なまけ者と雨
著者名:若山牧水
障子さし電灯ともしこの朝を部屋にこもればよき時雨かな
など、春の初めの雨と時雨とを歌つたものは私に多くあるが、大好きの若葉の雨をばどうしたものかあまり詠んでゐない。僅かに、
うす日さす梅雨の晴間に鳴く虫の澄みぬる声は庭に起れり
雨雲のひくくわたりて庭さきの草むら青み夏むしの鳴く
などを覚えてゐるのみである。
夕立をば二三首歌つてゐる。
飯(いひ)かしぐゆふべの煙庭に這ひてあきらけき夏の雨は降るなり
はちはちと降りはじけつつ荒庭の穂草がうへに雨は降るなり
俄雨降りしくところ庭草の高きみじかき伏しみだれたり
渋柿のくろみしげれるひともとに滝なして降る夕立の雨
一日のうちでは朝がいゝ。朝の雨が一番心に浸む。真直ぐに降つてゐる一すぢごとの明るさのくつきりと眼にうつるは朝の雨である。
眺むるもよいが、聴き入る雨の音もわるくない。ことに夜なかにフツと眼のさめた時、端なくこのひゞきを聴くのはありがたい。
わが屋根に俄かに降れる夜の雨の音のたぬしも寝ざめて聴けば
あららかにわがたましひを打つごときこの夜の雨を聴けばなほ降る
雨はよく疲れた者を慰むる。
あかつきの明けやらぬ闇に降りいでし雨を見てをり夜為事を終へ
遠山の雲、襞(ひだ)から襞にかけておりてゐる白雲を、降りこめられた旅籠屋(はたごや)の窓から眺める気持も雨のひとつの風情(ふぜい)である。
山が若杉の山などであつたらば更にも雨は生きて来る
紀伊熊野浦にて。
船にして今は夜明けつ小雨降りけぶらふ崎の御熊野(みくまの)の見ゆ
下総犬吠岬にて。
とほく来てこよひ宿れる海岸のぬくとき夜半を雨降りそそぐ
信濃駒ヶ嶽の麓にて。
なだれたち雪とけそめし荒山に雲のいそぎて雨降りそそぐ
上野榛名(かうづけはるな)山上榛名湖にて。
山のうへの榛名の湖(うみ)の水ぎはに女ものあらふ雨に濡れつつ
常陸霞が浦にて。
苫蔭にひそみつつ見る雨の日の浪逆(なさか)の浦はかき煙らへり
雨けぶる浦をはるけみひとつゆくこれの小舟に寄る浪聞ゆ
平常為事をしなれてゐる室内の大きなデスクが時々いやになつて、別に小さな卓を作り、それを廊下に持ち出して物を書く癖を私は持つて居る。火鉢の要らなくなつた昨日今日の季候のころ、わけてもこれが好ましい。
廊下に窓があり、窓には近く迫つて四五本の木立が茂つてゐる。なかの楓の花はいつの間にか実になつた。もう二三日もすればこの鳥の翼に似た小さな実にうすい紅ゐがさして来るのであらうが、今日あたりまだ真白のまゝでゐる。その実に葉に枝や幹に、雨がしとしと降つてゐる。昨日から降つてゐるのだが、なか/\止みさうにない。
楓の根がたの青苔のうへをば小さい弁慶蟹の子が二疋で、さつきから久しいこと遊んでゐる。
ゆきあひてけはひをかしく立ち向ひやがて別れてゆく子蟹かな
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