樹木とその葉
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:若山牧水 

 彼等も私に合はせて笑ふには笑つたが、それからどうしても屋内に眠る事が出來なくなり、たうとう茣蓙を持ち出して庭の木蔭に三人小さくかたまつて寢てしまつた。私たちは三日の雨の夜から引續いて屋内に寢る事になつてゐたのだ。
 待たれるのは被害地からの便りであつた。
 大悟法君からの第一便は名古屋驛から來たがそれからぴつたり止つたまゝで何の音沙汰も無い。東京、横濱の誰一人からも來ない。毎日町へ出かけて買つて來る大阪地方の新聞紙は日一日と不安を強め確かめてゆくばかりだ。
 其處へ十日の正午少し前、電信配達夫が門前に自轉車を乘りすてた。その姿を見るとすぐ私は机を離れて玄關へ急いだのであつたが、妻の方が速く其處に出て受取つた。そして發信人の名を、
『ミ、チ、ヤ』
 と讀んだのを耳にした。
『ナニツ!』
 と言ひさま彼女の手から引つとつて中を見た。
『コチラヘキタアスユク』
 シズオカ局發である。
 妻とたゞ眼を見合せた。
『生きてたナ!』
 といふ感じが、言葉にならずに全身に浸み巡つたのである。
 電報は二通であつた。他の一通の發信人には『トシヲ』とある。
『トウケウミナブ ジ アンシンセヨイマヨコハマニユク』
 發局は同じく靜岡だ。
『道彌さんが生きて歸つて、それに利雄さんがことづけたのだ。』
 と直ぐ思つた。
 皆無事、の範圍は解らないが兎に角に重な人たちに事の無かつたとだけは解してよろしい。
 泣くとも笑ふとも解らぬ顏を突き合せて夫婦はなほ暫く無言のまゝ縁側に立つてゐた。
『オイ、今日のお晝には一杯つけるのだよ。』
 嚴として妻に命令した。地震記念に私は永年の習慣となつてゐた朝酒と晝酒とをやめる事に三四日前からなつてゐたのだ。
 九月六日附、「再度上京の時」と脇書した鉛筆の葉書が十一日に中島花楠君から來た。あとで思つたのだが恐らくこれは高崎の停車場あたりで書かれたものだらう。
貴方のお宅もお見舞ひせず、失禮。遂々本所の兩親弟妹四人が完全に燒死したといふ悲しきお知らせをします。何が何だか解らない頭で燒跡をウロ/\してゐます。是から義弟の家へ(是は無事)整理にゆく處です。咲子の家(芝新堀)も全燒です。是にはまだ行きませんから生死は判りません。社友の中にも氣の毒な方が少くないでせう、高久君はどうしたらう。
 中島君が早々東京へ出立した事をば名古屋の他の社友から早速通知があつて知つてゐた。行つてそして斯んな事になつたのだ、と暗然とした。後で直ぐこの取消は來たのであつたが。
 十一日にミチヤさんが靜岡の實家からやつて來た。見るからに憔悴して、さながら生きた幽靈と云つた形である。不思議な氣持で食卓を中に相向ひながら、私は幾度も涙を飮んだ。瞳孔も緊つてゐず、ともすれば話の返事もちぐはぐになりがちであつた。
 然し、この人に逢つて愈々東京の大體は解つた。誰も無事、彼も無事、あの人も私同樣着たまゝで燒出されたさうですけれど、命だけは助かりました、といふ同君の話を聞きながら、又しても瞼は熱くなつて來るのである。
『さうすると、殆んど全部東京の知人は助かつたといふわけか、どうも本統でない樣な氣がするが。』
『まつたく何かの奇蹟を聞く樣ですね。』
 と妻も食卓にしがみつく樣にしてゐて言つた。
 サテ横濱が氣になる。長谷川も、齋藤も、梅川も、自宅は横濱で、會社は東京だ。
 其處へ『トシヲ』の電報が來た。十二日午後零時三十分、『テツセンダイ』局發だ。
『ギ ンサクキリコブ ジ イヘマルヤケ』
 越えて十三日にまた同文のものが『ゴテンバ』局發で來た。おもふに同君が大事をとつて一は東北方面へ、一は關西方面へ逃げてゆく人に托して同文のものを發したのであつたらう。
 それから續いて追々と各自に無事を知らせる通知が來たが、中に横濱の高梨武雄君からの封書で(前略)以上の人みな無事、唯だ一人金子花城君のみ今以て行衞不明です。
 と云つて來た。そして終(つひ)にこの人だけは永遠に我等の世界の人でなくつた事を、ずつと遲れて二十七日に知る事が出來た。

 豫定した行數を夙うに超過しながら書きたい事は一向に盡きない。いつそ、この十日前後の記事を以てこの變體な日記文を終らうと思ふ。この偉大な事變に對して動かされた我等の心情も實に多大なものがあつた。然し、それはまだ/\ものに書き綴るべき境地にまで澄んでゐない。我等はいまなほ實に不安な動掻の中に迷つて居るのだ。此處には唯だノート代りのこの記事を殘して恐しかつた『彼の時』の思ひ出にするのみである。(九月二十九日)




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:24 KB

担当:undef