空襲警報
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著者名:海野十三 

「これはこれは、この部屋は大出来ですね。よくやって下すった。これなら大丈夫でしょう」
 車掌はいく度も室内をみまわしながら、次の車室へ向かった。
 それから十分ののち、列車内には毒瓦斯警報が出た。いよいよ恐ろしき毒瓦斯地帯へ、音もなく滑りこんだ。車室内の全員は、さすがに黙って、鼻に全神経をあつめた。
 一分、二分、三分……。今にもホスゲン瓦斯の堆肥(たいひ)に似た臭(におい)が鼻をつくかと心配されたが、四分たち、五分たっても、なんの変った臭もして来ず呼吸はふだんと変りなくたいへん楽であった。
(ああ、助かった!)
 室内の誰もが、自分の胸のうちで、同じ事を叫んだ。そうだ、助ったのである。みんなは恩人である鍛冶屋の大将の方をふりむいた。かの大将は、急造の防護壜を前に並べて、腕ぐみをし、大きな鼻を豚のようにブウブウ鳴らしていた。その時だった。後の車室の方で、にわかに、ただならぬざわめきが聞えてきた。続いて、何かドタンドタンと大きな物がぶったおれるような物音がした。ガタガタガタンと、あわてて扉を引きあける音がして、とたんにヒイヒイと獣(けもの)が泣くような気味の悪い声が近づいて来た。


   帝都は間近し


「助けて、た、たすけてえ」
 と、ひどくしゃがれた声が……。
 室内の人たちは、一(いっ)せいに入口の方に眼を注いだ。毛布の幕の聞から、ゴロリと転げこんできたのは、スポーツマンらしい大きな男だったが、顔色は紙のように白く大きな口をあけてあえぎながら、両手でしきりに咽喉(のど)のところをかきむしっていた。まさしく、毒瓦斯に中毒していることが一眼でわかった。鍛冶屋の大将はまっさきに立ちあがって、その男のそばにかけつけた。
「た、助けてやって、くれたまえ。こ……後車は毒瓦斯がたいへん、だッ……」
 とまでいうと、彼ははげしく咳(せき)いった。
 鍛冶屋の大将は、
「よォシ、助けてやるぞ」
 と叫ぶなり、一座を見わたして、学生を五人ほど指名した。
「さあ、あの防毒壜をくわえて、助けにゆくんだ」
 旗男も、防毒面を被(かぶ)りなおした。
 学生たちは、鼻の穴に思い思いの栓(せん)をした。或者(あるもの)は、消しゴムを切ったものをつめたり、また或者は万年筆のキャップをつっこんだり、それから、また或者は一時の間にあわせに、綿栓をこしらえ唾(つば)でしめして鼻孔に挿した。
 そうしておいて、鍛冶屋の大将を手本にして、防毒壜を口にくわえた。それは奇妙な格好だった。だが誰も笑う者はなかった。尊い勇士たちの出陣だから……。
 後車へ飛びこんでみると、そのむごたらしさは筆紙につくされないほど、ひどかった。とても、ここに書きしるす勇気がない。どうしてそんなにひどいことになったかというと、結局、その車室の目張が、言訳(いいわけ)的におそまつにしてあり、それも力を合わせず、めいめい勝手にやったための失敗だった。彼等は、毒瓦斯をあまりにも馬鹿にしていたのだった。
 七勇士は、できるだけ彼等を助けたけれど、結局、すぐ元気にかえったものはごくわずかだった。多くは、もう胸にひどい炎症が起り、苦悶はひどくなってゆく一方だった。
 壜をくわえた勇士たちが、やがて部屋へ帰ってきて、口から壜を放したときには、皆いいあわせたように顔をしかめ、歯をおさえて、口をきく者もなかった。
「どうもつらい防毒面だ……」
 やっと一人が口をきいた。他の勇士は、いたみとおかしさとの板ばさみになって、苦しそうに笑った。
「何しろ、我輩が発明したばかりの防毒面だからこたえたんだよ」
 と鉄造は口の上から歯をもみながらいった。
「皆さん、お互に今後は、せめて直結式の市民用防毒面ぐらいはもっていることにしましょう。あれなら、この五倍ももつ。今くらいの薄いホスゲンなら五十時間の上、大丈夫だ」
「そいつは、どの位出せば買えるかね」
「安いものですよ。たしか、六、七円だと思ったがね」
「六、七円? そりゃ安い。山登を一回やめれば買えるんだ」
「僕は、さっきこのおじさんに教わったように炭と綿とを使って、もっと楽に口につけられるような防毒面を自分で作るよ。断然、その方が安いからな」
「でも、保つ時間が短いよ」
「なァに、換えられるような式にして、三つか四つ炭と綿の入った缶(かん)を用意しておけばいいじゃないか」
「僕はその上、水中眼鏡をかけて、催涙瓦斯を防げるようにしようかな」
 若い人たちの間には、防毒面の座談会が始まった。同室の人たちは、横から熱心にそれを聞いていた。そしてめいめいの心の中に思った。――
(今度東京へ帰ったら、まっ先に防毒面を手に入れよう……)と。
 それから間もなく、毒瓦斯地帯を無事に通過することができた。
「篠(しの)ノ井(い)、篠ノ井……」
 と駅夫のよぶ声が聞えてきた。もう毒瓦斯がない証拠だ。窓は明けはなたれた。そとから涼しい、そして林檎(りんご)のようにおいしい(と感じた)空気がソヨソヨと入ってきて、乗客たちに生き返った思(おもい)をさせた。
 車内の死者と中毒者とは、この篠ノ井でおろした。駅夫の話によると、夥(おびただ)しい毒瓦斯弾のお見舞をうけた長野市附近は、相当ひどいことになったらしかった。そこでも、平生(へいぜい)の用意が足りなかったわけだ。
 列車は、また警戒管制の夜の闇のなかにゴトゴト動きだしていった。――安心したのか、それとも活動に疲れたのか、例の勇士をはじめ、車中の人たちは、枕をならべて深い睡(ねむ)りにおちていった。高崎駅を過ぎるころ、夜が明けた。
 しかし車中の人たちは、上野駅ちかくになって、やっと眼を覚ました。
 車窓から眺める大東京!
 帝都の風景は、見たところ、どこも変っていなかった。焼夷弾や破甲弾、さては毒瓦斯弾などにやられて、相当ひどい有様になっていることだろうという気がしていたが、意外にも帝都は針でついたほどの傷も負っていなかった。昨夜、悪戦苦闘した乗客たちは、何だか、まだ夢を見ているのではないかという気がしてならなかった。
 だが本当のところ、帝都は昨夜、遂に敵機の空襲を迎えずにすんだのであった。帝都の四周を守る防空飛行隊と、高射砲の偉力とは、ついに敵機の侵入を完全に食いとめることができたのだった。
 しかし、世界第一を誇るS国の大空軍を果していつまでも、完全に食いとめられるものであろうか、どうか。
 ? ?


   東部防衛司令部


 東部防衛司令部は、防空令がくだされると、直ちに麹町(こうじまち)区某町にある地下街にうつった。
 それは空中からどんな爆撃を受けても、完全に職務をなしとげられるような十分安心のできる場所であった。そこには近代科学のあらゆる粋(すい)をあつめて作った通信設備や発電機や弾薬や食糧や戦闘用兵器などがそろっていた。
 その日の午前中に、各地からの知らせが集ってきた。東部防衛司令官香取中将は作戦室の正面に厳然と席をしめ、鹿島(かしま)参謀長以下、幕僚を大卓子(テーブル)のまわりにグルリと集め、秘策をねっていた。
「……さような次第でありますから……」
 と参謀長は報告書を見ながらいった。
「昨夜、S国の空軍が行いました第一回の夜間空襲は、主として○○海沿岸の都市に相当の恐怖と被害とを与えましたようでありますが、遠征してまいった敵の超重爆撃機は、一機をのぞきましてことごとくわが高射砲のために射落されました。その損害は、そうとう大なるものであります」
 香取将軍は大きくうなずいた。
「しかるに、S国はその痛手には一向参る様子もなく、チ市にあらかじめ待機させてあった超重爆撃機七十機を、○○○○の北方ス市に移しました。この目的はもちろん、わが国土内に深く入りこんで空襲をやるためでありますが、その飛行場出発はいつになりますやら不明と報道されています。とにかく、これが最も恐るべき相手であります」
 香取将軍は、また大きくうなずいた。そして口を開いた。
「又、U国の有名な空軍も、いま○○○○半島に集っているそうじゃな。S国とU国との世界の二大空軍が握手しそうな様子に、大分心配しているむきもあるが本官は、それほど憂慮はしていない。たとえ、全世界の空軍が一つになっても、戦争となると、おのずから順序がある」
 と、将軍の太い眉がピクリと動いた。
「さっき、C国の局外中立宣言(どちらにもつかぬということ)が一両日のびるという情報が入りました。やはり昨夜の空襲が原因しているものと見えます」
 と、高級副官がいった。
「C国の態度はなかなか決まらんだろう。決まらんところがあの国の国がらなのだ。日本が強ければ、日本につこうとするし、日本が弱りかけたとみると、日本を離れようとする。東洋の平和のためには、わが帝国がどうしても強くなければいけないのじゃ」
「閣下のお言葉の通りです、C国はずいぶん優秀な軍用機をもっているのに、はっきりした行動をとれない。S国やU国が飛行根拠地を貸せといって迫っても、断るだけの力がないのです。あわれな厄介な国ですね」
「わが陸軍の主力がほとんど○○とC国とにでかけているのも、一つはこの弱い国を正しく導いてやって、東洋の平和に手落なからしめるためだ。平和を乱す国などに、むやみに飛行根拠地などを借りられるようなときには、わが国は、代って物もいってやらねばならぬ。東洋に於(お)ける帝国の使命は実に重いのだ」
 そのとき、若い大将参謀が、書類をもって入ってきた。
「司令官閣下、昨夜の空襲によってわが国土のうけましたる被害について御報告いたします」
「ほう、御苦労」
「○○海を越えてきました敵の超重爆四機が、攻撃いたしましたのは、大体に於て、本州中部地方の北半分の主要都市でございました。焼夷弾が十トン毒瓦斯弾が四トン、破甲地雷弾が三トンぐらい、他に照明弾、細菌弾などが若干ございますものと推測いたします」
「十七トンの爆弾投下か。――敵ながらよくも撒いたものじゃ」
「軍隊の損害は、戦死は将校一名、下士官兵六名、負傷は将校二名、下士官兵二十二名、飛行機の損害は、戦闘機一機墜落大破、なお偵察機一機は行方不明であります。破壊されたものは高射砲一門、聴音機一台であります。他に照空灯、聴音機等若干の損害を受けましたが、爾後(じご)の戦闘には、支障なき程度でございます」
「軍隊以外の死傷は」
「死者約七十名、重傷者約二百名、生死不明者約千名であります。この原因はおもに混乱によるもので、大部分は避難中、度を失った群衆のようであります」
「ウン、恐るべきは爆弾でもなく毒瓦斯でもない。最も恐ろしいのは、かるがるしく流言蜚語(りゅうげんひご)(根のないうわさ)を信じ、あわてふためいて騒ぎまわることだ。国民はもっと冷静にして落ちつくべきである」
「はッ、閣下の仰せの通りであります。……圧(お)しつぶされて死んだ者についで、死者の多かったのは毒瓦斯にやられた者で、約二十名。これはふだんから、毒瓦斯とはどんなものか、どうすれば防ぐことができるかをよく心得ておかなかったためだと存じます……」
 そのとき、通信係の曹長が、いそぎ足で部屋に入ってきた。
「お話中でございますが、司令官閣下、只今(ただいま)、T三号の受信機に至急呼出信号を感じました。秘密第十区からの司令官宛(あて)の秘密電話であります」


   警報出(い)づ


 その日の午後四時、真夏の太陽はギラギラと輝いていたが、帝都には突如として警戒警報が発令された。
 品川区五反田に、ささやかな工場を持つ鍛冶屋(かじや)の大将こと金谷鉄造は、親類の不幸を見舞いにいった帰り、思いがけぬひどい目にあったが、その疲(つかれ)を休めるいとまもなく、もう仕事場に出て、荷車の鉄輪を真赤にやいて、金敷の上でカーンカーンと叩いていた。そこへ防護団本部から急ぎの使がやってきて、「至急集合!」を知らせてきたので、仕事はあともう一息だったけれど、そのまま鎚(つち)をなげだして、団服を着るのももどかしく、往来へ走りでた。
「やあ鉄造さん。よく帰ってきてくれたね」
 と、分団長の丸福酒店の主人、神崎(かんざき)後備中尉は、嬉(うれ)しそうに、鉄造の手をとった。
「おお、分団長。……昨夜は汽車のなかで、どんなに気をもんだか知れやしない。なにしろ、ふだんの防空演習と違って、いつも先に立って働いてくれた在郷軍人の連中の大部分が、戦地へ召集されて出ていっている。残るは、わし等のような老ぼれと、少年達とばかりだ、それじゃ、とても手が足りなくて困っているだろうと思ったよ」
「ウン、そのとおりだ。全く弱っている。いまラジオでも聞いただろうが、突然また警戒警報が出た。ところが、この小人数になった防護団では、とても手が廻りゃしないことがわかっている」
「一体、人員はどのくらいに減ったのかい」
「とても話にならぬ。半分ぐらいに減っちまったんだよ。その上、頼みになるような若者達がいないと来ている。……これだけで、警護に、警報に、防火に、交通整理に、防毒に……といったところが、とても、やりきれやしない。まさか、こんなに防護団が貧弱になろうとは思わなかったよ」
 神崎分団長は、心配の眉をひそめ、途方にくれたという顔附(かおつき)で鉄造の方を見た。
「仕方がないよ。防護団も、戦時にはこうなることが初からわかっていたのだ。愚痴(ぐち)をならべたって仕方がない。とにかく御国のために、ぜひ完全に防護してみせなきゃならない。困っているのは、この五反田防護団だけじゃない。日本全国で、みなこの通り手が足りなくて困っているのだ。……よし、俺(おれ)たちは二倍の力を出すことにしよう。そうすれば、どうにかなるよ」
「他の防護団へ交渉してみようか」
「駄目駄目。それよりも、この際、少年達に大いに働いてもらう方がいい」
「少年達なんて、爆弾がドカーンと鳴るのを聞いたとたんに腰をぬかしたり、泣きだしたりするだろう」
「なんのなんの、そんなことはない。日本の少年の強いことは、むかしから、証明ずみだ。少年時代の頼朝(よりとも)の胆力、阿新丸(くまわかまる)の冒険力、五郎十郎の忍耐力など日本少年は決して弱虫ではない。ところが、この頃では子供だ、かわいそうだと、ただ訳もなくかわいそうがるから、子供たちは昔の少年勇士のような、勇ましい働きを見せましょうと思っても、見せる時がないのだ。今も昔もかわりはない。日本少年の胆力は、今もタンクのように大きい!」
「タンクのように?」
 分団長は、鍛冶屋の大将の大袈裟(おおげさ)ないい方におどろいて顔を見た。
「そうだ。タンクだ。だからこの際、少年たちに重大な任務を与えるのがいいのだ。きっと彼等は、頼朝や阿新丸や五郎十郎などのように、困難を乗りきって手柄をたてるよ。心配はいらないぞ、分団長!」
 神崎分団長は、鉄造の言葉にすっかり感動してしまって、強い握手をもとめた。
「ああ、よく教えてくれた。やはり日露戦役に金鵄勲章(きんしくんしょう)をもらってきただけあって、鍛冶屋上等兵はえらいッ!」
「オイオイ、上等兵なんかじゃないぞ、軍曹だぜ!」
「ああ、そうかい。軍曹かい。これは失敬。もっとも、のらくろ二等兵なんかもこのごろ、少尉に任官したそうだからね。ましてや君なんか人間で……」
「こらッ!」
 大分ヨボついているが、この後備軍人たちも相当なものだった。これから世界一を誇るS国空軍の強襲をうけようという場合にもかかわらず、平然と、いつものような冗談をいいあうほど、くそおちつきに落着いていた。
 神崎分団長は、そこで肚(はら)をきめて、命令を発した。少年達を召集して、警護、警報、交通整理、避難所管理の各班に分属させること、救護班、防火班、防毒班、工作班は大人がやること……、これでやっと分団長の気は楽になった。
「オウ、分団長はいますかァ……」
 と、自転車で駈けつけてきたのは、警報班長の髪床屋(かみどこや)の清(せい)さんだった。
「分団長は、ここだここだ。清さん清さん」
 声を聞きつけて、清さんは、青い顔を天幕(テント)のなかに入れた。
「あのゥ、これは大きな声でいえないことだけれど、実は、いま新宿駅のそばを通ってきたんですがね、駅のところは黒山の人なんで……」
「黒山の人? 喧嘩(けんか)か、流言か」
「まァ流言の部類でしょうね。その群衆はてんでに荷物をもって、甲州方面へ避難しようというのです。なんでもいよいよ今夜あたり、帝都は空襲をうけて、震災以上の大火災と人死(ひとじに)があるというのです。だから、帝都附近は危険だから、甲州の山の中に逃げこもうという……」
「ナ、ナ、ナ、ナーンだ。帝都から逃げ出す卑怯者が、そんなに沢山いるのか。それは日本人か」
 と、鍛冶屋の大将は、真赤になって怒りだした。
「それがね。めいめい大きな荷物をしょいこんで、押合いへし合いなんです。女子供が泣き叫ぶ、わめく、怒鳴る、その物凄いことといったら……」
「憲兵や、警官はいないのか」
「いるんでしょうけれど、とてもあの群衆は抑えきれませんよ。……それで思うんですが、避難するなら早くやらないといけない。ぐずぐずしていると避難民はますますふえてきて、列車に乗れなくなりますよ。……全く帝都にいるのは危険だ」
「ほう……」
 と分団長は驚きの色をあらわし、
「そんなことが始まるかもしれないと思っていたが……」


   敵機いよいよ迫る


「貴様は……」
 鍛冶屋の大将は憤然として、清さんの胸ぐらをとった。
「キ、貴様は逃げる気か。逃げたいのか。空襲をうけようとする帝都を捨てて逃げるのか!」
「あッ、苦しいッ、ハハ放せッ。……俺は逃げないが、弱い家族は逃がしたい……」
「ば、ばかッ!」
 鍛冶屋の大将は、清さんを突きとばした。彼はヨロヨロとなり椅子(いす)につきあたると、ドーンとひっくりかえった。
「こーれ、よく聞け」
 鉄造は一歩前に出て悲痛な声をはりあげ、
「貴様はそれでも、天皇陛下の赤子(せきし)かッ! 大和民族かッ、五反田防護団員なのかッ! 恥を知れッ」
 まァまァと分団長が中に入ったが、鉄造はそれをふり払いまた一歩前進した。
「忠勇なる帝都市民は、たとえ世界一の空軍の空襲をうけて、爆弾の雨をうけようが、焼夷弾の火の海に責められようが、帝都を捨てて逃げだそうなどとは思っていないぞ。こんどの国難においては、われわれ市民も立派な戦闘員なんだということがわからんか。考えてもみろ、貴様の家では、家族がみな逃げちまって空家(あきや)になっているとする。そこへ敵の投下した焼夷弾が、屋根をうちぬいて家の中に落ちてきた。さあ、この焼夷弾の始末は誰がするのだ。おい、返事をしろ」
「……」
 清さんは、赤くなって下を向いたきりだ。
「焼夷弾は、落ちて三十秒以内に始末しなかったら、火事になることはわかっている。空襲下で火事を出すのが、どんなに恐(おそ)ろしいことか思っても見ろ。貴様の家の火事がわれわれの努力を水の泡にして、この五反田の町を焼き、帝都を灰にしてしまう。それでも貴様は日本人か。貴、貴様というやつは……」
「ワ、わかった、鉄さん。お、おれが悪かった」
 清さんは、膝で歩きながら、鍛冶屋の大将にすがりついた。
「鉄さん、おれたちは日本人たることを忘れていた。……どんな爆弾が降って来ようと、自分の家を守る。この町を守る……どうか勘弁してくれ」
「そうれみろ。貴様だってわかるんじゃないか。わかれば何もいわない。……警報班長なんて委(まか)せておけないと思ったが、もう大丈夫だろうな」
「ウン、大丈夫! ウンと活動するぞ、おれは外で働き、家の方は女房を防護主任にしてやらせる」
「鉄さんのおかげで、わが防護団は俄然(がぜん)強くなった。さあ、二人で握手しろ」
 分団長は、二人の手をとってにぎらせた。
「あッはッはッ」
「大いにやるッ。ハッハッハッハッ」
 日没とともに、警報班の灯火管制係の活動は、目に見えて活発になってきた。なかでも鍛冶屋の大将の息子で、いつも少年ながら父親の向鎚(むこうづち)をうっている兼吉(かねきち)は、親ゆずりの忠君愛国の精神にもえ、少年団の先頭にたって、西へ東へと、教えられた通り、定められた街灯を消してまわっていた。少年たちは五人一組となっていたが、持ちものは、長い梯子(はしご)が一つと、高いところに届く竿が二本――それは、先のところが三つまたに割れ、その先を繃帯(ほうたい)でグルグル巻いてあった。その三つまたを街灯の電球へおしつけ、竿を左まわりにねじると、電球がソケットからすこし抜けてもどるため、あかりが消える仕掛だった。
 少年たちが、この作業のときに一番気がついたことは、共同の力の大きいということだった。
 昔、毛利元就(もうりもとなり)は三本の矢を一度に折ることのむつかしいことから、協力の大事なことを説いたが、いま少年たちは、五人で力を合わしさえすれば、大人がやっとかつげるような重い梯子もらくらくと運べ、大人がやるよりも、遥(はる)かに多くの街灯をはるかにはやく消してあるくことのできるのを知ったのだ。
 帝都にはまったく夜のとばりが下りた。
 そば屋の掛看板にも灯が消えた。町のネオン・サインもついていない。自動車のヘッドライトには、紫と黒との二重の布がかぶせられた。飛行将校の話によると、夜間飛行でもかなり低空にくだってくると、地上で吸っているタバコの火がハッキリと見えることさえあるそうだ。懐中電灯にも、被(おおい)がいる。上から直接見える火は、ことに用心しないといけない。
 午後八時十五分! 突如として、ラジオが鳴りだした。
「東部防衛司令部です。只今警報が発せられる模様であります……」
 昨日から、中内アナウンサーは、おおわらわの奮闘だった。五百万の市民は、このなじみ深いアナウンサーが、いま何を告げようとするのかと、胸おどらせながら、拡声器の前に集ってきた。
「これァ、いよいよS国の超重爆が攻めてきたんですよ」
「さあ、これは大変だ。うちじゃ防毒室の眼張の糊(のり)がまだかわいていないので」
「なぜ、もっと早くこしらえなかったんだい」
「それが、あわてているものだから、糊を作ろうと思って、鍋(なべ)を火にかけてはこがし、かけてはこがし、とうとう三べんやり直した」
「それで、今度は出来たかい」
「ところが、やっぱり駄目、仕方がないから冷飯を手でベタベタ塗ったんだが、つばきがついているせいか、なかなかかわかない。あッはッはッ」
「こらッ、警報が出るんじゃないか。シーッ」
 不気味な沈黙が、ヒシヒシと市民の胸をしめつけていった。
「……警報! 警報! 只今関東地方一帯に空襲警報が発せられました。直ちに非常管制に入って下さい。……復誦(ふくしょう)いたします。只今……」
 そのとき、サイレンが、ブーッ、ブーッと間隔をおいて鳴りだした。これに習うように、工場の汽笛がけたたましく鳴りだした。
 五反田防護団では、警報班長の清さんが、天幕(テント)の中で、大声に叫んでいる。
「警報班のみんな。空襲警報だッ。直ちに受持区域に『空襲!』と知らせて廻れ、出動、始め!」
 と、妙な号令のかけかたをした。
 天幕の前にメガホンをもって並んでいる少年が二十人。半数は自転車で、他の半数は二本の足で、今にも飛出すばかりに身構えていたのだ。班員はサッと挙手の敬礼をすると、
「さあ、行こう!」
 と叫んで、それぞれの受持区域にむかって、砲弾のように駈けだした。


   防空飛行隊の活躍


 志津(しづ)村の飛行隊は、緊張のてっぺんにあった。
 帝都から、数十キロほどはなれた、この飛行場には、防空飛行隊に属する諸機が、闇のなかに、キチンと鼻をそろえて並んでいた。
 今しも三機の偵察機が、白線の滑走路にそい、戦闘機の前をすりぬけるようにして、爆音勇ましく暗(やみ)の夜空に飛びだした。
 場外に出ると、三機はそれぞれ機首を別々の方向に向けて、互に離れていった。前に出発した三機と合わせて、六機の偵察機の使命は、某方面から入った警報にもとづき、敵機を探しに決死の覚悟でとびだしたのだった。
「まだ、その後の報告はないか」
 と、屋上の司令所にがんばっている隊長は、通信班長の軍曹にたずねた。
「はッ、まだであります」
「遅いなあ。何もわからぬか」
「はッ、さきほど報告いたしましたとおり、敵機らしきものから打ったあやしい無電をちょっと感じましたが、その方向をつきとめないうちに、怪電波は消えてしまいました。北西の方向らしいとわかったきりで、明瞭(めいりょう)でありませぬ」
「敵機は、よほど用心しているな。相当に高く飛んで来ているように考えられる」
 そのとき、通信兵がツカツカと室に入ってきて、一枚の紙片を軍曹に渡した。
「あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ二三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります」
「あッ。……ただ今、先発隊の第二号機から通信がありました。――『本機ニ三〇三地点ニ達セルモ敵機ヲ発見スルニ至ラズ』……とあります」
 防空飛行隊が暗夜に必死の活動をつづけている間、帝都では、非常管制をはじめ、あらゆる防護の手段が着々として用意されていった。
 五反田の裏通(うらどおり)では、闇の中に、防護団の少年と住民との間に、小ぜりあいが始まっていた。
「おじさん。どうしても灯を消さないというのなら、僕は電灯をたたきこわしちゃうがいいかい」
「そんな乱暴なことをいうやつがあるか。電灯の笠には、チャンと被(おおい)がしてあるし、窓には戸もしめてあるよ。外から見えないからいいじゃないか」
「だって、皆が消しているのに、おじさんところだけつけておくのはいけないよ。敵の飛行機にしらせるようなものじゃないか。おじさんは非国民だよ」
「なに非国民! これは聞きずてにならぬ。子供だからと思って我慢していたが、非国民とはなんだ。おれはこんなに貧乏して、ゴム靴の修繕をやり、女房は女房で軍手の賃仕事をしているが、これでも立派に日本国民だッ。まじめに働いているのがなぜ悪いんだ。仕事をするためには、下にあかりを出さなきゃできやしないぞ」
「だって、空襲警報の出ている少しの間だけ消せばいいのじゃないか。それをやらないから、非国民に違いないや。オイ皆、いくらいっても駄目だから、電球をとってしまおうよ」
 ワーイという少年の声、家の中からキャーッとあがる悲鳴、靴屋のおじさんは棒をもって少年の方に打ちかかってきた。
「コラ、待て、この非常時に、喧嘩するのは誰だッ」
 バラバラと近づく足音――格闘の中に飛びこんできたのは鍛冶屋の大将だった。
「なんだ、これァ……防護団の少年と、靴屋さんじゃないか」
「そうだよ、靴屋だよ……」
「まてまて、これァどうしたのだ」
 そこで、靴屋のおじさんと少年たちとの言分(いいぶん)をじっと聞いていた鍛冶屋軍曹は、やがて、強い感動をあらわしていった。
「よくわかったぞ。……少年たちは任務に忠実で、実に感心したぞ。それから靴屋のおじさんもこの非常時におちついて仕事をはげんでいるのには感心した」
「でも、あかりを消さないから、非国民だい」
「これこれ、もうすこし黙っていなさい。……そこで少年たちよ。今後、帝都が空襲されることは、たびたびあろうと思う。空襲警報もたびたびでて、何時間も非常管制がつづくことだろう。ところがいまは平時とちがって、戦争中だ。戦争は軍人だけでは出来ない。沢山の品物が入用だ。国民は、平時よりも仕事が忙しくなる。すこしでも仕事を休むことは国家の損なのだ。非常管制のたびに、全国の工場が仕事を休むとしたら、戦争に使う品物の製造は間に合うだろうか」
「……」
 少年は皆、黙っている。
「品物が間に合わんと困る。いま、お前たちのゴム靴に穴があいていたとしよう。直しにやったが、非常管制で穴を直すことができなかったらどうだろう。お前たちは穴のあいた靴を履(は)いて、往来を歩いている。そこへ敵の飛行機が糜爛性(びらんせい)の毒瓦斯イペリットを落した。さあ漂白粉(さらしこ)をバケツに入れてその上に撒かないと、沢山の市民が中毒する。さあ行け、といわれたとき、穴のあいたゴム靴を履いていて、それでイペリットの上を歩けるかね――」
 鍛冶屋軍曹の言葉は、火のようにあつかった。
「それは歩けないだろう。靴の穴が直っていなけりゃ、消毒に行けないし、無理に行こうものなら、穴からイペリットが染みこんで、足の裏が火ぶくれになる。ひどければ、そこから身体が腐り出して死んじまう。そうなるのも、元は何から起ったことだといえば、非常管制のとき靴屋の仕事を休んだためだ。どうだわかったろう。――灯火管制で、外から灯を見えなくすることは防衛上もちろん必要なことだ。だがサァ空襲だ、ソレ電灯のスイッチをひねって真暗にしてしまえ……では感心できない。外からちっとも見えなくすると同時に、家の中で仕事が出来るようにして置くのが、もっともゆきとどいた灯火管制のやり方だ。そういう人は非国民どころか、甲の上の模範国民だ、そうだろうが……」
 非国民と悪口をいった靴屋のおじさんが、模範国民だと聞かされて、少年たちは眼をパチクリ。どうして、靴屋のおじさんにあやまろうかと、小さい頭を寄せてコソコソ囁(ささや)いていたが、やがて、一人の少年が一番前に出て、直立不動の姿勢をとると、両手をあげて大声で叫んだ。
「甲の上の、靴屋のおじさんとおばさん、バンザーイ」
「うわーッ、バンザーイ。バンザーイ」
 思いがけない万歳の声に、靴屋のおじさんは、びっくり仰天したが、ハラハラと涙をこぼし、溝板(どぶいた)に立ちあがるなり、
「忠勇なる少年諸君、バンザーイ。……おじさんも仕事をはげむから、どうか御国のために、帝都の防衛のことはみなさんによく頼んだよ。おじさんは嬉しい……」
 そういう声の下に、そこにニコニコと立っていた鍛冶屋の鉄造の胸にワッといってすがりついた。


   孝行の防毒室


 防空飛行隊の強行偵察のかいもなく、帝国領土内に侵入したと思われた敵機の行方はついにわからなくなってしまった。防衛司令部へは「敵機ヲ発見セズ」という報告ばかりが集ってきた。各地の監視哨からも、なんの新しい報告も入ってこない。――帝都の附近は、午後十一時になって、ひとまず非常管制が解かれた。
「空襲警報解除! 只今より警戒管制!」
 こんな夜更(よふけ)に、睡(ねむ)りもやらぬ少年団は、命令一下、まっくらな町を、寺の塀外を、そしてまた溝板のなる横町を、メガホンを口にあて大声で知らせて歩いた。
 警戒管制に入ったので、町は少し明るくなって、住民たちは蘇生(そせい)の思(おもい)だった。防護の人々は、交替に休むことになった。
 どこからともなく、ホカホカと湯気の立つ握飯が運ばれてきた。大きな西瓜(すいか)をかつぎこんでくる紳士もあった。少年たちを、それぞれ家に帰らせようとしたが、なかにはどうしても帰らないで、この天幕(テント)の隅で寝るというがんばり屋もあった。とにかく帝都の町々は、ちょっと、ひといきついたという形だった。
 旗男少年は、どうしたのであろうか。彼は今朝東京へ帰って来たが、いろいろ旅のつかれで弱りこんでいるのだろうか。そういえば、彼の姿は、防護団のなかにも見えなかったが。
 いや、その心配はしないでよろしい。この朝、旗男は家へかえると、すぐ弟と妹とに手伝わせて防毒室を作りにかかったのだ。
 旗男は両親と相談して、洋間の書斎を第一防毒室にすることにきめた。そしてまず、窓のガラスは、外から大きな蒲団(ふとん)でかくし、その上に、長い板をもってきて、蒲団をおさえつけるようにして両端をとめた。これなら爆弾のひびきでガラス窓がこわれ、そこから毒瓦斯が入ってくるという心配はない。
 その次は、畳をあげて、床板の隙間に眼張をはじめた。兄弟三人ともお習字の会に入っていたので、手習(てならい)につかった半紙の反古(ほご)がたくさんあったから、これに糊をつけて、二重三重に眼張をした。それができると、その上に新聞紙を五枚ずつおいて畳を敷いた。これで床下からくる瓦斯は防げる。
「こんどは窓框(まどわく)と窓の戸との隙間と、それから壁の襖(ふすま)の隙間に、紙をはるんだよ」
 洋間風にこしらえた部屋だったから、隙間はわりあいに少かった。
 扉が二つあったが、一つは諦めて眼張をした。一つの扉から出入りすることにして、その内側には毛布でカーテンをおろした。
 これは昨夜、汽車の中で鍛冶屋の大将のやったのを見習ったのだった。――これで、第一防毒室はできあがった。しかし、仕事はそれですんだのではなかった。
 こんどは、防毒室の前の部屋に、同じような眼張をした。これが前室だった。
「いいかね。外から入ってくるときは、この前室をとおって、それからもう一つ奥の防毒室に入るんだよ。つまり家の外の毒瓦斯は途中に前室があるので、奥の防毒室には瓦斯がほとんど入ってこないというわけさ」
「あら、うまいことを考えたのね。どこで教わってきたの」
「なァに、『空襲警報』という本があったのを知っているだろう。あれを本箱の中にしまっておいた。それを、今日は引ぱりだして、見ながら作っているんだよ。ハッハッハッ」
「まあ、その本をしまっておいてよかったわね、兄さん」
「さあ仕事はまだある。急いで急いで」
 旗男は、さらに竹男と晴子とをうながして、前室にあてた八畳の部屋にある押入の中のものをドンドン外に出して、この押入に眼張をほどこした。
「兄さん、ここは、お手伝いさん用の防毒室なのかい」
「そうじゃないよ。お手伝いさんも皆と一緒だ。これは、万一、第一防毒室が壊れても逃げこめるように作ったんだ。つまり第二防毒室さ」
 旗男は、これでもう大丈夫だと思った。それに防毒面が一つあるから誰か時々これをかぶって外に出て、ちょっと防毒面と頭の間に指で隙間をつくり、嗅(か)いでみればよい。
 窒息性のホスゲンは堆肥くさく、催涙性のクロル・ピクリンはツーンと胡椒(こしょう)くさく、糜爛性のイペリットは芥子(からし)くさいから、瓦斯のあるなしはすぐわかるのだ。
「お父さんも、お母さんも、もう安心ですよ。すっかり防毒室が出来ました」
 両親は旗男たちの働きを、病床から涙をだして喜んだ。旗男の旅行で、遅れていた家庭の防護設備も、兄弟の協力でどこの家にも負けないくらい堅固に出来あがった。
 三人の兄弟は、にわかに腹がドカンとへったのを覚えた。そこへ、お手伝いのお花(はな)さんが山のように握飯をもって入ってきた。三人はウワーといって、まわりから手を出した。
「ああ、おいしい」
「町の防護団でも、いま、おにぎりを食べていますのよ。ホホホホ」
 お手伝いさんは笑ってつげた。
 夜は、不安をみなぎらせたまま、だんだんと更けていった。ひどく蒸暑い夜だった。
 防護団は時間をきって、警戒員を交替させた。衛生材料がいっぱいつまった赤い十字のついた大きな箱が配給されてきた。どこからどこへ行くのか、重機関銃をもった一隊の兵士が、粛々と声もなく通りすぎていった。
「鍛冶屋の大将。今夜は来ないらしいね」
「おお分団長。警報は出ないが、しかし油断はならないぜ」


   暁の空襲警報


 茨城県湊(みなと)町の鮪船(まぐろぶね)が四艘(そう)、故郷の港を出て海上五百キロの沖に、夜明を待っていた。
 その鮪船は、いずれも無線の送受信機とアンテナとを備えていて、魚がとれると、遠く内地海岸の無線局を呼び、市場と取引の打合せをすることができるのであった。
 磯吉(いそきち)という漁夫の一人が、用便のために眼をさました。東の空は、もうかなり白みがかっていた。舳(へさき)に立つと、互に離れないように、艫(とも)と艫とを太い縄で結びあわせた僚船の姿が、まだ寝足りなそうに浮かんでいるのが見えた。この天気では、今日もどうやら不漁(しけ)のような気がする……と思いながら、彼は明けゆく海原を前にして、ジャアジャアと用をたしはじめた。
 そのときであった。
「はてな、変な音がする……」
 彼はふと遠い空から、異様な響(ひびき)の聞えてくるのをきいたのだ。
「ああ、そうか。……こいつはまた海軍の演習にぶつかったかな」
 海にくらしている彼等にとって、何よりも嬉しいことは、思いがけぬ海上で、わが艦隊の雄姿を見ることだった。これも、演習で、海軍機が飛んでいるんだろう。……
「だが、海軍機にしちゃ、すこし音が変だな。非常に音が高いし、その上、おそろしく響く音だ! なんだろう」
 磯吉はまだ気がつかず、ボンヤリと眺めていた。怪音は、すばらしい速さで、ゴウゴウと大きくなってきた。音の来る方角が始めてわかったので、磯吉は好奇心にかられながら、なおも空を見上げていると、やがて晴れゆく朝霧の向こうに認めた機影!
 一機、二機、三機、……
 いやそれどころではない。たいへんな数だ。しかも驚いたのは、その飛行機の形だ。まるで蝙蝠(こうもり)を引きのばしたような、見るからに悪魔の化身のような姿! 長いこと飛行機は見てくらしたが、こんな飛行機を見たのは、後にも先にもたったいまが始めて……。
「あッ、これァ大変だ!……起きろ起きろ、みんな! 妙な飛行機が通っているぞう!」
 磯吉はドンドン足を踏みならしながら、大声で呼ばわった。その音に、漁夫たちは、下から裸のままゾロゾロと駈けだしてきた。
「あッ、これはいけねえ」
 と叫んだのは、昨年航空隊から除隊して来た太郎八(たろはち)という若者だった。
「……変なところを飛んでいるが、これは確かにS国の超重爆撃機だ。……さあ早く、これを○○無線局に知らせなきゃァ」
 敵機の大集団きたる! この鮪船からの警報は、それから数分ののちに、○○無線局を経て東部防衛司令部に達した。――
「○○無線局発。午前五時十五分、北緯三十六度東経百四十三度ノ海上ニアル茨城県湊町在籍ノ鮪船第一大徳丸(ダイトクマル)ハ有力ナルS国軍用機ノ大編隊ヲ発見ス、高度約二千メートル、進路ハ西南西。超重爆撃機九機ヨリナル爆撃編隊七隊ナリ。以上」
 超重爆六十三機の一大爆撃編隊の強襲だ!
 防衛司令部は、俄(にわ)かに活気づいた。
 警報の用意が命ぜられた。
 五百キロの海上だとすれば、あと二時間位で帝都の上空に達するはずだった。海上の防空監視はむつかしい。
 この発見がもうすこし遅かったら、どうなったろう。思っても冷汗が流れる。
 用意は出来た。
 香取司令官は、厳然として「空襲警報」を下命した。
 警報の発令と同時に、防空飛行隊にも出動命令がくだった。つづいて高射砲隊などの地上防空隊へも、それぞれ戦闘命令が発せられた。
 マイクロホンの前で、中内アナウンサーは、命令遅しと待つほどもなく、香取司令官は手をあげた。
「ラジオ放送で一般に通報せよ。――司令部発表、南及び北関東地区、午前五時二十分、空襲警報発令!」
 アナウンサーは、司令官の命令を復誦した。
「よろしい。落ちついて放送せよ」
 アナウンサーは大きくうなずいて、マイクロホンに向かって唾(つば)をのんだ。さすがに顔の色がちがっている。
 伝令があわただしく駈けてゆく。参謀が地図の上に赤鉛筆で数字を書き込む。副官が奥の戸棚から大きな掛図を小脇にかかえてきて、下士官に渡す。下士官は要領よくそれを壁に掛けてゆく。
 ジ、ジ、ジーとしきりにベルが鳴る。着剣(つけけん)をした警戒兵がドヤドヤと入ってきて、扉の脇に立つ。――防衛司令部の中はまるで鉄工場のように活発になった。
 暁の夢を破られた市民は、ドッと外にとびだした。サイレンがブーッ、ブーッと息をつくように鳴っている。夜霧でびっしょり濡れた朝の街路の上を拡声器から出るラジオの音がガンガンと響いてゆく。
「……空襲警報……空襲警報が発せられました。敵機は約二時間以内に帝都上空に現れるものと見られます。あッ……、ただ今、防衛司令官から諭告が発せられる模様であります。……香取閣下を御紹介いたします」
 それにつづいて、香取将軍の重々しい声が響いてきた。
「私は香取中将であります。先程の発表にありましたるごとく、有力なるS国爆撃機隊は太平洋上より刻一刻、帝国本土に接近しつつあります。本官は既に防衛諸部隊に命じ、虐非道の敵隊の撃滅を期しております。さりながら悪運のつよき敵機の一部が、本土内に潜入するやも計りがたく、ここに於て忠勇なる国民諸君の、一大奮起をお願いする次第であります。沈勇と忍耐と協力とにより、完全なる防護を尽くされんことを希望してやみません。おわり」
 このラジオを聞いた東京市民は、ただちに立って、大日本帝国万歳を絶叫した。暁の町から町を、熱血みなぎる声は、つよくつよくこだましていった。


   恐ろしき空中作戦


 正確にいうと、午前七時二十分――怪翼を左右にひろげた敵の爆撃機は、ついに帝都の上空にその姿をあらわした。
「おお、来た来た。あれが敵機だッ」
「うーン、やってきたな。さあ落せるものならどこからなりと、爆弾を落してみやがれ!」
 市民は南の空をにらんで、覚悟を固めた。
 しかし、敵機は、どこを潜(くぐ)って帝都上空に侵入して来たのだろう。

 さきに、太平洋の鮪船から発した「敵機見ユ……」の警報にあったとおり、S国の日本空襲部隊は、超重爆撃機九機よりなる編隊を、次々に連ねて、東京へ東京へと、爆音もの凄く進撃をつづけたのであった。
 わが防空監視船の警報は、あとからあとから防衛司令部へとどいた。
「爆撃機ハ九機ノ編隊七箇ヨリナル」
「爆撃編隊ハ高度約二千メートル、針路ハ真西ナリ」
「針路ヲ西南西ニ変ジタリ」
「只今上空ヲ通過中ナリ」
 こうしてS国の空襲隊の様子は、手にとるようにわかって来た。
 防衛司令部からの命令で、志津村と谷沢(たにざわ)村との防空飛行隊に属する戦闘機○○機は、すでに翼を揃(そろ)えて飛びだした。
 ところが敵空襲部隊は、本土にあともう百五十キロというところで、急に陣形を変えた。
 モロレフ司令官は、光線電話をもって、第一編隊長ワルトキンに、いそいで命令した。
「ワルトキンよ。貴隊は犬吠崎(いぬぼうさき)附近から陸上を東京に向かい、工業地帯たる向島(むこうじま)区、城東(じょうとう)区、本所(ほんじょ)区、深川(ふかがわ)区を空襲せよ。これがため一瓩(キログラム)の焼夷弾約四十トンを撒布(さっぷ)すべし!」
「承知! 我等が司令! 直ちに行動を始めん」
 焼夷弾を積んだこの第一編隊は、本隊から離れると、犬吠崎をめがけて驀進(ばくしん)していった。
「第二編隊長、ミルレニエフ」
「おう、われ等が司令。破甲弾の投下準備は既に完了しあり」
「貴官は東京湾上より北上して、まず品川駅を爆撃したる後、丸(まる)の内(うち)附近より上野駅附近にわたる間に存在する主要官公衙(かんこうが)その他重要建造物を爆撃し、東京市東側地区の上空に進出すべし。但し、東京市上空に進入の時期は第一隊より五分後とす」
「承知」
 第二編隊は爆撃隊だった。
 すぐに機首を西南の方に廻して、本隊を離れていった。
「第三編隊長、ボロハン!」
「おう……」
 この編隊は、地雷弾と毒瓦斯弾とを半分ずつ持っている。
「貴隊は松戸(まつど)附近より、東京の北東部にでて、まず環状線道路及び新宿駅を爆撃破壊したる後、東京市北部及び西部の繁華なる市街地に対し瓦斯弾攻撃を行い、住民をして恐怖せしめ擾乱(じょうらん)を惹起(じゃっき)せしむべし!」
「承知!」
 第三編隊も、隊列を離れていった。第四編隊と第五編隊とは毒瓦斯と焼夷弾、第六編隊は地雷弾をもって、川崎(かわさき)横浜(よこはま)方面の爆撃を命ぜられた。毒瓦斯弾と細菌弾とを持った第七編隊にも特別な命令がくだった。
 恐るべき作戦だった。このまま彼等の思い通りに爆撃が行われるとしたら、東京、横浜、川崎の三市は、数時間のうちに死の都となってしまうだろう。
 司令官は、第七編隊を率いて進撃しつつ、ニヤリと笑って、
「さあ、これからいよいよ日本帝国を亡ぼし、東洋全土をわがS国植民地とするその最初の斧(おの)をふりおろすのだ。ああ、愉快!」
 と、航空地図上の日本本土の横腹に、赤鉛筆で大きな矢印を描き、更に日附と自分のサインを誇らしげに書きいれた。


   空中の地獄


 空襲して来た敵機隊との最初の空中戦は、銚子(ちょうし)海岸を東へ去ること五十キロの海原の上空で始まった。――志津飛行隊に属する戦闘機隊が、敵の第一編隊を強襲したのだった。……
 つづいて、その南方の海面の上空で、谷沢飛行隊と、敵の第二編隊とが出合い、ここでもまた物凄い地獄絵巻がくりひろげられていった。
 グワーン、グワーンとうなる敵の機関砲。
 ヒューンといなないては宙返りをうち、ダダダダダーンと、敵機にいどみかかるわが防空戦闘機。
 あッ、戦闘機が翼をうちもがれて、グルグルまわりながら落ちてゆく。と見る間に、敵の一機も真黒な煙をひいて撃ち落された。
 こうした激しい空中戦が、敵の各編隊を迎え、相模湾(さがみわん)上でも、東京湾の上空でも行われた。
 口径四十ミリの敵の機関砲は、思いの外すごい力をもっていた。わが戦闘機は、敵に迫る前に、この機関砲の餌食(えじき)となって、何台も何台も撃ちおとされた。
 しかし、その間に、敵機の数もまた一台二台とへっていった。勇猛果敢なわが戦闘機は、鯱(しゃち)のように食下って少しも攻撃をゆるめないのだ。上から真逆落(まっさかおと)しに敵機へぶつかって組みあったまま燃落ちるもの――壮烈な空の肉弾戦だ。
 敵の陣形はすっかり乱れた。
 舵(かじ)をかえして、太平洋の方へ逃出すものがある。のがすものかと追いかける戦闘機、中には逃足を軽くするため、折角(せっかく)積んで来た五トンの爆弾を、へどのように海上へ吐き出して行くのもあった。
 ただ、各編隊を通じて十機あまりは、雲にまぎれて戦闘の攻撃機をのがれ、東京へ東京へと、呪(のろい)の爆音を近づけつつあったのだ。
 しかし、東京の外側を幾重にもとりまく各高射砲陣地が、どうしてこれを見のがそう。ねらいすました弾丸は、容赦もなく敵機に噛(か)みついていった。
 翼をくだかれて舞いおちるもの。
 火災を起して、大爆音とともに裂けちるもの。
 傷ついてふらふらと不時着するもの。
 数十分前に、意気高く「東京撃滅!」を叫んだあの六十三機の大空軍は、今その姿を失おうとしている。
 だが、安心するのはまだ早い。東京湾上の雲にひそんだ一機、二機、三機――が死物ぐるいに帝都の空へ迫っているではないか。


   爆撃下の帝都


 魔鳥のような敵機の姿はついに品川沖に現れた。海岸の高射砲は一せいに火蓋(ひぶた)をきった。その煙の間を縫うようにして、見る見る敵機は市街の上……。
 けたたましい高射機関銃の響が八方に起こった。
 敵機の翼の下から、蟻(あり)の卵のようなものがパッととびだした。その下は、ああ、旗男たちの住む五反田の町!
「あッ、爆弾投下だッ。うわーッ、この真上だぞう……」
 この爆弾の雨をみた旗男は、高台を駈けおりながら、大声で叫んだ。――彼は空襲の知らせを聞くと、病める両親をはじめ家族たちをすぐ防毒室の中に入れ、あとのことをお手伝いさんと竹男に頼むと、自分は少年団の一人として、町にとびだしてゆくところだった。そのとき旗男は大事な持物を忘れなかった。右肩には防毒面の入ったズックの鞄(かばん)を、また左肩には乾電池で働く携帯用のラジオ受信機を、しっかり身体につけて出た。
「うわーッ、あれあれ。爆弾だ、爆弾だ」
「あわてるなあわてるな。落ちるところを注意していろ!」
 鍛冶屋の大将は大童(おおわらわ)で防護団を指揮していた。
 町々からは恐怖の悲鳴がまいあがる。
 ガラガラガラガラ!
 ドドーン、ドドーン!
 破甲弾よりは、ややひくめながら叩きつけるような大音響とともに、パーッとたちのぼる火炎(かえん)の幕!
 うわーッという凄惨(せいさん)な人間の叫び!
 町まで出てきた旗男は実をいうと、気が違いそうであった。しかしここで気が違っては日本男子ではないと思って、一生懸命、自分の手で自分の頭をなぐりつけた。ゴツーン、という音とともに感ずるズズーンという痛み、そこでハッと気がついた。
「あッ、焼夷弾が……」
 向こうの屋根に小型の爆弾が落ちたと思うと、パッと眼もくらむような光が見えた。
「こっちだ、こっちだ」
「おお」
 鍛冶屋の大将が声を聞きつけとんできた。
「オイ皆、早く消しにゆけ。防火班、全速力だッ!」
 手近にいた者が駈けだそうとすると、その前に、またつづけさまに三発、ドドドーンと白煙が天に沖(ちゅう)する。
「うわーッ、やられたッ……」
 と鍛冶屋の大将が叫んだと思うと、どうと倒れた。
「おお、担架(たんか)、担架」
「イヤ何、大したことはない」
 大将はムクムクと起き上ってきて手を高くあげた。
「砂だ、砂だ。オイお前は、ホースを引っぱれ。早く早く。落ちついて急げ!」
 防護団はあまりの強襲にあって、頭がカーッとして、何がなんだかわからない。
 手あたり次第、眼にとまった方に駈けだしてゆく。これではいけない。もっと落ちつかねば……と気がついた旗男は、ふと天幕(テント)の中に、赤い房のついたラッパを見つけた。
「そうだ、これだッ」
 旗男は天幕の中にとびこんで、ラッパをつかむより早く、口に当てて、タタタァ……と吹鳴らし始めた。それは勇ましい戦闘ラッパだった。
 タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ タッタ
「おお、戦闘ラッパが鳴っている!」
「おお、あれは誰が吹いているのだろう」
 嚠喨(りゅうりょう)たるラッパの音を聞いた人々は、にわかに元気をとりもどし始めた。
「おお、旗男君。さすがに、やるなァ!」
 と鍛冶屋の大将は頭をふった。そして腹の底から声をふりしぼって叫んだ。
「そォらッ! 今あわてちゃいかん。がんばれがんばれ。あと十分間の我慢だ!」
 火災は幸(さいわ)いにして、日頃の訓練が物をいって大事に至らずにすんだ。
「……瓦斯(ガス)だッ、瓦斯、瓦斯!」
 坂上から、伝令の少年が自転車に乗って駈けくだってきた。
「ホスゲンだ、ホスゲンだ。……防毒面を忘れるな」
「毒瓦斯が流れだしたぞう……」
 恐怖の的の毒瓦斯弾が、落ちたらしい。それっというので、防護団の諸員はお揃(そろい)の防毒面をかぶった。警報班員は一人一人、石油缶を肩からつって、ガンガン叩いて駈けだす。
「瓦斯は坂の上の方から下りてくるぞ。防毒面のない人はグルッとまわって風上へ避けろ。なるべく高い所がいいぞ。そこを、右へ曲って池田山(いけだやま)へ避難するんだ!」
 旗男は後に踏みとどまって、坂上から徐々に押しよせてくる淡緑色の瓦斯を睨みながら、さかんに手をふった。彼は、勇敢にも時々防毒面と頭との間に指ですき間をつくり、瓦斯の臭(におい)をかぎわけようとつとめた。


   地上の地獄


 ウウウーと、物凄い唸声(うなりごえ)をあげて、真赤な消防自動車が、砲弾のように坂を駈け上っていった。麻布(あざぶ)の方に、烈々たる火の手が見える。防毒面をつけた運転手は、防毒面の下で半泣(はんなき)になっていた。それは爆弾がこわいわけではなかった。早く火元へ駈けつけたくても、あわて騒ぐ市民がウロウロ道に出てくるので、あぶなくて思うように運転が出来ないからだった。あッ、また向こうの横町から洋装の女がとびだしてきた。
「あぶない!」
 運転手はわめいた。サイレンは、さらに猛烈に咆(ほ)えたって、女の前をすれすれに駈けぬけた。
 燃えやすい帝都に、一箇所でも火災をだすことは、この際一番おそろしい。ぜひとも早く消しとめなければならないと、消防隊は一生懸命なのだった。
 火事はお邸町(やしきまち)だった。
 消防隊員はバラバラととびおりて、直ちにホースを伸ばしていった。物凄い火勢だ。どうして焼夷弾を消さなかったんだろう。
「……実にけしからん」
 と小頭(こがしら)が頭をふって怒りだした。
「この辺の邸は、どこも逃げてしまって、なかには犬っころがいるだけだ。実にけしからん。だから焼夷弾が落ちても、誰も消手(けして)がないのだ。非国民もはなはだしい!」
 消防隊員を憤慨させたこの辺一帯の避難民はどうなったであろうか。彼等は甲州の山奥に逃げこむつもりで、新宿駅に駈けつけたが、たちまち駅の前で立往生をしてしまった。あまりに夥(おびただ)しい避難民が押しよせたので、もう身動きもできなかった。駅員の制止も聞かばこそ、改札口をやぶり、なだれをうって一部はプラットホームに駈けあがり、そこに停車していた列車にわれがちに乗りこんだが、そこでも百人近い死傷者が出た。
 列車の中にはいれない人は、窓の外にぶら下り、屋根の上によじのぼった。
 それは地獄絵巻のように、醜くも恐ろしい光景だった。……そんなに努力して乗りこんだのはいいが、列車は遂に発車しなかった。防衛司令部が警備の目的のため、列車の出発を中止させたのだ。
 ところが、悪いときには悪いことが重なるもので、そのうちに、こちらへ廻って来た敵機が、おびただしい爆弾と、焼夷弾とを投げおとして、新宿駅のまわりは、たちまち火の海となってしまった。
 消防隊も、防護団も、ぎっしりの群衆に邪魔されて手の下しようがなく、アレヨアレヨと、死人のふえるのを見ていなくてはならなかった。
 まったく恐ろしいのは共同の精神をうしなった群衆だった。


   敵機は去ったが


「ウム、また次のやつが来るかも知れない。六十三機というのが、さっきは三機だけだったからな。まだ油断はならんぞ!」
 防護団といわず、女子供といわず、みな不安にみちた眼をあげて空を仰いでいる。
「ラジオはどうしたッ」
 鍛冶屋の大将がどなった。少年団の一人が天幕(テント)の中へかけこんだ。……が、すぐ真青になって、天幕からとびだしてきた。
「班長、駄目です!」
「駄目? なにが駄目だッ」
 団員はハッとして、少年の方を見た。
「……ラジオが鳴らないんです」
「鳴らない! 壊れたのかな」
「班長!」
 と旗男がいった。
「これは、きっと送電線が爆弾にやられて、ラジオが駄目になったのですよ」
「ラジオが駄目になったとは困った」
 といって天幕の中に入っていったが、気がついて電話をかけてみた。大将の顔が、また暗くなった。
「どうしたの」
「いや、電話も駄目だ。電線はみなやられたらしい……さあ大変、これじゃ大事な耳も眼も利かなくなったも同然だ」
「するとサイレンも鳴らないんだな」
「これはいかん……」
 団員一同は、離小島に残されたような心細さを感じた。
 そのとき一台の自動車がやって来て、中から見なれない背広服の男がおりて来た。そして天幕の方へツカツカと寄ってくるなり、
「……皆さん、大変ですよ。いま暴動が起っている。下谷(したや)、浅草(あさくさ)、本所、深川、城東、向島、江戸川などの方から数万の暴徒が隊を組んでやって来る。帝都を守れなかった防護団員を皆殺しにするのだといっている。早く逃げないと、皆さんは殺されちまいますよ……」
「えッ!」
 団員はハッと驚いて、互に顔を見合わせた。そんなことが起っているのか? 俺たちはこんなに闘ったのに、それだのに殺されなければならぬのか。これを聞いて泣きだした少年もあった。
「流言だよ。そんなはずはない!」
 と旗男は叫んだ。
「いや、本当かも知れない!」
 図体(ずうたい)の大きいわりに、気の弱いパン屋のおやじさんが、半分かじったパンを手にもったまま、泣きだしそうな声をだした。
「どうすればいいんだ?」
 鍛冶屋の大将も、これには途方に暮れてしまった。同士討なんて、考えたこともなかった。ラジオも電話も不通では、この騒(さわぎ)はさらに大きく広がってゆくだろう。だが、旗男は、見なれない背広男の言を、どうしても信ずることが出来なかった。――数万人の暴徒が防護団員を殺しにくるなんて、そんなバカバカしいことがあるものか。
「そうだッ……」
 旗男はふと気がついた。
 送電が停っても、ちゃんと働く電池式受信機をもっていたことを思い出したのだ。放送局の非常用発電ガソリンエンジンも停っていればしかたがないが、もしエンジンが働いていて放送をやっているとしたら、旗男の受信機には入ってくる筈(はず)だった。――彼は、たちさわぐ団員のところを少し離れて、肩にかけた受信機を開き、受話器を耳にあてて、ダイヤルを廻した。とたんに旗男の顔が林檎(りんご)のように輝いた。
「おお、放送をやっている。うん聞えるぞ!」
 旗男は地獄で仏に会うの思(おもい)だった。前もって電池式受信機を作っておいてよかった。非常時には、ぜひともこれがいる! 受話器から出てくる声は小さいが、まぎれもなく、なじみ深い中内アナウンサーの声……。
「……以上申し上げましたようなわけで、S国空軍の三機もわが勇猛果敢なる防空飛行隊、高射砲隊によってついにとどめを刺されました。太平洋に逃げたものは、なお追撃中でございますが、これはもう燃料もあまりありませんので、その最期のほどは知れております。
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