞬菊の香りに似た風が千鶴子の身体から吹き込んで来るように思われた。
「まア、青いお顔よ、お疲れになったの。」
 心配そうに云う千鶴子の前に立ったまま、矢代は、
「よく分りましたですね。」
 と云ってしっかり握手をした。全く彼は夢想もしなかった喜びに、煌煌と火の這入った満された思いでしばらく茫然として部屋の中を眺めていた。
「日本語を使うのは今日初めてですよ。何んだか変だな。」
「でも、御無事で良かったわ。」
「無事は無事ですが、夢を見てるみたいだ。僕は今来る途中で、とてつもない山を見ましてね、入道雲のような山なんですが、山全体が磁石で出来てるようなもので、そ奴を見ると、疲れてへとへとになるんですよ。」
 云うことがどうも頓珍漢になりそうなほど突然の気楽さのためか、事実二人がここにいるということだけで話などはもうどうでも良いのだった。
「まア、どんな山?」
 と千鶴子もこう訊き返したものの深く訊きたい様子はさらになかった。矢代は痛んで来た肩を操みつつ、
「さア、絵葉書にはミッテンワルドと書いてあるんだが、口の中で繰り返して云ってると、見ると悪いぞという意味になって来て、驚いて逃げて来たところなんです。」
 二人は笑いながら長椅子にかけて向い合った。
「でも、この街もあたし、不思議なところだと思いましたわ。」
「そうだ、ここも恐ろしいところだな。何しろ、見ると悪いぞのつづきだから。」
 窓から見える所だけでも、犀の肌のような樹のない石の高山の頂から、街の上まで氷河が流れ降りていた。三方から垂れ流れたその氷河の狭い底辺に、森閑として建っている大都会がこの街であった。一条の塵も落さぬ清潔さでサフランの花の満ちた牧場に包まれたこの街は、最上の彫刻を見ているような深く冷たい襞を貯えて静まっていた。
「もう夕暮だからいいけれども、お昼にあの山を見ていると恐くなって慄えて来るようよ。あたし、こんな所に一人でなら一日もいられないわ。」
 矢代は山を見ていると、永久に腐らぬ悲しみというようなものが満ちて来て、久し振り千鶴子に逢った感動も岩の冷たさに吸いとられていくのを感じた。それは冷厳無比な智力に肌をひっ附けているような、抵抗し難い命数に刻刻迫られる思いに似ていた。
「これはミッテンワルドより一層たまらないな。しかし、明日は一つ、あの山の上へ登ってやろう。」
 矢代はこう云って山に背を向けてから久慈や東野のその後の動静を訊ねるのだった。
 入浴して後二人は夕食をとり、旅の話をしているときから雨が降って来た。夜の散歩も雨のやむのを待ってからにしようと云って、二人は矢代の部屋でまた話をしていると、雨は夕立となり篠つくばかりの激しさになって来た。
 矢代は疲れて千鶴子と別れその夜は早く眠ることにしたが、雨の音の激しさに灯を消しても寝つかれなかった。彼はまた起きると、カーテンを上げ、窓に肱をついて山の方を仰いでみた。氷河を貫くように斜に降る強い雨足が、建物に衝り爆け、石の壁を伝って流れ落ちると、道路の上で音立てて崩れていった。
 昼間の日光に温まった山山の岩も冷えて来たのであろう。急に冷くなった空気に矢代の身体は縮まったが、人一人も見えぬ彫りの深い夜の街に雨の降り込む美しさは、鬼気身に沁み込む凄絶な趣きだった。
 矢代は、暫くしてノックの音が聞えたのでドアの鍵を廻すと、千鶴子が真白な服で立っていた。
「あたし、恐くって眠れないのよ。もう少しお話してちょうだい。」
 寒さに慄えるように千鶴子は肩を縮めて這入って来た。
「ひどい雨ですね。僕も眠れないもんだから雨を見てたところです。閉めましょうか。」
「いえ、いいわ。」
 こう云っているとき、強い稲妻が真近の空で閃いた。氷河が青く浮き上ったと見る間にびりびりと震え、梭(ひ)のように山から山へ閃光が飛び移った。
 千鶴子は耳を蔽って椅子の背に小さくなっていたが、稲妻はひきつづき山を喰い破らんばかりの音立てて閃いた。矢代は窓を閉めた。
「あの山は鉄ばかりだから雷が集って来る。戦争みたいなものだ。」
 千鶴子はまだ耳を塞いでいるので矢代の言葉は聞えぬらしかった。
「こんな恐しいところ、あたしいやだわ、早くパリへ帰りましょうよ。」
「凄いなア。」
 長椅子の上へもたれかかって矢代は煙草に火を点け、まだどこまで続くか分らぬ空の光りを眺めていた。雨脚が白い林となって吹き襲った。
「あら、また。」
 と千鶴子は青くなった。爆烈して来る音響の中で明滅する氷河は、夜の世界を守護している重厚な神に似ていた。矢代は身を切り落されるような切実な快感に疲れも忘れさらに続く閃光を待つのだった。稲妻に照し出される度に表情を失い、白い衣の中でい竦んだ雌蕋に見える千鶴子が、矢代には美しかった。
「あたし今夜は眠れないわ。雷が一番恐ろしいの。」
「じゃ、この部屋でやすんでらっしゃい。良い時刻が来たら起して上げますから。」
 千鶴子は聞えたのか聞えぬのか黙ってやはりそのまま動かなかった。間もなくだんだん雷は鎮まって雨も小降りになって来ると空気が一層冷えて来た。千鶴子の顔は再び生気を取り戻して動き出した。雨が全くやまったとき二人は久慈にあてて、チロルの山の恐ろしさ美しさを寄せ書きしてまた遅くまで話し込んだ。


 少しの雲もない朝である。ロココ風な等身大の肖像画のかかった食堂で矢代は千鶴子と食事をした。朝の日光がもう白い食卓の薔薇の上まで拡っている部屋の、旅客の誰もいない遅い朝食も、二人には却ってのびのびとした気楽さだった。食事をすませてから二人は街へ出た。澄みわたった空に浮き上ったまま、触れんばかりに街を取り包んでいる氷河は、海浜に連り立った爽やかな白い建物を見る思いであった。しかし、それも長く見つづけているうちに、山山の肌は深海を覗くような暈(めまい)を感じさせる。千鶴子は装飾窓にかかっている土地製のチロル帽を欲しがって店店を廻った。
「これどう。あたしに」
 おから型の縁を縄のように縒ったリボンのチロル帽は、都会の婦人に喜ばれる風だったが、それも旅の愁いの現れに似ていた。この街には土地の者はあまり見えず、滞在客にイギリスやドイツから来る旅人が多いらしい。装飾窓の品品も写真機とか山岳地の木彫の玩具とか、民芸風のリボン、帽子などが多かった。絵葉書の絵にも氷河を後ろに旅人と別れを惜しむ土地の娘の悲しさがあり、遠い異国の方へ流れる雨の行方を見つづける人の姿絵なども、矢代には旅の感傷となって生きて来た。
「ほんとに、ここはあんまり静かで、耳が痛くなるようね。」
 靴の音の響き返る鋪道を歩きながらも、建物の間からふと見える氷河の根を見て千鶴子は立ち停った。
「東野さんもいらっしゃれば、きっとまたここで俳句をお作りになることよ。ブロウニュの湖水では、面白うござんしたわね。」
 矢代はいちいち軽く頷きつつ公園の方へ歩いた。街の端れにある公園は矢代の見て来たどこの公園よりも美しかった。地の上まで枝を垂らしている大樹の間から、鉛色の山肌に下った氷河が鋭く、手も届きそうであった。
「今日は暑くなりそうね。きっとあの山が焼けて来たからだわ。」
 ハーフレカールの山頂の迫った下にテラスがあった。樹陰いちめん白布を敷いたテーブルが並んでいて、一人の客もない白い広さの中に二人は休み、ミルクを註文した。鶯の老けた声が小鳥の囀りを圧して梢から絶えず聞えて来た。昨夜の雨でまだ濡れている日蔭の道を、ウィーン風の立派な白い髯の老紳士が、杖をつきつき衰えた歩みを運んで来る。千鶴子は口についたミルクを手巾で拭きながら、
「あなたも俳句お作りになるといいわ。」
 と矢代にすすめて笑った。
「もうそれどころじゃない。こんなところにいると、何をしていいか分らなくなりますね。まるで馬鹿みたいだ。」
 足もとへ擦りよって来る栗鼠の敏捷に動く尾を見降ろしていた矢代は、全く張りのなくなったように、清澄な空気の中で今にも欠伸の出そうな顔であった。
「こんな美しいところで人間が一生棲んでいたら、非常に勉強したくなるか、博奕ばかりやりたくなるかもしれないな。」
「でも、ここはオーストリアじゃ、一番お金持の多いところだそうでしてよ。」
「それや、人の胆をこんなに抜けば、お金は儲かりましょう。氷河で儲けようってんですからね。」
 大樹の繁った園内では真空のように一本の木の葉も動かなかった。小鳥の声のよく響く樹幹をめぐり、薄紅色の紫陽花の群れが蜂を集めている。矢代は片頬を肱で支えテーブルに凭れているうちに、卓布の上を這う山蟻がだんだん大きく見えて来た。身体が浮き上っていくのか沈み込んでゆくのか分り難い。日光のあたっている胸が気だるく大儀になると、「さア」と矢代は云いつつゆるりと立った。木蔭の所どころに塊っているベンチの人も、物云う者は誰もなかった。どの樹も小鳥の声の泉かと見える。幹を降り辷って来る栗鼠だけが、氷河の襞に湧く虫のように自由にぱちぱち這い競って動いていた。
「お昼から山へ登りましょうね。あたし、写真機を買おうかしら。」
 千鶴子ももう云うことがないのだと思うと、一口の無意味な彼女の言葉も、両手で受けたく清らかに矢代には見えるのだった。
「あなた写真お上手ですか。」
「それが駄目なの。でも、撮れればいいわ、きっと後で失敗ったと思うんですものね。」
 と身の廻りでほッと開く連翹のような鮮やかさで笑む千鶴子を、樹陰からこぼれ落ちる日光の斑点の中で、矢代はただ今は頷くばかりである。
 写真機を千鶴子一人に買わせるよりも、二人で買う方が旅の記念にもなると思い、矢代は等分に金を出し合うことを主張して、ある店で手ごろなシュウパアシックスを買った。
「あたし、この写真機いただくわ。でも、それはあなたとお別れするときでいいんですのよ。大切にしまっときたいと思うの。」
 こう云う千鶴子に勿論矢代は異議がなかった。間もなく必ず別れねばならぬ二人である。そして、そのように思っても別に悲しみを感じない。異国の旅にふと出会ったかりそめの友情であってみれば、日本にいたときの互の過去さえすでに白紙であり、またそれをどちらも探り合う要もない、共通の淋しさ儚なさを守り合う身に沁む歎きはあるとはいえ、それはただ甘美な旅の情緒にすぎない。
「まア、自転車のチェーン、こんなによく聞える街って、珍らしいわ。」
 教会堂の高い十字の下で、千鶴子は塵一つない通りを辷って行く自転車を振り返って云った。どの街にも人はあまりいなかった。彫り深い彫刻のようなその静かな通りに、生き生きと影だけ明瞭に呼吸しているこの都会の奇怪さも、氷河を見馴れてしまった矢代には自然だった。ふと覗く店店からも時計の音が際立って高く聞えた。


 昼食の後矢代と千鶴子は登山バスに乗って山の中腹まで行った。バスの中の人人はそこのホテルへ帰るものや、山頂へ行くものたちであったが、詰っている周囲の顔も、もう矢代たちにはどれも外人の顔のようには見えなかった。いつの間にか違う種族の人間も、東京の街角でバスの来るのを待ち合う顔と同じに見えている二人だった。
 山の中腹でケーブルに乗り換え、さらに山頂まで二度ほどのレールを変えた。ケーブルの下は花の野の斜面であった。街が次第に低く沈むに随い、横を流れる河が渓間に添いウィーンの平野の方へ徐徐に開けて行くのが見えた。終点の駅は旅宿をもかねていた。人人はそこのホールで皆足をとどめて眺望を楽しみ、そこからまた下へ降りるのであったが、矢代たちは駅から放れてまた頂の方へ登っていった。もう後からは誰も来なかった。
 樹の一本もない山路である。路の両側には氷のように塊った残雪が傾いて流れていた。雪のない所は地を這ったねじれた灌木が満ち、一面に馬酔木(あしび)の花のような小粒な花の袋をつけていた。
「あらあら、牛がいるわ。」
 と千鶴子は云って谷の方を覗いた。
 一面のサフランの花を麓から押し上げている牧場を登って来た牛である。牛は首の鈴を鳴らせつつひとり雪の中を歩いていた。氷河の溶けて流れる水音がときどき雨かと矢代の耳を引いた。靴底に痛みを覚える石ころ路にかかると、スイスの山の方に流れる雲もだんだんと低くなって来た。
「あたしのいるこのあたり、もうこれでスイスかしら。まだだわね。」
 山山の連りをぐるりと見廻す千鶴子の胴の黄色なベルトが、今はただ一本の人里の匂いであった。
 山の頂を横にそれ曲った所に山小屋があった。矢代はピッケルを二本と、靴下とサンドウィッチをそこで買い、千鶴子と頒け持ってまた山路を歩いた。小舎の番人から、間もなく見える氷河を渡らねば向うの山頂へ出る路は断たれていると聞き、思い出にそこを一度渡ってみようと云うので、買物の準備を一応してみたものの、その氷河の幅を見なければまだ二人には決心がつきかねた。
「塩野さんも去年そこの氷河を渡ったとか、仰言ってましてよ。そこを渡ると、向うの谷間に、羊の群が沢山いるんですって。」
 千鶴子は子供っぽく眼を輝かせて矢代を見ながら、
「ね、それを見ましょうよ。夕暮になると、羊飼いがチロルの歌を唄って羊を集めるんですって。その美しいことって、もう何んとも云われないって、そんなに云ってらしたわ。それを見ましょうよ。」
「見るのは良いが夕暮じゃもう帰れないでしょう。」と当惑げに矢代は云った。
「でも、山小舎があるから、そこで泊れるんだそうですよ。その代りに、乾草の中で眠るんですって。」
「それもいいな。」
「ホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。そこで今夜はやすみましょうよ。」
 他人は誰も見ていないと云え、自分の愛人でもない良家の令嬢と、何の結婚の意志なく乾草の中で眠ることについては、ふと矢代も躊躇して黙っていた。しかし、千鶴子が少しの懼れも感じず云い出すその無邪気さは、パリでの度び度びの二人の危険も見事に擦りぬけて来た美しさであった。また矢代もそれに何の怪しみも感じない旅人の心を、簡単に身につけてしまっている今である。
「じゃ、行きましょうか。しかし、僕よりあなた辛抱出来ますかね。」
 と矢代は千鶴子の服装を見て云った。
「あたしはホテルで泊るより、どんなにいいかしれないわ。チロルへ来たからには、チロルらしい方がずっと面白いんですもの。」
 相談が定ると二人は一層元気が増して来た。蜜蜂の群れが山路の両側で唸りをたてて飛び廻っていた。ドイツの国境の山山は藍紫色の断崖となって立ち連り、中腹を断ち切った白雲の棚曳く糸が、その下の渓谷の鋭さを示しながら、尾根から尾根の胴を巻き包んで流れている。もうまったく人里は見えなかった。路を曲ると急に冷気が真新しく顔を打って来た。スイスの山山が天と戯れつつ媚態をくねらせ、日光に浸った全面の賑やかさの中から白い氷の海が見えて来た。
「ああ、あれがそうだわ。あそこを渡るのね。」
 千鶴子は云いながら足早やに路を急いだ。鋸の歯のようにぎざぎざの氷の峰を連ねた半透明の氷河は、かすかに傾いた趣きでいよいよ全幅を二人の前へ現した。矢代は道の尽きたところに立って氷河を見降ろしながら、
「どうもしかし、こ奴はなかなか危険だぞ。」と呟いた。
「じゃ、矢代さんはあたしの後について渡っていらっしゃいよ。あたし、こういうところは案外お上手なの。」
 千鶴子にそう云われてはもう矢代も後へは退けなかった。氷の傍まで降りて行って見ると、氷河は高さ五米ほどの鋭い歯形の起伏を、二町の幅の中にぎっしりと無数に詰め谷間を下へ流れていた。二人は用意の靴下を靴の辷らぬ用心に靴の上から履き込み、手袋をはめて氷河の斜面を登り始めた。
 一つ二つの尾根は矢代が先に立って、靴の踵で氷を傷つけつつ、後の千鶴子の登る足場を造る役目になった。しかし、三つ四つと渡り越すうちに、氷の峰と峰の間の断層が底知れぬ深さを潜めて増して来た。一つ辷って足を踏み脱せばどこまで落ちるか分らぬ断層が、ガラスの断面のようなびいどろ色の口を開け、降りて来る二人の足を待っていた。もう草もなく、いつの間にか二人の周囲はまったく氷ばかりの歯となって来ると、矢代は斜面の急な部分を迂廻する心掛けで、現れて来る不規則な氷の群峰を選び進まねばならなかったが、間断なく同じ動作をつづけるこの氷の歯渡りは、石工のような忍耐が必要だと悟って急がぬ用心をするのだった。
「上から見たときは狭かったようだけど、這入って見ると、ほんとに氷河って大きいものね。」
 千鶴子はピッケルを打ちつけつつ、上から垂らす矢代のバンドを握って云った。
「冷いかと思ったが、そうでもないなア。これ、こんなに汗ですよ。」
「あたしもよ。写真をそのうちどっかで撮りましようね。」
 引き上げられながら登って来る千鶴子を見ながらも、矢代はもう少し自分に力があればと、今は隠せぬ努力の不足に羞恥を感じて歎いた。それも労力だけではなく、智力も同様に貧しい自分について、彼女を引き上げる度びに感じるその操作は、二重の心苦しい瞬間となってときどき矢代の胸を打って来た。これでもし千鶴子と結婚するような機会を持てば――と、ふとそう思う聯想につれても、氷河は自分には天罰を与えた苦手だと彼は苦笑するのだった。
 千鶴子の顔は赤味を帯んで熱して来た。額の生え際に細かい汗をにじませ、股のふくらみを折り曲げつつ、氷の面へせり登って来る千鶴子と見合う視線の閃めきも、冴え返っている白光の中ではただ一点の光りに見えるばかりである。
 鈍い氷の斜面が現れると、二人は腰を氷に附けたままずるずる辷り降りた。鋭い氷山はときどき中央に空洞を開けていて、その穴から向うを辷る千鶴子の姿がよく見えた。尾根の描く氷の歯の先端は、日光のために鈍く溶け崩れていたが、それでも半透明のまま、それぞれの姿態の鋭さで天に向って立っていた。
「一寸矢代さん動かないで。」
 千鶴子は峰に跨がるような姿で矢代にカメラを向けた。断層を飛び渡った矢代は瑠璃色の割れ目の底を覗き込みながらじっとしていた。
「はい有難う。この次、洞があったら、そこからこちらを覗いて下さらない。そこも一つ撮りたいの。」
 細かい砂を少し含んでうす汚れている氷の面は、足場を造る度びに、新しい輝きを壊れた断面から現した。臙脂(えんじ)色の千鶴子の姿が尾根の上に全貌を現したときは、来た峰の上に折れまがった長いその影を取り包んで、七色の彩光が氷の面面に放射していた。
「お疲れになったら、あたしが先に行きましてよ。そう仰言って。」
 と千鶴子は矢代の疲労の色を見てとって云った。
「少少疲れましたね。あなたは山登りはお上手ですか。」
「幾らかだけど、でも矢代さんよりはお上手らしいわ。」
「何んでも僕の方が少しずつ負けなんですね。これや日本人の特性かな。」
 と矢代は云って腰を叩きながら笑った。千鶴子はちらりと微笑をもらしたかと思うと両肱を後ろにつき、曲げた膝にカメラを受けとめ、同じ微笑を崩さずさっと氷の斜面を辷り下った。下にいた矢代は受けたそうな手つきであったが、ねっとり汗ばんだ掌をズボンで拭き拭きまた断層を飛び越えた。
「ここのことかしら、あたし、何んかで読んだ覚えがあるんだけれど、この氷河の断層へ新婚のお婿さんが落ち込んだんだそうですのよ。そうしたところが、死体がいつまでたっても分らないから、花嫁さんは山の麓へ降りていって、氷河の溶けるまで永久に待っていて死んじまったって、あのお話御存知でしよう。」
「そう云えば思い出しましたね。多分その話はここのことかもしれないな。」
「あたしここだと思うの。ここはそういう人の来るところですものね。」
 千鶴子はそう云いながら、ピッケルで欠いた氷の破片を、断層の底へ投げ込んで覗いてみた。破片はすぐ見えなくなったが、屈曲する断面にあたる氷の音が、「ころん、ころん、」と軽やかなわびしい音をたてつづけ、だんだん小さくなりつつ消えていった。
「まアいい音だわ。一寸お聞きになって御覧なさいよ。」
 と千鶴子は矢代を呼んだ。二人は擦りよるように身を蹲め、破片を投げ込んでは断層に耳を近づけた。まったくそれは果てしれぬ氷河の底へ落ち込む虚無の音であった。音が消えてもまだ鳴りつづける幻聴となって、半音を響かせる絃の音に似ていた。矢代は空を仰いだ。日が照り輝いているのに、松柏を渡る風のような虚しさがじっと浮雲を支えていた。
「どっかでサンドウィッチ食べましょうか。お腹が空いて来たわ。」
 延び上って来る千鶴子の肉声が耳もとですると、矢代は腰の手巾の包みを開けて出した。
「こんなところでいやしんぼうすると、断層の中へ落ち込みますよ。」
「じゃ、あなたも召し上れ。」
 手を延ばしてサンドウィッチを取る千鶴子の頬笑みから矢代は目を反らした。心にこれだけは云ってはならぬぞと、云いきかせた二人の慎しみの裂け口を飛び越す思いであった。
「僕は監督だからな。」
 軽く笑いながら自分も食べる矢代を見て、
「おやおや。」
 と云いつつ千鶴子は今度は自分が先に立ち、氷の牙を登っていった。矢代はカメラを千鶴子から受けとった。
 氷の尾根の線に添いおぼろな虹が立っていた。その中をまた二人は登り降りしつづけた。汗が全身に廻って来ると、矢代は、もう身を取り包んでいる周囲が尽く氷河だとは思えなくなって来た。物云うのもだんだん億劫になって来て、足もとに開いた断層も何んの危険な深みとも感じなくなるのだった。
「お疲れになって?」
 千鶴子は氷河の三分の二ほどのところで氷の歯の上に跨がり、矢代を見降ろして訊ねた。矢代は彼女の垂らすバンドに掴まり、「何あに、大丈夫。」と云いつつ登ったが、あたりに漲る強い白光に眉のあたりが痛んで来た。
「そう早く登られちゃ嫉妬を感じるね。」
 冗談にまぎらせてそう呟くものの、事実矢代は氷河の尾根を軽軽と乗り越す千鶴子に疲労の様子の少しもないのを見ては、振り向く度びに胸に光る彼女のブローチの金具が腹立たしかった。
「駄目ね、あなたは。」
 これも冗談とはいえ、彼の体力の不足に刻印を打つように矢代には強く感じられた。ときどき一寸ほどの幅の割れ目が稲妻形に氷の面を走っていた。その割れ目にピッケルをひっかけ、遅れつつ呼吸を途切らせてようやく千鶴子に追いついた矢代は、何んとなく今は彼女に負ける楽しみの方が勝ちまさって来るのだった。
「一寸、千鶴子さん、撮りますよ。」
 矢代は豊かな気持ちのままカメラを千鶴子に向けて云った。千鶴子に用意を与えず峰から振り向いた途端、そこをもう矢代はシャッタを切った。負けた良人が勝ち誇った妻の写真を撮るような快感さえ感じ、矢代はひとり快心の微笑を洩らしながら、
「もう撮りましたよ。どうぞ。」
 と云った。千鶴子は体をねじ向け、「あら、」と不平そうな媚態で氷の矛の上から彼を睨んだ。矢代は上まで登って千鶴子と並んで立った。
「さア、もうこれ一つ渡ればいいのよ。」
「何んとなく楽しかったなア。」
 矢代は越して来た危険に満ちた多難な峰峰を振り返った。並んだ二人の影が西日に長く氷の上に倒れて、そこから七色の放射線が前より一段強く空に跳ね返っていた。
「これで終りですから、並んで一緒に辷りましょうよ。」
 そう云う千鶴子の晴やかな提案のまま二人は最後の氷河の尾根に並ぶと手をとり合った。そして、一、二、三のかけ声もろとも氷の斜面を辷り下った。
「とうとう征服してやった。」
 と矢代は汗を手巾で拭き拭き笑った。
「ほんと、もうここならこれでスイスよ。」
 二人は靴の上から履いた靴下を脱ぎ手袋をとって小舎を探しにまた路にかかった。山頂より少し下った所に丸木を組んだ小舎が見えた。千鶴子は先に立ってドアを開けた。
 小舎の中には頭と腰とを交互に並べた牛が部屋いっぱいに満ちていた。その中央を僅かに通れる幅の通路があり、そこを進んだ正面のとりつきにまた一つドアがあった。千鶴子のノックで開いたドアの中から、客間らしい椅子テーブルの明るい部屋が現れた。中でひとり編物をしていた様子の老婆が出て来たので、千鶴子はフランス語で今夜の宿を頼んでみた。客の少ない季節のこととて二人は容易に部屋をとることが出来た。千鶴子はまた羊の帰る谷間はどこかと訊ねてみると、老婆は窓からゆるやかに見える下の山峡を指差して、
「もうすぐここの谷間へ羊が集って来ますよ。」
 と教えてから古風な柱時計を振り返った。
「もうすぐもうすぐ。早く外へ出て行ってごらんなさい。」
 手真似を混ぜてせくように云う老婆の言葉に随い、二人はテーブルの上に持物を置いて外へ出ていった。
 もうその日の宿をとったからは二人は安心だった。一本の樹木もない峡間に拡がった牧場の見える路へ出て、そこで食べ残りのサンドウィッチを食べ始めた。
「今日は良いお天気だったから、きっとお星さんが降るようよ。ほんとに来て良いことをしましたわ。何んてあたしは幸福なんでしょう。胸がどきどきして来てよ。」
 千鶴子は髪をかき上げながら周囲の山山を見廻した。矢代は黙ったまま、サフランの花の中で寝てみたり起きてみたりした。氷河は左方の斜面にねじ曲ったおおどかな流れの胴を見せていた。矢代は幾らか疲れが出て来た。手枕のまま頬に冷たく触れて来るサフランの花の匂いを嗅いでいると、温度が急に下り始めたらしく首筋がぞくぞくとして来た。
「まだかな、羊。」
 こう云って彼は花をむしり取っては弁を唇で一つずつ放していった。
「もうすぐでしょう。きっと来てよ。」
 千鶴子も待ちくたびれたものか矢代に添って一寸仰向きになりかかったが、直ぐまた起き直った。
「ここから見ると、やはり日本は世界の果てだな。」
 と矢代はふと歎息をもらして云った。
「そうね、一番果てのようだわ。」
「あの果ての小さな所で音無しくじっと坐らせられて、西を向いてよと云われれば、いつまでも西を向いてるのだ。もし一寸でも東は東と考えようものなら、理想という小姑から鞭で突つき廻されるんだからなア。へんなものだ。」
 千鶴子はどうして矢代が突然そのようなことを云い出したか分らないらしく黙っていた。矢代は起き上って来て暫く峡間の向うの方を眺めていたが、手に潰したサフランの弁をぱっと下へ投げ捨てた。
 夕日が前から雲間に光線を投げていた。およそ羊のことをもう二人が忘れてしまっているころ、遠くの方から蛙の鳴くような声が聞えて来た。それがだんだん続くと蛙ではなく、牧場のどこかで羊を呼ぶチロルの唄だと分って来た。
「ああ、あれだわ。」
 と千鶴子は云って矢代の腕を引いた。チロルの唄は咽喉の擦り枯れたような哀音を湛え、「ころころころ、」と同じリズムで聞えていたが、そのうちに、「るくるくるく、」と次第に高く明瞭になって来た。牧人らしく雲と氷に磨かれた声である。
 唄につれてあちこちから鈴の大群の移動し始める音が起って来た。すると、四方から蝟集して来る羊の群れが谷間に徐徐に現れた。初めは入り交る白雲のように見えた羊の群れも、幾千疋となくどよめき合して来るに随って、堤を断った大河のように見る見るうち峡間いっぱいに押し詰り、下へ下へと流れて来た。
 矢代は胸の下が冷えて空虚になるのを感じた。日没の光りに山山の頂きはほの明るく照りわたっていた。その下を羊の鈴の音が交響しながら、それが谷谷に木魂して戻って来る倍の響きとなり、総立ち上る蚊の大群のように空中に渦巻いた。チロルの唄はその中を貫く一本の主旋律となって、羊の群れを高く低く呼び集めて近づくのだった。
「るくるくるくるく、るるるるるる――るくるくるくるく、るるるるるる――」
「まるで神さまを見ているようだわ。」
 と千鶴子は小声で云うとまたぼんやり放心して下を見降ろした。まだ末の方で拡がり散っている羊の群れは、犬の声に緊めつけられつつ、新たな団塊となりさらに速度を早めて前の群団の中へ流れ込んだ。空の光は刻一刻薄らいで紫色に変っていった。羊の流れは地を這う霧のようにかすみながらも鈴の響だけますます大きく膨んで来ると、むっと熱気に似た獣類の臭いが舞い襲って来た。
「凄いなア。」
 と思わず云った矢代の声も、もう真下に追った犬の吠え声に聞えなかった。ひたひたと漣のよせるような速度で下る羊の河は、氷河とは反対に峡間を流れ曲り、羊飼の唄を山の斜面の彼方へ押し流して進んだ。その度びに、「ぐらん、くらん、」と響き合う鈴の木魂が余韻を空に氾濫させつつ、深まる夕闇の谷底をだんだん遠くへ渡っていく。
 太陽はまったく落ちてしまった。羊の群れも峡間から消えて見えなくなったとき、矢代と千鶴子は初めて顔を見合せたが、どちらも何も云わなかった。下の空虚になった牧場には闇が羊に代って流れていた。はるか遠くの谷の方から、まだ夢のようにつづいている鈴の音を暫く聞いていてから、
「さア、だいぶ冷えて来ましたな。」
 と矢代は云って立ち上った。二人は山小舎へ帰って行った。
 夕食のときも二人は何ぜともなく黙っていた。食事を終ると矢代は窓いっぱいに散っている星を眺めながら身体を拭いた。疲れが一時に出て来て、ランプの下で煙草に火を点けるともう彼は動くことも出来なかった。隣室では早くも眠る準備の椅子を動かすらしい音がかたこととしていた。千鶴子も流石に疲れたと見え、椅子にもたれかかったまま峡間を見下していたが、それでも顔はつやつやとしていて少し窪んだ眼が一層大きく美しかった。
「あたし、今日ほど楽しい思いをしたことはありませんでしたわ。もうこんな楽しいことって、一生にないんだと思うと、何んだか恐ろしくなって来ましたわ。」
 と、千鶴子は指輪の銀の彫刻を撫でつつ小声で云った。
「大丈夫ですよ。」
 と矢代は云ったものの、千鶴子のそう思うのもあながち無理なことではないと思った。
「でも、そうだわ。こんなことって、一人にいつまでも赦されると思えないんですもの。」
 矢代は笑いにまぎらせてまた星を見詰めた。冷たい空気に混り乾草の匂いがどこからか漂って来た。千鶴子はっと立ち上ると矢代には黙って外へ出ていった。
 星は見る間に落ちて来そうな輝きを一つずつ放っていた。矢代は煙草を吸い終ると、戻りの遅い千鶴子の後から部屋を出て探してみた。しかし、彼女はどこにもいなかった。暫く左右の丘の上を探しているうちに、氷河の見える暗い丘の端で、じっとお祈りをしている膝ついた彼女の姿が眼についた。カソリックの千鶴子だとは前から矢代は知っていたが、いま眼の前で祈っている静かなその姿を見ていると、夜空に連なった山山の姿の中に打ち重なり、神厳な寒気に矢代もひき緊められて煙草を捨てた。
 千鶴子の祈っている間矢代は空の星を仰いでいた。心は古代に遡ぼる憂愁に満ちて来て、山上に立っている自分の位置もだんだん彼は忘れて来るのであった。
「あら、そんなところにいらしったのね。」
 と千鶴子は笑いながら立って矢代の傍へよって来た。昼間わたって来た氷河の星の光りが白く牙を逆立てて流れていた。


 次の日、矢代たちがホテルへ戻って来たとき、パリの久慈から矢代あてに手紙が来ていた。


 君がいなくなってから、もう幾日になるか忘れるほどである。とにかく、少し先き廻りをしたかもしれないが、もうインスブルックへ君は出たころであろう。あれ以来、パリには罷業が頻発して来た。これは有史以来の出来事のこととて、われわれには最も興味深い千載一遇の好機に会ったわけだ。これを観察する機会を逃すことは、大きく云えば、歴史の一頂点を見脱す結果になることである。君も出来るなら直ぐこちらへ引き返して来てはどうであろうか。君とはパリ以来論争ばかりで日を費したような羽目になったが、お蔭でこのごろ君との争いもだんだん僕の役に立って来たのを感じる。君と会えばまた前のように争いつづけることと思うけれども、それも今はやむを得ない。それから千鶴子さんが君の後からそちらへ行くような話であったから、もう今ごろは会ったかもしれないが、塩野君その他の人人は何か急用の出来たような話もあり、あまりそちらに長く落ちつかぬよう千鶴子さんに伝えてくれ給え。
 僕の方はこのごろ困ったことが起って来た。君も知っているだろうが、ウィーンへ行った真紀子さんが突然僕を頼ってひとりパリへ現われたのだ。僕は真紀子さんの置き所に苦しんだ揚句、同じここのホテルにいるより君のホテルの方が良いと思い、留守中を幸い君の部屋を失礼させて貰っている。真紀子さんは御主人にハンガリヤ人の夫人のあったことが分ったとかで、夫婦分れをして飛び出て来たとのことである。考えれば僕は今年は厄年だ。それからバンテオン座に、『われらの若かりしころ』というロシア映画が現れた。これは素晴らしい。われわれはまだ若いのだ。僕も君もこの若さを充分意義あらしめよう。
 僕にもいろいろの困難はあるが、何と云ってもパリは良いところだとつくづく思う。僕は実際どこへも旅行する気持ちはあまりなくなって来た。それから終りに、突然で失礼だが、君はどうして千鶴子さんと結婚する気持ちがないのか。君との約束のように僕もチロルへ行くつもりでいたのだが、千鶴子さんと君との間を疎遠にしては悪いと思い遠慮することにした。多分君のことだから、千鶴子さんが君の後を追ってそちらへ行っても、依然として前と同じことだろうと思う。しかし、人間は表現をするときには決断力が必要だ。君は外国へ来て日本という国にすっかり恋愛を感じてしまっているので、人間なんか、殊に婦人なんか問題ではなくなってしまっているらしいが、それは非常な錯覚だと僕は思う。君の云うように僕も今は錯覚の連続で外国というものを見ているのかもしれない。しかし、君も僕とはまるで正反対な錯覚ばかりで物を見ているにちがいない。いったい、君と僕との見方のこの正反対も、どちらが正当かということについては、恐らく今までの日本人の中では、誰一人として解答を与えられることの出来たものはいないのではあるまいか。またこの重大な問題がわれわれ若者の上に、永久にこれから続くと見なければならぬ以上、何らかの方法で君と僕との意見の対立に統一を与えたいと思う。君がいないと矢張り僕は片翼が奪われたようで淋しい。なるだけ早く帰ってもらいたい。
久慈 矢代耕一郎様

 矢代は手紙を読み終ったとき、何となくこうしてはいられないという気になってすぐ夜行でパリへ帰ろうかとも思った。彼はその手紙を千鶴子に見せずポケットへ捻じ込むと、千鶴子を誘って噴水の昇っている街角の方へ歩いていった。


 雨あがりの空は暮れ方になってから晴れて来た。モンパルナスの連なった家家の上層は夕日を受けた山脈のように仄明るく輝いた。人の顔も光り輝き眩しげに微笑しているその下の、石畳に溜った水に映っている空の茜色――久慈は先から喫茶店で母に出す手紙の文句を考えながら、じっとその水溜を見詰めていた。まだ水滴を落している樹樹の緑の下に濡れた椅子が、そのままになっていて、桃色の淡雲の徐行していく下の通りのあちこちから、人の声が妙に明るく響いて来る。
「お身体いかがですか。僕は達者で日日を楽しみ深く勉強しております。」
 久慈はこう母に一行書いたものの、むかしの学生時代同様その後がまだ何も出て来ない。通行人の吐き流した煙草の煙が流れもせず、はっきりした形で流れず、油色のままに停っている。水中のような夕闇の樹の葉の中で時計台に灯が入った。
「お母さんの神経痛のことを思いますと、こちらにいても憂鬱になりますが、温泉へでも行かれれば安心です。私の行きたく思う所も、日本では今は温泉ばかりです。」
 久慈はふと母の今いる所はこの足の下だと思うと、丁度今ごろ母は夜中に眼が醒めて明日の方角のことを考えている最中だろうと思った。久慈の母は年中お茶を立てては方角のことばかりを気にし少しの旅行でも方位が悪いと一度親戚へ行って泊り、そこで悪い方位を狂わせてから目的地へ出発するという風だった。久慈が神戸を発つ日も暗剣殺が西にあるから、船中用心をせよとくれぐれも教えた。一度親戚の家の巽の方角に便所がある家があって、そこに丁度四緑の年にあたる娘があったが、久慈の母はそれを心配しつづけ家を変るようとしきりに奨めたことがあった。そのまま居つづけては、娘が二十三の年になったとき死ぬというのである。親戚の者は笑って相手にしなかったところが、何の病気もない健康なその娘が二十三になると、突然肺壊疽(えそ)か何かで二三日で死んでしまった。それ以来一層久慈の母は方位に憑かれるようになって、他人の年齢を一度訊くと、直ちにその者の月番の方位の善悪を宙で云えるまでになってしまっている昨今だった。一つは嵩じていく母の迷信への反感も手伝い、また一つは元来科学主義の信奉者である久慈には、東洋のこの運命学は全く不愉快でたまらなかった。
「お母さん、いったい、そんなことを一一真に受けて動いていちゃ、出来ることでも出来なくなるじゃないですか。困ったものだな。」
 と久慈はよく母を叱ったことがあった。
「いえいえ、わたしらはずっとこの通り先代から伝って来たことを守って来て、一度も間違ったことはないのだから、良い方位の通りに動いておれば安心です。人間は安心さえ出来れば倖せじゃないの。」
 と母は母で伝来の素朴な考えを守りつづけ、鼠や牛を初めとする十二支と九つの星との抽象物を自分の科学の基本として、あたかもそれが久慈の信じる西洋の抽象性と等しい力を持つものと思い込み、誰が何んと云おうとも動こうとしなかった。
「この足の下の半球は、方角ばかりで動いているのだ。それが三千年も続いて来てまだ倦きようともしないのだ。」
 こう思うと久慈は母へ出す手紙も健康のこと以外には、あまり書く気が起らなかった。しかし、何んと云ってもそれが東洋の自分の母であってみれば仕方もない。ときどき思い出したように、出す手紙の端にこちらでは物が六万倍に拡大されて見える顕微鏡のあることや、宇宙の方位の端まで見える望遠鏡のあることなどを書き、母の信じる運命学をぶち壊そうと試みたこともあった。しかし、今からでは暗い母の頭の中へ光線を射し入れることは不可能だと気附くと、唯一無二の信条としている自分の科学的精神の威力も、まだまだ説得力に於て考えねばならぬところがあると悟った。またそれはただ単に母だけではない、現にこちらに自分と一緒に来ている知識人の矢代までが、日を経るまま漸次東洋的になりつつある現状を考えても、ああ、あの矢代まで十二支になって来たのかと舌打ちするのだった。


 薄明の迫るにつれてマロニエの葉の中の時計の灯が蛍のように黄色くなった。久慈が手紙を書き終っても通りの自動車は一台も通らなかった。
 そうだ今日は罷業があったのだと、久慈は初めて気附いてテーブルを立った。ブルム社会党の内閣が出現して日のたたぬ今日このごろの街街は、左翼人民戦線の優勢になるにつれ罷業がつづき、街は閑散になる一方だった。欧洲文明の中心地をもって永く誇っていたパリに社会党の内閣の現れたことは、フランス革命以来なかったことであるだけに、この思想政治の左傾は人人の頭をも急流のように左右に動かしてやまなかった。随ってヨーロッパのこの空気の中を渡る旅人も、歩く以上はそれぞれどちらかの道を選んで歩かなければ、どっちへも突き衝ってばかりで進むことが出来ぬのである。郷に入れば郷に従えと主張する久慈も、道を歩きながら自分はいったいどちらの思想を支持しているのかと考えつつ歩くことほど、心苦しいことはなかった。おれは日本人だから自ら別だと思う工夫は、日本人だけ知識が世界から置き去りにされるという継子になる懼れもあった。
「いや、俺は科学主義者だ。科学主義者は何んと云おうと世界の知識の統一に向って進まねばならぬ。それがヒューマニズムの意志というものだ。日本人だって、それに参加出来ぬ筈はない。」
 と久慈は快活に思う。ヒューマニズムという言葉の浮ぶ度びに、久慈は青年らしく言葉の美しさに我を忘れる癖があったが、またこの癖のために彼は一応自分の立場に安心して散歩することの出来る、便利なエレベーターにも乗っているのだった。歩くにつれ、幾何学的な稜線が胸を狙って放射して来るように感じられる。街区の均衡の中に闇が降りて来た。昼間目立たなかった花屋の薔薇が豪華な光りを咲かせて来ると、散っていた外人が行きつけのカフェーへ食事に続続戻って来た。久慈も空腹にいつもの店へ這入ろうとしたとき、これも食事に来たらしい東野に会った。
「よく降りましたね。」と久慈は空を仰いで云った。
「ここは傘もささず歩けるから、日本よりその点だけは有りがたい。」
「その点だけではないでしょう。」
 快活な癖に妙に絡みつく正直さを持っている久慈を知っている作家の東野は、また始まったぞと思ったらしくにやりとして、
「あなたも夕食ですか。」
 と身をかわした。いつか久慈は矢代の東洋主義に自分の科学主義でうち向ったとき、黙って傍で聞いていた東野に賛成を求めたところが、「君のは科学主義じゃない簡便主義だ。」とやられた口惜しさが降り籠められた鬱陶しさにあったが、久慈は長らく忘れていたその仇を突然このとき思い出した。
「どうです、御一緒に願いましょうか。」
「どうぞ。」と東野は薄笑いのまま答えた。
 ヨーロッパへ来てから人と会えば何かの意味合いで、外国流の礼儀と呼吸をもって対応しなければならぬ息苦しさが、一種の武者修業のようになりかかっている時期の二人だった。殊にパリの政治が左翼に変ってからは、他人を見ればこの男は左か右かと先ず探り合う眼の色が刃を合わす。東野は何んとなく今夜は絡みそうな気配を久慈から感じたと見え、
「ふん、どこからでも来い。」と云う風な八方破れの構えで先に立ち、奥まった空席を見つけてどさりと坐った。
「罷業がだんだんひどくなりますね。これや、もしかすると革命が起るかもしれないな。もう分らん。われわれには。」
 と久慈は投げ出すような穏やかな笑顔で云った。
「しかし、それより日本が大変らしいぞ、二・二六を見て来た人と昨夜会いましたが、日本も急廻転をやっているね。」と東野は少し心配な顔だった。
「日本は右へ行くし、こっちは左か。」
 久慈は頭の後ろで両手を組み椅子の背へ反り返った。お前はどっちだと訊くことだけはいよいよ口へは出せぬが、どちらもの中間などというものは存在しない論理の世界のそのままが、思想となり政治意識となって誰の頭の中をも突き通っている現在である。
「いったい、知識に右でもない左でもない中間が無くなったということは、これやどういうことですかね。この間までは在ったじゃないですか。先日まで在ったものが急に無くなったのですかね。」
 と久慈は東野を叩く気もなく、そのくせ自然にいつの間にか巧妙に叩き始めていくのだった。すると、東野は、
「いや、僕は右でも左でもないよ。」
 と先廻りをして笑って答えた。いつか東野の逃げた手もそれだと久慈は思い、今夜は何んとしても逃がさぬぞと思うと、
「つまり、それはどういうんです。自由主義という奴ですか。」と訊ねた。
「僕は外国から来た抽象名詞というやつは、分析用には使うけれども、人間の生活心理を測る場合には、極力使わない用心をしてるんだよ。それは誤る効果の方が多いからな。あなたは外国製の抽象名詞以外には、知識という概念が成り立たぬと思っていられる風だが、僕はそんなのを、いつかあなたに云ったように、簡便主義の知識だと思っているんですよ。簡便主義でいくなら何もそう苦しまなくたって、簡単に人の教えた方へいっちまえば良いのです。左とか右とかそんなことは問題じゃない。」
「ふむ。」
 と久慈は一応考え込んだ様子だった。しかし、彼は、いよいよ東野は有無を云わせず押しよせて来ているこの現実の思想から、逃げ歩いてばかりいる敗北主義の男だと思っていくばかりだった。
「そうすると、あなたは何んですか、こんなに人間が苦心をして造った、いわばまア知性の体系というようなものまで無視してらっしゃるんですな。論理をつまり無用の長物だと思ってらっしゃるんですな。」
 とふと口を議論に辷らせたら最後、後へ戻せぬ論理ばかりの世界にいるようなパリでの一時期とて、東野は一寸苦苦しい顔をしたが、丁度そのときボーイが二人の傍へ廻って来た。東野は鰈(かれい)と鳥とを註文すると、さア、いよいよ美味くなくなるぞ、と云うようにメニューを投げ出して、
「あなたは?」と久慈に訊ねた。
「僕もそれで結構、いや、一寸鰈はいやだな。スパゲッティ。」
 ボーイが去ると東野は笑いながら、どういうものか、
「何ぜ饂飩(うどん)にしたのです?」と訊ねた。
「僕はフロマージュ附きの饂飩は好きでね。もう暫く食べないんですよ。」
「じゃ、鰈は嫌いじゃないんだな。」
「嫌いじゃない。鰈の薄味は好きですよ。」
「じゃ、まア好きとしときなさい。つまりそれだよ。」
 と東野は云って煙草に火を点け、敵をゆるゆる料理するように遠方から締めて来た。東野よりずっと若い久慈は、論敵の構想力の廻転が妙な風に食い物から来たのを感じると、いよいよこれは敵を誤ったと悟り始めた。
「僕はこのごろ人を見ると、ひっかかりたくって仕様がないんだが、あなたも少し神経衰弱じゃないんですか。云うことがどうも変だ。」
「何が変だ。君は鰈か饂飩かと考えて、饂飩にしただろう。まア、そんなことはどっちだって良いようなものの、ひとつ饂飩も鰈も二つとも食ってみたら、どうですか。饂飩の栄養価と鰈の栄養価とを分析して食わなくちゃ、腹の足しにならぬと君は云うのでしょう。しかし、そんなことを考えて食っていちゃ、せっかくの美味さも不味くなって、食った甲斐がないと考える頭もあるわけだ。」
 ははアそれが東野の云いたかった中間かと思うと久慈はげらげら笑い出した。
「それやあなたも神経衰弱だな。右も左もむしゃむしゃ神経衰弱で食おうというんだ。僕も一つその手をやるかな。」
「右と左だけじゃない。上も下も真ん中もだ。」
 東野は一層久慈の頭を拡大させ、混乱させる原野の中へ引き摺り出し、さアいよいよ用意をしろというように落ちつき払って笑った。久慈は頭の中に暈いを感じ、一寸立ち停った姿で鰈と饂飩の二つの形に思考力を集中した。
「しかしですね。ここに鰈と饂飩の栄養分の統計表がはっきりと出ている場合に、その表を作った頭以上の精確さはないわけでしょう。その精確さを信用せずして知識はない。科学主義というのは、その精確さを信頼する人間の頭脳の聡明さを云うのでしょう。あなたはそれをも簡便主義だと云われるんですか。」
 東野は何か云いかけたが、広いホールにだんだんと詰って来た外人たちを見廻してから、突然、
「君、モンマルトルへ行った?」と訊ねた。
 一泡吹くべき急所へ来て他人事云うとは卑怯だ、と久慈は一瞬顔に血の気が昇るのを感じた。
「君、夜の十二時過ぎのモンマルトルへ来て見給え。いつでも軽機関銃でアパッシュ連中が撃ち合いをしとる。いっぺん僕んとこへも遊びにいらっしゃい。なかなか凄いよ君。ところが、あの連中の云うことが面白い。何も死ぬ段になれば、刀なんかより機関銃の方が早いと云うのだ。これや科学的でしょう。」
「しかし、それや、栄養価とどういう関係があるんですか。」
「死ぬ方への栄養価を考えとるじゃないか。なかなか簡便なもんだ。」
 久慈はふと大きな落し穴の開いているのを感じた。しかし、もう一時も早く鰻のような東野の頭へ、絶対確実な釘を一本打ち込んでやりたくなった。
「それや、人間が死ぬ方へでしょう。僕らのは生きる方の栄養価だから、話は別だな。知識は生きる方を考えてこそ、人間を富ますのですからね。」
 ちりちりと尾っぱちを跳ねくらせる鰻を見る思いで、久慈は静かに笑いながち東野を見るのだった。
「それや、そうだ。生きなくちゃいかん。」
 と東野は、負けた感情を妥協の中へ捻じ入れかねない厳粛さで賛成した。そんなら初めから黙って俳句でも作っていれば良いだろうと久慈は思っているときに、東野はまたいつの間にか大迂廻をして来た急激な調子で攻め込んで来た。
「僕らの知識は生きなくちゃいかんのに、簡便主義は生きたものまで殺すのだ。いったい、人間の感情というぴんぴんしている活動力を、皆刺し殺してしまって何が科学だ。殺すのが科学なら、機関銃の方が簡便だろう。」
「それや、君のははったりだ。」
 久慈は不意を撃たれた叫びのような声で云うとフォークを持った。
「はったりにもいろいろ有るからな。精妙な科学の結論というものは、皆はったりの形をとるものです。はったりこそ真理だ。分るまいが。」
 東野の言語道断な言い方にもう久慈は黙ってしまった。手に持ったフォークが細かく懐えた。頭がびいんと鳴りつづけ、葡萄酒をいっぱい飲んだが一層息苦しくなりそうに思ったので水を飲んだ。しかし、久慈は考えても考えても次の言葉が出て来なかった。そのくせ絶対に負けたとは感じられぬ。もしこれで負けたのなら、このヨーロッパの最高の文明が何をわれわれに教えたのだ。
 鰈とスパゲッティが出て来たとき、「久慈君、もうしばらく議論をやめよう。折角の料理が死んでしまうよ。とにかく知識というものは物を生かさなきゃ。」
 と東野は云ってナイフを持った。まだやるのかと思った久慈は、頭が首から放れて舞い立ちそうに感じた。
「あなたは、僕たち東洋人が知識の普遍性を求めて苦しんでいるときに、事物や民族の特殊性ばかりを強調しようとするんですよ。その点あなたは矢代と同じですね。矢代はまだあなたのように落し穴を造らないけれども、あなたと話をしていると、言葉の一般性というものが役に立たなくなるんですよ。実際あなたほど非論理的な人を、僕はまだ見たことがありませんね。そんな所に僕は進歩があるとは思えない。無茶だあなたは。」
「まア、食べてからにしようよ。何も僕は君の云うことは間違っていると云うんじゃないのだから。――君は将棊(しょうぎ)を知ってますか。」
 と東野は急に頓狂な顔になって葡萄酒を飲んだ。
「何んです。また落すんですか。」
「うむ、落して見ようというのだ。落してみせるぞ。」
「いや、もう落ちん。」
 と久慈はかぶりを振ってスパゲッティをフォークに巻きつけ急いで食べた。
「それじゃ駄目だ。落ちるべき所へは落ちて見なきゃ、科学主義には実が成らない。君は人の云ったりやったりした安全な所ばかりを、選んで歩こうというのですからね。ヨーロッパの科学というものは、皆落ち込む所へは落ち込んで来たからこそ、こんなに花が咲いたのでしょう。君は道に外れちゃいかんと思って科学に獅噛みついているけれども、道というものは、初めからついてるものじゃない。君の道は君がつけるので、他人がつけてくれるものじゃない。」
 久慈は迷宮をたどる気疲れを感じてほッと吐息をつくと、このおやじの武器は一種妙なものだとうすうす気が附いて来るのだった。
「僕にはあなたのように、自分の論理とか他人の論理とかとそんなにやたらに論理の種類があるとは思えませんがね、もしそんなにあるなら、何もわざわざ論理を知識と呼ぶ必要はないでしょう。みなあなたのは感覚だ。感覚は公然たる知識じゃない。」
「感覚のない知識とはどういうものか、それや僕には分らないが、とにかく、まア今夜は御馳走というこの実証的感覚へ落ち込みなさい。そうすると、料理という技術が分る。技術のない知識なんて科学じゃない。何事も感覚から起ると思えば、得こそすれ損はないでしよう。あなただってわざわざヨーロッパくんだりまで落ち込んで、ここの感覚一つも分らなけれや、ヨーロッパの技術の秩序と科学の連絡が分らなくなるばかしじゃないですか。何をそう苦しんで、馬鹿になる要があるのです。」
 落されつづけた久慈は、尾□骨の振動めいたものが脳に響き葡萄酒の廻りも早かった。すると、疲れもアルコールと一緒になくなり、久慈は一層生き生きとして来た。背中をソファーのモロッコ革から起す度びに、体温で革にひっ附いていた服の剥がれる響がびりびりと背に応えた。
「今日はお年寄りに花を持たせますよ。まアこれもやむを得ん。」
 と久慈は云って、出て来た鳥の足を掴むと噛みついた。
「何アに、そう元気を無くしたもんでもないさ。パリは年齢なんて無いんだからな。ここには普遍性という論理の皮をひきむく駒ばかり揃ってるから、そいつを使わん手はないのだ。将棊に桂馬という駒があるが、何ぜ、あ奴はあんなに斜に一つ隔いて飛ぶのか、まだ君は知らんのだ。いざというときに、王さまを降参させるのはあ奴だからな。僕は今夜は君に王手飛車をかけてみたのだが、どっちをくれる。さア、返答せい。」
 なごやかに笑い合っていたときとて、突如としてその中から突き出された東野の剣先には、一層久慈も返事の仕様がなかった。黙って葡萄酒を東野のコップに注ぎかけようとすると、ぴたりと彼はそのコップの口を抑えてしまった。
「返答だよ。飛車か王か。」
 冗談にしては厳しい、そのくせ悪戯けたような東野の顔は、返答一つでお前の価値は定るのだと云っている。
「よしッ、そんなら今夜はどうしても負かしてやる。真剣勝負をやろう。」
 と久慈は云って葡萄酒をぐっと飲み乾した。
「王さまも飛車も手放しか。」
 と東野は急に盤面を引くり返したように、にこにこしながら今度は彼から久慈のコップに酒を注いだ。
 こちらが力を入れるとすっと脱し、うっかり気をゆるめているときに不意に面丁へ撃ち込んで来る東野の癖に、久慈はもういらいらとして来た。洞のような奥まった部屋いっぱい煙草の匂の籠った中で、あちこちから左右両党の議論が盛んに起っていた。共産党の活動はトロツキストの方が優勢だとか、スターリン派との黙契がトロツキストとの間に出来て来たとか。北方の県とマルセーユ附近が最も罷業の火の手が熾んだとかと云う話の間で、いつも姿を見せるドイツの前の大蔵大臣だったと噂されている小さな人物だけが、いったいの話には何の興味も起らぬらしい様子で、食後のコーヒーを黙って一人飲んでいた。ロシアの王子だと云われる背のひょろ長い、眼の鈍った額の狭い青年も、絶えず人人の間を往ったり来たりしているだけでこれも誰とも話さなかった。東野の横では、ドイツの青年が柳田国男の日本伝説集という原語の本を読み耽っていたが、その他の者は皆それぞれ自国語で左翼の話をしていた。中には激論をした揚句卓を叩き出したので、ボーイが用命と間違えて出て来たりした。
 食事を終ったとき、久慈と東野は食後の気怠さを感じてしばらく黙っていた。すると、久慈は突然東野に訊ねた。
「あなたは左翼にも右翼にも、本当に興味を感じないのですか。そこを僕は訊ねたいのですよ。どっちなんですあなたは?」
「僕は君にさきからそのことばかり話したつもりだったんだが、まだ話さなくちゃならんかね。」
 と東野は気乗りの失せた声で外人たちを眺めながら答えた。
「いや、僕はまだ聞かないな。」
「僕には外国の左翼とか右翼とかより、ここへ巻き込まれている日本人の君の方が、よっぽど見てるのには面白いんだ。ほんとうに君なんかこれから日本へ帰って、いったいどうするつもりだろうと、その方が心配だ。」
「ふむ。」
 と久慈はひと言いって一寸黙った。
「いったい、君は帰ってからどうするつもりです。もう昔のように、外国へ行ったからといって何の価値も出る時代じゃなし、ここで習得した左翼や右翼の理論を、そのまま日本へ当て嵌めて考えたって、間違いだらけになるのは定ったことだし、そうかといって、来る前と同じで君がいられるわけのものでもないでしょう。もう君にしても僕にしても、物を見る意識が狂ってしまっていることだけは事実なんだから、そんならこれからの自分の正確さを、どこでどうして調節をつけるかという問題があるだけでしょう。」
「一寸待って下さい。」
 久慈は一層考える風に頭をかかえテーブルの上を見詰め始めた。
「僕らの意識が狂っているとは、それはどういう意味です。」
「僕も君も、僕らの見てしまったものと、頭で考え出した言葉と、一致させて表現することが出来なくなってしまっているのですよ。こちらへ来ない間は、外国のことを読み聞きしても、まだ実物を見ない有難さで、それぞれ勝手に描いた幻想に意味をつけて、それを公式のように正当だと感じることが出来たけれども、もう僕らはその幻想も壊れたし、壊れたことに意味もつけようがなくなった。ざま見やがれと笑われているようなものだ。」
 東野はこう云って自嘲を浮べた淋しい笑顔のまま、さきから見つづけていた一人の外人の婦人の顔から眼を放さなかった。
「しかし、人間の認識は外国だろうと日本だろうと、変るものじゃないじゃありませんか、そんなことに変化があれば、だれも知識を信用するものがない。
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