みなかみ紀行
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著者名:若山牧水 

手放しでは降りることも出來ぬ嶮しい崖の岩坂路を幾度か折れ曲つて辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を通る。その中洲の樣になつた川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いてゐるのだ。
 這ひつ坐りつ、底には細かな砂の敷いてある湯の中に永い間浸つてゐた。いま我等が屋根の下に吊した提灯の灯がぼんやりとうす赤く明るみを持つてゐるだけで、四邊は油の樣な闇である。そして靜かにして居れば、疲れた身體にうち響きさうな荒瀬の音がツイ横手のところに起つて居る。やゝぬるいが、柔かな滑らかな湯であつた。屋根の下から出て見るとこまかな雨が降つてゐた。石の頭にぬぎすてゝおいた着物は早やしつとりと濡れてゐた。
 註文しておいたとろゝ汁が出來てゐた。夕方釣つて來たといふ山魚(やまめ)の魚田(ぎよでん)も添へてあつた。折柄烈しく音を立てゝ降りそめた雨を聞きながら、火鉢を擁して手づから酒をあたゝめ始めた。

 十月廿六日
 起きて見ると、ひどい日和になつてゐる。
「困りましたネ、これでは立てませんネ。」
 渦を卷いて狂つてゐる雨風や、ツイ溪向うの山腹に生れつ消えつして走つてゐる霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滯在ときめて漸くいゝ氣持に醉ひかけて來ると、急に雨戸の隙が明るくなつた。
「オヤ/\、晴れますよ。」
 さう言ふとK―君は飛び出して番傘を買つて來た。私もそれに頼んで大きな油紙を買つた。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに兩手の出る樣にして、くる/\と油紙と紐とで包んでしまつた。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさゝずとも間に合ふ用意をして、宿を立ち出でた。そして程なく、雨風のまだ全くをさまらぬ路ばたに立つてK―君と別れた。彼はこれから沼田へ、更に自分の村下新田まで歸つてゆくのである。
 獨りになつてひた急ぐ途中に吹割の瀧といふのがあつた。長さ四五町幅三町ほど、極めて平滑な川床の岩の上を、初め二三町が間、辛うじて足の甲を潤す深さで一帶に流れて來た水が或る場所に及んで次第に一箇所の岩の窪みに淺い瀬を立てゝ集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集つた川全體の水は、まるで生絲の大きな束を幾十百綟ぢ集めた樣に、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るゝ事七八十間、其處でまた急に底知れぬ淵となつて青み湛へてゐるのである。淵の上にはこの數日見馴れて來た嶮崖が散り殘りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の淺瀬が岩を掩うて流れてゐるのはすが/\しい眺めであつた。それが集るともなく一ところに集り、やがて凄じい渦となつて底深い岩の龜裂の間を轟き流れてゆく。岩の間から迸り出た水は直ぐ其處に湛へて、靜かな深みとなり、眞上の岩山の影を宿してゐる。土地の自慢であるだけ、珍しい瀧ではあつた。
 吹割の瀧を過ぎるころから雨は霽れてやがて澄み切つた晩秋の空となつた。片品川の流は次第に瘠せ、それに沿うて登る路も漸く細くなつた。須賀川から鎌田村あたりにかゝると四邊(あたり)の眺めがいかにも高い高原の趣きを帶びて來た。白々と流れてゐる溪を遙かの下に眺めて辿つてゆくその高みの路ばたはおほく桑畑となつてゐた。その桑が普通見る樣に年々に根もとから伐るのでなく、幹は伸びるに任せておいて僅かに枝先を刈り取るものなので、一抱へに近い樣な大きな木が畑一面に立ち並んでゐるのである。老梅などに見る樣に半ばは幹の朽ちてゐるものもあつた。その大きな桑の木の立ち竝んだ根がたにはおほく大豆が植ゑてあつた。既に拔き終つたのが多かつたが、稀には黄いろい桑の落葉の中にかゞんで、枯れ果てたそれを拔いてゐる男女の姿を見ることがあつた。土地が高いだけ、冬枯れはてた木立の間に見るだけに、その姿がいかにも佗しいものに眺められた。
 そろ/\暮れかけたころ東小川村に入つて、其處の豪家C―を訪うた。明日下野國の方へ越えて行かうとする山の上に在る丸沼といふ沼に同家で鱒の養殖をやつてをり、其處に番小屋があり、番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰ひ度く、同家に宛てゝの紹介状を沼田の人から貰つて來てゐるのであつた。主人は不在であつた。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てゝの添手紙を貰ふ事が出來た。
 村を過ぎると路はまた峽谷に入つた。落葉を踏んで小走りに急いでゐると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望(もち)の夜近い大きな月の照りそめてゐるのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷ふことなく白根温泉のとりつきの一軒家になつてゐる宿屋まで辿り着くことが出來た。
 此處もまた極めて原始的な湯であつた。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちてゐた。湯から出て、眞赤な炭火の山盛りになつた圍爐裡端に坐りながら、何は兎もあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いといふ。驚き慌てゝ何處か近くから買つて來て貰へまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹づれで飛び出したが、やがて空手で歸つて來た。更に財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走つて貰つた。
 心細く待ち焦れてゐると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでゐる頭に、この氣まぐれな山の時雨がいかにも異樣に、佗しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れてゐる溪川の音とに耳を澄ましてゐるところへぐしよ濡れになつて十二と八歳の兄と妹とが歸つて來た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄額に大きな壜を取り出して私に渡した。

 十月廿七日
 宿屋に酒の無かつた事や、月は射しながら烈しい雨の降つた事がびどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇ふこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飮み代でもある酒を買つて來て貰ふことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであつたが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其處に浸つてゐた。顏の蒼い、眼の瞼しい四十男であつた。
 昨夜の時雨が其の儘に氷つたかと思はるゝばかりに、路には霜が深かつた。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでゐた。溪に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折(つゞらをり)の嶮しい坂にかゝつた。それと共に四邊はひし/\と立ち込んだ深い森となつた。
 登るにつれてその森の深さがいよ/\明かになつた。自分等のいま登りつゝある山を中心にして、それを圍む四周の山が悉くぎつしりと立ち込んだ密林となつてゐるのである。案内人は語つた。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である。平地に均らして五里四方の上に出てゐる。そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙會社に賣り渡した。代價四十四萬圓、伐採期間四十五箇年間、一年に一萬圓づつ伐り出す割に當り、現にこの邊に入り込んで伐り出しに從事してゐる人夫が百二三十人に及んでゐる事などを。
 なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の樣にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでゐた。そしてをり/\溪向うの山腹に大風の通る樣な音を立てゝ大きな樹木の倒るゝのが見えた。それと共に人夫たちの擧げる叫び聲も聞えた。或る人夫小屋の側を通らうとして不圖立ち停つた案内人が、
「ハハア、これだナ。」
と呟くので立ち寄つて見ると其處には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあつた。
「これは旦那、楓(かへで)の木ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいつて評判になつてるんですがネ、……なるほど、いゝ木理(もくめ)だ。」
 撫でつ叩きつして暫く彼は其處に立つてゐた。
「山が深いから珍しい木も澤山あるだらうネ。」
 私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何處とかから途方もねえ黒檜(くろび)が出たつて云ひますがネ、みんな人夫頭の飮代になるんですよ、會社の人たちア知りやしませんや。」
 と嘲笑ふ樣に言ひ捨てた。
 坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の廣やかな澤に入つた。澤の平地には見る限り落葉樹が立つてゐた。これは楢でこれが山毛欅(ぶな)だと平常から見知つてゐる筈の樹木を指されても到底信ずることの出來ぬほど、形の變つた巨大な老木ばかりであつた。そしてそれらの根がたに堆く積つて居る落葉を見れば、なるほど見馴れた楢の葉であり、山毛欅の葉であつた。
「これが橡(とち)、あれが桂、惡(あく)ダラ、澤胡桃(さはぐるみ)、アサヒ、ハナ、ウリノ木……。」
 事ごとに眼を見張る私を笑ひながら、初め不氣味な男だと思つた案内人は行く/\種々の樹木の名を倦みもせずに教へて呉れた。それから不思議な樹木の悉くが落葉しはてた中に、をり/\輝くばかりの楓の老木の紅葉してゐるのを見た。おほかたはもう散り果てゝゐるのであるが、極めて稀にさうした楓が、白茶けた他の枯木立の中に立混つてゐるのであつた。
 そして眼を擧げて見ると澤を圍む遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり眞黒に茂り入つた黒木の山であつた。常磐木の森であつた。
「樅(もみ)、栂(つが)、檜、唐繪(たうび)、黒檜(くろび)、……、……。」
 と案内人はそれらの森の木を數へた。それらの峰の立並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穗を見て聳えてゐるのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかつた。
下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
時知らず此處に生(お)ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも
散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてて雪のごと見ゆ
わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が嶽の岩山は見ゆ
遲れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木が中に
枯木なす冬木の林ゆきゆきて行きあへる紅葉にこころ躍らす
この澤をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ
墨色に澄める黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
 澤を行き盡すと其處に端然として澄み湛へた一つの沼があつた。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ續いた火山湖のうちの大尻沼がそれであつた。水の飽くまでも澄んでゐるのと、それを圍む四邊(あたり)の山が墨色をしてうち茂つた黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしてゐるのであつた。
 その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて靜かに水の上に浮んでゐたのである。思はず立ち停つて瞳を凝らしたが、時を經ても彼等はまひ立たうとしなかつた。路ばたの落葉を敷いて飽くことなく私はその靜かな姿に見入つた。
登り來しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅黒檜(くろび)黒木の山のかこみあひて眞澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸邊なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと靜けしと見つつこころかなしも
山の木に風騷ぎつつ山かげの沼の廣みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の廣みに
鴨居りて水(み)の面(も)あかるき山かげの沼のさなかに水皺(みじわ)寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて靜かなるかも鴨鳥の群
おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つつかなしも
風たてば沼の隈囘(くまみ)のかたよりに寄りてあそべり鴨島の群
 さらに私を驚かしたものがあつた。私たちの坐つてゐる路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずつと茂り續いてゐるのが思ひがけない石楠木(しやくなぎ)の木であつたのだ。深山の奧の靈木としてのみ見てゐたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うてゐるのであつた。私はまつたく事ごとに心を躍らさずにゐられなかつた。
沼のへりにおほよそ葦の生(お)ふるごと此處に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月(みなつき)にまた見に來むぞ此處の沼見に
また來むと思ひつつさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でて來む
天地(あめつち)のいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上の凍(し)みいちじるし今はゆきなむ
 昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小徑の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云ふべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちてゐる處に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であつた。
 沼と山の根との間の小廣い平地に三四軒の家が建つてゐた。いづれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閑ざされてゐた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて來た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て來た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請ひ、直ぐ大圍爐裡の榾火(ほだび)の側に招ぜられた。
 番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、實はもう一人、棟續きになつた一室に丁度同じ年頃の老人が住んでゐるのであつた。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農務省の水産局からC―家に頼んで其處に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になつて、もう何年かたつてゐる。老人はその技手であつたのだ。名をM―氏といひ、桃の樣に尖つた頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髮を留むるのみで、つる/\に禿げてゐた。
 言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出來るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答へると、それでは沼で釣つて見ないかと言ふ。實はこちらから頼み度いところだつたので、ほんとに釣つてもいゝかと言ふと、いゝどころではない、晩にさしあげるものがなくて困つてゐたところだからなるだけ澤山釣つて來いといふ。子供の樣に嬉しくなつて早速道具を借り、蚯蚓を掘つて飛び出した。
「ドレ、俺も一疋釣らして貰ふべい。」
 案内人もつゞいた。
 小舟にさをさして、岸寄りの深みの處にゆき、糸をおろした。いつとなく風が出て、日はよく照つてゐるのだが、顏や手足は痛いまでに冷えて來た。沼をめぐつてゐるのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところ/″\雪白な樹木の立ち混つてゐるのは白樺の木であるさうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て來た。そして驚くほどの速さで山腹を走つてゆく。あとから/\と濃く薄く現はれて來た。空にも生れて太陽を包んでしまつた。
 細かな水皺(みじわ)の立ち渡つた沼の面はたゞ冷やかに輝いて、水の深さ淺さを見ることも出來ぬ。漸く心のせきたつたころ、ぐつと絲が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかゝつて來た。私にとつては生れて初めて見る魚であつたのだ。慌てゝ餌を代へておろすと、またかゝつた。三疋四疋と釣れて來た。
「旦那は上手だ。」
 案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更に魚が寄らぬのであつた。一疋二疋とまた私のには釣れて來た。
「ひとつ俺は場所を變へて見よう。」
 彼は舟から降りて岸つたひに他へ釣つて行つた。
 何しろ寒い。魚のあぎとから離さうとしては鈎を自分の指にさし、餌をさゝうとしてはまた刺した。すつかり指さきが凍えてしまつたのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなつた。
 丁度十疋になつたを折に舟をつけて家の方に歸らうとすると一疋の魚を提げて案内人も歸つて來た。三疋を彼に分けてやると禮を言ひながら木の枝にそれをさして、やがて沼べりの路をもと來た方へ歸つて行つた。
 洋燈(ランプ)より榾火の焔のあかりの方が強い樣な爐端で、私の持つて來た一升壜の開かれた時、思ひもかけぬ三人の大男が其處に入つて來た。C―家の用でこゝよりも山奧の小屋へ黒檜の板を挽きに入り込んでゐた木挽たちであつた。用が濟んで村へかへるのだが、もう暮れたから此處へ今夜寢させて呉れと云ふのであつた。迷惑がまざ/\と老番人の顏に浮んだ。昨夜の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持つて來たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであつた。これは早や思ひがけぬ正月が來たと云つて、彼は顏をくづして笑つたのであつた。そして私がM―老人を呼ばうといふのをも押しとゞめて、たゞ二人だけでこの飮料をたのしまうとしてゐたのであつた。其處へ彼の知合である三人の大男が入り込んで來て同じく爐端へ腰をおろしたのだ。
 同じ酒ずきの私には、この老爺の心持がよく解つた。幾日か山の中に寢泊りして出て來た三人が思ひがけぬこの匂ひの煮え立つのを嗅いで胸をときめかせてゐるのもよく解つた。そして此處にものゝ五升もあつたならばなア、と同じく心を騷がせながら咄嗟の思ひつきで私は老爺に言つた。
「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元まで降りようぢやアないか、其處で一晩泊つて存分に飮んだり喰べたりしませうよ。」
 と。
 爺さんも笑ひ三人の木挽たちも笑ひころげた。
 僅かの酒に、その場の氣持からか、五人ともほと/\に醉つてしまつた。小用にと庭へ出て見ると、風は落ちて、月が氷の樣に沼の眞上に照つてゐた。山の根にはしつとりと濃い雲が降りてゐた。

 十月廿八日
 朝、出がけに私はM―老人の部屋に挨拶に行つた。此處には四斗樽ほどの大きな圓い金屬製の煖爐が入れてあつた。その側に破れ古びた洋服を着て老人は煙管をとつてゐた。私が今朝の寒さを言ふと、机の上で日記帳を見やりながら、
「室内三度、室外零度でありましたからなア。」
といふ發音の中に私は彼が東北生れの訛を持つことを知つた。そして一つ二つと話すうちに、自身の水産學校出身である事を語つて、
「同じ學校を出ても村田水産翁の樣になる人もあり、私の樣に斯んな山の中で雪に埋れて暮すのもありますからなア。」
と大きな聲で笑つた。雪の來るのももう程なくであるさうだ。一月、二月、三月となると全くこの部屋以外に一歩も出られぬ朝夕を送る事になるといふ。
 老人は立ち上つて、
「鱒の人工孵化をお目にかけませうか。」
と板圍ひの一棟へ私を案内した。其處には幾つとなく置き並べられた厚板作りの長い箱があり、すべての箱に水がさらさらと寒いひゞきを立てゝ流れてゐた。箱の中には孵(か)へされた小魚が蟲の樣にして泳いでゐた。
 昨夜の約束通り私が老番人を連れてその沼べりの家を出かけようとすると、急にM―老人の部屋の戸があいて老人が顏を出した。そして叱りつける樣な聲で、
「××」
と番人の名を呼んで、
「今夜は歸らんといかんぞ、いゝか。」
言ひ捨てゝ戸を閉ぢた。
 番人は途々M―老人に就いて語つた。あれで學校を出て役人になつて何十年たつか知らんがいまだに月給はこれ/\であること、然し今はC―家からも幾ら/\を貰つてゐること、酒は飮まず、いゝ物はたべず、この上なしの吝嗇だからたゞ溜る一方であること、俺と一緒では何彼と損がゆくところからあゝして自分自身で煮炊をしてたべてゐる事などを。
 丸沼のへりを離れると路は昨日終日とほく眺めて來た黒木の密林の中に入つた。樅、栂、などすべて針葉樹の巨大なものがはてしなく並び立つて茂つてゐるのである。ことに或る場所では見渡す限り唐檜のみの茂つてゐるところがあつた。この木をも私は初めて見るのであつた。葉は樅に似、幹は杉の樣に眞直ぐに高く、やゝ白味を帶びて聳えて居るのである。そして賣り渡された四十五萬圓の金に割り當てると、これら一抱へ二抱への樹齡もわからぬ大木老樹たちが平均一本六錢から七錢の値に當つてゐるのださうだ。日の光を遮つて鬱然と聳えて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覺えざるを得なかつた。
 長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があつた。菅沼と云つた。それを過ぎてやゝ平らかな林の中を通つてゐると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと噴き出てゐる水を見た。案内人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だといふ。それを聞く私は思はず躍り上つた。それらの沼の水源と云へば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
 ばしや/\と私はその中へ踏みこんで行つた。そして切れる樣に冷たいその水を掬み返し掬み返し幾度となく掌に掬んで、手を洗ひ顏を洗ひ頭を洗ひ、やがて腹のふくるゝまでに貪り飮んだ。
 草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終(つひ)に金精(こんせい)峠の絶頂に出た。眞向ひにまろやかに高々と聳えてゐるのは男體山であつた。それと自分の立つてゐる金精峠との間の根がたに白銀色に光つて湛へてゐるのは湯元湖であつた。これから行つて泊らうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。ツイ右手の頭上には今にも崩れるばかりに見えて白根火山が聳えてゐた。男體山の右寄りにやゝ開けて見ゆるあたりは戰場ヶ原から中禪寺湖であるべきである。今までは毎日毎日おほく溪間へ溪間へ、山奧へ山奧へと奧深く入り込んで來たのであつたが、いまこの分水嶺の峰に立つて眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるゝ。これからは今までと反對に廣く明るいその方角へ向つて進むのだとおもふと、自づと心の輕くなるのを覺えた。
 背伸びをしながら其處の落葉の中に腰をおろすと、其處には群馬栃木の縣界石が立つてゐた。そして四邊の樹木は全く一葉をとゞめず冬枯れてゐる。その枯れはてた枝のさき/″\には、既に早やうす茜色に氣色ばんだ木の芽が丸みを見せて萌えかけてゐるのである。深山の木は斯うして葉を落すと直ちに後の新芽を宿して、さうして永い間雪の中に埋もれて過し、雪の消ゆるを待つて一度に萌え出づるのである。
 其處に來て老番人の顏色の甚しく曇つてゐるのを私は見た。どうしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、といふ。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行つて引返すころになるといま通つて來た路の霜柱が解けてゐる、その山坂を酒に醉つた身では歩くのが恐ろしいといふ。
「だから今夜泊つて明日朝早く歸ればいゝぢやないか。」
「やつばりさうも行きましねヱ、いま出かけにもあゝ言ふとりましたから……。」
 涙ぐんでゐるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見てゐると、しみ/″\私はこの老爺が哀れになつた。
「さうか、なるほどそれもさうかも知れぬ……。」
 私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買つて來て、何處か戸棚の隅にでも隱して置いて獨りで永く樂しむがいゝや。では御機嫌よう、左樣なら。」
 さう言ひ捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとつとと掌を立てた樣な急坂を湯元温泉の方へ驅け降り始めた。




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