古い村
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著者名:若山牧水 

 その翌春、自分は中學を卒業すると同時にひそかに郷國を逃げ出して東京へ出て、或る私立學校の文學科に入つて了つた。卒業前、父はわざ/\村から自分を中學の寄宿舍まで訪ねて來て、いつもに似ず悄然と、何卒この場合精紳を堅固にして迷はぬやうに心がけて呉れと寧ろ哀訴するやうに自分に注意した。迷はぬやうにとは、父はかねて自分を直實な醫者にするつもりであり、自分は文學をやると言ひ張つて、久しく言ひ合つてゐたのであつたが、終(つひ)に自分は内心策をかまへて、表面だけ父の意に從ふやうに曾つて誓つたことがあつたので、何卒その誓ひを完うして呉れといふのである。けれども自分は終にこの老いたる父に反(そむ)いた。四月六日の夜、細島港を出帆する汽船某(なにがし)丸の甲板に佇んで、離れゆく日向の土地を眺めやつた時、自分は欄を掴んで、父の顏を思ひやつた。
 三年目に自分は重い病氣にかゝり父母から招かれて國へ歸つた。二階のお寺のやうな廣い冷たい座敷に寢て居ると、溪を越して小高く圓い丘に眞青に麻の茂つて居るのが見える。其丘は二三年前まで松や檜の鬱蒼と茂つてゐた所である。その森は父より三代目以前の人とかゞ植ゑ始めたものだと傳へられてゐた。森をめぐつて深い溪がある。丁度我家から見れば淵は青く瀬は白く、ずうつと森を取卷いてゐるやうに見えて、その邊一帶が大きな自然のまゝの庭園ともなつて居るし、朝夕斯う見馴れては他の處と違つてどうしても手離しがたい、こればかりはどうとかして賣らずに置きませうと家中皆が話し合つて居たその森もとうとう斯んな青い畑になつて了つた。よく見れば麻畑の隅の方に粟らしいものが作つてある。もうよく實つてゐると見えて、うす黄に色づいたその畑中に男が一人女が二人、眞晝の日光を浴びてせつせとそれを刈つて居る。唄もうたはず、鎌のみが時々ぴか/\と光る。
 或日のこと、母が幼い子供を抱いて笑ひながら二階に上つて來た。不思議に思つて見て居ると、母は自分の枕もとに坐つて、その子を自分の方に押し向けて、なほ笑つて居る。田舍者の産んだらしくもない可愛らしい男の子だ。
『何處の子です?』
 と訊くと、
『それ、あの初さんのだよ。』
 といふ。自分は驚いた。いつの間に初太郎は斯んなのを産(こさ)へておいたのであらう。聞けば彼の病氣の烈しかつた時一生懸命になつて彼を看護した彼の家の下女が是を産んだのだ相だ。彼女(かれ)は初めはどうしても誰の子であると言はなかつたさうだが、幾月も經(た)つてからとうとう打明けて了つたといふ。何故かくしておいたかと訊いたら、肺病人の子と知れたらとても眞人間扱ひはせられないだらうと思つたからだと答へるので、それなら何故ずつと隱し通さなかつたと重ねて訊くと、日が經つに從つて段々死んだ人に似て來るからだと言つた相だ。初太郎は自身の子を見ずに死に、勿論子は永久にその父を知らない。自分は急に逢ひたくなつて用事に來て居るといふその子の母を見に下に降りて行つた。色こそ可なりに白けれ、頬骨の太い眉の太い鼻の小さな唇の厚い、夥しく醜い女である。けれども心はいかにも好いらしく、一寸見たゞけでも自分もこの女を可愛く思つた。今は半分盲目(めくら)のその子の祖父(ぢい)に仕へて羨しいほど仲睦じく暮して居るといふ。自分はその子を抱いてみた。割合ませた口を利く。なるほど見れば見るほど氣味のわるいまで亡き友に酷似(こくじ)して居る。自分の心の奧にはあり/\と故人の寂しい面影が映つてゐた。
 自分の病氣は二ヶ月あまりで辛くも快くなつた。それを待つて暇を告げて自分は郷里を去つた。いよ/\明日出立するといふ前の晩、兩人の親と一人の子とは、臺所に近い小座敷で向き合つて他人入らずの酒を酌んだ。そのころ、山の深い所だけにこゝらの天地には既う秋が立つてゐた。言葉數も少なく、杯も一向に逸(はず)まぬ。座の一方の洋燈には冷やかに風が搖(ゆら)いで居る。此ごろでは少し飮めばすぐに醉ふやうになつてゐる父が、その夜は更に醉はない。
『お前、一體そのお前の學校を卒業すると何になれるのだとか云つたな?』
 暫く何か考へてゐて彼は斯う問ひかけた。
『左樣ですね、まア新聞記者とか中學校の教師とかでせう。』
『すると何かい、月給でいふとどの位ゐ貰へるのかい?』
 自分は窮した。まさかD氏が何新聞で二十二圓、S氏が何中學で二十五圓貰つて居ると、自分の先輩の先例を引くわけにも行かなかつた。自分の默つて居るのをじろ/\と見てゐて、
『せめて五十圓も取れるのかい?』
『え、まア確かにとは言へませんがね……それに何です、私はそんな者にならうとは思つてゐませんのですから……』
『そんな者つて……では一體何になるのや?』
『文學……純文學を目下研究してゐますので……』
 とは言ひかけたが、是にも窮(つま)つた。如何してもこの髮の白い人に向つて、私は詩人になるのです、小説家になるのです、とは言ひ得なかつた。
 母も常に不安の眼をおど/\させて自分等の話を聽いてゐたが、自分がいよ/\答へに困つて來るのを見ると、
『とにかく何かになつて呉れるのだらうね、お前のことだからまさかのこともあるまいと思つて、まア安心はして待つてゐるよ。家(うち)もお前、毎年々々斯んな風になつてゆくのでね、阿父さんも急に老(ふ)けたし、今まで通りの働きも無くなつたしね、まアほんとにお前、夜も晝も心配の絶えたといふことは無いんだから、たゞもうお前一人が頼みでね……』
 母の愚痴は長かつた。常には大の愚痴嫌ひの父もその夜はたゞ母の言ふがまゝに任せた。その間自分はつとめて他のことを心に思ひ浮べてゐたが、それでもいつしかいかにも胸が遣瀬(やるせ)なくなつて、つめたい涙は自然に頬を傳つて來る。膝を兩手で抱いて、身を反(そら)して開け放した窓さきの樹木に日光[#「日光」はママ]の流れてゐるのを拭ひもせぬ眼で見つめて居ると、母もいつしか語を止めてゐた。
 自分の村を出はづれたところに、大きな河が流れて居る。其處を渡舟(わたし)で渡ると、道はやゝ長いこと上り坂になつて居る。その坂の中ほどで自分は久しぶりに傳造に出會つた。黒い眼鏡をかけて、酷(ひど)くやつれてゐたけれど、自分にはすぐ解つた。一も二もなく自分は歩み寄つて言葉をかけた。彼はもう誰だか少しも覺えが無い。見えない眼を切(しき)りに働かせて見定めようとする。
『僕ですよ、私ですよ、田口の藤太ですよ。』
 と押しかけて言ふと、初めて合點が行つたらしく、
『ほう左樣ですけねえ。』
 自分が改めて初太郎のくやみを述べると、それには殆んど返事もせず、何處へおいでなさると訊く。また東京へ行つて來ますと答へると、へえと言ひながら懷中へ兩手を入れてやがて紙にひねつて、ほんの草鞋錢だが持つて行つて呉れとさし出した。自分はうれしく頂いて袂に入れて、何かまだ話し出さうとすると、彼はすぐ一人でお辭儀をしてとぼ/\と坂下の方に降りて行つた。
 自分はその次の驛から馬車に乘つた。思ひ出して袂から先刻のひねりを取出して見ると、五十錢銀貨が三枚包んであつた。




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