浮かぶ飛行島
[青空文庫|▼Menu|JUMP]
著者名:海野十三 

 川上機関大尉の武運は、眼に見えて悪くなった。そうでなくとも、ここ連日の苦闘と空腹とに、かなり疲れている川上機関大尉だった。はりきった牡牛のような英国下士官とは、とてもまともな力くらべはできまいと思われた。
 そのとき、向こうの方で、あわただしく集合喇叭(ラッパ)が鳴った。さっきの呼笛を聞きつけて、警備班が出動をはじめたらしい。早くも奥の通路から、入りみだれた靴音が聞えてきた。こうなっては、わが川上機関大尉がいかに勇猛であるといっても、敵勢を押しかえすことは、まず困難ではないかと思われた。
 壮図はついに空しく、わが大勇士川上機関大尉は飛行島の下甲板に散るのであろうか。
 もしそんなことがあれば、いま組立鉄骨の間に病体をしばりつけて、ひたすら彼のかえりを待ちわびているはずの杉田二等水兵は、どうなるであろうか。
 このときわが勇士の様子をみるなれば、彼は、猛牛のごとき敵の下士官とがっちり組みあったまま、一、二、三、四としずかに呼吸をかぞえていた。そして彼の眼は、ときどきちらりと足許に転がっている日本刀の方へうごいていた。
 川上機関大尉は、いま何を考えているのであろうか。
 飛行島戦隊は、この騒(さわぎ)をよそに、風雨荒れ狂う暗闇の南シナ海をついて、ぐんぐん北上してゆくのであった。


   消えぬ怨


「リット少将!」
 提督は、わが名を呼ばれてびっくりした。その声は少女の声であった。
「リット少将!」
 また呼んだ。
 リット少将は、その声のする方を見た。そこは真青な海原だった。絵に描いたような美しい夜の海原だった。少女の声は、すぐ下の波の間から聞えるのだった。
「誰か?」
「私です」
 それは聞いたことのある声だった。しかしリット提督には、声の主の姿が見えなかった。
(不思議なことがあればあるもの……)
 提督は念のために舷のところまで歩いていった。そして舷側につかまって下を見た。
「おお」
 提督はぎくりとした。
 舷側を洗う白い飛沫(しぶき)の上に、一人の少女の寝姿があった。梨花だ。中国少女の梨花だ。鋼鉄の宮殿の中を、栗鼠のようにちょこちょこととびまわって、雑用をつとめていた梨花の姿だった。
「梨花か。なぜそんなところに寝ているんだ。波にさらわれてしまうではないか。早く甲板へあがってこい」
「リット少将。私は、甲板へあがりたくてもあがれないんですの。リット少将、手を貸してください。私をひっぱりあげてください」
「ふん、厄介(やっかい)な奴じゃ。ほら、手を出せ」
 提督は手を出して、梨花の手を握った。それはびっくりするほど冷たい氷のような手であった。少女一人くらいと思って、提督はひっぱりあげにかかったが、どうしたのか大盤石のように重い。
「うーん、これは重い。梨花どうしたのか。お前なにか腰にぶらさげているのではないか」
「ええ、わたくしの腰から下に、皆さんがぶらさがっているのですわ」
「皆って、誰のことだ」
 提督は、ぎょっとして、改めて海面を見おろした。
 そのとき不思議にも、海の中は電灯がついたように、明るくなった。そして梨花の腰から下にとりすがっている真青な顔をした二人の看護婦の姿が見えた。またその看護婦の下には、顔や肩を赤く血に染めた大勢の苦力(クーリー)がぶらさがっている。そのまた下に、川上機関大尉や杉田二等水兵も見える。そのほか印度人やフイリッピン人や白人や、見れば見るほど何百人というたいへんな数である。彼等は、海底に横たわる一隻の汽船の船腹を足場として、人梯子をよじのぼってくる。海底にある地獄の風景だ!
 ぐーっと、肩もぬけそうな強い力が、リット提督を海中へひっぱりこもうとした。
「こら、無茶をするな」
 そのとき提督は、海底に横たわる船腹にブルー・チャイナ号という船名を読んだ。
「あ、ブルー・チャイナ号! わしが沈めた汽船だ。さては、この連中は」
 提督の背筋が急に冷たくなった。
「うっ、亡者ども、わしを海中へひっぱりこもうというのか。なにくそ、ひっぱりこまれてたまるか」
 提督は、あぶら汗をかいて、うんうんうなりだした。ひっぱりこまれまいとするが、刻一刻、提督の体は舷を超えて海面へ落ちようとする。恐しい執念だ。――
「リット提督!」
 提督の耳に、はげしく扉を叩く音が聞えた。
「ううーん、ううーん」
「提督、どうされました。スミス中尉です」
「なに、スミス中尉。お前もか」
 と叫んだが、途端に提督は夢からはっと覚めた。彼はベッドの中で、自分で自分の喉をしめていたのだ。
「ああ夢だったか。恐しい夢もあったものだ。ああ、夢でよかった」
 提督は、全身汗びっしょりだった。
 つづいてはげしいノックの音!
「提督、ど、どうされました。スミス中尉です。早くここを開けて下さい」
「おお」提督はほっと大きな息をついて、ベッドからよろよろと下り、「スミス中尉か。いま開けてやる」
 扉を開けると、外は真暗で、嵐を呼ぶ物凄い潮風が、ひゆうひゅうと鳴っていた。そして、きりっとした武装に身をかためたスミス中尉が、片手には手提(てさげ)電灯を、また片手にはピストルを握り、一隊の水兵をひきつれて立っていた。


   非常呼集


「おお、スミス中尉か。よく来てくれた。しかし夜中、一たいこれは何ごとか」
 リット提督は、心に覚(おぼえ)のある悪夢に虐(しいた)げられ、まだ幾分の弱気で中尉にすがりつかんばかりだった。
「ああ提督閣下」とスミス中尉は、まじまじと正面から顔うちながめ、
「御病気ではなかったのですね。それはよかった」
「うん、――」
「提督閣下。哨戒艦から、しきりに信号があります。どうもわが飛行島大戦隊を外部から窺っているものがある様子です」
「なに、外部から窺っているものがあるというのか。また日本の潜水艦か」
「いや、それはまだはっきり分かっていません。とにかく、わが戦隊は目下極秘航行中でありますので、無電を発することを禁じてありますため、信号がなかなかそう早くは取れないのであります。無電を出すことをお許しになりませんと、わが大戦隊はいざというときに、大混乱をおこすおそれがあります」
「いや、無電を出すことを許せば、わが飛行島大戦隊の在所(ありか)を、敵に知らせるようなものじゃ。そいつは絶対に許すことができぬ」
 リット提督はこのへんで、やっとふだんの提督らしい威厳をとりもどしたようであった。
「はあ、分かりました」
 スミス中尉は、やむを得ないという顔をして、
「では当直へ、そのように伝達いたします」
「うむ」
 スミス中尉が、室を出てゆこうとした時、
「ああスミス中尉。ちょっと待て」と提督は声をかけた。
「はあ、何か御用でありますか」
「わしは今夜司令塔へ詰めようと思う。だからあと三十分も経ったら、ここへ迎えにきてくれんか」
「はい、かしこまりました。すると今夜はもうお寝みにならないのですか」
「うん、わしは今夜、もう寝るのはよした」
「御尤もです。私も今夜あたり、どうも何か起りそうな気がしてなりません。提督が司令塔にお詰めくだされば、わが飛行島の当直全員もたいへん心丈夫です」
 スミス中尉は、提督が悪夢におびえて睡られなくなったのだとは知らないから、リット提督が司令塔へ出かけるようでは、今夜はよほど警戒しなければならぬわけがあるのだと思った。
 リット提督も、スミス中尉を戸口まで送ったが、彼の耳には、甲板の索具にあたって発するすさまじい嵐の声が、なんだか亡霊の呻声のように思われた。
 中尉が水兵たちをひきいて立ち去ろうとした時、はるか後方の下甲板から、警笛がひゅーっとひびいた。そしてピストルの乱射の音につづいて、うわーっという鬨の声があがった。
「あ、あれは何だ」
 リット提督は、きっとなった。
「さあ、どうしたのでしょうか」
 スミス中尉も怪訝な面持であった。彼はまだ何の報告もうけていない。
 その時、甲板を一散にこっちへ駈けてくる下士官があった。彼は、提督室から洩れる灯かげを片面にうけて立っているスミス中尉を認めるや、
「おおスミス中尉!」
 と、息せききって声をかけた。
 スミス中尉が、何かいおうとした時、かの下士官は、息をはずませて叫んだ。
「スミス中尉、飛行島内に、怪漢がまぎれこんでいて、下士官が二名やられました。すぐ下甲板へおいでを願います」
「なに、怪漢がまぎれこんだと。よし、すぐ行く。全隊、駈足!」
 スミス中尉は、怪漢暴行中との知らせをうけ、さてこそ大事件発生だとばかり、下士官のいうことをよくも確めず、宙をとぶようにして駈けだしていった。
 残ったのは、伝令と称する下士官ひとりとなった。
 リット提督は、不安の面を向け、
「おい、下甲板で、どんなことが起ったのか。早くその様子を話して聞かせよ」
「はい。大変なことになりました。怪漢はやがてこっちへやって来るかもしれません。提督、どうか奥へおはいり下さい」
「うむ、――」と、提督は、後退りしながら、はっとした思いいれで、
「おお、お前は誰か」
「私は――」
「お前は怪我をしているじゃないか。胸のところが、血で真赤だぞ。お前はそれに気がつかんのか。おや、右の腕も――」
「リット提督閣下。御心配くだすって、なんとも恐れいります。が、まあ中へおはいり下さい」
 かの血まみれの下士官は、提督につづいて、ひらりと室内へはいった。そして扉をぴたりと閉めた。そのとき提督は、かの下士官が、なにか棒切のようなものを、後にさげているのを認めた。それは室内にはいって、電灯の光を反射して、きらりと閃いた。
「うむ、お前は――」
 提督は、驚きのあまり、言葉を途中でのんだ。そして顔面蒼白!
 この下士官こそ、誰あろう、われ等が大勇士、川上機関大尉、その人であったのだ。


   巨人対巨人


 リット提督対川上機関大尉!
 巨人と巨人との、息づまるような対面だ。飛行島は、まだ何事も知らず、闇夜の嵐のなかをついて、囂々(ごうごう)と北東へ驀進(ばくしん)しつづけている。
 どうして川上機関大尉がここへ姿を現したか。彼は下甲板の格闘で、強力無双の敵下士官のため、すでに手籠にあおうとしたが、幸いにも伸ばした右手が、甲板に転がっている日本刀にかかったので、苦もなく強敵を斃すことができ、そのまま血刀をひっさげて、リット少将を襲ったのであった。
「うむ、お前は――」
 リット提督は、じわじわと後へ下ってゆく。
「提督、もうどうぞその辺で、お停りください」と、川上機関大尉はどっしりした声に、笑みをふくんでいった。
「うむ、――」
 提督は、もう唸るばかりだ。銀色の頭髪が、かすかに震えている。
「提督。今日までに、よそながらちょくちょくお目にかかりましたが、こうして正式に顔を合わしますのは、只今がはじめてであります。申しおくれましたが、私は大日本帝国海軍軍人、川上機関大尉であります」
「うむ、カワカミ! 貴様は、まだ生きていたのか」
「そうです。生きているカワカミです。こうして親しくお目にかかれることを、永い間待ち望んでいました。私としましては、この上ないよろこびであります」
「もうわかった。そんなことはどうでもよい。わしの室へ、物取のように闖入するなんて、無礼ではないか。な、何用ではいってきたのか」
「いや、その御挨拶は恐れ入りました。宣戦布告はなくとも、わが帝国領土を攻撃せよとの戦闘命令は、ロンドンよりすでに貴下の懐へ届いているはずではありませんか。お分かりにならねば、提督の後に展(ひろ)げてございます海図の上をお調べになりますように」
 超航空母艦飛行島が、日本空爆の目的をもって、刻々わが本土に近づきつつあることを指されて、リット提督は眼を白黒。
「それがどうした。何もお前の指図はうけない」
「そうはまいりません。貴下の生命は、いま私の掌中にあるのですぞ」
 といって、川上機関大尉は、血に染んだ日本刀を前に廻してきっと身構えた。
 リット提督は、それを見ると、ぶるぶると身ぶるいした。日本刀の持つ底しれぬ力が、この提督の荒胆をひしいだのだ。
「斬るか。斬るのは待て。な、なにをわしに要求するのか」
「それなら申し上げます。飛行島の内部は、すっかり見せていただきましたから、私は今、この飛行島をそっくり頂戴したいと思うのです。分かりましたか」
「な、なにをいうのか。そ、そんな馬鹿げたことを」
「いや、すこしも馬鹿げてはいません。貴下を征服している私は、飛行島をこっちへお渡しなさいと命令しても、何もおかしいことはありません。飛行島の進路は、このまま変えなくてもよろしい。しかし今後、すべての命令は私が出します。そこで、まずすぐ無電班長をよび出して、波長四十メートルの短波装置を起動するよう命じてください。その上で私は、本国の艦隊へ、飛行島占領の報告をするつもりです」
「ば、馬鹿な、誰がそんなことを――」
「命令にしたがわねば、私は閣下を斬り、私の使命を果すまでであります。覚悟をなさい」
 すると提督は、なにを考えたか、急に眼をかがやかし、
「待て。命令に従う。では、無電班長を呼びだすから、あとは思うようにやりたまえ」
「うむ、よくいわれた」
 提督は、二、三歩歩いて、卓子(テーブル)の方へ近づいた。
「提督。自由に動いてはいけません」
「いや、電話をかけて、班長を呼びだすのだ」
 提督は、卓子にかがんで、受話器をとりあげた。
「おい、無電班長をよんでくれ」
 そういって提督は、すぐ元のように受話器をかけた。
「カワカミ君。いまにベルが鳴って、無電班長が電話に出る」
「そうじゃありますまい。ほら、そこに見えるのは何ですか。貴下が卓子の下から右手に掴んだものは――」
「えっ」極度の狼狽をみせて、提督は態度を一変した。彼の顔は、興奮に燃えている。その右手には、一挺のピストルがしっかと握られ、狙はものの三メートルとはなれていない川上機関大尉につけられ、どどどどーんとつづけざまに数発の銃声!


   怪無電


「卑怯者!」
 と叫んだのは、川上機関大尉だった。
 大喝一声、とびくる銃弾をものともせず、彼はぱっと身をひるがえして、提督の手もとにおどりこんだ。
 近距離の射撃が、一向、効を奏さなかったのは、提督があまりに気をあせっていたためであった。
「しまった」
 と思ったときは、もうすでに遅かった。ピストルを握っていた提督の右手首は、硬いもので強くたたかれた。
(斬られた?)
 と思ったが、違っていた。提督はピストルをぽろりと床に落した。右手はまだちゃんとついていた。だが切れて落ちそうに痛む。左手でそれをおさえて、提督はへたへたと絨毯のうえに膝をついた。
 川上機関大尉は、刀の背で峰打をくわせたのだった。
 提督は、その次の瞬間、川上のために真向から日本刀でざくりと斬りさげられるだろうと覚悟をして、両眼を閉じた。
 だが一向に、太刀風が聞えてこない。提督は不思議に思って、眼を細目にひらいてみた。川上は刀をさげて、じっと立っている。斬りつける構(かまえ)ではない。
「川上機関大尉。貴下はなぜ余を斬らないのか」
 川上は叱りつけるように、
「日本人は勝って情を知る。貴下はもう完全に敗けたのだ。ピストルには手が届かない。貴下は無力だ」
「なぜ斬らないのか、余には分からぬ」
「分からないでもよろしい。飛行島は私がもらいました。だが、貴下が呼びだしたはずの無電班長が出てこないのはどうしたわけか」
 そういっているとき、扉がどんどんと、破れんばかりに叩かれた。扉の向こうには、大勢の声が喚いている。
「提督、スミス中尉です。今助けますから、頑張ってください」
 スミス中尉が、急を知って引返してきたのであった。
 そのとき、電話のベルが鳴りだした。
「提督、電話に出て下さい。そしてその電話を、無電機につなぐように命ずるのです」
 提督は、川上機関大尉の命令と、今にも破壊しそうな扉の両方に気をとられて、まごまごしている。しかしついに電話に出て、川上のいいつけにより命令を発した。電話は無電機につながれたらしく、提督は絶望の色をうかべた。
 扉は、もう一息で破壊されるであろう。しかし川上機関大尉は、電話機を提督の手からひったくった。
「ああ、大日本帝国海軍、艦隊本部へ報告。只今、川上機関大尉と杉田二等水兵とは、英国海軍の大航空母艦飛行島を占領せり――」
 ああなんという奇抜な報告だろう。飛行島から発せられたこの日本語の電話は、かならずや日本人の何人かに聞きとられたに相違ない。
 その瞬間、重い扉はどーんと叩きやぶられた。大勢の士官と水兵との食いつきそうな顔が見えた。あっ、危い。次の瞬間、弾丸の雨、銃剣の垣だ!
 しかし川上機関大尉は、まだ電話機を離さなかった。生死を超えた毅然たる勇姿だ。
「――大日本帝国、ばんざーい」
 その声が終るが早いか、電話機は紐線(ちゅうせん)もろともぷつりとひきちぎられた。川上が力まかせにひきちぎったのだ。彼の腕がぶーんと鳴った。
 がちゃーんと烈しい音がして、提督室の天井に点いていた電灯が笠もろとも、粉々に壊れ散った。川上機関大尉が、電話機をなげつけたのだ。狙はあやまたなかった。室内は一瞬にして真暗になった。
「カワカミを逃がすな。撃て!」
 逆上したか、スミス中尉が叫んだ。
 銃声がつづいた。暗中に、銃口から吐きだされる錆色の焔。
 うわーっと、奥の方でうめいた者がある。そして床の上に転がったらしい物音。
 川上機関大尉がやられたのか?
 いや、彼は飛鳥のように身をかわして、出入口にすりよると、警備隊と入れかわって、さっと外にとびだした。
 甲板は冷たい雨と風とにたたかれていた。しかし夜明が近くなったとみえ、空がぼんやり白んでいた。
 甲板を昇降口の方へ一散に走りながら、川上機関大尉は組立鉄骨の間に残してきた杉田二等水兵のことを心配した。もう夜が明けるとすると、早く彼をどこか別のところへ隠さなければならない。あのままでは、きっと見つかってしまうであろうと思った。
 太い鋼索をたよりに、昇降階段をすべるように駈けおりていたとき、とつぜん彼の鼻先にどーんと大きな音がして、空中に赤と青との星がばらばらと散った。花火だ。
「あっ、花火信号だ。非常警報だぞ。全戦隊に呼びかけたものらしいが、はて何ごとが起ったのかしら」
 と、いぶかる折しも、下の飛行甲板から叩きつけるような爆音が起り、一台の飛行機がぶーんと滑走路を走りだした。そして飛行島を飛びだした。
「おお、飛行機の出動だ。いまごろ何事が起ったというのか」
 川上機関大尉は、つぎつぎに起る不審な出来事に、小首をかしげたが、そのとき後にあたって、わーっという喊声(かんせい)が聞え、それと同時に、ぴゅーんと一発の弾丸が頭の上をかすめてすぎた。
「見つかったらしい。よし、こんなところで撃たれてはならぬ。もう一息だ」
 川上機関大尉は、残りの階段を一気にかけおりた。また一台の飛行機が、爆音高く飛行甲板の上を走り去るのが聞えた。
 このとき川上機関大尉の頭の中にすばらしい考えが、電光のように閃いた。


   天の与(あたえ)


「そうだ。千載一遇の機会が向こうからやってきたのだ。これも神様の助であろう」
 川上機関大尉は、ちょっと眼を閉じて、黙祷した。そして次の瞬間には、大尉ははや日本刀を片手にさげ、飛行甲板を匐(は)うように駈けだした。
 彼の眼は、飛行機の出発点にそそがれている。そこには、微かな灯火が光っていた。下からエレベーターが飛行機をのせて上ってくる。四五台の飛行機が翼をすれすれに、ごたごたしているのが見える。大勢の整備員が、その間を入りみだれて走っている。エンジンをかけている者もあれば、別なところに設けられた爆弾庫の口から爆弾をかついで、廊下づたいに甲板へ出て、飛行機に積んでいる者もある。爆弾庫の口は、鋼鉄宮殿の一角に隠れて設けられてあり、爆弾ははるか下の艦底にある爆弾庫から、エレベーターにのって入れかわり立ちかわりするすると上ってくるのであった。
 川上機関大尉が眼をつけたのは、いま飛行機に積もうとしている爆弾であった。
 爆弾は、爆弾庫口(ぐち)から水兵の手によって甲板に運ばれ、ひとまず飛行機エレベーター脇の甲板の隅に積みかさねられた。すると飛行機づきの整備兵が、その爆弾の山から一個ずつとって、飛行機の胴につりさげるのであった。川上機関大尉は、なにくわぬ顔をして、爆弾の山に近づいた。
「さあ、今だ」
 彼は、大胆にも、無造作に一個の二キロ投下破甲爆弾をむずと小脇に抱えとるや、なに食わぬ顔をして、すたすたと歩きだした。
 誰も、これを怪しむ者がなかったのは、天佑というべきであった。誰も忙しく立ち働いていたので、気がつかなかったのだ。
 彼は悠々せまらぬ態度で、鋼鉄宮殿の中にはいった。中から一人の水兵が出合いがしらに、川上機関大尉にぶつかった。はっと思う瞬間だったが、水兵はおどろいてとびのくなり、挙手の敬礼をして走りさった。
 だが、油断は大敵であった。
 細心の注意をもって、川上機関大尉は、うす暗い廊下を奥へ進んでゆく。彼の目的は、一たいどこにあるのであろうか。
 いうまでもなく、爆弾庫を狙っているのである。小脇に抱えている投下爆弾を、爆弾庫になげこんで、一挙にして飛行島を破壊し海底に沈めてしまおうというのであった。
 なんという破天荒の計画であろう。またなんという大胆な行動であろう。
 爆弾庫の口が、やっと見えた。
 川上機関大尉は、さあもう一息だとばかり、爆弾を小脇にしっかり抱えて、つつーっと小足早に駈けだした。
「待て!」
 いきなり後から、川上機関大尉の肩をつかんだ者がある。
 ふりはなして、走ろうとすると、また肩をつかまれた。
「待て! 怪しい奴だ」
 大力でもって、川上はずるずるとひきよせられた。
 誰? ふりかえると、フランク大尉であった。
「あ、貴様、まだ生きていたのか。そんな恰好をしていても俺はだまされないぞ」
「えい、放せ」
「放してたまるか。そこに抱いているのは爆弾ではないか。おい、それをどうする気か」
「なにを!」
 フランク大尉は、鉄拳を固めて川上機関大尉の頤を狙ってつきだした。二人の組打となった。爆弾はどんと下に落ちて、ごろごろと壁の方へころがった。
 川上機関大尉も懸命だが、フランク大尉の強いことといったら、話にならぬ。
 組打が長びいて、フランク大尉の加勢が五人十人とふえて来ては面倒だ。機関大尉は気が気ではなかった。
(残念だ! もう一歩というところで――)川上の腸(はらわた)はちぎれるようであった。
 そのとき何者か、川上機関大尉の落した爆弾に駈けよって、ひょいと肩にかついだ者があった。


   輝く二勇士


「おお、その爆弾に手をふれる奴は、うち殺すぞ」
 川上機関大尉は、必死で呶鳴った。
「上官、もうすっかれ敵に囲まれました。爆弾は上官に代り、私が持って投げこみます」
「おお杉田か。貴様はどうしてここへ」
「どうして私ばかりがじっとしていられましょう。私は縛られた紐をといて下甲板に上り爆弾庫を狙って来たのです。が、今ここで会うのは、天の引合せです。――や、機関銃隊が出てきました。もう猶余はなりません。では上官、お別れです」
「おう杉田。では頼むぞ。爆弾の安全弁を外すことを忘れるな」
 敵と引組んだまま甲板に転んでいる川上機関大尉は、フランク大尉の鉄拳の雨に叩かれながら、喉もはりさけるように叫んだ。
 杉田の返事は、もうなかった。
 甲板の薄明の中に、重傷まだ癒えぬ杉田二等水兵が、爆弾をしっかり小脇に抱いて、とととっと走ってゆくその後姿が見えた。川上にとって、それが杉田二等水兵の見納となった。
「――天皇陛下、ばんざーい」
 血を吐くような絶叫がかすかに聞えた。それは正しく杉田二等水兵の声であった。そのとき彼の姿は、爆弾庫の口から消えていたのだ。彼は爆弾の安全弁を外すと、そこへ飛びだした敵の水兵を片手で殴り倒すが早いか、爆弾を抱えたまま、爆弾庫の中に身をおどらせてとびこんだ。川上機関大尉に代り、身をもってこの大任務を遂行したのであった。
 杉田の姿が見えなくなると、川上機関大尉は、全身の力をふるって逆にフランク大尉をしめあげた。
「ううっ」
「えい!」
 一秒、二秒、三秒……。その時ぴかり! 眼もくらむような一大閃光!
 途端に二人の転がっている甲板が、鰐の背中のように震えだしたと思った刹那、が、が、がーんと百雷が一時に落ちたような大爆音!
 空気は裂けて、猛獣のように荒れ狂った。鼻をつく硝煙、真赤な火焔、ひっきりなしの爆音、それに呼応して天空高くとび上る大水柱! あたりは闇黒と化し、天地も瞬間にひっくりかえったかと思われた。なんという凄絶な光景であったろう。
     ×   ×   ×
「長谷部少佐、今のを見たか」
「は、見ました。司令官。飛行島が爆破したのではありますまいか」
「うむ、そうかもしれない」
 駆逐艦清風の艦橋で、双眼鏡を手にとって語る二人の将校があった。
 駆逐艦清風は、いま浮かぶ飛行島へ、海上あと十キロのところまで近づいていた。その後に従うのは、いずれも帝国海軍が快速と攻撃力とを誇る最新一等駆逐艦十六隻だ。いや、それだけではない。そのすぐ後方には、水雷戦隊が暁闇の波浪をのりきって驀進しつつある。そのうちに、灰色の雲間を破って、わが海の荒鷲隊が勇姿を現すことであろう。主力艦隊も、堂々とこちらへ前進しつつあるのにちがいない。
 艦艇のマストには、戦闘旗がひらひらとひるがえった。
 飛行島大戦隊は、夜明とともに、わが艦隊に頭をおさえられた形だった。まだまだ海戦は起らないものと思っていたのに、不意に日本艦隊が現れたのだった。飛行島大戦隊は狼狽の色をかくしきれなかった。
 いや、もし、こういう際に、リット提督の乗る飛行島がちゃんとしていてくれれば、たとい駆逐艦隊現れようとも海の荒鷲が襲いかかろうとも、また主力艦隊が押しよせて来ようと、飛行島の持つ二十インチの巨砲が物をいうであろうし、島内にかくされた無数の新鋭駆逐機や雷撃機が凄じい威力を表したであろうに、今はすべてが、後の祭となってしまった。
 飛行島は、ついに戦(いくさ)の前に爆破してしまったのである。そしてその残骸は、がくりと傾き、艦列からはるか後方におくれて、いたずらに波浪の洗うにまかせているのであった。
 殷々(いんいん)たる砲声が、前方の海面に轟きはじめた。
 いよいよ彼我(ひが)の砲撃戦がはじまった。こうなっては、飛行島大戦隊も逃げるわけにゆかない。
 こわれかかった飛行島を後にのこして、全艦隊は死にものぐるいに、日本艦隊の左翼方面へつっかかっていった。ここに壮烈なる世紀の大海戦の幕が切って落されたのだった。
 雨は重く、風はいよいよ烈しく、空はますます低くたれた。砲煙爆煙は、まるで濃霧のように海面を蔽った。砲声はいよいよ盛んに、空中部隊はエンジンも焼けよと強襲に出で、そしてあちらこちらに、炎々と艦上の火災が眺められた。
 次第に北方に移動しゆく大海戦の煙の中をくぐって、突如勇姿を現した一隻のわが駆逐艦があった。
 それは長谷部少佐が、昇進とともに艦長となった駆逐艦清風であった。艦橋に立つ少佐の前には、古谷司令官の鶴のような長身が見える。
「おお、司令官。あれに飛行島が見えます。あ、なんという惨状!」
 さすがの長谷部少佐も、あまりの無慚な飛行島の有様に眼を蔽いたいほどだった。
「うむ、こいつにほんとうに向かって来られては、わが艦隊も相当苦戦に陥ったであろう。おお長谷部少佐、あれを見よ。飛行島はしずかに沈没してゆくぞ。今のうちに、例の川上等を捜索してはどうだ」
「は。では直ちに出かけることにしましょう」
 駆逐艦清風は、速力をゆるめて、静止へ――。モーター・ボートが、舷側からおろされた。長谷部少佐を指揮官として、決死の戦闘員十五名がのりこんだ。ボートは巧みに本艦をはなれ、舳を飛行島に向け、水煙をたてて驀進してゆく。
 長谷部少佐は、船首に立って、友の姿はいずこぞと海面を流るる死体の一つ一つに注意をくばる。
「あ、日本刀の鞘みたいなものを背負っているのが、左舷前方に見えます」
 突然眼のさとい水兵が叫んだ。
「日本刀を背に? どこだ」
「指揮官、あれです」長谷部少佐は、水兵の指す海面を見た。扉か卓子かわからないが、とにかく大きな板片の上に、背中に黒鞘を背負ってうつぶしている半裸体の人間があった。
「おお、あれだ。早く」
 少佐の命令で、ボートはすーっとその方へよっていった。そして手練の水兵が棒と綱とでもって、巧みに半裸体の人間を艇内へ拾いあげた。
「あ、日本人らしい。ひどく右腕をやられている」
「おお川上だ。川上だ。川上、長谷部が救いに来たぞ」
 長谷部少佐は、救われた人の骨ばった顔を見るや、われを忘れて駈けよった。軍医が、前に出てきて、心臓に耳をあてた。
「どうだ、助けてやれないか」
「ああ指揮官、心臓は微かながらまだ動いています。すぐ注射をしましょう。多分、大丈夫でしょう」
「そうか。では早いとこ、頼む」
 長谷部少佐は、友のくぼんだ眼窩のあたりをうるわしげに見つめていた。注射は一本二本三本とつづけられた。
 そのとき少佐は、川上機関大尉のくぼんだ眼窩の中に、丸い眼球がかすかにうごくのを見つけて、おどりあがった。
「あっ、生きかえった。おい川上、しっかりしろ。俺だ、俺が分からんか。俺は長谷部だ」
 と、川上の手の甲をたたきつつ、声をかぎりに呼べば、
「おお、――」
 川上機関大尉は、微かに声を発した。そして光のない眼であたりを見まわしていたが、そのうちに、少佐の手をぐっと握りかえした。彼の頬には、だんだん血の色が浮かびあがった。
「おお、気がついたか。川上、貴様はたいへんな手柄をたてたな。羨ましいぞ」
「なあに、――」川上は口をもごもごした。
「なあに、どうしたというのか」
「いや、飛行島を爆破したのは、俺じゃない。あの、脱走兵杉田二等水兵の手柄だよ。身をもって爆弾庫にとびこんだあの水兵を、皆して褒めてやってくれ。俺は――俺は……」
 川上機関大尉の眼から、熱い涙が、せきを切ったようにあふれてきた。そして潮やけした頬をつたって、幾条かの涙の道をつけた。
 ああ、なんという謙遜な言葉であろう。ああ、なんという部下思いの言葉であろう。
 彼は、自分のたてた大功を誇らず、まず何よりも忠勇な部下であり、そしてまた一度は脱走兵の汚名を着た杉田のために、その功を称(たた)えたのであった。
「いや、よく分かっとる」と、長谷部少佐は戦友の手をやさしく撫でつつ、
「杉田も、えらい奴だ。貴様が優しくて強いから、そんないい部下ができたのだ。結局やっぱり貴様がえらいということになるのだ。さあ、飛行島は、ついに爆破された。これで英国の間違った永い間の悪夢も、きっと覚め、東洋における大日本帝国の正しい地位を考えなおすことになろう」
 その飛行島は、いま戦友に抱えられた川上機関大尉の肩越しに、ぐるっと一転して、前世紀の巨獣の頤のような組立鉄骨やおびただしい浮標をぬっとつきだし、最後の醜体をさらしたかと思うと、こんどは急に海底に吸いこまれるように、ずぶずぶと沈んでしまった。そしてそのあとには、凄じい水泡(みなわ)と大きな渦が、いつまでもぐるぐるまいていた。
 それにしても飛行島の主、リット提督はどうなったであろうか。彼の行方を知っているものは、ただの一人もない、しいて知りたければ、かのブルー・チャイナ号のつきない怨をのせて、いつまでもぐるぐる廻っている、あの飛行島の沈んだあとの大きな渦巻に聞いてみるがいい。




ページジャンプ
青空文庫の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
作品情報参照
mixiチェック!
Twitterに投稿
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶし青空文庫

Size:262 KB

担当:undef