古い村
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著者名:若山牧水 

『とにかく何かになつて呉れるのだらうね、お前のことだからまさかのこともあるまいと思つて、まア安心はして待つてゐるよ。家(うち)もお前、毎年々々斯んな風になつてゆくのでね、阿父さんも急に老(ふ)けたし、今まで通りの働きも無くなつたしね、まアほんとにお前、夜も晝も心配の絶えたといふことは無いんだから、たゞもうお前一人が頼みでね……』
 母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬(やるせ)なくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。膝を兩手で抱いて、身を反(そら)して開け放した窓さきの樹木に日光[#「日光」はママ]の流れてゐるのを拭ひもせぬ眼で見つめて居ると、母もいつしか語を止めてゐた。
 自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を渡舟(わたし)で渡ると、道はやゝ長いこと上り坂になつて居る。その坂の中ほどで自分は久しぶりに傳造に出會つた。黒い眼鏡をかけて、酷(ひど)くやつれてゐたけれど、自分にはすぐ解つた。一も二もなく自分は歩み寄つて言葉をかけた。彼はもう誰だか少しも覺えが無い。見えない眼を切(しき)りに働かせて見定めようとする。
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
 と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
 自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえと言ひながら懷中へ兩手を入れてやがて紙にひねつて、ほんの草鞋錢だが持つて行つて呉れとさし出した。自分はうれしく頂いて袂に入れて、何かまだ話し出さうとすると、彼はすぐ一人でお辭儀をしてとぼ/\と坂下の方に降りて行つた。
 自分はその次の驛から馬車に乘つた。思ひ出して袂から先刻のひねりを取出して見ると、五十錢銀貨が三枚包んであつた。




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