三重宙返りの記
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

 一等気持のわるかったのは、上昇反転であった。機はぐんぐん垂直に上昇していって、その頂上で、エンジンははたと停り、そして失速する。からだが、空中にぴたりと停った。まるで空中に腰掛があって、その上に、ふわりと胡坐(あぐら)をかいたようなふしぎな気持だ。そこまではいいが、とたんに、下腹を座席へ固くしめつけている筈(はず)の生命の帯皮(おびかわ)が俄(にわか)かに緩(ゆる)み、からだが逆さになって、その緩んだ帯皮から、だらりとぶらさがる。機を放れて、単身(たんしん)墜落の感じだ。はっと目を前方に向け、そこにあるべきはずの地平線を探るんだが、地平線は無く、顔のまん前にあったのは、何ともいえない気味の悪い青黒い壁のような大地であった。いつの間にか機首を下にした機は、次の瞬間、どどどっと奈落(ならく)に顛落(てんらく)する……。
 特殊飛行中、僕は特に頭を下げて、自分のからだに、今如何なる苦痛が懸っているかを特に注意してみた。急上昇のときだと思うが、胸と太ももとが、目に見えない魔物のために、今にも押(お)し潰(つぶ)されそうに痛むのを発見して、ああこれこそ我慢づよいわが空の勇士が、絶えず相手に闘っているところの見えざる敵“慣性(かんせい)”だなと悟った。
 機が地上に下りると、僕は急に胸先がわるくなって、むかむかしてきた。生唾(なまつば)が、だらだらと出てきた。全身には、びっしょり汗をかいていた。だが僕は、大声で叫びたいほど愉快であった。
 僕は、機上から下りて、校長閣下を始め御歴々(おれきれき)に対し、初めて挙手の礼をもって挨拶(あいさつ)をした。鼻汁がたれているのはわかっていたが、これを拭(ぬぐ)うすべをしらないほど平常の身嗜(みだしな)みに無関心だった。
 西原少佐殿は、さっきとは打ってかわり、それからいくどもくりかえし、
「海野さん、まだ胸がわるいか。まだ、なおらんか」
 と、電車の中までも、いたわってくれた。
 はっきり書くと、その夜八時半ごろになって、この胸のわるさは、やっと癒(なお)った。と同時に、ここ数ヶ月の気分の悪さが、一ぺんに吹きとんでしまった感じがした。決行するとは全然予期しなかった特殊飛行は、僕の病気までを宙返らせた。最悪の状況下にある自分のからだを駆って、よくも宙返りに耐えたということは、私事ながら、実に大きな収穫であった。病気のときは、進んで特殊飛行を志願することにしたい。但しそう思ったのは、まるで生れかわったように元気になった翌日のことではあったが……。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:4552 Bytes

担当:undef