樹木とその葉
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著者名:若山牧水 

 山深いところなどで不圖(ふと)聞きつけた松風の音や遠い谷川のひゞきに我等はともすると自分の寄る邊ない心の姿を見るおもひのすることがある。然し、松風や水のひゞきは終(つひ)に餘りに冷たく、餘りに寄る邊ないおもひがしないではない。それに比べて私は遙かにこれらの鳥の啼く音に親しみを持つのである。カツコウ、カツコウと啼くあの靜かな寂しい温かい聲を聞いてゐると、どうしても私は眼を瞑ぢ頭を垂れ、其處に自分の心の迷ひ出でて居る寂しさ温かさを覺えずにはゐられないのだ。
うき我をさびしがらせよ閑古鳥
 芭蕉の閑古鳥はたしかに郭公鳥の事であらねばならぬ。東北の或る地方ではまたこの鳥を豆蒔鳥とも呼ぶさうだ。ソレあの鳥が啼く、豆を蒔けといふのであらう。いゝ名だとおもふ。
 海も強(あなが)ちにいけないのではない。海ならば岬が好きだ。また、島もいゝ、入江も若葉にふさはしく、奧深い港もこの頃靜かである。外洋そのものはどうも秋の風の冴えた頃がいゝ樣に思はれる。
 紀州の熊野浦、勝浦の港に入らうとする頃であつた。五月雨の雲の斷間に遙かの山腹に奈智の瀧の見えた時の感興を忘れ得ない。そしてその勝浦港の港口、崎山の茂みの蔭にある赤島温泉に二三日雨に降りこめられながら鰹の大漁に舌鼓を打つたことも思ひ出さるゝ。
 瀬戸内海の中でも鯛漁の本場だと言はれてゐる備前沖の直島に鯛網を見に行つたも五月であつた。島は極めて小さい島だが、其處に崇徳上皇の流され給うた遺跡があつた。島の八幡宮の神官に案内せられて其處へ行くと、何のそれらしい面影もなく、たゞ一面に小松の立ち並んでゐる浪打際の山の蔭であつた。伸び揃うた小松のしんの匂ひが寂しい心を誘ふのみであつた。琴彈濱といふ所で鯛を取つて、これも折からの雨に濡れながら松蔭の海人の小屋で、さま/″\に料理して貪り喰うた事も忘れ難い。夜に入つて小松ばかりの島山の峯づたひに船着場まで歸らうとすると、ちやうど晴れそめた望(もち)の夜の月が頭上にあつた。うち渡す島から島への眺めに時を忘れて、定期の發動機船に乘り遲れ、わざ/\小舟をしたてゝ備前路までその月の夜を漕がせた事をも思ひ出す。
繁山の岬のかげの八十島(やそしま)をしまづたひゆく小舟ひさしき
したたかにわれに喰はせよ名にし負ふ熊野が浦はいま鰹時
むさぼりて腹な破りそ大ぎりのこれの鰹の限りは無けむ
琴彈の濱の松かぜ斷えぬると見れば沖邊を雨のゆくなり

 山や海の事ばかり書いてゐた。京都の嵯峨から御室、嵐山から清涼寺大覺寺を經て仁和寺(にんなじ)に到るあたりの青葉若葉の靜けさ匂はしさを何に譬へやう。單に青葉若葉と云はない、あのあたり一面におほい松の林の松の花、蕪村(ぶそん)が歌うた
若竹やゆふ日の嵯峨となりにけり
 の篁(たかむら)つゞきの竹の秋の風情(ふぜい)、思ひ起すだに醉ふ樣な心地がする。
 また、新藥師寺唐招提寺の古い御寺をたづね歩いて、過ぎ去り過ぎゆく『時』のかをりに身を沈め、奈良の春日の森の若葉の中に入り行く心を誰に告げやう。鹿の子の群れあそぶ廣い/\馬醉木(あしび)の原は漸くあの可憐な白い花に別れやうとする頃である。若草山のみどりは漸く深く、札所九番の南圓堂の鐘の音に三笠山の峯越しの雲の輝きこもる頃である。
吾子(あこ)つれて來べかりしものを春日野に鹿の群れをる見ればくやしき
葉を喰(は)めば馬も醉ふとふ春日野の馬醉木(あしび)が原の春すぎにけり
奈良見人つらつら續け春日野の馬醉木が原に寢てをれば見ゆ
つばらかに木影うつれる春日野の五月の原をゆけば鹿鳴く
 思ひ起し、書きつらねて行けばまことに際がない。
 私のこの文章を書いてゐるのもまた旅さきに於てである。伊豆天城山の北の麓、狩野川の上流に當る湯ヶ島温泉にもう十日ほど前から來てゐるのだ。來た頃に咲きそめた山ざくらは既に名殘なく散つて、宿の庭さきを流るゝ溪川に鳴く河鹿の聲が日ましに冴えてゆく。晴れた日に川原に落つる湯瀧に肩を打たせながら見るとなく、仰ぎ見る山の上の雲の輝きは何と云つてももう夏である。
 彼處か此處か、行つて見度いところを心に描いてゐると、なか/\斯うぢつとしてゐられない氣持である。旅にゐてなほ旅を思ふ、自づと苦笑せずにはゐられない。(四月十一日、湯ヶ島湯本館にて)




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