空襲警報
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著者名:海野十三 

   日本海の夕日


 大きな夕日は、きょうも日本海の西の空に落ちかかった。うねりの出て来た海上は、どこもここもキラキラと金色に輝いていた。
「美しいなあ!」
 旗男(はたお)少年は、得意の立泳(たちおよぎ)をつづけながら、夕日に向かって挙手の礼をささげた。こんな入日(いりひ)を見るようになってから、もう三日目、いよいよお天気が定まって本当の真夏になったのだ。
「オイ旗男君。沖を向いて、一体誰(だれ)に敬礼しているんだい」
 後から思いがけない声が旗男に呼びかけた。驚いて後をふりむくと、波の間から頑丈なイガ栗坊主の男の顔が、白い歯をむき出して笑っていた。
「ああ……誰かと思ったら、義兄(にい)さん!」
 それは義兄(あに)の陸軍中尉川村国彦(かわむらくにひこ)だった。旗男の長姉(ちょうし)にあたる露子(つゆこ)が嫁(とつ)いでいるのだった。旗男は、東京の中学の二年生で、夏休を、この直江津(なおえつ)の義兄の家でおくるためにきているのだった。
「義兄さんずいぶん家へ帰ってこなかったですね。きょう休暇ですか」
「そうだ。やっとお昼から二十四時間の休暇が出たんだよ。露子がごちそうをこしらえて待っている。迎えかたがた、久しぶりで塩っからい水をなめにきたというわけさ。ハッハッハッ」
「塩っからい水ですって? じゃあ、また海の中で西瓜取(すいかとり)をやりましょうか」
「それが困ったことに、来るとき、西瓜を落してしまったんだよ」
「えッ落したッ? ど、どこへ落したんです。割れちゃったの?」
「ハッハッハッ、割れはしなかったがね。ボチャンと音がして、深いところへ……」
「深いところへって? 流れちゃったんですか」
「流れはしないだろう。綱をつけといたからね。ハッハッハッ」
「綱を……ああわかった。なーんだ、井戸の中へ入れたんでしょう……。また義兄さんに一杯くわされたなァ」
「まだくわせはしないよ。さあ、早く帰ってみんなでくおうじゃないか」
 二人はくるりと向きを変えると、肩をならべて平泳で海岸の方へ泳ぎだした。
「義兄さん、お天気が定まったせいか、日本海も太平洋と同じように穏かですね」
「ウン、見懸(みかけ)だけは穏かだなァ……」
 国彦中尉は、なんとなく奥歯に物の挟(はさ)まったような言いかたをして、妙に黙った。
「見懸は穏かで、本当は穏かでないんですか。どういうわけですか、義兄さん!」
「ウフフ、旗男君にはわかっとらんのかなァ。君はいま、沖を見て挙手の礼をしていたね。あれは日本海を向こうへ越えた国境附近で、御国(みくに)のために生命(いのち)を投げだして働いている、わが陸海軍将兵のために敬意を表していたのかと思ったんだが、そうじゃなかったのかね」
「ええ、敬礼は太陽にしていたんです。……がその国境で何かあったんですか。例の国境あらそいで、世界一の陸空軍国であるS国と小ぜりあいをしているって聞いてはいましたが、……いよいよ宣戦布告をして戦争でも始めたのですか」
「さあ、何ともいえないが、とにかく穏かならぬ雲行(くもゆき)だ。それにこれからは、昔の戦争のように、前以(まえもっ)て戦(いくさ)を始めますぞという宣戦布告なんかありゃしないよ。S国の極東軍と来たら数年前の調べによっても、たいへんな数で、わが中国東北部駐屯軍(ちゅうとんぐん)の六倍の兵力を国境に集め、飛行機も一千台、ことに五トンという沢山(たくさん)の爆弾を積みこむ力のある重爆撃機が、数十台もこっちを睨(にら)んでいる。そしていざといえば、国境を越えて時速三百キロの速力で日本へやって来て爆弾を撒(ま)きちらした上、ゆうゆうと自国へ帰ってゆくことが出来る。実に凄(すご)いやつだ。そんな物凄いやつを遠いところから、わざわざ日本の近くにもって来ているし、軍隊をしきりに国境近くに集め、毎日のように中国東北部をおびやかしている。もう宣戦布告ぬきの戦争が始まっているようなものだ。お天気が定まってくると油断がならない。昔、蒙古(もうこ)の大軍が兵船を連ねて日本に攻めてきたときには、はからずも暴風雨に遭(あ)って、海底の藻屑(もくず)になってしまったが、今日ではお天気の調べがついているから、暴風雨などを避けるのは訳のないことだ。お天気の続くことが分かったら、いつやって来るか知れない」
「いやだなあ! お天気はもう三日も続いているのですよ。するとこれは危いのかな。ちっともそんな気はしないのだけれど……」
 旗男はクルリと寝泳に移って沖をふりかえっていた。すると今も夕日は朱盆(しゅぼん)のように大きく膨(ふく)れた顔を、水平線の上に浸そうというところだった。それはいつに変らぬ平和な入日だった。旗男には義兄がわざと彼をおどかすためにいっているように思えてしようがなかった。
 ――義兄さんは高射砲隊長だから、きっとS国が空襲してくる夢ばかりみているのだろう。――
 と、旗男は腹のなかで、義兄を気の毒に思ったのだった。――背の立つところまで来たらしく、先頭の義兄はヌックと立ちあがると、波を蹴(け)ちらしながら汀(なぎさ)の方へ歩きだした。


   怪しい男


「まあ、おそいのねェ……」
 汀のところで、女の声がした。姉の露子が一誕生を迎えたばかりの正彦坊やを抱いて迎えに来ていた。義兄はそれを見ると、とびついていった。
「ああ、正坊。お父ちゃまと、チビ叔父(おじ)ちゃまのお迎えかい。おお、よく来たね。オロオロオロオロ、ばァ」
 旗男も続いて砂地にあがると、照れかくしに正坊のところへ行って、
「オロオロオロオロ、ばァ」
 とやった。
「じいタン。ばァばァ」
 正彦坊やは、まわらぬ口を動かしてキャッキャッと若い母の腕の上ではねた。
「さあ旗男君。早いところ行軍を始めようぜ。――分隊前へ……」
 国彦中尉はふざけた号令をかけると、正彦坊やを露子の手からうけとり、先頭に立った。浜から義兄の家まではすぐだった。
 すっかり打水をした広い庭に面した八畳の間に、立派な食卓が出ていて、子守の清(きよ)がひとりで番をしていた。
「ああ、咽喉(のど)がかわいた。何よりも西瓜をはやく出せ」
 義兄は洗い場で身体(からだ)を洗いながら大声で叫んだ。ホホホと、お勝手の方で姉の露子と子守の清のほがらかに笑う声がした。まったく和(なご)やかな光景だった。旗男も知らぬ間に自分ひとりで笑っているのに気がついた。
 ――こんな平和な家庭、こんな平和な国。……それだのに、遠く離れたS国の爆撃機をおそれなければならないのか。
 国彦中尉は浴衣姿(ゆかたすがた)となり、正坊を抱いてニコニコしながら座敷へはいってきた。入れちがいに旗男は、湯殿(ゆどの)の方に立った。途中台所をとおると、大きな西瓜が、俎(まないた)の上にのっていた。旗男はのどから手が出そうだった。
 風呂槽からザアザアと水をかぶっていると、隣の台所で、清の脅(おび)えたような声が、ふと、旗男の耳にひびいた。
「……アノ奥さま。いま変な男が、井戸のところをウロウロしているのでございますよ。……故紙業のような男で……」
「アラそう?」
「いえ奥さま。それが変なんでございますよ。ジロジロと井戸の方を睨んでいるのでございますよ。……ああ、わかりましたわ。あのひと、井戸の中の西瓜を狙(ねら)っているのでございますわ。西瓜泥棒……」
「これ、静かにおし……」
 西瓜泥棒と聞いて、旗男はソッと硝子戸(ガラスど)のすきまから外を覗(のぞ)いてみた。なるほど、いるいる。暗いのでよくは分からないが、頬被(ほおかぶり)をした上に帽子をかぶり、背中にはバナナの空籠(あきかご)を背負っている男が、ソロソロ井戸端に近づいてゆく。……
 ――怪(け)しからん奴(やつ)だ。……しかし、西瓜ならもう家の中に取りこんであるからお生憎(あいにく)さまだ。ハハンのフフンだ。――
 と、旗男はなおも眼をはなさないでいると、かの男は、見られているとも知らず、井戸の上に身体をもたせかけると、右手をつとのばして何か井戸の中へ投げいれた様子、カチンと硝子が割れるような音が聞えた。一体何を入れたんだろう?
 と、とたんにあらあらしく玄関の格子戸(こうしど)が開いて、
「コラ待て……」
 と、飛びだしていったのは国彦中尉。怪漢はギョッと驚いたらしく、まるで猫のように素早く、井戸端の向こうにまわって身を隠した。その素早さが、どうもただの男ではない。
「さあ出てこい。怪しからん奴だ」
 と、中尉のどなりつける声。怪漢は、しゃがんだままゴソゴソやっていたが、何かキラリと光るものを懐中から取出した。ピストルか短刀か?
「あッ危い……」
 旗男は義兄を助けるために、なにか手頃(てごろ)の得物がないかと、湯殿の中を見まわした。そのとき眼にうつったのは、斜(ななめ)に立てかけてある長い旗竿(はたざお)だった。よし、すこし長すぎるけれど、これを使って加藤清正の虎退治とゆこう。
「うおーッ、大身(おおみ)の槍(やり)だぞォ……」
 いきなり湯殿の戸をガラリとあけると、旗男は長い旗竿を、怪漢の隠れている井戸端のうしろへ突きこんだ。
「うわーッ」
 それが図にあたって、怪漢は隠れ場所からピョンと飛びあがった。そしてなおも逃げようとするところを、旗男はエイエイと懸声(かけごえ)をして、旗竿の槍を縦横(じゅうおう)にふりまわした。
「しまった!」
 と叫んで、怪漢はその場にたおれた。旗竿が向脛(むこうずね)にあたったものらしい。
「ウヌ、この奴……」
 と、国彦中尉が飛びこんでいって怪漢の上に折重なろうとしたとき、
 ダーン……
 と一発、凄い銃声がひびいた。その銃声の下に、ウームと苦悶(くもん)する人の声。――旗男はハッとその場に立ちすくんだ。


   伝染病菌の容器


 まだ暮れたばかりの夏の宵(よい)のことだった。不意に起った銃声に、近所の人々は、夕食の箸(はし)を放(ほう)りだして、井戸端のところへ集ってきた。
「どうしたんです。強盗ですか」
「あッ、こんなところに、人間がたおれている。誰が殺したんだ」
 と、たち騒ぐ人々の声。
「みなさん。静かにして下さい。こいつは僕を撃とうとして、僕に腕をおさえられ、自分で自分を撃ってしまったんです」
 国彦中尉はすこしもあわてた様子もなく、人々に話をして聞かせた。
「こいつは、一体何者なんです?」
「ピストルを持っているなんておかしいね」
 人々はおそるおそる死体のまわりをとりまいた。
「……ああ、あなた。血だらけよ。浴衣も……それから手も……」
 驚きのあまり、中尉のうしろに呆然(ぼうぜん)と立っていた露子が、このとき始めて口をひらいた。
「ナニ、血? 大丈夫だ。おれには怪我(けが)はない」
 中尉は元気な声で答えた。
「あなた、いま水を汲(く)みますから、水でお洗いになっては……」
 と、露子が井戸の方によろうとすると、
「待て、露子……。しばらく井戸に触(さわ)ってはならん」
「えッ」
「皆さんも、井戸には触らないでください。その前に、この死んだ男の身体を調べたいのだが……、誰か警官を呼んできて下さい」
 国彦中尉は、なぜか井戸をたいへん気にしていた。そこへ剣をガチャつかせて、二人の警官が息せき切って駈(か)けつけてきた。
「さあ、どいたどいた」
 国彦中尉は警官を迎えると、なにか耳うちをした。警官は顔を見合わせて大きくうなずくと、人々を遠くへどかせた上、中尉と三人きりになって、井戸の横に倒れているきたない服装をした男の持物を、懐中電灯の明りで調べだした。人々は遠くから固唾(かたず)をのんでひかえていた。
 と、突然、
「……ああ、あった。これだッ」
 国彦中尉が叫んだ。そして懐中電灯の光でてらしだしたのは、死人の腹にまいてある幅の広い帯革(おびかわ)であった。それには猟銃の薬莢(やっきょう)を並べたように、たくさんのポケットがついていた。しかし中尉がそのポケットから取りだしたものは、猟銃の薬莢ではなく、注射液を入れたような小さい茶色の硝子筒(ガラスとう)だった。それには小さいレッテルが貼(は)ってあり、赤インキで何か外国語がしたためてあった。
「ほう、コレラ菌ですよ……」
 国彦中尉は、警官の鼻の先に、その茶色の硝子筒をさしつけなが[#「さしつけなが」はママ]いった。
「ええッ、コレラ菌!」
 警官の顔は見る見るまっさおになっていった。
「そうです。この死んだ男は、敵国のスパイに違いありません。この直江津の町におそるべきコレラを流行させるために、これを持ちまわって井戸の中に投げこんでいたのです」
「ああ、するとコレラ菌を知らないで飲んでしまった人もあるわけだ。さあ大変……」
 警官は驚きのあまりよろよろとした。
「まあ、しっかりして下さい。今からでも、まだ遅くはない。すぐ手を廻(まわ)して、町の人々に生水を飲むなと知らせるのですね」
「どうして知らせたらいいでしょう。こんなことがあるのだったら、サイレンか何かで『生水を飲むな』という警報が出せるようにきめておけばよかった」
 警官は大きな溜息(ためいき)をついた。これを横から聞いていた人々も、全身の血が逆流するように感じた。なにも知らない町の人々は、今も盛んにコレラ菌を飲んでいるのだ。そしてやがてコレラ菌のため、ことごとく死に絶えてしまうのではなかろうか。なんというおそろしいことだ。スパイの持ってきた死神の風呂敷に、直江津の町全体が包まれてしまったのだ。
「義兄さん――」
 と、旗男少年は列の中からとびだして来た。
「ぐずぐずしていないで、早く新潟放送局に電話をかけて放送してもらえばいいじゃありませんか。いま午後七時半の講演の時間をやっている頃だから、ラジオを持っている家には、井戸が使えないことをすぐ知らせられますよ」
「えらいッ……」
 中尉と二人の警官とは、声を合わせて、同じことを叫んだ。そして三人は旗男の方を一せいにふりかえった。とたんに三人はアッといって目をむいた。
「うわーッ、旗男君。その恰好(かっこう)はなんだ。早く家へ入って猿股(さるまた)をはいてこんか」
 と、国彦中尉が大喝した。それをキッカケに、井戸端からドッと爆笑がまきおこって、その場の暗い気持をふきとばしてしまった。――旗男は、すっぱだかなのをすっかり忘れていた。


   智者(ちしゃ)は惑わず


 夜に入ると、直江津のコレラ菌さわぎは、ますますはげしくなっていった。
 新潟放送局では、講演放送を途中で切り、警察署からの臨時官庁ニュースとして、「コレラ菌の入った井戸水を注意して下さい」を放送しだしたから、ラジオを聞いていたものは驚いた。
「……当分生水はお飲みにならぬようにねがいます。さしあたり、井戸の中へ漂白粉(さらしこ)を一キログラムほどお入れ下さい。……それから既(すで)に生水をお飲みになった方は、急いで医師の診察をうけられるか、それともすぐ梅酢(うめず)をちょこに二、三杯ずつ飲んで下さい……」
 コレラになっては大変だ。漬物屋へ徳利(とくり)をもって梅酢を買いに走ってゆく男や女。青年団は、倉庫を開いて、漂白粉をバケツに詰めては、エッサエッサと夜の町の井戸を探しにゆく。漂白粉をなげこんだ井戸には、白墨で三角印をつけてゆく。……放送を聞いたとたんに腹が痛くなったという者もでてきたが、本当の発病は二十四時間ぐらいにでてくるものが多いから、それは気のせいであろう。
 とにかく旗男が気をきかしたので、コレラ菌がまかれたことはわりあい早く直江津の町に知れわたった。ぐずぐずしていると大変なことになるところだった。
「義兄(にい)さん。あの西瓜はもう駄目ですね」
 と旗男は残念そうにいった。
「ああ、西瓜! そうだ、あの騒(さわぎ)で忘れていた。オイ西瓜を持ってこォい」
 と、奥へ声をかけた。
「まあ、あなた、コレラ騒に西瓜でございますか」
 露子はあきれたというような顔をして、国彦中尉の顔をみつめた。
「なァに、あの西瓜は大丈夫だよ。コレラ菌を入れる前に、上へあげたんだもの。それでも心配だったら、漂白粉を入れた水で、外をよく洗ってもっておいで」
「まあ、あなた、……そんなに食意地(くいいじ)をおはりになるものではありませんわ」
「ばかをいっちゃあいかん。意味なく恐れるのは卑怯者(ひきょうもの)か馬鹿者だ。十分注意をはらって、これなら大丈夫だと自信がついたら、おそれないことだ。僕は自信があるから西瓜を食べる。……旗男君、君はどうするかね」
 中尉は笑いながら旗男の顔をみた。たしかに義兄のいうことは本当だ。
「智者は惑わず、勇者は恐れず」という格言がある。意味なくあわてるのでは、大和魂(やまとだましい)を持っているとはいえない。旗男のはらはきまった。
「僕、食べますッ!」
「姉さんは頂かないわ」
「ウフン、気の毒なことじゃ。ハッハッハッ」
 二人の前に、俎(まないた)にのった西瓜が出て来た。国彦中尉は庖丁(ほうちょう)をとりあげると、グラグラ沸(わ)きたっている鉄びんの蓋(ふた)をとって中に入れ、やがてそれを出すと、ヤッと西瓜を真二つに切った。それをまた三つに切ってその一つを両手にもってガブリとかみついた。
「ああ、うまいうまい。旗男君、どうだ」
 旗男は義兄の自信に感心しながら、西瓜の片(きれ)をとりあげた。そいつはすてきにうまくて、文字どおり頬(ほ)っぺたが落ちるようだった。
「義兄さん。あのコレラ菌を持っていたのはやはりスパイでしょうか」
「ウン、立派なスパイだ。日本にまぎれこんで、秘密をさぐっては本国へ知らせるスパイもあれば、あんなふうに、日本に対してじかに危害を加えるスパイもある」
「いまのスパイはS国人ですか」
「いや違う。東洋人だったよ。日本人か、他の国の人間か、いまに警察と憲兵隊との協力でわかるだろう。とにかくS国人に使われているやつさ」
「日本人だったら、僕は憤慨(ふんがい)するなあ。しかしS国というのは悪魔のようなことを平気でやる国ですね」
「これまでの戦争は、本国から遠く離れた戦場で、軍隊同士が戦うだけでよかった。しかしこれからの戦争は、軍隊も人民も、ともに戦闘員だ。そして戦場は、遠く離れた大陸や太平洋上だけにあるのではなく、君たちが住んでいる町も村も同じように戦場なんだ。だからあんなふうにスパイが細菌を撒いたり、それから又敵の飛行機が内地深く空襲してきたりする」
「すると僕も戦闘員なんですね」
「そうだとも。立派な戦闘員だ。非戦闘員はというと重い病人と、物心のつかない幼児(こども)と、足腰も立たないし、耳も、眼も駄目だという老人だけだ。七つの子供だって、サイレンの音がききわけられるなら、防護団の警報班を助けて『空襲空襲』と知らせる力がある。大戦争になると、在郷軍人も、ほとんど皆、出征してしまう。後にのこった人たちの任務は多いのだ。たとえば防空監視哨(かんししょう)といって、敵の飛行機が飛んでくるのを発見して、それを早く防空監視隊本部を経て防衛司令部に知らせる役目があるが、この防空監視哨を、視力が弱い者でも立派にやれるんだ」
「まさか、そんなことが……」
「笑い事じゃない、本当だ。いいかね……」
 と、国彦中尉が、最後の西瓜の片を持ったとたんに、玄関の格子戸(こうしど)がガラリとあいて、大きな声がとびこんできた。
「……川村中尉どの、お迎えにまいりました」


   非常呼集


「おお、沼田の声だ」
 国彦中尉は、従卒の声を玄関に聞いて、座からとびあがった。
「中尉どのは、御在宅でありますか」
 沼田一等兵は、露子に迎えられて、玄関の前で挙手の敬礼をしていた。
「おい沼田。まだ休暇の時間中だぞ、迎えが早すぎる」
「ああ、中尉どの」
 沼田の面(おもて)はひきしまっていた。
「そうでありますが、非常呼集の連隊命令であります。サイド・カーをもってお迎えに参りました」
「ナニ非常呼集……」
 中尉はハッとした面持(おももち)で、露子の顔を見た。露子もハッとしたが、武人の妻だ取乱しもせず奥にかけこんで、軍服の用意にかかった。
「義兄さん、お出かけですか」
「ウン旗男君。これはひょっとすると、今夜あたりから、物騒なことになるかも知れんぞ」
「物騒って、これ以上に物騒というと……アーもしや空襲でも」
「そうだ。なんともいえんが、S国の爆撃機が行動を起したのかもしれない。早ければ、ここ二、三時間のうちに敵機がやってくるかもしれない」
「ええッ、本当ですか。たった二、三時間のうちに……」
「距離が遠いといっても、○○○○から七百五十キロばかりだ。時速三百キロで、まっすぐにくるなら二時間半しかかからぬ。……とにかく、敵もさる者で、全くの不意打らしいぞ」
 敵の飛行隊の根拠地から、二時間半しかかからないと聞くと、さすがに距離の近さがハッキリ頭に入ったような気がした。
 川村中尉は、露子の抱いてきた正坊の寝顔を、太い指先でちょっとついてみたがそのまま起しもせず、暗い戸外に出ていった。西空には、糸のように細い新月が冷たく光っていた。沼田一等兵はもうサイド・カーのエンジンをかけて、中尉の乗るのをいまやおそしと待っていた。
「待たせたなァ。……では飛ばしてくれい」
 爆々たる音響を残して、サイド・カーは街道を矢のように走りさった。目ざしてゆくのはこの直江津から南へ五キロほどいった高田連隊の高射砲隊だった。
 義兄が出てゆくと、間もなくラジオの演芸放送がプツンと切れ、それに代って騒然たる雑音が入って来た。なんだかキンキン反響しているらしい。かすかではあるが、電話にかかっているらしい話声がする。どうやらそれは軍人らしい。活発な声だ、とたんに爆発するようなアナウンサーの声。……
「ただいま、重大なる事態が起りましたため、マイクロフォンを東部防衛司令部に移して皆様に呼びかけます……」
 重大なる事態発生? 旗男は思わず受信機のダイヤルを音の強い方にひねった。そして隣の部屋を向いて、大声で姉を呼んだ。
「姉さん。たいへんですよ。早くここへ来て、放送をお聞きなさい」
「あら、いよいよ始まったの……」
 姉は正坊をソッと寝かしつけて、立ってきた。
 拡声器からは、声なじみの中内(なかうち)アナウンサーの声が一句一句強くハッキリと流れてくる……。
「まず第一に、香取(かとり)防衛司令官の告諭(こくゆ)であります。司令官閣下を御紹介いたします」
 しばらく間があって、やがて軍人らしい荘重な声がひびいてきた。――
「本日午後八時、全国に防空令がくだされました。その目的は、S国の強力なる空軍が、わが帝国領土内に侵入を開始したのに対し、適宜(てきぎ)の防衛を行うためであります。皇軍の各部隊は既にそれぞれ勇猛果敢(かかん)なる行動を起しました。銃後にある忠勇なる国民諸君も、十分沈着元気に協力一致せられて、防護に警備に、はたまたその業につくされ、もって暴戻(ぼうれい)なる外国S国軍の反撃に奮励していただきたい。昭和十×年七月二十五日。東部防衛司令官陸軍中将香取龍太郎」
 S国空軍! いよいよやって来たか、世界第一を誇るその悪魔隊、……しかし香取司令官の声には何物をもおそれないような、決意と自信とがこもっていた。
「……つづいて、東部防衛司令部の重大な発表がありますから、そのままでお待ち下さい。……ああ、お待たせいたしました。東部防衛司令部発表第一号。ただいま、能登(のと)半島より、大井川(おおいがわ)に至る線より東の地域は、警戒警報が発令されました。直ちに警戒管制でございます。不用な灯火は消し、他の必要なる灯火は、屋外に灯がもれぬよう黒い被(おおい)をかけて下さい……」
 いよいよ警戒警報が出たのだ。今夜のは防空演習ではない。
 放送とともに、戸外がにわかにそうぞうしくなった。青年団員や在郷軍人が、活発な行動を起したものらしい。自転車のベルが、しきりと鳴りひびくのが、旗男の耳にのこった。


   高射砲陣地


 高田の歩兵第三十連隊の本隊は、日本海を越えて其方面に出征していた。あとには留守部隊がのこっていたが、これには臨時に、三箇(こ)中隊の高射砲隊が配属されていた。
 川村国彦中尉は、その第三中隊長だった。敵機をうち落す高射砲、プロペラの音によって、敵機の位置をさがす聴音機、空を昼間のようにあかるくパッと照らす照空灯などが、この中隊に附属していた。それらは川村中尉の自慢のたねだった。兵員と機械とがまるで一人の人間の手足のように、うまく動くのであったから。
 営門をくぐるのも遅しとばかり、中尉はサイド・カーから下りた。そして、いそぎ足で、連隊長の室に入った。
「おお、川村中尉か」
 留守連隊長の牧山(まきやま)大佐は椅子(いす)から立ちあがった。
「せっかくの休暇が台なしになったのう。……さあ、そこで連隊命令を伝える」
 川村中尉は不動の姿勢で、連隊長の命令書を読むのをまった。
「第○野戦高射砲隊ハ、既定計画ニ基キ陣地ヲ占領シ主トシテ高田市附近ノ防空ニ任ゼントス。各中隊は速(すみや)カニ出発シ、第一中隊ハ鴨島(かもじま)ニ、第二中隊ハ柳島(やなぎしま)ニ、第三中隊ハ板倉橋(いたくらばし)附近ニ、陣地ヲ占領スベシ。終」
 いよいよ出動命令が発せられたのである。川村中尉は、固い決心を太い眉(まゆ)にあらわして、おごそかに挙手の敬礼をした。そして廻れ右をすると、活発な足どりで連隊長の室を出ていった。
「高射砲第三中隊あつまれ!」
 中尉の号令を待ちかねていたかのように、部隊はサッと小暗(おぐら)い営庭に整列した。点呼もすんだ。すべてよろしい。そこで直ちに部隊は隊伍(たいご)をととのえて、しゅくしゅくと行進をはじめた。
 市街を南へぬけて左へ曲ると、そこは板倉橋だった。――中隊は橋を中心として左右に散って陣地をつくった。――聴音機の大ラッパは暗黒の空に向けられ、ユラリユラリと重そうな頭をふった。敵機の来る方向はいずこだろう?
 不気味な夜は、音もなく更(ふ)けていった。
 午後九時になると、とうとう非常管制が布(し)かれた。サイレンの唸(うなり)、ラジオの拡声器から流れてくるアナウンサーの声。「空襲、空襲!」と叫びながら走ってゆく防護団の少年。「灯火(あかり)をかくして下さァい!」と消し忘れた家の戸を叩(たた)くけたたましい音。……そんなものがゴッチャになって、町や村は必死の非常管制ぶりだ。
 午後九時半、○○海に出動していた第四艦隊から報告が来た。
「艦隊ハ午後九時二十分北緯四十度東経百三十七度ノ洋上ニ於(おい)テ、高度約二千米(メートル)ヲ保チ、南東ニ飛行中ノ敵超重爆撃機四機ヲ発見セリ、直チニ艦上機ヲ以(もっ)テ急追攻撃セシメタルモ、天暗ク敵影ヲ逸(いっ)スルオソレアリ」
 これで敵機の強さがわかった。やはりS国が世界に誇る超重爆撃機をもって攻めてきたのだ。それは、一台にすくなくとも五トンの爆弾を積んでいるはずだ。爆弾にもいろいろあるが一トンの破甲弾(はこうだん)なら、十階の鉄筋コンクリートのビルディングも、屋上から一階まで抜けてメチャメチャになる。しかし敵機の持ってくるのは大部分が焼夷弾(しょういだん)であろう。これには一キロ以下のや二十キロ位のやいろいろある。落ちて来るとたちまち三千度の熱を出し、鉄でもなんでもトロトロに焼き熔(と)かしてしまうのだ。この焼夷弾をドンドン落して、日本の燃えやすい市街を焼きはらってやろうというのが、敵の作戦なのだ。
 また、なかには恐ろしい毒瓦斯弾(どくガスだん)も交っているかも知れない。その毒瓦斯にもいろいろある。
 それをまかれると、やたらにクシャミがでて、しまいには頭痛嘔吐(おうと)になやむジフェニール、クロールアルシンなど、また涙がポロポロ出てきて、眼があけられず、胸が痛みだすというピクリン瓦斯。また嗅(か)げば肺臓がはれだし、息がとまって死ぬようなことになるホスゲン瓦斯、もっとひどいのはイペリット瓦斯で、身体に触れるとひどくただれ、大きな水ぶくれができ、だんだん目や肺や胃腸をわるくしてゆくという恐ろしいものだ。その外にもまだ秘密にしている新毒瓦斯があるというから、それも持ってきて撒くにちがいない。――ああ、地獄の世界は、見まいとしても、もう一時間か二時間のうちに、見られるのではないか。われらの準備はできているかしら。……
 突如、高射砲陣地に、連隊からの警報電話が入ってきた。
「第四艦隊発警報。――敵ノ超重爆撃機二機ヲ、遂(つい)ニ南方ニ見失エリ。他ノ一機ハ高角砲ニヨリ粉砕(ふんさい)シ、他ノ一機ハ海中ニ墜落セシメタリ。本艦隊モ駆逐艦一隻損傷ヲ受ケタリ」
「超重爆撃機二機ヲ南方ニ見失エリ」――ああ、それではいよいよやって来るぞ。
 おお、憎むべき空魔!
 その空魔は、いまや刻一刻、わが海岸に近づきつつある。……


   深夜の空襲


 ピカリ――
 と、暗黒の空に、真青な太い柱がとびあがった。
 照空灯だ!
 太い光の柱は、生物のようにぐうっと動きながら、夜の空をかきまわした。それにぶっちがいに、また地上から別の照空灯の光がサーッと閃(ひらめ)いた。どっちも、同じような場所を探している。――とたんに、いいあわしたように、光の柱はパーッと消えた。あたりは再び闇となった。しかし照空灯の強い光の帯だけが、いつまでもアリアリと眼の中に残っていた。どっちもかなり遠方で、方角からいうと、直江津よりもだいぶん東の方だ。海岸に陣地をしいている部隊が敵機を探しているのらしい。
 川村中尉は、聴音機の上にとびのって、聴音手のそばにピッタリ身体をよせていた。さっきまで首をふっていた大きな聴音ラッパは、今は天の一角をさしてすこしも動かない。――ついに敵機の爆音をとらえたらしい。
 ヒラリと中尉は地上にとび下りる。
 ピリピリピリピリ。
 注意せよ?――というしらせだ。
「……各個に対空射撃用意ッ!」
 だが、高射砲はまだ沈黙して、ウンともスンともいわない。
 そのときゴウゴウゴウと、天の一角から、底ぢからのある聞きなれない怪音がひびいてきた。――すわッ! 敵機近づく!
 その刹那(せつな)だった。
 サーッと、白竜のように、天に沖(ちゅう)した光の大柱! それが、やや北寄りの空に三、四条、サーッと交叉(こうさ)した。
 とたんに、空中に白墨でかいたようにまっ白に塗られた怪影があらわれたのだった。――兵はブルンと慄(ふる)えた。恐ろしいからではない。待ちに待った敵機をついにとらえたからだ。なんとも奇怪なS国超重爆撃機の形!
 ドドドドーン。
 ダダダダーン。グワーン、グワーン。
 照準手が合図を送ると、砲手が一(ヒ)イ二(フ)ウ三(ミ)イと数えて満身の力をこめて引金を引いたのだった。
 ズズーン。
 グワーン、バラバラバラバラ。
 天空高く、一千メートルとおぼしき高度のところに、ピカピカピカピカと、砲弾が炸裂(さくれつ)して、まるで花火のようだ。
 だが敵機は、照空灯を全身に浴びたまま、ゆうゆうと砲弾の間を飛んでいる。
「ウヌ、ちょこ才な……」
 高射砲にはすぐに新しい七十ミリの砲弾がつめかえられ、砲手はすばやく引金を引いた。砲弾は、ポンポンと矢つぎばやに高空で炸裂する。しかし敵機は憎らしいほど落ちついている。――そればかりか、機体の腹のところについていた縞(しま)が崩れて、なにか白いものがスーッと落ちてきた。
「あッ、やったぞ、爆弾投下だッ……」
 誰かが大声で叫んだ。
 白い爆弾の群は、斜に大きな曲線をえがいて落ちてくる。……一秒、二秒、三秒……。
 ヒューッ、ウウーンという不気味な唸音(うなりおと)をきいたかと思ったその瞬間、
 グワ、グワ、グワーン。
 ドドドドーン。
 ガン、ガン、ガン、ガン。
 目がくらむような大閃光(だいせんこう)とともに、大地が海のようにゆらいだ。ものすごい大爆発! まぢかもまぢか、聴音機の大ラッパがたちまちもげて火柱の間を縫(ぬ)うように吹きとんでゆく。それをチラリと見たが……。
「ウウーン。ば、万歳!」
 悲痛なさけびごえ。
 それにしても、ものすごい狙(ねらい)だ。わが部隊をぶっつぶそうとてか、破甲弾をなげおとしたのだった。
「……照準第一、あわてるなッ」
 どこからか、川村中隊長のさけぶ声が響いてきた。
「中隊長どの、平気の平左であります……」
 タダダダーン。シューッ。ダダダダーン。
 勇猛なる兵は、手足をもがれても、部署から離れぬ。砲弾は、照空灯の光の柱をおいつづける。もう一弾!
 それ、もう一弾!
 ピカピカピカと、空中に奇妙な閃光が起ると見る間に、ぶるンぶるンと異様な空気の震動――とたんにパッと咲いた真赤な炎! あッという間もなくメラメラと燃えひろがり、クルクルクルとまわりだした。
「うん、命中だ。敵機は墜落するぞう!」
「バ、バンザーイ」
 敵機は、すっかり炎につつまれて、舞いおちる。……
「……さあ、残るはもう一機だッ。もう一がんばりだ。はやく探しあてるんだ」


   伸びくる毒の爪


 それまで直江津の町は、幸いにも、夜襲機の爆撃からまぬかれていた。
 旗男は、不安な面持で、高田市方面と思われる方角の空と地上との闘いをみつめていた。空中に乱舞する照空灯、その間に交って破裂する投下爆弾、メラメラと燃えあがる火の手、遠くからながめても恐ろしい焼夷弾の力!
「あれが、この町の上に降ってきたんだったら、今ごろは冷たい屍(しかばね)になっているかもしれない……」
 町いったいは、申分(もうしぶん)のない非常管制ぶりだった。直江津の全町は、まったく闇の中に沈んでいた。旗男は、この町の防空訓練のゆきとどいていることに感心していた。
 そのとき、けたたましく半鐘(はんしょう)が鳴りだした。
「オヤッ……」
 と思って、ふりかえってみると、火事だ。近くの国分寺の方角だ。
「オヤオヤ、変だぞ」
 火事は一箇所と思いのほか、町の南にあたる安国寺の方角にも起っている。そこへもう一つ、東の方に現れた――黒井の窒素(ちっそ)会社の方角だ。――爆弾もなにも降ってこないのに、一時に三箇所の火事だなんて、どうもおかしい! と、思っていると、少年が二人ほど自転車にのって通りかかった。彼等は声を合わせてどなってゆく……。
「火の用心! 火の用心! 皆さん火に気をつけて下さい。一軒から必ず一人ずつ出て警戒していて下さいよう。いまの三箇所の出火は、どうもこれもS国のスパイがやった仕事ですよう」
「ナニ、S国のスパイ」
 スパイは、だにのようにしつこく、この直江津の町に食いついているのだった。なぜ、この小さい港町が、スパイにねらわれるのだろう。同時に三箇所から起った火事というのも不思議だったが、やがて町の人には、そのわけがわかるときが来た。それは突然、音もなく町の上に落下してきた爆弾の雨!
「焼夷弾だッ……」
 と気がついたときには、既に遅かった。
 いわゆる爆弾とよばれる破甲弾や地雷弾とちがって、あまり大きな破裂音をたてない。だが投下弾は、民家の屋根を貫き、天井をうちぬいて畳の上や机の横に転がり、そこではじめてシュウシュウと、目もくらむような眩しい光をあげて燃えだすのだ。
 そしてアレヨアレヨという間に畳も柱もボーッと燃えだした。たちまち室内は一面の火の海となり、なおも隣家の方へ燃えひろがっていった。
 まったく手の下しようもない。みるみる火勢はものすごさを加えていって、往来へとびだしてみると、もう屋根の上へ真赤な炎が、メラメラと顔をだしていた。早く逃げなければならないが、この強い火の海にとりまかれてはどちらへ逃げてよいかわからない。まったく気のつきようが遅かった。三十秒以内に、落ちた焼夷弾のまわりの畳や襖(ふすま)や蒲団(ふとん)などの燃えやすい家具に、ドンドン水をかけてビショビショに濡(ぬ)らせばよかった。すると焼夷弾がクラクラに燃えさかり、はげしい火の子を吹きだそうと、その火の子の落ちたところが濡れていれば、あたりに燃えひろがる心配はなかったのだ。
 焼夷弾の防ぎ方をハッキリ心得ている人が少かったばかりに、焼夷弾を全町にくらった直江津の町には、敵機の注文どおりに一時にドッと火の手があがった。
 行方をくらました一機が直江津の上空にしのびこんだので、スパイは三箇所に火事を起して、直江津の町がここだと敵機に知らせたわけだった。だから焼夷弾は、町の上にちゃんと正しく落ちた。
「姉さん、逃げましょう――」
 旗男は火が迫ったのを見て、姉をうながした。このとき姉はゴソゴソ押入を探していた。
「ちょっと、旗男さん。……逃げるにしても防毒面がなければね。もう一つあったはずだが……ああ、あった。旗男さん。早くこれをかぶんなさい」
 さすがに軍人の家庭は用意がよかった。
 旗男は、非常な感激とともに、その防毒面を情ぶかい姉の手からうけとった。
「……旗男さん。あんた、この町にぐずぐずしていちゃいけないわ。きっと東京は、もっとひどい空襲をうけていてよ。家はお父さまもお母さまも御病気なんでしょ。竹ちゃんや晴ちゃんでは小さくて、こんなときには頼みにはならないわ。こっちは大丈夫だから、あんたは急いで東京へ帰ってよ、ね、お願いするわ」
「ええ……」
 旗男もさっきから、そのことを心配していたのだ。早く帰らないと申分(もうしわけ)ない。
 そのとき裏手から、また焼けつくような煙がふきこんできた。
「さァ、姉さん、はやく……」
 姉と坊やとを押しだすようにして庭へとびおりた。そのとき猛火はもう羽目板に燃えうつっていた。
 廂(ひさし)からといわず、窓からといわず息づまるような黒煙が濛々(もうもう)と渦をまいて追ってくる。……旗男は渡された防毒面をかぶろうとしたが、一体、姉たちの用意はいいのかしらと心配になって、後をふりかえった。
「おお……」
 旗男は、姉とその愛児の正坊とが、それぞれの頭にピッタリ合った防毒面をかぶっているのを見て感心した。――そこで旗男もあわててスポリとかぶった。煙がその吸収缶に吸われて、とたんに息がらくになった。姉たちは、その間に旗男のそばをぬけて、スルリと門外にとびだした。
 真向こうの大きな二階建の家には、焼夷弾が落ち、階下で燃えだしたと見え、家ぜんたいが、まるでしかけ花火のような真赤な炎に包まれていた。すさまじい火勢が、家ぜんたいをグラグラとゆすぶった。旗男はハッと立ちすくんだ。
「あッ、姉さん、あぶないッ!」
 と、叫んだが……それは残念にも、すでに遅かった。とたんに家はものすごい大音響をあげて、ドッと道路の上に崩れおちてきた。――ああ、いましも正坊を抱いた姉が駈け出したばかりのその道路の上に……。


   避難民


 どこをどう逃げてきたか、よくわからなかった。とにかく気のついたときには、旗男は、まっくらな畦道(あぜみち)をまるで犬かなんかのように四ンばいになり、ハアハア息を切りながら先を急いでいる自分自身を見出(みいだ)した。
(なぜ、僕はこんなに急いでいるのだろう?)
 そういう疑いが、ふと彼の頭のなかを掠(かす)めたとき、彼はとつぜん気がついた。今まで何をしていたのか、ハッキリはしないけれど、とにかく、焼け落ちた家の下じきになったはずの姉と正坊の名を、あらんかぎりの声をしぼって呼びまわっている時、救護団の人たちが駈けつけたこと、そのうち逃げてくる人波に押しへだてられてしまったことだけが残っていた。それから先、どうして逃げたかわからない。
 どうやらあまりの惨事に、しばらく気が変になっていたものらしい。
(ああ、姉さんや正坊はどうしたろう。これもみな、町のひとたちが、焼夷弾が落ちたらどうすればいいかを知らなかったせいだ。敵機も恐ろしいには違いないけれど、防護法を知っていたらこんなにはならなかったであろう?)
 旗男は心配と口惜(くや)しさで、腸(はらわた)がちぎれるように感じた。
 あたりをみまわすと、後にしてきた直江津の町は、まだ炎々と燃えさかっていた。しかし、さっきまでは活発に聞えていた高射砲のひびきは今は聞えない。僅(わず)かに高田市あたりと思われる遠空に、たった一本の照空灯がピカリピカリと揺れているばかりだった。――どうやら敵機はさったらしい。だが非常管制はそのまま続けられているらしい。
「元気を出さなきゃあ……」
 と、旗男は自分自身にいいきかせた。そして、四ンばいをよして、二本の足で立ちあがった。
 畦道がおしまいになって、暗いながらも、火炎の明るさでそれとわかる街道へ出てきた。
(これでやっと歩きよくなる――)
 と思って、彼は悦(よろこ)びながら、街道を歩きだしたが、わずか十メートルほどゆくと、道路の上に倒れている人間にドーンとぶつかった。
(オヤ、どうしたんだろう?)
 旗男はこわごわ傍(そば)へよってみた。道路の上に倒れている人数は、一人や二人ではなかった。誰もみな、身体をつっぱらして死んでいた。そして、いいあわせたように、両手で咽喉(のど)のあたりを掴(つか)んでいた。
「ああ、敵機はやっぱり毒瓦斯を撒(ま)きちらしていったんだ」
 旗男も、姉から防毒面を貰(もら)わなかったら、この路傍にころがっている連中と同じように、今ごろは冷たく固くなっていたことだろう。
 それにしても、なんという憎むべき敵!
 ふり落ちる涙をおさえおさえ、旗男はようやく街道に出ることができた。そこで彼は、たいへん夥(おびただ)しい避難者の列にぶつかってしまった。狭い路上には、どこから持ちだしてきたのか車にぎっしりと積んだ荷物が、あとからあとへと続いていた。その車と車との間に、避難民が両方から挟(はさ)みつけられて、キュウキュウいっていた。それも一方へ進んでいるうちはよかったけれど、そのうちに誰かが流言を放ったらしく、先頭がワーッというと、われさきに引きかえしはじめた。とたんに、どこから飛んできたのか火の子が、荷物の上でパッと燃えだしたので、さわぎは更にひどくなった。
「オイ、女子供がいるんだ……押しちゃ、怪我する。あれこの人は……」
「さあ、逃げないと生命がたいへんだ。どけ、どかぬか……」
「うわーッ」
 蜂(はち)の巣(す)をついたようなさわぎになった。そうさわぎだしては、助かるものも、助からない。群衆は、ただわけもなくあわて、わけもなく争い、真暗な街道には、あさましくも同士うちの惨死者が刻々ふえていった。
「あわてちゃいかん」
「流言にまどうな。落着けッ!」
 声をからして叫ぶ人があっても、いったん騒ぎだした人たちを鎮(しず)める力はなかった。日本国民として、この上もなく恥ずかしい殺人が、十人、二十人、三十人と、数を増していった。ああ、このむごたらしい有様! これが昼間でなかったのが、まだしもの幸いだった。あわてた人間には大和魂なんて無くなってしまうものなのか?
 旗男は、命からがら、この殺人境からのがれ出た。いくたびか転びつつ前進してゆくほどに、やがて新しい道路に出たと思ったら、いきなり前面に、ピリピリピリと警笛が鳴ったので、おどろいて立ちどまった。
「さあ、いま笛の鳴っている方角に歩いて下さい。この方角は駅の前へ出ます。……さあ、皆さん元気で、頑張って下さい。祖国のために……」
 群衆のざわめく姿が、火事を照り返した空のほの明るさで、それと見られたが、かなり集っている。それだのに、これはさっきの群衆とちがって、なんという静粛な人たちだろう。落ちついているのと、あわてているのは、こうも違うものかとおどろいた。
 旗男は、暗夜の交通整理のおかげで、思いがけなく駅の前に出ることができた。それは春日山(かすがやま)駅といって、直江津と高田との中間にある小駅だった。ちょうど東京方面へゆく列車が出ようという間ぎわだった。町を守らねばならぬ義務をわすれて逃げだすような人たちは断られたが、旗男のように、東京方面へ帰るわけがある人たちは、プラットホームへ入れてくれた。
 旗男は、思いがけないほど都合よく汽車に乗りこむことができた。
 ――東京はどうだろう? 病身の両親や、幼い弟妹(ていまい)などが、恐ろしい空襲をうけて、どんなにおびえているだろうか。


   疾走(しっそう)する暗黒列車


 空襲をうけたといって、すぐ交通機関が停(とま)るようでは、ちょうど、手術にかかったとたんにお医者さまが卒倒したのと同じように、たいへんなことになる。
 空襲下でも、交通機関は、できるだけ平常どおり動かさねばならぬ――と、鉄道大臣は、大きな覚悟をいいあらわした。
 それは全くむつかしい仕事のうちでも、ことにむつかしい仕事であるのに、鉄道省は、見事にそれをやってのけた。……黒白(あやめ)もわかぬ暗黒の夜に、蛍火(ほたるび)のような信号灯一つをたよりに、列車でもなんでも、ふだんと変わらぬ速さと変わらぬ時間で運転するなんて、神さまでも、ちょっとやれるとおっしゃらないだろう。
 ――これを実際にやってのけたのだから、日本の鉄道の人たちは天晴(あっぱれ)なものだった。踏切や町かどの交通整理を引受けて、働いた青年団員も、実に偉かった。
「おどろきましたねェ、まったく……」
 と、辻村という商人体の乗客が口を開いた。列車の内はすべて電灯に紫布(むらさきぎれ)の被(おおい)がかけられていた。
「国がどうなるかというドタン場に、こうも落ちつきはらって、自分の職場を守りつづけるなんて、イヤ、どうも日本人という国民はえらいですな」
「いや全く、そのとおりでさあ」
 と職工らしいガッチリした身体の男があいづちをうって答えた。
「われわれの先祖が、神武天皇に従って東征にのぼったときからの大和魂ですよ。大和魂は現役軍人だけの持ものじゃない。われわれにだってありまさあ」
「われわれにも、チャンとありますかなァ。わたしなんかにゃ、どうも大和魂の持合せが少いんで恥ずかしいんですよ……」
 といって頭をかいたが、
「どうです、親方。この汽車は今夜中このとおり、鎧戸(よろいど)をおろし、まっくらにして走るんですかね」
「いや、いまに非常管制がとけて、警戒管制にかえれば、窓もあけられますよ」
「警戒管制になるのはいつでしょうな」
「いまに車掌さんが知らせに来ますよ。それまでは、すこし蒸暑(むしあつ)いが、我慢しましょうや」
「我慢しますが、わしはどうも暑いのには……いやどうも弱い日本人だ。……どうです、親方。暑さしのぎに、暗いけれど一つ将棋を一番、やりませんか」
「えッ、将棋!」
 親方は太い眉(まゆ)をビクンと動かした。
「この空襲警報の中で将棋ですか。いやおどろいた。あんたも弱い日本人じゃない。おそれいったる度胸。これァ面白い。さしあたり用もないから、じゃ生死の境に一番さしましょうか。これァ面白い。はッはッはッ」
 辻村商人氏が、トランクから小さい将棋盤を出してきた。トランクを向かいあった二人の膝の上に渡し、その上に盤をおいた。そして駒(こま)をパチパチ並べはじめた。そのときまでの、この車内の光景ときたら、婦人や子供といわず、堂々たる若者たちまでが、本物の爆弾投下のものすごさにおびえて、すっかり度を失っていたのだ。ある大学生はブルブル慄(ふる)えながらナムアミダブツを唱え、三人づれの洋装をした女たちは恐怖のあまり、あらぬことを口走っていた。列車の窓から外へ飛び出そうとする母親を子供たちが引留めようと一生けんめいになっていた。まるで動物園の狐のように車内をあっちへいったり、こっちへいったり、ウロウロしている会社員らしい男もあった。
「ああ呆(あき)れた。あそこを見なよ。この騒(さわぎ)のなかに呑気(のんき)な顔をして将棋をさしている奴がいるぜ。ホラ、あそこんとこを見てみろ……」
 登山がえりらしい学生の一団の中から、頓狂(とんきょう)な声がひびいた。――「将棋をさしている奴がいる」
 その声に、室内の人々はあッとおどろいて、学生の指さす方角を覗きこんだ。
「さて残念! あいにくと銀がないわい……」
 辻村氏は顔を真赤にして、毛のうすい頭からボッボッと湯気をたてていた。
「あッはッはッ。これァ愉快だッ」
 学生団がドッと笑いだすと、いままで取り乱していた連中も、我に返ったように、おとなしくなった。そして、ほっとした色と一緒に元気が浮かびあがってきた。防毒面をとりもせず、座席の片隅に小さくなっていた旗男少年も、落ちつきと元気を取り戻した一人だった。そして、将棋さし二人男のほうをつくづくみていたが、急に飛びあがった。
「ああ、鍛冶屋(かじや)のおじさんだ、兼吉(かねきち)君のお父さんだッ」
 それは旗男の東京の家の崖下(がけした)に、小さな工場を持っている鍛冶屋の大将鉄造さんだった。
 旗男は「おじさんおじさん」と叫ぶと、いきなり、鉄造のガッチリした胸にとびついた。
「うわーッ」
 と、さすがに後備軍曹の肩書を持つ鍛冶屋の大将も、不意うちに、防毒面をかぶった変な生物にとびつかれ胆(きも)をつぶした。膝の上にのっていた将棋盤も、ポーンと宙にはねあがった。いまや王手飛車とりの角を盤面に打ちこもうとしたエビス顔の辻村氏の頭の上に、将棋の駒がバラバラと降ってきた。おどろくまいことか、彼氏の金切声――。
「うわーッ、爆弾にやられたッ……」


   毒瓦斯(どくガス)地帯


 旗男は、思いがけなく親友のお父さんに会って、それこそ地獄で仏さまに会った思(おもい)だった。鉄造は横に座席をあけてくれた。
「どうも、歩(ふ)が一枚足りない……」
 辻村氏は、腰掛の下にはいこんで、なくなった駒をさがしまわっていた。
「ああ、うちの赤ン坊が、手にもって、しゃぶっていましたよ」
 そういって、女が、さっきの騒をまるで忘れてしまったような顔つきで、将棋の駒を返してよこした。車内はすっかり落ちつきを取りかえしていた。呑気な将棋が、救いの神だったのだ。
 野尻湖(のじりこ)近くの田口(たぐち)駅をすぎた頃、客車のしきりの扉が開いて、車掌がきんちょうした顔をして入ってきた。
「エエ、皆さんに申しあげます……」
 車内の一同は、すわ、なにごとが起ったかと、車掌の顔を見つめた。
「エエ、ただ今非常管制がとかれて、警戒管制に入りましたが、警報によりますと、これから先に、だいぶ毒瓦斯を撒かれたところがあるようでございます。殊(こと)に一時間程のちに通過いたします長野市附近の如(ごと)きは、窒素性のホスゲン瓦斯を落されたということでありました。そういうわけで、この列車も、毒瓦斯が車内に入ってくるのを防ぎますため、車窓も換気窓も、それから出入口の扉も絶対にお開けにならぬように願います。もちろん鎧戸(よろいど)の外には硝子戸(ガラスど)を閉めていただきます。それから扉の隙間などには、眼張(めばり)をしていただきます。眼張の材料が十分でございませんので、一つ皆さんで御相談の上、適当にやっていただきます」
 これを聞いて、乗客たちは又色を失った。いよいよたいへんなことになった。この列車は毒瓦斯の中を通ることになったのだ。
「車掌さん、防毒面は貸してくれないのですか」
 学生団から不安にみちた声がした。
「どうも配給がありませんので……」
「オイ車掌君。金はいくらでも出す。至急、防毒面を買ってくれたまえ」
 一人の紳士があたり憚(はばか)らない声をだした。
「お気の毒さまで……。室全体の防毒で、御辛抱ねがいます」
「じゃ君に百円あげる。拝(おが)むから、ぜひ一つ手に入れてくれたまえ」
 紳士は泣きだしそうな顔で紙入(かみいれ)をだした。
「お断りします」
 車掌はキッパリいって、次の車室へドンドン歩いていった。
「おお、そこの子供くん。君は可愛(かわい)い子だ」
 と、紳士は旗男のところへヨロヨロと近づいた。
「二百円あげるから、その防毒面を売ってくれたまえ。私は肺が悪い、病人だ。ね、売ってくれるだろう。三百円でもいい」
 旗男は困ってしまった。すると隣に腰をかけていた鍛冶屋の大将が、旗男をかばうようにしたかと思うと、食いつきそうな顔で紳士をにらみつけた。
「この馬鹿野郎!」
 その破鐘(われがね)のような声に吹きとばされたか、がりがり亡者の紳士は腰掛の間に尻餅(しりもち)をついた。
 それに構わず、鍛冶屋さんはすっと立ちあがった。
「さあ皆さん。毒瓦斯を防ぐとなると、お互さまに知らぬ顔をしていられません。みんなで力を合わせて、この室を早く瓦斯避難室にしなければなりません。私は東京品川区の五反田(ごたんだ)では防護団の班長をしています。後備軍曹で、職業は鍛冶屋です……」
 飛んだところまで口をすべらせるので、辻村氏があきれて、下から鍛冶屋の大将の服をひっぱった。
「……で、とにかく私が指揮しますが、文句はありませんか」
「委(まか)せるぞう……、よろしく頼むゥ……」
 という声がかかって、鉄造は大満足だった。
「じゃ、まず眼張の材料だ。みなさん、使ってもいいだけの紙と布(きれ)と、弁当の残りの飯とを出してください。その顔の長い学生君は紙係、青いネクタイの方は布係、その水兵服の娘さんは弁当飯係。すぐ集めにかかってください」
 誰もいやな顔をしなかった。なにしろ、毒瓦斯だ。ぐずぐずしてはいられない。
 材料は集った。それを手頃の大きさに裂く係ができ、材料を分ける係ができ、そしていよいよ全員が手分(てわけ)をして、眼張作業が始まった。紙と布とを飯粒で幾重にも隙間に張りかさねるのだった。例の紳士も、命ぜられて飯粒を盛んにこねまわしていた。この協力のかいあって、僅か十分たらずで眼張ができあがった。なお軍曹は毛布とシーツとを集めて出入口の扉よりすこし中へ入ったところに仕切りの幕をつくった。間違って出入口が開いても、毒瓦斯はこの幕で一時食いとめられる仕掛にして、そこには学生を二人ずつ、番兵につけた。
 彼等はピッケルを、小銃のように持って警備についた。こうして全く安心のできる簡易瓦斯避難室ができあがった。
 婦人たちは、いずれもニコニコ顔で、車内をなんべんも見まわした。
 列車が、柏原(かしわばら)駅についたとき、指揮をしていた鍛冶屋の大将は、なにを思ったものか、つと扉をあけて、プラットホームへ下りた。どこへ行ったんだろう?
 やがて列車はガタンゴトンと動きだした。しかし鍛冶屋の大将はどうしたのか、車内に姿をあらわさなかった。同室の人たちの顔には不安の色が浮かびあがった。


   急造の防毒面


「どうしたんだろうな、われ等の防護団長は……」
 と、商人辻村氏が、遂に心配の声をあげた。そのとき出入口の扉が、ガラリと開く音がきこえ、そして、毛布の幕の間から姿をあらわしたのは、案じていた鍛冶屋の大将だった。見れば両手に大きな新聞紙包を抱(かか)えている。中からゴロゴロ転がり落ちたのを見れば、なんとそれは木炭だった。
「炭なんか持って来て……お前さん、この暑いのに火を起す気かネ」
 辻村氏の顔を見て、鉄造は首を横にふった。
「牛乳、ビール、サイダーの空壜(あきびん)を集めてください」
 妙な物を注文した。――やがて七、八本の空壜が、鉄造の前にならんだ。
 炭は女づれのところへ廻され、学生のピッケルを借りて、こまかく砕くことを命じた。一人の奥さんの指から、ルビーの指環(ゆびわ)が借りられ、それを使って、硝子壜(ガラスびん)の下部に小さな傷をつけた。それから登山隊の連中から蝋燭(ろうそく)が借りられた。灯をつけると、硝子壜の傷をあぶった。ピーンと壜に割目が入った。壜をグルグル廻してゆくと、しまいに壜の底がきれいに取れた。一同は固唾(かたず)をのんで鍛冶屋の大将の手許(てもと)を見ている。
 彼はポケットから綿をつかみだした。炭と綿とは、駅の宿直室から集めてきたのだった。――綿をのばしたのを三枚、抜けた壜底から上の方へ押しこんだ。
「炭をあたためて水気を無くし、活性炭にすれば一番いいのだが今はそんな余裕もないから……」
 といいながら小さくした堅炭(かたずみ)をドンドン中へつめこんだ。そしてまた底の方をすこしすかせ、綿を三枚ほど重ねて蓋をした。そうしておいて壜底を、使いのこりの布で包み、その上を長い紐(ひも)で何回もグルグル巻いてしばった。
「さあ、これでいい。――みんな手を分けてこのとおり作るんだ」
 辻村氏が、目をクルクルさせ、その炭のつまった壜を高くさしあげて、
「団長、これは何のまじないだい」
「まじないという奴があるものか。これは防毒面の代用になる防毒壜だ」
「へえ、防毒面の代り? こんな壜が、どうして代りになるのか、わからないねェ。第一これじゃ、顔にはまらない」
「あたりまえだ。顔にはまるものか。……しかし、こうして壜の口を口にくわえればいい。口で呼吸をするのだ。鼻は針金をこんな風にまげ、こいつで上から挟みつけて、鼻からは呼吸ができないようにする。こうすれば毒瓦斯は脱脂綿と炭に吸われて口の中には入ってこない」
「なるほど、こいつは考えたね」
「形は滑稽(こっけい)だが、これでも猛烈に濃いホスゲン瓦斯の中で正味一時間ぐらい、風に散ってすこし薄くなった瓦斯なら三、四時間ぐらいはもつ。立派な防毒面が手に入らないときは、これで一時はしのげるわけさ……」
「な、なァる……」
 そのとき、扉がガラリと開いた。車掌が入ってきて目を輝かせた。

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